長谷川ゼミ第8期・学生生活ふりかえりエッセイ
 長谷川ゼミ(専門演習)では,初回ゼミまでの課題として, 佐伯胖『「わかる」ということの意味』(岩波書店,1995年)と高等教育研究会『大学を学ぶ』(青木書店,1996年)をしっかり読んで学生生活を振り返り,その結果をまとめることとしています。

自分から動き出す(M)

(1)学生生活を満喫できない私

 関西大学に入学して2年が経ったが、入学したころを振り返ってみると、私は受験に失敗したことばかりを思っていた。第一希望の大学に落ち、ほとんどの受験した大学に落ちた私はどこか関西大学に対して否定的であった。入学して一ヶ月くらい経ったころ、高校のころのほうが楽しかったと後ろ向きに思うことが多く、受験に失敗せずに行きたいところに行けていればもっと充実した生活が送れていたのかなと、新しい大学生活の不満を大学のせいにばかりしていた。高校から大学への「カルチャーショック」を受ける毎日であった。高校を卒業するころ大学に入ったら国際ビジネスを学ぼうと張り切ってはいたが、実際に大学に入ると、自由の幅が広がり何をするにも個人の意思に任せるという中で、私はその自由に甘えてしまって自分から何かを学ぼうとすることはなかった。毎日何かに一生懸命になることもなく、ただ同じ毎日を繰り返していた。友達と遊んだりする楽しさはもちろんあったが、そこに学生生活を満喫しているという充実感はなかった。毎日授業はあるけど行くも行かないも個人の自由で、学校に居場所があると感じたことはなかった。

(2)指示待ち人間から自分で考える人間に

 そんな自分自身が嫌で変わりたいと思って、「強制」というかたちでもいいから自分の打ちこめるものを作りたかった。そのことも理由で部活に入ることを決意した。練習に出なければいけないという強制があり、それに参加することで一生懸命になれるものが見つかったと思った。本当は自分の好きなことは強制されてするものではないと思うけれど、そのときの私にはそういうしなければならないと言われないと、何もすることができなかった。そのときの私は、『大学を学ぶ』のなかで表現されている「自分で考えない指示待ち人間」であったから、強制されるものがないと自分で考えて行動することができなかった。しかし、初めは支持待ち人間であったけれど、入部したことによって私は変わっていった。まず、自由な時間が減ったことで、時間の貴重さを知り、限られた時間を要領よく集中して使うようになった。時間をどう使うか自分次第であるということに気づき、忙しいからこそダラダラする時間がもったいなく感じてより時間を有効活用できるようになった。そして何より、一緒の目標にむかって頑張れる仲間ができたことがとてもうれしく大学に居場所ができたと感じた。時間を有効に使えてくるようになると、部活だけに一生懸命になるのではなく、大学の授業も頑張って文武両道を目指すようになった。自分から何か始めなければ何もないというのはその通りであり、私にとって部活に入部したことは大学生活の大きな転換点となった。

(3)自分次第で大学生活は変わる

 このころから私の中で変わった考えは、大学は自分を変えてくれないということだ。受験勉強をしていたころの私の考えは、より偏差値の高いところに行けたらそれでいいという考えで、偏差値の高い大学のほうが良い大学だと決めつけていた。そういった大学に行けば自分は変われると思っていた。今思えばそう思っていたことがとても情けないけれど、大学がその人の社会に出てからの価値を決めると思っていた。偏差値でしかその大学の価値を判断していなかった。しかし今はそうは思わない。どの大学に行こうが充実した生活が送れるかどうかは結局は自分次第だと気づいた。『「わかる」ということの意味』に表現されている「何か自分からやってみようとする、「やる意思」が、ものの見え方を変える」ということを部活に入部したことで実感した。大学へ行って真面目に授業に出ることだけをしていてもいけない、大学という時代をもっと自分で考えて積極的に学んでいかなければならないと思うようになった。

(4)仲間がいると世界が広がる

  『大学を学ぶ』に、「何よりも自分の頭を使って考えること、そうした考察を他者のそれとぶつけていくこと。そこから討論や論争は始まる。独りよがりでない世界がそこにはひろがっていく。他者の考えと照らし合わせてこそ、自己の新たな発見もともなうだろう」とある。私は自分の意思を持って何事に対しても自分で考えるようにはなっていたが、それをぶつける相手もぶつける場もなかった。しかし、長谷川ゼミに入ったことで「自分」を表現できる場ができた。長谷川ゼミに入ったことで自分一人では広がることがなかった世界にも興味を持つようになった。長谷川ゼミに入って半年以上がたったが着実に私の世界は広がっている。これから私は仲間とともに自分の考え方・世界観を確立させていきたい。部活に入ったことによって大学に対しての自分自身の考え方が変わり、長谷川ゼミに入ったことによって「自分」を発揮できる場ができたと思う。部活もゼミも自分からしてみようとしたからであり、自分から動き出さないと何も始まらないと本当に思う。


大学使用術 ―自己を開拓け―(T)

 大学生活を振り返ってみるという試みは、今までしたことはなかったが、今回『「わかる」ということの意味』『大学を学ぶ』を読む中で「学ぶ」ということが何か?「大学」とは何か?を考えさせられた。私の小学生からの学生生活を考えてみると、与えられたものをただこなすだけであり、「わかる」というよりは、「要するにこうだ」とか「とりあえずこうやればいい」というように、「わかる」というレベルには、程遠かったのかもしれない。考えてみると、学校で教えられる授業が、理解を求めるよりも、どれだけ正確に記憶したかに重点を置いているため仕方の無いことだったとも言える。また、小・中・高では、その傾向が強いのだ。しかし、大学は状況が全く違う。何をしようとも個人の自由なのであり時間割りも自分で組み、授業も自分で選択するのである。さらに、授業に出るも出ないも、個人の自由に任されている。また、自由な時間を多く持つ事ができるのも大学生の特徴と言えるだろう。つまり少なくとも大学の4年間は、自由な時間が約束されているのである。この時期の4年間は、貴重なものでありその人の自己の形成に大きく関わると言っても過言ではない。多くの人と語り合い、触れ合う事で周りの人間から様々な影響を受け、その中で、自己というものを形成していくからだ。しかし、現実の世界に目を向けてみるとこの貴重な時間を無駄に過ごしているケースが非常に多いということがあげられる。

 私は大学に入学する前から、授業を聞かない学生が多いとは予想していたが、その予想をはるかに超えていたので驚いた。特に出席を取らない授業では初回のガイダンス以降は受講者が大幅に減るのである。さらに大教室での授業風景は、教授と学生が完全に分離している。学生は、何かを学ぼうとするために教室にいるのでなく、ただ単位が取りたいだけで教室に足を運んでいるのである。だから、授業の内容には全く関心を示さないのである。また、教授の方は自分の研究したことをひたすら喋りつづけ、たとえ、学生がきいていなくてもおかまいなしというありさまだ。大学という学びの場は、本来高校までの答えをそのまま覚える暗記主義的なものと違い、事実に対して自分がどう思うかについて考えたり、話し合ったり学生と教授が共に創り上げていくことが望ましいのだ。そのなかで、自分のしたいことを見つけ、社会に出て行くための準備をする場であるのだ。だから、4年間という限られた時間がどれだけ貴重なものなのかを再認識しなければならない。

  大学生になると、全ての事を自分で選択して決めていかなければならないため、何をしたらいいのか分からなくなる学生が出てくる。今までは全て与えられたものに対して取り組むだけでよかったが、大学では自分から何かを積極的に取り組まなくてはならないという側面をもっている。これは授業に対する取り組み方においても同じである。「おぼえようとする力」や「思い出そうとする力」よりも「わかろうとする力」が必要となってくるのだ。今までの自分の経験と結びつけて改めて「納得する」ということが大切なのだ。ものごとの「わかる」ということがどのような事なのかについても理解しておくべきであろう。「わかる」ということは、ある新しい事柄と自分の中にあるすでに知っていることを結びつけて、新しく自分の中に取り込んで納得することである。これは、人間にとって最も基本的な学びの体系であると思う。もちろん、このようなことを大学の授業の中で体感することもできるが、これを最も体験できる場はゼミであると考えている。ゼミは、普通の授業と違い少人数制で、しかも大体同じようなことを学ぼうとする者が集まってできた組織だからである。多人数の講義では「お客さん」感覚でいたとしてもゼミで共同作業の一員として、課題に取り組むことで、お互いに意見を交換することができ、新しい新鮮な考え方や一つの事実に対して実に多くの解釈があることに気づいたりする。今回のゼミ合宿で行った「ラベルワーク」も私には非常に興味深いものがあった。ゼミで何をしたいのかを決めてから、自分たちのゼミのテーマを決める事が目的であったが、結果として社会に必要とされる人間がどのような人物であり、また何をすべきか?という問いにまで答えるものになっていたことだ。一つの問いに対して一つの答えを出そうとするのでなく、あらゆる面から検証することで、多くの考えが出てくる。その中には自分の中でも身近に感じる考えがあり、そこを通して一歩ずつ答えに迫っていくというプロセスは『「わかる」ということの意味』にも書かれていた「わかっていること同士が結びつく」ことと同じである。一つの問いに対して一つの答えでは限界があるというのは、言い換えると一つの問いに対して一人の考えでは答えが出ないことでもある。お互いに論じ合う事がお互いの理解につながるのである。やはり、ゼミはこのような場を生みだすことのできるものなのだと実感した。

  このように大学という場は、自分自身の使い方によって価値が左右される。私の最近の体験としては、授業に関してもゼミで得た新しい発見があるのではないかと思い、とりあえず1つ1つの授業を真剣に聞いてみた。すると、真剣に聞くことで話の先が気になってしまうのである。『大学を学ぶ』にも書いてあるように、確かに教授というのは人に教えるのが下手かもしれない。坂書が非常にわかりにくかったり、字が汚すぎて読めない字を書いたりすることもある。しかし、教える内容は高校などに比べれば、専門的であり教授によって全く違い個人の見解が含まれた授業をするため、オリジナリティーがあって面白いのだ。やはり、学ぶのが学生であるならば、学生自身の意識の問題を変えないことにはどうしようもない。まずは聞いてみてから価値判断をしたらよいのではないだろうか。そもそも聞かなければその話が面白いのかどうか判断もできないのだ。また、大学は自己を磨く期間であり、自分の方向性を探る場でもある。だから、自由な時間が与えられていること理解しなければならない。この4年間はいかに大学を利用するかで大きく変わると思う。たくさんの情報がある中で自分にとって何が必要なのかを判断して、自分というものがどうありたいのか。をじっくり考えるべきではないかと私は思う。


大学生の学びと自由について(M)

●「勉強する」と「学ぶ」の違い

 「勉強する」ということと、「学ぶ」ということはどういった違いがあるのか。辞書で調べてみると大差はなかったが、「学ぶ」には知識や技能を身につけるという意味があり、「勉強する」には物事に精を出すこと、努力することという意味があった。しかし、私は言葉の意味より例文に興味をもった。「学ぶ」は『大学で心理学を学ぶ。同じ学校で学んだ仲間。』とあり、「勉強する」には『徹夜で勉強する。』とあった。言葉の意味には大差はないが、言葉の持つニュアンスはすこし違うようだ。「学ぶ」には能動的で自主的な雰囲気が伺えるが、「勉強する」には受動的なやらされているという感が伺える。

●高校生までは「勉強する」

  私が今まで実際に口にしたり耳にしてきたのは「勉強をする」という言葉だ。目指してきたのはテストで良い点を取ることだ。そうすれば親や先生は褒めてくれる。板書を写し、単語を覚え、解き方を頭に叩き込む。それを無駄だと思ったことはないし、直接的でなくても自分の思考能力を養う結果になっているはずである。しかし、その勉強法の最終目標は大学入試で合格を勝ち取るためであり、大学生になってからのこの2年間は今までほど役にたってはいない。多少語学の勉強はしなければならないが、主となる専門の学問においてはそれでは身につかない。『大学を学ぶ』の筆者は『自立した人間として知的に生きていくのに必要な学力、認識力を形成するために「暗記型」学問から「探求型」学問への転換が必要である』と述べている。外側から与えられたものをこなすだけではなく、主体を自分の内側に変えていかなくてはならない。インターネットで検索した情報をそのまま引用してレポートとして提出しても単位は取得できるであろうが、その情報を一度自分というフィルターに通してみてそこからさらにどのような情報が必要なのか、自分はどう考察するのかというところまで考えていかなければ何も身につかない。

●大学生からは「学ぶ」

  私がなぜ関西大学に入学したのかというと、ほとんどの学生と同じように偏差値で振り分けられたからである。そこに祖父・父共に関大出身、自宅から30分足らずという立地条件が加わり、なんの疑問もなく入学した。そもそもなぜ大学進学という道を選んだのか。それは特にやりたいことがなかったからである。大学生になれば高校までとは違って、自由が与えられる。サークル活動・アルバイト・恋愛。私が憧れていたものが大学には詰まっていると信じていた。実際この2年間でサークルで一生付き合っていきたいと思えるような友人に出会えた。周りから見ればたいしたことではないのかもしれないが、サークルの運営について真剣に考えたり意見したりすることは、自分のなかでとても大きな財産になっていると思う。はじめはお小遣い稼ぎ程度の感覚で始めたアルバイトでも、いつしか重要な社会経験だと考えが変化し、真剣に取り組んできた。大学の講義に集中することは多くなかったが、それ以外の場所で多くのものを学んでこれたと考えている。講義については完全に受身だったが、ゼミ合宿で驚かされた。ゼミ生は全員が「自ら学ぶ」姿勢だった。始めは少し戸惑ったが彼女たち姿勢を見ていく中で、私の中では受身が当たり前だったが、自らの姿勢も徐々に変わってきた。ひとつのテーマについて議論をしていくときに、彼女たちの意見を聞いているうちに驚くほど自分の意見が確立していったりする。サークルやアルバイトも自ら進んで活動しているから楽しいのと同じように、大学での授業も能動的になると得るものが多い。2年もたって始めて気がついたことだった。

●自由と責任

  大学では授業もアルバイトも服装もほとんど全てが自由である。大学からは「大人」として扱われ、親や社会からは「学生」ととらわれることは制約がほとんどないことを表していると思う。しかし「自由」には必ず「責任」が伴ってくるということを忘れてはいけない。この自由は、自分のやりたいこと・自分の適性・生き方を考えるための時間なのである。


勉強から学びへ(R)

1、『勉強』と『学び』

 高校までは、先生から一方的に教えられ、それを覚える、という『勉強』でした。一方大学は、与えられた情報に対し疑問を持ち、自ら調べたりして学ぶ場所です。しかし私は、大学に入っても『学ぶ』ということがよくわからず、講義を聞いてもその内容を覚えようとするだけで、高校までとあまり変わりませんでした。

2、活かせなかった学びの場

 一方的なものではない大学での最初の授業は、一回生での基礎演習でした。『大学を学ぶ―知への招待―』(高等教育研究会編 青木書店)に「多人数の講義では「お客さん」でいたとしても、ゼミ・演習では共同作業の一員として、課題へと立ち向かっていかなくてはならない」と書かれてあるように、基礎演習では先生の講義をただ聞くのではなく、グループを組んで自分達が授業を作るといった、仲間達と協力して『学ぶ』ことを目的とされていました。しかし、あまり満足のできる発表をすることはできませんでした。
 中学生のころ、この基礎演習と似た、4、5人のグループを作り、テーマを選んで自分達で発表するという授業も二、三度ありました。普段聞いているだけでよい授業ばかりだった私たちには、突然自分達に授業を任せられることとなり、何から始めれば良いのかがわからず、とまどったことを覚えています。発表の時、皆からの質問にあまり答えることができなかったことが残念です。本などに書かれてあることに対しあまり疑問を持たず、書き写したものをそのまま読み上げるだけで、本当に理解していなかったため、深く追求されると答えることができなかったのです。中学校の時の発表も、大学での基礎演習でも、先生に全く相談せず、自分達だけで悩んだのが失敗の原因の一つだったのではないかと思います。

3、『学び』の実感

 大学で、高校までと大きく違ったのは、レポート試験が多いことです。これまでの、暗記すればいい試験とは異なり、自分の文章を作らねばならず、レポートの書き方もよくわからなくてとまどいました。レポートを書くためには、本を読まなければなりません。今までにあまり利用しなかった図書館に、頻繁に足を運ぶようになりました。このように、自ら調べたりして、レポートに取り組むうちに、これが今までの『勉強』ではなくて、『学び』なのだと、少しわかり始めた気がしました。

 大学で最も、これが『学び』なのだ、と実感したのは、二回生での国際投資論でした。この国際投資論の授業形態である学生参画型授業は、一回生での基礎演習と似ていたのですが、少し違いました。基礎演習では、聞いている側の学生達が、何かを発言するということは、ほとんどありませんでした。しかし、学生参画型授業では、聞いている側もどんどん発言し、その発言を聞いて発表している側もさらに考えてゆくという、全員が参加することのできる授業でした。

 『「わかる」ということの意味』(佐伯胖著 岩波書店)に書かれてあるとおり、私たちは「外界の変化になりたい」のだと思います。一方的な授業では、私たちが変化の原因にはまず、なることはできません。ところが、学生参画型授業では、発表するだけでなく、誰でも発言ができるので、変化の原因になり得るのです。このことは、私たちにやる気を与えてくれます。

 学生参画型授業で、自分達で調べ、また疑問が出てきて仲間と話し合ったり、さらに本で調べたりする。『学ぶ』ということはこのように終わりがなく、続いてゆくものだと知りました。また、これまで先生は学生に一方的に知識を与える人であったのが、学生参画型授業では、共に学んでゆく人なのだと感じました。発表に行き詰った時、先生に質問をしに行けば、ヒントを得たり、さらに思わぬ疑問が生じたりもしました。先生の助言を得たことで、自分達の発表を、さらに奥の深いものにできたと思います。無理やり暗記したことは、すぐに忘れてしまうことが多いですが、自分達で調べ、学んだことは、長い間頭に残ると思います。

4、大学を活用する

 大学は自由度が高い場所なので、自分のやる気しだいで活用できる場所となるはずです。これから先、どの講義においても、与えられた情報をただ暗記するのではなく、興味を持ったところ、疑問に思ったところなどは積極的に図書館などを利用し、将来生かすことのできるような学びをしたいと思っています。


大学生活を活かすのは自分次第(M)

自分から学んでいくことで世界は広がる

  『大学を学ぶ』『「わかる」ということの意味』を読んで学生生活をふり返ってみると、本に書かれている内容と、自身の実体験とを結びつけて考えることができました。

 私は、高校を卒業してとりあえず大学に入学して、大学一回生のときは大学を無事卒業するためだけに授業に参加し、先生が黒板に書くことをノートに写すという受身の姿勢で授業に参加していました。先生が説明していることに興味や疑問がわくこともなく、毎日の授業はつまらないものでした。私は何のために大学に来たのか、このままの大学生活でいいのか不安でした。単位を取るために暗記したことは、テストでは書けても自分の中には何も吸収されていません。「わかる」ということは、実は、「わかっていること同士が結びつく」ということにほかならないと、『「わかる」ということの意味』の中に書かれていますが、授業での内容を与えられたものとし、そこから応用をきかせて考えることはありませんでした。今まで単位を取れている科目について、私はその内容をわかっていたつもりでしたが、本当は入ってきた内容を脳に貼り付けていただけで、内容を噛み砕いて理解していなかったのです。‘優’の評価を取った科目の内容を説明しようとしても、テストのために一生懸命覚えた単語が一つ二つ出てくるぐらいです。

 二つの異なった授業で、同じテーマの説明があったとき、片方の授業では定義や理論の書かれたプリントが配られ、それを覚えるだけでしたが、もう一方の授業では身近なものに置き換えての説明がされており、とても受け止めやすく、ただ覚えるだけでなく頭の中で整理して納得することができました。今まで、覚えることでわかったつもりでしたが、「覚える」ことは「わかる」ということに決して結びつかないと知りました。

 私がそれまで受けていた「覚える」だけの授業は、「もっと知りたい・どうしてこうなっているのだろう?」という思いが生まれない授業でした。「わかる」ために、わかろうと参加している授業は自分から進んで参加しているので、「そういうことだったのか・だったらここはどうなるのだろう?」というような思いが生まれる授業でした。今考えてみると、「覚える」ためだけに受けていた授業は、授業に参加していたとは言えず、ただその授業に出席していただけでした。出席していただけの授業では黙々と耳と手を動かすだけのつまらない時間でしたが、自分からわかろうと参加している授業では、自分の頭を使って納得するからこそ得るものが多く、毎回の授業が楽しく充実したものでした。今まで知らなかったことを授業で初めて知り、そこから新たな疑問や興味が出てきて、世界が広がっていくのだと感じました。

真実を見ることで世界は広がる

 2004年の夏に中国テクノセンター研修に参加したのですが、最初は参加しようかどうか悩んでいました。元々積極的な性格ではなく、研修に行く大きな目的もなかったので、参加しようという強い意思はありませんでした。しかし、大学生活一年を過ぎて、このまま同じように毎日を送って、大学を卒業したときに私に何が残るのか、自身を持って四年間で学んだと言えるものがあるのか考えてみると、自分には何も残らないのではないかという不安がありました。「研修に参加することで得られるものがあるかもしれない、とりあえず行ってみよう。何か変わるかもしれない。」という思いがあり参加を決めました。実際にテクノセンターに行ってみて、それまで先輩からも色々と教えてもらっていましたが、聞いていたことと自分の目で見るものは、やはり違うことも多く、体験して初めて知ること・感じることがありました。ワーカー達の仕事を一緒にやってみると、聞いていたよりも大変だったのですが、一緒に働いている時間から学ぶことは多くありました。もし、このテクノセンター研修に参加していなかったら、研修をきかっけに開いた世界は見えていませんでした。

大学時代の価値は自分で作る

  『大学を学ぶ』の中にも書かれていますが、価値は、大学そのものにあるのではなく、学生がどのように大学(あるいは大学時代)を活用し、自分に「付加価値」をつけたかによる。大学時代は中学・高校時代と違って、何事も自分から進んで始めなければ、何も実りのある生活は送れないということがわかりました。自分から進んで参加するようになった頃から、大学に行くのが楽しくなり自分が大学で学ぶべきことがはっきりわかってきたように思います。

  入学当初は、なぜ関西大学に入学したのかという後悔の気持ちもありましたが、今は大学に行くのが楽しく関西大学に入学してよかったと心から思います。残りの大学生活では、今興味のあることを突き進んで調べて、大学卒業後の進むべき方向を決めたいと思います。社会に出るまでの四年間の大学生活、今しかできないことに挑戦していきたいと思います。


大学を利用しよう!!(K)

 私にとって大学は行かなければならないという義務感により授業を受けていると言うのが本音である。

一回生の時、真面目に授業しか受けていなかった私

 一回生の時は学校に行って一緒に授業を受ける友達を見つけて毎回聞いても分からないような内容の講義にもきちんと出席して、学校が終わったらバイトに行って、語学の宿題があれば宿題をして・・・といった生活の繰り返しだった。高校と全く授業環境や雰囲気も違い、大学の授業の適当さにがっかりしたのをよく覚えている。先生は大抵講義時間に遅刻してくるし、始まって30分くらいで終わる講義もあるし、本当に「大学ってこんなもんか―」と思ったものである。楽しい講義や授業は何だったかと今質問されても答えられないと思う。私にとっての大学は友達とおしゃべりしたり遊んだりする場所となっていた。大学生活一年を終えて成績を見ると単位も落とさず、自分では満足の成績だった。こんなに簡単に単位もらえるのなら、授業サボって要領よく単位を取っている人の方が得じゃないかと思った。

二回生の春学期、授業に魅力を感じなくなってしまった私

 二回生になった私は少し変わった。一回生の時のように全部きちんと授業に出ないようになった。専門学校に通いだしたという理由もあるが、大部分は授業に出ても意味がないと思い始めたからである。履修を自分は絶対これだけは取っておきたいという授業以外は友達にやってもらった。でも、自分の取りたい授業だけを自由に取ることもできないのだと知り、がっかりしたのも事実である。仕方なしに取った授業にやる気が起こるわけもない。しかし、2回生の後期から始まる演習の仲間と4月に知り合って時々集まるという楽しみが増えてうれしかった。時々先生からイベントの誘いもあり、授業運営に携わったりすることもでき、とても良い経験になったし、大学に対しての視野も広がった。それにより、先生の立場も少し分かったような気がした。授業をすることの難しさも分かった。それと、授業をすることの楽しさみたいなものも感じた。

二回生の秋学期、演習が始まって「大学生」を楽しみ始めた私

 演習が始まってからの大学生活は私を大きく変えた。少しずつ少しずつ何か、今までの講義を聞いて得た知識とはまた違う大切なものを学んでいると感じた。一週間ごとにある課題はしんどい時もあったけど、やりがいがあった。絶対やってこなければならない物はやらなければと思う。高校までの宿題のようだ。でも私は自主学習よりもその方がやる気が出るので好きなのだ。むしろ、やってこいと言われたことしかやってこない人であった。いわゆる「指示待ち人間」だ。でもそれを先生からではなく、仲間から言われるのは今までになかった。なんとなくだが、先生に言われるより、友達に言われる方が、迷惑かけたらダメだという気持ちが大きくなるものだった。そして、私が一番演習っていいなと思ったことは、自分の意見が言えることである。あんなに自分が思ったことを全部言える場は大学に限らず、今までなかった。言い返してきてくれる子もいなかった。そんな関係の友達もできてすごくうれしかった。

 また、とても大事なことに気づかせてくれたのも演習である。分かることの楽しさ、おもしろさ、うれしさである。私にはまだまだ分からないことがたくさんあり、新しいことを知るたび自分が一つ成長したみたいでうれしかった。不思議だがなぜかこんな単純なことが普段の講義では気づかなかったし、感じなかった。そして、分からないことを分かろうとする気持ちが大切であるということが分かった。人に調べて来いと言われたものだけを調べてくるのではなく、自分が少しでも疑問に思ったことや、不思議に思ったことがあればそれを調べるようになった。そして、自分に興味のあることはどんどん調べていくことも大切だということも分かった。少しずつではあるが、「指示待ち人間」ではなくなってきているのではないだろうか。また、そうしていくうちに今まで思ったこともなかったけれど、自分はこんなこともやってみたいんだという将来のことも考えるようになった。でも、それらのことを分かったと言っている私だが、それらを実行しなければ意味がないということも分かっている。今の私はそれらを100%実行しているわけではないのでダメだなとも思う。

これから大学で真に学ぼうとする私の気持ち

 これから3回生になったらもっともっと分からないと思ったことを分かったにしていきたいと思う。履修もきちんと自分ででき、自分が取りたいと思った授業を取った時間割なので、がんばってそれらの講義を自分の知識にしていきたい。

 このように大学生活を振り返るともったいない時間を過ごしていた時期もあったなと思う。でもこの2年間で大分自分が成長したなとも思う。これからの2年間はもっともっと大学生活を有意義なものにしていきたい。


今までの私、これからの私。(M)

(1)高校までの受動の意味

 私は、小学校から高校にかけての「やらされる勉強」が必ずしも間違っているとは思っていない。「子どもの権利条約」をみても分かるように、社会一般からみると18歳までは子供なのである。小学生、中学生で自分の将来を見据えてそれに向かって日々精進しているというケースは少ないと思う。それゆえこの時期の子供というのは不安定で流されやすく、ある程度制約というものを設けなければ悪い道へ足を踏み入れかねない危険性を孕んでいるからである。高校生になってくると、多少自分の将来について考え始める子も増えてくるだろう。しかしそれでもまだ圧倒的多数の子はその日その日を生きるのに精一杯で、大人と呼ぶにはまだ遠いと思われる。現に私がそうであったように。小学校、中学校の頃は親や教師に言われるがまま勉強した。「大学を学ぶ」の中にもあったように、全てはいい高校に進学するため。私はそれがまるでゴールであったかのように、高校では勉強の「べ」の字もしなかった。その結果大学進学の際につまずくことになったのは言うまでもないことだが、あの頃の私は大学へ行って何の利点があるのかとよく考えていた。しかし逆に、大学へ行かずに何をするのか、それに代わるような熱中している何かがはたして私にはあるだろうかと考えたとき、自分には何もない、大学でその何かを見つけるしかないと思った。こういう子は意外に多いと思う。

(2)大学からの能動の意義

  高校までの「やらされる勉強」に慣れてしまうと、「自分から学ぶ、発見する」ということが分からない。今までは全て、こうやればこうなると教えられてきた。やらされることは簡単である。それをただ機械的にこなせばいいのだから。そのことを痛切に感じたのがアルバイトでのランク制度である。入ったばかりのころは、右も左も分からないことばかりなので、先輩に「何したらいいですか」「手が空きました」と指示を煽って言われたことをすれば済んだ。しかし、仕事の内容を覚え、ある程度自分で動けるようになるとランクが上がり、周りから期待される働きも変わってくる。後輩ができ、自分はもう「指示待ち人間」であることは許されなくなる。自分で仕事を見つけ、指示し、効率よくこなすためにはどうすればよいかを考えなければならない。こういう立場になって初めて受動の気楽さ、能動の大変さを思い知ったのである。しかし、大変だけれどやりがいがある。能動の良さはそこにある。大学からは自分で問題を発見し、解決する。解決までのわかろうとするプロセスも含めて学びである。本の中でも何度も挙げられていることである。しかしこの2年間私はそれをしてこなかった。授業に出てもただ座っているだけ、置物同然だった。本当に勿体無いことをしたと思っている。

(3)自分を検証

 問題を発見し、考え、解決するにはエネルギーがいる。わかろうとすることはある意味大変で、億劫である。面倒くさがりの私は、今までそうしたエネルギーを使うことを嫌がった。どんな人でも仕事をした分だけその見返りを求める。その先に自分にとって有益な何かがあるからこそ頑張れる。今まで私が問題発見やわかろうとすることから目を背けてきたのは、大変さの先にあるやりがい、喜びを知らなかったせいかもしれない。私はゼミに入って正直他のゼミ生のエネルギーに圧倒された。と同時に自分にもそのエネルギーが欲しいと強く思った。

(4)これからの展望

  大学生活の半分はもう既に過ぎてしまった。今までの2年間をどれだけ悔やんだところで、過ぎた時間は戻ってこない。ゼミに入り、今こうして反省を含め、振り返る時間が持てただけでも意味があることだと思う。今はまだ自分の将来に対し。て漠然としたイメージしか抱いていないが、これからゼミの仲間と色々なテーマに対して話合い、協力し、何かを作り上げる作業は、どんな職業に就こうとも、社会に出てからきっと役に立つことだと信じている。エネルギーを持った自分は他の人から見てもきっと今とは違った顔をしているはずだ。そして企業もそんなエネルギーを持った人材を求めているに違いない。残りの2年間を実りあるものにするため、「わかろうとする力」をもっと育てていこうと思う。



Editor: Shin Hasegawa
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