へん・ひん・やん

 

 一九歳まで川崎市の郊外ですごした。大学入学のため、京都に越してきた。はじめのころはことばにとまどった。

 なじみのないことばに慣れる過程は、そのことばがどの品詞かによってもちがうようである。

 最も単純なのは名詞で、しかも、その名詞がさす対象もことばを覚えると同時に知ったという場合だ。たとえば、冬から春にかけて店頭に出まわる「かますご」という魚。私はあの魚を関西に来てはじめて知った。形状からして、かますの稚魚らしい。しかし、「かますご」ということばを知るということは、既知のふたつのことば「かます」と「子」とをたんに結びつけるだけのことではない。小さいなりに油ののった身を酢醤油で食べるその味わい、店頭に並ぶ身が日増しに大きくなり、肌の黄色が深くなっていくその成長のはやさ、それが出回るころの、寒さがようやく緩みかける季節の移り――「かますご」という音を聞いたとたんにそれらを思い出すようになることが、ことばを知るということである。(ついでにいえば、「かますご」は、私が当初思ったような「かますの子」ではないらしい。『料理の基礎知識 素材編』によると、春先に釘煮にされる「いかなご」「こうなご」がそうとも呼ばれているのだそうだ。釘煮とは佃煮で煮あがったいかなごが小さな釘に似ているための呼称)。

 また、既知のものや既知のものと似通ったものに別の名詞が使われている場合にも、理解が早い。そば屋、あるいは、うどん屋で「たぬき」と注文する。関東では、揚げ玉の入ったそばが出てくる。京都で出てくるのは、きざんだ油揚げを入れてくずでとじたうどんである。関東では、油揚げを入れれば「きつね」と呼ぶ。関西には油揚げを入れたものは二種類あって、そのうち、油揚げ(この場合、関西風に「薄揚げ」とか「お揚げ」と呼びたい)を大きく切って甘く煮つけて入れたものが「きつね」と呼ばれる。もちろん、はじめはとまどう。「たぬきを注文したんですけど。これ、きつねじゃありませんか」。「いいえ、たぬきどす」。化かされたような気分で食べ終えた覚えが私にもある。

 形容詞や形容動詞だと、意味をのみこむのにかなり手間がかかるようである。おそらく、これらの品詞では、名詞と比べれば(あくまで程度の問題だが)、ことばと対象とが単純に対応していることが少なく、むしろ、ことばによって対象を分類するという機能があらわに感じられ、しかも、そのことばを知らないひとはその対象をすでに知っている別のことばによって分類してしまっているからだろう。たとえば、「ぬくい」「ぬくとい」ということばは関東ではもはやないか、かなりすたれてしまった。「ぬくもり」ということばはわかるから、「ぬくい」の意味はわかる。しかし、関西のひとならすぐにも「ぬくい」と形容する事象をそうは呼ばない。それなら何というか。「あたたかい」というだろう。これを聞いた大阪生まれの友人は、「なんとゆう、貧しいことばや」と天を仰いで慨嘆した。友人はここからただちに「関東者の情操の乏しさ」を結論しようとするが、その推論にはくみさないものの、たしかに、「快い」「落ち着いた気分になる」といったニュアンスをもった「ぬくい」が衰えて、ただ温度が一定の範囲にあることだけを、いわば無機質に、表わしもする「あたたかい」という表現しか残っていないのはいささか貧寒な気もする。

 さて、助動詞となると(おそらくは助詞でもそうだろうが)、そのことばの意味ははっきりと理解できても、自分では使わないままにとどまることが多いようだ。これらの品詞は日本語の文の骨格をなすような働きをもっているので、最初から、その助動詞・助詞を使う地方のことばを話す構えで話さないことには出てこない。ネイティヴ・スピーカーならざる者のよく使いこなせることばではないのである。

 

へ ん

 私にとって、打消しの助動詞「へん」はそういうことばである。

 「へん」が助動詞だというのは、完了の助動詞「た」がその下に接続するときに、「へんかっ」と変化するからである。もし、この活用形がなければ、助詞とも考えられるところだ。活用表を書くと、

未然形

連用形

終止形

連体形

仮定形

命令形

へんかっ

へん

へん

 「へん」は動詞の未然形に接続する。形容詞や形容動詞には接続しないようだ。形容詞や形容動詞を打ち消すには、動詞「ある」が入る。

例文1 「この品でこの値やで。いっこも高うあらへん、ちゃうか」(This quality and this price! It is not expensive at all. Could I be wrong?)。

 ところが、大阪生まれの別の友人から、「へん」は仮定形にも接続するといわれたことがある。たしかに、「そないなこと口が裂けてもいえへん」などといった例文が頭に浮かぶ。しかし、これは五段活用の動詞(この場合は「いう」)が下一段活用の動詞、つまり可能動詞(「いえる」)に変わっているのであって、したがって、五段活用動詞の仮定形とみえたものは下一段活用動詞の未然形にすぎないのではあるまいか。けれども、友人の言では、そういう場合も多いとはいえ、必ずしも、それで言いきれるものではない。むしろ、意味を強めるために仮定形を用いる場合がある、というのだ。

 この問題はしばらくのあいだ私の頭にひっかかっていた。

 どちらともいえそうなあいまいな場合からみてみよう。

例文2 「いんねんやと。ワシ、ホルモン5本しか食えへんかったやないか」(はるき悦巳『じゃりン子チエ』第1巻第2話)。

 50本食べたと法外なぼられ方をされようとしている客が反論する場面である。この場合、「食える」という可能動詞の未然形ととることもできるが、それでは、なぜ、この場面で可能動詞を使う理由があるか。ホルモン焼5本で満腹してしまい、それ以上は食べられないといった体つきの客ではない。むしろ、風体からすると、経済面からそれ以上は注文できないというほうがいっそうありそうである。ところが、勘定をごまかそうとする別の客が出てくる別の場面から、そのホルモン焼屋のホルモン1本の値段は50円だと知れる。「酒が二杯。ホルモンが13本や。四百円たらん」「13本! おまえ目ついてるのか。ワシ、5本しか食うてないやないけ」(同上)。

 この値段では、5本を超えては経済的に耐えられないというのもじゅうぶんな説得力はなさそうだ。むろん、1本50円の支出を倹約しなければならない場合もあろう。ふところ勘定から、そんな支出はできないと訴えている可能性も霧消したわけではない。けれども、「食えへん」が表わしているのが生理上の不可能性ではなく経済上の不可能性でもないとすれば、残る可能性は「自分は、事実、5本しか食わなかった」ということを強くいおうとする表現だということになる。

 だが、もっとはっきりと仮定形と決まる場合がある。

例文3 どないもこないも、あれへん(It's of no use whatever you say.)

 「ある」は五段活用動詞だから「あれ」は仮定形である。「あらへん」という場合と併用して「あれへん」が存在するのである。前者より後者のほうが迫った印象を伝える。それでは、どうして未然形よりも仮定形のほうが、意味が強まるのか。

 これは、未然形とか仮定形といった概念から考えるよりも、むしろ語調の問題だとみなしたい。というのも、次のような表現もあるからである。

例文4 かめへん。

 この「かめ」は「このステーキ、固うてかめへん」といった場合の下一段活用動詞「かめる」の未然形ではなくて、意味からして五段活用動詞「かまう」に由来する。「かまわへん」という言い方もできないわけでもないだろうが、またその縮約形「かまへん」というかたちはしばしば使われるが、“Never mind!”と力強く言い放ちたいときには例文4のようにいうようだ。しかし、「かまう」の活用に「かめ」というのはない。仮定形「かまえ」の語幹に含まれている後ろの子音(m)と活用語尾(e)とが融合して「かめ」となったのだろう。

 さらには、本来の活用形に「エ」の音が含まれていない動詞、たとえば、上一段活用動詞においても、「へん」の上にくる音が「エ」に変わってしまう場合がある。

例文5 でけへん。

は“I/You can't do it.”の意だが、このほかに「でけ」という言いまわしを使う例は見当たらない(*註)。だから、下に接続する「へん」の最初の母音「エ」に牽引されて母音が変わったとしか考えられない。そして、強く言いきるには、母音「エ」が連続するほうがいいのであろう。

 類例には、カ行変格活用動詞「くる」に「へん」が接続する場合の、

例文6 けえへん。

があげられる。

 以上をまとめると、打消しの助動詞「へん」は未然形に接続するか、ないしは、とくに強意の場合には、「へん」の上にくる動詞の語尾を母音「エ」とすることが好まれる。その現象は、たんに五段活用動詞では仮定形に接続するというだけではなく、本来「エ」で終わる活用形がない場合に、しかも「へん」と併用しないでは使われない形を新たに生むほど強い牽引力をもっている――と、どうでもいいことに力を入れて解説してしまった。

* こういいきったのはいいすぎだった。というのも、あとで次の例文を発見したからである。

例文補遺1 「日本でも、こういうものがでけると、西洋人に見せております」(川端康成『古都』新潮文庫、一九六八年、一六七頁)

例文補遺2 「そんな返事、さっそくには、でけしまへん」(同上、二一三頁)

ただし、これは下一段活用動詞「でける」とみたほうがよさそうだ。というのも、例文補遺1は終止形で、補遺2は連用形だからである。これにたいして、ふだんは「でける」という動詞を使わず、「できる」といっていても、「へん」が下に接続するときだけは「でけへん」というひともいるようだ。だから、「『でけ』という言いまわしを使う例は見当たらない」は誤りだったが、「でけ」というかたちを「へん」の最初の母音に牽引されて母音が変わる例としてあげるのは依然として間違いではないと思われる。

ひ ん

 京都では(とさしあたりはいっておく)、「へん」ではなく「ひん」を使うこともある。

例文7 「佐藤君、図書館にいィひんかった?」「みィひんかった」「きょうは、きィひんのやろか」

 活用は「へん」と同じで、

未然形

連用形

終止形

連体形

仮定形

命令形

ひんかっ

ひん

ひん

 「へん」とちがうのは、例文7のように、連用形に接続するという点である。例文7では、母音「イ」の動詞ばかり並べてしまったが、どうも私の知るかぎり、ほかの母音に「ひん」が接続することはないようだ。たとえば、下一段活用動詞に接続するのを聞いたことがない。それどころか、五段活用動詞の連用形も母音「イ」なのだが、たとえば、「わかりひん」というような言い回しがあるのかどうか、心もとない。おそらく、その場合には「わからへん」となるだろう。つまり、「ひん」は「へん」よりも接続できる動詞の外延が少ない。そして、「ひん」が「へん」と併用されるというのだから、最初に書いたように、「どこそこでは『ひん』を使う」というほど、きっちりと使用区域が分かれるわけでもなさそうだ。ひょっとすると、「ひん」はこれから先すたれていくことばなのかもしれない。

 

や ん

 和歌山の医大に赴任したとき、今度は「やん」という打消しの助動詞に出くわした。

例文8 「『コンピュータ教育、充実せえ』いわれても、ひとりの教員で60人の学生を相手して、実習なんかできやん」「あれよー」(註。「あれよー」は和歌山のことばで、相手の言を意外とうけとめながらもその内容には賛成したり感嘆したりする場合に使うようだ。「いしくもいひつるものかな」といったニュアンス)

 活用は「へん」「ひん」と同様である。

 私は、長い間、和歌山ではじめてこのことばに出会ったと思いこんでいた。ところが、先に引用した『じゃりン子チエ』のなかに、次のような例文がある。

例文9 「ワシ、今晩にそなえて寝やんといかんのや」(第1巻第4話)。

 この漫画を読んだのは和歌山に赴任するまえだが、私はなんの抵抗もなく例文9を読み、理解していたことになる。文脈から「やん」が打消しであることはわかったのだろう。

 それでは、どうして和歌山に行ってから、このことばがなじみのないことばのように思えたのか。おそらく、これはイントネーションの問題である。文全体のなかで、「やん」に強勢がおかれることが多いのである。そのために、いかにも頑強に否定してゆずらないという印象を与えるのだろう。例文8は、私が反論されたわけではないが、一般に、なじみのないことばで異なる見解を示されると、なじみのないことばにたいする違和感もつけ加わって、語られた意見に威力が増すようである。

 ただし、「やん」はどのような動詞にでも接続するのか、また、どのような活用形に接続するのか(例文8では連用形で、例文9は下一段活用なので判別しがたいが連用形の可能性もある)、そのあたりのことは、耳にした例文が少ないのではっきりとはわからない。

 

 ほかにも打消しの助動詞として、「ず」の連体形「ぬ」に由来する、全国的に使われている「ん」や、また、「ない」が関西でも併用されている。だから、「へん」「ひん」「やん」のそれぞれが接続する語の外延がかなりかぎられていたとしても支障はないわけである。なにか、あたかも体系的な説明をめざすかのように話を進めながら、竜頭蛇尾におわってしまった。

 つれづれなるままにのトップページにもどる