浮遊する自己決定―臓器移植法改正によせて―
岡田篤志
『哲学』第20号、関西大学哲学会、2001年3月20日、109-136頁
一、町野B案と森岡反論
ニ、脳死移植法の成立過程における自己決定
三、翻弄される自己決定
四、自己決定概念の捉え直しに向けて
欧米諸国で確立された患者の自己決定尊重の原則は、我が国においても積極的に主張されてしかるべきである。しかし同時に、自己決定原則の持つ独特の理解され難さ、危うさについても十分留意されなければならない。本稿は、脳死移植の立法化と改正に関する議論における自己決定原則の行方を追跡し、脳死移植においてあるべき自己決定原則のすがたを探ることを目的とする。
一、町野B案と森岡反論
現行の「臓器の移植に関する法律」(平成九年七月十六日、法律一〇四号)は、施行三年後を目途として必要な措置を講じることを附則している(附則二条)。施行三年後は二〇〇〇年に当たる。昨年二月に高知で法施行後初の脳死状態の方からの臓器摘出と移植(以下「脳死移植」とする)が行われて以来、すでに八例の脳死移植を数えている。だが、周知のとおり移植待機者の多くの希望は叶えられておらず、また小児に関しては、依然として高額の費用を要する海外での移植に頼っている現状である。そこで当然、現行法の改正に向けての検討が具体化し、議論も盛んになってくることが予想される。この件に関して、早期に提案されているのが、町野朔氏の改正案である。町野氏は、厚生科学研究の「臓器移植の法的事項」を担当する分担研究者であり、すでに昨年の四月に、「脳死をもって一律的に人の死とし、本人の提供意思が不明の場合は、家族の承諾をもって臓器提供を可能とする」という研究班としての最初の「中間報告書」を提出している。さらに氏は同年の十一月には「『小児臓器移植』に向けての法改正―二つの方向―」
(1)という前報告書と同趣旨の私案の改正案を発表している(2)。この町野氏の改正案と、それに対していち早く反応した森岡正博氏の反論、「子どもにもドナーカードによるイエス、ノーの意思表示の道を」(3)が現時点で注目に値するものであろう。まずはその両者を紹介し検討する。 A案―小児・年少者からの臓器の摘出を可能にするために、誰か(親権者)が彼(彼女)に代わって臓器提供を承諾する意思を表示することを認める特則を設けるという方法である。
B案―死者本人の臓器提供に承諾する意思表示がなければ許されないとする現行法の立場を修正することによって、子どもにも大人にも平等に移植医療を可能とする方向をとることである。
一見、二案併記のようであるが、町野氏自身の本心からすればそうではない。特則を加えるかたちのA案に関して町野氏は、本人の提供意思をもって始まる現行法の枠組みを大きく変えることなく小児の脳死移植を可能にすることができ、現実性が高いと評価されるだろうことを予測しつつも、これが「大きな問題」を孕んでいることを指摘する。町野氏によれば、特則を加えるべき現行法自体が本人の提供意思を第一条件としている以上、A案は親権者が小児に代わって小児本人の意思を代行する(忖度)というかたちを取ることになるはずである。だが、それでは脳死状態での臓器提供に関する小児自身の理解と承諾がそもそも困難であるがゆえに、このような代行判断は「擬制」であることになる。また、本人の意思が不明の場合は「遺族」の承諾でよいとする「旧中山案」(旧法案一九九四年四月を示すと思われる)と比較して、どうして小児に対する「親権者であった者」のみが特権的に本人に代わる提供承諾をすることができるのかは疑問であるとする。したがって、町野氏は特則型のA案をその場しのぎの便宜的なものでしかないと評価する。
町野氏の本命はB案である。B案は、現行法の提供意思を規定する第六条条文を修正することによって、本人がドナーカードによって提供の諾否を表示していない場合にも、「遺族」の書面による承諾によって臓器の提供を可能にするものである。第六条は以下のように修正される。(強調部分が現行法第六条に対して追加・修正されている部分である。)
第六条一、―医師は、死亡した者が生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき、若しくは遺族がいないとき、又は死亡した者が当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、遺族が臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示したときには、移植術に使用されるための臓器を、死体([脳死体]を含む。以下同じ。)から摘出することができる。
文言上僅かな追加と修正であるが、現行法の根本性格が改変されていることがわかる。つまり、@脳死移植の可能性が本人の任意の提供意思をもってのみ開始されることから、本人の意思が不明な場合でも家族の承諾によって可能となる点、また、A提供意思が表明されている場合にのみ脳死を「人の死」とする現行法の立場から、脳死状態にある身体はすでに「死体」であるとする「脳死一律人の死」の立場へと変更されている。
町野氏はこれで小児の提供意思の資格や年齢制限を問わなくとも、「子どもにも大人にも平等に移植医療を可能とする方向をとる」ことができると考える。
町野氏も触れているように、この町野B案は、一九九四年四月に国会に提出された最初の法案(旧法案)
二、臓器移植法の成立過程における自己決定
この種の課題に関して、すでに小松美彦氏が示唆に富む分析を行っている
(14)。まず、これを瞥見する。
三、翻弄される自己決定
小松氏の指摘するように、脳死移植の法制化の論議で自己決定概念が全面に現れてくるのは、日本医師会生命倫理懇談会「脳死および臓器移植についての最終報告」(一九八八年)である。
まず、自己決定概念が登場する文脈から見ておこう。報告書は、脳死は「人間の生物学的な死」であるが、それを以て「社会における人間の死」とするには、「文化的・社会的伝統の中で、自ら定まるものであろう」とし、一見、社会的合意を必要としているかのようであるが、後述するように、この「社会的合意」に全く重きを置いておらず、脳死を人の死とすることは前提にしていると言ってよい。したがって、脳死判定で脳死と認められれば、人の死を意味する。そこで、「脳の死による死の判定」をすること自体に、判断能力のあった時点での本人や家族の承諾が必要かどうかを問題にする。報告書はこの点に関して、死の判定は医師によって「客観的に」なされるのが「本来」であるが、脳死を人の死とすることに十分納得しない人が少なくない現状では、患者や家族に「同意を得て行うのが適当である」とする。そこでこの「同意」に関して、自己決定概念が登場する。再度引用すれば、
「現状では、脳の死による死の判定がまだ一般的に公認されたとはいえない。しかし、脳の死による死の判定を是認しない人には、それをとらないことを認め、是認する人には、脳の死による死の判定を認めるとすれば、それでさしつかえないものと考えてよいであろう。このことはまた、自分のことは自分できめるとともに、他人のきめたことは不都合のないかぎり尊重するという、一種の自己決定権にも通じる考え方であるといえよう」(中山『資料に見る』九三頁)。
文脈に注意が必要である。脳死判定の実施には、「本来」なら同意は必要ないが、脳死を人の死をすることに納得しない人が少なくない現状では、やむを得ず同意を得るのが適当であるとし、本来ならば必要のないこの同意に関して自己決定権が言われるのである。ここで報告書が自己決定概念に与えている位置が分かる。それは二次的なものであって、本来なら必要のないものであり、移行措置として暫定的に要請されているに過ぎない。ということは、もし日本医師会による「教育的ないし啓蒙的活動」(同九八頁)が功を奏して、脳死を人の死とすることが広く納得されるようになれば、自己決定は廃棄されるのであろうか。現行法から町野B案への移行を彷彿とさせるものである。しかもこうして二次的に用いられている自己決定概念が、「死の自己決定権」なのである。それは医療関係において主張されている自己決定権の中でも最もデリケートなものであり、多くの議論が必要なものであるはずである。また死の自己決定権の場合、それを肯定するためには、植物状態患者、「寝たきり」患者に対する治療やケアの拡充ないし緩和・終末期ケアやペインコントロール等の充実など、医療の環境改善が先決課題である。それがなければ死を自己決定させるという最悪も招きかねない。それにもかかわらず、そのような自己決定権を、しかも二次的に用いているのである。報告書が自己決定概念に関して驚くほど貧しい評価しか持ち得ていないことが分かる。
さらにその直後にも、患者本人の意思と家族の意思との関係如何に関して言及されている中でも「自己決定権」が用いられている。
「近頃、患者の自己決定権ということがいわれる。医療に関する決定については、患者本人の意思が第一次的であり、家族の意思は、患者が未成年者あるいは未成熟者か、または意思表示が不能な場合に、その代人として第二次的に問題とされるわけである。
しかし、脳の死による死の判定の場合には、前述のように、患者本人または家族の同意を要件とするものではなく、社会的な礼節上、その意思を尊重してその同意を得て行うのが適当であるということである。したがって、本人の意思か家族の意思かを厳密に論じることは、ここでは必ずしも必要ではない。そして、その場にいるのは家族であるから、通常は家族の同意を求めることになる」(同九三−四頁)。
引用冒頭の「近頃、患者の自己決定権ということがいわれる」というくだりが本来意味すべきなのは、まずは患者の権利擁護として主張される医療者に対する患者の自己決定権であるはずである。特に脳死移植が「見えない死」を待って始まる医療であり、術後管理に困難が予想される医療であるがゆえに、医療側の独断、専断が最も排除されるべきはずである。医師会として銘記すべきなのはまずこの点である。そもそも自己決定権は、単独化した個々人の任意の選択を保障するといったように没関係なものではなく、まずは支配、圧力が行使されている関係の方向性に注目して保障されるべきものと捉えなければならないだろう。「患者の自己決定権」が差し向けられているのは、医師側の態度改善へである。それにもかかわらず、医師に対する患者の自己決定権に関する記述は全くなく、もっぱら本人とその家族の関係に終始している。しかも、その本人と家族の意思の関係すら、自己決定権が付随的に考えられている以上、論じる必要もないということである。
また、報告書が社会的合意を不要として自己決定によって脳死移植の解禁を狙ったものであるという批判は、小松氏だけではなく以前から多くの論者によって指摘されていたことである(註
四、自己決定概念の捉え直しに向けて
脳死移植の法整備に関する議論において、自己決定概念には以上のように相反する複雑な意味が彫りつけられている。しかし、そうだとしても、脳死を一律人の死とし、本人の意思不明の場合は家族の承諾で足りる、とする町野B案の方向への法改変に反対しようとするならば、何らかのかたちで自己決定概念に依拠せざるを得ないだろう。だが、上述したような経緯によってゆがみを孕んでいる自己決定に頼ることの危うさも十分に自覚しておかなければならない。それでは、脳死移植において、自己決定を尊重すべきであるとする理念のあり方をどのように考えればよいのだろうか。
自己決定の尊重が、当事者自身の決定を最優先することを意味するとしても、自己決定という事態を孤立化、実体化して捉えてしまうならば、それは「生命線」を絶たれ本来の意義を失うことになろう
2000.09.09脱稿
註
14 小松美彦「『自己決定権』の道行き―『死の義務』の登場」(上)、『思想』二〇〇〇年二月号、十二六−十五七頁)。
15 中山研一『資料に見る脳死・臓器移植問題』日本評論社一九九二年、八六−九九頁所収。
16 報告書作成のリーダー的存在である加藤一郎氏の「脳死の社会的承認について」『ジュリスト』No.845,一九八五年十月には次のようにある、「……これは、患者の自己決定権とも関連のあることである。医療について患者の自己決定権を尊重すべきことが承認されつつあるが、脳死についても、とりあえず自己決定権の中に含めて、個人の意思を尊重するというのが、現状において脳死の判定を推進する一つの方法だと思われる。……このような患者本人の意思を尊重することに対しては、他人が違法だとか不当だとかいって文句をつける必要はないはずである。現在、脳死判定による臓器移植をした筑波大学の医師に対して、心臓死より前に臓器を摘出したから殺人罪だとする告発がされているが、臓器の提供を望む人とそれに応じて臓器移植をした医師に他人が文句をつけるのは、おかしいことだと思われる。
こうしてみると、いわゆる社会的合意が必要だとしても、それは、脳死一般についての社会的合意ではなくて、脳死の判定によって死後の臓器提供を望む人に対して、脳死の判定をすることについての、社会的合意ということになる。それは、結局、臓器提供者の意思を尊重するかどうか、また、自分がかりに反対であっても他人がすることを認めるかどうかという、寛容の問題だということができよう」。
17 報告書発表の直後からすでに同種の批判はあった。例えば澤登俊雄氏によれば、「……同報告は、あるときには患者の自己決定権を強調し、またあるときはそれを事実上否定する結果に終わっている。以上から明らかなように、最終報告の真の狙いは、脳死説の公認を妨げている社会的合意論を無力化するため、患者の自己決定権とそれによる死の概念の相対化を主張し、『まだ社会的合意の得られていない』脳の死による人の死の認定を、現時点で実施に移すことを可能にすることである」。(澤登俊雄「脳死問題の考え方―医学と法律学との間」『法律時評』一九八八年四月号)。また、小田直樹氏によれば、「最終報告は、国民レベルでは『自分がかりに反対であっても他人がすることを認める……寛容』についての「合意」だけを問題とし、『死亡概念』に対する『合意』は個々の患者の問題にしてしまう方向を示す(加藤一郎「脳死の社会的承認について」『ジュリスト』No.845,四一頁)。しかし、後述のように、『社会的合意』論の基礎が『死亡概念』決定問題自体の社会性にあるとすれば、社会レベルでの論争が尽くされていない段階で個人レベルでの問題解決を持ち出すべきではなかろう」(「死亡の概念について(一)」『広島法学』十三巻一号一九八九年七月)。他に中山研一「脳死と臓器移植をめぐる問題の再論(一)(二)」『警察研究』第五十九巻第六、七号一九八七年。加藤一郎・唄孝一対談「対談.脳死問題と日本医師会生命倫理懇談会最終報告書」『法律時報』六〇巻三号一九八八年などがある。
18 臨時脳死及び臓器移植調査会答申「脳死及び臓器移植に関する重要事項について」中山『資料に見る』一三三頁。
19 その根拠として報告書は、「保健医療サービスに関する世論調査」(総理府一九八七年)を持ち出す。「『脳死を死と認めてよいか』について、『認めてよい』が二三・七%、『認めない』が二四・六%であるが、『本人の意思や家族の意思に任せるのがよい』が三六・七%あるので、これと『認めてよい』を合わせれば六○・四%となる。したがって、脳死を認めることについては、すでにかなりのところまで社会的合意ができていると考えてもよいと思われる」。ここに数字の曲解が一目瞭然である。「本人の意思や家族の意思に任せるのがよい」と「認めてよい」が合算されることはないはずである。
20 中山研一氏は「個体化方式」という言葉を用いている。「……報告書が患者側の意思による解決に固執するのは、上述の批判にもあったように、現状では脳死説を一律に適用することが因難であり、反対がなお少なくない現状の下で、実際に脳死による死の判定を部分的にでも実現するためには、是認する人には脳死による死の判定を認め是認しない人には認めないという個別化方式によって処理する以外に方法がなく、しかもそれは患者の自主性の尊重にもかなうという大義名分を持ちうると判断されたからにほかならない」(「脳死と臓器移植をめぐる問題の再論」(二)『警察研究』第五十九巻第七号、十五頁。
21 町野朔編『資料・生命倫理と法T脳死と臓器移植(第三版)』信山社一九九八年六六−七七頁所収。
22 脳死臨調少数派意見もこの意味で二ヶ所「自己決定権」を用いている。「摘出・移植を行う施設が、先端、実験医療のみならず、日常の診療においても、患者の権利、なかんずく自己決定権を尊重する制度を設けていなくてはならない。ここに自己決定権を尊重する制度としては、インフォームド・コンセントのガイドライン、診療録などの閲覧・謄写制度などがある。この点は、医に対する信頼の回復のために、必要不可欠である」(中山『資料に見る』一三四頁)。
23 さらにこの自己決定権は、「生命に対する固有の権利、到達可能な最高水準の身体・精神の健康を享受する権利」、「幸福追及権(憲法一三条)、国際人権B規約六条、A規約十二条など」に基づけられるとしている。
24 一四〇回衆議院厚生委員会十一号、一九九七年四月二日。
25 一四〇回参議院臓器の移植に関する特別委員会〇三号 一九九七年五月二十六日。
26 心臓死説からの違法性阻却による臓器摘出の正当化において、自己決定権を中心に置く発想はすでに法学者達によって模索されていた。酒井安行「生体からの摘出は絶対にできないか」『法学セミナー』Vol37.No.9 453号一九九二年九号、川口浩一「脳死と臓器移植についての一つの提案」『奈良法学会雑誌』二巻二号1989年、大谷実『刑法講義総論』成文堂一九九四年、第四版補訂版三〇九頁、丸山英二「脳死臨調中間意見に関する若干の感想」『ジュリスト』987号一九九一年一〇月二一頁など。中山『脳死移植立法あり方』成文堂1995年、第六章九九−十二七頁と石原明『医療と法と生命倫理』日本評論社一九九七年二八五−九頁に諸説の紹介、検討がある。
27 前註で挙げた模索の中にもすでにこのような傾向は存在していた。例えば、「本人が、受容者の救命に役立てるという愛他的な目的のために、自らの身体から移植用臓器が摘出されることを希望する意思を表明していた場合に、それに応じてなされる臓器摘出行為は、患者の希望をかなえるという点で患者の人格・尊厳を重んじる行為」である(丸山前掲論文二一頁)。
28 中山前掲『脳死移植立法のあり方』所収。
29 医療において患者・クライアント個人の決定が最優先されることがいち早く是認されはじめたのはアメリカ合衆国においてであるが、その際、司法判断は自己決定の権利を患者のプライヴァシー権に基づけていた。人工妊娠中絶に関する州の規制が女性個人のプライヴァシー権を侵害するとしたルー対ウェイド判決や、カレン裁判を初めとする一連の延命停止の措置を求める訴訟で、いわゆる患者の「死ぬ権利」が認められたのも、患者本人のプライヴァシーの権利が根拠とされていた。だが、生殖や生死の操作に関する決定権を個人のプライヴァシー権とすることは、問題が「公」から隔絶された「私」の領域に閉じこめられることによって、社会が十分な環境整備や支援を怠るという事態が懸念されてきた(高井裕之「関係性志向の権利論・序説―アメリカにおける堕胎規制問題を手がかりに―」(一)〜(三)『民商法学』九九巻三号〜五号一九八八年、Catharine A.Mackinnon,:Feminism Unmodified-discourses on life and law-,Harvard University Press, 1987,キャサリン・A・マッキノン、『フェミニズムと表現の自由』奥田暁子他訳、明石書店一九九三年、参照)。
30 例えば註10で挙げた平野氏やバイオエシックスの紹介者の一人である木村利人氏の読売新聞紙面での見解(「臓器提供の『意思』尊重期待 (論点) 」読売新聞一九九七年十月十五日朝刊)、さらに意外にも、法施行後の第一例目となった高知赤十字病院の主治医である西山謹吾医師が、厚生省第二四回臓器移植専門委員会で同種の意見を述べている(厚生省第二四回臓器移植専門委員会議事録二〇〇〇年二月八日)。
31 江原由美子「『自己決定』をめぐるジレンマについて」『現代思想』一九九九年一月号。
32 自己決定の原則を根本から再考するためには別稿を待ちたい。この種の課題に関する重要な研究として以下のものが挙げられる。立岩真也『私的所有論』勁草書房、一九九七年。江原由美子編『生殖技術とジェンダー・フェミニズムの主張 3』勁草書房、一九九六年。最首悟『星子が居る』世織書房、一九八八年。土屋貴志「『本人のため』の『自己決定』」京都新聞一九九八年十一月六日朝刊「思想の進行形・生命操作(7)」。高井裕之前掲論文。竹内章郎「死ぬ権利を相互承認し得るほど人類は進歩していない」第四回日本臨床死生学会/第一七回日本医学哲学・倫理学会合同大会一九九八年十月。Milton Mayeroff:On Caring,Haper & Row,1971(ミルトン・メイヤロフ『ケアの本質』田村真・向野宜之訳、ゆみる出版、一九九八年)。Maria Mies & Vandana Shiva:Ecofeminism,Halifax,1993(抄訳「自己決定―ユートピアからの終焉?」後藤浩子訳『現代思想』一九九八年五月号)、など。
33 石原前掲書一九三−二〇一頁二九五−六頁、平林勝政「臓器移植の比較法的研究―各国立法の小括と〃承諾〃権の一考察」『比較法研究』四六号一二五頁、参照。