ある河にはある河のわけがあって −−大槻鉄男先生のこと 

 

 「大槻鉄男」とするか、「大槻鉄男先生」とするか、少し迷った。というのは、私がこのひとを知ったのは、その詩と随筆と小説をおさめて、死後、編まれた『樹木幻想』の作者としてでもなければ、岩波文庫の『三好達治詩集』の編者としてでもない。フランス語の先生としてだったからである。大槻鉄男先生は京都女子大学に勤められ、京都大学に非常勤で授業をされていた。そこへ学生の私がたまたま受講したというにすぎない。

 大槻先生の授業はなつかしい。しかし、それは授業をつうじてフランス語やフランス文学に近づいたからというわけではない。せんじつめれば教師の人となりということになる。だが、先生がご自身について語られたりなにかしらの感慨をもらされたりすることは、まずなかった。先生がフランス現代詩の研究者であり、ご自身も詩を作られる方であることを知ったのは、亡くなられたのちの朝日新聞の文芸欄の記事によってである。むしろ、学生への期待が感じられない、教師と学生が没交渉なところがなつかしい。なんといっても、先生は学生に問題をとかせながら、教室の窓からその一角のみえる比叡山をじっとながめている時間が長かったのである。あたかも比叡山をながめに授業に来られたかのようであった。そのあいだ、予習してきた者は手持ちぶさたかもしれない。けれども、自分でその時間の使い方を工夫すればよろしい。私は先生の後ろ姿ごしに比叡山をながめていた。それはそれで貴重な時間だったと思う。

 十二月の最後の授業に、大槻先生はこう伝えられた。「一月は授業はしません。フランスに行きますので。試験は作ってあります。ほかの先生にしていただきます」。実際には、フランスに行かれることはなかった。渡仏寸前に咽頭部の腫瘍が発見され、急遽予定された手術も受けられないうちに病状があらたまり、不帰の客となられたからである。四八歳であられた。十年以上、糖尿病を患われていたことはあとから知った。

 朝日新聞の記事に紹介されていた『樹木幻想』を、最後の授業を受けてから三年ほど過ぎた冬の日、河原町の本屋でたまたまみつけた。そこにはまた、いかにもそのひとらしい−−とはいえ、私は個人的に知る由もないのだから、つまりは後ろ姿の大槻先生に似つかわしいということだが−−ふんいきの文章がおさめられていた。「ひとり」ということを感じさせるいささかきびしい端正な面と、それとともに、「ひとり」が自閉しているのではなくて周囲のふとしたことに(たとえば、遠景の比叡山に)溶けいってしまいそうなあえかさと。先生は、木と、庭に来る鳥と、それから(どちらかというと)場末の居酒屋と、少々猥雑な感もある巷のけしきを好まれるようだった。しかし、巷に沈倫するのは嫌われるようだった。長年親しんだ庭木が枯れたのを悲しみ、同じ種類の木をよそでみて目をうるませながら、「木は口をきかないからよい」と記すひとであった。詩のなかには、もっとちがう、「才気走った」というと悪口になるが、若々しく、際どさに遊ぶといった面もみられる。ただし、私は帯にも記されていた次の詩に最もそのひとらしさを感じている。はじめそのひとは、私にとって、フランス語の大槻鉄男先生だった。この詩によって、大槻鉄男は忘れられない詩人である。

 

ある河にはある河のわけがあって/朱色に染まって流れてゆく/私には私のわけがあって/橋の上にたたずみ/昔のひとのように/朱色の流れをみつめている

 

(厳密なことをいえば、詩をひとつ引用してしまうのは著作権の問題にふれるだろう。どうか、大槻先生の霊よ、遠景の比叡山を先生の後ろ姿ごしにご一緒にながめていた縁に免じて引用するのをお許しください。引用は『樹木幻想』、編集工房ノア、一九八〇年、一四五頁)。

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