深みのある日常 ―尾崎一雄試論―

 

品川哲彦

『文学空間』、広島大学文学の会、1999年4月17日、35-47頁

 

はじめに

 尾崎一雄の若干の作品をとりあげて、そこに描かれた「私」について考えてみたい。

 尾崎一雄は、文学史のなかでは、志賀直哉に師事した私小説家と位置づけられる。このような文学史上の位置づけは、作品を読解する手がかりとなるとともに、読解を特定の方向に制約したまま流通させる働きももつ。とりわけ、私小説という観念はそうである。ただし、どのような作品であれ、その作品を読むさいには、既存の解釈をその作品のなかでうけいれ、あるいは、拒絶し、場合によってはそのことをつうじて既存の解釈を修正する作業をせざるをえない。私小説についても同様である。私小説という観念と作品の読解のおりなすこの循環を、寺田透はつぎのように述べている。

もっと分りやすく言うと、「私小説」をもわれわれはただ小説として読むのであつて、それが「私小説」だというのは、「私小説論」の渦中に捲きこまれたあとではじめて問題となることだからだ。大正の末年「私小説」という言葉が発明される前から、私小説は作られていた。けれども誰もそれを「私小説」として読みはしなかつた。(中略)今迄のところ「私小説」に関する省察から「私小説論」がはじまるのではなく、「私小説論」によつて「私小説」にあれこれの性質が押しつけられて来た傾きが大きいといわなければならない。(中略)実際「私」という観念は形式的観念であって(中略)何が内容なのか知れたものではない。(註一)

 以下は、「私小説」として読んでいる作品をあらためて「ただ小説として読む」ように努めながら、そのなかに描かれている「私」のあり方を考えてみようという試みである。

 

「八幡坂のあたり」という作品をとりあげる。一九七五年、尾崎七六歳のときの作品で、尾崎はこの八年後になくなった。作品はこうはじまる。

 国電高田馬場駅で降りると、目の前に丁度いいバスがありながらそれには乗らず、早稲田方面へ向つて歩き出した。夕方の六時から大隈会館に「空穂会」の集りがあつて上京したのだが、時間の余裕があるので早稲田まで歩くことにした。このコースを歩くのは何年ぶり、いや何十年ぶりのことだらう。たまに来ることはあっても、バスで素通りしてゐた。

 左側をゆつくり歩く。駅から五分と行かぬ辺り、車道をへだてた向う側に、東大久保の方向へ直角に切れ込む道がある。ちよつと立留つてその道を眺める。これを百米ほど行つて左折した所に、昭和十三年から十四年にかけての約一年間、志賀直哉邸があつた。その頃上野桜木町にゐた私は、電車でときどきここへ来た。その時分は国電と言はず、省線電車と言つた。ずつと前は院腺電車と言はれてゐたが。(註二)

 この作品はこのようにして高田馬場から早稲田大学への道なりに、作中の「私」がたどってきた人生を回顧していく。昭和七、八年、与太者相手に賭麻雀をした麻雀屋のあと。学生時代からつきあいのあった古本屋大観堂。大正九年早稲田に入学したときの下宿。大学を出て二年目、八幡坂の途中にあった喫茶店の女主人と結婚。その結婚生活の破綻。その背景には、プロレタリア文学の隆盛とそれ以外の作家の不遇があった。昭和四年、奈良の志賀直哉のもとに走り、破綻した生活を清算。昭和六年にのちの妻と八幡坂に近い馬場下町に新居をかまえる。これらは尾崎一雄の読者であればすでになじみの話だ。さらに、読者はこの作品に直接書き込まれていないことがらまで思い出すだろう。「空穂会」という固有名詞はすでに、早稲田大学時代の教員であった窪田空穂を連想させる。空穂は尾崎一雄が志賀直哉、山口剛とならんで師に数えているひとりである。このうち、志賀直哉は、そのひとなしには作家尾崎一雄は生まれなかった存在だった。しかも、志賀直哉はその影響力から後続の者の作家生命を奪いかねない存在でもあった。尾崎は奈良で志賀に親炙するうちに、ついに志賀と自分の資質の徹底的な差異を自覚する。尾崎一雄の読者であれば、「痩せた雄鳥」のつぎの一節を思い出さずにはいない。

 尊敬する人の近くに小家を借りて、八ヶ月ほど居た。緒方はここ数年間、その人の書くやうなものを一つでも書きたいと願い、努力はしたのだが、努力に正比例して肩を凝らし、四五年といふもの、何一つ書けぬ状態をつづけてゐた。八ヶ月そこにゐて、彼は、極めて平凡な真理に気づいた。鵜の真似する烏水に溺る、といふのだつた。あひると白鳥は別物だといふこと、あひるならあひるで、どこまでもあひるらしく、といふこと、そんな思いが、深い諦めの中から、徐々に、そして爽やかに、ふくれあがつてくるのだつた。(註三)

 そののち、尾崎は市井のなかに身を潜めて自分自身を突き放すような、だからこそ、そこにユーモアが生まれる作品を書きはじめる。その第二の出発点となった作品「暢気眼鏡」のモデルはのちの妻だった。作品の題名でもある八幡坂のあたりが作家の出発点であり、挫折の場であり、転機と再出発の場であることはこの作家に親しい読者には周知のことだ。

 作品を私小説として読むというのはそういうことである。すなわち、第一に、読者は作中の主人公が作者と同一視する。第二に、読者は同じ作家(作者)の作品についても同様に作中の主人公と作者を同一視することで、今読んでいる作品の主人公を作家(作者)の他の作品から得た知識を援用して解釈する。しかし、この作業の第二段階は、じつは、作者と作家を同定するという、通常は意識されていないが、本来、意識されるべき重大な前提を看過することで成り立っている。作者と作家は違う。作者とは、ひとつひとつの作品の書き手であるのに、作家とは一連の作品を書き続けている実在の人物である。作者そのものは実在の人物とはいえない。その作品の世界をそのようなものとして描き出し、限界づけている視点として、作者は作品から要請されて存在する。風景画とそれを描く者にたとえてみよう。風景画に描かれた景色をみるとき、描かれた景色からその景色をみているだれかの存在を(通常は)絵に描かれていない空間の特定の位置に要請する。けれども、私たちが風景画をみるそのつどそのつどに、その特定の位置に実在の描き手がいなくてはならないわけではない。私たちはその描き手と今は別の空間にいるか、ときにはすでに死んでしまっている実在の人物、画家と結びつける。描かれた景色から要請されるある地点に、画家がいつかあるときに立っていたと類推するからである。もちろん、こうした抽象を待つまでもなく、作者と作家の区別は、たとえば、ある作品が新たな発見によってそれまでとは別の作家の手によることが発見される場合に明らかになる。さらには、作者をある特定の実在する個人と同定しようという発想自体、歴史的かつ文化的に制約されたものである。ただし、ここで確認したいのは、作者と作家の区別を銘記し、そのうえで、作品を私小説として読むためには、主人公と作者を同定し、作者と作家を同定し、かつ同じ作家の他の作品を援用するという作業が必要だということである。

 私小説にたいする批判のひとつはそこをつく。作家がつねに他の作品への参照を読者に強いるなら、作品の独立は保てず、限られた読者の興味しかひかぬ、新たな読者を獲得しがたい作品が生まれやすいからである。この通説を否定するつもりはない。しかし、こういう通説が通説として成り立つためには、私小説の作品のなかには、すべてがそうではなくとも少なくとも、読者が同じ作家の他の作品を参照したくなるような魅力をもっているものがなくてはならないはずである。そして、そのためには、それぞれの作品が新たな読者を獲得しうるほどにそれだけで独立した魅力をもっていることが前提となる。

 もう一度、作品の冒頭にもどってみよう。日本語の特質のひとつは主語を明示しなくてもよいということにある。この作品は動作の主体が誰だかなかなか出てこない。ようやく第七番目の文で「私」が登場する。そのために、読者はあたかも風景をみる目そのもののようになって作品のなかに招き入れられていく。もちろん、私小説すべてが同じ方法をとるわけにはいかない。だが、主語を省略し、短い文を積み重ねていく文体は、作家にまだ親しんでいない新たな読者を作品のなかに引き込むことに貢献している。そのようにさりげなく醸成されていった安定感――しかも尾崎一雄のなじみの読者なら作品の冒頭から感じている安定感は、しかし、この作品では、「私」のその日の目的であった空穂会のようすをしるしおえると、一挙につきくずされる。

 スピーチを指名された私は、短歌とは関係のないことを簡単に述べて坐つた。あと次々と立つ人々は、それぞれの雑誌名を肩書として名を呼ばれ、割合長く話した。私は七時半に退席する予定だつたので、頃をはかつて隣席の旧い友人に耳打ちし、目立たぬやうに席を外した。

 会館を出て大講堂を仰ぐ。振り返つて大学内の校舎群を眺める。私は、多分もう二度とこの辺りには来ないだらう、と思つてゐるのだ。そのことは、高田馬場駅に着いた頃から心にあつた。だから早稲田目差して歩き、大観堂に寄つて未亡人と話し込み、八幡坂の途中で立ち寄つたりしたのである。(註四)

「私」のもう来ない理由は、表面的には、東京の喧噪と汚染である。だが、紛うかたなくその背後には死が近づいている意識があろう。読者が慣れ親しんできた世界はそろそろ新たな作品を付け加えることなく、完結して閉じる時期が近づいている。作中の「私」には最初からその自覚はあった。だからこそ、作者はもう何遍も繰り返してきた話を作品のなかに刻み込むようにして記してきたわけである。それにたいして、読者が尾崎一雄の作品に親しんでいるあまりにうかつにもここまで読み流してきたなら、もう一度はじめから読み直すことを余儀なくされるだろう。そのとき、旧知の話がひとつひとつあらためて新鮮に感じられるはずである。「私」を八幡坂のあたりをもう歩くことがない――そう記すことで、作者は読者にも作品のなかに描かれた風景を今はじめて、そしてこれが最後にみるかのようにみさせている。尾崎の読者は、八幡坂をもはや旧知の地名というより生涯の転機や老いの象徴として捉えなおすだろう。また、空穂会からさりげなく退席する「私」の姿は転変多き人生を静かにしめくくりつつある「私」の姿に重ね合わせるだろう。

 これは巧みな構成である。私小説の読解にしたがいながら、その読解への馴致から読者を覚醒させることで、作品に新鮮な印象を与えているからである。しかし、それだけではなく、ここには、私小説の根本的な問題を考える契機もあるように思う。その問題とは、作中の「私」(代名詞ではなく、たとえば大津順吉という名でもよい)はどういう存在なのか、その存在が作者とはどのような関係にあるのかということである。つぎに、一九六九年、作者六六歳のときの「花ぐもり」という作品を引こう。「私(――という六十半ば過ぎの、不元気な老人)」(註五)がぼんやり庭を眺めつつ、六十余年の人生の折々に邂逅した、はっとさせられた光景を回顧する。ただし、そこに出てくるひとはだれひとりも「私」と深い関わりをもたぬ行きずりの人である。

――幼い私を背負つた人足女、当り前といふ手つきでシャツの上から汗をふく俥屋、黙つて殴り殴られつつ歩く男女、人知れず泣いてゐた切符売の娘、考へたことが直ぐ言葉になつて出る男、――さういふ、ちらと目をかすめただけに過ぎぬ人たちの生活を、そのときの私なりに、いかにふくらまし、でつち上げたことだつたらう。想像と云つても妄想と云つても同じだが、私の中にゐる彼らの氏素姓や動きは自由で、無完結だから面白く、それが、彼や彼女の、いつまでも私から立去らぬ理由なのだらうか。(註六)

 興味深いことに、「いかにふくらまし、でつち上げた」想像の中身はくわしくは書かれていない。一例をあげると、切符売の娘については「いろいろと考へ廻した」と記されるだけだ。庭をみている「私」はまた、蟇や蜘蛛から自分の受動的な性格を連想する。

今ごろ云つてもはじまらぬが、六十何年の自分の生き方の、いかに受動的であり退嬰的であつたかを痛感する。もつとやりやうは有つた筈なのに。(中略)私には、もつといろんな可能性があつた筈だ。それを自ら捨てに捨てた。(註七)

 それでは、この作品は「私」の性格が主題かというとそうでもない。そう読むと、今度は、先の行きずりの人物も庭の描写も虫の話も関わりを失ってしまう。このとりとめなき連想を、一部は、「私」は「古いことも新しいこともだんだん等距離に見えるようになつた」老いに委ねている。たしかに老いは主題である。この作品はこう閉じる。

 郵便配達が来て、仮睡に似た妄想から私を引離した。

 ついでに表へ出てみた。桃が満開。牡丹はもう少し。雪柳は散り勾配。門口を出て近くの神社へ行つてみると、染井吉野が五分咲きといふところだ。花ぐもりで、向うの山がはつきりしない。(註八)

 あたかも「私」の記憶も感想も景色も「私」自身も模糊たる花ぐもりのなかに渾然と包まれるようだ。老耄の祝福というべきものがあれば、花ぐもりはまさにそれを象徴する。

 けれども、この作品をたんに老いという主題に収斂してはならない。一見とりとめなき展開――徒然草にいう「心にうつるよしなしごと」を書きつづるがごとき展開は、尾崎一雄の他の作品(たとえば「まぼろしの記」)にしばしばみられるものだからだ。むしろ、そこに尾崎一雄の、そして私小説のひとつの型の描く「私」のあり方が窺われる。「花ぐもり」の末尾が「八幡坂のあたり」の冒頭における主語の省略と同じ効果をあげていることに留意しよう。描かれた景色だけを与えられることで、読者にそれをみている存在である「私」と視線を重ね合わせるようにしむけているのである。

 私小説の、少なくともひとつの型は、「私」の他と異なる際だった性格を抹消することによって成り立つ。だから、あれこれの思い出にまつわる想像は排除されねばならないのだ。削ぎ落としのあげく、「私」は情景をみる目に収斂される。しかし、その視線はもともとその作品をそう描き出した作者のものだから、その意味で、主人公である「私」は作者と同定しうる。けれども、作家と同定する必要はない。作家が、実在する個人であるかぎり、さまざまに複雑な性格づけが可能であるにちがいないのにたいして、「私」は視線そのものに身をやつしているからだ。それは、まさに「いろんな可能性を捨てた」から得られるものにほかなるまい。視線への収斂は必ずしも「花ぐもり」の和らぎに通じない。死の前年の「日の沈む場所」の視線は凄絶ともいえる。「生きても生きても判らぬ人の世に、苛立のようなものを覚え」(註九)ている「私」は、あたかもそれがただひとつ判然たりうる生きていることの確認であるかのように日の沈む場所を見届けようとする。

 実は、四季を通して、太陽が西の連山のどのあたりに沈むかを確認してやらうと思いついたのだ。ほかにすることもあらうに、どうしてそんな可笑しなことを、と自分でも思ひはするが、やつてみるつもりだ。短気、無制御、一徹な思い込み、などといふのが老耄のしるしださうで、どうやらそれは本当らしいが、とにかくやつてみるつもりだ。(註十)

 これまで視線と呼び表してきたことを、私小説論の歴史では、「心境」と呼んできた。

 心境を私小説と決定的に結びつけたのは久米正雄の「私小説と心境小説」(一九二五年)だった。久米によれば、心境小説とは「作者が対象を描写する際に、其の対象を如実に浮ばせるよりも、いや、如実に浮ばせてもいいが、それと共に、平易に云へば其の時の『心持』、六ヶ敷く云へばそれを眺むる人生観的感想を、主として表はさうとした小説である」。久米が心境小説を第一級の芸術と考える論拠は、芸術が別な人生の創造であるとは信じられず、せいぜい人生の再現でしかないという消極的理由と、芸術の基礎が「私」にあるという積極的理由からなる。平凡な人生も記録するに足る。ただし、「『私』をコンデンスし、――融和し、濾過し、集中し、攪拌し、そして渾然と再生せしめて、しかも誤りなき心境」を描いたものこそに芸術的な価値がある。「心境とは、是を最も俗に解り易く云へば、一個の『腰据わり』である。それは人生観上から来ても、乃至は昨今のプロレタリア文学の主張の如き、社会観から来てもいい。が、要するに立脚地の確実さである。其処からなら、何処をどう見ようと、常に間違ひなく自分であり得る」。(註十一)

 久米の主張は、作品を実人生の再現とみたり、プロレタリア文学を私小説の立脚地とみたり(当然、約十年後の小林秀雄の「私小説論」における両者の対比が思い出される)しており、いろいろ議論になる箇所があるが、作品の完成度を作者の立脚地の確実さにみるという基準は私小説の本質を捉えていよう。まさにこの基準から志賀直哉は尾崎一雄の作品についての評を日記にとどめている(註十二)。しかし、ここでとくに検討したいのは、「作者が対象を描写する際に、其の対象を如実に浮ばせるよりも」対象を「眺むる人生観的感想を、主として表はさうとした小説」としているくだりである。あたかも、久米は対象の描写と作者の人生論的感想とを別のことのように論じている。そういう書き方をするとどういうことが起こるだろうか。作者は作中の「私」に作者自身の人生論的感想を語らせる。作中の「私」は、さまざまな登場人物のなかで、読者にとって直接に心理が把握できる唯一の存在である。したがって、他の登場人物や状況は「私」の心理をとおして把握されるはずである。一方、人生論的感想が描写と別であれば、「私」は「私」の人生論的感想を介さずに、しかも特定の人生論的感想の持ち主として描写されなくてはならない。この落差は「私」の造形の失敗につながりかねない。というのは、私小説は読者が作者と「私」とを重ね合わせるところに成り立つが、そのためには逆に、作中の「私」が作者の傀儡ないし代弁者だという意識を読者に起こさせては失敗するからだ。

 そこを克服するやり方はさまざまである。たとえば、志賀直哉は動かしがたい写実によって「私」を含めた作中の人物を造形することで読者に作者以外の見方を許さない。その志賀直哉が晩年になって、若い頃の作品は「裏側が書けていない」、つまり複数の視点からの見方ができていないと記しているのは興味深い(註十三)。それでは、志賀が晩年に同じ題材を小説にしたとすれば、何が変わるのだろう。もちろん、作中の「私」が母を亡くした子ども時代にもっていた心理は変わらないはずである。しかし、描き方が違う。だからこそ、多くの私小説作家は同じ題材を何度も繰り返し描くのだ。心理と心境は異なる。心理とは作中の人物のいずれももっているものであるのにたいして、心境とは作中の人物をいかに「眺むる」か、造形するかという作者の視点なのである。

 

 しかし、まさにこの造形が私小説にとって困難な課題をひきおこす。「私」以外の人物は、その心理が作中の「私」に透視されることで、不透明な内面を奪われ、つねに一面的な存在になりかねないからだ。「私」以外の作中の人物もまた固有の心理をもった、つまり他者であるということが私小説にとって躓きの石なのである。

 尾崎一雄の作品にも、この点での作家の苦心がみられる。尾崎の再出発となった作品「暢気眼鏡」をみてみよう。苦労知らずの若い妻は、暢気眼鏡をかけているようだという「私」の評によって造形されていく。だが、この作品の最後には「追記」がある。そこでは一転して、「私」は「暢気眼鏡をかけているのは自分のほうかもしれぬ」と述懐する。これによって、追記のまえの「私」の視点は相対化され、妻はそれまでの一面性を脱却するわけである。ところが、「追記」もまた「私」が書いていることに変わりない。追記以前と追記の違いは心境の違いである。宮内豊はこの作品を心境小説の萌芽とみながら、追記の「不体裁」を否定的に評価した(註十四)。けれども、不体裁であれ、一見無難な処理にみえるやり方よりも「妻」は一面性を脱している。「暢気眼鏡」よりも形式的に整っている「痩せた雄鶏」をくらべてみよう。「私」、緒方は四年越しに病床についている。ラジオから美しいヴァイオリンの曲が流れはじめると、妻がいきなりラジオをとめる。なぜ、妻はラジオを切ったのか。「私」は「何か面白い謎謎でもかけられた思い」で妻の気持ちを探るが、その気持ちは妻のほうから語られる。それは、どんな人間でも(とりわけ夫が病気の家庭なら)思い当たる「こんなはずではなかった」という思いだが、妻の心理を妻のことばからときほぐすことで、作中の「私」からみた一面性を薄めているわけである(註十五)。けれども、皮肉にみれば、「妻」の心理が好都合にも「私」の推測通りだった感は否めない。 

 当然のことながら、作者の心境ないし視線は「私」以外の人物ではなく「私」を描くときに、障害に出会わず破綻なく展開しやすい。しかし、その一方で、「私」については逆に、客観的な実在性をもたずに、たんなる話し手におとしめられてしまうおそれがある。

 作中の「私」の客観性を確保するのに尾崎一雄がしばしば用いる方法は、私小説からすればきわめて逆説的といってよい。というのも、作中の「私」の心理に読者には不透明な部分をあえて意識させることで、作中の「私」の人物の独立性を保っているからだ。その一例をやはり「痩せた雄鶏」にみよう。

 実は、緒方が、以前よりもどこかものやわらかな男になったことには、もう一つ大きな原因がある。それは、彼が、自分の中に、誰にものぞかせない小さな部屋のようなものをつくっている、という自覚にある。(中略)

 とは云っても、それは別にこみ入った話ではない。緒方のような境遇にある者なら、誰でも直ぐに了解するだろうことがらである。つまり、自分というものは何で生れて来たのか、何故生き、そうして何故死ぬのか、と云うこと、また、それを考えることによってあとからあとからと湧き出す種々雑多な疑問に何かの答を得ようとあせること、大体それに尽きるのである。(註十六)

 自分というものは何で生れて来たのか、何故生き、そうして何故死ぬのか」。「私」の問いはだれにも答えられず、また、誰もが共有しうる。その心理は他の登場人物の心理を解明するための通路ではないから、「私」は作者の傀儡だという意識を読者にもたせない。その点では、「私」は他の人物よりも「前景」にいる程度の客観的な人物にすぎない。しかし、どの人間にも共有可能な不可解な部分を抱えていることで陰影に富んだしかたで具象化することに成功しているのである。

 

 ただし、これをもって、「私」と異なる他者の造形に成功したとはいいきれない面もある。というのも、作中の妻を主題とした「暢気眼鏡」と異なり、胃潰瘍による大出血をへたあとの作品はもはや作中の「私」をとおした人物描写ではなく、生そのものが主題だともいえるからだ。伊藤整の分類(一九五五年)を待つまでもなく、生およびその否定である死を主題とする作品は私小説のひとつの典型である(註十七)。尾崎一雄もまた、妹の死を題材とする作品から出発したのだった。私小説の動機を告白衝動に見出す文学史の通説のもとでは、病気や死がもたらす危機意識が内面の表白を促すと説明できよう。しかし、そのことからただちに、告白すべき内面が他のひとにない固有な個性であるという結論は引き出せない。強烈な個性なしにも、心境小説は成り立ちうる。むしろそのひとが生きて経験してきたさまざまなことがらを、前述のように、「心にうつるよしなきごと」をつづるがごとく、描いていくやり方でも生を描くことができる。かえって、虚構の世界に意図的な統一をもたらすことが生を描き損ねる場合さえある。三島由紀夫は尾崎一雄をなまけ者と評した。生きることを時間の流れるままに体験するには、意図的に設定された目標や計画は妨げになるからである(註十八)。ただし、久米が述べているように、たしかに、どの人生も記すに値するとしても、それがなんらかの特記的な意味をもつには、凝縮と純化を経なくてはならない。心境が対象を如実に映し出すためには、「徒然草」にいう「鏡には色・形なき故に、万のかげ来りてうつる。鏡に色・形あらましかば、うつらざらまし」(二三五段)鏡のような役割を果たさなくてはいけない。

 心境をそのようにけがれなきしかたに清めることは、日本の伝統的な自己超越の方法であった。神道にいう清めと清めによって得られる清明心がその端的な例である。佐伯彰一の指摘(註十九)を待つまでもなく、尾崎一雄の生家が代々神官であったからは尾崎一雄と神道との結びつきを指摘するのはたやすい。ただし、ここで示唆したいのは、私小説が批判されながらも存続したのは、私小説の「私」なるものが、文学史上の通説であるフランス自然主義にたいする誤解や近代個人主義の輸入という面とは違う面をもっており、しかも、日本の伝統的な発想形式にもともと合う一面がなくてはなるまいということだ(註二十)。その脈絡からすれば、私小説のひとつの典型として生や死が主題となることも、個人の実存の危機という面だけでなく、四季の循環を範型とした生死の循環のなかで読み込むこともできるだろう。しばしば指摘される尾崎一雄のアニミズムはそうした文脈のなかで捉えられよう(註二十一)。少なくともいえることは、私小説作家は心境の錬磨を強調したことである。けれども、それは、白樺派における自己完成を除けば、明確な目標をもった人格の発展というより、日々の暮らしの汚れから心境を浄化する反復の作業だった。

 しかし、あまりその点を強調しすぎると、尾崎一雄を捉え損ねるおそれがある。そのような自己超越は悪くすると独善的な神秘主義にも通じるが、尾崎一雄の作品はそこからほど遠いからだ。「八幡坂のあたり」は作家尾崎一雄の転機の場でもあったと記したが、その転機を作家は「還俗」とも名づけている。文学無頼を気取った生活から二度目の結婚で家庭を守る普通人として生きる生活へ、文学至上主義から日常へ。だから、生や自己を問う問いもまた声高には語られない。なぜなら、日常、顔をつきあわせる誰彼も「私」と同様に同じ問題を抱えているからである。その一例を「墓地からの眺め」にみてみよう。不治の病気に四年前からかかっている「私」が亡き母の兄弟を迎えて母の一周忌を行う。「私」と叔父二人の世間話は宗教に及ぶが、作者は深入りしない。「叔父たちだって、しんにはそれぞれ何か持っているのだ。それを出さずに何気なく話している」(註二十二)というふうに登場人物がそれぞれ抱えている人生の謎をそのままに各々の登場人物に送り返すことで陰影深く描いている。したがって、生という主題は、たしかに、人間関係を前面にとりあげることを妨げはしているが、他者が「私」をとおしてみられたしかたで一面化するのでもなく、「私」が特権化しているのでもない。この作品はつぎのようにしめくくられる。

――俺はこのごろ、何か墓場へもぐる準備ばかりしているやうだが、実は、さうではないのだ、と思ふ。すべては「生」のためだ。人間のやることに、「死」のためといふことはない。人間は「死」なんか知つたためしがない、「死」を体験する主体、我はすでにないからだ。人間は「生」のためには、自殺さへする――。

 緒方は、目の前の美しい海や山のたたずまいを、初めて見るもののように、しげしげと眺め入るのだつた。(註二十三)

 死の近さの自覚しなおされた生が、景色を新たによみがえらせる。ただし、その蘇生が日常のなかで行われていることを銘記しなくてはならない。

「――俺としては、毎日生れ変る、という手を考えているんだが、どうもうまくいかないようだ」

「毎日生れ変る――」

「そうだよ、来世と云わず、この世で、死ぬまで毎日、時時刻刻生れ変るという寸法なんだが、そいつがどうも――」(註二十四)

 生や自己といったこれ以上ないほどに普遍的な問題をごくさりげない日常のなかで、日常の人間関係を忘れないしかたで問うていること――そこに、尾崎一雄の描いた「私」の特徴があり、特有のなつかしさとゆかしさをその作品に帯びさせているのである。

 

(註一) 寺田透「私小説および私小説論」『岩波講座文学』一九五四年、九九頁、一〇三頁。末尾のかっこ内の文は寺田自身による寺田透「心境小説・私小説」河出書房『日本文学講座』第六巻からの引用。

(註二) 全集第八巻、二七〇頁。尾崎一雄からの引用は、尾崎一雄全集、筑摩書房、一九八二年の頁を記す。なお、原稿の電子化のために、漢字は略 体漢字になおした。

(註三) 全集第三巻、一一一頁。なお、題名の「やせた雄鶏」の「鶏」のつくりは隹が正しいが、原稿の電子化のために異字体を用いる。

(註四) 全集第八巻、二七五−二七六頁。

(註五) 全集第七巻、三八九頁。

(註六) 全集第七巻、三九八−三九九頁。

(註七) 全集第七巻、三九八頁。

(註八) 全集第七巻、三九九頁。

(註九) 全集第八巻、五一六頁。

(註十) 全集第八巻、五一八頁。

註十一) 久米正雄「私小説と心境小説」、『日本現代文学全集 菊池寛・久米正雄集』講談社、一九六七年、四〇八頁−四一〇頁。

(註十二) 志賀直哉『志賀直哉交友録』阿川弘之編、講談社文芸文庫、一九九八年、二一九頁。

(註十三) 「白い線」、志賀直哉全集第四巻、岩波書店、一九七一年、六〇九頁。

(註十四) 宮内豊「解説」、尾崎一雄『美しい墓地からの眺め』講談社文芸文庫、一九九八年、二六五頁。なお、いったん終えた作品に時間差をおいたあとの感想を記すやり方は実質上の処女作「二月の蜜蜂」でも採用され ている。作者自身が不体裁を意識しているにしても、志賀直哉が「小僧の神様」でとったやり方といずれ対比してみたい。

(註十五) 全集第三巻、一四二頁。

(註十六) 全集第三巻、一二〇−一二二頁。

(註十七) 伊藤整『近代日本人の発想の諸形式』、岩波文庫、一九八一年、四二頁。

(註十八) 三島由紀夫「解説」、『日本の文学第五十二巻 尾崎一雄・外村繁・上林暁』、中央公論社、一九六九年。

(註十九) 佐伯彰一『神道のこころ』、中公文庫、一九九二年、二五三頁−二五四頁。

(註二十) 中村雄二郎は私小説と日本自然主義に言及しながら「日本自然主義に出てくる主人公というのは、現世の主人公じゃないような気がする。あの世の、冥界の主人公とでもいおうか」とのべ、山折哲雄は「無私になる状況を描くのが私小説だ」というパラドクスを指摘している。鈴木貞美編『大正生命主義と現代』河出書房新社、一九九五年、五〇頁、五三頁。

(註二十一) 山本健吉、中野孝次、佐伯彰一などが指摘している。たしかに、尾崎一雄にはひとの生命と他の生物の生命の相互依存とそこからくる平等を記している箇所がある(例「毛虫について」)が、しかし、一方、「虫のいろいろ」のなかで人間の宇宙内での席次に言及していることも注意しなくてはなるまい。人間の宇宙内での席次という観念がどこから来たのか(たとえば、明治時代に流行した進化論か)、興味深い。

(註二十二) 全集第三巻、二九−三一頁。

(註二十三) 全集第三巻、三五頁。

 

追記 広島文学の会は、広島大学の大学院生・学部学生の研究発表の場で広島大学教育学部の水島裕雅教授が運営の労をとっておられる。私は専門違いだが、ただ文学愛好者という資格でしばしば参加させていただいた。上記の文章は、私が広島大学から関西大学に移るさいに、発表の機会を与えていただいたものである。席上、質問をいただいた水島教授、院生のみなさんにこの場を借りて謝意をのべる。しろうとの未熟な論旨で同会の名誉をけがしては申し訳なくホームページへの掲載をひかえていたが、同会発行の『文学空間』もネット上で読めるようになっているので、ここに掲載した。

 

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