長谷川ゼミ第7期・学生生活ふりかえりエッセイ
 長谷川ゼミ(専門演習)では,初回ゼミまでの課題として, 佐伯胖『「わかる」ということの意味』(岩波書店,1995年)と高等教育研究会『大学を学ぶ』(青木書店,1996年)をしっかり読んで学生生活を振り返り,その結果をまとめることとしています。

私の大学生活(E)

 「大学を学ぶ」と「『わかる』ということの意味」を読んで自分の大学生活を振り返ってみる。

大学生活への失望感

 私は高校時代に大学は遊びがたくさんある楽しい所という単純な考えを持っていた。将来の夢をかなえるために大学で学びたいと大学に入ったのに、夢を現実化していく具体的な場として大学があると真剣に考えてはいなかった。1回生のときは必修科目や語学が多かったため、自分が大学でやりたい勉強はいったい何だったのかわからなくなってきた。授業は大人数で話し声がうるさく、教員は教壇に立ってぼそぼそと難しいことを言っている。これでは授業と言えないし、勉強をしようという気にもなれない。授業に出ていても聞こうとしない、わかろうとしない、参加すらしていない、ただ座っているだけであり、学生側にそうさせたのは教員側であると思って自分の非を棚に上げていた。だからただ何となく授業に出てただ何となく単位を取得するという「ただ何となく」の大学生活を1年間過ごし、大学に対しての失望感でいっぱいだった。これではいけないと思いながらもやはり周囲に流され、自分のすべきことを見失っていた。

長谷川ゼミとの出会い、そして心境の変化

 しかし1回生の終わりに2回生後期から始まるゼミのための見学会と説明会があった。中国に関係する仕事がしたいという漠然とした夢があり、国際ビジネスコースに進みたいと思っていたが、ゼミでしたいことなど明確な目的を持っていたわけではなかった。どちらかというと「楽なゼミ」を選ぼうと思っていた。長谷川先生のゼミは履修要項を読んだだけではピンとこなかったが、説明会の日程がたまたま空き時間だったため「一回見に行ってみるか」と本当に気楽な気持ちで行ったのだ。ところが先輩方のテクノセンター研修の話を聞いて、「私がしたいことはこれだ」と思い、その場で入ることを決めた。まるで合わなかったジグソーパズルがカチッと合い、全体像が見えてきたようだった。この偶然がなかったら、私の大学生活はありふれた楽しいだけのものになっていただろう。本当に長谷川先生に出会えてよかったと思う。大学への失望感でいっぱいだった私を目覚めさせ、大学生活をより良い場にしていこうと考え出すきっかけを与えてくれた。ゼミは後期からだったが、前期に長谷川先生が担当するラテンアメリカ経済論を受講した。その授業では、学生参画型授業形式に大変魅了された。「これこそ、大学生だ」と感じた。今までは聞くだけの授業形式であったが、この授業は進んで参加し、内容を理解しているという実感があった。その他の授業はやはりただ何となく出席し、初めから授業を理解しようとせずに投げ出し、要領よく単位を取得するという状況になってしまってはいたのだが、1教科でもやりがいのある授業に参加し、理解していることは友達に自慢できることだった。またそんな自分を誇りに思った。

今までの大学生活を見直し、より良いものにしていく

 大学という場は授業に出ても出なくても聞いていようが聞いていまいが関係なく、自分がどう大学という場を利用し、学んでいくかが大切であるのだが、現在の大学ではよほど自分をしっかり持っていなければ難しいと思う。現在、そう感じている学生も多いように思う。私自身、友達と大学についてや自分について話をする機会が多くあるからだ。だが、そう感じながらも行動に移せるか移せないかの問題である。この本を読んで、大学4年間を無駄にしたくないという気持ちが一層強まった。私はテクノセンター研修に参加することで行動に移せたと思っている。今回のテクノセンター研修に参加したことは、大学を自分の学びの場とする第一歩を踏み出したと感じている。これからのゼミでは同じような思いを持った同志が集まっているので、共に成長していきたい。また大学内で友達の輪を広げ、自分たちが積極的に授業に参加することで大学生活を見直しているということをみんなにわかってもらいたい。そして、大学という場を自分のために活用することを勧めたい。しかし、すべては自分次第である。自分次第で大学生活が良くも悪くも決まる。こういった大学の現状にしたのは教員側にも多少なり問題があるが、学生側がもっと授業に参加し、大学生活をより良いものにしていこうとすれば、少しずつでも現状は変わってくると思う。私は4年間を単に楽しかっただけの大学生活で終わらせたくないと思っている。そのためには「大学を学ぶ」に書いてあったようにやはり学生は声を上げるべきだ。
 しかしこういった本が出版され、問題になっているのにもかかわらず、大学側や教員の対応や姿勢が変わらないのはなぜなのかが疑問に残る。


大学生活を振り返って(S)

想像していた大学と現実の大学との違い

 私はマスコミ関係に興味があったので、初めは社会学部に入学するために受験勉強を頑張っていた。しかし、社会学部は受からなかったため、結局はとりあえず受験した全く興味のない商学部に入学することになったのだ。それでも目標にしていた関西大学に入学できたこともあり、大学の授業にはおもしろさや、将来役に立つ何かを得ることを期待していた。しかし、その期待は大きく裏切られた。はっきり言って授業は全くおもしろくない。ただひたすら、先生の難しい話を聞いているだけで、理解しているわけでもなく、1時間半がとても無駄に感じた。授業中なのに勝手に教室を出たり入ったりしていて、私は一気に授業に出る気がなくなってしまった。それどころか将来に対しても何をどう頑張っていいのかもわからなくなってしまい、ただひたすら遊んでいた。
 授業は出席しなくてもノートを友達に借りて、それをコピーして適当に試験を受ければ単位はもらえる。こんなに簡単に単位はとれるものなのだと思った。試験前になればみんな必死にノートを借りてコピーし、勉強をするが勉強といってもするのは前日である。これでは本当に大学に何をしに来ているのかわからない。高い授業料を払ってまで学んだことはなんだろう?と考えると何もなかった。いい会社に入りたいがために関西大学に入学したのではなく、純粋に勉強をしたかったのに大学の授業はおもしろくない。本来自分のしたいことを勉強できる場所が大学だと思っていたのに、遊びに来る場所という感じがしてならない。授業を履修するときも興味がある科目よりも、簡単に単位がとれる授業を選んでいるのもおかしな話だと感じていた。

長谷川ゼミと出会い、自ら学ぶ大切さを知る

 そんな中、私を変えたのが長谷川ゼミとの出会いだった。テーマや、テクノセンターへ研修に行けるということに興味があったことから説明会に参加してみたが、先輩たちみんなが生き生きとしていて学生をしています!というオーラを感じた。説明会だけなのに、先輩たちが説明会の時間を計って説明会を運営していることも魅力的だった。学生参画型授業というのは聞いたことがなかったが、説明を聞くうちに今までにない授業を受けられる気がして、多少しんどいかもしれないが思い切って長谷川ゼミに入ることに決めた。
  ゼミが始まる前にラテンアメリカ経済論で実際、学生参画型授業を体験したのだが、本当に全て企画班が企画から授業運営まで考えることに驚いた。普段より、たくさん考えたので、今までどれほど頭を使って考えていなかったのかがわかった。班で発表に向けて頑張るうちに、大学の授業のイメージが変わった。今まではすべて受身であったため、授業がおもしろくないのも、大学生活が充実していないのも大学のシステムのせいにしていたが、積極的に自分から考え、行動することで学んでいるという実感がわいてきた。授業が進むにつれて、単位のためではなくて、資料を調べることも本を読むこともすべて自分のためだと思えてきた。そして、せっかく高い授業料を払い、貴重な4年間があるのだから自分が興味をもったことは自分で調べていこうと思った。大学に対して受身であった自分が積極的に学んでいこうという考えになり、一気に大学生活が生き生きしたものになった。

お互い刺激し合える仲間との出会い

 それだけではなく、自分の学びはもちろん他のメンバーとうわべだけではなくて、お互いに意見をぶつけ合うことで生身の人間関係が築けると感じた。私は長谷川ゼミに入って、お互い持っている夢は違うけど真剣に話せることで応援しあえるし、刺激し合えるいい友達ができた。今までは授業だけでの浅い関係の友達が多かったのだが、ゼミのメンバーとは何でも言い合えることでより深い仲になれた。

残りの大学生活でさらに自分の価値を高める

 今年、実際にテクノセンターに行ったことにより、私がしたいことは何か、そのためには今、何をすればいいのかが明確になった。テクノセンターですることを決められたわけでもなく、自分自身のためになることを自分で考えてするので、本当に自分の学びにつながった気がする。そこで改めて自分から学ぶ姿勢の大切さを感じた。
  大学生活残り2年間だが、受身ではなくて、自分から学ぼうとする大切さに気づけてよかったと感じている。残りの大学生活も受身ではなく、自分から積極的に行動して、自分の価値を高めていきたい。


大学生活を振り返って(S)
―『「わかる」ということの意味』、『大学を学ぶ』を読んで―

夢見て入った関西大学

 私は、小さい頃から中国に興味があり、将来は中国で仕事がしたいと思っていた。関西大学商学部に入学が決まった時、「第2外国語で中国語を勉強し、商学部には国際ビジネスコースがあるから、ここで4年間勉強すれば将来中国で仕事ができるような知識が身に付くだろう」と考えていた。漠然とではあったが目標があり、大学では専門的な知識が学べるため、やる気は満々だった。

流されてしまった2年間

 しかし、実際入学してみると、高校とは異なる授業形態や自由すぎる環境に驚き、失望のようなものを感じてしまった。高校では授業中で先生とのやりとりをすることが多く、常に反応があった。しかし、大学での大人数の授業では、人数の多さに個人個人が隠れてしまい、先生との接点がなく、高校よりも先生が遠く感じた。学生はうるさく、日増し人数が減っていくことにショックを受け、これは授業ではないと思った。自分の学びのためではなく、単位のためだけに勉強しているような気さえしてきた。周りの友達にも流されるようになり、入学以前の私のやる気はいつの間にかなくなっていった。また私は「水泳」という逃げ道を作っていた。部活が忙しいため勉強ばかりに専念できないという気持ちがあった。2回生になった時1年を振り返って、「私は1年間何をしてきたのだろうか。このままではいけない」と思ったはずなのに、結局また同じような1年間を送ってしまった。
 私は、心を入れ替えたつもりだったのに行動できなかったのは、行動に移す方法が分からなかったためだと思う。未だ、完全に方法がつかめたわけではないが、長谷川先生・研究室に出会い、教えていただいた本に出会い、テクノセンターで多くの人々と出会い、ゼミを作り上げていく仲間に出会ったことで、私は大きく変わり、今までの自分を変えていく自信ができた。

私を変えた長谷川ゼミ

 私は以前まで大学に対し受身であり、とりあえず授業に出て、聞いているだけだった。単位のために勉強をし、自分から「学ぼう」とする姿勢ではなかった。しかし、「大学は自分から動かなければ、大学は動いてはくれない」と分かった。大学は冷たいと思っていたが、学びたいと思うことはもっと自ら動いて学ばなければならないと、今なら思える。
 大学では何のために学ぶのかという「主体の存在のテーマ」を考える場であるとあったが、そういう点では私は恵まれている。長谷川先生、ゼミの仲間に出会ったことで、将来は中国で仕事がしたいから学ぶという漠然としていた「テーマ」がハッキリとしてきた。テーマが見つかったということは、そのテーマに向かって今から動き出すことができる。また、そのテーマが間違っていたと分かっても今なら修正は可能な時期である。大学生活はあと2年も残っている。テーマ、目標、目的の大切さはテクノセンターでも強く感じたため、今後も持ち続けていきたいと思う。

「勉強」じゃなくて楽しく「学び」たい

 「学ぶ」ということに関しても、気づかされた点が多々あった。私は「この分野は興味がないから…」、「文章力はないから…」と常に言い訳を繰り返していた。今思えば、自分に能力がないと思われるのを恐れていたのかもしれない。でも、その様に言い訳をし、「自分はこういう人なのだ」と思い込むことは、できなくて当然のような環境を作り、自分を高め、伸ばすことはできないだろう。
 また、私は今まで知識を詰め込んでいるだけで、暗記主義の勉強をしていた。したがって普段使わないような数学の知識などはすぐに忘れてしまい、数学嫌いにつながった。常に「なぜそうなるのだろう」と自分のなかで引っかかるものがあれば、もう少し楽しく学ぶことができたのではないかと思う。同時に、物事を形にとらわれず、別の角度から見る力をつけたいと思った。本にある問題がほとんど分からなかったため、ショックを受けるとともに、「私の頭は固い」と感じた。解説を見たら「なんだ、こういうことか」と何度も思った。
 「大学は『学びの旅人が』出会う場である」とあり、この表現は本当に素晴らしいと思った。すべての人がそれぞれの学びをし、それぞれの学びを通して課題を乗り越えていくことはすべての人にとってプラスに働くと思う。様々な考えに触れることによって、新たな発想や考えが生まれてくることはとてもうれしく楽しいことだと思う。まさに参画型のゼミはそういう場にふさわしい。みんなが楽しく学べるような環境にしていきたい。


今までの教育課程、大学生活二年間を振り返って(T)

小、中学校において、勉強させられているという感覚があった

 僕はこの二冊の本を読んでみて大学そのものの捉え方、また自分が今まで送ってきた教育課程を省み大きな誤解をしていたことに気付きました。小、中、高校の課程を当たり前のように過ごしていたことが、これらの本との出合いによって全く違ったふうに見えてきました。
 小、中の学校教育は義務教育とされ、日本にいる子供には、教育を受ける権利があり、当時はそれに何の疑問も持たずに淡々とその過程を経てきましたが、高校受験に差し掛かった時、一つの疑問が生まれました。「自分は何のために勉強しているんだろう?」
 当時の僕には高校に対する情報をあまり持っておらず、先生や親の意見だけで考えるしかない状態だったため、成績に見合った高校を進められていたのですが、親からの押し付けられているように感じ、自分としては「楽しい」という噂だけで自分が受けた高校よりランクの落ちる学校に行きたいと思っていたぐらいでした。
 結果としては親や先生方の望んでいた高校に入ることになりましたが、そんな動機で入った高校ですから案の定勉強にも身が入らず、好き勝手やっていたように思えます。今思えば当時の自分が[高校に行く]と言う本当の意味をもう少し解っていたなら高校受験も力を入れ、母校よりもランクの高い学校に行けていたかもと感じはしますが、多分当時の自分では理解できていないだろうとも思います。

「大学は友達探すため、遊ぶための場だ」という思い込みがあった

 高校受験は先生や親にやらされているという意識が非常に高く、大学受験でさえも最初は同じような動機だったのですから酷い話です。「大学へ行く」というのは一つの選択肢であるというのは当時の自分ではよく理解していたのですが、他の選択肢が思いつかなかったのが最大の原因でした。進学塾に通った成果もあり、めでたく関西大学合格の栄冠を得られたのですが、当時の塾では受講生のヤル気を出すためか大学では高校なんかと違い「遊び放題の場」だと聞かされていたせいか、正直勉強意欲は皆無でした。また入ってみて授業を受けてみてその噂が本当だと解り完全に大学のノリに流された一年を過ごしました。

大学生活の中で、自分なりにやりたいことを見つけて、やりたいと思った

 高校生活に不満を持ちながら卒業した自分にとって、大学での出会いはかけがえのない価値あるものとなりました。二回生になると自分が大学生活で何も形に残るものがないことに気付き、自分の意思で専門学校に通い始めました。結果としては残念な結果で終わってしまいましたが、そこでの様々な年齢層の方々と接することで、学校にいただけでは学ぶことのできないような経験をしました。今まで親や先生からの一方的な考えに押し込まれそうになっていても、自分の確固とした決意の無さで何も言い返せない自分を何とか変えたいというのがその時の動機の一つでした。不合格結果を見たとき自分の中で喪失感を覚えましたが、自分がしたいと思うことは行動してみないと何も始まらないことを深く痛感しました。今までの生活の中で自分に持てる能力を鼻からないものと考え、行動に移さずに終わったこともあるのではないかと考えるようになり、後二年しかない大学生活で一体何を得るのかということをもう少し真剣に考え、残り僅かしかない学校生活をどう活かすかが重要だと思います。

大学に行くことは自分を高めるためであり、決して受身のものではない

 実際、最初は大学には「行きたいから行く」よりも「行かされているから行く」感覚の方が強く、今思えば相当贅沢な考えだったと思います。
 元々勉強自体さほど好きではなかった僕ですが、「解る」というすばらしさは感じており、ただ理解できないことは得意、不得意といった枠に収めてしまうというような、ある種の「逃げ」の考え方が無意識に上手くなっていっていたのだと思います。この本を読んで自分で学ぶことの大切さを知り、自分の生活を省みると消極的な部分が多く感じられ、義務教育を精一杯頑張り抜いたのかというと若干疑問が残ります。
 一回生の時、「大学生活なんてあっとゆう間やで」という言葉を先輩から聞かされていましたが、その言葉の意味が解った気がします。それこそ自分次第で良くもなり悪くもなると思うので、今後の方針としては、自分はこれがしたかったんやと強く思えるようなことを見つけ、それに向けて学んでいきたいです。かなり抽象的なことですが今までなるようにしかなってなかった自分の生活を思えば、少し前進ではあると思います。

大学教育は教師と生徒が学び合うものだ

 また大学の教授は「教える」という能力は誰もが長けていると思って大学に入学し、実際に授業を受けてみて、何か物足りなさを感じていた自分にとって、大学の教授は研究と教育の二つの顔を持っているという事実は、自分を高め、自分の求める教えを取捨選択するという意味で、大学の講義自体の見方が180度変わった気がしました。
 教育というのは、教師が生徒に一方的に知識を与え、それを生徒が受け取るものだという考えが根本的に間違っていることを知り、そうやって学んできた学校生活を振り返ると、もしそういった態度で今まで授業に臨んでいたなら今の自分が変わっていたのだろうかと思うと少し残念な気がします。

将来の自分について見つめなおす

 自分を見つめなおす機会というのは数え切れないくらいありますが、大学では、自分と同じような境遇の友達と過ごす時間がほとんどで、将来のことについては保留にしてしまっていました。自分にあった仕事を探すというのは、考えて分かるものではないと自分に言い聞かせて、ないがしろにしていましたが、アルバイトや先輩の話を聞くと、簡単に決めてしまえるものではないと分かったので、真剣に自分を見つめ直しじっくり見つけたいと思います。
 まずは残された大学生活をいかに充実した生活にするかだと思います。「学生なら何でもできる」、「学生なら失敗しても先がまだあるから大丈夫」。今まではそういう自発性に欠けていたんだと思います。「時間がないから」、「金がないから」と現実だけしか見えてなかったように思います。「やってみなければ分からない」精神が薄いのかもしれませんが、それというのは今までの学生生活過程での自己決定することの欠如に端を発すると思います。今思えば大学生活自体親の仕送りなどで、そういった状況から抜け出せていないからという理由で、時間だけが過ぎていく生活になることもあり、自らの積極性を見つめなおすべき時期にあると思います。

「学ぶ」とは生きるための知恵を習得することである

 「学ぶ」ということは何なのか?それは自己を高め、生きるための知恵を身につけていくことであり、人間が生きていく中で絶えず行うべきことだと僕は思います。完璧な人間というのはいないと思うので、完璧な人間になるというよりは自分らしく幸せに生きられることが自分の中での最大の目標です。
 これからゼミ生活が始まる中でそういった自分の生活の甘さを克服し、視野を今まで以上に広め、自分の自信へと繋げていきたいと思います。


Editor: Shin Hasegawa
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