1.説得の三側面

      レトリックにおける説得の三側面          弁論家

ロゴス   議論の内容(理由づけや事実の印象)による説得   論証する  

パトス   聞き手の感情や利害関心にうったえる説得      感動させる

エートス  話し手への信頼や好意による説得          好かれる

 

2.事実と意見の区別

 あやまりうる人間が、集団としてたすけあって真実を追求するさいに、まず留意すべきポイントが事実と意見の区別である。

 たとえば、「ビートたけしは、カンヌでグランプリをとった」は事実にかんする言明である。事実にかんする言明は、証拠をあつめ吟味することによって、正しいか、誤っているかをきめることができる。「ビートたけしは、カンヌでグランプリをとった」は事実にかんする言明であり正しいことがしめせる。一方、「ビートたけしは、ベネチィアでグランプリをとった」も事実にかんする言明だが、誤っていることがしめせる。これらにたいし、「ビートたけしは、偉大な映画監督である」は意見である。いくら証拠をあつめても、正しいか、誤っているか、きめられない。あるひとは偉大な監督だというだろうし、あるひとはマイナーでつまらない監督というだろう。

 事実にかんする言明を検討するためには、証拠の情報源がなんなのかを明確にする必要し、その信頼性を吟味する必要がある。直接に見聞きしたことなのか、誰からかの伝聞か、文献に記載されているのか、など。「みんなそういっているけど、たけしには隠し子がいるらしいよ」。これは、事実にかんする言明だが、証拠の情報源としてみんなというあいまいな伝聞しかしめされていないので、正しいものとしてうけとることはできない。事実にかんする言明には情報源のタグがついているものとして、うけとる必要がある。「みんないっているけど」とか「もっぱらのうわさだけれど」といったタグがついていれば、事実の正しさについては証拠がないと判断すべきである。このへんの事実の認定にきびしいのが、法律の領域である。オースチンによると(オースチン 1978 「言語と行為」 大修館)、アメリカの刑事訴訟法では、「4月6日に太郎とあったとき、太郎はたけしを4月1日の深夜公園のちかくで、みかけたと、いっていました」という花子の証言は、直接に太郎の証言がないかぎり、証拠としては採用されない。伝聞した事実の証言だからである。一方、「3月31日に太郎とあったとき、太郎はたけしを殺してやるといっていました」は、伝聞した事実ではなく、太郎の言語行為についての証言なので、証拠として採用される。

 事実にかんする言明には、「部屋の隅に鼠がいる」といった簡単なものから、「あの食堂には鼠がいるそうですよ」といった伝聞、「ダイアナ妃はパパラッチに追いかけられて交通事故にあって死んだ」といった因果関係にかんする言明(因果関係にかんする言明の検討のしかたについては、ゼックミスタ・ジョンソン1997 がわかりやすい。)、「邪馬台国は近畿にあった」というおおくの推測をへても明確には証拠だてられないような事実にかんする言明まで、様々なレベルの証拠の直接性と推測の程度の言明があり、事実の重要度におうじての批判的な吟味の必要性がある。

 意見の表明の基盤には、価値へのコミットメントがある。ビートたけしが偉大な映画監督というひとは、映画監督の偉大さについてのある価値基準をもっていて、それにしたがってビートたけしを評価していることになる。ビートたけしをマイナーな監督とみるひとは、また別の映画観をもっているのかもしれない。(あるいは、ビートたけしにたいする事実認定がことなるということもありうる。)紅茶がすきかコーヒーが好きか、いまの恋人をなぜ好きか、などのプライベートなこのみについては、議論する必要はない。しかし、映画監督の偉大さや国旗・国歌の必要性、ノックを支持するか否か、こいった公共的な側面のある問題について、だって好きだからとか、個人的感性だけで、根拠をのべずに意見を主張するのは自閉への道である。意見の相違があるときには、事実認定のちがいのみという場合もあるが、一般には、事実認定のちがいだけではなく、ほりさげていけば、なんらかの普遍性をもつ価値観の対立に到達することがおおい。これは簡単には決着できないかもしれないが、たんなる個人の好みとしての意見が、より普遍性をもつものとして位置づけられることになる。

 

3.議論の技

1)定義  ある提案やかんがえを言葉の定義をつうじて、是認あるいは否定しようとする論法。例、「人工中絶は殺人である・人工中絶は女性の命と暮らしをまもるための自己決定権の行使である」、「戦争ではなく自衛的戦闘行為である」、「わがままではなく自分に正直なのだ」、「未成年売春ではなく援助交際である」、「一部の活動家ではなく市民団体である」、など。注意、相手に定義がうけいられなければ無効な論法である。

2)類似 似ていて同じ範疇にはいると判断されるものは、同じ扱いをうけるべきであるとの公正さの原則にもとづく説得。例、「ジャングル大帝に黒人差別の表現があり糾弾すべきだというなら、ベニスの商人もユダヤ人差別の表現があるとして糾弾されるべきである。」、「Aさんのケースに正当防衛が適用されるなら、本件にも適用されるべきである。」など。注意、公正さの原則をまもらない人間は信頼できない人間であり、エートスへもうったえる議論である。反論するためには、類似していても、おなじ範疇としてあつかうべきでないことをしめせばよい。

3)たとえ 比喩(ベース領域からターゲット領域への投射)によって、ベース領域での自明性をターゲット領域の議題に適用し説得する論法。例、「中国の日本の戦争責任追求は、現在泥棒をしている人が、60年前に自分の家に泥棒にはいられたと非難するようなものだ。」、「ソ連などの共産国にも問題があるが資本主義国にも問題があるのでどっちもどっちだというのは、倒産したA社を弁護して、しかしB社の受付嬢もブスじゃあないかというようなものだ。」、「退学は死刑のようなものである。死刑にされたものは、二度といきかえることはない。したがっていったん退学した学生の復学はみとめるべきではない。」、など。注意、比喩はベース領域とターゲット領域の特定の属性や関係のみを選択的に強調したものであり、無視された属性の重要性を指摘するなどして論理的に反論することはむつかしくない。ただし、あざやかで面白い比喩は、聞き手のパトスにもうったえるので、論理的反論にくわえて、聞き手のパトスや話し手のエートスにかかわる反論も必要になる。

4)比較 ある行為ないしことがらが是認ないし非難されるなら、それと比較して、より程度のいちじるしい行為ないしことがらは、さらに是認ないし非難されるべきだとする論法。例、「不法駐車で交通渋滞をおこしたら罰せられる。新曲のプロモーションのために意図的に交通渋滞をおこした行為はさらに厳しく罰せられるべきである。」、「日本の洋酒会社の広告は強姦を暗示される視覚表現があるとして糾弾された。イギリスのオールドパーは、102才のときに強姦罪で逮捕され、18年間を監獄ですごした。明確な強姦犯の肖像と名前をつかっているオールドパーをなぜ糾弾しないのか」、など。注意、比較による論法は、類似による論法に、程度の差をくわえたものである。反論するためには、おなじ範疇ではないことをしめすか、程度の差が妥当ではないことをしめせばよい。

5)因果関係 ある提案なり現在行われている行為を、それがもたらすわるい結果から反駁したり、良い結果がえられるみとうしから肯定したり、否定したりする論法。例、「喫煙は肺ガンの原因でなる。タバコは法的に禁止すべきだ。」、「暴走行為の原因は学校教育への不適応に原因がある。警察によるとりしまりを強化しても、不満はべつのほうへむかうだけである。」、など。注意、「アカデミック・ディベート」におけるシステム・アナリシスは、因果関係の分析である。因果関係による論法は、比較的明確な因果関係のある場合にのみ有効である。本当の因果関係を確定するためには、科学的な分析が必要となる。人間や社会が関係する領域では、本当の因果関係の確定がむつかしいことがおおい。(たとえば、ポルノは性犯罪を助長するか。)うっかりすると風が吹けば桶屋がもうかる式の論法になってしまう。因果関係による論法は、結果のおそろしさや有利さを強調することにより、パトスにうったえる論法にもなる。

 

4.議論の構造と反論の練習

 議論の要点は反論である。反論の余地のないような主張は議論の対象にならない。「三角形の内角の和は180度である」、「地球は丸い」などの数学や科学の一般的にうけいれられている命題。「命は大切である」、「世界が平和でありますように」などの反対するひとがいないようなばくぜんとした価値の主張などである。ばくぜんとした価値の主張は、より具体的な条件をつけたり、政策の選択の文脈のなかにおいて、はじめて反対するひとがいるようになり、議論の対象となる。たとえば、大切な命をまもるための堕胎がゆるされるのか、社会として生命の権利を侵害する人間への刑罰として死刑はゆるされるのか、など。街にある「世界が平和でありますように」のメッセージなどは、具体的な状況や行動との関連をごまかして、言葉をおまもりとしてもちい、言葉の信頼性、有効性をうしなわせるものである。

 自説を主張するときにも、反論を考慮にいれることにより、見当違いや過ちをさけて、自説をより強く展開できるようになる。自分や仲間うちだけで、説をのべていると、反論がないのでここちよいが、説の弱い点のチェックができず、説は無防備なままにとどまり、説があつかっている事態への理解はふかまらない。反論を予期し自分のなかにとりこむことによって、より的確で多面的な思考がきたえられていく。議論は、たがいの主張に反論をぶつけあう争いだが、同時に複数のみかたのぶつかりから、よりよい理解に到達しようとする共同行為でもある。

 反論するためには、まず相手がなにをいっているかを理解しなくてはならない。一般に主張は、つぎのような要素からなる。

主張  議論の主題となる命題。例、タバコは禁止すべきである。

前提 主張の背景にある前提。文章化されないことがおおい。例、健康に明白な害のある行為は禁止すべきである。

論拠  主張をうらづける事実やかんがえ。例、タバコが肺ガンの原因であることがしめされている。補助的論拠 主張を補強する事実やかんがえ。例、他の国でもタバコは禁止されている。

 反論のためには、主張と論拠の論理的関係、論拠や前提の妥当性を検討して、不適当なところを指摘し、みずからの主張をやはり論拠とともにしめせばよい。

 

A.癌は告知すべきである。

「人はだれしも死すべき定めにある。物心ついたならば、この事実はだれも知るところとなる。つまり「死」はすべての人に「告知」されている。

 平均寿命が四十歳そこそこであった明治期までは、四十を超せばもうけものと人々は考えたであろうし、その節目を過ぎればいつ死んでもおかしくないと、それなりの覚悟も秘めたはずである。

 恐らく、生がそのようにあまり長くなかった所為あろう。昔の人間は今日とは比較にならず、若くして大成の感を抱かせるものが少なくなかった。そして、また二十代、三十代の終わりまでにひとかどの仕事をなしとげた。

 終戦直後まで、日本人の最大死因は「結核」であった。その年間死者数は十五万人で、今日の癌死者のそれと大差ない。いや、人口比から言えば比較にならない数字であった。正に「国民病」であり、「死に至る病」であったが、「結核」という病名告知は当然の如くになされ、そして人々もこれに耐えてきた。

 四十年を経て、今日では癌が死因のトップにおどり出た。しかし、往事の結核ほどの猛威ではない。四十を過ぎてできた末っ子に対する親のように、今日人々は「癌」に対し病的なまでに過保護になっている。「結核」の告知に耐えた日本人が、「癌」の告知に耐えられないはずはないのである。そして事実、西川喜作、井村和清、千葉敦子氏らの闘病記で知られるように、幾多の人々がこの事実を証明している。

 「癌の告知」がいつからタブー視され始めたか知らない。しかし、タブー視された理由は推測できる。それは、当時は癌がまだ珍しく、医療者もこれに戸惑って対処する術を見いだせず、多くが「死に至る病」となったからである。

 だが今日、癌は極めてありふれた病気となった。言うまでもなく、平均寿命が延び、平行して癌年齢層--癌は五十代、六十代がピークを占める--が飛躍的に増加したからである。癌のために若くして無念の死を迎えねばならないなものはそう多くはないのである。井村和清氏はその数少ない例外者であったが、それでも彼は癌と知って初めて、めくるめくような生の輝きをさながら宗教的回心のごとく体験している。死を直視し、潔くこれを受容することが、人間の人間たる尊厳の究極の証であろう。

 「癌の告知」を受容できるか否かは、「死にゆく時」のシュナイドマンがいみじくも指摘しているように、その人の生きざまのいかんにすべてがかかっている。よく死ぬためには、われわれはよく生きなければならないのである。」(香西1995「反論の技術」 明治図書 pp.116-117.)

 

  A. の議論の要素をまとめてみる。

主張 癌の告知はすべきである。

前提 人間は死すべき定めの存在であり、死を直視して、はじめてよく生きることができる。

論拠 かつて結核は不治の病であり、日本人の最大死因だったが、告知され、日本人はそれに耐えてきた。今日の日本人も癌の告知に耐えられないはずはない。(類似による議論)

補助的論拠 癌の告知をうけ、死をみつめ充実していきた人々がいる。

 

 反論にあたっては、論拠が類似による議論なので、結核と癌がおなじ範疇に属さないことをしめせばよい。結核と癌のちがいは、結核が伝染病であるのにたいし癌がそうでないこと、結核の症状は喀血や咳など明白で隠せないのにたいし癌はそうでないこと、結核は発病しても養生すれば10年、15年といきられるのにたいし、癌は発見から死までの時間があまりにみじかい(せいぜい1年)こと、などである。これらの点を指摘すれば、類似による議論への反論となる。副次的論拠への反論は、例としてあげられた闘病記でしられたような人々が例外的存在であることをいえばよい。前提への反論には、別の人生観をぶつける必要がある。前提の人生観はなかなか立派なものなので、へたにぶつけると失敗する。死なんて意識するのはしんどいなんていってはだめである。あなたは酔生夢死の動物のような人生をよしとするのですかなどと、逆襲されてしまう。人間は目の前に死をぶらさげて、直視し、充実していきるほどつよくはない。死を無視するのはよくないが、周辺的に意識するだけで、病気でしぬかもしれないな、しかしもしかしたら程度でも、充実した生をおくる背景としての死の認識となる。死と直面し、悲劇的、対決的ないきかたができる人もいるが、それは例外的であり、そういった生き方をすべてのひとに強いてはいけない。程度に反論するとよい。

 以上、A.について反論の例をあげた。反論のさいに注意すべき点は、必要な点(文章に直接かかれていない前提などもふくめて)だけに反論をくわえ、議論の相手をやっつけようと、あやふやだったり、自信がない点まで、相手の言い分を否定しようとしないことである。不用意な否定や反論は、相手につけいる絶好の機会をあたえてしまうことになる。  

 

 つぎの主張に反論をくわえよ。

 

B.死刑執行人に君はなれるか。

「殺人犯が逮捕されると「死刑にしろ」の声が出る。この手の声に対しては、いつも私は頭の中で言う。「じゃあ、自分で処刑すれば」と。

 私は、嫌だ。死刑執行なぞしたくない。どんな人間でも、人が死ぬのを見るのは嫌だし、自分の手を汚すなどまっぴらだ。

 しかし、死刑賛成者は違う。彼らは、死刑に賛成している。つまり、死刑が「正しい」ことだと思っている。したがって喜んで死刑執行人になり、犯罪者を処刑できるはずだ。「正しいこと」すなわち「良いこと」をするのだから。

 死刑賛成者は、犯罪者を処刑し、自らの手で自らの主張の正しさを証明してほいものである。自分にできないことを正義漢ぶって叫ぶなど偽善もいいところだ。

 実際、死刑執行という最も汚れた仕事(私は汚れていると思う)を他人に任せ、自分の手を汚さずに刑務所の外で騒ぐ人間に、犯罪者を「死刑にしろ」などという資格はない。」(香西1995「反論の技術」 明治図書 pp.161-162.)

 

C.鯨やイルカは食べたくない。

「先日、日本人が鯨を食べる会を催してイギリスの新聞に批判されたそうですが、なぜ、今、鯨を食べなければいけないのか分かりません。鯨の数が減ってきたし、捕鯨も禁止されているはずです。

 私はカナダ人と二十年間文通していますが、鯨はフレンドリー(友好的、人なつこい)だし知性があるので食べないとのことです。先だってのイルカの大量死もイギリスで報じられ、カナダ人は魚の網にたくさんかかったのではないかと書いてきました。カナダではイルカが魚の網にかかることが問題視され、魚の不買運動が行われたらしいのです。鯨もイルカも殺すのをやめようという西欧人の神経を逆なでしたくありません。鯨を食べるのが日本の文化などと言ってないで、世界の友人達たちの気持ちを理解しようではなりませんか。」(香西1995「反論の技術」 明治図書 pp.176-177.)

 

  D-2はD-1への異論ではあるが、反論ではない。なぜ反論になっていないか指摘すること。つぎに、自分でD-1への適切な反論(D-3)をかんがえてみよう。D-2への適切な反論(D-4)はどうなるだろうか。「英語公用化賛成論」と「英語公用化反対論」の二チームにわかれて、反論・異論をまじえたディべートをしてみよう。

D-1.英語公用化賛成論

「社会人になるまでに日本人全員が実用英語をつかいこなせるようにしなければならない。その背景のひとつは、情報技術(IT)革命の爆発的な進行である。国際的にインターネットを利用するには英語が不可欠になっており、英語ができないということは、国際的な情報社会における孤立を意味している。それゆえ、日本の経済が衰退しないためには、日常的な英語の使用が必要なのである。例えば、英語を公用語としたシンガポールの経済発展がそのことを例証している。したがって、日本もまた、英語を第二公用語とする方向に向かわなければならない。」

D-2.英語公用化反対論

「英語第二公用語論は、いわば英語帝国主義への屈服にほかならない。言語はたんなる情報伝達の手段ではない。それは文化であり、日本人がもつ日本人としてのアイデンティティに関わっている。日本語には、日本人にしかない感じ方、ものの見方、世界観が織り込まれているのである。グローバリズムという名の一元主義ではなく、各々の文化と伝統がそれぞれのあり方を見せていく多元主義こそがめざされなければならない。そしてその文化固有の言語こそ、もっとも重要な守りぬかれるべき財産なのである。日本人にとって、英語はけっして日本語と対等のものたりえないし、そのようなことをめざすべきではない。」

(野矢2001 「論理トレーニング101題」 東大出版 pp.140-141.)

 

  E-2はE-1への異論ではあるが、反論ではない。なぜ反論になっていないか指摘すること。つぎに、自分でE-1への適切な反論(E-3)をかんがえてみよう。E-2への適切な反論(E-4)はどうなるだろうか。「ゆとり教育賛成論」と「ゆとり教育反対論」の二チームにわかれて、反論・異論をまじえたディべートをしてみよう。

E-1.ゆとり教育賛成論

「現在の小・中学校および高校の教育は、受験本意の詰め込み教育に堕している。そして、過度の受験競争が子どもたちの心理状況を追いつめられたものにしてしまっている。今の子たちには時間のゆとりも心のゆとりもない。それゆえ、知育偏重の教育から豊かな心を育てる教育へと変えていかなければならない。また、知識ばかりを詰め込まれて考える力が育っていない。それゆえ、生徒が自由に課題をみつける総合的学習を導入したり、教科の選択の余地を広げたり、また学習内容をより厳選するといった『ゆとり教育』への方向転換が必要なのである。」

E-2.ゆとり教育反対論

「『ゆとり』といって土曜を休みにしたりして授業時間を減らしても、子どもはその分塾にかよったりするだけで、ゆとりの実現にはならない。たんに教師の勤務時間を減らしたというにすぎない。実際のところ、その導入における文部省の思惑は別のところにあった。つまり、他の事務系統がみな週休二日制になったのに対して、国公立小中学校の先生だけは一日多い。それでは不公平であり、人もこなくなってしまう。だから、学校も土曜日を休みにする。しかしその結果、総合学習の内容を教師自らが開発しなければならない等、教師の負担はけっして減ってはいない。むしろ文部省のやるべきことは教員を増やして、給料をよくすることの方にある。」(野矢2001 「論理トレーニング101題」 東大出版 pp.150-151.)

 

ディベート

テーマ ゆとり教育是か非か、英語を第二公用語にすべきか、など

参加者 肯定側・否定側 各3〜5名

時間配分

   両チーム自己紹介

    肯定側立論  5分

    否定側立論  5分

    作戦タイム  5分

    肯定側尋問     8分

    否定側尋問  8分

    作戦タイム  5分

    否定側結論  5分

    肯定側結論  5分

      投票

勝ち負けは聴衆の投票できめる。投票は、どちらの意見に賛成かではなく、どちらのほうがより説得的に議論を展開したかで判断する。

 

5.言葉の戦争としての議論とユーモア

  以上、3.で議論の技を、4.で反論のしかたについて説明した。これは、議論を戦争にたとえると、個々の戦闘場面の戦術に相当する。議論でも戦争と同じく、個々の戦闘に勝っても、守備と攻撃の目標を明確に限定しないと泥沼におちいり、戦争に敗北するといった事態におちいる。自分が何を主張したいのか、相手の主張の何を否定したいのかを明確に限定しなくてはいけない。調子にのって必要でないところまで自分の主張をいいつのったり、相手を批判したりすると、返り討ちにあったり、聴衆の反感をかったりする。主張、論駁する点をきっちりおさえれば十分である。また、逆に、相手の批判が妥当だと判断したら、自分の主張をその批判から守りきれる、より限定したものに、すみやかに修正したほうがよい。自分の意見を修正するのは気がすすまないかもしれないが、不利な陣地にたてこもっても、討ち死にするだけである。自分の主張を修正する必要があると判断したら、さっさと修正すること。本当に納得したら、修正した意見は自分の意見である。有益な批判をしてくれた相手には、謝意を表せばよい。負けたなどとくやしがって、度量のちいさいところをしめすと、本当に負けである。議論は、一面、戦争ではあるが、相互の批判的吟味をつうじて真実を共同して探求するいとなみでもある。

  相互の主張は、前提+論拠+補助的論拠に分解できるが、ここでの前提や論拠も同様にして分解可能である。議論における主張とその前提、論拠は網の目のように、ひろがっている。問題はどこに相互の主張のぶつかりあう前線を設定するかである。双方の主張が一致しているところは、前線にはならない。しかし、前線になりうる不一致点は複数あり、それぞれの有利、不利がことなる。自分が有利で、相手が不利な論点を前面にだし、そこを戦線にすると議論は優勢にすすめやすくなる。4.でのべたような暗黙の前提もふくめた論拠の関連を把握し、相手に不利な論点を明敏にみぬくと、議論の戦線を有利に設定できる。そしてそこで、必要な知識をもとにして自分の主張と相手の反駁を3.でのべたような議論の技としてつかえれば、議論の戦線での勝利をおさめることができる。

  以上、議論という戦争では、守るべき自陣と落とすべき敵陣を明確に限定し、論点の網の目のなかで戦線を有利に設定し、議論の技をかけ目的の達成をはかるべきことをのべた。ここで、目的とは、相手の主張をしりぞけ、自らの主張を聴衆にうけいれてもらうことである。その際、攻撃と守備の目標を限定し必要におうじて修正し、前面にだす論点の戦線も柔軟に設定すすることが大切である。限定する慎重さ、修正する柔軟性、弱点をみぬく機敏さは、議論における一方の必要性である。つぎに、個々の議論の場をこえて、自分の主張をどうしていくかについてのべる。

  議論においては、絶対にゆずるべきではないこと、簡単に変えてはいけいなこともある。それは、自らがコミットする基本的な価値である。議論を戦わすのはあくまで主張があってのことである。癌は告知すべきか、死刑は是か非か、これらの具体的な問題をどうかんがえるかの背景には、そのひとの人生観や社会観、世界観がある。これらは、さまざまな問題についての自分の主張の基軸となるものである。こうした基軸の価値は、個々の論拠や主張をこえた一般的なものなので、簡単に修正できるものではない。何度も議論をかさねても決着のつかない論争の場合など、背景には、それぞれが依拠する基軸の価値の対立があることがおおい。論争という事態にいたらない一般の議論でも、自分の基軸とする価値にそって首尾一貫した主張することは必要である。個々の議論の場で、前後矛盾したことをいえば、その場での主張が信頼できないことを露呈することになる。また、個々の場では、とりあえず整合的でも、長い間をつうじて、状況によって変化していくような主張をするひとは、いくらその場その場の議論がたくみでも、人間として信頼できないことを露呈することになる。長期をつうじて、首尾一貫した主張をするには、自分の基軸とする価値をもち、それにもとづき発言することである。また、議論の場では、相手の批判がきびしくても、納得できないことは、だんじて受け入れない頑固さが必要である。聴衆の支持がえられなくとも自分の意見をあえて言う勇気も必要である。生産的に議論をするには、慎重さ、柔軟性、機敏さの一方で、首尾一貫性、頑固さ、勇気が必要である。

  以上、議論という戦争でいかに目的を達するかをのべたが、自分の主張にこりかたまって、自分の言い分をひたすらいいつのっても、聴衆の共感はえられない。適切なユーモアは、話し手への好意をまし、からみあった相互の主張にやや外の視点から風をおくる効果がある。以下にその例をあげる。

 

          イギリスの議会の論戦から

論題:行商のアイスクリーム屋のチリンチリンという鐘を、騒音防止条例における、騒音として規制の対象にふくめるべきか。

A議員「わたしの町にくるアイスクリーム屋は、あの鐘に大変工夫をこらしていて、その音はきわめて芸術的でさえある。そういうのまで十把ひとからげに規制することには反対だ。」

B議員「貴殿は音楽と騒音の区別を法律で規定できるとお考えか。小生はたとえベートーベン作曲のアイスクリームの歌でも規制すべきであると考える。」

C議員「ただいまの議論をうかがっていると、都会の騒音ばかりに心をおむけのようであるが、わたしの住む田舎にきてごらんなさい。かっこう鳥のなんとうるさいことか。都会の人は鳥の歌とかいうが、田舎に住むものにとっては騒音以外のなにものでもない。あれにくらべれば、アイスクリーム屋の鐘の騒音などとるに足らないとぞんずる。」

D議員「しかし、かっこうは鉄砲でうつことができるが、アイスクリーム屋はそうはいかない。ゆえにアイスクリーム屋の鐘は規制すべしとかんがえる。」

 

6.議論におけるエトスとパトス

  議論の目的は、相手の主張を論駁し、自分の主張で聴衆を説得することである。説得には、1.でのべたように、ロゴス、エトス、パトスの三側面がある。2.から5.でのべたのはおもにロゴスにかかわる側面である。議論で聴衆の支持をえるには、ロゴスによって相手の主張を論駁し、自分の主張の正しさをいうだけでは不十分である。エトスの側面とは、話し手と議論の相手の信頼性、好悪である。エトスは、説得が成立するための重要な要因である。5.の後半でのべた価値へのコミットメントと首尾一貫性は、話し手にたいする信頼性をえるための重要条件である。十分な知識をもち思慮深いという印象、反論にたいしてごまかさずに的確にこたえる誠実さの印象、なども、話し手にたいする信頼の条件となる。また5.の最後でのべたユーモアも、話し手のおだやかさと余裕といった良い印象とをあたえることにつながる。(適切につかわないと不真面目さの印象を与えてしまう。)感じのよい服装や物腰、話し方などは、良い印象の条件となる。議論においては、相手への信頼性と好意をそこねるような手法もよくもちいられる。たんに、相手をののしったり、悪口をいっても、逆に自分自身の信頼性をそこね、反感をうむだけである。相手への信頼性と好意をそこねるには、つぼをえた、さりげない事実の指摘、ほのめかしなどのほうが有効な場合がある。議論で相手を怒らせる、不用意な発言を誘導するなどの手口もある。このへん悪辣な手法もおおいが、その古典例が「ジュリアス・シーザー」におけるアントニーの演説である。今でも政治家には、ロゴスそっちのけで、自分の批判者への痛快な悪口、悪者づくりで、聴衆の共感をえて、自分への批判をかわす達人もいる。このへんの手法は、議論法における、「虚偽論」の「対人論法」としてまとめられている。パトスは聴衆の感情にうったえる説得である。聴衆の、罪悪感、正義感、利害関心、などのかんどころをおさえて、そこをくすぐる。聴衆をおだてたり、権威者の賛同を強調したり、聴衆にさくらをおいて、同調圧力によって説得するなども、パトスにうったえる説得である。カルトへの勧誘、活動団体へのオルグでは、この種の手法が組織的にもちいられる。

 

7.「ジュリアス・シーザー」におけるアントニーの演説(別紙参照)

 

 

参考文献

香西秀信 1995 「反論の技術」 明治図書

香西秀信 1996 「議論の技を学ぶ論法集」 明治図書

香西秀信 1998 「修辞的思考」 明治図書

香西秀信 1999 「論争と「詭弁」」 丸善ライブラリー

榊博文 2002 「説得と影響」 プレーン出版

村田宏雄 1982 「オルグ学入門」 勁草書房

チャルディーニ 1991 「影響力の武器」 誠信書房

プラトカニス・アロンソン 1998 「プロパガンダ」 誠信書房

ベイザルーマン・ニール 1997 「交渉の認知科学」 白桃書房

シェイクスピア 「ジュリアス・シーザー」 新潮文庫