古い教室を弁護する
古い教室を弁護する
馬場 圭太(関西大学法学部教授)

 千里山キャンパスの第一学舎には、最新の設備を誇る新しい校舎と築四〇年を優に超すであろう古い校舎が立ち並んでいる。新しい校舎の教室は、実に快適である。開放感溢れる空間、自然な空調、充実した視聴覚設備、と非の打ち所がない。他方、私が大講義を行っている古い校舎の教室は、設備の見劣りが否めない。それでも、断然古い教室のほうがよい、と私は思う。味方が少なかろう古い教室の弁護を、不利を顧みず試みてみよう。
 まず、古い教室は、心なしか空気が落ち着いているように思う。雨の日には、それがとくに強く感じられる。室内の配色が暗めだからかもしれないし、壁の材料が漆喰やコンクリートだからかもしれない。いずれにせよ、教室の静穏な雰囲気を維持するのに適している。
 つぎに、教室が過度に快適ではないこと、それ自体が利点である。人は、何かに集中しようとするとき、あえて身を厳しい環境に置くことがある。設備が充実しすぎないことにより、講義の本質的部分で学生を惹きつけなければという心理が醸成され、その結果、講義への集中力が高まっているように思う。
 最後に、古い教室からは歴史を感じ取ることができる。この教室で彼の敬愛すべき先生が講義を行っていたこと、多くの卒業生がここで学び巣立っていったことを思い遣るとき、身が引き締まる思いをするのは私だけではないだろう。
 教室は、単に知識を伝授するためにあるのではない。学問は、現在の「知」を起点としつつ、時空を自在に往き来する。教室がそのための乗り物であるとするならば、古い乗り物を好む者が一人くらいいても許されよう。古い乗り物を楽しめる幸福に感謝しつつ、その操縦技術の向上に余念なく努めたい。

〔葦15号(2012)掲載〕