私説・日本人の起源

片桐新自

私説日本統一国家の誕生

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はじめに

 海外にいて資料もろくに手元にない上に、素人がこんな大ネタを書くのは暴挙とも言える試みだが、逆に資料を持たない素人ゆえに枝葉末節にこだわらずに書けるかもしれないと思い、チャレンジしてみることにした。

 ここで述べる説は、人相学的類推と地理学的推測を中心にして立てられている。現在の日本は社会的移動の容易な社会になっているが、このような社会になったのはそんなに以前のことではない。明治維新以前はもちろんだが、第2次世界大戦終了以前でも大多数の日本人は生まれた地域で一生を終えていた。その結果として、今でも地域ごとに特色のある顔が残っている。代々その地域に暮らしてきた南九州人と関西人と北関東人と北東北人に4人並んでもらって、どの地域の人か当てて下さいと言ったら、大多数の人が間違いなく当てることができるぐらい違いは明瞭に出ている。それゆえ、顔が似ているということは、遡ると先祖が同根なのではないかという類推が可能になる。

 地理学的推測の方も、現在のような強力な動力なしで人が移動をするとすれば、当然地理的に見て移動しやすいところにしか行けないはずだという観点から考えていく。新生代第4期の氷河期が終わって以降、島国になった日本列島に新たに人間がやってくるとしたら、それは粗末な船による移動しかありえないので、海流を利用しての最短距離の移動しか考えられない。海流に逆らった移動や地理学的に見て無理な移動は長期的にはともかく、短期的には起こり得るはずはない。

 人相学、地理学的知見とともに伝承の持つ情報を利用したい。日本の場合、神話という形で残された伝承に、やはり日本人の起源に関する情報がふんだんに盛り込まれている。「天照大神と素戔嗚尊」、「大国主命の出雲国譲り」、「海幸彦、山幸彦」、「神武天皇の東征」、「ヤマトタケルの熊襲征伐や蝦夷征伐」などは、日本列島内部での民族間対立や社会的移動についての重要な情報を提示している。他にも考古学的知見も当然ながら重要な資料として利用していく。では、とにもかくにも始めてみよう。

 

1.最初の日本人

 現在日本と言われる地域は地球に陸地(超大陸パンゲア)が誕生した時から一番端に位置していたので、この地域で人類が自然発生的に誕生したとは考えられない。ということは、日本人という存在は社会的移動によって生まれたと結論づけられる。おそらくこの地域に最初に人間がやってきたのは、氷河時代のことだったろう。氷河時代の人間たちの貴重な食料だったと考えられるマンモスゾウの化石が北海道で発見されているので、シベリアから陸続きだった樺太を経て北海道までマンモスゾウを追って、人間がこの地域に入ってきたと考えられる。この時移動してきた人々がそのまま北海道に留まり、現在のアイヌ人の祖先となったということも考えられなくはないが、人相学的に言うと、さらに南下して東北、北関東を中心に居住し、後に蝦夷と呼ばれる人々の祖先になったのではないかと私は考えている。

 こんなことを言うと、当然この時期の人々の人相がどうわかるのかという疑問が提示されるだろう。その根拠は次のようなものである。マンモスゾウは北アメリカでも発見されているので、シベリアから南下して北海道に来ただけでなく、東に移動してアラスカから北アメリカへ入ったと考えられる。そしてこれを追って人間も移動していったはずで、この人々の子孫がイヌイット(旧名・エスキモー)やさらに南下してアメリカン・インディアンになったと考えられる。そして、この人々の人相がアイヌ人よりは蝦夷の子孫と考えられる北東北人に似ているからだ。

 となると、アイヌ人はどこから来たかということになるが、身体的特徴としてはアイヌ人は沖縄人や南九州人とやや似たような特徴を持っているように思われる。私の知人の鹿児島人が北海道を旅行していたときにアイヌの模様のあるヘアバンドをしていたら、すっかりアイヌ人と間違われてしまったという経験をしている。大きな目、太い眉毛、骨太の骨格などよく似ていると思う。しかし、沖縄と北海道はあまりに遠いし、言語も似てはいないようなので、安易に結びつけることは残念ながらできない。アイヌ人がどのような人種の系統に所属するのかは非常に難しい問題とされている。

 さて、話を北関東、東北に南下していった人々に戻そう。彼らは大和朝廷の成立以後、蝦夷と呼ばれるが、考古学的に言うと、旧石器時代の日本人と言っていいだろう。日本の旧石器時代の石器や骨角器は北海道、東北、関東などを中心に東日本で主に発見されており、この地域を中心に初期日本人が暮らしていたことが確認される。縄文時代の土器も、東日本でより多く発見されているが、その他の地域でも発見されている。日本列島に人間が移動してきて以来、農耕を基礎とする弥生時代が登場するまでには非常に長い時間(おそらく約2万年)が経っているので、その間に日本列島にやってきた人々は、先の樺太から北海道に入ってきた寒冷地の人々だけではなく、陸続きであった時代はもちろん、海で切り離された後からも朝鮮半島から北九州や山陰へ入ってきた大陸系の人々、東南アジア方面から海流に乗って島伝いに沖縄、南九州へ入ってきた海洋系の人々など、すでに縄文時代にいろいろな人種が入っていたと考えられる。それゆえ、よく凹凸の少ない顔をした弥生時代人とともに、比較的凹凸のはっきりした縄文時代人の顔というのが本に出ているが、縄文時代人はあの顔だけに集約されるものではないだろう。少なくとも、ここで述べた3経路から入った人種は、弥生時代成立以前にすでに日本に居住していたと考えられる。さらに言えば、同じ経路からも異なる時期に別の人々がやってきたと考えられるので、3種類よりはるかに多い民族がすでに居住していただろう。(縄文時代の遺跡は、日本全国に約10万カ所ぐらいあると言われている。)

 

2.海洋系民族

 1で述べたように、樺太から北海道へ入ってきた人種、朝鮮半島から入ってきた大陸系人種以外に、東南アジア(主として現在のフィリピンやインドネシアといった島国)や遠くミクロネシアやポリネシアからも海流に乗って沖縄、南九州に入った海洋系民族が日本列島には確実にいたと考えられる。これは、後述するような様々な伝承や歴史を紐解くまでもなく、現在の日本人の顔を見てもわかることだろう。大陸系の血筋の濃い人の顔は、目が細く、凹凸の少なめの顔であるのに対し、海洋系民族の血筋の濃い人の顔は、目が大きく、凹凸の多い顔である。よくハワイ出身の横綱武蔵丸が西郷隆盛に似ていると言われるが、こうした歴史を考えると、これも単なる偶然ではなく、民族的な類似性が人相に表れていると考えることもできる。

 私自身も両親が九州の島原出身なので、明らかにその海洋系の血筋の濃い顔をしていると自覚しているが、おもしろい経験をしている。以前、アメリカから日本に来ていた研究者が九州地方を旅行して帰ってきた時に、「九州はどうだった?」と感想を聞いたところ、「君に似た人をたくさん見たよ」と言われた。その時はそんなものかなと思ったが、その後意識して見てみると、確かに九州――特に中南九州――の人は、みんな親戚のおじさんの誰かに似ているような気がする。少なくとも関西や北関東や東北の人に対してはこんな印象は持ったことがない。

 おもしろいのは、瀬戸内海沿岸の昔からの港町や漁村に住む人も私の親戚に人相が似ていることだ。ある時、広島県東部の鞆の浦という小さな港町で父親にそっくりの人に会ってぎょっとした覚えがある。これもおそらく偶然ではなく、以下のような事情が影響していると考えている。すなわち、南九州にたどりついた海洋系民族はそこに自分たちの国を築くとともに、その後徐々に海伝いに北上していった。九州の南端から西海岸を北上していくと有明海に入り、島原半島にもたどり着く。他方で、九州の東海岸を北上していくと豊後水道から瀬戸内海に入っていき、瀬戸内海の港に容易にたどり着く。つまり、こうした如何にもありえそうな海洋系民族の移動経路から考えると、島原出身者と瀬戸内海の海の民――後の村上水軍などがその代表格――の人相が似ているということは大いにありえることなのだ。ちなみに、九州南端から黒潮に乗ると、南四国や紀伊半島にも容易に海洋民族は行き着けたはずで、伊勢の九鬼水軍なども海洋系民族の一派と考えることできるだろう。

 南九州に入った海洋系民族の国は、邪馬台国の南に位置しておりこれと対立していた狗奴国(くなこく)、そしてヤマトタケルによって征服されたことになっている熊襲(くまそ)国だろう。狗奴国と熊襲国は同じ国で、場所は現在の熊本県南部から鹿児島県にあったと考えられる。この国はおそらく4世紀中に、後に大和朝廷と呼ばれるようになる国との戦いに敗れ、その傘下に入り、蔑称の「熊襲」ではなく「隼人」と呼ばれるようになった。この辺の事情は、「海幸彦、山幸彦」の神話でも比喩的に語られている。山幸彦が兄の海幸彦の釣り針を借りて釣りをしたが、なくして兄の怒りを買う。その後、釣り針を取り戻し、兄を懲らしめ、以後服従させる。そして、山幸彦の子孫が大和朝廷につながり、海幸彦の子孫は隼人となったと記紀に書かれている。これはあきらかに海洋系民族が大陸系民族に敗れ、その支配下に入ったことを示していると言えよう。しかし、その後もこの海洋系民族は時々反乱を起こしては大和朝廷を悩ませた。奈良時代初期の720年の「隼人の乱」や平安時代の「藤原純友の乱」などは海洋系民族の大陸系支配民族に対する抵抗運動と考えられる。

 

3.大陸系民族

 朝鮮半島を経由して入ってきた大陸系の民族は、日本がユーラシア大陸と切り離されてからも北九州を中心に数次に渡って大規模にやってきたものと考えられる。おそらくかなり早い時期にやってきて徐々に部族国家の形を整えていったのが北九州の小国家群だろう。(つまり同じ九州でも、北は大陸系、南は海洋系と異なる。)後から来た民族の中には、農耕のノウハウをもって渡ってきたものもおり、弥生文化を花開かせた。この中から邪馬台国が徐々に抜け出してきて小国家群の中心となって、南の海洋系民族国の狗奴国と勢力争いをしていたと考えられる。事態を好転させるために魏に使者を送り、魏国の権威も借りた邪馬台国だが、なかなか狗奴国を破れずにいるところに、3世紀の終わりか4世紀の初め頃新たに朝鮮半島から騎馬民族が渡来し、この勢力がまず北九州の小国家群の新たなリーダーとなり――もしかすると邪馬台国を乗っ取ったのかもしれない――、狗奴国をも服従させて九州を平定した後、日向から瀬戸内海を東進して難波潟に入り河内を中心に勢力圏を築き上げたのではないかと考えられる。この東進を行った騎馬民族の長が後に応神天皇と呼ばれる人物であったと推定される。この東進が「神武天皇の東征」として記紀に残されたのだろう。

 この時までに、より早く日本列島にたどり着いていた部族があちこちで、勢力を誇示していた。出雲もそうだし、大和にもすでに小国家ができていたと考えられる。「神武天皇の東征」によれば、難波に上陸した神武天皇は大和に向かおうとしたが、土地の豪族ナガスネヒコの軍に妨げられ、仕方なく紀伊半島を迂回し熊野から大和に入って豪族たちを征服したことになっている。おそらく、この大和の豪族の勢力が記紀では崇神朝と記されているものだろう。応神朝とそれ以前の崇神朝とが断絶していることは、記紀では応神天皇の父親は架空の人物であるヤマトタケルの息子である仲哀天皇で、母親はやはり架空の人物である神宮皇后となっていることから明らかだろう。熊野から入ったということは、大和の豪族との闘いに海洋系民族の協力を得たのだろうということも推測される。ただし、記紀の記述とは違い、応神天皇1代で大和を征服できたのではない。応神、仁徳、履中、反正の4天皇の時代はまだ大和を征服できず、次の允恭天皇の時にようやく明日香に都を定めたと記されている。

 出雲の国家もかなり早い時期に成立していた大陸系民族の国家と考えられる。騎馬民族よりも前に、朝鮮半島から北九州にではなく、竹島、隠岐を経て出雲に直接渡海した部族ではないかと推測する。記紀伝承では、天照大神を怒らせ高天原を追放された素戔嗚尊がこの出雲を支配したとされているので、かつては北九州の国家連合と対立的な関係にあった国と考えられるが、この国家もどの段階かで、後に大和朝廷と呼ばれるようになる国の傘下に入った。記紀には戦ったという伝承は残されていないので、平和的に主従関係が成立したのかもしれない。記紀の記述では熊襲征伐や蝦夷征伐よりかなり早い時期に大国主命が高天原に国を譲っていることになっているので、騎馬民族が北九州に渡来してまだ狗奴国を征服する前に忠誠を誓ってその傘下に入ったと考えるのが妥当なような気がする。

 この他に吉備国も応神朝時代の大和朝廷に対抗する強力な大陸系民族の独立国家だったと考えられる。記紀によれば雄略天皇の時に吉備氏が反乱を起こしたことになっているが、おそらくこの反乱を経てようやく大和朝廷に完全に服属したのだろう。吉備氏が大陸系民族だろうと考えるのは、製鉄業に優れていたこと、子孫の吉備真備が遣唐使になって中国に渡っていること、海洋系民族の勢力の強い所ではあまり見られない古墳が吉備ではたくさん見られることなどからである。「桃太郎伝説」は、吉備国が大和朝廷に服属したことを象徴した説話と考えることもできる。

 応神天皇の母親とされる神宮皇后は架空の人物だが、その治績とされている朝鮮出兵が行われたことは歴史的事実として確認されている。4世紀の終わりから5世紀の初めにかけて高句麗と日本の間で戦いが行われた。これは、記紀が述べるように大和にあった勢力が兵を送ったのではなく、河内の応神朝――すでに大和を征服していた可能性が高い――の傘下に入っていた北九州の国家群が自分たちの先祖のルーツである任那加羅が高句麗に征服されそうになったので、応神朝の協力を得て防衛のために兵を出して戦ったのではないだろうか。いずれにしろ、すでにこの時期の日本の支配勢力は朝鮮半島あるいはこれを経由してきた大陸系民族に定まっており、朝鮮に兵を送れるほどの力のある大きな勢力になっていたということが推測される。

 この応神朝も後に越前よりやってきた継体朝によって取って代わられることになる。継体天皇は応神天皇の5世孫ということになっているが定かではない。たとえ事実だとしても5代も離れていれば、全く別の王朝が建てられたと見た方が自然である。越前から大和に入るのに、20年も要したという事実が間違いなく強い抵抗を受けたということをよく示している。地方豪族だった継体――渡来したと考えられなくもないが、越前という地理的位置から考えるとしばらく前から先祖が住み着いていた地方豪族と考える方が無理がないだろう――が実力によって、大和朝廷の新たな支配者となったと考えられる。しかし、大和に入った後も、抵抗は強く、継体天皇は暗殺された節がある。その後、継体天皇の後継者である欽明朝と、旧勢力に押された安閑・宣化朝の対立が9年に渡って続く。欽明側には新興勢力である蘇我氏(仏教信仰を実質的に日本に広めたことからすると、朝鮮半島から比較的新しく渡来した勢力と考えられる)が、安閑・宣化側には応神朝以来の有力豪族である大伴氏がついたが、結局、欽明朝が勝利する。この系統の子孫が後に記紀を編纂し、現在に至る天皇家にもつながっている。

 

3.北方系民族

 もっとも早く日本列島にたどり着いていた樺太経由の北方系民族は、東日本を中心とした旧石器時代の主役だったが、その後朝鮮半島から渡ってきた大陸系民族が東に勢力を伸張させてくるに従って、東北地方へと押し戻され、大和を中心とした統一王朝ができてからは、蝦夷と蔑称されるようになった。以後何百年に渡って「蝦夷征伐」(東北日本の大和朝廷による征服)が続く。

 蝦夷に関しては、大和朝廷勢力に押され、北海道に渡り、アイヌになったと主張する人も多いが、私は前にも述べたようにその説は採用しない。なぜなら、もしも東北から北海道へ民族大移動があったとすれば、もう文字による記録のできる時代になっていたのだから、そのことがどこかに記録されていても良さそうなものだが、そんな記録はどこにもない。さらに、蝦夷の中には、大和朝廷に服属した――俘囚と呼ばれた――者も多数いたという歴史的事実があるので、もしも「蝦夷=アイヌ」なら、現在の東北人の顔にアイヌ人と似たような特徴がもっと見いだされなければならないはずだ。しかし、どこから見てもアイヌ人と東北人の顔は似ていない。また、アイヌ語的地名も東北には少なすぎる。以上のような理由から、もっとも早く日本列島にたどり着いた北方系民族は、ある時期は蝦夷と呼ばれ、現在の北東北人の祖先となったと見るのが自然だと考える。

 

おわりに

 たいした知識もないのに大胆な推測をたくさん書いてしまった。本人としては結構自信のある推理なのだが……。もちろん、細かい点で反証をあげていったら、いくらでもあげられるだろう。しかし、人間の行動と歴史の営みに関する不自然な推測を避け、もっともありえそうな推測だけで組み立てていくと、こうならざるをえないのである。これを読んだ方から、重箱の隅をつつくような反論ではない建設的な意見が寄せられることを期待している。

 

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