いたつきの記

 

2000年11月13日(月) 

 夜、顔がほてる感じ。かぜの前兆かとも思うが、あすの倫理学概論のプリントを作る。自由主義と共同体主義について話してきたのだが、その脈絡からヘーゲルに遡ろうというわけだ。引用は『法の哲学』からのみだが、1時半までかかる。まず、ヘーゲルの発想の特徴に言及して、それから引用文をもとに解説して、そしてこれまでの講義の流れとつなげて......と、あすの講義の構想を立てて眠りにつく。

11月14日(火)

 せっかくプリントを作ったというのに、体調悪くて講義を断念。休講届を出す。熱は低く、咳は出るが、洟も出ぬのだが、寝ていると体のふしぶし痛く、なんだか不意に大外刈りでもくらったような奇妙なかぜなり。

11月15日(水)

 複数の教員で担当する講義があって休みにくく出講。さらに会議が三つ。そのうちひとつは失礼し、しかし、そのあいだ、研究室へ質問にきた学生数人に応対。7時40分より夜間の講義ひとつ。同僚にいたわられるが、話すのに邪魔な咳や洟が気にならぬので教壇に立てぬほどでもなし。それでも、帰途では咳き込みはじめる。

11月16日(木)

 咳、繁し。申し訳ないが休講。夜、咳で眠れず。体を横にすると、気管が圧迫される感じ。気管の存在が気になるのははじめてだ。

11月17日(金)

 どうもこのかぜは売薬で治すのは無理みたい。医師が処方する薬をもらいに近くの病院にいく(私は職業名としては「医者」のほうがneutralでいいと思っている。ただし、今は「師」ともちあげておきたい。そうしたほうが、くれる薬が効きそうな気がするからだ。いわば、言霊)。ナースに「熱は何度でしたか」と聞かれる。ちょっとの熱ならさほど応えない口なので測っていなかった。「自分の体なんだから自分で気をつけなくては」と叱られる。すみません。でも、そもそも病院というところは、患者自身が自分の体のことを気にかけてもなかなか教えてくれないところなのだが。お宅はカルテの開示に熱心ですか? しかし、今そんな問答をしている場合ではないな。7度8分。

 レントゲン。CT。診断の結果、肺炎! 指先で測る血中酸素濃度は93%。「これじゃ、息苦しいはずです。すぐ入院してください。一週間から十日かかるでしょう」と、診断にあたった病院長にいわれる。レントゲンに映った(とりわけ右)肺の下部が白い。

 物心ついてから、入院するのははじめてである。いったん帰宅。来週の休講の連絡。たまたま運悪く、来週、一回だけの講義をする予定だったある大学へ連絡。担当者にかからず。メールを打つ。週末に結婚式に出席するはずだった以前の学生の実家に電話して欠席のおわび。その祝電をNTTに手はず。そのあいだ、妻がタオル、パジャマ、下着などをつめ込んで入院の準備をしてくれる。「退院するころには日本の首相が変わっていて、アメリカの大統領が決まっているかもしれないね」と妻にいう。(加藤紘一氏が第二次森内閣不信任案に賛成するかもしれぬと報道されていたころだった。どちらの予想もはずれた)。

 ふたたび病院にやってくると、「入院にあたって誓約書を書いてください」といわれる。おほう? もう十数年前になるかしら、インフォームド・コンセントをテーマに研究会をしていたころに、某教授(哲学)が勤め先の大学の付属病院から入院時の誓約書のコピーをもってきたなあ。某教授の話では、事務に使い途を聞かれて「研究会で公表する」といったら、「ちょっと、ちょっと、そういう場に出されては」と難色を示されたそうな。

 しかし、入院するには誓約書を書かねばならないのである。

誓約書

 このたび貴院(註:ここに科名を書き入れる。私の場合は「内」)科に入院加療のお願いを致しましたところ、その承認を得ましたので、入院の上はご指示に従い諸規則を守り、一切異議は申しません。以上、誓約致します。」

 本人の誓約書だけではなく、家族用まであるぞ。

身元の保証引受書

 上記の者が入院の上は、費用の点についての責任を引き受けますと共に、手術、検査、分娩処置等の実施についても一切お委せし、その結果万一の事故がありましても決して異議を申しません。」

 こういう一札をとってもなんら法的な効力はないだろうになあ。ところで、誓約書であるからには、出してしまえば先方に渡ったきりだ。おお、この文章は、後日、なにかの参考資料になるかもしれない。記録しておかなくては。あわてて手近の紙に文面を書き写す。そのほか、病院からもとめられた、入院までの経過の調査などなども記さねばならず、どうにか誓約書を写し終えたところへ、病棟に案内される。

 病室。せまく感じる。私ひとりの専有面積を見つもれば、ベッドで一畳、全体でせいぜい二畳か。着替えを入れる箱とかんたんな物入れ。「こう、せまいものかね」と妻に尋ねると、割合多くの病院を見舞ったことのある妻は「地方の市民病院なんかはこんなもんだよ」という。100平米に満たない巣箱を買うのに数年分の年収を要する国のことである。さもあらばあれ、これが日本の病院(入院したのは民間病院)の病室のふつうの規模ならば、平均的人間のひとりとしてここで療養するのが至当である。個室料金の一覧表ももらったが、小さい病院なので、個室はもっと重い病状のひとが使うべきだろう。

 ベッドに入っても、ナースによる聴き取り、病院長による治療方針の説明(抗生物質ミノマイシンの点滴など)、ついで、採血、血圧測定、点滴、酸素吸入、吸入(去痰薬)、尿検査、喀痰検査、便潜血反応検査、検温などなどと忙しや。

 病状経過の調査のなかに「医師の説明をどう聞かれましたか」という質問があった。質問の趣旨がわかりにくかった。まさか、「説明のとおりだと思った」とか「誤診ではないかと疑った」などと答えるわけではあるまい。おそらくは説明が患者本人に正しく伝わっているかどうかを確認する一項なのだろうと解して、病名・入院期間の見通しを記したあと、「レントゲン写真を示しながらの説明でわかりやすかった」と書いておいた。あとから知った話では、これは看護記録のための質問であった。別に医者の説明に評価を下す必要はないのであった。十数年、大学で教えるうちに、採点癖がいつのまにかしみついてしまったのかしらん。医者が私の回答をみたとしたらどんな気がしたか、それは知らん。

 酸素を吸うと楽である。友人を見舞うと、「酸素がうまい。酸素がうまいよ」と口から泡をとばしながらいっていた、という文章を読んだことがある(木山捷平「文壇交友抄」、『角帯兵児帯 わが半生記』講談社文芸文庫、1996年、239頁。友人は詩人の蔵原伸二郎)。それを読んだとき、体に必要なものをうまく感じるのは生き物として当然のことだから、ふだんは気がつかなくても、酸素もきっとうまいのだろうと思った。はからずもそれを確かめる機会を得たわけだが、口を囲うテントではなくて鼻で吸う吸入なので味わえず。ただ、吸入しているとrefreshという単語が浮かんできた。

 食事の内容を手帳にメモしていて妻に笑われる。でも、こんなことでも入院しなければ経験できないのだから、せっかくのことに記しておくのである。「昼 かきフライ、缶詰のいわしとキャベツのサラダ、だいこん煮付け。 夕 八宝菜(だろうようなもの)、小芋・しめじ煮付け(八丁味噌)、がんもどき・いんげん煮付け (以下略)」。

 ちなみに、漱石の日記にも病院の食事の記載がある。たとえば、明治43年6月21日の記事をみると、「病院の食事は。[sic]三度々々半熟玉子一個。牛乳一合なり。朝は是は[sic]?麭二切れ。バタ二片。ひるは刺身。晩は玉子豆腐又は魚の煮たものも[sic]、又は玉子焼等なり」(新書版全集25巻、岩波書店、155頁)。インタビューに「食物は酒を飲む人のやうに淡白な物は私には食へない。私は濃厚な物がいゝ。支那料理、西洋料理が結構である。日本料理などは食べたいとは思はぬ」と答えている漱石(「文士の生活」、同34巻、253頁)にとって、刺身は少しもありがたくなかった。二日後にはもう「朝のパンと午の刺身に窮す」(25巻、156頁)と音をあげている。そういえば、子規の病床日誌でも、ほとんど毎日のように刺身を食べていた。明治時代に栄養(当時なら滋養といったほうが適当か)をとるなら刺身だったのだろうか。今は衛生面から病院では出すまい。

 体をふく。足をふいていると、父親の葬式のときに父親の体をふいたことを思い出す。今の自分の足が黄色いからだろう。酸素がじゅうぶんにまわっていないのである。

11月18日(金)−20日(日)

 同僚諸氏のお見舞い。複数の教員で行なっている水曜の授業はわれわれでするから心配するな、といってくださる。点滴その他の処置、同前。

 となりのベッドのお年寄りは、検査でバリウムを腸に入れられたようだ。何度となく、ナースが「便、出ました?」と確かめにくる。なかなか出ないらしかった。ナースとのやりとりが耳に入る。病室では、おならの音、げっぷの音、尿瓶に尿の注ぐ音すら筒抜けである。「出た」「どんな色?」「色って、ふつうや」「白くありませんでした?」「白うない」「というと?」「黄色や」「おかしいなあ。バリウム出てへんのかしら......今度出たら、教えてな」「なんでや?」「見にきます」「ひとに見せるもん、ちゃう!」「でもなあ、バリウム出たか、確認せんと」「ううう、わしゃ知らん。そっちで入れといて。そんなん、知りたいんなら、その薬......バリウムとやらに聞け!」「すみません。お嫌でしょうが、どうか見せてくださいませ」「ううう、ううう」「だめ?」「......なんで、そんなに見たいんや?」「出ないともっとつらいことになるの。お腹立ちはごもっともでございますが、どうかお願いでございます。伏してお願い申し上げたてまつる」「......」「......」「......」「いいです。それなら浣腸にします! 決めました!」。それはそのお年寄りにとっていっそう嫌なことらしい。「......見せるよ。出たら、いうよ」と力ない声が聞こえてきた。「ありがと! ごめんなさいね。何度も何度も嫌なこと、聞いて」といって、ナースは去る。ベテランのナースらしい。

 朝夕、点滴を受ける。点滴剤を入れる生理食塩水の袋に私の名とミノマイシンという薬剤名が書いてある。そう書いてあっても、よもや、万一とは思うものの、薬剤そのものを入れまちがえられていたらという可能性もある。実際に入れられている点滴剤の名前は、生理食塩水の袋の上に突き刺してあるその容器をみれば確認できる。だが、袋をかける柱は180センチくらいの高さで、ベッドに横になっていると下から確認することはできない。すわりなおしても、食塩水の袋が邪魔をする。いっそのこと、ベッドの上に立ち上がれば、はっきり見極められるであろう。しかも、入院時にナースに教えられたとおり、「自分の体のことなんだから自分で気をつけなくては」を忠実に守るなら、ぜひともそうすべきではないか。しかし、点滴は寝ているところへ不意にやってくる。そのたびにベッドの上にやおら立ち上がって点滴剤をのぞきこむとすれば、「健康に対する意識のしっかりしたひとだ」と共感されるよりも「疑りぶかいひとだ」と忌み嫌われるのがおちであろう。ベッドの上に立ち上がれば、となりのベッドとの境のカーテンより上に顔が出るはずだ。同室の患者が注意していれば、点滴のたびに私の顔が天井近くに現われることになろう。

 点滴のたびに、ナースが患者にこれから入れる点適剤の容器を見せたうえで生理食塩水の袋に挿し込んでもらえればありがたい。だが、いちいちそんなことをしているひまがあるなら、ナースの詰所で患者各自の点滴を準備する際にもっと時間を費やす、そうすれば入れまちがいは防げる、といわれるかもしれない。さらには、点滴の準備がどこまでナース本来の仕事なのかも議論の余地があるはずだ。結局、私が実際にしたことは、食塩水の袋に書いてある文字が隠れているときには袋の向きを変えて確認する(少なくとも、他のひとの点滴とまちがえられた場合には、これで正せる)。字が書いていないときには、ナースに「ミノマイシンですね」と尋ねるだけのことだった。むろん、これではもともと入れまちがえられた場合には正せない。幸い、ミスをせずに世話してもらえたことに感謝している。もっとも、すべての患者が私の望むようなやり方を望むともかぎらない。薬の名、病名さえ知りたくないひともいよう。病院側からすれば、ミスしても、入院時に誓約書を出した以上、患者は「一切異議は申しません」とがまんすべきだということであろうか。

 朝9時まえに、病棟のはじにある公衆電話にむかって、「何々一箱、それに何々。ああ、いやいや、私、きょう一日、外に出ていますので、こちらからまた連絡いたします」と卸問屋に注文でもしているらしき声がした。(おや、こんなに早くから見舞いのひとかな)と思ってみると、パジャマの上にカーディガンをはおっていた。取り引き先に入院を伏せておきたい事情があったようだ。

 消灯後に廊下をばたばた走る音がする。「だれそれのおばあちゃんが点滴を自分で引き抜いて血だらけや」という声が聞こえる。「こんなんされて、痛うて寝られん。ひとのこと、ばかにして」とお年寄りの尖った声が聞こえる。「おばあちゃん、ここ、どこだかわかる? 病気になって入院してるんよ」とさとす声が聞こえてくる。結局、その病人はナース詰所に近い病室に変えられたようだ。そこには、ひとりで立てない重い病人が収容されているのである。その部屋からは、「タスケテタスケテタスケテ」とおばあさんの声が聞こえてくることもあった。叫ぶのではなく、間断なくつぶやいている。妙にあどけない声であった。

11月21日(月)

 レントゲン。夕方、医師(副院長)の説明を聞く。レントゲンをみると、影はだいぶ減っている。点滴・投薬が奏効しており、喀痰検査からしても、ふつうの肺炎球菌による肺炎とみる、との話だった。喀痰検査のシートに「グラム陽性」といった字をみる。(退院後に百科事典で肺炎を調べた。グラム陽性球菌性肺炎、グラム陰性桿性菌肺炎、マイコプラズマ肺炎、ウィルス肺炎などわかりやすく書いてあったが、「細菌性肺炎では化学療法前に喀痰あるいは血液培養によって起炎菌の検出を試みることが必要である」とありながら、また「治療の根本は化学療法である。起炎菌が決定されたときは、その起炎菌が感受性を示す抗生物質を選択するが通常は起炎菌が未定で推定しながら化学療法を行うとある。一読すると前後の青字の部分が矛盾しているように読める。おそらく、「まずは喀痰検査か血液検査をせよ。だが、原因となる菌を確定するには時間がかかる。高熱を発している患者をまえにして検査結果が出るのを手を拱いて待っているわけにはいかないから、菌を推定してみて効きそうと思われる化学療法をはじめろ」という意味だろう)。

 CTをみる。脊椎が黒い丸に映っていて、その下から左右の肺が内側を抱くようにして伸びている。画面によってはその肺の一部が白い。その画面をながめていると、なんだか思い出すものがあった。鮭の缶詰だった。あれもこれも輪切りにされた身であるし、鮭の缶詰には背骨も入っているからであろう。

11月21日(火)−11月23日(木)

 病院長の回診によると、まだ、肺にピーという音が残っている由(21日)。副院長が回診した結果、酸素吸入を停止し(22日)、点滴をやめて抗生物質も経口とする。肺の雑音少なし(23日)。

 妻が新しいパジャマをもってくる。「デパートに行ったらブランド品の安売りをしていたんで、もう二着補充しておいたよ。私も万一入院するようなことがあったらと思って探したけど、女物のパジャマはなかった」「女物は正規の値段で売れちゃうんじゃないかなあ。逆に、男物は値引きするまで売れないのでは」「どうして?」「買いにくるのは、たいてい女のひとだから」。

 そんな会話をかわしたせいか、入院するときの書類に「洗濯物はどなたがしてくれますか」という質問があったのを思い出す。そうした世話を頼めるひとがいないひとは入院生活も不自由なのである。病状の許すかぎりは、患者自身でも洗濯できるような設備が病院内にあるとよい。でも、自分で洗濯できなければ、だれに頼めるだろうか。ヘルパーさんと呼ばれるひとたちが働いている。私のような軽症の患者には、朝昼晩にお湯を配ってくれ、寝ていれば食事を運んできてくれ、シーツ交換などをしてくれるひとたちだが、それ以外に、重い患者の体を支えたり向きを変えたりする重労働をしているひとたちである。こういうひとたちにお願いすることはできまい。かといって、ときどき必要な洗濯と身の回りの物の買い物だけのために、専属にひとを頼むこともできまい。これから単身生活者が増えていくだろうから、そのうえ、私自身、独身時代が長くて、心の根っこに「人間、しょせんひとりだ」という気持ちがしみついているので、そういうことが気にかかる。

 莫大な額の銀行通帳を残して血を吐いて倒れていた永井荷風の死に方は、単身生活者の最期として(望ましいかどうかはともかく)ひとつの参照例であるが、荷風が入院を宣告されたらどうしただろうか。束縛を嫌う荷風は無理にも自宅に帰るだろうか。それとも、忌み嫌っていた実弟に遺産を渡さぬためにそうしたように、親戚のだれかに養子縁組をして世話を頼むだろうか。かつての愛人には、別れてから二十余年ぶりに来訪した関根うたという例がある。だが、別れた相手に身の回りの世話を頼むわけにはいくまい。荷風は大正8年1月16日の日記にこう記している。「桜木の老婆を招き、妓八重福を落籍し、養女の名義になしたき由を相談す。余既に余命いくばくもなきを知り、死後の事につきて心を労すること尠からず。(中略)妓八重福幸に親兄弟なく、性質も至極温和のやうなれば、わが病を介抱せしむるには適当ならむと、数日前よりその相談に取かかりしなり」(『断腸亭日乗』岩波文庫版、上巻、1987年、24頁)。この話は女が「思ひもかけぬ喰せ物」だったので終わった。このようにおさおさ心組みは怠らなかったものの、余命いくばくもないはずの荷風はそれから四十年生きて、独りで死んだ。また、荷風が「わが病を介抱せしむる」相手を得たとしても、荷風死後、残された相手が病気になったときには――荷風自身は残された者の心配までしそうもないが――どうするか。

 今後はますます身近な係累のない入院患者が増えてくるだろう。ビジネスライクになってもしかたないから、入院患者が、家族がいればしてもらえるような雑用を代わりにしてくれるひとと仕組みが必要だろう。雑用に対する報酬を組み合わせて、その仕事をするひとにとって充分な収入にまでするのがむずかしいことではあるが。また、費用を払えないひとはどうするかということも考えねばならない。現在でも身寄りのない入院患者はいるけれども、数が増えれば別の対策が要る。(どうも現在の日本の状況からすると、「家族をもたないなどけしからん! 本人の自業自得だ」と叱る政治家が出てきそうな気がする)。費用が払えないという話では、明治から昭和にかけて徳島に在住したポルトガル人作家モラエスは、女中にしもの世話をする一回ごとの報酬を要求され、糞尿にまみれて自殺してしまったといわれている(関川夏央『戦中派天才老人山田風太郎』ちくま文庫、1998年、52頁)。荷風が銀行通帳を肌身離さなかったのは、それしか頼れるものがなかったからだ。荷風の死は、すでに仕事をし終えた作家の死には似つかわしくなく壮烈な印象を帯びているが、それは生活者の死として壮烈だからである。

11月24日(金)

 レントゲン。副院長回診。まだ肺に少し汚れがあるが、退院可能という。職場への復帰を問うと、すぐに可能なるべしとのこと。

 まだ、咳は残っており、のどに掻痒感があって、かぜが治った気はしない。もともと、私はかぜを治しにもらいに、この病院に来たのだけれども。だから、患者の気持ちとしては、「肺炎は治ったが、かぜは治らない」という感をまぬかれない。けれども、医師の診断は肺炎だった。とすれば、医師が治すべき目標は肺炎だった。そして、肺炎は治り、医師の設定した目標は達成できたのである。

 このあたりのことをどう説明すればいいだろうか。「肺炎は治ったが、かぜは治らない」という患者の印象を、医師を主語にしていいかえるなら、「肺炎は治せるが、かぜは治せない」ということになってしまうが、私はこれを皮肉でいっているつもりはない。なかば、医師の仕事はそういうものではないかとも思っている。医師はまず診断して病名をつける。病名をつけるということは、あるタイプに整理するということだろう。診断、処方、処置が一定の医学知識に裏づけられている以上、一定の形に整ってきて、つまりは、マニュアル化していくだろう。治療法のかなり確定した病気の場合はとくにそうだろう。その整理されたケースにしたがって、(もちろん、たとえば、とりあえず「起炎菌が未定で」も「推定しながら化学療法を行う」というふうにさらにタイプを細分化する必要があるにしても)対応が決まる。その対応が効を奏する。目標が達成される(レントゲン写真をみれば、肺はきれいになっており、血液検査では炎症反応がマイナスになっている)。それによって標準的なプロセスが終わる。それと同時に、自分の仕事も終わったと、医師自身が考えていても不思議はないといっているにすぎない。

 それにしても、医師が退院を許可したなら、まだ残っている咳のようなかぜの症状もまた入院していなくても治っていくということだろう。退院時にもらうはずの三日分の薬が終るあいだにおいおい消えていくであろう。私自身も退院したい。一週休んだが、来週は授業ができるかもしれない。幸い、土、日を控えている。そのあいだに静養できるだろう。夕刻、退院する。

II

11月25日(土)−11月27日(月)

 自宅で寝ている。ただし、咳は続いている。27日午後より咳ひどく、息苦しくなる。8度8分。夜がふけるにつれて、息を吐くたびに、一拍おいて、肺がピーと鳴るのが自分の耳にも聞こえだす。

11月28日(火)

 またも休講。四日まえに退院したばかりの病院に行く。外来のナースから「ぶり返しましたね」といわれる。中年の肺炎患者が仕事を気にして退院しては数日後に再入院してしまう話は聞いていたが、私もその例か。

 レントゲン。CT。診断は、前回入院したときほどひどくはないが、前回と違う部分に炎症がある。一連のものとは思うが、アレルギー性肺炎とも疑われる、と。「ペットを飼ってますか?」「いいえ」「部屋に観葉植物は?」「ありません」「カーペットを敷いている?」「いいえ」。「そうじはちゃんとしていますか?」これには私より先に妻が「毎日しています」と答える。どうも、思うに、たんなるぶり返しじゃないかしらん。しかし、完治したということで退院の許可を出したのだから、病院側としてはなにか違った病名が要るのだろうかとも(患者による診断では)疑われる。厄介なのは、アレルギーの抗原がみつからなくても、昔の論理学でいう無限判断に留まる点だ。つまり、「原因はpではない」とはいえても、いくらでもある他の抗原のどれか(q、r、s...)が原因である可能性は否定されないし、かといって、しらみつぶしに全部調べるわけにもいかないだろうから、アレルギー性肺炎なのか否か、灰色決着で終わるのではないかしらん。灰色決着でもいいけれども、そのために入院が伸びると困る、などと内心考えている。

 予定十日間で、再入院と決まる。またも病状経過の調査。「医師の説明をどう聞かれましたか」に「アレルギー性肺炎ということでした」と記す。それにしても、患者がどんな人物かを知るためか、家族構成、学歴、性格、趣味などいろいろ聞かれるものだ。性格なんて書きようがない。「狷介」などと書いたら警戒されるだろうな。

 点滴、投薬は同前。ただし、ステロイド系の経口薬が加わる。「ステロイドを使ってると肌がきれいになるんよ」とその経験のある妻がいう。しかし、私がむいたゆで卵のようになってもどうなるものでもない。解熱剤と氷枕。夕方、6度まで下がる。

11月29日(水)

 肺の音よくなる。同室の患者どうしで「きょう6時過ぎに毎日放送で『よい病院、わるい病院』って番組をするぞ」と話しているのが聞こえる。6時になる。私も見ることにする。カーテンを閉めてイヤホーンをしているので、だれがテレビを見ているのか、どの番組を見ているのか、わからないけれども、入院患者のほとんどがこの番組を見ているとしたら、と想像するとおかしい。カルテの内容を患者に説明する病院、患者ごとに医者と患者のあいだでやりとりできるノートを作っている病院が紹介されていた。夜の外来受付がはじまっている。待合室でも、この番組がかかっていたりして。

 妻にパソコンをもってきてもらって、必要なさきざきへメールを打つ。といっても、病室にはジャックがないので妻にあとで発信してもらうわけだが。今週末に研究会を予定していたのと、修士論文、卒業論文の指導が重なっていて、ほんとは入院していられる状態ではないのである。アドレスのわかる関係者に、研究会の延期を申し出る。

 昼にひとしきり病室が騒がしかった。あす、太ももから心臓にカテーテルを入れられる(狭心症の疑いのある)患者が剃毛されるのを、悪友連がからかっていたようだ。無作法な話だけれども、からかわれる側はかえって不安がまぎれるかもしれない。からかう側にも経験者がいるみたいで、まったくの悪ふざけというだけでもなさそうだった。

11月30日(木)

 病院長の回診。肺炎球菌の再増殖とは考えられず。高年齢や余病があって免疫力が落ちているとか、退院後にかぜをひいたというのでもなければ、そうそう肺の機能は落ちぬはず、と。なんだか、ぶり返しではないかと疑っている心底を見破られたような話。しかし、そもそも、入退院時をとおして、かぜをひいていたのであるが。

 病院長がさらに続けていうには、先の血液検査ではアレルギー抗原は特定できず、肺はきれいになってきた、もう一度血液検査をしてみる、と。入退院、再入院を通じてあいかわらず咳が続いているのが気になって、訴えてもいるが、それへの説明はなし。

 妻、来。昨晩、同僚のQ先生より電話があり、「欠勤届と診断書を出して、年内は養生せよ。授業を受講している学生にはレポートを課せ。代講の教員がそれを伝えて、回収する」とのこと。私としても、二週の休講ならば補講期間で補えるが、これではどうしようもないと焦りはじめていたところであった。また、Q教授は続けて、「このあいだお見舞いしましたが、さしでがましいことを申すようですけれども、奥さん、あの病院でよいのですか? 私はあんなにせまい、暗い、しめっぽい病院を見たことがありません。私の知っている病院をご紹介しましょうか」といわれたそうな。妻は(内心感じていたことを指摘された)と落ち込んでいるが、私は笑ってしまった。さすがにQ先生、いいにくいことでも面を冒していってくださる、じつに親身な方だと感心するとともに、「せまい、暗い、しめっぽい」と韻をふんでいるような批評を病院長が聞いたらどんな気がするだろう、と思うとおかしくもあり、気の毒でもある。私自身はせまいはせまいにしても、さほどには感じていなかった。Q先生そのほかにメール。来年度に非常勤に出る予定の某大学の、締切の迫ったシラバス(講義要項)を作る。妻に自宅で印刷、郵送してもらうこととす。

 となりのベッドのひとも肺炎なのだが、昼に職場のひとがよく訪ねてくる。見舞いというよりも、いろいろ指示をもらいにくるようで、ボーナスの算定がどうのこうのと話し合っている。ボーナスを算定する係のひとが今入院しているのでは、気が気であるまい。この患者は、ナースが血中の酸素濃度を指先で測る機器をもってくると、となりの私にまで聞こえるくらい「すーは、すーは」と深呼吸して、なんとかいい数値を出そうと努力しているのだが、たいていは「そんな数字かあ。もう一回!」とせがむ結果に終わっていた。

 きょう、心臓にカテーテルを入れる検査を受けるひとは、ここにはその設備がないので、昼過ぎに車で別の病院に運ばれていった。「刺すだけやろ?」と聞いていたが、ナースに「ううん。カテーテルが入るようにちょっとメスで切るよ」といわれて、「えっ! 切るんか」といったきり静かになってしまった。帰ってくると、ナースに「許可が出るまでけっして動いたらいけませんよ」といわれていたが、六時過ぎに「たばこががまんできん」と起き出し、点滴したまま、喫煙室に行ってしまった。おやおや。夜、家族の見舞い。実母らしきお年寄りと奥さんと高校生ぐらいの娘と中学生ぐらいの息子であった。消灯のときに、ヘルパーのひとに「尿瓶がいるんかな」と聞かれると、今度は「うん、看護婦さんに『十時までは、いっこも動いてはあかん』いわれてるんや」とおとなしく答えていた。

12月1日(金)

 副院長の回診。酸素の吸入の量を減らす。前回、退院許可を出してくれたのは副院長だが、なんだか、病院長の診断だと退院などはるか先みたいなのに、副院長の診断だと退院まぢかな感じがする。そのふたりがかわるがわる回診するので、よくわからぬ。病院長は経営者だから入院期間を長めにとり、副院長は副院長といっても勤務医だろうから入院期間にさほどこだわらずに患者離れがいいのだろうか。もちろん、推測を出ない。別の解釈をすれば、副院長はレントゲンや血液検査の結果(だけ)に力点をおく若いタイプで、そのため早い退院を指示するのに対して、病院長は経験を積んでいて、データ上は完治しているようでも予後を気遣って入院期間を長くしているのかもしれない。

 副院長に勤め先に出す診断書を頼む。事務上、退院の見通しと退院後の療養期間の見通しとが必要で、そのことを伝えるまえに「はいはい、書いておきます」と気軽に返事して去ってしまわれた。病室の入り口のベッドなので引き止めるいとまもなし。

 学生に課すレポートを考える。代講といっても、私のしているような哲学、倫理学の授業ではほんとうの意味で代講することはできない。私のこれまでしてきた話の流れ、話のなかで登場させる哲学者の位置づけ、見方は、代講される先生のそれとおそらく違うからである。これが一貫した教科書にしたがって、教授内容が確定している、たとえば、微分学演習といった科目なら、数学者が学内に複数いれば、文字通り、肩代わりできるのだが。だから、学生が「その哲学者の話なら、何々先生の講義で聞きました」といっても、別の教員の講義で同じ哲学者が同じように論じられるとはかぎらない。私としては講義のなかで、(1)その哲学者についての一応の情報(これは他の先生の講義で伝えられる内容とほぼ同じだろう)と、(2)引用した資料を実際に読み解いてみせること(最終的には、学生自身が哲学や倫理学のテクストを読み解けるようにならなくてはいけない。そのための、いわば、実演をしているみたいなものだ。もちろん、この「読み」こそ講義する者自身の知識・理解力によって変わってくる)、(3)一連の講義には私なりにつけたプロット(筋)があって、そのなかにその回にあつかった内容を位置づけて、全体の流れを通して講義の主題を受講生に伝えることをめざしている。だから、よくも悪くも、「私の」講義なのだ。

 同僚Q先生、欠勤届をおもちくださる。やはり転院を勧められる。勤め先の保健医療センターにおられる呼吸器科の医師に相談してくださった由。その医師が診断しておられる病院のベッドがあいているかぎりいつでも受け容れ可能との話。お忙しいのにいろいろ配慮していただき、ありがたいお話ではあるけれども、あす血液検査が控えている。ここで不意に転院を申し出ると、(この病院の診断は信じません)と宣言するようなものだ。あえてそうするまで不信を募らせてはいないので、もう少し考えることとする。

 きのうカテーテルを入れる検査をしたひとに、きょう、退院の許可。狭心症以外にも、肝臓の薬、胃の薬といろいろもらっている。このひとはたばこを吸っているだけでなく、病院に近い店の芋まんじゅうを買い食いする話を熱心にしていた。(まだ傷口が充分にはふさがっていまい。養生せよ)と「同室するのも他生の縁」で念じて見送る。

 となりの肺炎患者にも退院の許可。仕事に戻れるうれしさに、奥さんが「夕方、着替えをもってくるのに」というのも聞かばこそ、昼過ぎ、勇躍して帰っていった。まだ咳が出ている。(養生せよ。わがせしごとく再び入院することなかれ)と念じて見送る。

 夜、同室のお年寄りの話。「そうです。私は糖尿の気がありましてね、ここの病院に二ヶ月にいっぺん、検査してもらいにくるんで。いや、いつも二日ぐらいで済むんですよ。でも、今度はなんだあかんだあと検査が続きましてもう半月になりますなあ。最初は肝機能が落ちとるという話で、きのうは大腸にポリープが見つかったとかゆうて。院長先生やと次から次に検査しやはる。副院長はすぐに帰してくれはる。まあ、ここんところ、ベッドの空きが増えてますから、なかなか帰してくれんやろ」。

12月2日(土)

 きのう副院長に診察書について充分に話せなかったから、勤め先の事務が求めている事項を記した依頼の手紙をあらためてしたためる。宛名を「○○先生御侍史」とする。私が脇付を学んだのは鴎外、漱石、龍之介などの書簡集からである。その脇付の風習がいまだに医者同士の手紙に残っているのは、最初の勤め先だった医大で知った。専門課程の教授に出す文書に、半分おもしろがって「硯北」とか「虎皮下」とか書いたりしたが、どうも医学界でも生き残っているのは御侍史だけらしい。ところが、きょうの回診は病院長だった。このひともそそっかしいのか、忙しいのか、手紙を走り読みして、「書いときます」といいながらそそくさと病室から出ていってしまう。いささか不安。

 はたして、昼過ぎ、病院の事務員、来。診断書が、きのう副院長が書いたのと、きょう病院長が書いたのと二通できてしまった、と。やれやれ、二回頼んだから二通かいな。ところが、事務員がさらに続けていうには、「で、院長先生のは『入院三週間を要す』って書いてるんです。副院長のは『入院十日間を要す』なんです。どうしましょう?」。おいおい、入院期間について担当医同士で話し合ったりしないのかいな。診察している医者は、たったふたりしかいないのに。それに、診断書の原本は私のカルテなり何なりに保存しているはずではあるまいか。それなら、どうして、あとから書くほうが(お、もう書いてある)って気づかないんだ! それとも、病院長が副院長のをみて(これじゃ短かすぎる)と延ばしてしまったのか。ともかく、どちらかを選ばねばならない。とんだところで、患者の選択を反映したオーダー・メイドの医療である。

 文面を読むと、退院後の療養期間を書いていない。その旨をただすと、まだ退院が確定していないから書けないとのこと。それなら、長いほうを選ぶのが無難かもしれない。短いほうを選んで入院が長引き、代講の再設定などをするはめになって混乱させては申し訳ないから。こちらの望んだ記載事項について説明したいきさつから、事務員が「○○先生御侍史」の手紙をもってかえる。その手紙がどこへ届いたかは知らない。

 夜、メールをみていると、Q教授からのもあり。「やはり転院を強く勧める」とあって、「先の早すぎた退院も医師の軽率でしょう」ともある。このあたりはむずかしい。私は肺炎のぶり返しで再入院したのだと思っているから、その点ではQ教授と同じ気持ちを抱いている。だが、レントゲン、炎症反応から「肺炎が治っていた」とみた点で、医師が誤ったわけではあるまい。その点では、「医師の軽率」はないだろう。とはいえ、退院後の「患者の軽率」ではない。自宅で寝ていただけなのだから。それなら、咳の続いているのを過小評価した点が「医師の軽率」だということになるだろうか。患者としてはそういいたくもなる。

 けれども他方、私は、退院した11月24日の項に記したように、診断し、治療するとは、病名を名づけ、(肺炎のようにすでに治療法がそれなりに確立している病気では)病名にしたがって標準的な治療方針を採択し、その病気の症状が消えたら完治したと判断するということだろうと考えている。(それでは、なんだか、いかにも事務的、お役所仕事みたいじゃないか)と反論するひともいるだろう。でも、平均的な医師に望みうるのはそういうことじゃないかしらん。(それはマニュアルというものであって、ほんとうの医学とは、他の学問と同じく、身につけた知識にもとづいてその場その場で想像力を働かせることだ)というのは正論である。私も賛成する。けれども、高度な教育を受けても、結局、マニュアル化した知識としてしか身につかないひとも多いのが実情ではあるまいか。ある患者の体調全体を見据えて適切な処置をする。すべての医師がそうした能力を獲得できればありがたいが、毎年数千人ずつ誕生する医者全員にそれを望むことができるだろうか。もっとも、私の医者像はあまりに低すぎるといわれるかもしれない。けれども、医師の理想について語るなら別の話だが、ある医者の責任範囲を云々するときにはその時代のその社会の平均的な医者の業務を参照せざるをえないだろう。

 私が診ていただいたお医者さん(どうも、上の段落では知らず知らずに「医師」と「医者」とを使い分けていたな。これから、ひょとするとご本人の意にそわないことを申し上げるかもしれぬので、そうなると、思わず「お医者さん」などと書いてしまう)は、私にその判断がつくかどうかは分からぬものの、とくに名医という印象もないかわりに、とくに藪という気もしない。おそらく必要な、それなりの努力をされ、資格にふさわしい技術と知識を身につけられた方だと感じている。

 ただ、まあ、平均的な医師像として、もう少し、患者のいうことを受け止めてくれるひと、また、もっとくわしく病状や見通しについて説明してくれるひとを思い描けるようであればいいのだが。私は、当然、現在私がいだいている平均的な医師像に満足しているものではない。

12月3日(日)

点滴、吸入、投薬同前。勤め先のシラバスを作成。

12月4日(月)

 レントゲン。採血。副院長の回診。酸素吸入をとめる。副院長に(そのほうが好都合)、他の病院の診断を受けたい旨、申し伝える。「私の勤め先の大学の保健医療センターに出ておられるお医者さんのつてでして、その方は呼吸器が専門です」。間髪を入れず「どこの病院?」と聞かれる。答えて、さらに続けて、「アレルギー性肺炎というお話でしたが、このあいだの血液検査では、原因はまだ判明していないと聞いています。アレルギーの原因はいくらでもあるでしょうからなかなかつきとめられないでしょうから、呼吸器の専門の方にみてもらうのはどうかとも考えているのです」と(その病名に不審の念を抱いてはいても)せっかくついた病名を利用して話を進める。「うん。それもいいかもしれんなあ。たしかに、アレルギー性肺炎はむずかしいんですよ。入院すればすぐによくなるのに、家に帰るとひどくなる。で、○○大からそういわれたんですね?」と意外な大学名をいわれる。医学部のある近くの大学である。「いや、私の勤め先の大学です」というと、「ああ、うん」とようやく話が通じたようだ。どうも、このひとは「大学」と聞くと自分の出身校(ではないかと思う)をまっさきに思い浮かべてしまうらしい。「はあ、それなら、これまでの経過を書きますし、レントゲンももっていってもらいましょう」と親切な対応をしてくれる。「で、その呼吸器科の先生は○○大出?」。そんなことは知らん。(私の同窓でなければ、書類は書きません!)というわけでもなかろうが、ことばを濁しておく。一応、「今度のレントゲンの結果をみてから」ということで、話は決着。

 患者として、これは手ぬるい話の進め方かもしれない。病名が肺炎ではなく、(肺炎でも死因の第四位だけれども)もっと重篤な病名なら無理にも専門医のところへ行ったろう。ただ、2000年現在の日本の状況では、病院を変えるということはカルテを一から作りなおし、かずかずの検査を一から受けなおし、ということになりかねない。おおかたの患者は、自分の病気の重さ、病院に対する信頼感(不信感)の程度、診断・検査を受けなおすだけの体力・根気が自分にあるかなどを勘案して、今までの病院に留まるか、別の病院に賭けてみるかを決めているのではないか。もちろん、この状態が正しいとは、私は思わない。

 世界医師会が1981年に採択したリスボン宣言には、「患者は自分の医師を自由に選ぶ権利を有する」「患者は十分な説明をうけた後に治療を受け入れるか、または拒否する権利を有する」などなど、患者の六項目の権利を謳っている。ところが、日本医師会はこの宣言を承認していない。

 あるひとが自分は病気だと思って、どこかの医師の戸をたたく。その時点ではどの戸をたたくかは(どの戸もたたかないかも)そのひとの自由であるはずだ。法に定められた伝染病、他人に危害を加えるおそれの大きい精神状態などのケースは別として、そのひとをどこか特定の場所に拘束したり、本人の許可なく体を診察したりしたなら、つきつめていくと、身体の自由を侵していることになる。具体的には、患者の意志に反して手術をした場合には、緊急の必要性のゆえに違法が阻却される場合も多いとはいえ、暴行罪が適用されることもありうる。「すべての人間はその身体について所有権をもっている」。これはジョン・ロックが『統治論第二篇』27節(岩波文庫では『市民政府論』)で明言した思想であり、周知のように、身体の自由は「ひとがひととして生まれたかぎりは自然にもっている権利」、つまり自然権として、フランス革命の人権宣言、合衆国憲法にうけつがれていく。リスボン宣言に掲げられている上述の権利は、畢竟、身体の自由に由来しているはずだ。

 この脈絡からすると、私はリスボン宣言(1981年)の前文には疑義がある。「下記の宣言は、医療の専門家が患者に与えようと努める主な権利の一部を述べている」(The following Declaration represents some of the principal rights, which the medical profession seeks to provide to patients.)という箇所である。記された諸権利が自然権、基本的自由に根ざしているのなら、医者が「与える」(provide)ものではないからだ。それは医者の権限を超えている。患者が下記の権利を履行するのを妨げない、ないしは推進する、つまり「実現しようと努める」というならわかる。世界医師会は職業倫理として宣言したのであって、だからあくまで医者の職務を定めているのだという腹かもしれない。だが、職業倫理もまた普遍的に妥当する倫理規範と整合的でなくてはならないのである。

  •  なお、上のくだりは、1995年には次のように修正されている。「下記の宣言は、医療の専門家が支持し、促進する患者の主な権利の一部を述べている」(The following Declaration represents some of the principal rights of the patient which the medical profession endorses and promotes.)
  •  ちなみに、世界医師会がインフォームド・コンセントを医療行為に不可欠としたのは、1964年のヘルシンキ宣言においてだった。日本医師会生命倫理懇談会がインフォームド・コンセントを医療の基本とする方針を答申したのは1990年1月のことである。

     前年、1989年は、私が最初の勤め先の医大に赴任した年である。次年度から一年生向けの新たな講義として、医学概論が開始する予定だった。その授業内容の構想を立てるのに、臨床課程の教授と私とで話しあった。インフォームド・コンセントをめぐってもめた。私は授業内容に入れるべきだと主張した。教授は反対した。その教授はアメリカに留学していたときの印象から、インフォームド・コンセントと聞くと、個々の処置ごとに患者が同意のサインを記さねばならない分厚い書類、しょっちゅう起こる医療訴訟を連想してしまうようだった。その教授のいわく、インフォームド・コンセントという考え方の根底には医療不信がある。まだ入学したばかりの希望に燃えている学生に医療不信などを教えて、傷つけてしまってはいかがなものか、と。私も反論して、いわく、患者自身が知りたいことをきちんと説明することで、かえって医師への不信感がなくなる場合もあるはずだ。それに説明することで治療がやりやすくなるケースもあるのではないか、と。(ついでに、「医師・教師・牧師などと『師』のつく仕事はとかく独善に陥りがちですから、世間がひょっとすると自分に向けているかもしれない醒めたまなざしについても、少しは教えておくほうがむしろ教育的ですよ」ともいいそうになったが、これはのみこんだ。というのも、相手の教授からすれば、学生は将来自分と同じ職につく「仲間」であるのに対して、私は自分と同じ大学に勤めている教員とはいえ、おそらく「仲間」というよりも「世間」という外部の世界の一員にみえているだろうからである)。とうとう折り合わなかった。結局、表立っては先方の意見にゆずり、実際には、私も医療倫理について二、三回授業をするのだから、そのときにとりあげてしまおうと考えた。まったくの話、1990年に、医療倫理の講義でインフォームド・コンセントをぬきにして、医師たる者の誇りと使命感ばかりをお説教してすませたなら、時代錯誤というものだろう。とはいえ、そのたくらみを実行すれば、私のほうで教授とのコンセントを無視するはめになるのである。

     ところが、私個人にとっても幸いなことに、翌年1月、日本医師会がインフォームド・コンセント重視の考えを示したのである。3月の卒業式には、地域の医師会のお偉方が来賓として「これからはインフォームド・コンセントにもとづいた医療の時代です。若いみなさんは新しい医療にむかってますます精進してください」と卒業生を激励した。ちなみに、この挨拶のなかで、インフォームド・コンセントということばそのものは連発されたが、それがどんなことであって、それにもとづいた医療はどうあるべきかといった話にはとうとう進まなかった。

     さっき言及した世界医師会のリスボン宣言に話を戻そう。「患者は自分の医師を自由に選ぶ権利を有する」という項目をほんとうに実現するには、どの病院にどんな設備があって、そこにいるどの医師が何を専門としていて、どんな治療ができるのかという情報を公開しなくてはならない。そういう方針がアメリカ病院協会の「患者の権利章典に関する宣言」(1972年)に示されている。「患者は、かかっている病院が自分のケアに関するかぎりどのような保健医療施設や教育機関と関係しているかに関する情報を受け取る権利を有している。患者は、自分を治療している人たちの間にどのような専門職種としての相互の関わり合いが存在するかについての情報を得る権利を有する」。もちろん、これは世界医師会の宣言とちがってアメリカの話だから、日本医師会が同様の方針を示さなくてもやむをえない。また、このやり方が効力を発揮するには、まずは医療機関どうしがそれぞれの役割を明確にして、そのうえで連携しあうことが必須だが、それがたんなる病院の系列化に終わらないためには、医療機関内部でも相互にも、実際の仕事ぶりが検討され、批判されうるようなしくみがなくてはなるまい。そうでなければ、わるくすると、患者を(たとえば、学閥を軸とした)系列機関のなかでかこいこんで、まわすだけになり、事故があれば、系列ぐるみで隠蔽しあう構造になってしまうだろう。ちなみに、アメリカでは、開業医と病院の役割分担がはっきりしている一方、開業医は特定の病院に患者を入院させて自分も治療にあたる関係にあり、しかも、そこには病院内部の医師と開業医のあいだで、また、病院内部の医師のあいだでも、たがいの仕事ぶりを検討し、監視し、批判しあう制度が確立されているといわれている(くわしくは、星野一正『医の倫理』、岩波新書、35-40頁)。

     昼下がりの眠くなるような時間帯に廊下でリハビリがはじまる。きょう歩行練習をしているのはおばあさんらしい。少しすると「もうあかん」という声がする。療法士が「そんなへたりこんで。もうちょっと、がんばろな」と気を引き立たせる。「オトウサン、タスケテ」。「さ、立とうな。こればかりは自分でしなくちゃあかんねん」。そばからナースが「おばあちゃん、まえみたいに、また歩いて『ひなげし』来れるようになりたいやろ」(この病院の老人向けサービスの名らしい)。「『ひなげし』ってなんや?」「あれ、忘れてしもたんか。毎日来てたのに」。歩行練習が再開する。子どもに返ったようなものだからか、療法士が「そうそう、その調子。○○ちゃん、こちら」と名を呼びかけて調子をとっている。

    12月5日(火)

     院長の回診。二回目のアレルギー検査をしているので、あと二三日したら全部データが出そろう、と。去痰剤の吸入が終わる。

     論文を執筆している学生にメールで指導する。締切間近の原稿について延引を依頼。

     きょう肺炎で老人が同じ病室に入院。ひどい咳。ナースが聴き取りをするのが聞こえる。「お子さんは何人ですか? 性別もいってください」「......」。(おやおや、おじいさん、自分の子どもの数を忘れてしまったのかしら)とひとごとながら心配していると、しばらくして切れ切れに、「女、男、女、女」と答えたのでほっとする。「それで、きょうはここにどうやって来ましたか?」「息子の車に乗せられてきた」「何番目の息子さんですか?」「......」。(おいおい、息子はひとりだったのじゃないかしら)と思っていると、「ううう、息子はひとりじゃ」「あ、そうでしたね」。なかなか時間がかかる。

     夜、同室のだれかが咳をすると、どういうわけか、私も咳が出る。逆もそうである。まるで、かえるが一匹鳴きはじめると、ほかのかえるも鳴き出すみたいに。別に調子を合わせるつもりはなくても、他人の咳を聞くと、自分ののどもおかしくなるのだ。

    12月6日(水)

     採血。副院長の回診。きょうで点滴はやめる。二回目のアレルギー検査でも原因は特定できなかった、とのこと。「肺はすぐに治るんだけどなあ」と慨嘆してくれる。私の気持ちを代弁してくれているみたいだが、治す側も同じ気持ちなのだろう。けれども、前の退院のときとくらべて、主観的には、体がしっかりしてきた感じがする。

     同室の患者、湿布だか何だか、不要になった分をナースに返すと、しばらくしてナースが来て「もらってったけど、返しておくわ。そっちで保管しておいて」と置いていく。その患者のいわく、「もう帳面につけてしまったさかいに返してきたんやろ」。

     きょうも廊下で、おばあさんが歩行練習をしていた。療法士やナースと話をしているのが聞こえてくる。「で、部屋が変わったやろ」「へえ、病室替わったのも覚えてるの?」「そや、XXさんと別の部屋になってしもたんや」「ほう、同室者の名も覚えてる。こないだまでと全然ちがうじゃない。きょうは、頭、さえてるねえ」。きょうは、療法士のひとは「○○さん、もうひとふんばりしてみよう」と、名をちゃんづけするのではなくて、姓をさんづけして呼びかけていた。数日前のちゃんづけにはいささか疑問を感じたけれども、相手の頭の調子にあわせて変えたようで、その心づかいを好ましく思った。

    12月7日(木)

     薬が減る。CT。メールで、論文の指導。

     きょうも同室に新規入院あり。血圧が200を超えたのでやってきたというお年寄りだが、太い声で元気に話すひとである。見舞いの家族に、「院長先生にみてもろた。そしたら、頭から『入院二週間!』いわれた。まえに来たときは若いお医者さんで二日で帰してくれた。あれはよう診とらんかったんやろ。今度は『入院二週間!』や。入院したら、もう俎の上の鯉や。どうともせえ、てなもんや。すぐに検査や。頭の輪切り、みせてもろた。きれいに映るもんやなあ。えらいもんや。この病院はなんでもある。救急病院やからな。なんでもそろてる」としゃべりまくる。ところが、そのひとの寝ているベッドには、数日前、この病院に設備がないために別の病院に行って心臓にカテーテルを入れてもらった患者が寝ていたのだった。また、CTはあるがMRIはないみたいだ。でも、同じ入院するなら、病院に満足するほうが体にもいいかもしれない。満足が何日続くかが問題だが。

     夕方、血圧が下がったその患者に、ナースが「あすはもう一度、頭のCTと、それにバリウムを入れて大腸の検査をします」などなど説明している。(なんで、高血圧で大腸を調べるんだろう? そういえば、私も最初の入院時に便潜血反応を調べたなあ。今年はあの検査をしていなかったからしてもらってよかったが、考えてみると、肺炎で便潜血反応を調べる必要があるかしら。この病室にも、大腸ポリープを発見されたというお年寄りがいたし、別のお年寄りの患者にも『これはふつうのパンツと逆で、穴のあいているほうが後ろです』とナースが説明していたなあ。あれは大腸の検査の話だ。どうも、どの患者にも大腸の検査をしようとしているのじゃないだろか。なんだか、ゲーテのファウストに出てくるPoktophantasmist(臀部見霊者)みたいだね。もちろん、それで悪いところがみつかったらけっこうだが、やはり保険の点数かせぎの面もあるのではないかしら)。

     そういえば、大腸ファイバーを入れられた知人の話では、「つくづく自分は一本の管なんだと思い知らされました。ああなると、もう人間の尊厳なんていう気にもなれません」とのことだった。はたして消化管の構造のために人間の尊厳が失われるか。私はそれに否定的だが、幸い検査を受けずにすんだのでその疑問を身をもって氷解することはできなかった。

    12月8日(金)

     副院長の回診。昨日のCTは問題なし、退院できる、とのこと。ふたたび、同僚のQ教授の紹介してくれた病院の話をもちだす。すると、「きょう退院して、あす診断を受けるとよいでしょう。紹介状を書いて、レントゲン、CTなどとりそろえておきます」といってくれる。「まえに退院してから何日で再入院しましたっけ?」「四日めで再入院しました」「すると、家に帰ったその日はなんともなかったんですね?」「ええ、咳は出ましたが、ひどくなったのは再入院の前日からです」「ふうん。アレルギー性だと、原因が家にあるなら、その日のうちにもうおかしくなることが多いんだけど」。(おやおや、正直なひとだな。これでは、アレルギー性肺炎ではなかったといっているようなもんだが)。

     夕方退院。退院の挨拶をしたりされたりするとき、あたりまえだけれど、笑顔に笑顔を返す。私は去るほうも送るほうも体験したわけだが、あれはなかなかいいものである。短期間、同室しただけで、めんどうな関わり合いがないだけに、好意がそのまま好意として顔に浮かび、また、うけとれるからだろうか。

    12月9日(土)

     入院する覚悟でその準備をして、同僚のQ先生に紹介された病院にいく。もう肺がよくなってしまったから断定できないけれども、マイコプラズマ肺炎か、あるいは、原因はわからぬが肺のなかに好酸球(の白血球)が異常に増えての肺炎だったろう、とのこと。ずっと咳が気になっているというと、薬をくれるが、入院の必要はないといわれる。もっとも動くと汗をかき、咳が出るから、しばらくは静養しているようだろうが、今度こそ本復しそうだ。

     これまで読んでくださった方、いや、ながながとお退屈様でした。あなたさまもお体にはくれぐれもお気をつけくださいませ。

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