『関西大学商学論集』第47巻第2/3号,271-294頁,2002年。

 

ウジミナス建設期における技術研修と操業指導1)
―日本鉄鋼業による対ブラジル技術移転(2)―

Technical Study in Japan and Technical Assistance by Japanese Steel Industry
for Start-up Operation of Usiminas, Brazil

長谷川 伸


I  はじめに

 1950年代後半から60年代前半にかけてブラジルに建設された銑鋼一貫製鉄所ウジミナス(Usiminas)2)は,日本によるブラジル鉄鋼業への技術移転の最初かつ代表的な成功例であり,また戦後日本における海外技術移転・技術協力の原型の一つである。前稿3)において我々は,技術移転プロセスにおいて「人を通した技術移転」が重視されることが技術移転システムにおける日本的特殊性であるとの林倬史による指摘を取り上げて,この「人を通した技術移転」4)がそのウジミナス建設プロジェクトにおいてどのような業務の下にどの時点で行われたのかをプロジェクト・ライフ・サイクルの概念を利用して検討した。その結果「人を通した技術移転」が生じる業務は,製鉄所として完成する時点までのフィージビリティ・スタディ(F/S),基本設計,詳細設計,調達,建設,操業開始準備の各フェーズ全てにおいて存在し,とりわけ「人を通した技術移転」が最も生じると見られる指導的・教育的業務である建設指導,据付指導,操業指導・技術研修(教育訓練)は建設および操業開始準備のフェーズに含まれることを明らかにした。

 本稿はこうした前稿の成果に基づいて,ウジミナス立ち上げにともなって行われた操業指導・技術研修(教育訓練)の条件と方法を,日本において技術研修を行った幹部要員(エンジニア)の動向5)に着目しながら検討する。このことを通じて,ウジミナス建設期における操業指導・技術研修(教育訓練)は現場で「やって見せる」(show how)ことを中心にして行わざるを得なかったこととその含意を明らかにする。あらかじめ整理しておくと,この「やって見せる」ことは実践者が働きかける対象(工場であれば機械設備など)を必要とするだけでなく,実践者と観察者との相互行為でもあるので観察者を必要とする。ここで実践者=技術協力元,観察者=技術協力先であれば実践者が観察者に対して「やって見せる」行為は「人を通した技術移転」のあり方の一つである。また「やって見せる」場はすなわち実践者が実践を行う場に他ならないので常に「現場」となる。

 本稿の構成は以下の通りである。IIにおいて日本での技術研修がどのように行われたのかを検討し,IIIにおいて日本からの派遣規模と派遣者の任務について明らかにした上で,IVにおいて現地での操業指導・教育訓練がどのような形で行われたのかを検討する。Vは結論である。


II  日本における技術研修

 前稿で述べたように,操業要員の採用と教育訓練(技術研修)は操業開始準備フェーズに属する。この操業開始準備フェーズにおける技術協力として操業指導が行われる。ウジミナスの場合,操業要員の教育訓練(技術研修)は日本とブラジル現地で行われた。このうち本章では,現地での教育訓練に先立って行われた日本での技術研修について研修生の派遣規模,研修形態とその成果を検討する。

1  ブラジルから日本への研修生の派遣

 日本での技術研修の実施は,1957年6月3日に締結された「日伯合弁製鉄会社設立に関する協定」(いわゆる「堀越・ラナリ協定」)に基づくものであった6)。この協定が締結された翌年(1958年)9月に幹部要員(エンジニア)10名が技術研修のためブラジルから日本へ派遣された。このうち若手で独身者の7名(以下日本研修組Aグループとする)7)については約15ヶ月,残る中堅で既婚者の3名(同Bグループ)については約9ヶ月にわたって主として八幡製鐵において研修が行われた8)。また,これとは別に1960年から1年間,ラテンアメリカ協会(中南米技術協力計画)により八幡製鐵などにおいて技術研修を受けた幹部要員3名(同Cグループ)もいる9)。ウジミナス建設期に日本に派遣された研修生の総数は,この他にも上記の中南米技術協力計画によるものが別の年次にも行われていたと考えられ,また東京駐在買付委員会(CCT)10)に在籍した後に富士製鐵で研修した幹部要員もいるので11),正確には把握しがたいものの20名規模とみられる。以下では,詳細が判明している上記13名の技術研修に検討を加える。

 まず,この研修生13名の専門分野について見てみよう。Aグループ7名は[1]コークス,[2]焼結,[3]製鋼,[4]厚板,[5]計測器・燃焼(後に厚板に移動),[6]冶金管理,[7]品質管理,Bグループ3名は[1]高炉,[2]電気機械の整備,[3]輸送と操業の支援,Cグループ3名は[1]炉材,[2]製鋼・品質管理,[3]分塊であった12)。このうち,コークスを専門とする研修生1名(A[1])は富士製鐵で,製鋼を専門とする研修生2名(A[3],C[2])は日本鋼管で主として研修を行ったと考えられる13)。こうして研修生の専門分野を見てみると,専門分野あたり1名(多くて2名)であることがわかる。しかもAグループとBグループは研修期間が重なっているが,これとCグループとは重なっておらず,専門分野を同じくする研修生のうちA[3]とC[2]については研修期間は重なっていない。

 この13名の研修生の派遣時期(1958-61年)は,第1高炉,第2高炉,コークス炉が製鉄所の主要工場の先陣を切って着工されたのが1959年であることに示されるように,ウジミナス建設プロジェクトにとっては建設フェーズ(1958-65年)の前半にあたる。コークス炉が稼働した1962年より1-2年以上も前に研修を終えて帰国したことになる14)

 こうした幹部要員だけが日本での技術研修を行うのは,大規模製鉄プラント建設に伴うものとしては例外的である。通常,新規製鉄プラント建設・操業の場合,幹部要員だけでなく実際の設備の運転にあたる基幹要員(フォアマン)クラス,一般要員(オペレータ)クラスの要員も含めて1シフト以上の要員が日本に派遣され技術研修を受けることがほとんどである15)。ところがウジミナス立ち上げ時の場合,外貨事情と資金難による建設フェーズの遅延で基幹要員の採用が繰り延べされ,日本へ派遣する時間的余裕がなくなった結果,日本への研修生派遣が幹部要員に限られることになったのである16)

2  技術研修の形態

 八幡製鐵の場合,彼らの技術研修全体のスケジュールについては本社の依頼を受けた製鉄所の人事・教育部門が作成した17)。このスケジュールに基づき,AグループとBグループの場合,来日前の2-3ヶ月間を使って英語の習得と研修計画の作成をしてきていた研修生は,来日当初の3ヶ月は研修生全員が一緒に製鉄所のあらゆる部門をまわって研修を行った18)。同様の研修をCグループも1ヶ月間行っている19)

 その後研修生は,各々の配属予定の専門分野の工場の近くに設けられているサブセンター(詰所)に机とロッカーを与えられ,ここを研修の拠点とした。このサブセンターは,高炉ならば高炉の現場管理を行う掛長,技術員,事務員などが常駐勤務している事務所である20)。研修生の専門分野はサブセンターにほぼ対応するので,サブセンターとしては一度に1名(多くて2名)を受け入れたことになる。

 サブセンターに拠点を置いた後の研修は「例えば分塊工程へ配属されるエンジニアの場合,最初の1週間は本拠地の分塊工程で研修を行い,次の週は例えば製銑分野に1週間滞在し,製銑各分野(コークス,原料ヤード,焼結,高炉等)の一般研修の後でまた分塊工程に戻り,ここで専門分野の研修を継続すると共に,既に研修した分野での不明確な点があれば翌週再度フォローアップのための追加研修(見学と質問程度であったが)を行い,その後また本拠地に戻る」21)というパターンで行われた。

 この各専門分野(サブセンター)における週単位の研修は,誰が関わってどのように行われたのか。1週間のカリキュラムは,研修生を受け入れるサブセンターの常昼技術員(大卒のエンジニア)が研修担当者として,上司である掛長の了解を得ながら決めていた22)。このカリキュラムはレクチャーのテーマを研修担当者がいくつか列挙しておくレベルのものであったので,スケジュールとしてはリジットなものではなかった。特定のテーマについて研修生にレクチャーをしたのは1週間に1-3日,各々1時間程度であり,これもありあわせの技術文書(図面など)を翻訳して渡し,口頭で説明する形であった。あるタイミングでないと見せることができない作業(圧延機のロール交換,均熱炉のレンガ乾燥など)については,その作業スケジュールに合わせて研修生に事前にレクチャーしておき現場(工場)で見せるようにしていた。こうした形で研修担当者が研修生の相手をしていたのは,研修担当者が時間がある時で1日平均1時間程度であったという。この時間以外は,研修担当者の付き添いなしに研修生は自由に現場(工場)に出入りできたので,現場に通って研修生の問題意識に基づいて見学をしていた。現場で見聞きしたことや,現場で「顔なじみ」になってその場や一緒に酒を飲みに行った際に聞いてきたことについて,後で研修担当者に確認していたという23)

3  技術研修の効果

 前節で見た形態の技術研修を通じて,研修生は何を学びとったのか。技術研修の直接の目的は,専門分野(配属予定の部署)における技術的なものを学ぶことにあり,関係者が指摘しているように日本から帰国した研修生(幹部要員)たちの活躍と昇進ぶりを見れば,その目的は達成されていたと見ることができる24)。しかし,こうした技術研修で研修生が獲得したことはそれだけではない。

 平和経済計画会議による日本ILO協会の国際技能計画の研修経験者を対象とした調査結果によれば,日本での技術研修は専門知識の獲得や技術・技能の向上という直接的効果にとどまらず,品質意識,QC運動,安全対策,職場規律などの面で効果(技術研修の間接的効果)があるとされている25)。このことについて,神戸製鋼機械エンジニアリング事業本部の薮中芳夫は,専門家派遣がラジオならば技術研修はテレビであるとして以下のように発言している。「日本に来れば,いろんなものを見て,いかに工場が効率よくいっているかということがわかるわけで,見てもらうことがものすごくいい結果をあらわして,説得力があるわけですね。日本はこんなに工場がきれいで,こんなに整備されていると感激する。見させることが一番迫力があるわけですよね」26)。現場を訪れて見てもらうことによって,日本における製造業の技術と経営の水準の高さが迫力と説得力をもって研修生に理解されるというのである。

 では,技術協力の黎明期にあたるウジミナスの立ち上げにともなう技術研修ではどうであったのだろうか。Cグループ[3]のY氏(1958年12月にブラジル側設計部技師としてウジミナスへ入社し,派遣当時37歳,建設局企画部に勤務していた日系1世)27)は日本での技術研修を終えての印象をこう記している。「八幡製鉄での印象は,構内の整頓,整理,人命の尊重,安全問題の徹底,等々また古い機械もフルに動かし,設備の不足は工員の熟練,努力,工夫,改善で補い,今日の生産水準が保持されていることに感を深くし,最新設備とともによいコントラストを感じせしめた。そこにも日本人の努力と誠実な働きぶりがうかがわれたのである。…技師連の具体的な緻密な知識,最新技術を生み出さんと微に入り小に亘っての研究,世界水準をたえず上まわらんとする熱意を感ぜないではいられない雰囲気であった」28)。この記述からは,先に見た技術研修の間接的効果(職場規律,安全対策,設備保全などについての認識の獲得)があったことがわかる。また,八幡製鐵の技術と経営の水準を実感することにより,研修生が日本鉄鋼業を見習うべきモデルとして再認識したことも窺える。このことは,操業指導に対する信頼感を向上させ,操業指導を成功させることに繋がったと考えられる。

 一方で,先の平和経済計画会議による調査結果によれば,技術研修の効果の現れにくい分野として「労使関係」に加えて「配置転換」「現場・管理部門の連携」「職場間の応援体制」が挙げられている29)。ここで「職場間の応援体制」とは職場間の要員の融通を指していると考えられるが,「現場・管理部門の連携」と「職場間の応援体制」の両分野における効果が現れにくいのならば,職場間の連絡調整についても効果が現れにくいと推定できる。職場間の連絡調整は日本鉄鋼業において一貫品質管理として重要視されており,技術研修の場において顧客(研修生)を満足させることと同時に「目を開かせる」ことを目標とする。「目を開かせる」とは,セクショナリズムを排して全体の中で自分の持ち場を位置づけて,上工程・下工程とのコミュニケーションをとること,一貫品質管理の重要性を認識してもらうことである。日本では週に1回上工程・下工程との連絡会があり,その場でコミュニケーションをとっていたが,外国の場合現在でもそうした連絡をとりあう習慣が少ない。このことを研修で強調するので,研修生は自分のテーマとは別にこうした新たな認識を研修から得ることになる30)。先に見た専門分野を軸に1週間毎に上工程・下工程を巡回する方法にはこうした狙いがあり,研修生は一貫品質管理をも学び得たのではないかと考えられる。

4  小括

 本章で言いうることは以下の通りである。第1に,ウジミナス建設期における日本での技術研修には,幹部要員が20名規模で参加した。このうち詳細が判明している13名については,建設フェーズ(1958-65年)の前半に1年前後で行われた。日本への研修生派遣がエンジニアに限られることになったのは外貨事情と資金難による建設フェーズの遅延が要員採用が繰り延べされ,日本へ派遣する時間的余裕がなくなったからである。

 第2に,日本での技術研修においては研修担当者を始めとする受入側が「やって見せる」形―研修生は完全なる観察者の立場で研修が行われた。最初に製鉄所の各部門で研修を行った後,専門分野とその上工程・下工程におけるサブセンターと工場において,受入側が現場レベルで即興的に用意・設定したテーマについての解説を常昼技術員を中心とするスタッフから聞く一方で,研修生の問題関心に基づいて自習形式で現場での観察とコミュニケーションを自由に行っていたのである。確立されたカリキュラムやテキストがなく(項目だけのカリキュラムでありあわせの技術文書を使う),研修担当者も専任ではない(仕事の合間に応対した)ことは,技術研修が制度化されていないことを示している。

 第3に,そうした技術研修は専門分野の技術的知識の獲得という直接的効果だけでなく,さまざまな間接的効果ももたらした。加えて,研修生が日本鉄鋼業を見習うべきモデルとして再認識したことも窺える。こうしたことは,日本での技術研修だからこそ実感を持って理解されたと考えられる。さらに,専門分野を軸に1週間で上工程・下工程を巡回するスタイルをとることで一般に技術研修の効果が現れにくいとされる職場間の連絡調整についても学んだと考えられる。


III  日本からの派遣者

 本章においては,ブラジル現地での教育訓練の方法・内容に立ち入る前提として,これを担当した日本からの派遣者の種類と規模,任務を明らかにする。

1  日本から派遣者の種類と規模

 日本からの派遣者の任務は主として,建設指導,据付指導,操業指導の3つである。これらは先述したように,「人を通した技術移転」が最も生じると見られる指導的・教育的業務であり,建設および操業開始準備のフェーズにおいて行われるものである。このうち据付指導については,日本の設備供給業者34社から137名が派遣され,1,508人月の規模で行われた31)。ただし,ウジミナスは主として日本から設備を調達したとはいえ,転炉炉体やホットストリップミル本体などは欧州のメーカーが供給している32)。したがって当該設備の据付指導も欧州の設備供給業者が行っているはずだが,資料制約上その据付指導員の派遣規模,したがって据付指導員全体の派遣規模は不明である33)

 建設指導と操業指導を担当した鉄鋼3社(八幡製鐵,富士製鐵,日本鋼管)からの派遣員は,一旦日本ウジミナスの社員として受け入れた後,ウジミナスへの出向休職の形式をとって派遣された34)。1958年5月に土建技術者が最初の派遣員として出発してから,技術指導が終了した1966年10月までの約8年半の期間に,日本ウジミナス経由で派遣された者は500名以上にのぼる35)。この鉄鋼3社とは別に,建設指導を行った鹿島建設は日本ウジミナス経由ではなく,ウジミナスと直接契約して11名(460人月)が現地に派遣されで建設局に配属された36)

 操業要員の採用と教育訓練が属する操業開始準備業務が現地で本格化したのは前稿で述べたように1961年4月以降であり,同年4-6月に大規模操業指導グループの第1陣が到着していることを考えれば,この時期以降に操業指導者の派遣が本格化したとみてよいだろう37)。派遣者の滞在は,コークス炉,第1高炉,第2高炉が完成する直前の1962年5-7月にピーク(244名)を迎えた38)

 次に,こうした派遣者がどのような比率でもって建設指導と操業指導などにあたったのか検討しよう。表1によれば,本社技術部と管理部とに配属された派遣者(486+1,426人月,鹿島建設派遣分を含めた全体11,257人月の17.0%)は,操業指導が含まれる技術協力ではなく経営協力ないし経営参加業務を主として行ったとみなすことができる。一方で,建設局に配属された派遣者(813+鹿島建設派遣分460人月,同11.3%)は建設指導にあたったと見なすことができる。ただし,操業指導要員が操業する立場から建設指導や据付指導を行う場合もあるので,本社技術部,管理部,建設局以外の部署に配属された派遣者(8,072人月,同71.7%)は,主として操業指導にあたり,従として建設指導や据付指導にあたったとみなすことができる。従としての建設指導や据付指導がどの程度のウェイトを占めていたかは定かではないが,いずれにしろ「人を通した技術移転」が最も生じると見られる指導的・教育的業務(建設指導,据付指導,操業指導)のうち操業指導が最も大きなウェイトを占めていたと言える。以下でこうした操業指導に焦点をあてて,その任務を検討しよう。



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2  派遣された操業指導者の任務

 派遣された操業指導者の主な任務は以下の通りであった39)

(a)建設工事への助言。
(b)運転操業に関する作業標準,作業手順,整備標準等の諸計画の作成。
(c)生産計画,生産諸元,工程管理,工場要員,設備の立ち上げ計画等,生産関連計画の作成。
(d)操業資材,予備品,工器具等の準備。
(e)ブラジル側要員の教育訓練。

(f)ライン部門の責任者,および実際の作業・操作担当者として,作業の指揮と作業の実行。

 これらの任務は操業開始準備業務の全般にわたっており,しかも(f)にあるように派遣者自らが実際の生産活動に直接責任を持ち,実際の作業・操作にも携わるものである。したがって,日本からの派遣者は製鉄所組織において当初(試運転・操業開始後約1年まで)40)はライン部門の責任者ないし作業・操作担当者として配置された41)。製鉄所組織において,日本側が担当する調整部,管理部,製銑部,鋼材部(のち製鋼部と圧延部に分割)および工務部では,部長―課長―掛長のラインは派遣者が就任し,技師補佐(フォアマン)の派遣者が掛長の下に配置された。部長補佐,課長補佐,掛長補佐には日本研修組を中心とするブラジル人が配置された42)。基幹要員と一般要員はブラジル人で占められたが,技師補佐がブラジル人の基幹要員と二人三脚で一般要員の指揮にあたった。

 日本からの派遣者(操業指導者)が実際の生産活動に直接責任を持ち,実際の作業・操作にも携わるのは,日本ウジミナスがウジミナスへ資本参加しているからだろうか。確かに資本参加していない企業に対する操業指導のスタイルは,設備を納入していない場合にはあくまでコンサルタントの立場であるため,生産関連部門の全ポストは相手側が占めており,そこのキーポジションにいる者に対する助言となる。ただし,例えば資本参加していない浦項総合製鉄浦項製鉄所(韓国)や上海宝山製鉄所(中国)の場合でも,建前としては操業のイニシアティブは現地がとり,日本側の立場はアドヴァイザであったが,実際には日本から派遣者がラインについていた。なぜならば,そうしないと設備を壊してしまったり,トラブル続きであったりするからである。安定操業へスムーズに移行するためにはこうした操業指導が重要だという。したがって,資本参加の有無にかかわらず,操業指導者ないし設備供給者が立ち上げ当初はその操業に責任を持ち,作業担当者を派遣しなければならないのである43)

 ではなぜ,操業指導者(設備供給者)が立ち上げ当初においてその操業に責任を持たず,作業・操作担当者を派遣しない場合,設備を壊してしまったり,トラブル続きであったりするのか。それは,前稿で触れた大規模製鉄プラントの特性,すなわち多数の工場・設備・装置・機械で構成され,機械的工業,化学的工業,動力工業の特質を生産プロセスのうちに含んだ複合型・統合型の工場群であることから来ている。こうした大規模製鉄プラントの操業に必要な技能は,高林二郎によって「操作する技術」と呼ばれている。「操作する技術」とは,装置産業に典型的に見られる変換・運搬・貯蔵の過程を含んだ生産プロセスにおけるオペレーションのことであり,機械や装置の運転・操作を行う技能を指している。この「操作する技術」の習得は,現場と同じ膨大なシステムを教室に持ち込むことができないので,現場を離れて教室で習得することは極めて困難である44)。したがって,最終的には現場にある実機での操作を通じて習得する他ないが,ここに設備を壊したりトラブルを重ねる危険が潜んでいる。この危険を取り除くために,操業指導者(設備供給者)が立ち上げ当初には実際の生産活動に直接責任を持ち,実際の作業・操作にも携わるのである。

3  小括

 本章で言いうることは以下の通りである。第1に,ウジミナス建設期における「人を通した技術移転」が最も生じると見られる指導的・教育的業務(建設指導,据付指導,操業指導)のうち,日本ウジミナスと鹿島建設からの派遣者の71.7%に相当する8,072人月が主として操業指導にあてられたように,操業指導が最も大きなウェイトを占めていた。そうした操業指導は主として1961-66年の5年間にわたって行われた。

 第2に,ウジミナスのような大規模製鉄プラントの操業のために必要な技能(「操作する技術」)は現場を離れて教室で習得することは極めて困難なので,最終的には現場にある実機での操作を通じて習得するほかない。しかし,その際に生じる設備を壊したりトラブルを重ねる危険を取り除く必要がある。これが,派遣された操業指導者はあらゆる操業開始準備業務に従事しながら,自らが実際の生産活動に直接責任を持ち,実際の作業・操作もせざるをえない理由であろう。しかし,一方ではこれを逆手にとって日本派遣者がブラジル人に「やって見せる」ことができる機会と捉えて,「率先垂範」を操業指導の基本姿勢と位置づけたと考えられる。


IV  ブラジル現地での操業指導・教育訓練

 本章では,ライン部門に配属された日本からの派遣者が操業指導・教育訓練を進める上で直面した困難をどう解決しながら,操業指導・教育訓練をどのように行ったのかを検討する。

1  操業指導・教育訓練上の困難

 前稿で明らかにしたように,プロジェクトを構成する各フェーズは一方ではオーバーラップしながらも他方では前後関係を有しているので,建設フェーズや調達フェーズの進捗状況は操業開始準備フェーズに大きな影響を与える。操業指導と教育訓練は操業開始準備フェーズを構成する業務であるが,ウジミナス建設プロジェクトにおける操業開始準備フェーズは,第1に調達フェーズと建設フェーズの遅延に由来する困難に直面していた。すなわち,日本から購入した重要部品の所在不明,インフレによる現地調達資材(電線,鋼管,鉛管,レールなど)の入荷遅延,設備供給メーカーからの図面の未着ないし所在不明,インフレによる工事費の目減りによる工事遅延45)といった調達フェーズ上の問題が建設フェーズ(据付工事)を遅延させ,このことがさらに要員に対する教育訓練の実施などを遅らせて操業開始準備フェーズの障害となった。調達フェーズと建設フェーズのこうした遅延は,林倬史が言う技術移転の形態のうち,設備,構成部品,諸材料に体化された技術情報の移転,ドキュメント化された技術情報の移転の遅延を意味している。

 第2に,操業開始準備フェーズ独自の困難も抱えていた。すなわち,例えば技術員(テクニカル),一般要員などの要員採用・配置の遅延,日本から持参した技術文書の翻訳作業の遅延,さらにこれらによる要員訓練の遅れが生じていたのである46)。「派遣者の課長や掛長レベルの者達は7人のサムライ達及び派遣技師補佐達の協力の下,工場に建設される機器の取り扱い説明書や日本から携行した技術資料などを参考として,矢継ぎ早に作業手順や,技術標準書などを作成し,それをポルトガル語に翻訳しテキストとすべく頑張ったものの,書類として形を整えたのは設備稼働を開始してから可なり経過してからであった。即ち満足な通訳も手に入らない状況下で優秀な翻訳者も得られる筈もなく,標準書類を完備するまでにはかなりの日時を要した。…それ等は操業開始後数ヶ月を経て,優秀な翻訳者の援助の下に初めてできあがった」47)。操業開始前の要員訓練と操業開始準備作業を作業手順書や技術標準書が揃わないままに行わなければならなかったことは,ドキュメント化された技術情報の移転に多大な困難・大幅な遅れが生じていたことを意味している。

 こうした困難な状況下で,どのように要員訓練を行ったのか。基本的には,基幹要員に対しては日本人派遣者(課長・掛長)と日本研修組が,一般要員に対しては日本人派遣者(技師補佐)と基幹要員が教育訓練を担当したが48),実際には職場・現場にいる者全員が渾然一体となって取り組まれたようである。「派遣者の課長を先頭に,ブラジル側エンジェネイロ,テクニコ,オペラドール,それに日系社員の通訳を交えて,座学,模型による実習等を日夜くりかえし,技術資料の即席的翻訳と教育訓練を同時並行して進める状況であった」49)。設備供給業者から派遣された据付指導員に頼み込んで,当該設備がウジミナスに引き渡される前に,ハンドルを握り機械操作の訓練を繰り返した。鋼塊が生産されるまでは,材料がないので木材を張り合わせてそれを鋼塊に見立てて操作訓練を行ったこともあったという50)

 これを厚板工場の例で見てみよう。厚板課は1961年7月に日本から厚板課長が着任し,日本研修組の厚板を専門とする2名(A[4]・A[5])を課長補佐としてスタートした。厚板課は1年後には技師2名,技術員6名,事務員3名を加えての計14名と大幅に増えたが,課長補佐2名を除いた他の部員は全く圧延工場の経験がない。そのため日本語のテキストを英訳し,それを課長補佐がポルトガル語に直し,工場概要から教えはじめた。その後,日系の事務職員が配属され日本語からポルトガル語への翻訳が可能となったため,掛長(日本からの派遣員)2名が指導要領の原稿を書き,それを日系職員がポルトガル語に翻訳し,課長補佐が教えるという分担ができるようになった。こうした分担ができたものの,6ヶ月後の厚板工場も操業開始を控えて,圧延工場について全く知識がなかった者が限られた期間内に,冶金,厚板製造法,品質管理といった高度な講義内容を学ばなければならない。そのため隔週で試験をやって成果を見るという厳しいやり方をして「無理を承知で」教えた。その結果,彼らもよく耐えて日本人と比較しても見劣りしない水準に達したという51)

 教育訓練は,座学にしても現場での実習にしても職場総出で渾然一体となって「自転車操業」的に「無理を承知で」行ったといえよう。その中での日本研修組の果たした役割は,日本からの派遣者の理解者・協力者としての役割を果たしたのである52)

2  課長・掛長クラスの教育訓練と業務移管

 ウジミナス建設期における教育訓練は,幹部要員,基幹要員,一般要員を対象として,それぞれ相異なった形態で行われた53)。先述したように日本で技術研修を行ったのは幹部要員であり,その多くは課長・掛長クラスであった。以下このクラスの教育訓練と業務移管について検討する。

 前章で述べたように職制上,日本人派遣者の課長や掛長にはブラジル人の課長補佐・掛長補佐が配置されていた。課長が課長補佐の,掛長が掛長補佐の教育を担当する形である。操業の準備として工場内の作業指示の帳票をどのようにつくるか,加熱炉の乾燥の手順をどうするか,そのための資材をいつまでにどのように手配するか,作業員の採用はいつまでにどのように行うか,その訓練計画をどのように手配するかなど,課長・掛長とそれらの補佐は常に同じように悩み同じように行動した54)。行動をどの程度共にしていたのかについて,当時分塊掛長として派遣されたK氏によれば,現地で採用された大卒者が掛長補佐としてK氏に一日中同行し,どこに行くにもペアで動いていた。昼食に行く時も,会議に出席する時も,倉庫に交渉へ行く時も一緒だったという55)。しかも,派遣者一人が一人(掛長なら掛長補佐一人)を育て上げる関係にあったという56)

 ただし,掛長補佐の教育期間は掛長の派遣期間と同じ3年間とされていたものの,資金難や地理的条件による求人難で採用が遅れ,実際の教育期間は約2年間となってしまったという57)。こうした教育期間の大幅な短縮が影を落としているものの,課長・掛長クラスの教育訓練はマンツーマンでしかも勤務時間中や昼休みも一緒に行動して各種業務を間近で「やって見せ」ながら,これを2年間続けるという密度の濃いOJTが行われたのである58)

 しかし,日本からの派遣者は定められた期限(派遣期間は技師補佐以外は4年,1964年以降は3年に短縮)59)に帰国しなければならず,早期にブラジル側に生産管理責任を移管しなければならない。実際にも操業開始後,生産設備保全責任や労務管理責任を日本からの派遣者が負いつづけることの限界が見えてくる一方,操業に自信をつけつつあったブラジル人技師側からも移管の要望が寄せられていた。加えて,1963年3月に作成された長期派遣人員計画は操業管理責任のブラジル側への移管を前提とし,第1に派遣者数は極力絞り込み効率的活用をはかること,第2にラインの責任者は操業可能と判断される限り極力早期に移管すること,第3に移管後,派遣者は移行的措置としてスタッフとして指導,助言にあたることとされた。この計画に基づいて,操業開始が早かった製銑部各課(1963年10月1日移管)を皮切りに次々と移管が行われ,冷延工場(圧延部冷延課)操業開始後1年にあたる1966年10月をもって全てのライン責任がブラジル側に移管された60)

 業務移管のタイミングは技術移転の成否に関わる。日本側からブラジル側への業務移管は「操業可能と判断される限り」極力早期に行うこととなっていたが,実際にはどのような判断がなされて移管したかが問題である。これを業務移管が最も早かった製銑部で見てみよう。当時の製銑部長によれば,製銑部では1963年10月,部長職以外は「思い切って」日本からの派遣者をすべてラインからはずしてスタッフとし,その代わりにブラジル人技師をラインに配置した。この処置は技術レベルの見通し以外に,ブラジルでは終身雇用・年功序列制度がないため権限と責任の関係が日本よりもはるかに厳しく,結果的にスタッフでは真剣な技術習得ができないと考えて決断したという。この決断に基づいてブラジル人技師に移管した結果,彼らの活躍により「予期以上」の成果が生まれたとし,後年ウジミナス副社長となったかつての部下(日本研修組B[1])に会った際に,他部門にさきがけてブラジル技術者をラインに配置したことに改めて感謝されたことからすると61),この決断は結果的には正しかったと考えられる。

 一方で,圧延部分塊掛長からラインを外れて圧延部技術スタッフに退き,これまでの掛長補佐(ブラジル人)を掛長に昇進させて仕事を任せるようにしたK氏62)によれば,タイミングを見極めて移管した,というより帰国のスケジュールが決まっていたので半ば自動的に移管させられたと見なすのが正しいかも知れないとする。「本当に大丈夫か,任せてみても心配で堪らない」との気持ちはあったという63)。このことを併せて考えてみると,「任せた際の心配の種は尽きないが,移管と帰国の期限が切られているので思い切って任せてみるしかない。任せてみたら意外とうまくいった」というのが当事者(派遣者)の実感に最も近いと考えられる。

3  小括

 本章で言いうることは以下の通りである。第1に,日本人派遣者が操業指導上直面した困難は,調達フェーズ(資材の未着など)や建設フェーズ(工事の遅延など)に由来するものの他に操業開始準備フェーズ独自のもの(要員採用や翻訳作業の遅延など)があった。その下での要員訓練は座学にしても現場での実習にしても職場総出で渾然一体となって「自転車操業」的に「無理を承知で」行わざるをえなかったのである。その中で日本研修組は日本からの派遣者の理解者・協力者として日本人とブラジル人を繋ぐ役割を果たしている。第2に,日本研修組のほとんどが含まれる課長・掛長クラスに対する教育訓練については,派遣者一人が補佐に配属された一人をOJT方式で育て上げるため,課長・掛長に日本からの派遣者が,その課長補佐・掛長補佐にブラジル人が着任する形をとっていた。この下でマンツーマンでしかも常にペアで行動して各種業務を間近で「やって見せ」ながら,これを2年間続けるという密度が濃い教育訓練が行われた。第3に,日本側からブラジル側への業務移管については,日本人派遣者の派遣期間が事前に決まっていたこともあり,実情としては技術レベルを慎重に見極めた結果というより「思い切り」が必要なものであり,半ば自動的に移管せざるを得なかったが,派遣者の心配をよそにほぼ成功し,「任せてみたら意外とうまくいった」と見てよいだろう。


V  むすびにかえて

 本稿の目的は,ウジミナス建設期における操業指導・技術研修(教育訓練)は現場で「やって見せる」(show how)ことを中心にして行わざるを得なかったこととその含意を明らかにすることにあった。

 日本での技術研修においては,技術研修がまだ制度化されていなかったために現場で「やって見せる」ことを中心とせざるを得なかった。研修内容は現場レベルと研修生自身の裁量に任され,即興的・自習的な色彩が濃く,現場の観察が中心であった。ここでは日本研修組は完全なる観察者(やって見せてもらう)であり,日本側は完全なる実践者(やって見せる)であった。こうした現場で「やって見せる」ことが技術研修の直接的効果とともに,間接的だが重要な効果およびモデルとして日本鉄鋼業の認識を生み出すことになった。

 現地での操業指導・教育訓練においては,日本人派遣者がライン部門の責任者や実際の作業・操作担当者として配置されたことに象徴されるように,当初から「やって見せる」「率先垂範」が操業指導の基本姿勢であった。これは,大規模製鉄プラントの操業のために必要な技能(「操作する技術」)の習得上の困難から由来するものである。日本研修組は課長・係長(日本人派遣者)の補佐として配置されたので,その立場は実践的観察者(やって見せてもらいながらやってみる)へ,日本側の立場は観察的実践者(やって見せながらやらせてみる)へ転換している。

 「やって見せる」「率先垂範」の一環として日本人派遣者がライン部門の責任者や実際の作業・操作担当者として配置されたことにより,業務移管という課題が生じることになった。実際の業務移管は技術レベルを慎重に見極めた結果というより「思い切り」が必要なものであり,半ば自動的に行わざるを得なかったが,派遣者の心配をよそにほぼ成功した。この業務移管は,ブラジル側から見ると実践的観察者から完全なる実践者(やってみる)への立場転換,日本側から見ると観察的実践者から移管後は完全なる観察者(任せてみる)への立場転換である。これは両者の「やって見せる」「やって見せてもらう」という関係からの卒業を意味するので,日本側にある種の決断が必要であったろうし,ブラジル側にとっては完全なる実践者となること自体によって成功への道が切り開かれたと考えられる。

 このように,現場で「やって見せる」ことを中心にして行われたウジミナス建設期における操業指導・技術研修(教育訓練)は,技術協力元(日本側),技術協力先(ブラジル側)双方の立場転換が伴っていることがわかる。すなわち,日本研修組の立場が日本での技術研修においては完全なる観察者,ブラジルでの移管前は実践的観察者,移管後は完全なる実践者と変化し,一方で日本側の立場が日本での技術研修においては完全なる実践者,ブラジルでの移管前は観察的実践者,移管後は完全なる観察者と変化することで「人を通じた技術移転」が行われたと考えられるのである。

※本稿は,日本学術振興会科学研究費補助金(奨励研究A)を受けた「製造技術と技術研修・OJTに着目した日本鉄鋼業の技術移転システム研究」(課題番号12780004)の研究成果の一部である。



1) 本稿が依拠する聞き取り調査に快くかつ辛抱強く応じていただいた元新日本製鐵技術協力事業部K氏,貴重な資料を提供していただいた日本ウジミナス事務局長U氏の協力なくして本稿はなかった。記して感謝したい。本稿は,2001年11月から2002年7月にかけて行ったK氏からの聞き取り調査の結果に基づいている。事実関係の確認のためにK氏による草稿のチェックを受けたが,もちろん本稿の内容に対する一切の責任は筆者にある。
2) Usinas Siderúrgicas de Minas Gerais S. A. 製鉄所名としてはインテンデンテ・カマラ製鉄所(Usina Intendente Camâra)であるが,ウジミナス下唯一の製鉄所であるので,以下単にウジミナスとする。
3) 長谷川伸「ウジミナス建設プロジェクトと技術移転」『関西大学商学論集』第47巻第1号,2002年。
4) 前稿で述べているように,林倬史は技術移転の形態を以下の3つに分けている。すわなち第1に,ドキュメント化された技術情報(特許・設計図・工程図・マニュアル等)の移転,第2に設備(機械・工具),構成部品,諸材料に体化された技術情報の移転,第3に人・組織に体化されている技術情報の移転(日本人技術者の現地派遣・日本への現地従業員の技術研修派遣による技術情報の移転)である(林倬史「東アジアの技術蓄積と日本的技術移転システム」林倬史・陳炳富『アジアの技術発展と技術移転』文眞堂,1995年,47-73頁)。
5) 前稿で触れたように,ウジミナス建設プロジェクトにおける日系人の役割についてはそれ自体重要なテーマであるので,ここでは特には論じず別稿に期したい。
6) 日本ウジミナス『十年史』1969年,資料編3-8頁。
7) このうちの一人Maurício de Melloは,この7人を指して「7人のサムライ」(Sete Samurais)としているが,「7人のサムライ」の顔ぶれは当時の関係者によって異なるので,ウジミナス立ち上げ期に日本へ技術研修へ行った者を漠然と指すものと理解した方がよい (Maurício de Mello, "A Organizaçãcao" (Depoimentos) in Usiminas, Usiminas Conta Sua História,?1990, p.9.K氏,2002年6月24日)。
8) Maurício de Mello, p.9. 日本ウジミナス,資料編3-8頁。
9) 「技術研修生に3名の派遣決る」『時報いぱちんが』第2号,1960年7月15日付,13頁。「昭和35-36年度の在日研修員受け入れ」『鉄鋼年鑑』(昭和37年度版)鉄鋼新聞社,1962年,168頁,第12表。
10) CCTは,製鉄所建設のためのプロジェクトと日本・欧米からの機械設備買付を具体化する機関であり東京に設置されていた(日本ウジミナス,第2部203-204頁)。
11) K氏,2002年2月19日。
12) Maurício de Mello, pp.8-9. K氏,2002年1月28日。「昭和35-36年度の在日研修員受け入れ」,168頁,第12表。
13) K氏,2002年1月28日。湯浅泉「八幡製鐵の研修を終えて」『時報いぱちんが』第22号,1962年3月10日付,3頁。
14) 長谷川伸,2002年,111頁および図4。
15) 樫渕隆「途上国が望む技術移転」『事例研究―途上国への技術移転で留意すべき問題点考察』ニホンブレーン,1985年,22頁。
16) 小林謙二「鉄鋼業(ウジミナスの例)」大橋昌弘『海外職業訓練ハンドブック:ブラジル』海外職業訓練協会,1997年,140-141頁。
17) K氏,2001年12月17日。
18) Maurício de Mello, pp.8-9.
19) 湯浅泉,3頁。
20) K氏,2002年6月24日。八幡製鐵における1964年12月の八幡製造所と戸畑製造所の両製造所体制発足後は,八幡製鐵の本事務所の下に八幡製造所管理センターと戸畑製造所管理センターが置かれ,その下にサブセンターが置かれていた(K氏,2002年6月24日)。
21) 小林謙二,139頁。
22) K氏,2001年12月17日。
23) K氏,2001年12月8日および2001年12月17日。
24) 小林謙二,139頁。中村直人「高炉物語余録―ブラジルと私(5)」『金属』第68巻第12号,1998年,91頁。Maurício de Mello, p.4..
25) 平和経済計画会議『アジア太平洋諸国の技術研修生受入れと技術移転・技術協力』機械振興協会経済研究所,1990年,12頁。内田賢「技術移転と技術研修制度」『労働研究所報』(東京都立労働研究所)第11巻,1990年,70頁。
26) 「海外派遣経験者座談会」海外職業訓練協会(編)『財団法人海外職業訓練協会10年史』1992年,93頁。
27) 「技術研修生に3名の派遣決る」,13頁。「ウジミナス採用日系職員紹介(1)」『時報いぱちんが』第16号,1961年9月10日付,4頁。
28) 湯浅泉,3頁。
29) 平和経済計画会議,12頁。
30) K氏,2001年12月17日。
31) 日本ウジミナス,各論編262頁,表57。
32) 日本ウジミナス,各論編251頁。1950年代末に最終案をみた設備計画では,日本調達設備費362億円(約1億ドル)に対して欧州調達設備費2960万ドルとなっている(日本ウジミナス,各論編255頁)。費用ベースで日本は7割以上を占めている。
33) 欧州の設備供給業者からの据付指導員派遣の例としては,熱延工場のホットストリップミルがある。ミル本体は西ドイツのSack社,電気設備は東芝が納入し,それぞれから据付指導員が派遣されていた(保永定雄「ホット・ストリップ・ミルの試壓延を迎えて」『時報いぱちんが』第48号,1965年9月30日付,2頁)。
34) 日本ウジミナス,第2部107頁。
35) 日本ウジミナス,第2部105-108頁,236頁。「ウジミナス建設に日本の人的努力」『時報いぱちんが』第52号,1966年11月30日,2頁。
36) 鹿島建設社史編纂委員会(編)『鹿島建設百三十年史』(上),1971年,575-576頁。日本ウジミナス,各論編262頁。
37) ウジミナス回想録編集グループ「ウジミナス小史」『ウジミナス回想録』1997年,27頁。
38) 「ウジミナス建設に日本の人的努力」,2頁。
39) ウジミナス回想録編集グループ,28頁。
40) ウジミナス回想録編集グループ,28頁。
41) これが派遣者の業務において操業指導が大きな比重を占めた所以と考えられる。
42) 小林謙二,136-137頁。ウジミナス回想録編集グループ,34頁。日本研修組の配属先(判明分)は以下の通り。A[1]コークス課長補佐,A[2]原料処理課長補佐,A[3]製鋼課長補佐,A[4]厚板課長補佐,A[5]厚板課長補佐,A[6]生産管理課長補佐,B[1]製銑課長補佐,B[2]設計課長補佐,C[1]炉材課長補佐,C[2]技術管理課長補佐,C[3]鋼片課長補佐(「インデンテカマラ製鐵所人事發令(その二)」『時報いぱちんが』第17号,1961年10月10日付,1頁)。
43) K氏,2002年1月28日および2002年2月25日。近年設備供給契約形態として,ターンキー契約,BOT契約,BOO契約などの契約形態が出現してきている。これは設備立ち上げ時のトラブルの責任の所在を明確にするために便利な契約形態であるが,ウジミナス建設期はこの種の契約形態が開発される以前であったと見なすことができる(K氏,2002年7月10日)。
44) 高林二郎「技術移転におけるいくつかの視点―技術形成の型から見た発展途上国の技術移転」『国際研究論叢』第6巻第3号,1993年,66頁。
45) ウジミナス回想録編集グループ,34-35頁。小林謙二,131-132頁。
46) ウジミナス回想録編集グループ,34頁。
47) 小林謙二,142/145頁。
48) 小林謙二,141/144頁。
49) ウジミナス回想録編集グループ,35頁。
50) 小林謙二,144頁。
51) 岡村義孝「厚板工場でのあけくれ」『時報いぱちんが』第27号,1962年8月10日,3頁。中川靖造『ウジミナス物語』産業能率短期大学出版部,1974年,138-139頁。
52) 小林謙二,140/142頁。
53) 基幹要員および一般要員に対する教育訓練については,各々興味深いテーマであるので別稿に期したい。
54) 小林謙二,142頁。
55) K氏,2001年11月26日および2002年1月28日。
56) K氏,2002年6月24日。
57) K氏,2002年6月24日。
58) なお,部長クラスの教育についてもこれに準じた方式(マンツーマンでOJT)で行われた(K氏,2002年2月19日)。
59) ウジミナス回想録編集グループ,28頁。
60) ウジミナス回想録編集グループ,35-36頁。
61) 中村直人「高炉物語余録―ブラジルと私(2)」『金属』第68巻第9号,1998年,91頁。中村直人「高炉物語―世界を視野に(続)」『金属』第67巻第8号,1998年,82-83頁。なお,その約1年半後の1965年5月には製銑部長もブラジル人(日本研修組B[1])となり,製銑部は組織としては完全にブラジル技術者によって運営されることになった(中村直人「高炉物語余録―ブラジルと私(5)」,91頁)。
62) K氏,2001年11月26日,「製鉄所組織の改正」「離着任者」『時報いぱちんが』1964年11月10日付,9/11頁。
63) K氏,2002年2月12日。