「死者の現象学」へ向けて ――脳死移植問題の一考察(1)

 

後藤博和

『現象学年報』16号、日本現象学会、2000年11月30日、165-176頁

 

一 「脳死は人の死か」という問いと「死の人称問題」

 「脳死は人の死か」という問いを中心に一九八○年代以降行われてきた日本での脳死移植論議の現時点までの収穫の一つとして、森岡正博氏あるいは柳田邦男氏による「死の人称問題」の指摘をあげることができよう(2)。この指摘は、次のような脳死移植推進論の言説のいかがわしさをわれわれにはっきりと意識させてくれたのである。それはたとえば、現行臓器移植法の原点ともなった脳死臨調最終答申(一九九二年)多数派意見である。そこでは、脳死についての日本国民の「理解」が近年深まった結果、これを「人の死」と認めることに関して「社会的合意」が「概ね」成立していると主張された。たしかに、各種世論調査の結果によると、九〇年代初頭の時点ですでに、脳死受容派は拒絶派を、上記多数派意見で主張されたように「大幅に」と言えるかはともかくとして、確実に「上回って」いた。だが、そうした調査において脳死を「人の死」と認めると答えた人々は、このすこぶる曖昧な表現のうちに、いったい誰の死を、何人称の死を見ていたのだろうか。

 上記多数派意見も含めて脳死移植推進論で主導的な役割を果たしてきた一部の医学者たちは、「脳死は医学的に見るなら人の死である」と再三強調してきた(3)。だが、こうした 科学的つまりは「三人称」的な視点からなされる「啓蒙」活動を、その「三人称」的視点とともにそのまま国民が受け入れた結果、脳死受容派が拒絶派を凌駕するに至ったというわけではなかろう。実際にはせいぜい、脳死状態に陥れば二度と意識が回復することはなく、じきに心臓も止まるといった程度のことが「理解」されるようになるにつれ、他人はともかく自分がそうした状態になったら、もうその自分は死んでいることにしてくれてよい、という「一人称」的な視点からの脳死受容が徐々に広まっていったにすぎないのではないか。ともあれ、「啓蒙」する側のみならず、「理解」する側にも「二人称」的な視点がきわめて乏しかったこと、あるいはいまでも乏しいことだけは確実に言えよう。脳死を「人の死」と認めることに積極的な人々も、「家族や恋人などあなたにとって大切なかけがえのない人が脳死状態になった場合も、あなたは脳死による死の判定を承諾できるのか」とあらためて尋ねられると少なからず当惑するというのはつとに指摘されている点である。

 実際、身内の脳死状態を経験した家族の多くが、その前後で脳死に関する考えを変えたという調査結果すらある(4)。これは臓器移植法制定はおろか脳死臨調最終答申にも先立つ一九九一年の調査であるが、しかし新しいところでも次のような報告がある。九七年十月の臓器移植法施行後、翌九八年十一月末までに日本臓器移植ネットワークに四〇件のドナー情報が寄せられたが、連絡の時点で「はっきり脳死段階とわかるもの」はわずか四件で、「その他心停止直前と思われるものなどを除いて、三〇件までが心停止後」だったというのである(5)。この報告は、総理府が九八年十月に行った世論調査の結果と考え合わせると、意味深長である(6)。すなわち、ドナーカードの所持率二・六%、そのうち提供しないという意思を含めて臓器提供に関して何らかの意思を記入している人四二・九%、脳死状態の家族の臓器提供の意思を尊重するかという設問に対して「尊重する」三五・九%、「たぶん尊重する」二四・入%−−どんなに少な目に算盤をはじいても、脳死状態でのドナー情報がもっと寄せられてよいはずである。本人の意思を尊重する気持ちはあっても、実際の現場で脳死を「二人称の死」として速やかに受容することの困難を証していると言えよう。

 それでも、臓器提供施設の拡大策が奏効したのか、周知のとおり一九九九年二月以来、脳死移植は数例実施されるに至った(二〇〇〇年十月二〇日現在で八例)。だが、それらのケースですら、臓器移植法における規定はどうであれ、脳死判定確定時に当の家族たちが実際に身内の「死」を受容できたかどうかは明らかではない。こう指摘することで私が述べたいのは、脳死状態に陥った患者の家族が二人称的な「死」を実感し、それを受容できないかぎり脳死移植は不可能であるというわけでは必ずしもなかろう、という点である。意識の回復の見込みがまったくなく、しかも死期の差し迫った末期状態で、患者本人の希望に添うかたちでその「生」を締めくくらせてあげたいという気持ちが家族を動かして、脳死判定と臓器提供に対する同意に赴かせるということも十分に考えられるのである。

 

ニ ハイデガー『存在と時間』における「二人称の死」

 さて、「二人称の死」という視点の重要性に留意しつつ脳死移植問題を考えるとき、私は、最終節で論じるように、ハイデガー『存在と時間』における死の言説のうちのある部分が、一定の限界内であれ、積極的な意味で参考になるのではないかと考えている。

 こうした主張がきわめて奇異なものと受け止められるであろうことは重々承知している。『存在と時間』の死の言説に対しては、まさに「二人称の死」の視点が決定的に欠落しているという批判こそが絶えず浴びせられてきたのではなかったか。一例のみあげるなら、ランツベルクは、人間にとっての死の意味の探究にとって「身近な者の死の経験」が有する重要性を主張する論文で、こう述べている。「ハイデガーにあっては、共存在(Mitsein)はどこまでも形式的なカテゴリーにとどまる。彼の哲学には、信仰や希望と同様、愛も含まれていない(7)」。たしかに、『存在と時間』の現存在分析論をある種の哲学的人間学として読もうとするなら、「共存在」論にかぎらずいたるところで、われわれはその論述の形式性や一面性に当惑や不満を覚えることになる。だが、それでもやはり、こうした批判はやや性急に過ぎる。ランツベルク自身認めているように、『存在と時間』でハイデガーが「他者の死の経験をただちに踏み越えてしまう」のは、彼がランツベルクとは「まったく異なる目標追っている」ためなのである(8)

 その「目標」とは、言うまでもなく「存在の問い」を仕上げることである。こうした目標設定に由来する視線の限局という事態が 『存在と時間』の現存在分析論全体に一貫して見られることを忘れてはなるまい。死をめぐる言説が位置する第一部第二節にしても、ハイデガーの視線はとりあえず、「存在への問いの超越論的地平として時間を解明する」(第一部の表題の一部)ための準備、すなわち第一節で現存在の存在として取り出された「関心(Sorge)」の存在意味を「時間性(Zeitlichkeit)」として取り出すための「解釈学的状況」を仕上げることにのみ向かっている。彼がこの第二節の最初の章で死の問題系に取り組むのも、あくまで、その「解釈学的状況」の内実をなす現存在の「根源性」の二つの構成分、「全体性」および「本来性」のうちの前者を確保するためなのである。

 現存在の全体性の確保へ向けて、ハイデガーはひとまずある種の経験主義的アプローチをとる。「現存在のうちには常に、現存在自身の存在可能としていまだ「現実的」となっていない何かがなおも済まされずにある」(236)(9)。この「未済分(Ausstand)」の最たるものが「死」なのだが、「その取得は世界内存在の全面的な喪失である」(ebd.)。人は「自己の死」をいかにしても経験できない。自己自身に即して現存在の全体性を経験的に捉えることは原理的に不可能である。そこでハイデガーは次に「他者の死」の分析に向かう。しかし、すぐ後で見るようなごくわずかな分析ののち、彼は、「純粋な意味では、われわれは他者が死ぬことを経験せず、せいぜいのところいつもただ『その場に居合わせる』だけだ」(239)と論定する。他者たちに即しても、死にゆく者本人が死において蒙る「存在喪失」は、したがってまた現存在の存在の「全体性」は経験できないというのである。そこでハイデガーは、この段階で経験主義的アプローチを捨て、以後、「唯一残された可能性」として、死を「純粋に実存論的に概念把捉する」ことに邁進する(240)。その結果、彼は、「死」を人の生涯の終わりに訪れる出来事としてではなく、われわれが常に既に引き受けざるをえない比類なき存在可能性、すなわち「実存一般の不可能性という可能性」(262)としてとらえ、こうした可能性としての「自己の死」にたえず(そこから逃避するという非本来的なしかたであれ)関わることによって、現存在に特有の「全体性」はそのつど達成されていると考えるに至る。そして、これ以降の行論では、「自己の死」すなわち「一人称の死」の実存論的位置が現存在の「根源性」のもう一つの構成分である「本来性」への回帰のための決定的な契機へと高められていくのに対して、「他者の死」は単に「他の人々の身の上に日常的に発生する死亡事例」(254)すなわち「三人称の死」として、日常的現存在が「自己の死」から逃避するためのきっかけを与えるにすぎないものと見なされていく。

 このように概観するとき、『存在と時間』の死の言説には、それが同書の存在論的−実存論的目標に由来する視線の限局によるものとはいえ、やはり「二人称の死」という視点が欠落しているように見える。だが、仔細に吟味するなら、必ずしもそうは言えない。先に触れた「他者の死」の分析の中でハイデガーは、かけがえのない他者の「骨身にしみる」死について、ごくわずかながら語っているのである(次に示すまでの引用・参照はすべて238)。

 その箇所でハイデガーはまず、「他者たちが死ぬことに即して、現存在(ないし生)というありかたに基づく存在者がもはや現存在でないものへと転化することと規定できる注目すべき存在現象が経験されうる」と述べる。この「もはや現存在でないもの(Nichtmehrdasein)」とは、積極的に規定するならいったい何か。最初の回答は「単なる眼前的なもの(blosses Vorhandene)」である。しかし、これはすぐに撤回される。「眼前にある亡骸(Leiche)でさえ、理論的に見れば、なお病理学的解剖の対象となる可能性をもっており、そしてこの解剖の理解傾向は生の理念に定位したままである。かろうじてなお眼前にある問題のものは、生を欠いた物質的事物『以上』の何かである。それとともに出会われているのは、生を失った生きていないものなのである」。しかしハイデガーは、この第二の回答もまた「現存在にふさわしい現象的実状を汲み尽くしていない」としたうえで、一見したところ「亡骸」への現象学的問いを宙づりにしたまま、「故人(Verstorbener)」との「共存在」に関する議論へと移っていく。

 「故人」とはただの「死人(Gestorbener)」ではなく、「遺族たち」の手から「もぎ取られた」者のことであり、ハイデガーはとりあえず、この意味での「故人」は「葬式や埋葬や墓参というしかたでの『配慮(Besorgen)』の対象である」と述べる。しかし、この規定はまたしても撤回される。「故人」は、「周囲世界的に(umweltlich)手許にある(zuhanden)単に配慮可能な道具『以上』」の存在だからである。こうして「遺族たち」の「故人」への関わりは次のように規定される。「哀悼しながら、追憶しながら、『故人』のかたわらにとどまることにおいて、遺族たちは、尊びながらの顧慮(Fursorge)という様態で故人と共にある」。「故人との共存在」という規定はハイデガーの用語法からすると一見したところ奇妙である。なぜなら「共存在とは常に同じ世界のうちでの相互存在(Miteineandersein)を意味する」が、「故人はわれわれの『世界』を立ち去り、後に残して逝ってしまった」のだから。だがハイデガーは逆説的にこう続ける。「このわれわれの『世界』の内からこそ、残る者たちはなお故人と共にあることができる」。この一文でもって、『存在と時間』での「他者の死」に関する積極的な分析はすべて終わる。このすぐ後でハイデガーは、先に見たように、現存在の全体性の確保という実存論的−存在論的目標を達成するためには「他者の死」の経験の分析は役に立たないと断じ、これ以降はひたすら「自己の死」のうちに想いを凝らしていくのである。

 「亡骸」への現象学的問いかけから「故人との共存在」論へ−−こうした議論の展開は、先にも示唆したように、何らかの飛躍ないし断絶を孕むかに見える。日常的な語法にしたがうかぎり、「亡骸」が何らかの意味でやはり物体を意味するのに対して、「故人」はあくまで精神的な人格性を意味するからである。しかし、ハイデガーがここでの行論で「臨終→葬式→埋葬→墓参」という時間的経過に則しつつ死者への実存論的な《距離》を漸次縮めていることに注目するとき、この解釈が早計であることが明らかとなる。

 まず臨終直後の場面で、分析者ハイデガーは、単なる傍観者として何の関心もなく、つまり《遠い》ところから死者をただ眺めている。次に彼は、やはり時間的には臨終直後、医学者の立場に身を置いて「理論的」な関心をもって、つまりはほんの一歩だけ死者に《近》づいて、それを見やっている。ここまでは、死者は結局のところ物体として見られているので、日常的な語法に従うかぎり、これを「亡骸」と呼ぶことができる。次いでハイデガーは葬送儀礼に立ち会う。彼はもはや《遠く》から死者をただ見ていることを許されず、その《近く》で実践的に死者と関わらねばならない。清拭したり、化粧を施して死装束を着せたり、棺桶に入れてそれを担いだり、葬送儀礼のはじめはやはり「亡骸」という物体を中心にして事は運ぶ。《近く》での実践的な関わりの対象としての物体である以上、それは『存在と時間』の用語法では「『配慮』の対象」ということになる。だがしかし−−ここでハイデガーはよりいっそう死者の《近く》に寄って、つまり《近》親の遺族の立場に身を置き直して考える−−たとえば「亡骸」を拭き清めるという行為は、どれだけそれが特殊な物体であれ、つまるところ(仕事道具を手入れする場合のように)物体の表面に付いた汚れを抗うという「配慮」的な意味しかもちえないのだろうか。いや、そうではないだろう。遺された《近》親者は、いまでは冷たい「亡骸」となってしまったその身体のうちにしみついている、あるいはその身体によって我が身に刻み込まれた、さまざまな記憶をよすがに「故人」のことを偲びつつ、ときにはその身体に向かって語りかけたりもしつつ、清拭を行うのであろう。

 このように見るなら、ハイデガーの議論の運びは連続したものであり、「亡骸」から「故人」へという死者を指す用語の切り替えは「二人称の死」という視点がそこに導入されたためと解釈することができよう。

 

三 「死者の現象学」へ向けて

 さてこうして、『存在と時間』における死の言説のうちに「二人称の死」という視点をわずかながらでも認めることができるとしても、この視点からなされるハイデガーの分析はおそろしくラフな素描以上のものではなく、そこには多くの謎が残る。

 まず目につくのは、そもそも「尊びながらの顧慮」という様態での「故人との共存在」という規定を『存在と時間』の現存在分析論全体の枠組みの中に整合的に位置づけることは可能だろうか、という点である。同書第二六節でハイデガーはすでに「顧慮」の諸様態を論じていた(121f.)。といっても、比較的くわしく論じられるのは「積極的な顧慮の両極−−飛び込み支配する顧慮と、先だって飛躍し解放する顧慮」についてだけである。これら「両極」の間に存する「多様な混合形式」に関しては、ハイデガーは、人々が互いに反目したりまったく関わり合わなかったりといった「失陥と無関心の諸様態」こそがまさに「日常的かつ平均的な相互存在」を特徴づけると述べるにとどまっている。上記「混合形式」の「記述および分類」は「研究の範囲外」だというのである。だが、「故人」への「尊びながらの顧慮」に関して、この釈明は通用するのだろうか。明らかに、世界という存在論的地平を共有する「共現存在(Mitdasein)」との関わりを念頭に構想された「顧慮」論ないし「共存在」論の行間に、この世界から立ち去った「もはや現存在でないもの」との関わりを後から書き込むことは可能だろうか。

 ハンはこの可能性をはっきりと否定する(10)。「ハイデガーの現存在分析の体系の内部に『尊びながらの顧慮』が占めるべき場はない。それはもともと過剰である」。そもそも「『存在と時間』の内部に死者が占めるべき場はない」のである。だが、ハンのハイデガー批判の眼目は、実は、こうした体系的不整合の指摘にあるのではない。『尊びながらの顧慮』は……われわれを戦慄せしめる沈黙のうちにある死者の姿を、劇的な無を覆い隠す。というのも、それは死者を疑似生者(Quasi-Lebender)とするからである」。

 この批判的論点は注目に値しよう。たしかに死者には多かれ少なかれわれわれを震撼させる面がある。三人称的な死者にしても、それをハイデガーのように単なる「日常的に発生する死亡事例」へと切り詰めてしまってすむかどうかはきわめて疑わしい。まして二人称的な死者の場合、その存在のもつ、いやランツベルクの語を借りるなら、その「現前する不在(anwensende Abwesenheit)」(11)のもつ衝迫力はいや増しに増す。「もはやこの口が私に語りかけることはない。この目は光を失い、もはや私を見つめることはない。この人格と私との共同体は砕け散ったかに見える。そして、この共同体はある範囲では私自身であった。まさにその限りで死は私自身の実存の内面にまで侵入してくるのである(12)。このランツベルクの言葉と対照するとき、ハイデガーの議論は、「尊びながらの顧慮」という一見うるわしいしかたで、その実、死者をいわば馴致して「疑似生者」へと貶め、そうして死者のもつ衝迫力から「私自身の実存の内面」をかたくなに守ろうとするもののように見えてくる。

 だが批判がここで終わるなら、それは一面の真理しか有さないものとなるだろう。たしかに、愛する者の死は「私自身の実存の内面」に埋めようのない空隙を生じさせる。だが、この空隙をそのまま内に抱え込んで生きていくことはあまりに困難である。だからこそランツベルクも、死によって「砕け散ったかに見え」た愛する者との共同体を「再建(wiederstellen)」し、この「死者との共同体を保つ」ことが「自らの実存を破壊から守る」ために要請されると説く(13)。このように見るなら、愛しい者の亡骸を前にわれわれが執り行うさまざまな弔いの儀式、信仰を持たぬ傍観者の目から見ればときにくだくだしいとも思われるあの一連の儀式のもつ深い意味が明らかとなるだろう。それはまさに、逝ってしまった愛しい者と残されたわれわれとの共同体を「再建」する作業、しかも死者が死者としてその亡骸を源に放ち続ける衝迫力を真っ正面から浴びつつ行われる作業なのである。この作業のもつ二面性、すなわち、逝ってしまった者をもう一度招き寄せることによって自らの実存を守るという能動的な側面と、死者によって自らの実存が侵食されるという受動的な側面のうち、後者に対してハイデガーは目を閉ざした。この点はたしかに厳しく批判されるべきであり、ハイデガーは死者を「疑似生者」へと貶めたというハンの批判もこのかぎりで正しい。だが、死者との関わりの能動的な面においてわれわれが多かれ少なかれ死者を「疑似生者」として扱うことは、前節で例に出した清拭の場面を想い起こしても明らかであろう。これをも死者に対する冒涜として批判することは、愛する者の死によって穿たれた、結局のところは埋めようのない空隙を胸にかかえつつなおも生き続けなければならない者たちに対して、あまりに過酷なのではないだろうか。

 さらに、「疑似生者」という評言は、脳死移植問題との連関の中ではまた別の積極的な意味合いを帯びてくるように思われる。脳死状態にある者の家族にとって、目の前に横たわるその愛しい者は、いったいいかなるものとして現出してくるのだろうか。

 担当医から脳死との臨床診断を告げられ、脳死状態に関する医学的説明を受ける時点で、家族は精神的人格がそこにはもはや存在せず、回帰してくることもないことを覚悟させられる。目の前に横たわるそれはもはや自分たちと同じ意味での「生者」ではないことが諦念とともに「理解」される。しかし、そこにはなお温かい血潮が流れ、ときには涙も流す、息づく身体がある。それは少なくとも自分たちの知るあの「亡骸」、愛しい者の「現前する不在」をわれわれに「肌」で感じせしめるあの冷たい躯ではない。

 ブランショは亡骸についてこう述べている。「いかなるときにも亡骸は、それが現にある場所以外のところにあることができ、われわれがその亡骸なしに在る場所に、何もない場所にあることができる。それは侵食性の現存、暗黒にして空しき充溢なのだ」(14)。これは先に「死者が死者としてその亡骸を源に放ち続ける衝迫力」と述べたものの放射性を表現しているものとして読むことができようが、これに照らして言えば、脳死状態にある者の身体はいまだ彷徨を始めない。それはそこにとどまり、脳死状態にある者とそのかたわらにいる家族とのある種のコミュニケーションの媒介となる場合がある。次男洋二郎氏の脳死状態を体験した柳田邦男氏は、このコミュニケーションについてこう述べている。「私と〔長男〕賢一郎がそれぞれに洋二郎にあれこれ言葉をかけると、洋二郎は脳死状態に入っているのに、いままでと同じように体で答えてくれる。それは、まったく不思議な経験だった。おそらく喜びや碓しみを共有してきた家族でなければわからない感覚だろう」(15)

 脳死状態の身体を媒介とするこうしたコミュニケーションを家族の感傷に基づく単なる錯覚として片づけることはできないだろう。その論拠を、あえて二元論的図式を用いて簡潔に説明するとこうなる。「わたし」が「わたし」であるために「わたしの身体」が果たしている役割はもちろん大きい。しかし、「わたし」が「わたし」であることを支える最終的な根拠はやはり「わたしの精神」に他ならない。そして、この「わたしの精神」は自己自身に直接に現前する。これに対して、「あなた」が「あなた」であることを支える最終的な根拠は「あなた」自身にとっては「あなたの精神」であろうが、この「あなたの精神」が「わたし」に対してじかに現前することはない。それは常に何らかの身体性を媒介とせざるをえない。したがって、「わたし」にとっては「あなたの精神」の生死だけでなく「あなたの身体」の生死もきわめて重要な意味をもちうる。脳死状態とはいえ、そこに「あなたの身体」が息づいているかぎり、「あなたの精神」の死は「あなた」の「不在」に必ずしも直結しないのである。「あなた」はなおそこに、「あなたの身体」と一つに、かろうじて現前しているという場合も少なくなかろう。もはや「生者」としてではなく、さりとていまだ「死者」としてでもなく。「疑似生者」あるいは「疑似死者」とでも呼ぶしかないものとしかないものとして(16)

 現行臓器移植法は、少なくとも臓器移植を前提とする場合の脳死に関しては、これを「人の死」とすることで「社会的合意」が成立していることを前提に作成されている。とすると、愛しい者の脳死状態における臓器提供の意思を尊重したいのなら、その家族は、いわゆる「臨床的脳死診断」とは別に、「法的脳死判定」を承諾し、二度日の判定が確定した時点で愛する者の死亡宣告を受け入れることを論理上は要請される。臨床的に脳死と診断された時点で、その愛しい者が「疑似死者」として家族に対して現出してくる場合には、この要請に応えることは家族にとって比較的容易であろう。だが、「疑似生者」として現出してくる場合、家族にとって、この要請に正面から応えることほ、いまだ「生」の領域のそば近くにおり、その息づく身体でもってこちらの語りかけに応答してくる愛しい者を自分たちの手で「死」の領域へと追い遣ってしまうことを意味する。それでも、このように愛で結ばれた家族であればなおのこと、本人の提供意思を大切にしたいという思いが強い場合も多かろう。そうした場合、家族はディレンマに陥る。法の要請に応えるにせよ応えないにせよ、愛する者が冷たい「亡骸」となって家族の目の前に横たわったときから始まる、家族とその者との共同体の「再建」作業は出だしからつまずくことになるだろう。こディレンマから家族が脱け出す方途の一つは、法の要請をまともには受け止めず、目の前に横たわる「疑似生者」をむしろ「生」の領域に連れ戻し、その「生」を本人の望むかたちでまっとうさせてあげるという考え方をとることではないだろうか。これにしても苦しい決断を要するのはいうまでもないが。

 いずれにせよ、脳死移植問題を考えていくうえで現象学的研究の果たしうる役割は大きいといえよう。われわれは「死者の現象学」を必要としている。それは、かつての「生者」が「死者」としてわれわれに現出してくる諸階梯と諸様態を明らかにするとともに、そのつどのわれわれとその者との関わり方を問うものとなろう。これを手にしたとき、われわれははじめて、「亡骸」への現象学的問いから始まるハイデガーの「故人との共存在」論を粗放きわまりない先駆形態として忘れ去ることができると言えよう。

 

(1)本稿は旧稿「「死の自己決定権」とハイデガ−哲学」(関西大学哲学会『哲学』第十九号、一九九九年、二一−四四頁)を補完するものとして書かれた。論述の一部がやむをえず重複したことをあらかじめお断りしておく。

(2)森岡正博『増補決定版 脳死の人』(法蔵館、二〇〇〇年)一二一−六貫、柳田邦男『犠牲』(文芸春秋、一九九五年)二〇三−五頁参照。なおジャンケレヴィッチは、三つの人称の区別を時間の三位相に連携させつつ死一般の問題を考究した。『死』(みすず書房、一九七入年)、とりわけ二四−三六頁を参照。

(3)本稿では立ち入ることはできないが、この主張自体がきわめて疑わしいことは脳死臨調少数派意見をはじめ多くの論著で指摘されている。

(4)原秀男「脳死を人の死と認めることへのためらい」(梅原猛編『「脳死」と臓器移植』、朝日出版社、一九九二年、一二九−四五頁)一四〇頁参照。

(5)福本英子「脳死移植はなぜできないか」(技術と人間社「技術と人間」一九九九年一・二月合併号一二−二〇頁)一七−八頁参照。

(6)総理府広報室「月刊 世論調査」一九九九年六月号参照。

(7)Landsberg, P. L., Die Erfahrung des Todes, Suhrkamp, 1973, S. 159, Anm. 9

(8) ebd. S. 158 Anm. 9

(9)以下、『存在と時間』(Sein und Zeit, 15. Aufll, Niemeyer, 1979)からの引用・参照箇所は原著頁数を本文中に示す。

(10)この段落の引用はすべてHan, B. -C., Todesarten, Wilhelm Fink, 1998, S.18.

(11)Landsbsberg, P.L., a. a. O., S.29

(12)ebd.S.28

(13)Vgl. ebd. S.33f.

(14)モーリス・ブランショ『文学空間』(粟津則堆・出口裕弘訳、現代思潮社、一九九〇年)三六九頁.ただし訳文中の「死体」を「亡骸」へ変更した。

(15)柳田邦男前掲書一二九頁。

(16)脳死論議でよく言及される伝統文化の違いが働くのは、この局面、すなわち、目の前に脳死状態で横たわる愛しい者が「疑似生者」として現れるか、「疑似死者」として現れるかという局面であろう。


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