華光大帝(伽藍神探求3)
黄檗宗(おうばくしゅう)の本山である宇治萬福寺(うじまんぷくじ)の伽藍殿に行くと、そこに華光大帝(かこうたいてい)の像があります。
<宇治萬福寺の華光大帝>
華光大帝とは、宋代から明代にかけて中国南方で絶大な信仰があった神です。一時は関帝をもしのいでいたと考えられます。ところが、清代になると信仰がかなり衰えてしまう神です。そのため、いま中国ではそれほど知られていません。台湾においても、現在では廟は少ないです。
実は、かつて萬福寺について書かれた文章は、この像をみな関帝像だとしていました。ヒゲがありませんし、三眼なので、間違えようもないのですが、伽藍神といえば関帝という考えが強く、そのままずっと間違った認識が広まっていました。
かくいう自分も、論文などを読んで、ずっとこの像が関帝だと思い込んでいました。ところがある日、萬福寺のほうから見て欲しいという依頼があり、行ってみたら華光大帝だと分かったわけです。このことがあって以来、自分は他人の論文などは信用してはダメで、必ず自分の目で確認するという方針に変化しました。
とはいえ、華光大帝という神は現在では知名度が低いので、間違えてしまうのは仕方ない面もあります。あの博学無類の無著道忠(むじゃくどうちゅう)ですら、疑いつつもこの像は関帝であるとしています。もっとも、限られた情報のなかで疑義を持ったのは、やはりさすがです。『禅林象器箋(ぜんりんしょうきせん)』には次の一文があります。
日本の黄檗山の伽藍堂の神は三眼である。「この神は何か」と問うたら、「これは関帝です」と言われた。しかし関帝が智者大師に会った時は、三眼であるとは言っていない。唐人がどのような根拠でこのように言っているのかは分からない。
作られた当初は、ちゃんと名前が分かっていたのでしょうが、その後、3百年くらいは誤解されていたと考えられます。
華光大帝は、火神でありまた財神でもある神で、広東では演劇の神とされます。
その成立については、かなり複雑です。ただ、この神については、『南遊記(なんゆうき)』という小説が明代に書かれており、それで詳細な伝が分かります。『三教捜神大全』にも記載があります。
もともと安徽において、五顕(ごけん)という神の信仰がありました。この神は五人組です。一部で五通神(ごつうしん)と同じとされますが、五通のほうは邪神に近いので、否定する向きもあります。華光はほんらいは別の神だったと思われますが、この五顕神と混同されていきます。
華光は、三眼であり、火の神であったり、密教の神の形象に近いです。おそらくは、密教由来の神です。華光を一名「妙吉祥」と呼ぶのは、その源流が密教にあることを示唆するものです。その源流を烏枢沙摩(ウスサマ)明王であるとする論が、いまはかなり有力になっています。おそらく、幾つかの密教神が複合していると思われます。
もともと道教、というより中国には三眼の神はありませんでした。蒼頡(そうけつ)・方相(ほうそう)などの古代の多目の神は、みな四つ目です。三眼、それに多頭多臂の神が出てくるのは、密教の影響を受けてからあとです。
密教の明王などの信仰がやや目立たなくなるのと同時に、道教では様々な元帥という武神が発達します。元帥神の多くは、密教の影響を受けています。関帝も、ほんらいは関元帥として元帥神の一部に属していました。その後、発展して別の神になっていきます。
元代から明代にかけて、華光大帝は五顕からも独立した神として扱われます。そして、その信仰は拡大していき、杭州をはじめとして数多くの廟があちこちに建てられました。『水滸伝』にも華光の名はよく見えます。それほど当時、華光大帝は巨大な信仰を有していたのです。
ただ、仏教でもこの神を祀ることが多く、その場合は華光菩薩とも称されました。杭州のお寺の記録を見ると、あちこちで華光大帝を伽藍の守護神として祀っています。黄檗宗の寺院は、この伝統を受け継ぐものなのです。
華光大帝は、道教でも重視されます。道教では馬元帥と呼ばれます。
馬元帥とは、道教四大元帥のひとつです。姓は馬(ば)、名は勝(しょう)。
関帝となった関元帥、それに趙玄壇(ちょうげんだん)こと趙元帥、温元帥(おんげんすい)に馬元帥を加えて、四大元帥とします。仏教の四天王にあたります。
ほかにも元帥の神は多く、十二天君・三十六元帥という言い方もあります。これらの神を統御するのは、雷声普化天尊(らいせいふかてんそん)、あるいは玄天上帝(げんてんじょうてい)です。
<上海白雲観の馬元帥像>
馬元帥の武器は、特殊なものがあって有名です。まず金磚(きんせん)。これは金の三角形をした武器で、投げると相手に当たり、そのままブーメランのように戻ってきます。白蛇鎗(はくじゃそう)という特殊な槍も持っています。
また風火輪に乗るのもその特色です。風火輪というと、現在では哪吒太子が乗るものとして知られていますが、実は『西遊記』を読むと、明代の哪吒太子は風火輪には乗っていません。『南遊記』を読むと、哪吒と華光は戦いますが、この時、哪吒は白馬に乗っています。
その後、『封神演義』になって哪吒は風火輪に乗り、さらに金磚も持たされます。この姿は馬元帥から取ったものです。しかし哪吒のほうが有名になり、華光の信仰が衰えたため、いまは風火輪に乗るのは哪吒太子の専売特許みたいになってしまいました。
さらに、三眼ということでは王霊官(おうれいかん)のほうが有名になり、もうひとつ、二郎神にもその姿をだいぶ移されてしまいます。その結果、いま道観を守護する役割は王霊官のほうが多いですし、また伽藍神の役割も、二郎神がになうことになりました。
この結果、一部道観では馬元帥の姿は残りましたが、華光大帝としての信仰は衰えていき、福建の一部、それに広東で祀られるだけの地方神になっていきます。
さて、黄檗宗の信仰は江戸時代初期に巨大な影響をもたらしました。そのために、華光大帝の像も日本全国で造られることになります。ただ、これらの像は時に関帝とされ、また時には大権修利の像と混同されてしまいます。
仙台の大年寺に見事な華光像がありますが、これも関帝と称されている時期がありました。
<仙台大年寺の華光像>
また世田谷豪徳寺の大権像も、実は華光大帝です。さらに、曹洞宗の有名な鶴見の総持寺でも、本殿にあるのは大権修利ではなく、華光大帝です。これは自分が行って確認してきました。ちなみに、本殿も大雄宝殿という額がありましたね。
華光大帝の信仰が残る福建の福州、それに温州では、いまだに華光大帝を寺院の伽藍神とします。これは南宋から明の伝統を踏まえています。志磐(しばん)撰、雲棲袾宏(うんせいしゅこう)訂とされる『法界聖凡水陸勝会修斎儀軌(ほっかいしょうぼんすいりくしょうえしゅうさいぎき)』 を見ると、次のように書かれています。
一十八位護教伽藍、本寺華光之神、周宣霊王之神、関王之神。
すなわち、当時は華光大帝と関帝、それに周宣霊王(しゅうせんれいおう)を伽藍の神とするのが一般的であったようです。周宣霊王は、周孝子(しゅうこうし)とされる神で、当時南方では盛んに祭祀されました。
福清の萬福寺においては、華光・関帝、それに須達長者(すだつちょうじゃ・しゅだつちょうじゃ)が伽藍神となっています。
<福清萬福寺の伽藍神>
須達長者はインドの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の故事で有名です。ある意味では、元祖伽藍神です。あるいは、本来この位置には周孝子があったかもしれませんが、分かりません。いま福州と温州では、この3者が標準の伽藍神です。
シンガポールの双林寺(そうりんじ)は、シンガポールでもっとも古い寺院とされます。こちらも福建の伝統を継いでいるようで、華光大帝が伽藍神となっています。むろん、中心になるのは関帝のほうですが。
<シンガポール双林寺の華光大帝>
この像を見ると、宇治萬福寺の像と衣裳や金磚の持ちかたなどがよく似ています。双方ともこれだけ距離と時間が離れていながら、同じような像になることに驚きました。
シンガポールやマレーシアでは、いまでも盛んに華光大帝を祀ります。あと、台湾と福建の間にある馬祖(ばそ)諸島では、華光大帝を祀る廟が多いです。いまでも、いたるところに華光大帝の信仰は残っているわけです。