教壇に立つにあたって
教壇に立つにあたって
馬場 圭太(同志社女子大学現代社会学部)

 サバイバルの書としてビジネスマンに読まれていると言われる「風姿花傳」だが、この書には大学教員に教育について考えるきっかけを与える指摘がいくつも含まれている。ここで採りあげたいのは、問答條々に展開されている一節である。「申樂」を「講義」に置き換えて解釈してみるとどうなるだろうか…

〔問〕― 講義するにあたって、当日教室の学生の様子をうかがうことにはどのような意味があるのでしょうか。
〔答〕― これはとても大事なことです。その日の教室の様子を眺めれば、講義がうまくいくかいかないか大体判断できます。
― 学生が教室に集まっていてもざわついて集中できていないときがあります。そのようなときには、学生が教員の登壇をいまや遅しと待ちかねる状態まで待ち、その時を見計らって登壇し講義を始めれば、学生は教員に集中し講義はうまく進むでしょう。
― けれどもなかなかそうもいきません。講義は定刻に開始しなければならないからです。そのようなときに場を静めるのはなかなか難しいことです。そのためには、いつもより身振り手振りを使い、声を大きくしたり、あるいはあちこち動き回ったりして、学生の目を引きつけるように生き生きと振る舞うとよいでしょう。
― 夜の講義では雰囲気が全く異なります。たいてい湿っぽくなります。夜の講義はいったん湿っぽくなるとなかなか元に戻りません。ですから、夜の講義は初めが肝心です。きびきびと講義すべきです。
― 要するに、陰と陽とが調和するところを見いだすことが肝心です。騒がしい時(陽)、これを静めようとする試みは陰にあたります。この試みは受講生が面白いと感じる心の元になります。これに対し、夜の講義では、きびきびと講義する。これは陰に対して陽をもってあたることです。そうでなければ、調和はあり得ず、調和しなければ成功もありえません。成功しなければ面白くもありません。
― 昼であっても時により場が陰気になることがあり、逆に夜であっても陽気になることがあります。当日教室の受講生の様子を見ることは、それを判断するために必要なのです。

 この解釈はほとんど創作に近いけれども、原文にはこの「解釈」を受け入れる幅があるように思われる。この幅は、芸能と大学教育との間隔が非常に近いことを示唆している。ちまたで大学教員=エンターテイナー説なるものを耳にすることがある。この言説は、定義しだいでは誤解を与えかねないが、世阿弥の申樂をイメージする限り、当たっていると言えそうである。
 「問答」を読んで感ずるところは読者ごとに様々であろう。私がここでとくに汲み上げたいのは、テクニックの究極に控えている「面白さ」についてである。学生が講義を「面白い」と感じることができるか否か、結局はそれが講義の善し悪しの分かれ目であり、テクニックはそれを引き出すための手段にすぎない。
 「ウケ」る講義即ち「面白い」講義ではない。それではどのような講義が本当に「面白い」と言えるのか。この問いに言語化された答えを与えることは難しいが、無理をする必要はないのかもしれない。講義が「面白い」か否かは受講生の顔色を見れば一目瞭然だからである。
 ただ、講義には、芸能と決定的に違うところがある。講義では、内容の性格上、「面白さ」が受け手に対して即時に伝わりにくい嫌いがある。その場合には、面白くなくても受講生が講義に耐えうるだけの信頼関係を教員の努力により構築するほかないであろう。「面白さ」が学生に伝わっているか常に不安にさらされている一年生教員にとって、信頼関係を得るための作業は精神安定剤として機能している。しかし、講義をよりよいものにするためには不安の有無にかかわらず不可欠なことなのかもしれない。

〔同志社時報第110号(2000.10)掲載、一部修正〕