『大学を学ぶ』感想文から学ぶ


200を超える感想文

 「自ら疑問を抱いて解決策を求めていく。この一見当たり前の学び方が、正直言って今の自分には大変難しい。学びを理解することはできても、感謝して賞味する本当の意味での文化的実践にはまだ到達していない。学びを常に受験のための、資格取得のための、といった手段にしてしまっていて、自分のために学ぶといった目的になかなか転換できないでいる」。

 これは私のゼミ生が『大学を学ぶ』[1]『学ぶということの意味』[2]を読み、書いた感想文の一節である。学びについての苦悩がみごとに表現されている。私は大学とは何か、学びとは何かを考えさせるために、担当する基礎演習(第1部1回生向け導入期教育科目、40-44名)、社会科学概論(第2部1回生向け導入期教育科目、97年度88名)、ゼミ(演習I、98年度3回生12名)において『大学を学ぶ』の感想文提出を課題としてきた。

 『大学を学ぶ』と出会ったのは、96年度の基礎演習で「大学とはどういうところか」「大学で学ぶとは何か」を教える手段を探している時であった。学生の気持ちに寄り添って、大学と大学教員が抱えるマイナス面も含めて、現状とあるべき姿を率直に語りかける『大学を学ぶ』は、私が必要としていた本であった。早速『大学を学ぶ』を読んでの感想文を基礎演習の課題とし、これ以降私の担当する基礎演習では毎年恒例となった。このとりくみの特徴を挙げるとするならば第1に、提出を夏休み明けとしたことである。夏休み中に作成するというタイミングは、4月からの大学生活を振り返りながら読むことができる点では効果的であった。第22に、しっかり読んでもらうことを目的に、章毎に考えさせられた文章や疑問に思った文章を引用させ、それぞれについて感想を付けさせる形式で提出させた。これにより、学生が反応した文章が一目でわかり、提出者全体の傾向を把握・分析しやすくなった。第3に、学生と著者との交流と著者への情報提供を目的に、感想文を高等教育研究会に送付し、著者から寄せられた返事を学生に返した。学生はまさか返事がくるとは思ってもいなかったようで、毎年驚き感激する。

 また、1回生にとって4月から始まった大学生活の折り返し地点である夏休みの課題として『大学を学ぶ』が効果的であるならば、大学生活の中間地点である3回生のゼミに入る際にも感想文を課題として、これまでの自分の学びを振り返り、これからのゼミでの学ぶ姿勢を確立する機会になるだろうと考え実行した。基礎演習と異なり『大学を学ぶ』に加えて「学びとはなにか」を扱う『「学ぶ」ということの意味』もあわせての読後感想文とし、ゼミでそれぞれの学びに対する思いを共有することを狙いとして、ゼミで発表をさせディスカッションも試みた。

 こうして現在までに200を超えるに至った『大学を学ぶ』感想文は、学生の思いと大学の現状をリアルに描き、これからの大学と授業のあり方についての多くのヒントを与えてくれる宝の山となった。今回はその宝の山から一つ、『大学を学ぶ』が問いかけた「なぜ学ぶのか」「学びとは何か」に対する学生の受けとめ方をとりあげ、そしてそこから何が言えるのかを考えてみることにする。

非教室派

 まず、2年間大学生活を送ってきた3回生による感想文をとりあげたい。彼らの感想文からは、学びの実践に関して大きく分けて3種類の学生が浮かび上がってくる。

 第1は非教室派、すなわちサークル活動やアルバイトを学生生活の中心としてきた学生である。「サークルには、いろいろな人が集まっており、それぞれの人がそれぞれの考えをもって行動しているので、人間関係がうまくいかないこともあった。また、イベントサークルということで、自分たちが企画・実行していく中で、集団行動の難しさ、成功したときの喜び、皆でやり遂げたときの達成感など、いろんな失敗もしたけれど、本当に多くのことを学んだ」。

 「現在満足していない自分がいるのはなぜか、と考えると、まだまだやりたいことができていないものもあると思うが、知への欲求が主な原因だと思う。大学という場に限らず何かについて深く研究したい、知識を得たいという欲求が、満足させていないのだと思う」。

 非教室派は、サークルやアルバイトもまた学びの場であり、多くを学んでいるが、そこでは満たされない学びに対する渇望感を感じ、それを癒してくれるもの―学ぶ喜び―を授業に求めようとしている。彼らは『大学を学ぶ』を読んで、サークル等での経験が学びであることを再確認し他一方で、授業というものを捉え直し、そこでしか得られない学びに気づいたようである。

教室派

 第2は教室派、すなわち授業が行われる教室こそ学びの場と捉え、授業によく出席するいわゆる成績優秀な学生である。彼らの思いは冒頭に掲げた感想文が良く表現している。おそらく高校までの学びのあり方を心のどこかで「何か違う」と思いながら、学ぶ目標を「大学受験」から「資格」「成績」に交換することで自分をなんとか納得させようとしてきたのではないか。したがって教室派の学生が大学の授業に期待しているのは、知識の注入か資格取得や就職に直接に役に立つ内容となってしまうのである。目に見えるが学びの一つの結果にすぎない「資格」や「成績」に学びの価値を矮小化し、学びの過程を良い結果を出すための苦行として捉え、学ぶ楽しさを知らずにいる。「先生に言われるように、集団を乱さないように決められた学びのレールに乗っかり、少しの疑問は抱きながらも立ち止まることができないできた。そしてその事実を改めて突き詰めたとき、なんとなく騙しながら向き合うことなくやってきた学びに、大きな戸惑いと焦りを感じている」。学びについて最も苦しんでいるのは実はこの教室派なのかもしれない。

 しかし、ともすれば私たち大学教員は、この教室派を高く買うことで彼らの学びについての錯覚を支えることになってはいまいか。確かに教室派の彼らは手がかからず、授業にも良く出席し、教員の言葉に静かに耳を傾け、時には質問もし、優秀な成績を修めてくれる。しかし彼らは、学ぶ喜びを感じているのであろうか?自らの生き方と学びを重ねているのであろうか?答えは否であろう。

学ぶ喜び実感派

 第3は、学ぶ喜び実感派、つまり、学ぶことが楽しく、学びの意味を掴みかけている学生である。「一回生と二回生とでは、学びに対する態度も違ってきました。単位をとることや、テストのことばかりを考えることをやめて、自分が興味あること、知りたいと思うことというのを、一番に考えて、勉強しようと思ったのです。そうして学んでみて初めて、覚えるばかりの勉強では、分からない、学ぶことの楽しさを知りました。確かに、答えのない問いについて考えることは、覚えることよりも大変です。しかしその苦しさを乗り越えて初めて、学ぶということの楽しさがありました」。

 自分が知りたいと思うことを中心に据えて学び、その中で学ぶことの楽しさを知る―そこには「学びの旅人」として姿がある。彼らが大学の授業に期待しているのは、知識注入や資格取得や就職に直接に役に立つ内容ではなく、「学ぶ喜び」「わかる喜び」なのである。

 しかしそういう彼らも「なぜ学ぶのか」「学びとは何か」を突き詰めて考えたことがなかったようだ。「学びとは何なのでしょうか?私は先生の研究室を初めて訪れたときに、『学びとは何か?』と聞かれるまで深く考えたことがありませんでした。その質問はとても難しく、私はまず、自分がなぜ学ぼうとするのかについて考えてみました。本の中では、分からないから学ぶ、分かりたいから学ぶと言うことが書かれていました。ここで言う学びとは比べれば、私が今学びたいと思っているのは、自分の納得のいく生き方をしたいという気持ちからです」。

 「なぜ学ぶのか」「学びとは何か」の問いかけは、彼らに今実践している学びが「どう生きるのか」という問題に繋がっていることをはっきりと自覚させたのである。

「なぜ学ぶのか」「学びとは何か」と問いかけることの重み

 こうして見てくると、非教室派、教室派、学ぶ喜び実感派のいずれの学生にとっても「なぜ学ぶのか」「学びとは何か」の問いかけは、「学びの旅人」として成長する契機を与えていることがわかる。では、「学びとは何か」について考える機会に乏しく、「なぜ学ぶのか」についても「受験のため」等々と捉えていることが多い一回生にとってはどうだろうか。

 「私達はやはり手段として学んでいるのだと思う。学ぶことは、医者になるため、弁護士になるため、教員になるため、また何かの資格を取得するための手段であると思う。実際、これらの目標を達成するための一手段として大学へ進学した人は多いのではないだろうか」(97年度1回生)。

 「なぜ学ぶのか。それはまだわかっていないからである。わたしたちは『〜になるために』手段で学ぶのではない。わかっていないから、わかりたいから学ぶのである。自分を初心に立ち戻らせてくれた文章である。どうして今までこんな簡単で大切なことを忘れていたのだろう」(97年度1回生)。

 「なぜ学ぶのか。とても難しい質問だ。私も一度だけ考えたことがある。その時の結論は、自分をたかめるために学ぶ、自分を豊かなものにするために学ぶ、というものであった。この章では、わかっていないから、わかりたいから学ぶ。『〜への自由』になるために学ぶ、とある。私にはどれが本当なのかは分からない。あるいは、どれも本当ではないのかも知れない。学ぶことを職業としている筆者が言うことの方が説得力があるような気もする。この質問について、明確な答えを出せる人はどれほどいるのであろうか」(96年度1回生)。

 1回生は、「なぜ学ぶのか」「学びとは何か」の問いかけに接して、目的としての学びを実践する自分の姿をイメージするところまでは達しないものの、これまでの学びが手段としての学びであったことを自覚し、目的としての学び、生き方につながる学びを求めている自分に気づいている。学びの実践について未分化状態にある一回生にとっても、いや未分化状態にあるからなおさら、「学びの旅人」として成長する契機を与えるために、「なぜ学ぶのか」「学びとは何か」の問いかけを行なうことが大切である。

「学びの旅人」として成長しあう授業を

 以上に見たように、「なぜ学ぶのか」「学びとは何か」の問いかけは、学年を問わず、そして非教室派、教室派、学ぶ喜び実感派の学生全てに「学びの旅人」として成長させる契機となってきた。しかし残念ながら、多くの学生たちにとってそうした問いかけに接して自らの学びを振り返る機会は、学びを主目的とする場である授業においてすら少ないのが現状であろう。大学と授業が厳しく問われている今こそ、授業において「なぜ学ぶのか」「学びとは何か」と問いかけることが求められているのではないか。もちろん、この問いかけにふさわしい授業の内容と形式が伴わなければなるまい。「『教員の研究したことが(通説ではなく)学べる』という部分で、実際私も前期これを体験して、本当に楽しかったことを覚えている。自分が教員と一緒になって謎を考え解決していくというステップは、とても感動的であった。これからもこんな授業が受けられればよいなと思う」(96年度1回生)。教員と学生が一体となって学ぶ楽しさを味わいながら問題解決の道のりを歩む―それは同時に「学びの旅人」として教員も学生も成長するプロセスでもある。こうした授業こそ今求められている。

 最後に、毎年大量の感想文を読んで丁寧にコメントしていただいている『大学を学ぶ』著者の皆さんに記して感謝の念を表します。


 [1]高等教育研究会編『大学を学ぶ』大月書店,1996年。
 [2]佐伯胖『「学ぶ」ということの意味』岩波書店,1995年。

(『大学創造』第9号,1998年12月)


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