第10回研究会から

A.C. ベイアー「正義を超えるものが必要である」

(Annette C. Baier, " The Need of More than Justice ",

in Science, Morality and Feminist Theory,

Marsha Hanen and Kai Nielsen (eds.), University Calgary Press)

 

報告者 品川哲彦

報告要旨 報告者の考えでは、ケアの倫理は、(1)たとえば、看護や教育のように特定の領域に視野を限定して、そこでいかなるケアが行なわれるべきかを論じる文脈と、(2)むしろ道徳の領域全般を視野に入れつつ、ケアという観念を根底において倫理を構築しようという文脈と二つの文脈で語られている。後者の文脈では、たとえば、「倫理の根底におかれるべきなのは、ケアか、それ以外の観念(例 正義、権利etc)か」「ケアの倫理が批判する対象と批判の対象を共有しうる他の立場と、ケアの倫理はどんな関係にあるか(例、フェミニズムを源泉のひとつとするケアの倫理は共同体主義その他と何を共有しうるか)」などが争点となる。ベイアーの論文は初出が1987年であり、すでに川本隆史氏の『現代倫理学の冒険』のなかでも1994年刊行のベイアーの著書所収の論文として紹介されていて新しい文献ではない。だが、ここでこの論文をとりあげるのは、上記の争点について、ケアの倫理を支持する側からの見解を確認することができそうだからだ。

 報告に移る。ベイヤーは正義論(とりわけロールズの)に対抗する議論のなかにケアの倫理を位置づけている。ロールズが正義を社会制度の第一の徳と主張するのに対して、相異なる立場の論者(A.マッキンタイア、M.スロート、B.ウィリアムズ、F.フット、A.ベイアー自身)が正義は複数ある徳のひとつだと主張している。これらの論者たちは、正義論とは別の選択肢を模索している点で、正義の倫理とは別のケアの倫理を提示したC.ギリガンの『もうひとつの声』に注目している。ギリガンの主張については、ケアの倫理を女性に固有のもの(女性の本質に結びつける本質主義)として主張しているのか、それとも、女性と男性のジェンダーの別なく支持されうる倫理のひとつとして提示しているのかという解釈上の争点がある。ベイアーもこの点に言及する。しかし、ベイアーの解釈はそこに力点があるわけではない。むしろ、コールバーグの道徳性の発達理論に対するギリガンの批判がコールバーグ理論の背景をなしている自律と平等とを重視する個人主義的でカント的伝統に対する批判に通じている点が注目されている。つまり、ベイアーは近代の正統的道徳観の批判者としてギリガンおよびケアの倫理を描き出している。正統的モデルは「カント的/個人主義的/社会契約的/自由主義的/古い男性的主体の/男性の」などさまざまな形容詞をもって描き出されているが、基本的には、「だれもが自分にとっての善(いこと)を自分自身で追求でき、また追求することを欲求しており、そのためには、社会が共有する共通の善は最小限かつ形式的なもの、つまり相互の侵害を防ぐ社会契約の実効化と他者による不当な干渉からの保護にとどめなくてはならない。すなわち、相互の侵害を防ぐ社会契約の実効化と他者による不当な干渉からの保護がそれだ」と考える道徳観ないし社会観である。ところが、ギリガンによれば、こうした不干渉は弱者に対しては無視に、また、対等な関係の者同士のあいだでも疎外に通じるし、そのひとがそのひとであること(individualityおよびidentity)は互いに干渉しあわずに分離していることから生じるのではなくて、むしろ自分を頼りにしてくる者やさまざまな結びつきに対する応答によって定義される。

 さて、このように、道徳および社会についての正統的モデルとギリガンが提示したそれとは対立しているわけだが、両者はどちらがいっそう根底にあるものなのか。冒頭述べたように、「倫理の根底におかれるべきなのは、ケアか、それ以外の観念(例 正義、権利etc)か」という問題がここに問われる。正統的モデル(たとえば、ロールズ)からすれば、ギリガンの描いた像は「ひとつの合理的な人生設計」として正統的モデルのなかでも認められ、したがって、ギリガンの描く像はそのうえで成り立つ選択可能な付録にすぎない。しかし、ベイアーはそう考えない。まず、そう考えてしまうと、正統的モデルの社会観・倫理観が流通しているなかでは、それが要求している以上のことを行おうとするケアの倫理を身につけたひとは搾取されかねないからだ。むしろ、ベイアーは正統的モデルそのものの欠点を挙げて、これを論破し、このモデルが根底たりえないことを明らかにしようとする。

 ベイアーは正統的モデルについて四つの批判を展開している。(1)その疑わしい系譜。すなわち、権利、自律、正義という概念を発展させてきた道徳的伝統は、他面、奴隷労働、女性の家事労働にみるように、権利所有者が自分はしたくない労働をしてもらい、その点で依存しているひとびとを抑圧し、それを正当化してきた伝統でもある。(ちなみに、ベイアーは、「ケアする経験に乏しい男性がどのようにしてケアの倫理を理解していくだろうか」と問うているが、この指摘は、ケアの倫理を支持しながら平然と、先に言及したように、ケアの倫理を体現しているひとを搾取しまいかねないことを示唆している)。(2)不平等、および、みかけだけの平等に対する鈍感さ。力の不平等な関係(例、親と子、先行世代と後続世代、国家と市民、医者と患者、健康なひとと病気のひとなど)が看過され、あるいは、見かけだけ平等のように扱われやすい。私たちはみな人生の多くの時点で無力だから、弱者を保護するためのケアと責任が必要である。(ちなみに、ベイアーは弱者である遠い未来世代への関心が必要だと強調している。未来世代というと環境問題が連想されるが、ベイアーは環境問題からではなくて、支持されうる道徳はそうした道徳に拠って立つ社会の存続を必然的に帰結するものだという論点からそういっている)。(3)選択の自由ができる範囲の過大視。正統的モデルは、自由な意志による社会契約という神話とそうした関係についてのみ責任があるという神話をともなっている。これに対して、ケアの倫理は、自由に選んだ人間関係だけではなくて、自分が選んだのではない結びつきも維持することを望む。そうした関係には、親子の関係、現在世代と未来世代の関係などがあげられる。ケアの倫理が描く社会は、対等(平等)な者の自由な合意によって形成された共同体とは違うdecent(たしなみのよい)な社会である。(想像をふくらませると、ベイアーは、正統的モデルの描く社会は、いわば、元気で活動的な若者の社会であって、そこに参加する意志があり、その社会の活動についていけるひとだけから成る社会だといっているようにみえる)。(4)感情に対して理性を優遇しすぎる。たとえば、親としての役目を果たすにはどんな人間であるべきかといった問いに対しては、感情を理性によって制御するカント的モデルはあまり役に立たない。まず必要なのは、子を愛することだからだ。つまり、理性によって感情を制御することよりも、望ましい感情を涵養することである。

 以上の正統的モデル批判という一点において、ギリガンの批判は哲学史上の相異なる立場が提起してきた批判と相通じている。たとえば、人間の共同的な関係を軽視して孤立した個人を基礎においた社会観への批判は、ヘーゲル、マルクスのおこなった批判に通じ、そのdecentな社会はかつての宗教によって結びついていた共同体に近い点でキリスト教の伝統を背景とする近代批判に通じ、また、社会契約なるものの虚構性を批判し、感情を評価する点で、ヒュームに通じている。ただし、ベイアーはケアの倫理と正義の倫理の二者択一を迫るわけではなく、むしろ合体を提唱して結論としている。この合体はケアの倫理からなされうる。なぜなら、ケアの倫理のほうが、他者(この場合、正義の倫理およびその支持者)に対する共感と配慮に富んでいるからである。

 

質疑応答

○報告者は、冒頭の(2)で、ケアを根底におく倫理観という意味でのケアの倫理という文脈を示唆したが、その観点からすると、ベイアーのこの論文は成功しているのかどうか、報告者はどう評価するか。

●まず、ベイアーの意図からすると、ケアを根底におく倫理を示そうとしているのだと受け取れる。また、ヒュームの研究者であるベイアーとアリストテレスやトマスの伝統に属しているマッキンタイアーというように、もともとは異質な論者がケアの倫理を正義の倫理とは別の選択肢として注目している理由は明らかにされている。ただし、ベイアーが、最後にいっているように、ケアの倫理と正義の倫理との合体が可能なのかどうかは、この論文だけだとじゅうぶんには明らかではない。というのは、コールバーグ理論では、ケアの倫理が主張する他者との結びつきや他者への配慮という価値観は、(もちろん、ケアの倫理の支持者からすると、過小評価であり歪曲であるとしても)道徳性の発達段階の(大きく分けて三段階の)第二段階に組み込まれている。したがって、正統的モデルは、一応、ケアの倫理を吸収可能なスタンスをとっている。だとすれば、ケアの倫理が正義の倫理と合体してこれを組み込むためには、ケアの倫理のほうにもすでに正義や権利といった価値が組み込まれていなくてはならない。ところが、ベイアーがこの論文のなかでギリガンの発達理論を説明するさいには、他人を喜ばすケアから他人を助けるケアへという二段階には言及するが、正義や権利という価値についての言及がじゅうぶんではない。その点で、この論文だけでは、最後に主張しているケアの倫理からの正義の権利の摂取がなされるか、心もとない。とはいえ、ギリガン自身の議論をもちだすなら、ギリガンはケアの倫理の発達段階について、(1)自分自身へのケア、(2)自分を除く他人をケアする責任(ただし、これだけだと、ケアは自己犠牲につながりやすい)、(3)自分も他人も等しくケアされる権利をもつものとして、つまり、だれも無視されて傷つけられない権利をもつものとして把握する段階を提示している。したがって、ギリガンが展開しているケアの倫理のなかには、正義、権利、平等といった価値が組み込まれている。

○道徳性の発達理論を根拠にして倫理観を提示することについて、報告者はどう評価するか。こういう発達理論にはデータの再構成といううさんくささがつきまとうように思えるが。

●報告者自身は、発達理論は心理学という実証科学に属していると考え、そこからただちに、非実証科学である倫理学に架橋できるとは思っていない。というのは、たとえなんらかの発達理論が事実を正しく実証していたとしても、そうした事実からすぐさま規範が引き出されるわけではないからだ。しかし、コールバーグやギリガンの実証的研究から、結果として描き出された倫理観をとりあげて、(それが「正当な」発達を説明しているから倫理的含意をもつというのではなくて、そういう正義なり、ケアなりを重視する倫理的見方を的確なしかたで描き出しているという意味で)倫理学の考察の対象としてとりあげることはできると思う。おそらく、「ケアを根底におく」という表現は、発達段階において先にケアが身につくという意味と、論理的にケアが根底にある(つまり、ケアがなければ正義はありえない)という意味とをもっていて、報告者が関心をもっているのは後者の場合である。

○ケアを根底におくといっても、ケアはケアする相手をかえって損なう危険ももっている。ケアそのものが善というのではなくて、たとえば、ヘルガ・クーゼが『ケアリング』(メディカ出版)のなかでそう批判しているように、ある種のケアが道徳的にみて適切なケアであるためには、やはり、正義といった別の観点が必要だろう。

●報告者自身もそう思う。ただし、それをいうときに、ケアがまずあって、そのケアを規整するものとして正義をもちだすとすると、これはコールバーグの発達理論とよく似たかたちとなる。ケアの倫理がその順序づけに疑問を投じるものである以上、ケアの倫理についての文献を読むさいには、できるかぎり、正義や普遍的に妥当する法則によるケアの規整という超越的な批判をしないようにして読むことが必要にも思う。最終的には、どの立場をとるかは別にしても。

○ケアそれ自身のなかに、なすべきケアへの方向性が組み込まれている必要はないか。クーゼはcharacterや dispositional careという観念をあげている。つまり、ケアする人間が経験のなかで身につけていき、涵養していったものが、なすべきことを規整していく。

●ケアを語るさいにcharacter やdispositionという観念がともなうことは、報告者もそうだと思う。ただし、クーゼについていえば、dispositionを語りながら、その内容がはっきりしない。水に油が浮いたような感じがする。dispositionやcharacterについて語るには、アリストテレス的なアプローチのほうがふさわしいのではないか。クーゼは功利主義を出発点としているから、基本的に、だれにでもいつでもあてはまり、身につくような普遍的な原則を重視していて、そのために、特定の個人が経験のなかではじめて養っていくような道徳性については語りにくいように思う。

○ケアの倫理は、たしかに、dispositionなどのように、ベイアーのいう正統的モデルが見落としてきたいくつかの点を指摘している。たとえば、ベイアーのいうdecentな社会。自分が選んだのではない対象に対する責任をひきうけていくといった捉え方はそのひとつだろう。

○ケアするひとが経験をとおして身につけていくことから組み立てなおして、また、それに適したことばでもって語るということが大切だと思う。しかし、そうすると、ケアについて、倫理学が語ることができるのだろうか。

●ケアの倫理の主張をまともにうけとめるなら、おそらく、倫理学ということばの意味自体にも注意しなくてはいけまい。乱暴にいうと、近代以降ではそれが主流となっているような、いつでもだれにでもあてはまる規則であって、しかも、だれもがその気になればすぐに身につくみたいなものとして倫理を語るのではなく、別の語り方が要求されているように思う。そういう点で、ベイアーのこの論文を読むと、書かれている内容は正統的モデルと呼ばれる倫理の書き換えを要求しているはずだけれども、ベイアー自身がヒュームに依拠しているので、近代以降ないしは現代における二つの選択肢(正義の倫理とケアの倫理)があってその一方を支持しているにすぎないようにみえてしまう面がある。


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