Part8

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<目次>

第264号 ミーハー社会学者の2007年芸能情報締め(2007.12.28)

第263号 プレッシャーを力に変える人、潰される人(2007.12.22)

第262号 レポートを読みながら思うこと(2007.12.19)

第261号 へぇ〜(2007.11.7)

第260号 あ〜あ、またやっちゃった(2007.11.4)

第259号 礼儀(2007.10.29)

第258号 遠ざかった民主党政権(2007.9.29)

第257号 スネ夫のような国・日本(2007.9.20)

第256号 福田総理で決まり(2007.9.13)

第255号 はあ?(2007.9.12)

第254号 新潮も文春もいい加減したら?(2007.8.30)

第253号 さわやかミラクル(2007.8.22)

第252号 相撲と野球でこんなに違うのか?(2007.8.13)

第251号 来た、来た、後藤田正純がキターッ! (2007.8.10)

第250号 今後の政局(2007.8.7)

第249号 日本のトップがKY君では……(2007.8.1)

第248号 板垣死す!(2007.7.17)

第247号 「ふるさと納税」改善案(2007.7.3)

第246号 ついに使ってしまった(笑)(2007.6.8)

第245号 信念(2007.6.3)

第244号 気持ちの悪いクールビズ(2007.6.2)

第243号 有休を取ろう!(2007.5.18)

第242号 理想は専業主婦!? (2007.5.11)

第241号 野球と金(2007.5.2)

第240号 都会の年配者はマナーが悪くないだろうか?(2007.4.27)

第239号 気になる「Second Life(2007.4.20)

第238号 竹内まりやの生き方は素敵だ(2007.4.13)

第237号 やっぱり倉本聰はいい(2007.3.22)

第236号 ええっ!H高校が併設校!? (2007.3.16)

第235号 K氏式人育ての極意?(2007.2.26)

第234号 渋い神戸散策(2007.2.24)

第233号 こんな京都散策はいかが?(2007.2.21)

第232号 中川秀直が一番問題だ(2007.2.19)

第231号 動物行動から学ぶ(2007.2.19)

第230号 社会学専攻出身男性は結婚相手にいいかも? (2007.2.17)

第229号 銀行のおかしなシステムとの闘い(2007.2.15)

第228号 みんな昔は半ズボンだったような……(2007.1.28)

第227号 ドジ話(2007.1.25)

第226号 年末・年始の伝統的慣習は生き残れるか?(2007.1.21)

第225号 脱「かわいい」してみませんか?(2007.1.16)

第224号 営業(2007.1.13)

第223号 NHKは本当に必要か?(2007.1.12)

第222号 納豆が消えた(2007.1.12)(追記:2007.1.21)

第221号 江戸を歩く(2007.1.8)

第220号 NHKの誤算(2007.1.7)

264号(2007.12.28)ミーハー社会学者の2007年芸能情報締め

 オダギリジョーと香椎由宇の婚約は驚きましたね。31歳のオダギリジョーが20歳の若い女優さんを選ぶとは誰も予想しなかったのではないでしょうか。年上の大人の女優さんとか、同年齢ぐらいならばりばり活躍していそうな女性(カメラマンなんてイメージに合いそうです)あたりとなら、彼のイメージと合致していたように思います。でも、記者会見を見たら、なんか2人とも誠実な感じでしたし、香椎由宇という女優さんも20歳代後半に思える落ち着きがあり、予想外に似合っているなと思ってしまいました。小型船舶の免許も持ち、女優という仕事をしながら、門限10時の家庭ってどういう家庭なのか、とても興味が湧きました。お父さんが厳しい方なんだそうですね。きちんと結婚の挨拶をしに行ったというオダギリジョーの姿勢も好感度アップですね。2人とも賢そうなので、年齢差を超えて、うまく行きそうな予感のするカップルです。

 ついでに、サンドウィッチマンというまったくのダークホースの優勝で終わったM−1にも一言。実は初めて見たのですが、確かに実力のあるコンビでしたね。キングコングもよく練習をつんだ息のあったパフォーマンスを見せていましたが、どういう結果が出れば番組の価値が上がるかということをよく理解している審査員は、新鮮さでサンドウィッチマンに票を入れたのだと思います。キングコングがサンドウィッチマンと同じくらい無名のコンビだったら、キングコングの優勝だったのではないかという気もします。トータルテンボスも悪くはなかったですが、決勝1回戦と2回戦がほとんど同じようなパターンだったので、どうしても2回目の印象はインパクトが弱くなってしまいました。いずれにしろ、この3組が残ったのは非常に妥当な結果でした。私の大嫌いな笑い飯は今年もひどいパフォーマンスで、私の中ではダントツで最下位だったのですが……。まあでも、あのしょうもないパフォーマンスを2回見ずに済んだのでよしとしましょう。麒麟は売れすぎてしまったんでしょうね。南海キャンディーズもそうでしたが、売れてしまうと、M−1にかける情熱が薄れるのだと思います。そう考えると、あれだけ売れっ子のキングコングがあそこまでのパフォーマンスを見せたことはもっと評価していいようにも思います。いずれにしろ、来年はサンドウィッチマンをTVで頻繁に見かけることになるでしょう。ただし、最近のTV番組が安易に使いたがる軽い芸風ではないので、超売れっ子にはならないような気がします。

 ちなみに、M−1の当日は東京で会議があり、その後12人の社会学者で忘年会を行っていました。そこで、私が「今日は、M−1ですよね」と話を振ったところ、半分以上の人が「それはなんのこと?」という顔をされました。わあ、みんな知らないんだ。やっぱり笑いは関西文化なのかなと思いましたが、本のことなら知っているのではと思い、「150万部も売れているので、『ホームレス中学生』は知ってますよね?」と聞いたところ、4人がまったく知らず、3人が「名前だけは」、3人が「大体内容も知っている」、1人が「買ってはいないけれど読んだ」(=私)、1人が「買って読んだ」という結果でした。関大社会学部のスタッフと話していると、大体みんなこの程度の情報は当たり前のように知っているので、この結果は逆に新鮮でした。己が「ミーハー」すぎるのではないかと一瞬反省しました。(でも、こんなことをまた書いているのですから、本気では反省していないということの表れですね(笑)。)

263号(2007.12.22)プレッシャーを力に変える人、潰される人

 昨日学生たちと久しぶりにボーリングをやったのですが、そこである学生が221点という高い得点を出しました。これだけの点を出すためには、当然ストライクがかなり続かなければなりません。昨日このハイスコアを出した学生も5つストライクを続けました。1回ぐらいなら偶然でも出るし、2回続くこともままあることです。しかし、3回目あたりからは周りも期待して注目しますので、相当のプレッシャーがかかったと思いますが、周りの期待に応えながらの5連続ストライクは見事でした。もちろん実力もなければこういう結果は出せないでしょうが、プレッシャーをよい緊張感として受け止め集中力を高めたからこそ出た結果だと思います。ボーリングは指1本の抜き方で球筋が変わってしまいますので、プレッシャーに弱い人は、実力があっても突然崩れたりします。実際、昨日もいい感じでストライクを続けているなとみんなが注目した途端、突然ガータを連続させる学生もいました。しみじみ、プレッシャーに強い人と弱い人では、得られる結果が大きく異なるのだということを改めて感じました。

実は、このテーマは、安藤美貴選手がNHK杯の自由演技でガタガタに崩れた時に書こうと思っていたテーマだったのですが、忙しくて書き出さないまま日が過ぎていました。ちょうど身近で同じようなことが起こったので、それにかこつけて書かせてもらうことにします。あの時、出番前の安藤選手の笑顔の全くない緊張しきった表情を見ていて、「ああ、これは失敗するのではないか」と思った人は、私だけではないでしょう。ちょうどすぐ後ろに最近頭角を現してきた武田奈也選手が緊張した中にも笑顔を見せて出番を待っていた姿が映っていたため、特に安藤選手の緊張ぶりが目立ちました。結果は、武田選手はジャンプに1度失敗したものの、気持ちを切り換えて後の演技をしっかりやって笑顔で3位。安藤選手は最初のジャンプに失敗した後、気持ちを切り換えられず、さらに2度転び、4位に沈み、2位以上なら出場という彼女の力ならそれほど高くなかったハードルを越えられずグランプリファイナルの出場権を逃してしまいました。安藤選手は実力はあるのに、プレッシャーに弱いというのが、最大の欠点です。プレッシャーをよい緊張感として受け止め楽しむことができず、1度の失敗で落ち込みすぎてしまいます。1度くらいの失敗はあってもいい、自分の今できる一番いい演技をしてこようという気持ちになれないと、彼女は大成しないでしょう。かつて、「ミスター・ジャイアンツ」と呼ばれた長嶋茂雄氏は、こういうプレッシャーを力に変えられる代表的な選手でした。得点圏打率が、通算打率を大きく上回っているところに、彼の真骨頂が現れています。ここぞという時に長嶋は打ってくれるというイメージを多くの野球ファンが持ち、実際彼はその期待によく応えてくれました。(もっとも有名なのが、天覧試合のサヨナラ・ホームランです。)チャンスの場面で、彼は「自分が打たなければ点が入らず、負けてしまう」というマイナスのとらえ方ではなく、「ここで打ったら、俺が今日のヒーローだ!」というプラスのとらえ方をしていたのは、有名な話です。

プレッシャーをどう受け止めるかは上のいくつかの例のようにスポーツなどではっきりした結果で現れますが、よく考えると、われわれは人生のいろいろな場面で、こうしたプレッシャーとたたかっているとも言えるかもしれません。大学生諸君は、これまでにも高校受験、大学受験などでプレッシャーを経験してきていると思いますが、それ以上にプレッシャーを感じ緊張を強いられるのが就職活動でしょう。面接という緊張する場面で、自分らしさをどれだけ出せるのか、みんな気になっていると思います。しかし、そういう場面でも、その緊張感を楽しむ余裕がある人はきっとうまく行くと思います。就職活動なんて、人生でそう何度も経験できないおもしろい体験ではないかと発想を変えてみたらどうでしょうか。自分のことを短時間で見抜いてやろうと、あの手、この手で質問してくる人と真剣勝負ができる機会なんて滅多にないですよ。自分には売りにできる長所なんてないから、そんな面接なんてできることならしたくない、なんてマイナス思考ではなく、このおもしろい真剣勝負で、自分という人間がどこまで通用するのか試してやろうというプラス思考でやってみてください。長所のない人間なんていないと思いますよ。そして、1度や2度の失敗ではめげずに、「もう1回」「今度こそ」という気持ちでチャレンジしていたら、いつか必ず扉は開かれると思います。プレッシャーに潰されるのではなく、力に変えられる人間をぜひめざしてください。

ついでに言えば、初めて入った集団の中で、自己紹介をするときに、「人見知りなので……」とか「緊張しいなので……」とか言って、下手くそな自己紹介しかできないことの言い訳をしたがる人が結構いますが、私に言わせると、自分で自分は魅力的な人間ではありませんと宣言しているようにしか聞こえません。自己紹介というのも、自分を知ってもらう絶好のチャンスと捉えるべきです。いつも一緒にいる仲間相手ならおしゃべりだけど、知らない人がたくさんいる場面では無口になってしまうなんて人はまったく魅力的ではありません。知らない人がたくさんいる中で喋る緊張感を楽しめる人間になれるように自己改革をしていってください。

262号(2007.12.19)レポートを読みながら思うこと

 毎年この時期は、学生たちの卒論草稿が出てきて、それに赤を入れて返すのでお忙しです。しかし、時々これは頑張ったなあというものに出会って、苦労のし甲斐があるなと嬉しくなることがあるのですが、どうも今年はそういうものがあまり出てきません。1回生のグループ研究レポートでも今年はこれといったものが出てこず、やはり残念な思いをしました。たまたまそういう年だったのかもしれませんが、レポートを読む限り、もしかするとこれは偶然ではなく、現代のIT環境の下で起こるべくして起こったことなのではないかという気もしています。とにかくレポートの作り方が安易なのです。自分が研究しようとする対象の定義はウィキペディアからの貼り付け、必要なデータもどこかのサイトから落としたグラフや表の貼り付けで済ます、そんなレポートが多すぎます。もちろん、こういう時代ですから、ネットから情報を得ることも私は頭から否定はしません。しかし、深く考えもせず、他の情報源に当たってみることもせずにそういうデータばかり利用しているのを見ると、やはりそんな姿勢では研究はできないよと注意したくなります。グラフや表なども本当は自分の研究テーマから言うと、必ずしもぴったりではないはずなのに、ちょっと関連しているからというだけで、安易に貼り付けてしまいます。そんなものを貼り付けているうちに、自分の本来の問題意識がどこにあったのかさえ忘れてしまう人も少なくありません。一見すると、グラフや表がたくさん入っていて、立派なレポートのように見えるかもしれませんが、そんなもので騙される大学教員はまずいません。たとえ素朴でもいいから、またきれいな結論が出なくてもいいから、自分の問題意識と真剣に向き合って、やらなければならないと思ったことは困難があってもしっかりやり遂げてほしいのです。そして、もうひとつ現代のIT環境のせいではないかと思われるのが、論文として適切な文章の書き方ができる人が非常に少なくなっているということです。ブログやmixiで書いている口語調のおもしろ、おかしい文章で研究論文を書かれては困ります。無駄のない論理的な文章で、自分の調べたこと、考えたことを書けなければだめです。顔文字も絵文字も(笑)も使わずに、ちゃんと意を尽くした文章を書けますか?日頃からトレーニングしておかないと、書けないですよ。付け焼き刃でそういう文章を書こうと思っても、うまく行きません。また、ボキャブラリーの少なさも気になります。ボキャブラリーが少ないので、同じ単語を何度も使うくどい文章を書く人も目に付きます。自分と同じ程度の知識量の友人が書いているブログやmixiばかり読んでいてもボキャブラリーは増えません。もっと本を読み、言葉に関する知識やなめらかな文章の書き方を学んでください。働き始めたら、卒論以上にきちんとした調査レポートを書かなければならない機会が出てきます。その時に、ウィキペディアやサイトからの情報だけを使って下手くそな文章でレポートなんか出していたら、まったく評価されません。今のうちから、意識を変えて、トレーニングをしておいてほしいと思います。大学4年間は社会で通用する本物の力をつける貴重な期間です。無駄にしたらもったいないですよ。

追伸(2007.12.22):N先生から、「意味なく無駄に改行する学生が多くなっているのも、ブログやmixiのせいではないでしょうか」と指摘されました。私もそう思います。実際、私がチェックしているレポートでも多いです。その上、改行しても1文字空けるというルールを守らない人も多いのですが、これもブログやmixiの癖ではないでしょうか。

261号(2007.11.7)へぇ〜

 小沢一郎が頭を下げて民主党代表に留まることになりました。「へぇ〜」という感じです。これまでの小沢一郎の行動パターンからすると、こういう結論を出すとはとうてい予想できませんでした。小沢一郎もちょっと変わったのかなと少しびっくりしています。謝り方も意外に上手でしたね。謝る小沢一郎の姿なんて初めて見ましたが、意外にちゃんと頭を下げられるんですね。亀田ファミリーよりうまかったです。最近は謝り方が上手だと、大衆が納得しそれで一件落着になるような傾向がありますので、「小沢一郎プッツン事件」(と個人的には呼ぶことにします)も、これで沈静化していくことでしょう。マスコミはせっかくのおいしいネタを引っ張りたいので、「これはすべて小沢一郎のシナリオだった」とか「民主党の一部の反小沢勢力はこれでは納まらないだろう」とかしばらく報道を続けるでしょうが、大衆はもう興味を引かれないので、すぐにこの件は報道もされなくなるでしょう。参議院選挙で民主党に入れた人の多くは、民主党や小沢一郎を高く買っているわけではなく、自民党にお灸を据えるための勢力として、民主党を対抗的存在に育てたいと思っていますので、一番望ましくない形が、小沢一郎が参議院議員17人以上連れて民主党を離党し、自民党と連立を組むことでした。そうなると、後はずるずると離党者が出て、民主党が崩壊してしまう可能性すらありえたのです。そうした危険をもっとも小さくする対処方法は、小沢一郎に代表を続けさせることだというのは、みんななんとなくわかっているのです。なので、今回の小沢一郎の軽率な行動を非難しつつも、「まあ、とりあえず元の鞘に戻って、よかった、よかった」という感じなのです。

それにしても、国民がまったく望んでいなかった今回の「大連立構想」の裏では、読売新聞の渡邉恒雄会長、中曽根康弘元首相などがかなり動いたようです。80歳過ぎてここまで出しゃばっているのを見ると、高齢者に優しい私としても許せないという気がしています。2人とも政治事から引退しなさいと勧告したいと思います。時代感覚がずれている人間が権力を振り回すのは百害あって一利なしです。与党と野党に分かれていても、国民に必要な法案なら、どちらが提出したものであっても支持してやればいいだけの話です。大連立なんか作って、国民にとってマイナスにしかならないような法案までも通された日にはたまったものではありません。公明党を見ればわかることです。与党で居続けるためにという理由だけで、本当は公明党の理念とは違うことでも、どれだけの法案を目をつぶって賛成してきたか。連立すると、そういうことになってしまうのです。与党と野党で侃々諤々やりながら、よりよい法案に修正していけば、「ねじれ国会」だなんだと、そんなに気にすることはないのです。70歳過ぎて総理大臣になるのは一向に構いませんが、80歳を過ぎたら、社説など書かず、自伝でも書きながらのんびり暮らしてほしいものです。

260号(2007.11.4)あ〜あ、またやっちゃった

 小沢一郎が民主党代表を辞めると言い出しました。あ〜あ、またやっちゃったなというのが私の率直な感想です。小沢一郎は、日本に2大政党制を作り上げて、健全な政治が行われるようにするという目標を持ち、その目標を実現に近づける力を持った政治家ですが、根が短気なのか、信念が強すぎるのか、いいところまで行っても、何か我慢できないことが起こると、せっかく積み上げてきたものをすべてぶち壊してしまうということを繰り返してきました。1993年に自民党を飛び出し、日本新党の細川護煕を担いで38年ぶりに非自民党政権を作り出したのに、官房長官をやっていたリベラル派の新党さきがけ代表・武村正義や社会党とそりが合わず、結局細川のお殿様が「や〜めた」と言って政権を放り出し、羽田孜内閣を作った際には、さきがけと社会党を閣外に追い出すという方針を取り、結局そのチャンスを逃さなかった現実主義者の野中広務らを中心とした自民党勢力が、自民・社会・さきがけで連立を組んで政権を取り返すという思い切った戦略を取ったため、自民党を野党に追いやった期間はわずか1年で終わってしまいました。しかし、小沢一郎はすぐに共産党以外の野党勢力をひとつにまとめあげて新進党を作り、自民党との2大政党制の形を作り上げたかに思いましたが、自民党時代からの盟友であった羽田孜などと意見が分かれ、その勢力が離党し、総選挙で伸び悩み、さらに参議院選挙で公明が新進党に合流しないことを決定したため、ついに新進党を解党してしまいました。自分は自由党党首になり、しばらく後に自民党・公明党とともに連立政権を作ります。しかし、その連立でも納得が行かないことが起こると、また連立を飛び出していきます。(この際に、自由党の一部議員が離党し保守党を作り、自民党との連立を続けます。この時に、小沢一郎と別れたのが、小池百合子や二階俊弘です。)あくまでも2大政党制をめざすべきだと考える小沢一郎は、今度はかつて喧嘩した社会党右派やさきがけ、および羽田孜のグループが中心となって作っていた民主党に合流し、再び2大政党制をめざして動き出し、ようやくここまで来たのですが、またまたやってしまったわけです。もともと民主党のリベラル勢力と小沢一郎の政治理念は合わないところがあり、自衛隊の国際派遣の問題などになると、小沢一郎はイライラしてくるのだと思います。「そんな理想ばかり言っているような、非現実的なことができると思うなら、おまえらでやってみろ!」というのが、今回の小沢一郎の本音でしょう。彼の目指す2大政党制は、アメリカの共和党と民主党のように、それなりに政治的理念が異なる政党が政権交代の可能性を持つというものであるのだろうと思いますが、日本では自民党が融通無碍な政党であるため、その対抗勢力も融通無碍にならざるをえないのですが、彼はこれが納得行かなくて、何回も政権与党とくっついたり離れたり、自分の政党に喧嘩を売ってみたりを繰り返すのです。小沢一郎が本当に望んでいるのは、自民党も民主党もいっぺん解党して、両政党のリベラル派(民主・平和重視)はリベラル派で政党を作り、保守派(自由・国家重視)は保守派で政党を作って、2大政党制になることなのでしょう。しかし、政権政党のうまみを十分に知っている自民党は解党しません。安倍晋三があのまま総理大臣をやってくれていたら、次の総選挙では民主党が勝つ確率が高かったので、小沢一郎もそこまではすべてを我慢しよう思ったかもしれませんが、福田康夫という飄々とした総理に代わってしまったため、民主党単独政権の夢が遠のき、あせった小沢一郎は大連立、そしてその後の政党間シャッフルを期待して、仕掛けに乗っかったのだと思います。しかし、民主党は政党として正式に拒否をしたわけですから、小沢一郎が我慢して嵐が通り過ぎるのを待っていれば、大連立なんて国民は望んでいませんので、そんな話を持ち出すなんて、自民党、福田康夫は何を考えているんだと、自民党への逆風になるはずだったのですが……。切れちゃったんですね。「三つ子の魂百まで」です。結局、小沢一郎はこうしたことを繰り返すんでしょうね。後は、菅直人しかないだろうと思いますが、小沢一郎が本当に民主党の一兵卒として働くかどうか、おおいに疑問です。衆参のねじれを解消することを狙いに、子飼いの衆議院議員と参議院議員を何十名か連れて民主党を離党し、自公との連立を模索する可能性も少なからずあるように思います。困った政治家です。国民が今望んでいることよりも、自分の長期的信念の方を重視する政治家です、彼は。結果的に、自民党長期政権の維持に貢献していることになっているのはわかるはずなのですが……。

259号(2007.10.29)礼儀

 久しぶりに、「片桐流現代マナー講座」を書いてみたいと思います。先日ある重要な情報を関係する卒業生に流したのですが、その多くが何の反応もしてこず、愕然としました。確かに一人一人に個別に送ったわけではなく、複数の人に一斉メールとして送りましたが、そのメンバーはこちらでわざわざ選び出して送っていることは、本人たちにも十分わかっているはずです。また、たとえその情報を事前に知っていたとしても、こちらはそういうことは知らずに、その卒業生たちにとっては大切な情報だろうと思って、一人一人のことを思い浮かべながらメールを送ったのです。なぜ、そうした思いに想像を馳せ、「連絡をありがとうございました」の一言も言えないのかと本当にがっかりしました。PCメールなら見ていない可能性も、と思う人もいるかもしれませんが、携帯にも送っていますし、リターンメールにはなっていないので、本人たちには届いているはずです。現役学生の場合は、一斉メールには返信を送ってこない人の方が多いですが、基本的に毎週顔を合わせるということもありますので、これにはあまり目くじらを立てるつもりはありません。(ただし、返信をくださいと書いて送った場合は別ですよ。)現役学生の面倒を見るのは、教師にとって仕事のうちですから、多少礼儀知らずな学生がいてもなんとか対処しようと思います(しかし、あくまでも多少です。度が過ぎれば、どうなるかわかりません)が、卒業後は別です。卒業生とつき合うのは義務でも仕事でもありません。礼儀を知らない卒業生とはいつまでもつき合う気はありません。1度くらいなら忙しすぎて忘れてしまったということもあるでしょうから、大目に見ますが、2度、3度となったら、確信犯だと思わざるをえません。そういう行動(無反応)は、卒業生からの消極的「縁切り宣言」なのだろうと解釈することにしています。教師と卒業生との関係にだけではなく、自動的にコミュニケーションがとれる関係でないなら、こうした礼儀に失した行動はしないようにするのは、人間関係を維持するための基本的マナーです。できない人は、どんどん人間関係が狭まっていくことでしょう。この機会に、これまでに書いた「片桐流現代マナー講座」を列挙しておきますので、興味のある方はぜひお読みください。

第179号 思いを伝えることの大切さ(2005.11.3)/第157号 タイミング(2005.5.13)/第156号 自らを表現すること(2005.5.1)/第155号 「小言新兵衛」の一言言いたい!(2005.4.8)/第120号 ノックの力加減(2003.12.1)/第119号 メールは1往復半が基本(2003.11.25)/第118号 「狼少女」にならないで(2003.11.7)/第115号 二人席のマナー(2003.10.14)/第111号 匿名コミュニケーション(2003.8.20)/第102号 形の大切さ(2003.3.21)/第60号 ドタキャンのコスト(2001.8.10)/第52号 ちゃんと子供を注意して!(2001.4.27)

258号(2007.9.29)遠ざかった民主党政権

 第256号で予想した通りの福田内閣ができあがりました。支持率は50%前後と読んでいたのですが、もう少し高かったですね。私が思っていた以上に、有権者は政治に安定を求めていたようです。福田内閣の成立に関して、「森喜朗が裏で画策した」とか「昔の派閥政治に戻った」とか「暫定政権だ」とか言う政治評論家がいますが、まったくはずれていると思います。森喜朗なんて、本人が自分で偉いと思っているだけで、誰も彼の言うことなんかまともに聞いていません。体格と違って軽い男なので、記者を集めて自分の勝手な予測を喋るのが好きなので、マスコミも記事にしやすく名前がちょくちょく出てくるだけです。小泉、安倍、福田と同じ派閥から3代続けて総理を出しましたが、3人とも参考程度には森の話を聞いたでしょうが、森の言うとおりになど誰もしていません。ピエロのような男です。次に、派閥の会長が福田と会って支持を決めたり、内閣や党の要職についたことで、昔の派閥政治に戻ったと言われていることについてですが、これもまったく違うと思います。昔の派閥は中選挙区制度(1つの選挙区で3〜5人当選する制度のため、自民党は複数の立候補者を出さざるをえなかった)を前提に成り立っていたので、実質的に非常に大きな力がありましたが、現在の小選挙区制度(1つの選挙区での当選は1人だけの制度なので、自民党の公認候補も1人だけになる)の下では派閥などただの仲良し集団のようなものです。みんな公認権を持つ総裁のお気に入りになりたいのであって、派閥の長に仕えるなんて気持ちはすっかり薄れています。実際今回の自民党総裁選挙でも、15人しか議員がいない麻生派以外の派閥の会長はすべて福田支持を打ち出したにもかかわらず、麻生に200票近い票(議員票だけでも130票以上)が集まるのですから、もはや派閥なんてたいした力はないことが証明されたようなものです。派閥の会長を要職につけたのも、その方が「挙党一致体制」を作りやすいからにすぎません。福田康夫という人は友達が少ないそうですが、無駄に敵も作らない政治家です。(田中真紀子がぎゃあぎゃあ喚いていますが、まったく相手にしないでしょう。)さて、この福田内閣の寿命ですが、私は暫定政権ではなく本格政権になるだろうと予測しています。彼の醸し出す安定感は国民に安心感を与え、総選挙をやっても自民党が過半数を取ることになるだろうと思います。安倍総理のまま総選挙に突っ込んだら、民主党が過半数の議席を取る確率はかなり高かったと思いますが、安定志向の強い大部分の日本人は、慣れた自民党政権を落ち着きのある安定した総理が引っ張ってくれるなら、その方がいいという判断を下すはずです。来年春の予算成立後が総選挙の有力な時期でしたが、機を見るに敏の百戦錬磨の小沢一郎は、このまま福田内閣が高い支持率を保ち続けるなら、もう少し総選挙の時期を後に持って行くかもしれません。自民党も過半数は抑えるとは言っても、今の300以上の議席から考えれば相当減らすことになりますので、総選挙を民主党が急がないなら、それに越したことはないという判断になり、洞爺湖サミット後、来年の秋以降ということになっていくかもしれません。福田康夫は強いですよ。

257号(2007.9.20)スネ夫のような国・日本

 梅田の某書店で本を見ていたら、店員さんが安倍晋三の『美しい国へ』を持ってきて並べ始めたので、思わず「売れるんですか?」と聞いてみたところ、「まあ、好奇心で買う人がいるかなと思って……(笑)」ということでした。ちなみに、安倍晋三の本を置くためにスペースを半分以上奪われてしまったのは、麻生太郎の『とてつもない日本』でした。総裁選での負けがほぼ決まってしまっていますので、こちらも売れないんでしょうね。それにしても、政治家って、「○○な国・日本」といったキャッチフレーズを作るのが好きですよね。確か、小沢一郎は「普通の国」で、武村正義は「小さくともキラリと光る国」でした。福田康夫も何か言い始めるかもしれません。で、この際、キャッチフレーズ作りに燃えるタイプの私も参加してみようと思います。私の「○○な国・日本」は自虐的なのですが、「スネ夫のような国・日本」です。「スネ夫」とはいわずとしれた『ドラえもん』に出てくるキャラクターです。裕福な家の子ですが、チビで臆病で、文句言いですが、ジャイアンにはまったく逆らうことができず、納得いかないことでも、ジャイアンの命令とあれば結局唯々諾々と従ってしまいます。高価なおもちゃなども勝手に使われて壊されたって文句ひとつ言えません。のび太には偉そうな態度を取っていますが、それも大体はジャイアンと一緒の時で、ジャイアンの横から「そうだ、そうだ!」とか言っているだけです。これって、日本とアメリカの関係にあまりに似ていませんか?アメリカが「戦争する!」と言えば、いの一番に「支持する!」と言い、血以外なら、金でも油でも必要なものは何でも提供します。平時でも、もはや日本のために存在しているとはとうてい言えない基地を提供し、その維持のために「思いやり予算」などという正当性のまったくない費用まで支出させられています。まさに、ジャイアンに逆らえないスネ夫の姿そのものです。ジャイアン・アメリカは、テロ特措法の延長を日本に求めつつ、日本にとっては最大のテロ支援国家とも言える北朝鮮に関してはテロ支援国家の指定からはずそうとしているという話もあります。(まあ、私はそもそも「テロ支援国家」などというものを、アメリカが勝手に指定しているのが疑問です。アメリカに逆らう国っていうだけのことじゃないかと思いますが……。)私は、日米安保条約だってなくていいと思っています。日米安保条約があるから日本は他国から守られているなどというような時代ではありません。むしろ、この日米安保条約のせいでいつか戦争に巻き込まれる可能性の方が高いと思います。アメリカと安全保障条約を結ばなければ仲良くできないということもないはずです。イギリスともフランスともロシアとも中国とも安全保障条約は結んでいませんが、まあまあ仲良くやれているじゃないですか。アメリカの言いなりになっていては、アメリカだけからでなく、世界から日本は馬鹿にされます。ちょうどスネ夫が視聴者の子供たちからそう見られているように。負けるのがわかっていても、たまにはジャイアンに向かって行くのび太の方が余程立派です。「出来杉君のような国」には急にはなれないでしょうが、「スネ夫のような国」でありつづけるぐらいなら、「のび太のような国・日本」になった方がずっといいと思います。愛される国であれば、「世界」という名の「ドラえもん」が味方してくれるかもしれません。でも、「太平洋戦争」という大海原での喧嘩で、「ジャイアン」にコテンパにやっつけられた「スネ夫」は、戦後はとにかく何があっても「ジャイアン」には逆らわないということだけを心に刻んで生きてきたので、「ジャイアンの言うことなら何でも聞くってわけじゃないぞ!」と宣言するのは怖くて仕方がないんでしょうね。「戦後レジームからの脱却」を言うなら、ジャイアン・アメリカからの脱却こそ行うべきことなのではないかと思います。

256号(2007.9.13)福田総理で決まり

 本日、福田康夫元官房長官が自民党総裁選に立候補する意欲を示した途端、一気に福田氏支持の流れができてしまったようです。マスコミは誰が勝つかわからないという状況になった方が、新聞も売れるし視聴率も高くなるので、がっかりしていると思いますが、私はもともと福田康夫氏を買っていましたので、ようやく本命が出てきたなと思っています。さすが歴戦の強者である政治家は己の出番をよくわきまえています。麻生太郎氏が賢ければ、今回は出馬を見送ることでしょう。たとえ立候補しても大差で福田氏に敗れることになり、経歴に汚点をつけるだけです。まあ麻生氏が立候補してもしなくても福田氏で決まりですが。「小泉フィーバー」に乗ったような、政治の中身ではなく、ドラマティックな盛り上がりだけ期待する人にとっては福田総理で決まりではおもしろくもなんともないでしょうが、久しぶりに「大人の政治家」が総理になってくれそうで、私はよかったと思っています。福田対小沢で、ようやく落ち着いたまともな政治論戦が見られそうです。ちなみに、大人の政治家である福田新総理は、国会の空白を長引かせないために、とりあえず現在の閣僚の大部分をそのまま留任させ、今国会が終了した時点で組閣し直すのではないかと思います。

255号(2007.9.12)はあ?

 東京の立ち食いそば屋でそばを食べていたら、聞き取りにくいラジオから「安倍首相が本日辞任を表明しました」というニュースが聞こえてきました。「えっ!嘘だろ?なんで?所信表明演説をしたばかりじゃないか。」たぶん、みんな同じ反応だったことでしょう。「なんで今?あれだけやめろと言われたときは絶対やめずに続けると言ったのに……。はあ?」という感じでした。突然の辞意表明をした首相はこれまでにもいましたが、ここまでむちゃくちゃな放り出し方をした人は過去にはいませんでした。タテマエの理由はテロ特措法が通りそうもないためということなのでしょうが、本当の理由は、病気ではないかとか、脱税スキャンダルから逃げるためではないかといった説も出ています。総理大臣は激務ですし、参議院選挙以来精神的にも相当追いつめられていましたから、確かに心身に異常を来していた可能性は高いと思います。しかし、急病ではないでしょうから、病気だけが理由なら今日のタイミングで辞めなくてもいいはずです。となると、やはり脱税問題が直接の引き金なのではないかと思います。今週の土曜日に発売の週刊誌に載るそうですが、その記事に関連する質問に対する回答期限が今日の午後2時に設定されていたそうです。(ちょうど辞任会見をやった時間です。)以前、細川護煕氏がやはり突然辞意表明した時も金銭スキャンダルが発表される直前でした。しかし、それにしても、ここまで最悪のタイミングで政治のトップの座を放り出した政治家には2度と未来はないです。参議院選挙後にすぐにやめていたら、いつか復権もあったでしょうが……。空気の読めない政治家は、国民にとってマイナスにしかならないので、そういう政治家が一人消えたことでよかったと思うことにしましょうか。

254号(2007.8.30)新潮も文春もいい加減したら?

 今日発売の週刊新潮と文春は、ともに新国会議員になった民主党の議員の過去の不倫問題を目玉記事として掲載しています。新聞に載った広告を見ただけですが、なんかもっと他に書くことないの?と言いたくなりました。不倫はあったのかもしれませんし、あまり褒められたことではないでしょうが、そんな大見出しにしてどうするの?と疑問に思います。Sパパにしても、虎退治の人にしても、たいした人物ではありません。彼らを叩いたって、その記事を読みたくて購入する人なんてほとんどいないと思いますので、売り上げも伸びないでしょう。そもそもこれが事実だとしても、政治家になる前の話ですし、彼らは一体どんな責任を取らなければならないのでしょうか?政治家が議員である地位を利用して愛人を作ったというような場合はより問題だと思いますが、中川秀直前幹事長、山崎拓元幹事長をはじめとしてそういう行為が暴露された政治家は多々いますが、誰もそれで議員をやめたことはありません。(その余波で選挙に落ちたことはありますが。)こんなつまらないことしか今時の週刊誌は調べていないのかと思うと、本当にアホらしくなります。大体、この手の記事は、「赤裸々に告白する元愛人」とかがいて成立するわけですが、週刊誌編集部は彼らを匿名にして守りつつ取材の謝礼とか出して喋らせているわけです。(そして、しばらくしたら、「Sパパの元愛人の初ヌード」とかを出すんですよ。)マスコミは雑誌を売るためには、そんな倫理意識のかけらもないような行動を一方で採っているくせに、他方で朝青龍には「横綱としての説明責任を果たせ!」とか叫ぶわけです。人を貶めるような発言をする人間には、その発言の責任を取れるように実名でなければ掲載しないというぐらいの姿勢をマスコミは採るべきです。今や、新潮も文春もかつてあった三流の低俗雑誌並になってしまった感じです。TVのワイドショーもこういうネタが出ると飛びつきますので、みんな同じ穴のムジナです。事務所費問題から始まって、バンソウコウだ、不倫だ、賭けゴルフだと、重箱の隅をつついて大問題扱いするのはもうやめませんか?人々の関心をもっとまともなところに向けましょうよ。「品格」シリーズでたくさん本が出されていますが、今出すべきなのは『マスコミの品格』です。インターネットの時代とはいえ、まだまだマスコミの影響力は圧倒的です。選挙も「風次第」と言われるようになりましたが、その風を煽っているのは間違いなくマスコミです。マスコミに騙されない、健全な批判的把握のできる人間にぜひなってください。

253号(2007.8.22)さわやかミラクル

 今年の第89回全国高等学校野球大会を、久しぶりに強い関心をもって見ていました。基本的には、世間で騒ぐほどには、高校野球に興味はなく、余程のスターがいるときだけしか関心はもたない方です。昨年の「ハンカチ王子フィーバー」の時ですら、ほとんどTVを見なかったぐらいです。一番最近で関心を持っていたのは、9年前に松坂が横浜高校にいて大阪のPL高校や高知の明徳高校などと高校野球史上に残る名試合を何試合もした大会でした。今年の大会は、これといったスターもいなかったにもかかわらず、なぜ関心をもって見ていたかというと、たまたま娘たちが開会式(と閉会式)に球場で「栄冠は君に輝く」と「君が代」を歌うためだけの合唱団として参加したから、という私的な理由からでした。招待券をもらったので、開会式を見るために生まれて初めて甲子園に足を運びました。暑いし開会式だけ見て帰ろうかとも思ったのですが、まあこんな機会でもなければ高校野球を見ることもないだろうからと、地味な対戦でしたが、第1試合の佐賀北高校vs福井商の試合を見ていくことにしました。佐賀北高校の左の先発投手は背も低く速い球も投げられないので、これは福井商の勝ちかなと思いながら、5回終了時点まで見て帰りました。ところが、佐賀北高校はこの1回戦を勝ち上がり、2回戦では宇治山田商業高校を引き分け再試合で破りました。このあたりから、佐賀北高校がとても気になってきました。半世紀以上生きてきて私が初めて見た甲子園の高校野球の試合で勝ち残ったチームですから、なんだかすごく応援したくなってきました。家族には、「お父さんの運が佐賀北高校には憑いたかもしれないので、案外決勝まで残っちゃうかもしれないよ」と言っていたのですが、「なーに、言ってんだか」と鼻で笑われていました。「でも、天気に関しては数々ミラクル起こしているの、みんな知っているだろ?」と、「はい、はい、勝手に言ってたら」とまったく相手にされていませんでした。しかし、3回戦で漫画家あだちみつるの出身校・前橋商を破り、準々決勝では強豪帝京高校を延長サヨナラ勝ちで破ったあたりで、私の中では「これは来るぞ、きっと決勝まで来る。そして優勝なのかもしれない」とドキドキするような思いで一段と関心が高まってきました。そして予想通り、準決勝で長崎日大高校を破り、今日の広陵高校との決勝に臨んだわけです。娘たちも閉会式のウェイティングのために球場で決勝戦を見るということでしたので、どこかでTVに映るかも(親バカです)と思いながら、試合開始当初からしっかりTVを見ていました。(松坂以来のことです。)しかし、明らかに広陵高校の方が実力が上で、佐賀北は三振の山を築くのに対し、広陵高校には毎回のようにチャンスが訪れ、それを堅い守備で佐賀北がなんとか凌ぐという試合展開でした。7回表に2点を取られ、40になったとき、さすがの私もあきらめかけました。私がいくら運が強いと言ってもさすがに高校野球の試合結果までは無理か、妻や子供たちに笑われるなあと思った8回裏でした。それまで1安打しか打っていなかった佐賀北高校が押しだし四球と満塁ホームランで一挙に5点を取り、逆転してしまいました。いやあ、興奮しました。こんなことってあるの?まさにミラクル、という感じでした。結局9回表の広陵の攻撃を0点に抑えて、そのまま佐賀北高校が優勝してしまいました。本当にびっくりです。佐賀北には何か憑いていたのでは、と多くの人が思ったであろう奇跡の8回裏でした。たぶん、ホームランを打たれた広陵高校の投手(なかなか2枚目でした)も狐につままれたような気分だったのではないでしょうか。そのままTVを見ていたら、佐賀北高校の校歌が流れる場面で、作詞者に高田保馬と名前が出てきて、さらにびっくりしてしまいました。高田保馬って、戦前戦後に跨って活躍した著名な理論社会学者なんですよ。なんと高田保馬は、佐賀北高校の前身である佐賀中学の出身だったのです。(厳密に言うと、佐賀中学の伝統を受け継ぐのは佐賀西高校のようですが、一時、佐賀高校として統合されていた時期があるので、そうしたつながりで高田保馬も作詞をしたのでしょう。ちなみに、高田保馬は佐賀西高校の校歌も作詞しています。)なんかやっぱり縁があったのかな、と改めて思ってしまいました。まあ実際にはなんの因果関係もない与太話なのですが、個人的には「また、ミラクルを起こしたかも」とか思って一人悦に入っています。(しかし、この強運はギャンブル的なものには適用できないものと自分で勝手に決めていて、儲け話に利用したことはまったくありません。きっとやってもだめだと思います。)それにしても、私立高校を中心とした特待生問題の記憶を引きずったまま始まった大会で、たぶん「外人部隊」がほとんどいないであろう九州の公立高校が優勝するなんて、高野連にとってもものすごくラッキーな大会になったのではないでしょうか。佐賀北高校の「さわやかなミラクル」に惜しみない拍手を送りたいと思います。

252号(2007.8.13)相撲と野球でこんなに違うのか?

 朝青龍の問題が非常にこじれてきていますが、その陰で日本ハムのダルビッシュ選手は「できちゃった婚」をすることをヒーローインタビューで発表し祝福されています。確かに朝青龍は仮病と言われても仕方がない診断書を提出して母国に帰ってサッカーをしていたという点で批判されても仕方がないところはありますが、ダルビッシュの方もヌード写真を発表したり、プロ野球に入ったばかりの頃には未成年で喫煙していたことがばれたり、本来なら朝青龍以上に問題行動をしており、もっと批判されてもいいはずなのにと思います。何がそんな違うんでしょうね。相撲は国技でその最高位にある横綱は、心技体に優れていなければならないということを理由にしている人がいますが、そんなにみんな日頃から相撲を「国技」と思って関心を持っているのかおおいに疑問です。相撲は日本の伝統でずっと守っていかなければならないと言うなら、外国人力士など一切入れずにやるべきです。スポーツとして、より強い力士(レスラーといった方がいい気がするくらいですが)を求めて、今やそれで何とか命脈を保っているという実態があるくせに、ちょっと問題が起きると、「外国人力士には日本の心がわからない、国技を馬鹿にしている!」とか言うのはおかしいです。私は今この段階でも、朝青龍は母国モンゴルを愛して止まない好青年だと思っています。少し荒っぽかったり手抜きだったりするところはあっても、インタビューを聞いていたり、他の番組に出演した時に見せる顔などを見ていたら、彼が悪い奴ではないことはわかるはずです。確かに、診断書を出してサッカーはまずかったかもしれませんが、今のマスコミは朝青龍を叩きすぎです。精神的に参っているという情報にも、前科があるだけに、「そんな演技をしてモンゴルに帰りたいだけだろう」とうがった見方をしている人が多いと思いますが、多少オーバーに演じているとしても、いいじゃないですか、モンゴルに帰してあげれば。精神的に参っている人に、「大相撲の横綱だから」というだけのことで、ここまで厳しくしなくてもいいんじゃないでしょうか?われわれの税金で生活している政治家や官僚、あるいは消費者に直接的被害を与えた企業のトップなどに釈明させるのと同じような空気になっていますが、まったくおかしな話です。大相撲は自主財源で行われているものだし、朝青龍が巡業に出なかったからと言って、一体誰がそんなに大きな損失を被ったというのでしょうか?つるし上げの場にしかならないであろう釈明会見をしろって、なんでマスコミが言えるのか不思議で仕方ありません。露鵬が荒っぽい行動をしたときもマスコミはものすごい勢いでたたきました。その時も私はフェアではないと書きました(「つらつら通信」209号参照)が、どうもマスコミの中にはまだまだ強い外国人批判的な発想があるようです。こんな不当な攻撃をしていたら、そのうち、外国人力士が組合を作ってストライキを考え始めるのではないかという気がしてきました。プロ野球には選手組合があり、ストライキをしたことがあるのはみんな覚えていると思います。古い制度でやっている相撲界ではそんなことは無理だろうと思うかもしれませんが、実は相撲界にも類似行動を力士たちが取った歴史はあるのです。昭和初めの頃ですが、相撲界の古い体質の改善を求めて幕内の多くの力士たちが本場所をボイコットして大騒ぎになった事件(「春秋園事件」)がありました。できないわけではないのです。今、もしも外国人力士たちが毎日のマスコミの朝青龍バッシング報道を見ながら、これは過剰な外国人力士叩きだ、朝青龍を救おうと、本場所をボイコットしたら、相撲界は間違いなくがたがたになります。でも、やってみたらいいのに、と思うほど、マスコミの報道がおかしいと思う今日この頃です。自分の努力で今の地位を築き、我々の血税を使っているわけでもない、かつ精神的に参っている朝青龍を叩く暇があったら、ただ単に名門政治家の家に生まれ、なんとなく風に乗って総理大臣にならせてもらったくせに、国民が支持していないという結果が出てても、精神的にも参らずにぬけぬけと総理の地位に留まっているKY首相を叩くべきです。野球界の裏金問題だってどこに行ったんでしょうか?2〜3人だけ名前が出て終わりですか?ああ、おかしい……。

251号(2007.8.10)来た、来た、後藤田正純がキターッ!

 最近安倍晋三引き下ろしの急先鋒の論者として、後藤田正純衆議院議員がTVに積極的に出るようになってきています。ニュースをぼーっと見ていた方は、たぶんこの美男子は誰だろうと思った政治家が後藤田正純です。私はこの「つらつら通信」の第181号で「総理大臣を外見で決めるなら」というタイトルで、後藤田正純を先物買いしていましたので、今回の彼の行動はようやく出てきてくれたかという印象ですが、一般の有権者にとっては、後藤田正純はこれから人気の出る政治家でしょう。女優の水野真紀が奥さんであることも追い風になるでしょうから、ミーハー有権者向けに人気の出そうな政治家を看板にしたいと思っている現在の自民党なら、そう遠くない時期に、総裁候補として名前があがってきそうです。思想的にも健全ですし、後藤田総裁で自民党が勝負をかけてくるなら、自民党に1票入れてもいいなと思うぐらいです。ちなみに、最近の政治情勢を見ながら、かつてこの「つらつら通信」に日本の政治について書いたものを読み直してみましたが、我ながら、なかなかいい読みをしているように思いました。まとめて読んでみたい方のために、ここにそのタイトルを記しておきます。

「第251号 来た、来た、後藤田正純がキターッ! (2007.8.10)」/「第250号 今後の政局(2007.8.7)」/「第249号 日本のトップがKY君では……(2007.8.1)」/「第232号 中川秀直が一番問題だ(2007.2.19)」/「第213号 安倍内閣は小泉内閣のように長持ちはしない(2006.8.25)」/「第192号 哀れな民主党(2006.3.5)」/「第189号 ラッキーマン(2006.1.21)」/「第181号 総理大臣を外見で決めるなら……(2005.11.11)」/「第175号 筋を通せ、造反組!(2005.9.21)」/「第174号 小泉的社会とホリエモン的夢(2005.9.10)」/「第170号 「新党日本」の哀れさ(2005.8.23)」/「第168号 なめるな、小泉!なめられるな、有権者!(2005.8.17)」/「第167号 久しぶりに政治が熱くなりそう(2005.8.8)」/「第123号 これでは郵政民営化が思いやられる(2004.1.14)」/「第117号 闘え、藤井治芳、中曽根康弘!(2003.10.25)」/「第110号 ちょっと期待してみたい(2003.7.29)」/「第74号 オリンピックより国会の方がおもしろい(2002.2.20)」/「第47号 田中康夫と美濃部亮吉(2001.3.27)」/「第34号 日本的決定方式(2000.11.22)」/「第11号 日本議会制度改革私案(1999.12.19)」

 

250号(2007.8.7)今後の政局

 今若い人も含めて政治に関心があるようなので、「鉄は熱いうちに打て」で、「政治談義その2」として、KY首相をはじめとした政治家の今後の行動パターンを読んでみましょう。安倍交替の声は自民党内部でもじわじわ広がっています。自民党政権を続けるためには、安倍内閣が総辞職するのが一番よいのです(かつての自民党はこういう時に総理大臣を含めて内閣が替わることで実質的な政権交替が行われたような気分を国民に与えて政権を維持できてきたのです)が、彼は素直に交替する気はあくまでもないようです。最近、安倍君に近い筋から、「総選挙(衆議院選挙のこと)は近い」という声がしばしば聞かれるようになっていますので、どうやらこのまま支持率が下がり、自民党内部で安倍下ろしの動きが本格化してきたら、安倍君は総理大臣の「伝家の宝刀」である衆議院の解散に打って出るつもりだということをちらつかせているのかもしれません。安倍首相のまま近いうちに総選挙をやったら、自民党は議席を激減させ、もしかしたら過半数を失い民主党政権ができる可能性もあります。KYな安倍君は、議席は激減しても過半数は取れると「読んで」いるのでしょうが……。前回の総選挙で「小泉マジック」のおかげで当選した1回生議員(いわゆる「小泉チルドレン」)などは8割方落選するでしょう。そうなるのが嫌なら、おとなしく自分を支持しろというのが、安倍君の戦略かもしれませんが。マスコミは話題性が欲しいので、最大のニュースになる総選挙になってくれることを狙って、頻繁に世論調査を行い、「こんなに世論は安倍内閣を支持していない」という情報を流し続けるでしょう。自民党の有力者は安倍君を引きずり下ろして自分の存在感を示すチャンスと思って攻勢を強めるでしょう。まだ実績のあまりない自民党の新米議員たちはなんとか解散総選挙にならないためには安倍君が誰かに交替してくれたらいいなと心の中で思いつつ、万一安倍君のまま総選挙になったときに公認がもらえないと困るので、直接的な安倍君批判はしないで嵐が過ぎ去るのを待つという消極的な行動パターンを取ることでしょう。内閣改造とその後に行うであろうなんらかの人気取り政策が成功しなければ(成功しない可能性が非常に高いですが)、解散総選挙はやはり近いような気がします。政権交替が生じる政治にならなければならないと考える私からすると、このまま不人気な安倍君には総理の椅子にしがみついていてもらった方がいいような気がしてきました。

249号(2007.8.1)日本のトップがKY君では……

 本日「バンソウコウ王子」こと赤城農水大臣が辞任しました。理由は「参議院選挙の与党敗北の責任を感じて」だそうです。税金を不当な使い方をしたにもかかわらず国民に対する詫びはなく、自民党と公明党に向けたメッセージだけでした。その与党に向けたメッセージもどう見ても、赤城君(って言いたくなりますよね、彼は)は、心から悪いとは思っていない謝り方でしたね。なんですかね、あの「ぱらぱら領収書見せ」は。まあ自ら反省した辞任ではなく安倍首相に引導を渡された解任ですから、あんなもんなんでしょうね。しかし、赤城君も安倍君も本当に空気が読めていないですよね。最近の若者言葉で「空気の読めない奴」のことを「K(空気)Y(読めない)」と言うそうですが、彼らはまさにそういう人です。今この時点で赤城君を辞めさせたからと言って、一体何が変わるのでしょうか?「小泉の郵政呪縛」(総理総裁に逆らったら選挙の時に公認を与えないという罰が与えられるという恐怖)に囚われた自民党議員は安倍君にもともと逆らう気がなかったので、とりあえずこの赤城君の解任で「まあよしとするか」というところでしょうが、国民はまったく評価しないでしょう。これで安倍KY君内閣の支持率が上がることはありません。まさに空気が読めていません。今の空気は「安倍君、君が辞めなさい!」という空気なのですが、KYな彼はそんな空気であることは一切認めないでしょう。母方の祖父である岸信介元総理が1960年安保闘争の時に、運動に参加していない人たちの「声なき声を聞く」と言った言葉が安倍君の頭にはあるのでしょうが、国政選挙の結果ですから、「投票に行っていない人がボクを支持しているはずだ」とでも主張するのでしょうか?まあ小泉の遺産で衆議院で300を超える議席を持っていますので、自民党内部で反乱でも起こらない限り、とりあえず地位は安定しているわけですので、KY安倍君がせめてやれることと言ったら、なるべく早く内閣改造と自民党役員人事の交替をすることのはずですが、これすら9月頃と言われています。7月の選挙の結果に対する答えを9月に出すなんて、馬鹿にしているにもほどがあります。愛嬌もなく大衆を味方につける芸もない、こんなKY総理に対する支持率はこれからもさらに下がっていくでしょうから、果たしていつまで持つかという感じになってきました。支持率が20%を切ったら、さすがに自民党内部でも反乱の動きが大きくなってくるでしょう。少し前までは、次期総理候補として麻生太郎の人気が上がっていましたが、例の「アルツハイマー発言」でしばらく出てこれなくなりましたので、ショートリリーフとして大人でミスの少ない福田康夫総理の可能性が結構出てきたような気がします。

248号(2007.7.17)板垣死す!

 今クールの民放のドラマがマンガ原作の学園物ばかりでまったく見るに値しないのに対し、今、大河ドラマ「風林火山」はかなり男っぽい骨太の展開になっており、私個人の評価は高くなってきています。特に今週の上田原の戦いはよかったです。甘利虎康役の竜雷太も武田晴信役の市川亀治郎もよかったですが、なんといっても板垣信方役の千葉真一がすばらしかったです。あの壮絶な奮闘ぶりは、NHK大河ドラマ史上に残る熱演と評価してもいいと思います。それで燃え尽きたことを理由に、千葉真一は俳優引退をほのめかしていますが、そう思って見ると、なるほど最後にふさわしいと言えるほどの力の入った演技でした。さすがにかつてJAC(Japan Action Club。昔は真田広之や伊原剛志、志保美悦子などが所属していましたが、今は名前も代わり、千葉真一も経営から身を引いているようですが)を立ち上げた千葉真一だけあって、アクションの見せ方は抜群でした。時代劇はやはり男のドラマがいいです。

247号(2007.7.3)「ふるさと納税」改善案

 安倍内閣の「骨太の方針」にも入った「ふるさと納税」制度ですが、単なる参議院選挙向けのパフォーマンスだという批判もあるようですが、私はうまく制度を作ったら、意義のあるものになるのではないかと思っています。総務省の原案では、個人の所得税の3割を義務教育期間を過ごした都道府県に納めるというものです。(小中学校を複数の都道府県で過ごした場合は、期間の長い2箇所に2分割します。)義務教育期間は人格形成に大きな影響を与えているので、「恩返し」的意味もあるそうです。この案に対して、東国原宮崎県知事をはじめ何人かの県知事は賛成の意を表明しているのに対し、東京、大阪、神奈川、愛知の4都府県の知事はそろって反対の意を表明しています。私は、この「ふるさと納税」制度は、アイデアとしてはおもしろいので、改善してぜひ導入してほしいと思っています。今の日本の税制度では本当に意味のあるところに税が使われているかどうかがわからないのが最大の問題点です。まあ、税などというものはそんなものと言えばそうなのかもしれませんが、多少なりとも税の使い道に関わる決定に関与できれば、納税意識も高まるのではないかと思います。で、私の案は納める税の3割分に関しては納入先を毎年市町村レベルで3箇所まで自分で決められるようにするというものです。私が今決めるなら、とりあえず小中学校を卒業した市と、父母の出身地で親戚もたくさんいて故郷意識を持っている市と、あと夕張市に納入することにします。各市町村は自分たちの市町村が魅力的であることを一所懸命示そうとするでしょうし、納税者も各市町村の動向に、ひいては社会に対する関心を多少なりとも増すのではないかと思います。何より、自分の税金がわずかであっても使ってほしい所で使われるというのは悪くないと思うのですが、いかがでしょうか?

246号(2007.6.8)ついに使ってしまった(笑)

 メールによるコミュニケーションが一般化してすぐに広まった(笑)という記号使用に長らく抵抗してきましたが、ついに白旗を揚げ、軍門に下ることにしました。52歳にして、ついに(笑)を使い始めました。2000年初頭に、「(笑)って変じゃないですか?」(「つらつら通信」第13号参照)という一文を書き、強い抵抗感を表明しましたが、実を言うと数年前から、「ああ、ここで(笑)って入れると、ソフトな意味合いとして伝わるな」と思うようになっていました。しかし、「いやいやこんな記号に逃げてはいけない。ちゃんと文章で微妙なニュアンスも伝えられるはずだ」とやせ我慢をしてきましたが、この6月1日についに使ってしまいました。(「ついに使ってしまったから、6月1日は(笑)記念日」(俵万智風)) 防波堤は1箇所でも崩れたらもう止めようもありません。すでに何度か使ってしまっています。これからは、私からのメールに頻繁に(笑)が登場するかもしれませんよ(笑)。で、なんでこんなことになったのだろうと改めて冷静に考えると、今の時代がまるで「一億総傷つきやすいんです症候群」のようになってしまっていて、物の言い方をすべてソフトにしておかないと危険な時代になっているからではないかと思います。若者たちの会話では、語尾を上げたり疑問形にして断定をしない言い方が一般化し、携帯メールのやりとりでは絵文字をたくさん使わないと怒っているのではないかと思われるという時代になっています。また、何かと言えば、「セクハラだ、パワハラだ」とクレーム申し立ても簡単になされる時代になっていますから、こちらも防衛策のために、なるべくソフトな物言いにしていく必要性が一段と高まってきているのだと思います。言い切ってしまうと、きつく取られそうな文章でも、最後に(笑)とつけるだけで、相手が受け止めやすくなるなら使った方がいいのだろうと、ついに私も判断を下したということです。時代に応じ、状況に応じて、「信念」は変えていくべきものですので。でも、1年後ぐらいに、顔文字までばんばん使っていたらどうしよう……。

245号(2007.6.3)信念

 「信念の人」というのは一般的にはプラスイメージのある言葉だと思いますが、実際のところはどうなんでしょうね。適度な信念は持っていた方がいいと思いますが、強すぎる信念は迷惑なことの方が多いのではないかと思います。強固な信念の持ち主は、当然の事ながら、自分の信じる道をベストと考え、その考えを他人にも押しつけてきて、反論に対してはまったく聞く耳を持ちません。バランス感覚、現実感覚を欠いた自己主張をしているということに気づきません。宗教的信念の場合は、「自爆テロ」をはじめとして派手に問題を起こしてきたという事実もあり、多くの人が警戒していると思いますが、思想的信念などの場合は一見すると立派なことを言っているので、すばらしい信念の持ち主のように見えることもありますが、やはり問題の方が多いように思います。光市の母子殺人事件の加害者を死刑にしないために作られた大弁護団の弁護士さんたちなどは、まさにそういう人たちだという気がしてなりません。被害者遺族の方も言っていますが、あの弁護団が守りたいのは、固有名詞を持った加害者ではなく、どんな残虐な殺人事件でも未成年は基本的に死刑にしないとしてきた日本の法的慣習としか思えません。「死刑はない方がいい」というのは主張として理解できますが、それを獲得するために現実にすることといったら、ほとんどこじつけとしか思えない理由を並べ立てたり、法廷に現れず裁判を遅延させようとしたりと、一般の人々にはとうてい受け入れがたい戦術です。常識的に考えておかしいでしょと思っている人はたくさんいると思います。かつては共産主義という理想郷を作り上げるために多くの血を流した人たちもいましたし、現代では「アメリカ型民主主義と自由」を信じ切って戦争を起こす人もいます。「郵政民営化」だけで日本はよくなると叫び続ける「信念の人」もいました。環境・人権・自由なども理念としては大切なものばかりですが、全体のバランスの中で適度な比重にしておかないと、おかしなことになります。絶対正しい思想・価値観なんてないのだという認識を持って、自分の思想・考えを相対化できないといけないと思います。ただし、逆に行き過ぎて「価値相対主義」に陥って、生き方がわからなくなりましたなんて言われても困るので、自分なりの生き方・考え方に関する軽い信念(固執しすぎない、変わりうるということを認めておくこと)は持った方がいいですよと付け加えておきたいと思います。

244号(2007.6.2)気持ちの悪いクールビズ

 昨日から6月になり、一斉に衣替えになりました。安倍内閣では全閣僚がノーネクタイのクールビズ姿になりましたが、そろいもそろって沖縄の「かりゆしシャツ」というのはいかがなものかと思います。似合ってもいない政治家が「かりゆしシャツ」を着ていると、まるで東南アジアあたりのマフィアのようです。まだゴルフウェアの方がましだという気がします。まあそうしたセンスの悪さは目をつぶるとしても、全員が揃って同じ素材のシャツを着てくるということは、当然「かりゆしシャツ」を着てくるようにという指示が誰かから出されたということでしょう。一見ラフなクールビズも、みんな揃ってきたら窮屈な「制服」で、見ていてすごく気持ち悪いです。昨日の東京は大分寒かったので、本来ならスーツにネクタイがちょうどよい気候だったのに、そういう自主的判断を誰もできないなんて、まるで「全体主義社会」です。気候、状況に合わせて、各自が着る服を自由に選べばいいのです。みんながそろって同じ服を着ましょうなんていうのが気持ち悪くて仕方がありません。そんな形でしか一体感を作り出せない内閣なんてろくなものではないと思います。1人1人が個性をぶつけあってこそ集団の魅力がでるはずです。集団に個を埋没させる「滅私奉公」的発想は評価できません。

243号(2007.5.18)有休を取ろう!

 先日NHKのニュースの特集で「若者の過労死」が取り上げられていました。最近の論調で「若者と仕事」というと、「フリーターだ、ニートだ」と働かないイメージが流布されていますが、正社員になった若者が「酷使」と言ってよいほど働かされている現実があることはあまり知られていないのかもしれません。私のゼミの卒業生もまじめな子が多いせいか、実際私が「過労」を心配するほど働いている人も結構います。「有休とか取れないの?」と聞くと、「病気なら別ですが、他の理由で事前に休みを取りますなんて、まず言えません」と口をそろえて言います。そういう人たちの多くが労働者の権利としてある年間の有休を消化しないまま放棄しています。(中にはそれでは会社にとって外聞が悪いので、会社の暇な時期を見つけて、まとめて取らされたりもしているようですが……。)私は前号に書いたように、「男も女も仕事も家庭も」が理想だと思っていますが、それをよい形で実現するためには、過重労働はしない社会にしなければいけないと思っています。コストダウンばかり考えてアルバイト・パート・派遣を増やし正社員は減らしこき使う会社には未来がないという社会にしないと、みんな幸せになれません。サービス残業はしない、有休はきっちり取る、そういう方針でみんなが行動してほしいものだと思っています。もちろん、そのためには時間内で必要な作業を効率よく終える能力の高さが必要とされると思います。日本の場合、あまり効率的に仕事を片付けられない人が残業もせず有休も消化していて、能力が高く責任感の強い人がサービス残業も多く有休も取らないというような奇妙な現実があるように思います。能力の高い人こそ、さっさと仕事を片付け、残業はせず、有休も取るという行動をしてほしいと思います。実際、卒業生たちを見る限り、有休を上手に利用し、無駄に残業をさせられていない人の方が人生を充実させて生きているように思います。民間企業で自分の好きなときに有休を取ることの難しさはわかっているつもりですが、みんなが周りに気を使ってこんな慣習を続けるなら、日本は幸せな社会にはなれないように思います。専業主婦やパート主婦である方が税金で優遇される措置をやめ、フルタイムで働く方が得という税制度に変え、なおかつ1人あたり労働時間は大幅に減らす(子育て期間中は在宅勤務もできるようにする)、そんな社会になれば、女性たちも「理想は専業主婦」とは言わなくなるのではないでしょうか?「みんなが働きすぎずに働く社会」になってほしいと心から願っています。

242号(2007.5.11)理想は専業主婦!?

 先日3回生ゼミで、女子学生諸君に「できることなら専業主婦になりたいと思っている人、いる?」と聞いたら、13名中13名が手をあげました。「えっ、全員なの?」と聞いたこちらがびっくりしてしまいました。確かに一時もてはやされた「キャリアウーマン志向」は弱まっており、最近は私のゼミでも毎年半数以上の女子学生が「できることなら専業主婦」として過ごしたいという希望を持っていることは認識していましたが、全員はちょっとショックでした。彼女たちに言わせると、「子どもが小さいうちは母親がそばにいてあげた方がいい」「学校から帰ってきたときに母親がいないのは寂しい」「誕生日会とかもやってあげたい」ということだそうです。30年前に教育実習で高校に行ったときに、当時の高校生たち(今は40歳代後半になっている世代)と議論したときには、男子生徒がこんな意見を言い、女子生徒から「古臭い考え方だと思います」と言われていたことを思い出し、「うーん」と頭を抱え込みたいような気持ちになりました。しかし、彼女たちも何も深く考えずに幼い少女たちのように「お嫁さんになるのが夢」と言っているわけではないのだろうと思います。そこには社会の現実に対する彼女たちなりの分析があって自ずとその選択をしてしまったのだと思います。つまり、結婚し母親になることを自分の将来像として思い描いた場合、現在の社会状況から考えると、まだまだ私生活とフルタイムの仕事が無理のない形で両立できるというイメージは持てず、かといって「パート主婦」というのも理想的な姿とは思えないという現実認識が潜在的に作用して、「理想は専業主婦」という選択を導き出したのだと思います。ですので、さらに言えば、「理想はそうだけど、結局子どもが成長してあまり手がかからなくなったら、割がよくないパートでもきっとやっているんだろうな」という現実認識も合わせて持っているのだと思います。確かに、今の日本の仕事環境を考えると、彼女たちがそう考える(「理想は専業主婦。現実はパート主婦」)のも仕方がないところかなと思いますが、なんだかあまりにも現状に迎合した発想になりすぎているようで、やはり少し残念だという気がします。

関西大学社会学部社会学専攻の女子学生諸君は、相対的に見た場合それなりに仕事もできる優秀な人材だと思います。単に女性の正社員として十分な仕事のできる人たちであるというだけでなく、そんじょそこらの男性社員よりも余程仕事ができる潜在能力を持った人たちだと思います。ゼミでの活躍をみる限り、男子学生より女子学生の方がはるかにコミュニケーション能力も高いし気配りもできていますので、そのままその能力は仕事でも活かせるはずです。これは大分以前からそうなっています。にもかかわらず、社会に出てからの成長度では女性陣は男性陣に完全に抜かれてしまいます。学生時代、頼りなくコミュニケーション能力も低かった男子学生が社会に出てから鍛えられてそれなりに仕事のできる人間になっているケースは多々知っていますが、女子学生の場合は少数を除いては、そういう方向への変化はあまり見ません。結局、最後は仕事に対する「覚悟」の違いかなという気がしています。もちろん、上で述べたように、現実の社会が男性には「覚悟」をするように後押しするのに対し、女性にはそんな仕事に対する「覚悟」なんかしない方がいいよと囁いているというダブルスタンダードを持っていることも大きく影響しているわけですが。しかし、システムがそうなっているから仕方がないと考え、そのシステムに自分の身の丈を合わせようとしていたら、結局何も変わりません。システムに問題があるなら、最初のうちは多少しんどい闘いをしなければならなくとも、ぶつかってみることが必要です。1970年代以降のフェミニズム運動を支えてきた女性たちがそういうしんどい闘いをしながら、少しずつ制度を変えて女性も仕事をできる環境を作ってきたのに、この2007年という段階に来て、優秀な女子学生諸君がこぞって「理想は専業主婦!」と言い切ってしまうのはいかがなものかと、フェミニストではない私ですら思いたくなってしまいます。社会のせいばかりにはできない何か(「楽に生きられるなら楽に生きたい」という「ホンネ」)が、そこにはないだろうかと問いたくなります。

そして、女性たちが「社会のシステムがそうなっているんだから仕方がないじゃないですか」という「タテマエ」の理由を言って家庭に入ってしまうことによって、結局男たちは家計の唯一の担い手として過重労働をしなければならなくなり、また母親たちの「痒いところに手が届く」ほどのサービスを受けて育てられた子どもたちはワガママで、自己中心的で、自立心の弱い人間になってしまう可能性がさらに高まっていくという悪循環が起きるのではないかと心配です。女性たちすべてがフルタイムで働き続けるのは確かに今の段階ではあまりにも厳しすぎる闘いになると思いますので、一気にそこまでは行かなくても、とりあえず多くの女性たちが「専業子育て主婦にだけはなりたくない」と考え、仕事(フルでもパートでも)なり地域活動なり情報発信活動なり、何か社会的関わりを積極的に持とうと思って活動してほしいと思います。子育ても大事な社会への貢献ですが、この便利になった社会においては、女性が自分の生活のほとんどすべての時間を捧げて行うべき「仕事」ではないと思います。(子育ての基本は自立心を育てることですから、手をかけすぎる子育てでは、潜在的逆機能を引き起こします。)近所の友達とゆっくりランチをとったり、テレビのワイドショーをのんびり見る余裕があるなら、何か仕事をした方がいいと思います。もったいないです。「男も女も家庭も仕事も」というのが私は理想だと思います。そこに向かうためには、女性たち(特に「楽したい」と思っている若い女性たち)の意識変容が必要だという気がしています。

241号(2007.5.2)野球と金

 西武球団のアマチュア選手への入団前事前金銭供与から端を発し、ついには高校野球の特待生問題に広がり、本日時点では高野連の学生憲章違反にあたる特待生制度を設けていた高校が334校も上がってきています。ここまで増えてくると、「世界史未修問題」と一緒で、もう「赤信号、みんなで渡れば怖くない」状態になっていますので、これからも出てくるでしょう。はっきり言って、私立の有力校はすべてやっていたと思ってほぼ間違いないでしょう。高野連としても夏の全国大会の予選が本格化する前にこの問題を終結させないとまずいということで、今のうちにみんな名乗り出て禊ぎを済ませてくださいということなのでしょう。今名乗りをあげてくれたら、野球部長の引責辞任と春の大会だけの出場停止で済ませますよ、といういい加減な措置です。そのくせ、この時代にまったく合っていない憲章を変えるつもりはないと強気に言い放っています。他の競技では当たり前に認められている制度なので、もしも高野連が今後これを厳密に守らせようとするなら、身体能力に優れた子どもは、特待生制度を堂々と受けられる野球以外のスポーツを選択するようになるでしょう。そうなる前に誰かがきっと考えつくであろう手だては、有力高校が足並みを揃えて高野連を脱退し、別の高校野球の全国団体を組織することです。甲子園は使えないかもしれませんが、大阪ドームでなら全国大会は十分実現可能でしょう。そうなりそうになったら、高野連は慌ててなんだかんだ理由をつけて、特待生制度も禁止するものではないとか言い始めますよ。ああ、馬鹿馬鹿しい。

それにしても、野球と金をめぐる話はおかしなことばかりです。松坂大輔が60億円もの金額でレッドソックスに移籍したことに、日本人は大拍手を送っていましたが、彼は、特待生制度を持っていた横浜高校で甲子園の大スターとなり、入団時に上限以上の契約金を15人もの選手に出したと白状している西武球団に入団した選手です。彼ほどの実力の持ち主なら、高校在学中もプロの入団時でも何らかの特別待遇を受けてきたと考える方が自然です。にもかかわらず、今はマスメディアも含めて誰もそのことを問題にしようとはしません。また、プロ野球でルール違反をしていたのが西武だけだなんて野球を少しでも知っている人間なら誰も考えていないはずです。西武より、ソフトバンク(前身のダイエー)が、そして球界の盟主を自認する読売ジャイアンツこそが、こうした金で選手の横っ面をひっぱたいて引き抜くパターンの推進役になっていたはずだと99%の人は思っているはずです。最近の某週刊誌にも出ていましたが、高橋由伸選手などは逆指名発表の時に暗い顔でうつむいて会見をしており、明らかに裏では何かあると誰もが思ったものでした。もっと古い時代に遡ってよければ、ミスタープロ野球の長嶋茂雄氏も大学在学中に南海ホークスから栄養費という名目でお金をもらい、にもかかわらず最後は大金に目がくらんで、南海との長年の義理を捨て、読売に走ったというのは有名な話です。今とは少し制度が違いますが、もしも長嶋氏がプロに入ってあれほどの活躍をしていなければ十分批判されても仕方がない行動でした。今回の問題でも、結局馬鹿正直に報告した西武がらみのアマチュア選手2名(東京ガスのK選手と早稲田のS選手)だけが人身御供になっただけで、後は各球団がほっかむりをしているため、誰の名前も出てきません。(横浜のN選手は、別ルートでばれたため、会見もしましたが、結局何のお咎めもなしです。)なんかおかしくないですか?徹底的に調べて全選手を明らかにしないなら、西武がらみの2選手もお咎め無しにすべきでしょう。あまりに不公平です。なんのかんの言って、やはり資本主義社会の日本です。自分のタレント(才能)を生かして、お金を稼ぐことを非難しきることなんかできるわけがないのです。中途半端な上限設定や時代に合わないルールなんか廃止にして、好きなだけお金を出したいところは出して有力な選手を取ればいいのです。それで経営が立ちゆかなくなるところはそれまでです。また、それで強いチームができたからと言って、ファンはみんな喜ぶのでしょうか?今の読売なんて、レギュラー野手陣の半分以上が他球団から金で取ってきた選手ですよね?あんなメンバーで勝っても、やはりジャイアンツファンは嬉しいのでしょうか?プロ野球だけでなく、昨年夏の甲子園で「ハンカチ王子」とライバル視され、今は楽天に入ってそこそこ活躍している駒大苫小牧高校の田中選手も関西の人間です。なんで関西の中学生が北海道、それも苫小牧の高校などに進学するか、理由は推して知るべしでしょう。そんな外人部隊をかき集めて作ったチームでも優勝すれば、北海道の高校が初優勝をしたと大喜びになるわけです。疑問だらけですが、それが資本主義社会なのでしょう。

最後に学生スポーツには別の一言も述べておきたいと思います。野球選手をはじめスポーツに秀でた生徒・学生に入学金や授業料の免除や減額は認めてもいいと思いますが、ちゃんと勉強もしていないのに、卒業させることには個人的に反対です。卓球の福原愛選手は青森山田高校在学期間中の多くを中国でプロ卓球選手として過ごしていたと思いますが、どうしてあれで高校がちゃんと卒業できるのか、私はものすごく疑問です。高校に問い合わせれば、きっと通信教育的なことをやっていたとか言うのでしょうが、絶対いい加減に違いありません。大学だって、もちろん他人事ではありません。最近はスポーツで名を上げることに熱心な大学が多々あり、優秀な選手のためにいろいろな特別配慮をしています。大会、練習、大会で、授業もまともに出席できない学生が、果たして学士号を名乗るに十分な何かを身につけたのか、おおいに疑問です。たぶんこういうことを言うと、一般の学生だってたいして勉強はしていないから変わらないのではないかという指摘がありそうですが、そんな風潮に流されて、大学で学ぶことの意味を軽視するような流れには、断固として抵抗していきたいと思います。私立学校はみなそれなりに企業ですから経営のことも考えなければならないのは確かですが、一番大切なのは「教育=人を育てること=知識や思考力を増すこと」にあるということを、絶対に忘れるべきではありません。頭が固すぎるように思われるかもしれませんが、譲るべきでないところは断固として譲るつもりはありません。ただし、学生の関心は様々ですし、学び方もいろいろですし、示し方もまたいろいろあります。大学という場に籍を置いたゆえに学べたことをそれなりに示すことができたら、それなりの卒業には値するという評価はできるとも思っています。

240号(2007.4.27)都会の年配者はマナーが悪くないだろうか?

 マナーが悪いというと、すぐに若者がやり玉にあげられますが、実際はどうなんでしょうね。私は都会の年配者のマナーは結構悪いような気がしてなりません。確かに、電車の床面に座り込んだり、臭いの強い食べ物を食べたり、フル化粧を始めたりといった極端な行為はまずしませんが、気持ちをざらつかせる程度の「軽い」マナー違反は、かなり多くの年配者が悪びれることもなく行っているように思います。混んでいる通路でも道を譲ろうとしない、エレベータに後ろから割り込んで乗り込もうとする、降りるときにはボタンの近くにいてもさっさと降りてしまい「開ボタン」を押そうとしない、電車内でもおばさんたちが大声でお喋りに興じ、隣にいると本も読めないなんて経験を何度もしています。多くの若者はこうしたマナー違反はしません。道は譲ろうとする人が多いし、エレベータも順番に乗るし、ボタンのそばにいたら、まずほとんどの子がちゃんと「開ボタン」を押します。電車内ではほとんどメールをしていますが、大声で喋っているおばさんたちより、公共空間での過ごし方としては迷惑ではありません。都会では新しい生活様式がどんどん生み出され、それとともにマナーも新しく生まれるので、年配者はついてこられないということもあるのだろうとは思いますが、しばしば自分は年配者なのだから、若者よりも優先されてもいいはずだという傲慢な態度を取る人も見かけます。マナー指標を作って2030歳前半の若者層と、50歳代後半〜70歳の年配層で比較したら、私は間違いなく後者の方がマナーが悪いという結果が出るような気がします。

239号(2007.4.20)気になる「Second Life

TVで「Second Life」というネットの中のバーチャル世界の人気が出ているという紹介を見て、とても気になりました。若い人はこういう情報は早いので、多くの人がご存知なのだろうと思いますが、ついにこういうところまで来たんだなと感慨深かったです。私もTVの紹介で知っただけなので詳しいことはわからないのですが、ネットの中に具体的な世界が作られていて、会員になると、その世界の住人となって、その世界の土地を購入したり、コンサートを開催したりといった様々な活動ができるそうです。バーチャルと現実の区別のつかない人が増えてきているということはずっと言われてきましたが、今までは自分の頭の中の想像世界でのことだったと思いますが、この「Second Life」の世界を使えば、自分の分身であるキャラクターが画面上で実際に生活をし、他の人が操るキャラクターと実際に交流をするわけです。これまでのバーチャル世界とはまったく次元の違うものだと思います。近々日本語版もできるそうなので、金額にもよるでしょうが、日本でも一気に広まるのではないかと思います。きっといろいろな商売がその世界で展開されることでしょう。現実世界では満たされない欲望を、この「Second Life」で満たそうとする人はたくさん出てくるのではないでしょうか。既婚者が「Second Life」の世界で、別の人と結婚するなんてことも起こるんでしょうね。ずっぽりはまると、どうなるんでしょうね。現実世界の妻とは没交渉で、自分の部屋に籠もってバーチャル世界の「妻」との生活を楽しむなんて人も出てくるんでしょうね。まあ、その「妻」を操っているのが、男性という可能性もあるのでしょうが……。生身の現実世界のしんどさを克服しようとせずに、バーチャル世界に逃げ込む人は間違いなく増えるでしょうね。でも、うまく使えば、現実世界のストレス解消にもなるのかもしれませんね。いやはや、これから一体どんな世界になっていくのでしょうか。

238号(2007.4.13)竹内まりやの生き方は素敵だ

 NHKでこの4月から始まった「SONGS」という番組の第1回目(4月11日放送)をご覧になった方はいるでしょうか?竹内まりやのこれまでを振り返る番組だったのですが、彼女の生き方がすごく素敵で、番組を見終わった後、思わずTV画面に向かって拍手してしまいました。(今も彼女のCDを聞きながら、この文章を書いています。)現在52歳の彼女は大学卒業とともにデビューをしてすぐに売れっ子になったシンガーソングライターです。軽快で癖のない彼女の歌は強烈な印象は残さないものの、心地よく聞けて、BGMにはぴったりという感じです。年齢的にほぼ同じ世代に、松任谷由美と中嶋みゆきがいます。3人ともそれぞれに魅力的なシンガーソングライターですが、日本音楽史上ではおそらく松任谷由美と中嶋みゆきの方が大きな存在だと思いますが、私生活も含めて考えると、私は竹内まりやがもっともいい人生を生きているような気がします。(もちろん、価値の置き方は人それぞれですから、他の2人の方がいい人生を生きていると思う人もいると思います。)すでに売れっ子だった27歳の時に、山下達郎という優れたミュージシャンと結婚し、30代は主として子育てをして、40代になってからまた歌い始め、今52歳で若々しく輝いている彼女の人生は、「半分「個」・半分「類」として生きてみたら」(「つらつら通信」第1号)とか、「働楽親成(働き、楽しみ、親と成る)」(「つらつら通信」第187号参照)を人生の目標とすべきだと、常々言っている私からすると、理想の生き方に近いという感じがしました。番組の最後に歌っていた「人生の扉」という歌の歌詞がとてもよかったです。録画していなかったので、正確ではないですが、「20代、30代もおもしろかったけれど、40代、50代もまた素敵なものだと思っている。そして、60代、70代になるのもまた楽しみで、80代、さらには90以上生きることすら楽しみにしている」といった、歳を取るのは素敵なことだという内容の歌詞でした。ひねりのまったくない歌詞で、ベタなメッセージソングとも言えますが、まっすぐに人生のすばらしさを語りかけており、私と価値観がぴったり一致すると思いました。これからの竹内まりやの人生に密かに注目し続けていきたいし、私も負けずに60になることも70になることも楽しみだと言えるような人生を送っていきたいと強く思いました。(なお、再放送が16日月曜日の深夜にあるようですので、興味を持たれた方はぜひご覧ください。)

237号(2007.3.22)やっぱり倉本聰はいい

 この1〜3月の時期は毎年結構ドラマが見られる時期なのですが、今期はマンガ原作のものやキムタク主演作が視聴率は取ったようですが、私は、「拝啓、父上様」という倉本聰脚本のドラマがダントツでよかったです。倉本聰には30年以上前に「前略、おふくろさま」という萩原健一が板前を演じる(さらには梅宮辰夫も出演している)という、今回とそっくりの設定の名作ドラマがあったので、最初のうちは、ただの焼き直しだろうと思ってあまり期待していなかったのですが、最終的にはかなり違う内容のドラマになっていました。一番感心させられたのはタイトルで、一見同じパターンを使っていながら、実は意味がまったく異なるという点です。「前略、おふくろさま」の母は故郷にいて主人公が語りかけるだけのストーリーにとっては副次的存在だったのに対して、今回の「拝啓、父上様」の父はストーリーの鍵になっているのです。しみじみ倉本聰はうまいなあと思わされました。主役の二宮和也、恋人役の黒木メイサもなかなか頑張っていましたが、このドラマの最大の魅力は脇の大人の俳優たちと神楽坂の風景と音楽です。八千草薫、梅宮辰夫、高島礼子、奥田英二、岸本加代子といった俳優たちが見事に生きています。特に八千草薫はこれが映画だったら、アカデミー助演女優賞をもらってもいいほどの熱演でした。もう70歳代後半の女優さんですが、これは代表作の1本にしてもいいのではないかとすら思いました。そして、神楽坂の風景も素晴らしいです。カメラワークがよく、こんな町に迷い込みたいと思う映像になっていました。音楽はこのドラマの小道具になっていたパリ(フランス)をイメージさせる雰囲気で一貫しており、穏やかで、かつおしゃれなものに仕上がっていました。大人のドラマという感じですので、若い人には受けなかったかもしれませんが、こういう質の高いドラマが日本ではまだできるんだと嬉しくなりました。でも、最近はいい歳をした大人も「韓流ドラマ」やいい男が出るドラマなどにはまってしまっていて、こういう良質なドラマを見ないようになっているので、心配です。ぜひ、このドラマは続編を作ってほしいものだと思っています。

236号(2007.3.16)ええっ!H高校が併設校!?

 今朝の新聞を見てびっくりしました。野球で有名なH高校が、関大の併設校になることが決まったという記事です。「寝耳に水」です。噂すら聞いたこともありませんでした。「強い関大をめざす」という理事長お得意のフレーズが載っていましたが、結局めざしているのは「スポーツに強い関大」だけなのかと、再確認させられた気分です。それにしても、今や関西大学は完全に理事会がすべてを決定する「企業」になってしまいました。高槻に30階建てのビルを建てるというのも2年前に卒業旅行の最中に新聞記事で初めて知り、びっくりしましたが、またもやです。しかし、学校法人というのは、通常の企業とは異なり、学生教育という社会的責任のある仕事をする組織であって、利益の拡大を最大の目的とする一般企業とは違う組織のはずです。最前線でその学生教育に責任を持つ教員や職員に何の情報も知らさないまま(本来は相談をすべき事項です)、こういう決定をするのは、やはりおかしいと思います。もちろん今回のことも、理事会でそれなりの見通しは立てた上でのことと信じたいですが、それが一体どういう見通しなのか、教職員の99%が知らないわけです。万一、うまく行かなかったときに、一体誰が責任を取るのかなと疑問になります。10年も経ったら、現在の理事会構成メンバーで、まだ理事に留まっている人は、たぶん一人もいないでしょう。こんな決定方式を続けるなら、もっと現場の声を反映できる人間がたくさん理事会に入るべきです。こういう時代ですので、大学にも「経営」の観点は必要だと思いますが、それだけになってしまっては、大学という組織にとっては本末転倒です。きっとまた卒業式で、応援団出身の理事長はこの話を紹介して「強い関大」を連呼し寄付を呼びかけるでしょうが(現在の理事長になるまで卒業式の祝辞は学長だけだったのですが……)、そんな商売っ気たっぷりのメッセージではなく、ちゃんと卒業する人に対する格調高い言葉を贈ってほしいものです。(さてさて、この文章に果たしてどこかからクレームがつくのかどうか。そんな言論統制をする大学であってほしくはないと思いますが……。もしクレームがついたら、また報告します。)

235号(2007.2.26)K氏式人育ての極意?

 子育てについて書いてほしいという要望がありましたので、書いてみようと思いましたが、私にとって子育てと学生育てはほとんど同型のものなので、まとめて「人育て」として書いてみることにします。子どもや学生を育てていない人でも、後輩や部下との関係で参考になることがあるのではないかと思います。(なお、言語を媒介にしてコミュニケーションを取ることを前提とした議論ですので、まだ言語理解力が十分でない乳児、幼児の場合は、多少異なる育て方が必要となります。簡単に書いておけば、乳児にはひたすら愛を、幼児にはたくさんの笑顔と時々怖い顔を示すことで対応するのがいいと思います。怖い顔程度で聞かない場合は、多少の身体への痛みを伴う罰も必要だと思います。)

 人育ての極意を最初に述べてしまえば、相手のパーソナリティと状況を的確に見極めて、それに応じた対応をすることに尽きます。この見極めは、もともと他人である学生に関して的確にできるかはなかなか難しいところなのですが、自分の子どもなら(そして子育てにちゃんと関わっているなら)、ほとんどの親はできるはずです。ただし、子どもは成長過程でいろいろなものを吸収するので、どんどん変化していく存在だということを忘れてはなりません。「昔はこんな子じゃなかったのに……」なんて言っているようじゃだめです。子どもでも学生でもちょっとした行動、表情から、彼らのパーソナリティを読み取るチャンスはたくさんあります。そこを見逃さないことです。また、これまでの自分の経験+様々な情報源からの知識を整理して、人間に関する多様な類型を頭の中に入れておくことです。この場面でこういう行動をする人は、かつて知っていたX君に類似した行動なので、彼に近いパーソナリティだろうと、とりあえずパターン分類にあてはめ、最初の距離の取り方を決め、コミュニケーションを取っていきます。第三者的に見ているだけでは正確なパーソナリティはなかなかつかめないので、とりあえずコミュニケーションを始めることが肝要です。コミュニケーションを取っていく過程で、その君なりの独自性が見つかれば、それを基本分類パーソナリティに加減して、その君なりのパーソナリティ像を完成させていくわけです。状況の見極めに関しては、社会に対する関心を持つことがとても大切です。今、子どもの世界、若者の世界ではどの程度のことが常識になっているのか、どんな誘因が世の中にあるのかを知らなければ、適切な対応はできないでしょう。自分が子どもの時、学生の時はこんなことはしなかったから、子どもにも、学生にもさせないという対応では、誰もついてはきません。社会学を学び、社会に対する関心を持った人たちは、卒業後もその関心を持ち続けてください。いろいろな場面で必ず役に立ちます。

 しかし、時代をつかみ、相手のパーソナリティと状況に応じた対応をすることを、子どもや学生に迎合することと同じとは考えないでください。それはまったく違います。相手のパーソナリティと状況をつかんだ上で、自分はこういう理由からこういう行動をすべきだ、あるいはすべきではないと思うということを、親や教師はしっかり伝えるべきです。それが、子どもや学生にとって、多少しんどいことであっても、その理由が明確でその意義が理解できるなら、ほとんどの人はちゃんとやってくれるはずです。逆に言えば、論理的根拠も明確にせずにただ「やれ」では、反発するだけで誰もやりません。無理にやらせたら、信頼感を減退させるだけです。もちろん、根拠を明示していたとしても、親や教師の言うことがいつも適切であるわけではありません。もしも、子どもや学生がやりたいことと大きなずれがあったら、彼らの方から、こういう風にやりたいと言える雰囲気も作っておかなければなりません。ちゃんと反論をできる関係であることは、親子間でも師弟間でも必要なことです。そうした議論をしっかりするためにも、親や教師は、誰かの受け売りで物を言うべきではありません。自分が信じていないことをさも信じているかのように言うのは無責任です。(だから、私は自分の子どもに、男を好きになっても女を好きになってもいいんだよ、なんて口が裂けても言えません。)

 反論できる関係であるべきだからと言って、何でもかんでも反論していい(させていい)のだと思う人がいたら、これも間違いです。もしも、親や教師が感情的で思いつきでいろいろなことを言ってくる人なら反論すべきですが、一所懸命子どもや学生のことを考えてアドバイスしようとしてくるのであれば、まずは反発するのではなく、素直に耳を傾けるべきです。時々、大学生程度の年齢でもういっぱしの大人になった気分で、自分の価値観(というほどのものは本当は完成していないはずですが)に固執し、親や教師の意見に最初から素直に耳を傾けようとしない人がいますが、まったく間違った行動です。大学生は未完成で可塑性のある存在です。素直で、反省ができ、努力する人は必ず伸びますが、逆に、若いくせに意固地で、自省心が弱く、怠惰な人は伸びません。小学校の低学年ぐらいではこういう人はまだほとんどいないはずですが、小学校高学年、中学生、高校生となっていくと、こういう人が徐々に増えてきます。子育てを成功させるためには、まずは素直で努力をする子どもになるようにしておいたら、ほとんどのことはうまく行くでしょう。

 そういう子どもや学生に育ってもらうために、一番大切なことは、親や教師が、子どもや学生と一緒に楽しみ、その成長を素直に喜び、小さな事でもすてきなことには感動する心を持ち、愛情をちゃんと伝えることだと思います。「喜怒哀楽」ならぬ、「喜動愛楽」(喜び、感動し、愛を持って、楽しむ)を示すことが大事だと思います。(ちなみに、たまには、怒ったり、哀しんだりも必要な時がありますから、「喜怒哀楽」も「怒」と「哀」を小文字にした程度で必要だと思います。)「人育て」は難しい時もありますが、その何百倍、何千倍も楽しいものです。世の中には「金儲け」が楽しいという人がいますが、私にはわかりません。私の趣味かつ仕事は「人育て」です。こんな楽しいことをやれる自分は幸せだと、いつも思っています。

234号(2007.2.24)渋い神戸散策

 前号で書いた「大人の京都散策」が結構評判がよかったので、シリーズ化してみようかなと思い始めています。これまでにも、「大坂を歩く――坂道の魅力――」(第64号)、「天王山を制す」(第127号)、「江戸を歩く」(第221号)などを書いてきましたが、今回は神戸に行ってみましょう。神戸と言えば、メリケンパーク、北野の異人館、ルミナリエと、ロマンティックなイメージの町として有名ですが、その辺は皆さん、よくご存知だと思いますので、私が取り上げることもないでしょう。(ちなみに、一言言わせてもらえば、異人館は昔の方がずっとよかったです。30数年前に初めて来た頃には、見学できるところは、「うろこの館」と「風見鶏の館」ぐらいしかなかったのに、今はたくさん移築したのか、多すぎて、またお金も取りすぎです。町を散策するというより、「異人館テーマパーク」に来てしまったようで、がっかりします。)ここで、紹介したいのは、もっと渋い神戸散策です。 スタートはJR住吉駅です。ここにはコープこうべの大きな建物があります。たぶん生協の建物としては日本一立派な建物ではないでしょうか。この建物は六甲ライナーを作るに当たって住吉駅前を再開発したためにできたものです。駅を出たら東に向かい、住吉川にぶつかったら、右に折れて川沿いを南に向かいます。(折れずにそのまま住吉川を渡ると、あの有名な進学校である灘中学・高校があります。)しばらく行くとベランダを松の木が貫いている不思議なマンション(写真左)があります。もともとお屋敷町で川沿いに立派な松がたくさん植わっていたそうですが、このマンションは建てるときに、その松をすべて切ってしまうのではなく、残そうとしたようです。そのマンションからもう少し南に下っていくと、谷崎潤一郎の旧邸倚松庵(いしょうあん)(写真右)があります。谷崎が『細雪』を執筆した頃に住んでいた家ですが、本来はもう少し南にありましたが、六甲ライナー建設の際に現在の場所に移築されました。しかし、その際に個人の所有から市の所有になり、さらに補強をしていたため、阪神淡路大震災でも倒壊せずに、中も公開されるようになったのですから、結果オーライだったのかもしれません。大正から昭和初期のモダンな和洋折衷住宅の典型で、こんな家に住んでみたいなという気になります。倚松庵を出てさらに南に下り、国道43号線を越えると、そこは灘の酒蔵の町です。(灘の酒造会社が資金を出して作った学校が灘中学です。)菊正宗の立派な記念館で酒造りの展示と利き酒を味わえます。ここから西に向かえば白鶴酒造の記念館が、東に向かえば櫻正宗の記念館がありますが、私のお薦めは後者です。櫻正宗は一般の酒屋などにほとんど卸していないので、ほとんどの方が知らないと思いますが、灘の酒蔵会社の中でももっとも伝統のある会社のひとつです。よくいろいろなお酒の名前に使われている「正宗」という名称も、櫻正宗がその発祥だそうで、明治になってから商標登録しようとした時にはすでに「○○正宗」という名称が普及しすぎていて、認められなかったそうです。ここの記念館には、落ち着いたレストランが併設されていますので、ここでお昼を取るといいと思います。お昼を取った後は、魚崎駅から阪神電車に乗って三宮駅に。そこで地下鉄に一駅乗って新神戸駅に行きます。ここからは、布引の滝を見ながらのハイキングです。新神戸駅を出て北側に回ると、もうそこはびっくりするほど田舎の風情です。急な坂を登っていくと、すぐに雌滝が出てきます。瀧鼓滝、夫婦滝、そして雄滝(写真左)と続きます。布引の滝は、日光華厳の滝、紀州那智の滝と並んで「三大神滝」と言われるのだそうです。雄滝を通り越してもう少し登っていけば、そこには神戸の町が一望できる展望台があります。疲れていたらこの辺で戻った方がいいのですが、まだ元気があるならもっと上に行きましょう。猿のかずら橋を見ながらさらに進むと、ダムが現れます。ここが布引貯水池(写真右)です。静かな湖という感じで、しばらく眺めていたくなります。この貯水池の横の道を上れば、ロープウェイの風の丘駅と布引ハーブ園の入口が出てきます。疲れていたら、ここからロープウェイで降りてもよし、元気があればハーブ園に入っていろいろなハーブを見ながら、ロープウェイの終点である布引ハーブ園駅まで行ってみましょう。ロープウェイで降りていくと、しみじみ神戸は海と山が近い町なんだということを実感します。これだけ歩いたら、汗もかいているし、ビールの一杯もやりたくなります。少人数なら、三宮から元町に向かう高架下の小さな居酒屋なんかがお薦めです。有名なお店ですが、餃子しかメニューのない「ひょうたん」なんかいいですよ。みそだれが抜群で、それだけで十分飲めてしまいます。いかがですか、こんな渋い神戸散策は?

233号(2007.2.21)こんな京都散策はいかが?

 京都というと、神社・仏閣に祇園に先斗町。賀茂の流れに桜に紅葉。二年坂、三年坂、哲学の道と、有名な観光名所がいくらでも浮かんできますが、そんな有名なスポットにまるで立ち寄らないこんな京都散策はいかがですか?四条河原町から西に向かい新京極を北に上がり、すぐの錦小路通を西に向かいます。ここは京都の台所と言われる錦市場です。狭い通りの両側にびっしりと様々な食材店が並びます。見ていると本当にわくわくしてきます。京都の食(それを各地方で真似しましたので、日本の食とも言えるように思います)の素材がずらっと並びます。ちょっとつまみ食いなどをしながら、高倉通まで歩けば、錦市場はおしまいです。1本東に戻って、今度は堺町通を北に上がって行きます。ビルの合間に町家がそこここに残っています。和食はもちろんイタリアン、フレンチとおしゃれなレストランに変貌しているところが結構あります。六角通を越えた左手に町家を利用した喫茶店「イノダコーヒ本店」(写真左)が現れます。これは入ってみるしかないでしょう。ブレンドコーヒー「アラビアの真珠」は最初からミルクと砂糖の入っているなつかしい感じのコーヒーです。(砂糖が不要な方は別のコーヒーもあります。)ここでは軽い食事もできます。休憩が取れたら、再び堺町を上がり三条通で西に折れると、そこには旧日本銀行京都支店であった赤レンガのノスタルジックな建物が現れます。ここが京都文化博物館(写真右)です。500円の入館料ですが、文句なく見応えがあります。1階には京都らしい食事所もあります。ここでゆっくりした後は、高倉通を北へ上がり御池通とぶつかります。この途中にもちょっと立ち寄りたくなる町家がありますが、ここも我慢して御池通を越え、再び堺町通を上がっていくと、左手に「キンシ正宗 堀野資料館」(写真左)が出てきます。もともとこの辺には100軒以上の造り酒屋があったそうです。天皇やお公家さんがいた頃はおおいに需要があったそうですが、天皇が東京に移り、公家も華族となって東京に移ってから一気に廃れてしまったそうです。300円の入館料でこんな話や130年以上経った町家の丁寧な説明をしてくれるガイド+試飲付きです。奥のちょっとしたスペースでは、日本酒の飲み比べや地ビールが味わえます。ここでほろ酔い気分になったら、そのままさらに北に上がり丸太町通まで歩きます。目の前は堺町御門でここから御所です。御所もなかなかいいのですが、今回はパスしてここでは西に向かい車屋町通にぶつかったら、今度は南に下ってみます。小さなビルが並ぶ中で、ここでも古い町家が時々顔を出します。二条通を越えると、創業1465年という、信じられないような古い蕎麦店・本家尾張屋(写真右)が現れます。(もともとは尾張にあった蕎麦麦菓子店から始まったそうで、麺類としての蕎麦を出すようになってからは300年程だそうですが、それでもすごい!)ここも当然要チェックです。蕎麦ですから、そんなに高くはありませんので、安心して入れます。ここを出たらちょっと南に下り押小路通で西へ折れると、烏丸通をはさんで、京都国際マンガミュージアムが目の前に現れます。廃校になった小学校を利用してつい最近できた施設ですが、とてもよい雰囲気です。廃校の利用の仕方では、もっともうまい部類と言えるでしょう。ここは500円払えば、中にあるマンガが1日読み放題です。(半券があれば出入りも自由。)マンガ喫茶に行くより絶対お得です。その上、ミュージアムですから、明治初期からの漫画雑誌の展示などもあります。マンガを研究する人ならぜひ一度は足を運んでみるべきところです。夜の8時まで開いているのも、ありがたいです。この後、町家で一杯やれば、「京都大人の散策」の完成です。

232号(2007.2.19)中川秀直が一番問題だ

 現在の自民党の幹事長をやっている中川秀直という政治家を知っていますか?今日のニュースでも、「閣議室に総理大臣が入っても起立をしない、私語をしているような大臣や、総理に忠誠心をもち、総理のためなら犠牲も惜しまないような気持ちを持たない政治家は内閣を去るべきだ」などと発言したことが取り上げられていましたが、「あんたこそ幹事長職を去るべきだ」と思っている自民党政治家は多いのではないかと思います。もともと新自由クラブで当選したのですが、一度落選してからは新自由クラブをあっさりやめて、自民党に入党し、森喜朗の弟分として可愛がられ、森内閣では官房長官の座を射止めるものの、愛人問題でわずか3ヶ月で辞任し、しばらく消えかけていました。しかし、その後小泉人気が高まると小泉にすり寄り、そして小泉がやめると決まったら、今度は勝ち馬安倍晋三にすり寄っていき、幹事長というスポットライトを浴びる役職を功労賞として得た男です。彼に一体どんな政治的信念があるのか、その経歴を見る限りまったくわかりません。「産む機械」発言をした柳沢厚生労働大臣をかばうのも、かつて愛人を囲っていた幹事長なら当然と言えば当然でしょう。何よりも、私が彼を一番評価できないのは、人の目を見て話をしないところです。記者会見でもそういう雰囲気が出ていますが、ちょっと前に「報道ステーション」に出演したときは、キャスターの古舘伊知郎とほとんど目を合わせませんでした。なんかすごく嘘をついているという印象を与えるしゃべり方です。実際嘘をついているのかどうかはわかりませんが、非常に相手を馬鹿にした態度です。「総理を絶対的存在として他の大臣は忠誠を尽くせ」という発言も、まるで「独裁政治」の信奉者という感じでぞっとします。こんな人間を幹事長に据えるあたりに安倍晋三のだめさぶりがよく示されているように思います。

231号(2007.2.19)動物行動から学ぶ

 日曜日の午後7時半からNHKでやっている「ダーウィンが来た!」という番組が好きなのですが、あの番組を見ていると、動物ってすごいなと感心することばかりです。人間のように学校で学ぶわけではなく、様々な事を伝えられる言語も持っていないにも関わらず、生きていく上で必要なことをちゃんと学び、そして次世代を確実に生みだし育てあげているのです。寝ているときに子クジラが浮き上がってしまわないように子クジラの上に乗るように寝る母クジラ、立ち上がれない子象を鼻を使って立ち上がらそうとする母象など、いくつも感動的なものがありました。そうした動物の行動を見ていると、頭でっかちになりすぎた人間が忘れかけている動物としての原点がどこにあるのかを思い出させます。人間行動を主たる研究対象とする社会学は、その人間行動を相対化するために、動物行動については必ず勉強すべきではないかと思います。ちなみに、ほぼすべてのほ乳類において雌が子どもを慈しみ育てるという行動が行われていますが、雌が雄のために尽くすなどという行動は見られません。(サルのボスのような集団のリーダーとなっている雄の場合はまたちょっと異なるのでしょうが。)ということは、人間においても母として子どもを愛し子どものために尽くす行為は動物としての自然な行動だが、夫(男)のために妻(女)が尽くすという行為は、人間界のみで人為的に作られた制度に基づくものだと言えそうです。こうやって動物行動を視野に入れると、性別役割分業のうち、何を否定し、何を肯定すべきかも、見えやすくなって来るように思います。(ただし、これだけ大脳が発達した動物ですので、たとえ原点がわかったとしても、その原点に近い行為をすることが、すべての人を幸せに導くわけではないということは付け加えておかなければなりませんが。)

230号(2007.2.17)社会学専攻出身男性は結婚相手にいいかも?

 ゼミの女子学生の恋愛話を聞いていると、しばしば「彼氏がちょっとは社会学を勉強してくれたらなあってよく思います」という発言が出てきます。その心は?と言うと、「女らしさ」の強制が時代遅れであることを認識してほしいということのようです。「女なんだから、こうすべきだ。こうしてはいけない」と、結構口うるさい彼氏が多いようで、オールで遊ぶな、男友達と遊ぶな、子どもが生まれたら仕事をやめて家にいるべきだ、といった発言がぽんぽん飛び出すようです。たぶん、そういう男性たちは、外見は結構いい男なのではないかと思います。男らしさの価値観を何の疑問もなく身につけているので、男らしくて頼りがいがあり、もてるタイプだからこそ、つきあいも始まったんじゃないかなと思います。でも、就職と結婚ということを真剣に考えるような年齢になってくると、格好良く男らしいという要素以上に、パートナーとしてこの人は本当に自分(女性)のことをわかってくれるのだろうかという疑問も湧いてくるようです。別にばりばりのキャリア・ウーマンになるつもりはない人でも、「産み育てる機械」だなんて思われるとしたら冗談じゃないという気分にもなることでしょう。社会学を学べば、ジェンダーの問題性ぐらいはわかるはずだから、「女だから……」なんて押しつけがましい発言はしなくなるのではと期待されているわけです。確かにそうかもしれないなと思います。実際、余程不出来な学生でない限り、社会学専攻の男子学生は、そんな発言はまずしないように思います。また、卒業して家庭を持っている教え子たち(男性陣)を見ていると、家庭に実に協力的で家事も育児もよくこなしている人が多いようです。もちろん、ジェンダー論だけなら、社会学専攻でなくても学べると思いますが、社会学をしっかり学ぶことによって、「わたし」を相対化してみる、つまり別の人間の立場に立って物を考える癖をつけ、正確な状況認識と適切な行動を行う力をつけ、さらにはマジョリティの志向性がどこに向いているのかを的確に把握できるようになれば、妻との関係だけでなく、子との関係、親戚との関係、地域・学校のあり方と対応の仕方、会社での生き方、等に関してもうまくやれるはずです。つまり、社会学をちゃんと身につけた男性は結婚相手にとてもよいってことになりそうです。まあ、社会学を学んでも、自己改善できない人も結構いますので、社会学専攻出身男性がみんな結婚相手にいいってことにはならないと思いますが、確率論的には、結婚相手としての質は高い(稼ぐかどうかは知りませんが、パートナーへの配慮ができるという意味で)男性が多いのではないかと思います。

229号(2007.2.15)銀行のおかしなシステムとの闘い

 長らく借りていた住宅ローンも大分減ってきたので、この際一括完済してしまおうと思い、銀行に電話で連絡すると、「なんで返済するんですか?売却ですか?etc.」と、いろいろうるさく質問してきます。さらに、完済手続きも面倒そうなことをいろいろ言います。利子で儲けている企業ですから、利子が取れなくなる行動はなるべく取らせたくないということなのかもしれませんが、もう少し気持ちよくスムーズに応対してくれてもいいのではないかと思いました。今日中に払い込んで手続きを終わらせられるかと聞くと、「7営業日後に書類が届きますので、今日中は……」とよくわからないことを言います。(「7営業日」とか銀行用語を使わず、「約1週間後」にとか言えないのでしょうか?確かに、1日1日が勝負という人もいるのでしょうから、正確を期したのかもしれませんが、普通の人間にはわかりにくいです。まずは普通の用語で言ってみて、相手がもっと正確な回答を期待する場合のみ、銀行的な厳密な物言いをした方がいいと思います。)ともかく、まずは手続きをしなければ始まらないことだけは確かだったようなので、その手続きはローンを借りた支店に行かなければできないのかと聞くと、「どこの支店でもできます」というので、一番近くの支店(ただし出張所)に行きました。ともかく書類に印鑑を押して提出しなければならないのだろうから、その書類をもらって記入して窓口の順番を待とうと思い、「住宅ローン返済関連の書類をもらえますか?」と近くにいた女性行員に聞くと、「ちょっとお待ち下さい」と中に入り、しばらくして戻ってきたと思ったら、「お調べしますので、番号札を取ってお待ち下さい」と言うので、「待ちますが、記入すべき書類があるなら、それを記入して待ちたいのですが」と言うと、また「ちょっとお待ち下さい。」戻ってきたら、今度は「なんのローンでしたでしょうか?」「住宅ローンです!」「あっ、そうでしたね。すみません。お待ち下さい」とまた中に入っていきます。そして、今度は中年男性が出てきて、「すみません。ここではお取り扱いできないのですが……。」「はあ?」「ここは出張所なので、ローン関係は取り扱えないのです。ここでもできるとご説明を受けたのでしょうか?」「どこの支店でも、と言っていたので、ここでもできると思ってきたのですが……」「はあ、すみません。それは誰が言ったかおわかりになるでしょうか?」「名前なんか聞いていません!」「そうですか。なんでしたら、支店から取り寄せて……」「もういいです。でも、できないなら、最初からそう言ってほしかったですね。番号札取って待っていたら、ものすごい時間のロスになるところだったじゃないですか!」「すみません」

で、結局、ローンを借りた支店まで行きました。「住宅ローンの返済で……」というと、こちらにどうぞと「ローン相談窓口」に案内されました。やれやれ、これで一安心かと思えば、「TV窓口でやっていただけますか?」ときました。「この窓口では手続きできないのですか?」と聞くと、「できますが、ここでやると書類が郵送されずに、また取りに来ていただくことになるのですが……」「はあ?どうして、そんなことになるのですか?」ここで、また奥から男性行員が出てきて、「申し訳ありませんが、そういうシステムになっておりまして……」「どういうシステムですか?TV窓口では郵送ができて、直接の窓口では郵送できないって、どういうことですか?」「はあ、受付先が異なるということで……」「だって、ここの銀行で借りたローンですよ。TV窓口だろうと、通常の窓口だろうと、最終的には集約されるはずでしょう?どうして、通常窓口からだと郵送できないってことになるんですか?」「おっしゃることはよくわかりますので、今後の参考にさせていただきますが、とりあえず今はTV窓口が空きましたので、そちらで……」とごまかされ、個室のTV窓口なるところに入れられました。なんだ、この怪しい空間は?ローンを完済するのに、なんでこんな怪しい空間でこそこそやらねばならないんだと憤慨しきりでしたが、よく考えたら、ここはお金を返すための空間というより、こっそり借りるために作られた空間なんだということに気づきました。消費者金融があちこちに作っているものと同じようなシステムが銀行の店内に作られていたわけです。なんか悪いことでもするみたいな気分で、TV電話で話をして手続きを済ませましたが、なんか嫌な気分でした。なんで通常の窓口で普通のコミュニケーションでこれができないのでしょうか?まあ、この方がコンピュータをすぐに操作でき、スピーディではあるのだろうということはわかりましたが、非人間的で嫌な気分でした。結局、手続きはこれで終わりで、後は引き落とし口座にお金さえ入れておけばいいということでしたので、今日だけで用は済みました。今日が完済日とならないという意味では今日中には済まないのかもしれませんが、一番最初に電話で説明してくれた人が、厳密すぎたのか、こちらの意図を理解できなかったのか、かなり振り回された感じになりました。ちなみに、完済するにあたっても、手数料を2万以上ふんだくります。そんな金額に見合うような丁寧なサービスなんか何もしてないじゃないかとまた腹が立ってきましたが、「手切れ金」と思うことにしました。一般の人が2万円稼ぐのがどれほど大変なことか、銀行の上層部は絶対にわかっていないことでしょう。銀行というのは、上品な顔をして金をむしり取るシステムを事細かに作り上げている慇懃無礼な企業だと改めて確信した1日でした。

228号(2007.1.28)みんな昔は半ズボンだったような……

 思い出話第2弾です。今冬はとても暖かいですが、町を歩いてもいても半ズボンの子供などにはまったく会いません。今頃何を言っているのかと言われそうですが、戦後のことを書いている本を読んでいたら、昭和2030年代の冬は今より大分寒かったというデータがあって、それを見ながら、「でもそんな真冬でもずっと半ズボンだったな」とふと思い出しました。どんなに寒い冬でも長ズボンなどはいて学校に行くことなど滅多にはなかったです。……というのが私の記憶だったのですが、確認しようと思って古いアルバムを引っ張り出してみたら、あれっ、冬の写真は全部長ズボンをはいて写っていました。すみません、記憶なんていい加減なものですね。長ズボンなんて雪が降ったときにはくぐらいでほとんどはいた記憶がなかったのですが……。もうこれで最初の動機付けからすれば書くことがなくなってしまったようなものなのですが、せっかく書き始めたので、もうしばらく続けます。記録と記憶が違うのですが、確かに冬でも半ズボンにハイソックスなんて格好をよくしていたように思いますし、少なくとも夏は写真でもすべて半ズボンでした。それも今どきのハーフ丈とかではなく、太ももの半分は露出するような短い丈のものでした。(一緒に写真を見た息子は「パンツみたいだね」と笑っていました。)私が小学校を出たのは昭和43(1968)年でしたが、この頃は少なくとも夏は半ズボン率がほぼ100%だったと思います。あの頃半ズボンをはいていたのは、母親が簡単に作れたからというのも一因だったような気がします。私たちの親の世代は最低限の洋裁はできる母親が多く、私の半ズボンも母親の手作りでした。(ジッパーは高かったからか、面倒だったからかわかりませんが、前の空いていないズボンばかりだったような記憶があります。)いつから、少年たちは半ズボンを履かなくなったんでしょうね。昭和50年代の前半ぐらいまでは半ズボン率は高かったような気もしますが、記憶が明確ではありません。このHPを読んでくれている30歳代の方の子供時代はどうだったでしょうか?もう長ズボンだったでしょうか?よかったら教えて下さい。変わり始めたら一気に変わってしまったような気がしますが、変わる劇的なきっかけがあったような記憶もありません。結構これは調べてみたら、おもしろい社会学的研究になりそうな気もします。誰かやってみませんか?

227号(2007.1.25)ドジ話

 今日外でお昼を食べてお金を払おうと思ったら、財布を忘れていました。カバンを「人質?」にして、慌てて家に取りに帰りました。まあそう遠いところではなかったし、お店の人も好意的だったので、大きな問題はなかったのですが、財布を持たないまま食事に出かけたのは初めての経験で、危うく「大学教授無銭飲食!」なんて見出しになるところだったと、自分のドジさにちょっと笑ってしまいました。私はこう見えても意外に慎重な性格で傘の置き忘れもしたことがないですし、ペンケースの中の消しゴムなんて一体いつから使っているか思い出せないぐらい物を無くしません。なので、ドジ話は少ない方だと思いますが、それでも51年も生きていれば、今思い出しても恥ずかしくなるようなドジ話はやはりいくつもあるものです。最近では自宅の駐車場のすぐそばに車を止めていてレッカーで持って行かれてしまったなんていうのは、痛いドジでした。子供が小さい時は子供の方に気が行って電車にカバンを置き忘れたり、銀行で下ろした現金を置き忘れたこともありました。カバンは出てきましたが、現金はだめでした。まあこの辺の話は恥ずかしいというより痛いドジでしたが、恥ずかしいのはトイレネタですね。5歳の時に「くみ取り式便所」に落ちてなかなか這い上がれず「このままここで死んじゃうのかな」と不安になったこと、中1の時にトイレに行っていて授業に遅れたと思って、音楽室に飛び込んで「すいません!トイレに行っていて遅れました!」と謝って顔を上げたら、まだ前のクラスの授業が続いていて大笑いをされたこと、大学1年の時にお腹が急に痛くなって急いでトイレの個室に飛び込んで一安心と思ったら、そこが女子トイレでしばらく出られなくなってしまったこと、そして同じく大学1年の時に湖畔の合宿所で飲み過ぎて気持ち悪くなってトイレの個室に入り、そのまま寝込んでしまい、友人たちが私が見つからないと湖畔の方まで大捜索をしてくれたこと、などは今思い出しても恥ずかしい思い出です。しかし、なんでこんな恥ずかしいドジ話をここで披露しているんでしょうね?えーーっと、しいて分析的に考えれば、ドジをする時というのは、やはり集中力を欠いている時なんだなと思った次第です。たいした分析じゃないですね。まあたまには気楽に笑ってください。はい。

226号(2007.1.21)年末・年始の伝統的慣習は生き残れるか?

 1月の講義の際に、受講してくれている学生たち(2,3回生が大部分で、男子86人、女子83人)にこの年末・年始に、伝統的な慣習をどの程度やったかを尋ねるアンケートを実施しました。その結果を報告し、簡単な分析をしてみたいと思います。

<現代大学生の年末・年始の過ごし方調査>(括弧内は男子の割合/女子の割合)

Q1.昨年末の紅白歌合戦を見ましたか?

   1.ほぼ全部見た(3.5/16.9) 2.少し見た(39.5/59.0)  3.まったく見ていない(57.0/24.1)

Q2.お屠蘇(とそ)は飲みましたか?

   1.飲んだ(25.6/24.1)  2.飲んでいない(74.4/75.9)

Q3.おせち料理は食べましたか?

   1.食べた(79.1/90.4)  2.食べていない(20.9/9.6)

SQ3-1.(食べた方に)それは手作りでしたか、市販のものでしたか?

1.祖母の手作り(11.6/16.9)  2.母の手作り(50.0/53.0)  3.市販(15.1/16.9)  4.その他(2.3/3.6)  非該当(20.9/9.6)

Q4.お雑煮は食べましたか?

   1.食べた(77.9/86.7)  2.食べていない(22.1/13.3)

Q5.年賀状は書きましたか?

   書いていない(67.4/38.6)  1〜3枚(16.3/12.0)  4〜9枚(5.8/20.5)  1019(2.3/21.7)  20枚以上(8.1/7.2)

Q6.初詣は行きましたか?

   1.行った(77.9/71.1)  2.行っていない(22.1/28.9)

Q7.お正月に家族で百人一首をしましたか?

   1.今年もした(1.2/2.4)  2.昔はしたが今はしない(30.2/28.9)  3.一度もしたことがない(68.6/68.7)

 調査結果の男女別集計は以上です。男女差が有意に出たのは、「紅白」「おせち」「お雑煮」「年賀状」です。これは、女子学生の方が自宅あるいは祖父母の家などで家族と年末・年始を過ごしていることが多いことによる差でしょう。個々に見てみましょう。「紅白歌合戦」は「少し見た」も含めると結構学生たちも見ていますね。女子では75.9%になりますので、「紅白」もまだまだ捨てたものではないかもしれません。「お屠蘇」は男女ともに4分の1の人が飲んでいて、これも意外に多いように思いました。しかし、中には「お屠蘇って何ですか?」と書いていた人も何人かおり、先々生き残っていくのは難しいかもしれません。「おせち料理」と「お雑煮」はかなり食べています。おせち料理はお母さんの手作り(市販併用を含む)が多く、まだ生き残っていけそうです。年賀状は危ないです。10枚以上書いた人が男子で約1割、女子で3割弱です。40枚以上書いた人は男子で3人(最高は62枚)、女子は0人です。やはり、メールにとって代わられる文化なのかもしれません。ちょっと残念です。「初詣」は暇な正月に恋人・友達と出かけていくところとして生き残りそうです。そして、最後に「百人一首」ですが。これは一番危ないですね。中学・高校と学校で百人一首をみんな覚えさせられたと思いますが、家族でとなるとやらないんですね。まあ、大学生は一番やらない年齢かもしれませんが、親になっても、百人一首のカルタを購入する人はもうあまりいそうもないですから、これは家族内の正月の遊びとしては滅びそうです。私の参与観察によれば、関大の社会学部の学生たち(特に「理論社会学」なんて堅苦しい講義をまじめに聞いている学生たち)は、総じてまじめで家族と仲がよい人が多いので、伝統的慣習に対しても比較的ちゃんとやろうとする人が多いと思います。言ってみれば、期待できる若者層であり、偏りを持っていると思います。なので、ここで残りそうと思っても消えていくものがあるでしょうし、ここで残りそうもないと予測の立つものはほぼ間違いなく消えていくのではないかと思います。

225号(2007.1.16)脱「かわいい」してみませんか?

 今や、若い女性たちの間で「かわいい」は万能語です。なんでもかんでもプラス価値と思えるものを「かわいい」とレッテルを貼り、本来「かわいい」とは矛盾するようなものにまで「かわいい」を付けて「エロかわ」、「キモかわ」、「ブスかわ」なんて言葉までできています。さらに最近では、「かわいい」は「KAWAII」というアルファベット表記となって世界にそのまま通用する言葉になりつつあるようで、「かわいい帝国」の勢いは止まるところを知らずという感じです。しかし、私はこの風潮には抵抗したいと思っています。別に「かわいい」ものや「かわいい」という言葉自体は嫌いではありませんが、それが本来適用されるべき範囲を超えて使われることに、さらには若い女性たちにとってすべての価値基準に優越する基準となってしまいかねない風潮に抵抗を感じるのです。赤ちゃんやペットは「かわいい」でいいでしょうが、20歳を過ぎても、さらには30歳が近づいてきても、いつまでも「かわいい」と言われて単純に喜んでいるようではまずいと思います。最近では中年と呼ばれるような年齢になっても、ペットだ、キャラクターグッズだ、ジャニーズだと、「かわいい」ものを追い続けている女性も少なくないように思います。そういう人が子供の自立心を育てられるのだろうかと思うと、不安になります。(もちろん、女性だけに子育ての責任があるなどとは毛頭思っていませんが、母親の影響力が大きいことも確かです。)「かわいい」という言葉には、「幼い」、「しっかりしていない」、「自分のコントロール下に置けそう」といったニュアンスが含まれています。しっかりと自立してスマートに生きている女性に対しては、「かわいい」とは言いにくいはずです。浅田真央さんはまだ「かわいい」でいいかもしれませんが、荒川静香さんには「かわいい」は合わないはずです。「素敵な」とか「魅力的な」あるいは「大人の」といった形容の方がぴったりするはずです。女性たちが、いつまでも「かわいい女の子」でいるのではなく、「素敵な女性」になっていかなければならないのだということを認識するために、また様々にある価値を「かわいい」ひとつで表現してしまう語彙の貧困と感性の枯渇を招かないためには、「かわいい」の乱用には「NO!」を言わなければならないのではないかと思っています。まあでも、今の流れから言えば、この闘いにはほとんど勝ち目はないでしょうね。それでも、この文章を読んでくれた人の1人でも2人でも、脱「かわいい」をめざしてくれれば、それでもいいやと思っています。

224号(2007.1.13)営業

 娘がミシンが欲しいというので大手スーパーに買いに行ったのですが、そのミシン売り場にBミシンから派遣された60歳前後のパンチパーマ(風?)のおじさんがいました。ミシンを真剣に見ている私に「ミシンですか?ご主人が使われるんですか?」と聞いてきました。「いや、私ではなく、娘がやってみたいというので」と答えると、「これなんか、いいですよ」といろいろ勧めてきました。当たり前かもしれませんが、すべてB社のものばかりで、それもやや高めのものばかり勧めます。私としては、娘からもどの程度使うかわからないし安いのでいいよと言われていたので、「初心者でもよくわかるビデオ付」と書いてあったJ社のものが気にかかっていました。「これはどうなんですか?」とその製品について聞くと、「ああ、これはだめですよ。使いにくいですよ」と次から次にここがだめ、あそこがだめとあげつらいました。そして、またB社の別商品を「安くしますよ」と勧められました。こんな商売のされ方をすると、逆に意地でもB社の製品を買いたくなくなってきます。価格的に十分B社の製品でもよかったのですが、おじさんの売り方が逆効果になって、結局J社の製品を買って帰りました。おじさんは私がB社の製品を買いそうにないとなったら、一切興味を失ったように知らん顔になってしまいました。たぶん、このおじさんは外見からすると、本来こういう営業をしてきた人ではなくて、定年後か定年直前で急遽こういう仕事に回された方ではないかと思います。まあ、はっきり言って、ものすごく商売下手でした。ちゃんと他社製品の良いところも語った上で、自社製品の良さを押しつけがましい感じではなく語っていたら、私もB社の製品を買っていたように思います。営業の下手な人が営業に回されると大変そうです。営業は相手のタイプを把握して、うまく気持ちをつかまないと商売にならないなと改めて思いました。腰を低く、頭を下げるなんてことより、相手の考えていることをいち早く察し、相手の期待する対応ができるかがより大切だと思います。今営業職をしている人、これから営業をする人、たくさんいると思いますが、賢く頑張って下さい。

223号(2007.1.12)NHKは本当に必要か?

 NHK受信料の徴収率を上げるための法改正を行うとともに、受信料を下げるといった話が出ていますが、そもそもNHKという公共放送(?)は必要なのかという議論もあってもいいのではないでしょうか。民放ばかりでは放送の公共性が十分守れないという意見があるかもしれませんが、一般大衆に大きな影響を与える放送局である限り、そんなに偏った放送は民放であってもできないはずです。実際に、かつて総選挙の前のTV朝日の報道が偏っていたということで、国会に参考人として呼ばれ、実質的に厳しく批判されたこともありました。ニュースでもNHKと民放で情報量にはあまり差がない、というよりむしろ民放の方が情報量は多いと思います。NHKがなくなったらなくなりそうな番組としては、選挙の際の政見放送と国会中継ぐらいでしょうか。しかし、政見放送は候補者のマニフェストなどが広く配布されるようになってきていますので、やらなくてもいいと思いますし、国会放送は注目されるようなものであれば、民放でもある程度はやるでしょう。外国語を学ぶ番組も今は民放ではやっておらず、NHKだけですが、需要があるなら、民放でもう少しおもしろくやるようになるのではないでしょうか。しかし、現代のようにCDやカセットが附属についた本がたくさん売られている中では、TVでやる必要はもうないのかもしれません。こうやって考えていくと、NHKの存在理由はかなり怪しくなってくるように思います。1925年という社会統制の強い社会の中で独占放送として生み出された日本放送協会という団体が、この2007年において国民からの受信料と多額の税金を利用して運営されるほどに順機能していると言えるのかどうか、一度本格的検討してみる価値はあるのではないでしょうか。

222号(2007.1.12)納豆が消えた

 新聞にも載っていましたが、TV番組の影響で、納豆が売り切れてしまっています。うちの近くのスーパーでも、納豆は一切なく、「納豆はTV番組の影響で売り切れになっています。ご迷惑をおかけします。」という貼り紙が貼ってありました。前に、青いみかんがダイエットに効くと放送した次の日には、やはり青いみかんが店頭から一斉に消えていました。あの番組、ものすごく影響力があるんですね。なんでそこまで影響があるのでしょうか?実際に効果は出ているのでしょうか?青いみかんにも納豆にもチャレンジしていた我が家のパートナーには効果が見られないのですが……。まあ、それはともかく。日常的な安価な食品でダイエットができるという情報を流すからいいんでしょうね。何万円もするようなものでは、こういう売り切れ状態は生まれないでしょう。主婦の購買心理をうまくついています。どこかの食品メーカーが番組とつるんで商品を売るなんてことはないのでしょうか?社会学を勉強するとダイエットにいいとか言ってくれたら、社会学を学ぶ人が増えたりしないですかね?な、わけないですね。万一影響があっても、主婦の社会人入学ですね。大体そんなに安価じゃないからだめですね。

追記(2007.1.21):結局データが捏造だったと謝ることになってしまいましたね。新聞報道では、「信じていたので裏切られた気分です。もう番組を見たくありません」という紋切り型の声が掲載されていましたが、この声は実際の多くの消費者の感覚とは大分違うのではないでしょうか。多くの消費者は「ダメもと」で納豆を買っていたと思いますので、うちのパートナーも言っていましたが、「やっぱりね。納豆だけでそんなうまく行かないわよね」といったあたりがほとんどの人の感想ではないでしょうか。なんか社会正義を振りかざしたがるマスコミの底の浅さの方が滑稽です。せめて署名入りで記事を書けよと思います。匿名性に守られて低レベルの記事を垂れ流してほしくないと思います。なお、もちろん例の番組を支援しようという気など、私には毛頭ありませんので、誤解なきようにお願いします。言いたいことは、しょうもないダイエット話を流すのもマスコミ、それに単純な批判記事を書くのもマスコミだということを忘れてほしくないのです。そのまま信じちゃだめですよってことです。ちなみに、不二家バッシングも行き過ぎのように思います。消費期限が1日切れていても、ベテラン職人が臭いをかいで大丈夫と思ったら別にシュークリームを作ってもいいんじゃないかなと私は思います。前の日に作っていたらOKで、翌日になったら突然腐るというものでもないでしょう。そもそも、牛乳を作ったメーカーが消費期限に関して絶対に嘘を書いていないと、そこはどうしてそう単純に信じられるのでしょうか?食品に関してはプロの長年の勘と経験をもっと信じてもいいのではないかと思います。

221号(2007.1.8)江戸を歩く

 正月にちょっと時間があったので、東京を歩いてきました。もともと東京およびその周辺で育った人間で27歳まで住んでいたし、今でも仕事でちょくちょく行くのに、なかなか歩く機会がなかったので、有名な所にもあまり行っていませんでした。最近ようやく時間を作っては東京を歩くようにしています。東京のガイドブックを開くと、ディズニーランドやら六本木ヒルズやらお台場やらと、新しい遊びスポットばかりが紹介されていますが、そんな所は特に歩きたいとは思いません。(まったく興味がないというわけでもありませんが。)で、どこを歩くかというと、歴史のあるところです。今回は特に江戸情緒の残る所を選んで歩いてみました。江戸情緒というと、浅草が代表格ですが、ここはあまりに有名ですので、私が紹介するまでもないでしょう。今回はもう少し渋いところを紹介します。

 まず行ってみたのが愛宕神社です。ここは江戸城下ではもっとも標高の高く眺めのよい場所として有名でした。ここからの江戸の風景は多くの浮世絵師によって描かれています。明治維新の際には官軍に江戸総攻めを思い止まらせるために、勝海舟が西郷隆盛をここに連れて行き、江戸の町を見せたという話も残っています。ここの男坂と呼ばれる石段はものすごい急角度で、近くで見るとまるで壁のようです(写真左)。やってきた小さな子が何人も怖くて後ずさりをしてしまうほどでした。期待しながら上に登ってみましたが、やはりそこは現代。どこを見てもビルばかりで気持ちの良い見晴らしは得られませんでした。ただし、隣にNHK放送博物館があり、そこの屋上に上がれば少し見晴らしが良さそうでしたが、あいにく正月休暇中で中には入れませんでした。ちなみに、ここにNHKの博物館があるのは、ここが都心部でもっとも高い所だったために、最初の放送施設ができたからです。次いで、そこからほど近い増上寺に行きました。増上寺は徳川将軍家の菩提寺で、2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6人の墓があります。まあ、これは一般には公開されていなかったので、見られなかったのですが。でも、増上寺の本堂の背景として東京タワーがすくっとそびえているのは、過去と現代の組合せという感じで、なかなか魅力的な風景でした(写真右)。

 次に、浅野内匠頭の墓があり、赤穂浪士が討ち入りの後、吉良上野介の首をそなえた泉岳寺に行ってきました。もちろん、大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士たちの墓もあり、お詣りする人が引きも切らずという感じでした。墓も間違いなく歴史的資産だなと改めて感じさせられました。ここには資料館もあり、浪士たちが身に付けていた物が展示されていて、赤穂浪士の討ち入りが「忠臣蔵」という物語ではなく、史実であることを実感できます。忠臣蔵では浪士たちは新選組と同じような袖と裾にだんだら模様の入った羽織を着ています(新選組が「忠臣蔵」の衣装を真似したのです)が、これは物語の世界で使われた衣装で、史実の浪士たちは黒づくめの火消しのような格好をしていたそうです。討ち入りの際には目立たない方がいいはずですから、これは当然と言えば当然ですが、「忠臣蔵」の影響が強いために、意外に知られていない事実ではないでしょうか。ちなみに、討ち入った吉良邸は両国の近くにあり、かつてそこにも行ったことがありますが、港区にあるここ泉岳寺とはかなり距離があり、浪士たちは雪の中をかなり歩いたんだということがよくわかりました。その後、品川宿に行きました。NHKBSの「東海道53次を歩く」という番組を見てからぜひ行ってみたいと思っていたのですが、実際に行ってみると、あまりに変わりすぎていて江戸時代の品川宿を想像するのは困難でした。東海道最初の宿として繁栄していたはずなのですが、宿泊施設のようなものがまったくなく、イメージが湧きませんでした。以前中仙道や西国街道を少し歩いたことがありますが、はるかに風情が残っていました。やはりここは東京だなと改めて感じました。

 さて、最後は東京・江戸の下町である月島、佃、築地を歩きました。月島では江戸とは関係ありませんが、もんじゃ焼きを食べました。あれはあまりおいしいものではないですね。同じような粉物ならお好み焼きの方がはるかにおいしいです。もんじゃ焼きはともかく、月島のあたりは戦前を彷彿とさせる路地がたくさんあって、下町の風情をしっかり感じることができます(写真左)。ぶらぶら歩いているといつのまにか佃に着きます。佃はもともと大阪の地名(現在も西淀川区にあります)です。本能寺の変の際にわずかな伴だけ連れて上洛していた徳川家康が、明智光秀の追跡を逃れて国に戻る際に佃の漁民が手助けをしてくれたことを忘れずに、江戸に町を開いたとき、大坂佃島の漁民たちを呼び住まわせたのが、その名前の由来になっています。この佃で魚を保存用に甘辛く煮込んで家庭用として食べていたものが全国に広まって「佃煮」となったわけです。ちなみに、近くには明石町という町名もあるのですが、ここも明石の漁民たちが移住して作った町です。江戸の町もその少なからぬ原点が関西にあったりします。佃も今再開発が進んでいて背の高いビルがかなり建っていますが、その片隅に昔の風情を感じさせる小舟が繋留されているところがあったりして、なかなかおもしろい町です(写真右)。今回の歩きの終点は築地本願寺でした。江戸時代から有名なお寺でしたが、現在の建物はインド様式の不思議な建物です。関東大震災で崩壊した後、昭和6年に建て直されたものだそうですが、日本の寺院としてはもっとも変わった建物と言ってよいと思います。結構有名な人の葬儀などでよく使われますので、TVで見たことのある人も多いのではないでしょうか。以上、片桐新自の「お江戸」紹介でした。

220号(2007.1.7)NHKの誤算

 新しい年が始まりましたね。皆さんはどういう年末・年始をお過ごしでしょうか。私は、例年同様、実家で紅白歌合戦を見て、年越しそばを食べながら、正月を迎え、親戚が集まってお屠蘇におせち料理という伝統的な正月を過ごしました。さて、そんな平凡な年末・年始の話題は紅白歌合戦のDJオズマでした。実は、私はその時間帯に仕事の電話がかかってきていてオンタイムでは見ていなかったのですが、見ていた妻や娘たちは大ブーイングでした。そんな話題性のある場面を見られなくて残念だったので、自宅に戻ってきてから、録画しておいたDVDで早速チェックをしました。なるほど、確かにNHK的ではなかったですね。女性ダンサーは水着で踊っている方が魅力的で、裸に見えるボディースーツはグロテスクなだけでした。あくまでも「サプライズ」が狙いだったのでしょう。番組の途中でアナウンサーがお詫びを入れていましたし、元旦の新聞記事にまでなっていましたので、DJオズマにとっては、知名度を上げるという意味では計算通りの大成功だったと言えるのかもしれません。(NHKに呼ばれることは2度とないでしょうが、もともとNHK向きの歌手ではないですから、特に問題はないでしょう。)この事件も含めて、どうもNHKは計算違いをしているというのが、今年の(毎年の?)紅白歌合戦を見ての、私のもっとも強い印象です。あの場面でも、歌が終わった直後に紅組司会の仲間由紀恵にカメラが切り替わったのですが、ただびっくりするだけで、うまいフォローができなかったことも問題を大きくした一因ではないかと思います。あそこで、すぐに仲間由紀恵が「すごいボディースーツでしたね」とでもコメントしていたら、苦情の電話も大分少なくなったと思いますが、アドリブの一切きかない、台本通りのことしか言えない女優さんでは、後処理役としては最悪でした。生番組で何が起こるかわからないのですから、機転の利く人を司会役にしておかなければいけないところなのに、お人形さんみたいな女優さんを司会役にするというのは、判断が間違っています。まあ、昨年司会のみのもんたがアドリブが多すぎたので、その反動だったのかもしれませんが。応援役として、お笑いタレントをたくさん出すのも、判断が間違っているように思います。一体、どこの誰が紅白歌合戦で、たいした芸もないお笑いタレントなどを見たいと思っているでしょうか。40%を切った視聴率から推測すれば、紅白歌合戦の視聴者は、今や私のように伝統的な年末・年始を楽しもうと思っている固定的なファンが中心のはずです。紅白歌合戦の格を下げるだけのお笑いタレントなど、あの番組の中では見たいとは思わないはずです。この論理で言えば、そもそもDJオズマなどを出演させる必要はないのです。中途半端な若い人受けなど狙わずに、格調高くオーソドックスに番組を作ればいいのです。年末に放送される歌番組の中では、最近は「FNS歌謡祭」がもっとも格調高くて、あちらの方が大晦日向きの歌番組だという気がしています。NHKは古い映像をしっかり持っていますし、いいドキュメンタリーを作る能力が高いのですから、中途半端な笑いや若者受けを狙わずに、1年間を振り返る映像と過去の紅白歌合戦や時代の映像などを組み合わせた、格調高い歌番組を作れるはずです。他の民放は格闘技をはじめとする下らない番組ばかりですから、紅白歌合戦を格調高い番組にすれば、きちんとした形で正月を迎えたいと思っている人なら若い人も含めて、視聴率を取れると私は見ています。妙に若者に迎合しようとしてどんどん魅力を失っていることに、どうしてNHK関係者は気づかないのだろうかと、年々疑問が増しています。