12回研究会(2002年3月9日)から

 

 

森下雅一

   ケアリングに関する一考察 ―ホスピスの場面を手がかりに―

 

 

はじめに

第1章 現代医療におけるケアの意義

        1.高度化医療の問題

        2.高度化医療の限界

第2章 ケアリングの本質

        1.ケアリングの一般性

        2.ケアリングの関係

        3.医療のなかでのケアリング

第3章 ケアと正義の対立を越えて

        1.ケアの倫理と正義の倫理

        2.ケアの倫理、正義の倫理という二元論の限界

第4章 ケアリングとジェンダー

    1.フェミニズムの視点

    2.ケアリングを担うひと

        3.女性たちと男性たちが担うケアリング

おわりに

参考文献

 

 

第1章 現代医療におけるケアの意義

 現代の医療では、医療機器や医療技術が非常に高度化している。このことにより、高度化医療は、われわれが何かある疾患に罹ったときに的確な治療を受けることができ、その結果として、短期間のうちに社会へと復帰することが可能となっている。したがって、現代医療はわれわれの生に対して大きな恩恵を与えている。だが、このように医療の専門性が高まったことにより、医者と患者との関係がパターナリスティックな関係となった。このような関係となる背景には、患者へ向ける医者のまなざしが、患者それ自体へと向けられるのではなく、患者の身体器官の故障箇所へと向けられるようになったことがある。その点について、M.フーコーは以下のように語る。

 

病的事実を知るためには、医師は病人をさし引かなくてはならない。……患者は彼の病に対して、一つの外的事実にすぎないのである。医学的な読みは、患者を括弧にいれるためにしか、彼を考慮に入れてはならないのである(1)。

 

 現在では、医療機器が発達したことにともない、医者のまなざしは患者が疾患に罹っている臓器の細胞の機能やさらには遺伝子といったミクロなレベルまでに及んでいる。このように医学が発展するために、フーコーが語るような医者のまなざしが要請されるのである。このように高度化した医療は、患者の手の届かないものとなっている。現在の病院というシステムの状況について、山崎章郎は以下のように記述している。

 

 一般病院の医療システムは、死にゆく人々のためではなく、病気が治癒し、元気になって退院していける人や、病気は治らないにしても、少なくとも退院していける人のために整備されているのだ。そして入院している人のほとんどが、自分は治って社会復帰できるのだという前提で闘病している。彼らにとって入院という事態は、あくまでも一時的な仮の事態なのだと信じ込んでいるかのようだ。だからこそ、忙しい医療システムの中で機械的にとり扱われたり、慣れぬ検査におどおどして、こばかにされたりするなどの屈辱的な思いをしても、病気が治るまでのつかの間の辛抱さえすればいいのだ、とがまんもできるのだろう(2)。

 

 病院とは本来的に患者のための施設であるはずである。それは、病院を意味するhospitalという英単語が「主人が客をもてなす」というhostから派生していること、そして疾患から生じる患者の身体的・精神的苦痛が、他の誰でもないその患者自身のうちに生じていることからわれわれは理解することができる。しかしながら、先の山崎の文言にあるように、患者は医学の専門的知識を有する医者の権力的なまなざしに耐えつつも、現在の高度化医療に依存している(3)。けれども、そのような高度化医療をもってしても完治させることのできないような疾患、例えば生活習慣病、HIV、そして末期ガンなどがある。特に、末期ガンの場合、終末期にある患者にとっては高度化医療による積極的治療よりもむしろ、その限られた生をよりよく生きるためのケアのほうが重要となる。このような限られた生を生きる患者にとって有効な場のひとつがホスピスであり、そこでなされるケアがホスピスケアなのである。

 ケアということばは医療以外にも、社会福祉、教育などの現場で「高齢者ケア」や「心のケア」といったように頻繁に用いられており、そうしたことばをわれわれは新聞やテレビなどでよく耳にしている。ケアとは日本語に訳すと、「配慮」や「気づかい」などと訳され、ケアリングとはそうした実践的行動である。けれども、ホスピスなど医療の現場でのケアリングを、配慮や気づかいの行動と定義づけることだけでは、ケアリングの本質の一面のみしか具現化されないと考えられる。すなわち、ケアリングには配慮や気づかいというよりも深いものが含意されていると考えられるのである。

 

第2章 ケアリングの本質

《ケアリングに関する論者》

M.メイヤロフ 『ケアの本質』(田村真・向野宣之訳、ゆみる出版、2000年第8刷)〔M〕

N.ノディングス 『ケアリング』(立山喜康ほか訳、晃洋書房、1997年)〔N〕

H.クーゼ 『ケアリング』(竹内徹・村上弥生監訳、メディカ出版、2000年)〔K〕

 

 ケアリングとはM.メイヤロフによると、「一人の人格をケアするとは、最も深い意味で、その人が成長すること、自己実現をすることをたすけることである。」〔M 13〕。ケアリングが他者の自己実現を目指すということは、「ひとつの過程であり、展開を内にはらみつつ人に関与するあり方」〔M 14〕、つまり「発展的過程」〔M 78〕であり、そしてそこには「連続性」〔M 78〕がある。このことから、メイヤロフはケアリングの基本的パターンを以下のように語る。

 

 私は他者を自分自身の延長と感じ考える。また、独立したものとして、成長する欲求を持っているも のとして感じ考える。さらに私は、他者の発展が自分の幸福感と結びついていると感じつつ考える。そして、私自身が他者の成長のために必要とされていることを感じとる。私は他者の成長が持つ方向 に導かれて、肯定的に、そして他者の必要に応じて専心的に応答する。〔M 26

 

 このメイヤロフの議論から、ケアリングにおいて、ケアするひとは他者を尊厳のあるかけがえのないひとりとしてみなすのと同時に、その他者が抱えている何かしらの問題を自分の問題として捉える。このようにしてケアするひとが他者を受け容れる態度を、メイヤロフは「差異の中の同一性」〔M 186〕と呼ぶ。

 ケアリングが発展的過程であることから、ケアするひとが他者へと働きかけることができるのは“現在”においてのみである〔M 71〕。それはつまり、「現在自分たちが持っているもの、おかれている立場から、常に行動を起こさなければならないのである。私たちがコントロールできるのは、現在においてだけである。」〔M 71〕ということである。また、ケアリングが発展的過程であるのは、「絶えず成長し創造していく人間は、常に未完成で完成の途上にある」〔M 150〕ためである。このことから、ケアリングが他者にとって常に快いものとは限らない〔M 150〕ということが導き出される。それは先述したように、ケアリングが現在においてのみ行うことのできる行動であるということから、ケアリングが他者の自己実現にとって適切である状況ばかりでなく、失敗や困難な状況もあるのである。そのような失敗を修正し困難を克服することにより、ケアリングが他者の自己実現にとって適切なものとなっていく。

 ケアリングにおいて、他者はケアするひとの目に前にいる。だが、その他者というのは、抽象的対象という意味での他者ではない。つまり、ケアリングにおいて他者であるケアされるひとは、過去から現在そして未来へと「生の軌跡」(4)を描いて実際に存在している、現実的に“生きている”他者なのである。さらに、目の前にいる他者ということは、そのひとが特定の他者ということでもある。抽象的な意味での他者という場合、それは、ある集団の中にいる数多くの人間の「生の軌跡」やそれら人間の多様性を排除し、他の人間と同列に並べることである。ケアリングとはケアするひととケアされるひととの関係の中で展開されるものであり、そこでは目の前にいる他者は特定のひとりなのである。言い換えるならば、ケアリングでは他者の多様性を認め、尊重することである。これらのことから、ケアリングとはまずもって、ケアするひとから個別的な他者への働きかけなのである。

 ケアするひとが現在において他者へと働きかけるために、メイヤロフはケアリングの基本的な要素として、知識、リズムを変えること、忍耐、正直、信頼、謙遜、希望、勇気という8つの要素を挙げている。メイヤロフによれば、ケアするひとはケアリングを必要としているひとに対して適切なケアリングを行わなければならない。というのも、ケアリングが他者にとって適切なものでなければ、その行動が他者の自己実現にとって有害なものとなってしまうからである。ケアリングが他者にとって適切であるために、ケアするひとにはケアリングのための様々な知識が必要であり、そしてその知識をもとにしてケアを必要としているひとがケアリングによって自己実現できると信じてケアするひとは働きかける。そのときにケアするひとは、他者の多様性を認めなければならない。このようにして、ケアするひとは他者へと関わっていくのだが、そのときには、ケアするひとはケアリングの専門的知識があるということで権力的な態度をとることなく、自分のケアリングを常に反省し、そしてそのケアされているひとから学ぶという謙虚な態度が求められる。ケアするひとがその他者を受け容れることができるのは、そのケアするひとが理解できるかぎりにおいてである〔M 93-94〕ということから、ケアするひとは自分自身のケアリングが他者の自己実現にとって適切であると思っていても、ケアされるひとにとってはそれが適切ではないかもしれないということが考えられる。そのようなとき、ケアするひとには未知の世界へと入っていくような勇気が必要となってくる。

 メイヤロフの議論において特筆すべき点は、「リズムを変えること」にある。目の前にいる他者は何かしらの問題を解決するためにケアするひとの援助を必要としており、ケアするひとはそういったことに応えるために他者へと働きかける。しかしながら、ケアするひとが常に働きかけることのできない場合も当然考えられよう。この点に関してメイヤロフは以下のように語っている。

 

 “何もしない”ということも行動することのうちなのである。……私がこの“非行動性”の状態にあるときこそ、私は過程をよく見、それが動いている結果を見、かつ考え、そこから適切に自分の行動 を変える準備のときなのである。〔M 40

 

 このことから、ケアリングとはケアするひとが他者へと働きかけていく恒常的な行動ではなく、ケアリングに失敗したり困難であったりするときに、ケアするひとはその行動を一時的に止めなければならない。この点を翻って考えると、ケアリングにおいては、そこに自他の密接な関係が常に構築されないということもある。それは、ケアされるひとのうちに限界があるのと同様にケアするひとにも限界がある(5)ということから、ケアするひとはケアを必要としている他者に対して常に応えることができるとは限らないからである。そのような場合に、ケアするひとは他者へと適切に働きかけていくために、その行動をいったん止め、自分の行動を反省する必要がある。この非行動性によって、その反省のなかから再びケアリングがはじまる、すなわち他者へと働きかけることができるのである。

 ケアリングとは他者の自己実現のための行動であるのだが、それは決してケアするひとの自己犠牲的な行動ではない。この点に関して、メイヤロフは「私は他者の発展が自分の幸福感と結びついていると感じつつ考える」〔M 26〕と語る。このことから、ケアリングとは他者の自己実現に寄与するなかで、ケアするひと自身の自己実現にも寄与する行動でもある。ケアするひとの自己実現に関して、メイヤロフは以下のように語る。

 

 私は補充関係にある対象(6)を見い出し、その成長をたすけていくことをとおして、私は自己の生の 意味を発見し創造していく。そして補充関係にある対象をケアすることにおいて、“場の中にいる”ことにおいて、私は私の生の意味を十全に生きるのである。〔M 132

 

 ケアリングとはまずもって他者の自己実現を目指すものである。しかしながら、ケアリングはそれだけにとどまらず、ケアするひと自身の自己実現も他者をケアすることから付随的に生じてくる。ケアするひとの自己実現とは、メイヤロフによれば、自分の居場所を見出すことができるようになるということである〔M 115〕。つまり、ケアするひとが他者の自己実現を援助するための行動によって、「私と補充関係にある対象は、私の不足を補ってくれ、私が完全になることを可能にしてくれる」〔M 124〕ことから、ケアするひとは自分の居場所を見つけるのであり、そしてケアリングによってケアするひとは自己理解が可能となる。このことから、ケアするひとは自分の生の意味を生きることができる。この点に関して、メイヤロフは以下のように述べている。

 

 私と補充関係にある対象へのケアを中心にすえた人生を生きること、それ自体が、私が私の生の意味を生きることになるのである。そしてまた、私が私の生の意味を生きることができるのは、とりもな おさず、私がケアにたずさわっている対象が自分にとって第一義的であるからにほかならない。〔M138

 

 ケアリングとはケアするひとの自己犠牲的な行動でもなければ、ケアするひとが生の意味を生きるために他者を目的化するような行動でもない。ケアリングとはまずもって、ケアされるひとの自己実現を可能とする行動であるが、ケアリングとはそれだけにとどまらず、他者をケアすることにより、ケアするひともまた自分に欠けている点に気づくことから自己実現できるのである。したがって、ケアリングとは他者志向的な行動であると同時に、自己志向的行動でもある。このことから、ケアリングの本質とは相互性であるということが導き出されるのである。

 メイヤロフの議論ではケアリングに関する一般的パターンを論じていたがしかし、ケアするひとがなぜ他者へと働きかけることができるのかという点については言及していなかった。そうした点について議論を展開しているのが、N.ノディングスである。

 ケアリングはケアするひとからはじまる。ノディングスによると、ケアリングにおいてケアするひとは目の前にいる他者に「専心没頭」する。専心没頭とは、ケアするひとが個別的状況において、「自分自身の個人的な準拠枠を踏み越えて、他のひとの準拠枠に踏み込むこと」〔N 38〕である。ケアするひとが他者を受け容れることについて、ノディングスは以下のように語る。

 

 受け容れというのは、根本的には認識の問題であるというのではなく、それは感情と感受性の問題なのである。感情だけがケアリングの中に含まれているのではない。しかし、感情は不可欠なものとしてケアリングに含まれているのである。〔N 49-50

 

 ケアリングにおいて、ケアするひとのうちに生じる“感情”が重要となる。というのも、その感情が目の前にいる他者へとケアする動機となるからである。ケアするひとがケアリングを必要としている他者を受け容れるように働きかけるときにはまず、ケアするひとのうちにその他者を「ケアしなければならない」という動機が生じる必要がある。だが、この動機はケアするひとのうちにとどまるのではなく、それがケアされるひとのうちへと移行する。それをノディングスは「動機の転移」と呼ぶ。

 ホスピスにおいて、疾患による苦痛のうちにいる患者を前にしたとき、ケアするひとである医療スタッフが「わたしがケアしなければならない」と思うのはひととしての自然な感情から生じるからかもしれない、あるいは専門職としての義務感から生じる自然な感情からかもしれない。いずれにせよ、ケアリングにおいてケアされるひとを前にしたときに、ケアするひとの“感情”が必要となる。

 ノディングスによれば、ケアリングにおいてケアするひとのうちに生じる最初の感情とは「私がしなければならない」という義務感である。けれども、そのときの感情に義務感だけがあるのではない。この点に関して、ノディングスは以下のように語る。

 

 最初の感情は「わたしはしなければならない」である。それが、「わたしはしたい」から区別されずに生じるとき、わたしはたやすくケアするひととして進む。[N 129

 

 終末期の患者が疾患によって苦痛のうちにあるときに、医療スタッフはそのような患者を目の前にして「ケアしなければならない」という義務感から生ずる「ケアしたい」という感情が内在しているようなケアリングをノディングスは「自然なケアリング」と呼ぶ。この自然なケアリングについてノディングスは、「わたしたちが、愛や、心の自然な傾向から、ケアするひととして応答する関係である」〔N 7〕と語る。

 ケアするひとは医療スタッフという専門職の立場にいるために、自然な感情が生じなくとも他者に対してケアしなければならない。このようなときノディングスによれば、「現実の自己と、ケアし、ケアされるひととしての理想的な自己と全体像との間の能動的な関係」〔N78〕である「倫理的自己」〔N 78〕をケアすることによってそこから「わたしがしなければならない」という「内的な声」〔N 79〕が生じることによってケアするひとは他者をケアすることが可能となる。こうしたケアリングをノディングスは「倫理的なケアリング」と呼ぶ。この倫理的なケアリングに関してノディングスは以下のように語る。

 

  わたしが主張してきたのは、自然なケアリングが失敗するとき、他人のための動機づけの活力は、倫理的な自己をケアすることから奮い起こされるということである。……倫理的なケアリングは、先に 叙述したように、規則や原理に依存するのではなく、理想それ自体の発達に依存する。それは、自己 についてのどんな理想にも依存せず、ケアすることと、ケアされることをひとが最もよく思い出すことと一致していて、発達する理想に依存するのである。〔N 147

 

 以上のように、ケアリングにおいては「自然なケアリング」と「倫理的なケアリング」があることをわれわれは見てきた。しかし、これらはどちらかが高次であるかということはない。それをノディングスは以下のように語っている。

 

 わたしたちは、倫理的なケアリングが自然なケアリングよりも高次であるとする立場に立つわけでは ない。……ケアリングに基づく倫理は、ケアする態度を維持しようと努力し、したがって、自然なケアリングに依存しているのであって、それを越えるのではない。〔N 125

 

 以上のようにケアリングにおいて、そこにはまずもって「自然なケアリング」がある。そのような感情が生じるのはノディングスによると、ケアするひとのうちにケアし、ケアされた“記憶”が内在化しており、そういった記憶をもとにしてはケアされるひとへと働きかけていく。この点に関して、ノディングスは以下のように語る。

 

 ケアする態度、つまり、ケアされるひとであったという、最初の記憶と、ケアするひとであり、されるひとでもあるという、記憶の増加量を言表するこの態度は、普遍的に開かれている。ケアリングと、それを支えるような関与の仕方は、倫理学の普遍的な核心を形成するのである。〔N 8〕

 

 ノディングスは「諸々の原理や規則が、倫理的行動の一番重要な指針であることを拒絶するとともに、わたしはまた、普遍化可能性(universalizability)という概念をも拒絶しようと思う」〔N 8〕と述べる。なぜならば、ケアリングは個別的状況であるために、同じような状況がほとんどないからである〔N 8〕。しかしながら、ケアリングのうちに普遍性がなければ、ケアリングという行動が倫理的行動とはならない危険性を孕むことになる。だが先のノディングスの引用から、ケアリングにおける倫理の普遍性とは“記憶”に求められていた。それは、ケアするひとの責務とは関係によって制限されている〔N134〕、つまりどんなひとでもケアできるわけではない〔N 134〕ということから、その“記憶”が個別的状況でのケアリングの関係のなかで普遍性をもつのである。また、このようにケアリングの普遍性を“記憶”に求めることにより、ケアリングが相対主義とはならない。確かに、ケアリングは個別的状況へのアプローチであり、したがって、そうしたなかから普遍性を見出すことができず、ケアリングが相対主義となることが考えられる。けれども、先に述べたように、ケアリングの倫理の普遍性をノディングスは“記憶”に求めていたことから、ケアリングが相対主義とはならないということが導き出されるのである。

 ここまで見てきたのはケアするひとからケアされるひとへの働きかけであり、そこには相互性があった。その相互性とは、メイヤロフの議論では他者の自己実現が自分の幸福と結びついているという点にあり、ノディングスの議論では、ケアするひとの“喜び”に着目している点にある。また、ノディングスは喜びという感情を人間関係において、人間の基本的な情感であるとしている〔N9〕。そしてその喜びが、ケアするひととしての倫理的理想を支えるのである〔N10〕。

 ケアリングの議論では多くの場合、それはケアするひとに関してなされている。確かに、ケアリングとはケアするひとからはじまるのであり、またそれがケアされるひとの自己実現のために適切な行動であるかどうかということが問われるのである。だが、ケアリングにはケアするひととケアされるひとが含まれているのである〔N 107〕から、ケアするひとばかりでなく、ケアされるひとがケアリングにおいてどのように位置づけられるのかということを見ておく必要があろう。ケアリングとはメイヤロフが論じるように他者の自己実現を援助する行動である。そこでは、ケアするひとがケアされるひとを受け容れることが求められるのだが、それと同時に、ケアされるひともケアするひとを受け容れる必要がある。つまり、ケアリングにおいては、ケアするひとの働きかけとケアされるひとの応答が要請されるのである。この点に関して、ノディングスは「ケアリングの関係というものは、ケアするひとの専心没頭や、動機の転移を要求し、ケアされるひとの認識や、自発的応答を要求する。」〔N123〕と語っている。

 ケアリングはケアするひとによる行動であるのだが、その行動に対してケアされるひとは「ケアするひとが目前にいるさまに応答する」〔N 96〕。ノディングスによれば、ケアリングにおいて、ケアされるひとの認識もまたケアリングの関係において必要なものである〔N 112-113〕。その中で、「ケアされるひとは、ケアするひとを「受け容れ」なければならない。」〔N 110〕のである。このことを遡って考えると、ケアされるひとがケアするひとを受け容れなければ、それがケアリングとはならないということが考えられる。ノディングスはこの点に関して、以下のように論じている。

 

 わたしは、Xをケアすると主張するが、Xは、わたしがかれをケアしているとは信じない、と想定し よう。Xをケアする当事者の必要条件を、わたしが満たしているなら、わたしは、わたしがケアして いるのだ、[また]―わたしのケアリングを評価しない点で、Xは何か間違っているのだ―と強調したくなる。しかし、この関係を見るなら、あなたは不承不承ながら、なにかが欠けていると報告しなければならない。Xは、わたしがケアしているとは感じない。したがって、ケアしているとわたしが感じていても、Xはわたしがケアしていると感じ取るわけではないと、残念ながら、認めなければならない。それゆえ、関係性を一方からのケアリングとして特徴づけるのは、不可能である。〔N 108

 

 以上のように、ケアするひとが「自分はケアしている」と思っていても、そのケアリングをケアされるひとが受け容れなければ、それはケアリングではないこととなる。このことから、ケアリングとは一方方向的なものではなく、相互性があることということが導き出せるのである。このケアされるひとの受け容れについて、ノディングスは母親と子どもの関係を例に挙げて説明している。

 

 子どもの一人、かれは、中学生ぐらいなのであるが、夕食に遅れて帰ってくる。母親は、心配して、かれを玄関まで出迎える。この子は、母の気掛かりをすぐに見抜いて、「こんなに遅くなってごめん。でも、母さん、最高に楽しかったよ。話すからちょっと待って」と言う。そして、何をしていたのかを、ばらまくように列挙する。〔N 113

 

 この例では、心配している母親に対して、その子どもがその心配を受け容れ、そしてそれに応えている。このことからケアリングにおける関係では、ケアするひとの働きかけと同時に、ケアされるひとの受け容れという自発的意志が要請されるということが理解できる。

 このように見てくると、ケアリングという関係においてはケアするひととケアされるひとがいるのであるから、その両者によって満たされるときにケアリングは完結する〔N 107〕。したがって、「ケアリングのうちには、必ず、助け合いのひとつの形態が存在する」〔N 113〕のである。こうしたことから、ケアリングにはケアするひととケアされるひととの間に相互性があることを、われわれは見てとることができる。

 

                    

第3章 ケアと正義の対立を越えて

C.ギリガン 『もうひとつの声』(岩男寿美子監訳、川島書店、1982年)〔G〕

 

 ケアリングが目の前にいる他者の自己実現にとって適切な行動であるために、その行動の規範となるための倫理が必要となる。その倫理とは、C.ギリガンが提示した「ケアの倫理」となる。

 ギリガンは発達心理学の立場から1986年に著した『もうひとつの声』において、男性たちの語り方とは異なる女性独自の語り方があることを実証的に見出した。ギリガンはL.コールバーグの提示した三水準六段階からなる道徳発達段階モデルでは女性たちはたいてい男性たちよりも低い段階、つまり第3段階にしか該当しないことに疑問を感じ、そこからギリガンは様々な女性たちにインタビューを行った。そしてそのインタビューのなかから、女性たちが語ることばのなかには男性たちとは異なる倫理、つまり「ケアの倫理」があることを見出したのである。

 例えば、ギリガンは11歳の二人の子ども、ジェイクとエイミーにハインツのジレンマ(7)についてインタビューした。そして、その子どもたちの答えから、ギリガンはジェイク、エイミーの語りについてそれぞれ以下のように分析している。

 

 一一歳の男の子のジェイクは、最初から、ハインツはその薬は盗むべきだ、というはっきりした意見 をもっていました。彼は、コールバーグの考えどおりに、そのジレンマは財産と生命とのあいだの価 値観の葛藤の問題であるとして、生命に論理的な優越性を認めていました。彼は自分の選択を正当化するにあたってその論理を用いたのです。〔G 41

 

 エイミーはこのようにジェイクとは異なり、ジレンマのなかに数学の問題ではなく人間に関する、時 間を超えてひろがる人間関係の物語をみているのです。そして、妻が夫にたいしてもちつづける要求 と、夫が妻にたいしてもちつづける心配を想像して、薬屋との関係を断つよりもむしろ維持する方法 をとって、薬屋の要求にどう対応するかその方法をみつけることを勧めるのです。〔G 45

 

・正義の倫理:道徳の問題は諸権利の競合から生じるものとされ、形式的・抽象的な思考でもって諸権利の優先順位を定めることで問題の解決が図られる(8)。

・ケアの倫理:〈他者のニーズをどのように応答するべきか〉という問いかけがなによりも重視され、諸責任の葛藤が道徳上のジレンマの核心を構成する。したがって、当該ジレンマを解決するためには、「文脈=状況を踏まえた物語的な(contextual and narrative)思考様式」が要求される(9)。

 

 ケアリングとは他者との個別的状況において関係性を重視する行動であった。しかしケアリングにおいて、医療スタッフは関係性を重視するケアの倫理だけでは目の前にいる他者に対してケアできない場面も考えられる。例えば以下のような症例がある。

 

 残された時間を「死を待つ」のではなく「希望を持って生きる」ことだと考えたKさんは七ヶ月の生 活をホスピスで過ごした。Kさんにとって希望を持つことは日常的欲求を充足させることでもあった。一方、Kさんの日常的欲求が増えるにしたがい多くの時間を使って関わってきた看護チームの中に「次は何を頼まれるだろう」、「Kさんばかりに関われない」という思いを持ち始めた(10)。

 

 ホスピスにおいて、そこでは限られた生を生きる患者の要求を受け容れることは重要である。しかしながら、そこでインフォームド・コンセントが十分になされ、そして患者には自己決定権があるということを認めたとしても、先の症例のように、患者が出してくる要求を全て医療スタッフが聞き入れることは不可能に近い。それは、ホスピスという場が「お互いに限界を持った人間が支え合う場所である」と柏木哲夫が語るように、患者が限られた生を生きるという意味で限界をもっているのと同様に、医療スタッフもまた限界をもつひとりの“人間”であり、また医療スタッフが用いる医療それ自体も有限であることから限界があるからである。したがって、ケアリングにおいてはケアの倫理とともに正義の倫理も必要であり、それらの統合が考えられる。ケアリングにこれら二つの倫理が必要であることはギリガン、H.クーゼが指摘している〔K183〕。これらの倫理の統合について、ギリガンは「責任と権利のあいだの緊張関係が、人間の発達の弁証法を支える柱を理解することは、(結局は結びつくことになる)二つの異なる様式の経験の統合をみるということです。」〔G 305〕と論じている。

 ケアリングにおいて、そこに正義の倫理が要請されたとき、医療スタッフはどのように自らの行為を評価すればよいのであろうか。この点に関して、清水哲郎は『医療現場に臨む哲学』(勁草書房、1997年、〔清水〕)のなかで以下のように興味深いことを語っている。

 

 医師はロボットないし奴隷ではないのだから、自分で納得出来ないことはやれない。しかし、また医師は患者の人生を左右する神様でもないのだから、患者の納得出来ないことはやれない。患者が一個の人格であるように、医療者も意志を持った対等の人格的存在である。……対等の人間関係の中で、同意を得ようと努めた末のやむを得ない選択である。〔清水 90

 

 ケアリングとは他者の生に対して直接的な影響を与える行動であるため、それは常にその他者にとって善でなければならない。しかしながら、ケアリングを行う医療スタッフは清水の語るように患者の要求の全てに従うようなロボットではない。すなわち、医療スタッフもまた人格を有する自律した存在なのであり、ケアリングにおいて目の前にいる患者に対して密接な関係を構築して働きかけることができない場合もあるのである。だが、このように言えるためには、患者に対して自分の現在もちうる能力を最大限に発揮して、患者へと働きかけることが前提となる。

 ケアリングには関係性を重視するケアの倫理だけでなく、原理・原則にもとづく正義の倫理もまたケアリングでは必要となる場面もある。だが、ケアの倫理にもとづくケアリングがケアされるひとにとっての利益となるということから、それが善ということが考えられ、その一方で正義の倫理にもとづくケアリングは悪となってしまうと考えられる。だが、ケアリングにおける評価とは善‐悪という二元論的にしかなされえないのであろうか。このような問いに対して、清水は以下のように語る。

 

 「患者の気持ちに沿えなくて悪かったが、私としては仕方がなかったのだ」と認めつつ行うのが人間の背丈にあったことではないだろうか。それは決して患者を人間として扱わないことではない。かえって、対等の相手と扱うからこそ、このようなことになるのである。……人間の行為には「正しい(ないし、よい)か正しくない(わるい)」という評価のほかに、「仕方がない(やむをえない)」という評価もあり得る。〔清水 91

 

 この清水の文言から、ケアリングにおいてはケアの倫理だけではケアするひとが目の前にいる他者へと働きかけることができないということである。言い換えるならば、ケアリングが他者にとって適切であるためにはケアの倫理だけでなく、正義の倫理も必要となる場合がある。ケアリングにおいて正義の倫理を適用した場合には、清水の語るように「仕方がない」という評価が生ずるのである。ケアリングとは能力の有限性をもつひとりの人間である医療スタッフが行う行動であるので、それは善であることを目指しつつも他者にとって悪となってしまう場合もある。だが、ケアリングとは現在においてのみ働きかけうるということから、このような善‐悪という二元論的評価ではない、つまり仕方ないという評価が有効性をもってくる。だが、この「仕方がない」という評価には注意が必要である。というのも、「仕方がない」ということを口実にすることにより、ケアリングが患者にとって有害となる可能性を孕んでいるからである。この点に関して、清水は以下のように述べる。

 

 〈仕方がない〉という自己評価を慎重に行わないと、自己のしたことを安易に正当化ないし免罪するための言い訳に使うことになってしまう。だが、ぎりぎりのところで真に他にやりようのない時に選びとる決断に伴うものとしてある限りにおいて、許される評価であろう。〔清水 91

 

 仕方がないという評価が現れるのは、ケアリングが現在においてのみ行うことのできる行動だからである。つまり、ケアリングに対する評価は現在によって制限が加えられるのである。現在においてのみケアリングを行うことができるということから、医療スタッフは多数あるケアリングの選択肢のなかからひとつを選択しなければならない。したがって、ケアリングにおいて、そこに適用される倫理を正義かケアかという二元論的に分離させることではなく、それらがともに必要なのである。だからこそ、清水の言う「仕方がない」という評価もケアリングにおいて考えられるのである。

 

 

第4章 ケアリングとジェンダー

 ケアリングにおいて、それを担っているのは多くの場合、患者の妻や娘、あるいはナースのような女性たちである。「なぜ女性たちがケアリングを担うことになるのか」ということを考察するために、フェミニズムの視点が有効となる。

 

フェミニズムの視点:大越愛子『フェミニズム入門』(ちくま新書、1996年)

 現代において、フェミニズムは、女性差別それ自体の問題だけでなく、そうした差別現象を生み出した文化、社会、思考の構造そのものの批判と解体に向かっている。それゆえにその理論的射程は、女性領域を超えて、人間の作り出した文化全体を照らし出している。〔231

 

 看護は、人類のはじまりより、母親のいたわり、思いやりから出発し、人間の生活とともに存在する 活動である(11)。

 

 小さい子 病気のひと お年より

 おせわはいつも女のひと?(12)

 

 

 多くの場合、女性がケアリングを担っており、我々はそういった場面に遭遇している。こうしたこと関して、ノディングスは以下のように語る。

 

 ケアリングの倫理は、わたしたち女性の経験の中から生じるのであり、これは倫理的な問題に対する、伝統的、論理的な取り組み方が、それ以上にあきらかに、男性の経験から生じるのと同じである。〔N  13

 

 それではなぜ、多くの場合女性たちがケアリングを担っているのだろうか。この問いに対して、第3章でのギリガンの議論から、男性たちとは異なる女性独自の発想が底流しているということを導き出すことができる。その点についてノディングスは以下のように語る。

 

 道徳的な生活を営む人の多くは、道徳的な問題に、形式的に取り組んではいない。とくに、女性は、選択を行うために、自分自身を、できるだけ具体的な状況に置いて、個人的な責任をひきうけることによって、道徳的な問題の解決を図るように見える。彼女たちは、ケアリングによって自分を見定め、ケアするひとの立場から、道徳的な問題を解決する道をとる。〔N 13

 

 女性たちのうちにケアリングの経験が形づくられるには、歴史的に根深い背景がある(13)。そうした一端を、われわれはN.ナイチンゲールが「女性は誰もが看護婦なのである」(14)という文言のうちに見ることができる。したがって、ケアリングがジェンダー化されている、つまりケアリングという実践的行動のうちに女性偏向があると言えよう。

 ケアリングが女性に固有の経験として内在化していることに対して着目したのは、第3章で見たギリガンであった。ギリガンは男性たちに見られる「正義の倫理」、そして女性たちに見られる「ケアの倫理」を見出したことに関して以下のように語っている。

 

 自己と社会関係についての異種の経験を符号化するのに、類似のことばを使いながら、男性と女性は 同一であると思って、じつは、ちがったことばを話しているようだというのが著者の研究成果です。……最近になって、われわれは女性の沈黙に気がつくのみならず、女性が口を開いても、その意味を とらえるのがむずかしいことがわかってきたのです。ところが、口を開いた女性たちの声のなかにこそ、心くばりの倫理のもつ真理や、人間関係と責任のあいだのきずなや、人間関係がうまくいっていないときに起こってくる攻撃性のみなもとがあるのです。〔G 304

 

 こうしたギリガンの議論が登場するまで、男性たちと女性たちとでは自己の語り方が同じように思われていたのだが、しかしながら実際には異なる語り方をしていた、つまり男性たち、女性たちには各々独自の語り方があったということである。したがって、正義の倫理、ケアの倫理という点から男性たち、女性たちの独自性を顕在化させることができるのである。これまで見てきたギリガンとノディングスの議論から、女性たちには男性たちとは異なる経験であるケアリングの経験があり、それが他者へと関わる道徳的アプローチの基礎となっていることを捉えることができる。

 以上のように、女性たちのうちにケアリングの経験があることから、医療においてケアリングを担っているのが多くの場合女性たちであることをわれわれは理解することができる。ホスピスで行われるケアリングでは、先述したように関係性が重要となる。そして関係性が重要であることから、ケアリングとはケアの倫理にもとづく行動ということが導き出される。ホスピスにおいて、患者を中心に据えた医療スタッフや患者の家族の“協働”によって、限られた生を生きる患者がよりよく生きることが可能となり、そのことから患者は自己実現を果たす。しかしケアリングを行う際に、ケアの倫理のみを前面に押し出すことによって、ケアリングを担っている女性たちを再びその地位へと囲い込んでしまう。

 医療の現場において、ケアリングを担っているのは女性たちばかりでなく、男性たちでもあることが当然考えられる。そしてまた、それを担うのが女性たちであろうと男性たちであろうと、疾患による苦痛のうちにいる患者の自己実現を援助するケアリングは必要である。こうした点について、ノディングスは以下のように述べている。

 

 わたしは、けっして、女性だけが、世の中すべてのケアを与えるべきだと主張しているのではありません。ここで論じたのは、ケアリングが、歴史的には女性の役割であったこと、そして、女性たちは、何世紀にもわたる経験を経て、ケアを与えることの実践と、道徳的な方向づけの両方に寄与する、なにか特殊なものを身につけていること、ケアリングは、そうした経験から芽ばえたものだということです。これは、男性が有効なケア提供者たりえないとか、男性はケアリングを、世界内存在の一様式として受け容れることができないとかいう意味ではありません。〔N @〕

 

 先述したように、歴史的事実を背景として、ケアリングは女性たちの生々しい経験から生じていた。その結果として、ケアリングを担うのは多くの場合女たちとなっている。こうしたことから、ケアリングが女性たちのうちに内在化し、そしてケアの倫理が導き出されるのである。さらに、このケアの倫理が女性たちの独自性を打ち出すことを可能とする。ケアリングとはまずもって、ケアの倫理にもとづく行動であるのだが、先のノディングスの文言から、ケアリングがジェンダー化していることは確かである。女性たちにはケアリングの経験があるということを拠り所にして、女性たちをケアリングへと向かわせることは、女性たちを再び特定の地位へと囲いこんでしまう。また、ケアリングにおいて、ケアの倫理を前面に押し出すことによって、ケアリングを担っている男性たちを疎外してしまう事態が生じてしまう。確かに、ギリガンの示した正義の倫理、ケアの倫理をもとにして男性たち、女性たちのそれぞれの独自性を明確にすることはできた。しかし、それらを二元論的に前面に押し出すことによって、フェミニズムの視点から、そのことが男性たち、女性たちへの性差別の再生産となってしまいかねないと言うことができる。このことに関して、クーゼは以下のように語っている。

 

 ケアの倫理が女性だけの専売特許とされてしまうと、さまざまな方法で女性に対して抑圧的に利用さ れたり、支配と搾取に基づく関係を隠蔽してしまうことがある。〔K 207-208

 

 ケアというものは人が生きていくうえで重要なものであるはずである。私たちが認識しなければなら ないことは、伝統的に女性と男性の生活を形づくってきた道徳的・文化的価値や制度はそもそも男女で不平等なものだから、そこからケアの倫理を抽出して、これを女性の専売特許とすることはできな いということである。〔K 210

 

 医療現場において、ケアリングを担っているのは多くの場合女性たちである。しかしその一方で、男性たちもケアリングを担うこともあるだろう。確かに先にわれわれが見てきたように、歴史的事実として女性たちにはケアリングの経験がある。そのことから多くの場合、医療現場においてケアリングを担っているのが女性たちであることは否定できない。しかしながら、女性にケアリングの経験があるということで再び女性を狭い地位へと追いやる可能性も孕んでいるのである。こうした点について、ノディングスは以下のように語る。

 

 今日、女性が数学や工学といった、永く男性に支配されてきた分野にも、能力を示しているのとちょうど同じように、男性も今、直接的なケアの喜びや重荷を分担してはどうかと、考えてみるべきです。 〔N @〕

 

 このノディングスの指摘から、ケアリングという行動には、女性たちばかりでなく男性たちも関わっていける余地があるということをわれわれは捉えることができる。ただ、歴史的事実として、ケアリングは女性たちの生々しい経験から生じてくるものではある。しかしながら、ケアリングに男性たちも関与する余地があるということから、男性たちもケアの倫理を女性たちとともに共有することができるのである。

 

 

おわりに

 小論において、ケアリングについて考察をすることにより、ケアリングが人間の生に対して必要不可欠な行動であることの一端を理解することができた。それはまた換言すると、ひとは他者との関係、すなわち人間関係において生きていることを捉えることができた。そして、人間の生においては、ケアリングとはケアの倫理か正義の倫理か、あるいは女性たちか男性たちかという二元論的に語ることのできない行動である。

 

(1)M.フーコー『臨床医学の誕生』、神谷恵美子訳、みすず書房、1969年、25頁。

(2)山崎章郎『病院で死ぬということ』、文春文庫、1996年、107頁。

(3)池上直巳、J.C.キャンベル『日本の医療』、中公新書、1996年を参照。

(4)「生の軌跡」ということばは、浜野研三「潜在的能力から共通の運命へ」『哲学論叢 XXVI』(京都大学哲学論叢刊行会編、1999年)の中から得た。この「生の軌跡」はパーソン論を批判する文脈で用いられている。そして「生の軌跡」に関連して浜野は、「物語を紡ぐ存在としての人間」、『生命倫理学を学ぶ人のために』(加藤・加茂編、世界思想社、1998年)のなかで、「人間は時間の中で生き変化する、歴史をもった存在であり、その人生もそのような奥行きをもっているのである」(123頁)と語っている。

(5)柏木哲夫は『生と死を支える』(朝日選書、1987年)のなかで、「ホスピスはお互いに限界を持った人間が支えあう場所である」(38頁)と語っている。

(6)「補充関係にある対象」とは原典によると、appropriate othersとなっている。appropriateとは「適切な」、「ふさわしい」ことから、自分がより完全な自分となるように導いてくれるという意味で、目の前にいる他者はケアするひとにとってappropriateであると筆者は考えている。つまり、「補充関係」というのは、他者の自己実現のためにその他者に欠けている点をケアするひとが補い、他方、ケアするひともそのなかで自分に欠けている点に気づかせてくれるという意味であると考えられる。

(7)ハインツのジレンマとは、ギリガンによると「ハインツという名の男が、自分は買う余裕のない薬を、妻の命を救うためにス盗むべきか否かを考えている問題です。コールバーグの面接では、ふつう、ジレンマそのものが説明されたあとで――ハインツの窮状、妻の病気、薬屋の値下げの拒否――「ハインツはその薬を盗むべきですか」という質問がなされます。それから、道徳的思考の基礎となっている構造を明らかにするように設定された、ジレンマに関するさまざまな変数を変えたり広げたりしてつくられた一連の質問をとおして、盗みに同意するか、反対するかが問われ、またそれぞれの理由が調べられるのです。す。」(G 40)というものである。

(8)川本隆史『現代倫理学の冒険』、創文社、1995年、68頁。

(9)同上、68頁。

(10)日本死の臨床研究会編『これからの終末期医療』、人間と歴史社、1995年、248頁。

(11)『看護学大辞典 第二版』、メヂカフレンド社、1978年、295頁。

(12)L.クリスチャンソン『おんなのこだから』、にもんじまさあき訳、はたこうしろう絵、岩波書店、1999年、10頁。

(13)ケアリングが女性に固有の経験として形づくられていった歴史的変遷に関しては、J.アクターバーク『癒しの女性史』(永井英子訳、春秋社、1994年)、またB.エーレンライク/D.イングリッシュ『魔女・産婆・看護婦』(長瀬久子訳、法政大学出版局、1996年)を参照。

(14)N.ナイチンゲール『看護覚え書き』、現代社、1986年、i。

 

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