非専門性をいかに教養教育にとりいれるか  −広島大学のパッケージ別科目の試み

 

(第17回大学教員研修プログラム:よりよい大学教育の方法を求めて 学びがいのあるカリキュラム 教えがいのあるカリキュラム、1999年1月23-24日、於:大学セミナー・ハウス、運営:大学教員研修プログラム委員会)
 

☆話の流れ

  1. どのような意図から「パッケージ別科目」を新設したか?
  2. パッケージ別科目をつくりあげるのに、どのような工夫をしてきたか?
  3. 反省点と個人的な見解

 

 広島大学の教養的教育の一環として平成9年度から実施しておりますパッケージ別科目について、その立案にかかわり、また、授業を担当しているひとりとして個人的な体験談と見解をおはなしします。

 まず、パッケージ別科目とはどのようなものか、イメージをつかんでいただくために、資料1のパッケージ別科目の一覧表をごらんください。 

資料1:パッケージ別科目授業科目一覧表(1998年度開講科目)

パッケージ名

人間・価値の視角

社会・世界の視角

自然の視角

知の根源

  • 哲学・根源への思索
  • 東洋の思想
  • 道徳の意味を問う
  • 一神教の神・人間・世界
  • 芸術・生の深さ
  • ことばを問う
  • 愛・祈り・文学
  • 中東・イスラームの世界
  • 教育と人間
  • 西洋の思想と歴史
  • 開発と思想
  • 政治と思想
  • 法の根源
  • 科学と社会
    • 認知と学習
    • 脳と行動
    • 文化としての数学
    • コンピュータ言語
    • 物質の構造
    • 宇宙を学ぶ

    人間の自画像

    • 人間存在の探究
    • 芸術と人間
    • 言葉と人間
    • 日本文学の世界
    • 中国文学の世界
    • ヨーロッパ文学の世界
  • 英米の文学と社会
  • 文化人類学の世界
  • 政治と人間
  • 現代社会と人権
  • 社会的なものと人間
  • 心と適応
  • 人間と健康
  • 生命の科学
  • 人体のしくみ
  • 脳のはたらき
  • 人体の科学
  • 制度と生活世界

    • 古典文学における制度と生活
    • 規範のゆらぎ
    • レトリックの機能
    • 日本の近代
    • ヨーロッパ近代世界への招待
    • アメリカ史の世界
  • 教育と制度
  • 文化と行動様式
  • 経済と制度
  • 政治と制度
  • 生活と法
  • 家族・地域・産業
    • 心と社会
    • 生活と数学
    • くらしと化学
    • 生活と物理
    • 産業と技術
    • 生物と人間生活

    国際化と異文化交流

    • 日本語の世界
    • 世界の中の日本語・日本文化
    • 翻訳の文学
    • 文化と風土
    • 日本の歴史と文化
    • アジアの社会史
    • 外交と現代史
  • アジアの近現代
  • 近代の経済社会史
  • 国際社会と経済
  • 国際社会と政治
  • 日本社会への視点
  • 人とコミュニケーション
  • 比較スポーツ科学史
  • 文化と自然
  • 森林と人間
  • 岩石と資源と人間
  • 自然環境と地図
  • 現代のコミュニケーション
  • 科学技術と環境

    • 生命と環境の倫理
    • 環境と文学
    • 東洋のものの見方・考え方
    • 遺伝子の世界
    • 自然災害と防災
    • 物質循環と地球環境
    • 経済統計データの実際
  • 人間の歴史と生活環境
  • 地域システムの分析
  • 現代技術と社会
  • 環境と法
  • 自然観の変遷
  • 進化の謎
  • データとその統計的処理法
  • 環境と化学
  • 微生物の世界
  • 地球の姿と歴史
  • 時間と宇宙
  • 地球の自然環境
  •  表を横に目を走らせますと、たとえば、「哲学・根源への思索」「中東・イスラームの世界」「認知と学習」というように、これまでなら一般教養科目の人文・社会・自然科学に属すような内容の授業科目が並んでおります。それらの科目は、今あげた例ですと「知の根源」というパッケージのなかにくくられています。パッケージは、いちばん左の欄を縦にごらんになるとご確認できますが、「知の根源」をはじめ、5つあります。

     さて、学生の履修条件をみてみましょう。学生はどれか1つのパッケージを必修します。どのパッケージを履修するかは学生の希望をつのります。入学直後に、学生は自分の履修したいパッケージの選択希望届を出します。授業開始前に、その学生の履修パッケージが決定されます。決定されたパッケージのなかから、「人間・価値の視角」から4単位(2授業科目)、「社会・世界の視角」から4単位(2授業科目)、「自然の視角」から4単位(2授業科目)=合計12単位(6授業科目)を卒業に必要な必修単位として修得します。上の表で「知の根源」を例にとると、「哲学・根源への思索」から縦に目を走らせて「愛・祈り・文学」までの7科目から2つ、「中東・イスラームの世界」から「科学と社会」までの7科目から2つ、「認知と学習」から「宇宙を学ぶ」までの6科目から2つ履修するわけです。

     以下、はじめに、このシステムを設置した意図の背景を説明し、ついで、このシステムを運営するためのくふうをご紹介し、最後に、この科目にたいする学生と教員の評価を参照しながら、個人的な見解をのべるという順序ですすめていきたいと存じます。

     

    (1)どのような意図から「パッケージ別科目」を新設したか?

     平成3年の大綱化をうけて、多くの大学で教養的教育はさまがわりしました。広島大学もそうです(1)。きょうはほかの大学にも共有できそうな話題にするつもりですが、説明のために広島大学の事情を最小限もうしあげます。

     学部数は11、学生数は平成9年度では1学年約3000です。平成9年度では180人前後の夜間主コースの学生をのぞく学生全員にパッケージ別科目を必修として課しました。教養的教育を担当する教養部はすでに25年前に廃止され、総合科学部に改組されています。平成9年の改革によって全学部が教養教育を担当するようになりましたが、総合科学部は教養教育の主たる担当部局です。総合科学部の教員数は助手をのぞくと200人程度です。なお、新しいカリキュラムの発足が平成9年になったのは、キャンパスを統合移転するという事情があったからです。

     一般的な話にもどりましょう。かつての人文・社会・自然科学のそれぞれから規定単位ずつ必修というきまりは大綱化によってなくなりました。ところが、学生が自由に授業科目をえらぶと、専攻する分野に近い科目に選択がかたよる傾向が強くみられました。これでは、改革といっても、たんなる教養の圧縮と専門の拡大におわってしまいます。

     教養改革はそれ以上のことをめざすのか。広島大学は教養に三つの目標をあげました(2)。前専門性と非専門性と学際性・総合性です。そして、教養の授業科目ごとにこの目標をとらえなおしました。

     以上は大学の方針で、さしあたり教員にむけられています。けれども、ここは最後にもう一度もうしあげるかと思いますが、改革の方針は学生にもつたえなくてはいけません。

     私はパッケージ別科目設置のワーキンググループの一員でした。ワーキンググループでは、学生に教養的教育の目標を理解してもらうように、学生むけのガイドブックをつくりました。そして、そのなかに教養教育の鳥瞰図をのせました(3)。パッケージ別科目は非専門性をめざす科目として位置づけられます。

     さきほど、パッケージ別科目に属す科目を、これまでなら人文・社会・自然科学に属すような内容ともうしましたが、従来の人文そのほかの科目は一部、個別科目という名称でのこっています(4)。個別科目には、理系の学生にとっての数学など前専門性をめざす基礎科目があります。

     話をパッケージにしぼりましょう。専門以外に視野をひろげるのに、なぜ、こういうシステムをとったか。たんに、たとえば、理系の学生も人文・社会科学から8単位を必修にすればすむのではないか。そう思われるかもしれません。そのやり方は、以前の一般教養のやり方を部分的に復活させたものです。

     しかし、ただたんに専門以外のことも学べというのでは、学生の動機づけに欠けないでしょうか。また、授業提供側としても、有機的なつながりをもつ内容を伝達できないでしょうか。この二つを考えて授業科目を共通のテーマのもとにまとめたわけです。

     各パッケージに属す科目をさらに「人間・価値の視角」「社会・世界の視角」「自然の視角」に分けて、それぞれから4単位を必修単位と定めたのも、学生が少しでも幅のある科目選択をするようにという配慮からでありました。その方針決定のプロセスは註(5)(6)をご覧ください。

     ひとことでいえば、かつての一般教養が「断片的な知識の寄せ集め」に終わりがちだったのにたいして、《授業内容に有機的なつながりのある、しかも、時代の要請にこたえた、したがって、学生がたんなる個人的な志向をこえた動機づけをもって学べるようなシステム》をつくろうとしたわけです。

     

    (2)パッケージ別科目をつくりあげるのに、どのような工夫をしてきたか?

     以上、パッケージ別科目を設置した意図をお話ししました。

     しかし、資料1をご覧になれば、いろいろ問題点を指摘されることと思います。たとえば、「知の根源」などパッケージの名前が抽象的にすぎないか。註(7)に各パッケージの理念を記しましたが、やはり抽象的な印象をもたれるかと思います。たしかに、これ以外の命名や理念がありえないとはいえません。ただし、人文・社会・自然科学にわたる複数の科目をまとめるという方針にのっとるかぎりは、ある程度は抽象的にならざるをえないかと思います。

     パッケージの理念たるべき理念はほかにないか。パッケージが「新たな知の枠組み」を模索している以上、そこには時代や社会の要請があります。たとえば、国際化や環境といった昨今の大学内部でしばしば語られてきた観念がそこにふくまれているのも、一部はそのためです。また、パッケージに所属する授業科目は適切か。これも議論の余地があります。個々の授業内容は担当者、つまり広島大学の、とくに総合科学部のスタッフに影響されます。いかに巨大な大学でもその制約をまぬかれれません。

     しかし、そうした大学ごとに異なる事情よりも、ここではできるかぎり共有できる話題に注意をむけたいと思います。

     あらためてパッケージ別科目の意図を整理すれば、その学問を専攻しない学生にその学問にふれる機会をあたえること、しかもパッケージの理念を共有する科目として展開することです。実際におこなわれている授業のシラバスを一、二ご紹介したいと思います。

     一つは、平成9・10年度に、私が担当しました「生命と環境の倫理」(8)という科目で、パッケージ「科学技術と環境」に属しています。伝統的な学問分類ですと倫理学に属す内容ですが、この授業では医療や環境危機にかかわる問題だけをとりあげます。この授業を担当して強く感じたのは、この授業はつみあげ型のカリキュラムに属すものではないのだということです。たしかに、倫理学を専攻する学生には基礎からつみあげる授業が必要です。それは前専門性の教養か専門科目の目的です。しかし、この授業をとる学生のなかには、もしかすると、倫理学ときくだけでそっぽをむくひともいるかもしれません。でも、このアプローチなら興味をもつかもしれません。たしかに、このやり方では概論風の講義で話せることの多くがぬけおちます。でも、シラバスのなかに哲学者カントが言及されているように、こういうアプローチでもどうしてもつたえねばならない基礎知識はつたえられます。この授業は、教員が自分とおなじ学問をこころざしていないひとにむけた授業なのです。

     数学の先生がおやりになっている授業をみてみましょう(9)。数学という科目は倫理学よりはるかに、つみあげ型カリキュラムを要請します。担当者は「これが数学の授業といえるかどうかわからない」と当惑しておられます。数学史のトピックをひろった内容というべきかもしれません。でも、数学を大学に入学するための手段としてしか考えていなかった学生の見方がかわるかもしれません。学生が興味をもちそうなトピックからその学問の一端を語るというやり方は心理学の先生の授業にもみられます(10)。学科の性質によって、トピックをとりあげやすいものとそうでないものはあるでしょう。しかし、どのような学科も、専門にするにはつみあげが必要です。けれども、パッケージ別科目は非専門性を目標としているのです。

     組織的な努力もはらいました。実施の前年度、平成8年度に授業担当予定者は5、6回の懇談会をもちました。全体の懇談会では、ワーキンググループから理念の説明、履修方法などの説明がなされました。また、全体の打ち合わせののち、パッケージごとに懇談会をひらいて、そのなかで、各自が心づもりしている授業内容を紹介したり、それぞれの授業にかぶせる共通のキーワードをえらんだりしました。

     また、全学の教養的教育担当予定者によるFDでは、資料1にしるしました教養的教育科目のそれぞれの目的の相互理解、少人数にわかれて「教養」とはなにかをめぐる意見交換をはかりました。

     平成9年度から10年度にかけては、パッケージ別に授業担当者の懇談会をひらき、授業内容をたがいに紹介しあったり、授業や試験にくふうした点や学生の反応などについて情報を交換したり、共通教科書をつくる可能性を意見交換いたしました。ちなみに、この共通の教科書をつくってみようかという動きは、「科学技術と環境」というパッケージのなかで結実しました。今年(=平成11年)2月には、授業担当者の大多数が執筆した副読本、『21世紀の教養I 科学技術と環境』市川浩・小島基・佐藤高晴・品川哲彦編、培風館)が発刊されます。

     昨今、大学のなかで会議はふえており、会議はつらいものですが、8割以上の教員が懇談会の必要を認めています。

     しかし、実施後の教員の反省をみると、「非専門性が難しい。社会の具体的事件、おもしろそうな事件を取り上げるつもりだが、学生との世代差を感じる。もっと新聞記事なども使うべきかとも考えている」「非専門性を意識していたが、話している内にやはり、『専門』的になってしまい「難しい」と受け取られてしまうことが数回あった(これは反省すべき項目)」「多くの質問、そして講義内容以外のことについてもさまざまな質問が出、それへの回答を次週までにQ&Aとして作るのに時間とエネルギーをかなり費やした」「パッケージの理念については、自分なりに理解し、それに沿って授業を進めたつもりですが、自分の授業が他のパッケージ別科目とどのようにリンクしていくのかが、つかめませんでした。自分以外のパッケージ別科目を聴講する以外に手だてがないように感じました」(12)といった回答がみられ、この新しい授業形態のむずかしさが端的に語られております。

     

    (3)反省点と個人的な見解

     さて、このようにしてパッケージ別科目という新たなこころみをはじめたのですが、満足できる成果があがったか。ここまでおききになって期待感をおもちの方にはもうしわけないのですが、率直にいって、満足な成果があがったとはいえません。率直にもうしまして、きょうの共通テーマ「学びがいのあるカリキュラム、教えがいのあるカリキュラム」には提題者として強烈なイロニーを感じざるをえません。

     以下、平成9年度の前期が終了した段階で学生と教員におこなった調査の一部をご紹介します。

     まず、教養教育の目標(つまり前専門性、非専門性、学際性・総合性ですが)については、教員の6割が理解できたとこたえ、学生は4割が(理解できたかはともかく)知っています。

     さて、パッケージ別科目についてみてみましょう。非専門への視野のひろがりを、教員の8割が配慮しました。しかし、実際に授業してみて非専門へのひろがりを達成できたとこたえた教員は5割にへります。

     一方、非専門へのひろがりをえたとこたえた学生は3割しかおりません。同一パッケージのなかでの授業の関連づけは難題でした。6割の教員が特別な配慮をしなかったとこた答えていますが、実際はまだまだほかの教員の授業についての理解がたらないので配慮できなかったのでしょう。関連を感じた学生は1割程度です。

     多様な知識をむすびつける態度については、教員の5割ほどが達成できたとこたえたのに対して、学生は4割弱しか達成できたとこたえていません。

     パッケージ別科目に学生が満足しているかという問いには、教員は5割が肯定していますが、教員の予想ははずれています。学生は2割が満足、評価を将来にのばした学生が3割、不満が5割です(13)

     それでは、なぜ、このこころみは満足な成果をあげられなかったのか。もともと、学生の自由な選択にまかせれば履修しなかった専門以外の科目だからでしょうか。それはあると思います。けれども、別の調査によれば、非専門への視野のひろがりを理念としては期待している学生は6割います(14)。ですから、学生は専門以外の科目にはそっぽをむくのだという結論は学生にたいしてフェアとはいえません。

     私の考えでは、不満には制度面からくるものと理念面からくるものがあると思います。

     制度面とは時間割や単位換算の問題です。資料12にある1年生の時間割(省略)が出ています。

     パッケージ別科目は、先にもうしましたように、夜間主コースの学生を除いた1学年約3000人弱の学生全員の必修科目であり、パッケージの選択は学生個人の希望を入れます。その制約のもとで時間割をつくるとどうなるでしょうか。この科目は、どの学部もそのほかの必修科目を入れないような時間帯にくまなくてはなりません。学部は11あります。そこで、わずかな時間帯にパッケージ別科目を入れこまねばなりません。その時間帯のなかで、複数の授業を提供するからには、実質的な科目選択の幅は狭まります。

     また、1つのパッケージを履修するので、ほかのパッケージに属す科目を、学生が履修しても単位になりません。

     こうした点に、学生の不満の一部はあります。

     では、これらの点を是正する手だてはあるでしょうか。たとえば、より多くの時間帯にこの科目を提供するのは理想です。けれども、それをするには、担当者・教室数の制約があります。

     つぎに、選択の幅があるようで実質的にはないことが問題だとすれば、いっそのこと、科目数を減らしてはどうでしょうか。そのほうが一種の精鋭主義となって、目的を達成しやすくなるかもしれません。しかし、それでは、学生の選択の幅が狭まります。自分で選んでその授業をとったのだという思いは、授業をとる動機づけに不可欠ではないでしょうか。

     同様に、学部ごとに受講できるパッケージや視角を限定すれば、もっと効率的にすすめることはできるかもしれません。でも、それもまた、学生の選択の幅がせばまります(15)

     が、制度面の難点は、学生数、教員数などに左右されるので、多くの大学に共有できる理念面に話をうつしましょう。

     理念面はなんといっても、授業を提供する教員の努力にかかっています。

     しかし、ここでどうしてもいきあたらざるをえないことは、大学教員は科学者だということです。科学が専門分化を進めている以上、科学者はもともと専門以外のひとにつうじる話をするのがむずかしいかと思います。マックス・ヴェーバーは、その学問が大切か、するに値するかという問いは、その学問のなかでは問わないと指摘しました(『職業としての学問』)。私たちが専門の研究に埋没しているときには、その学問を相対化することはまずしません。ところが、専門以外のひとにつうじる話をするには、まさにこの相対化する視点が必要です。自分が専攻している学問はどういうものか、説明する能力が必要なのです。それは学会の内部や研究者仲間のあいだではまずはもとめられません。だから、専門家である私たちがわすれがちな資質です。

     けれども、考えてみると、その学問を専攻する学生もはじめはその学問を専門にしていないし、私たち自身もかつてはそうだったわけです。だとすると、大学の授業のなかには、どうしても専門以外のひとに専門分野を語る機会はあるわけです。また、私たちは大学や学会の内部だけに生きているわけではありません。だから、専門家以外につうじる話をするのがむずかしくても、何々学者と称してそこにおさまりかえっているのもどうかと思われます(16)

     この姿勢はパッケージに話をしぼれば、ほかの教員がどのような授業をしているかという興味をもつということです。さきにのべましたように、ほかの授業を聴講する必要があるといわれた教員がおられます。

     もう一つ大切なのは、学生に授業科目の目標を説明する努力です。

     私の授業のなかでも、学生から、なぜパッケージをするのかと質問されたことがあります。

     私は大綱化以前の話、つまり、人文・社会・自然科学から(私の学んだ大学では)各12単位ずつ履修する義務があったことを話しました。ついで、大綱化によって各大学に裁量範囲が増えたことをもうしました。どのようなカリキュラムを組むかは各大学にまかせられた。だから、その大学が自分の学生をどのようにみているかがカリキュラムに反映するとのべました。自分の大学の学生は、ともかく専門の勉強をするだけでいいのか、それとも専門以外にも視野をひろげるゆとりがある学生だと思っているのか、むしろ専門以外に視野をいろげる必要のある学生と思っているのか。当然また、そこには、一般社会がその大学の卒業生をどのように位置づけているかという、学生には話しにくい問題もかかわります。

     でも、かなり率直に話しますと、学生は、むしろ、いやがらず、あらためて授業の目的をふりかえってくれました。私の経験では、まだまだ、大学には学生に授業の目標を説明する努力がたりないと思います(17)

     最後に、パッケージ別科目の成果があがった例をご紹介します(18)。理系の学生が宗教学、法学、倫理学に関係するパッケージ内の科目を履修したのですが、はじめは当惑していた。しかし、最後には、この学生は宗教や法や倫理にたいする偏見がなくなったといってくれています。これは数少ない例かもしれません。けれども、そういう学生もいるということをご報告して、私の提題をおわりたいと思います。

     

    (1) 教養的教育改革の全体については、『広大フォーラム』331号(8-13頁、1996年10月25日)に朝倉尚(当時、教養的教育検討特別委員会カリキュラム編成専門委員会専門委員長)「平成九年度からの教養的教育について」をごらんください。

     なお、広島大学では、教養教育ではなく、教養的教育という名称をつかっています。すなわち、大学教育は教養と専門が一体化すべきであり、ただ力点の差から両者を区別するにすぎないという含意を「的」にふくめています。

    (2)『広島大学における教養的教育の改革』平成9年3月、27頁。

     「教養」ないし「教養的」という言表の内実は、ある一定の時代状況の中で要請され、形成される人間のあり方を意味するいわば状況可変的なものであり、一義的に定義することは、極めて困難であり、逆に、一義的、抽象的な定義がある場合には、誤解さえ生じさせるものである。したがって、我々は、具体的に、今日の我が国における大衆化された高等教育機関としての本学における「教養的」教育の内実を、各学部の専門的教育との関連を考慮して、専門に対しての前専門性と非専門性、および学際性・総合性という用語を用いて提示した。すなわち、(1)前専門性とは、専門分化前に見られる共通的、基礎的な知識・技能の性格をもったものであり、(2)非専門性とは、具体的には、理工系の学生に対する人文社会系の教育を(その逆の場合も)想定した、いわば専門と異なる様々な学問に触れることにより、幅広い視野を培うものであり、(3)学際性・総合性とは、事象を多面的・全体的に把握する幅広いものの見方を求めるもので、これら三者により、生涯学習化、情報化、国際化の著しい今日的諸課題に新たな知の展開をもって柔軟に対応し得る能力と態度を養うことを目的とするものである。

    (3) 図はそのままのかたち(『パッケージ別科目ガイドブック』平成9年4月、3頁)ではのせられないので、内容だけしるします。

    教養的教育科目の分類 目標:(1)前専門性、(2)非専門性、(3)学際性・総合性

    共通

    科目

    • 教養ゼミ 大学で学ぶにふさわしい態度を身につけ、自分で考える力、課替えを表す力を伸ばす とくに目標(1)
    • 外国語科目(英語) 国際人としての能力と研究資料や文献の読解力を身につける とくに目標(1)
    • 外国語科目(英語以外) 異文化を理解する態度と必要な研究資料や文献を学ぶ力を見につける とくに目標(1)
    • 情報科目 コンピュータを使った情報処理と情報交換の技術を身につける とくに目標(1)

    一般

    科目

    • 総合科目 ある特定のテーマにしぼって、そのテーマについて幅広い角度から考える とくに目標(2)(3)
    • パッケージ別科目 三つの視角に属した多彩な授業科目を履修し、専門以外の分野に接し、幅広い視野を身につける とくに目標(2)(3)
    • 個別科目 関心をもった専門以外の分野の知識を深め、また、専門分野の基礎を学ぶ 目標(1)(2)(3)
    • スポーツ実習科目 健康を増進し、スポーツを通じたコミュニケーション能力を高める とくに目標(2)

    (4) この個別科目は、私見では、教養的教育改革のなかでその授業目的を明確にできなかった科目です。

     個別科目のなかには、各学部や学科が所属学生に履修を指定する「基礎科目」(専門の基礎を学ぶ)があり、これはあきらかに前専門性をめざしています。

     ところが、基礎科目以外の個別科目はそれを履修する学生の専攻におうじて非専門性を期待するか、前専門性を期待するかが、かわってきます。たとえば、哲学や倫理学や芸術学のそれぞれを専攻する学生がそれぞれの科目を履修するさいにもとめるのは前専門性でしょうが、一方、その分野を専攻しない学生にとってはその科目は非専門性へのひろがりをめざすためにまなぶ科目になるわけです。

     もちろん、基礎科目以外の個別科目の授業科目のそれぞれが前専門性をめざすのか、非専門性をめざすのか、目的を明確にすれば別ですが、必ずしもそうなっていない。そういうわけで、その科目は以前の一般教養科目とおなじあいまいさにとどまっています。

     うがっていえば、以前の一般教養につうじるあいまいさが、結果的には、学生にしてみれば自由にえらべるという印象、教える側にはカリキュラム全体の方針にかかわりなく授業内容を自由にくりひろげられるという印象につながっているわけで、だから、この科目の評判は悪くはありません。

     もっとも、単位修得の規程からすると、理科系の学生は学部・学科が指定する基礎科目を履修すれば、ほとんど卒業に必要な単位をみたせるので、学生が自由に基礎科目以外の個別科目をとることは相対的に少ないといえます。ですから、あえて理科系学生を対象とした非専門性を標榜する個別科目をつくる必要は、教育の理念からはともかく、期待できる受講者数からはあまりないかもしれません。一方、文系の学問は理系ほど基礎科目の指定がきびしくないので、個別科目から学生個人が自由にえらんで卒業要件単位にできる単位数が多いのです。

     こうしたちがいは、もちろん、ひとつには、理系と文系の学問の性格の違い、すなわち、つみあげ型の学問か、その性格がよわいかという事情からくるものであり、もうひとつには、理系の授業担当者は基礎科目を担当する負担が大きく、文系むけの非専門性を標榜した個別科目を展開するゆとりにとぼしいという事情があります。パッケージ別科目のなかで、「自然の視角」の授業科目の数が少ないのも、この基礎科目の負担の大きさが反映しています。

    (5) 科目グループ化の発案(一般科目専門委員会の教養的教育検討委員会特別委員会への答申、平成7年7月31日) *ここにいう「グルーピング」が「パッケージ」に改名されました。

     大綱化以前も以後も、教養的教育における専門分野名を冠した授業科目の羅列と、学生のアトランダムな選択が、結果的には、無関連な断片的知識の寄せ集めに帰着しがちであることが大きな問題とされている。この弊害を解消するために、科目間を有機的に関連づけて履修させる方策として、「一般科目」について、主題を冠した授業科目による「グルーピング別科目群」(仮称)を設定し、その科目群から学生に選択させるという方法が考えられる。これは専門に偏らない「一般科目」履修の指針になるとともに、理解の一助になることが期待される。(中略)「グループ別科目群」は、ある主題を立て、それを核として、それに関連する科目を、できるだけ多様な分野(従来の人文・社会・自然をそれぞれ含むように)から選択してグループ化する。(1)学生は1年次の段階で、選択する科目群を申告し、その科目群から一定の単位数を4年間のうちに修得する(中略)。(2)科目群は、学部などによる指定ではなく、学生個人の関心に応じた自由選択が原則である。(以下略)

    (6) 意味のある知的枠組みの提供(『広島大学における教養的教育の改革』平成9年3月、29頁)

     かつて、一般教育においては、外国語と体育実技以外の科目は人文・社会・自然の3分野に分けられ、これらの中から必要単位数を履修することとなっていた。このようなシステムのもとでは、例えば医学部の学生が社会分野の中から政治学の講義を受講して一般的な教養を身につけ、また、自然分野の中から化学の講義を受講して専門に進む基礎固めをすることができた。しかしながら、このような漠然とした授業の提供の仕方では、当該の授業科目をなぜ履修しなければならないかという動機づけに欠けるものがある。このような難点を補うために、今回の教養的教育改革では、学習テーマを明確にして授業科目のグルーピングを行い、学生がテーマに沿った授業科目の選択をすることができるようにした。このテーマ別の授業科目群を「パッケージ別科目」と呼ぶことにする。

    (7) 各パッケージの理念(平成10年修正版)と所属授業科目が共有するキーワード

    知の根源

     知の正体とは何か、科学的知識は幸せをもたらすのか、存在・認識・真理とは何か、人間にとっての価値・善悪とは何か、など、知をめぐる根源的な問題を探究する。

    真理、根本を問う、科学

    人間の自画像

     人間とは何か、人間の行動や自己認識を規定しているのは何か、社会的動物としての人間のあるべき姿は何か、など、人間に関する問いを各方面から追究しながら、各自の感性を錬磨し、一方で抑圧からの解放を図る。

    表現、自己理解、感性

    制度と生活世界

     人間社会を秩序づけている制度は、どのような構造から成り立っているのか、そこにはどのような問題点と克服すべき課題があるのか、など、社会構造を各方面より探究する。

    社会と人間、構造と変化、日常

    国際化と異文化交流

    この地球上には、どのような多様な文化があるのか、文化間の違いからいかなる問題が生じるのか、国際的に共生することは可能なのか、など、文化の相対的な認識と、あるべき普遍的な人間像を追求する。

    異文化交流、アジアの中の日本、風土と文化

    科学技術と環境

     自然はどのような構造をもっているのか、自然の一部としての人間が直面している問題は何か、それはいかなる社会的問題に通じているのか、など、人間と環境の諸関係と、それに派生する緊急課題の的確な理解を追求する。

    自然と人間、科学技術、地球環境

    (8) 平成10年度「生命と環境の倫理」のシラバス。

    (9) パッケージ「知の根源」に属す「文化としての数学」という科目です。平成10年度のシラバスは次のようです。

    (10) 同様に、「知の根源」に属す「認知と学習」です。

    (11) 『パッケージ別科目資料集』広島大学、平成9年、9頁。

     なお、8割の教員がたがいに理解をふかめるための懇談会を肯定的に評価したということは、この発表をした研修会では、教員の積極的な姿勢をしめすものとして、複数の参加者から高く評価されました。私個人は、むしろ、多くの大学で新カリキュラム導入にたいして教員のあいだに消極的な姿勢が(潜在的にではあれ)みられるということに強い印象をうけました。

    (12) 前掲『パッケージ別科目資料集』22-23頁。

    (13) パッケージ実施後の教員・学生対象のアンケートから(『教養的教育実施自己点検・評価報告書』広島大学、平成9年) 平明のため、一の位0は教員向け質問、1は学生向け質問とする。

    (14) 学生の期待度(『教養的教育実施自己点検・評価報告書』広島大学、平成9年、49-50頁)

    (15)  履修パッケージの選択およびパッケージ内の授業科目の選択を学生の自由にまかせなければ、ある特定の時間帯のある授業をある数の学生が受講する予想がたちやすくなりますから、時間割のたて方、教室のわりあて、担当者と担当授業の心構えなどが「効率的」にできるようになります。

     はじめから選択の幅がなければ、学生はかえって「選択が自由でない」という不満をもたないことになるかもしれません。

     しかし、学生の選択の自由を軽視したやり方で学生の受講動機が高まるとは思えません。それをつきすすめていけば、教養的教育とは、少数の時間帯に大量の学生を強制的に「囲い込む」授業になってしまうのではないでしょうか。

     私個人は、学生の履修パッケージ以外のパッケージに属す科目も個別科目の単位として換算することで、学生の拘束感を少しは軽減できるかと思います。

     このやり方がとられなかったのは、パッケージのまとまりがくずれるおそれがあるという精神論と学生の受講者数の動向がますますつかみにくいという教室配当面の懸念からでした。

     しかし、パッケージのまとまりはいずれにしても授業担当者相互の理解が不可欠ですし、後者の問題は当該パッケージの学生の受講を優先し、あとは教室の収容力のなかで受講者数を制限すればよいというやり方があります。

    (16) 当日の提題者のおひとり、原一雄亜細亜大学教授(提題「カリキュラムの改善とFD −わたしの失敗を省みて−」)はFDについて「大学教員にとっての教養教育であり。専門的教員としての職責から、大学教員は他の教員と相互に理解しあわなくてはいけない。それはわれわれの生涯教育の課題であって、自発的・自立的に実践されなくてはいけない」という趣旨のことをのべられました。おそらく、非専門性を目的とする教育をするには、教員がまず専門以外に目をひらく姿勢をもつことが不可欠でしょう。

    (17) 当日の講演のなかで、寺崎昌男桜美林大学教育研究所長はご自身の経験のなかで、大学生にその大学の歴史をその正負いずれの面もふくめて話したところ、はじめて自分が所属する大学への愛着をもつようになった学生がでたと話されました。私がここでいいたいのは、大学への帰属感ではなく、自分が受けている教育の目標の理解ということです。おそらくは、図式的にいえば、各大学が教育の理念をさだめ、その理念がカリキュラムに反映するなら、その大学がめざす目的や、場合によっては建学の精神は、カリキュラムをとおして学生につたえられるはずです。そういう情報発信が大学にはまだまだたりないのではないでしょうか。

    (18)『パッケージ別科目資料集』、広島大学、平成9年、21頁。

     なお、講義の最終回のときの質問用紙にある学生が自発的に書いたコメントと、その意味することを記します。「今年度から始まったパッケージ別科目ですが、初めは戸惑いもあった。理系である僕が神理解や法、道徳について学ぶのだから。だけど授業の回数をこなし、話しが進むと徐々に授業が楽しくなり、興味を持てるようになった。これは今まで持っていた、神理解や法、道徳についての偏見が自分自身の考えで否定されてしまったからであろう」。ここで、「神理解」というのは私の授業のこと、「法」は法学の先生が担当されている「法の根源」、「道徳」は倫理学の先生の「道徳の意味を問う」という具合に、同じパッケージの授業科目を指している言葉なのです。ということはこの学生は、これら3つの授業を聞いて自分で考えるようになり、それまで持っていた偏見や常識的理解を覆される経験をしたということになります。これはまさに「知の根源」というパッケージが目指していたことの主要な事柄のひとつです。さらに、3つの授業で共通にそれを経験したというのですから、パッケージの中の授業科目のつながりも、この学生は見事に自分で発見しているのです。

     

    *当日、多くのご質問・ご助言をいただいた出席者のみなさん、的確なまとめと問題指摘で啓発してくださった委員長の絹川正吉国際基督教大学長、その他の提題者の方々に御礼もうしあげます。

    補足: いただいたご感想、ご質問のなかからご紹介いたします。(なおパッケージ運営の内容の確認ははぶきます)。

    (1)パッケージ施行以前に、また、施行以後に、年に数回、懇談会をひらいており、しかも、参加した教員の8割が懇談会の必要性をみとめていることには、教員があたらしいカリキュラムと相互に授業を理解しようとする姿勢がうかがえてすばらしい。(なお、そこから連想されるこころみとして、慶應大学湘南キャンパスでおこなわている「アゴラ」に言及された感想をいただきました)。

    (2)学生の動機づけをあきらかにするために学生に履修パッケージを選択させる趣旨はよくわかった。しかし、新入生に選択する動機づけ、能力があるかどうか、いささか疑問に思う。

    (もし、このご意見にしたがうなら、パッケージの履修学年をあげるといった提案につうじていくと思われます。広島大学の教養的教育の本来の趣旨からすると、入学直後に学ぶだけではなく、卒業までに教養的教育をまなべばいいのですから、そのような制度改革は理念と矛盾しません。けれども、学年がすすむにつれ、各学部の専門必修授業もふえるので、制度運営上のむずかしさは予想されます)。

    (3)パッケージの成否が「科学者が非専門をかたれること」にあるという結論は、当日の寺崎昌男桜美林大学教授の講演のなかでも指摘された「学部への未練(「講座・専門といううつばり)をどう克服するか」「教養ある専門人の育成から専門性のある教養人への育成へ転換しなくてはならない」ということとあいつうじるところがある。

     

    補足2: パッケージ担当教官のおひとりからこのページについてつぎの質問をいただきました。「品川はパッケージの教育目標に『非専門性』だけでなく『学際性・総合性』もふくめて考えているというのに、この発表では後者について明確な言及がないのはなぜか」。

     じつは、その話をするつもりでしたが、時間の制約でできませんでした。これは微妙な問題をはらんでいます。

     平成8年の全学の教養的教育担当予定者をあつめておこなわれたFDで、私はワーキング・グループの一員としてパッケージの説明をいたしました。そのなかで『非専門性』『学際性・総合性』を目標とすると説明したところ、教養的教育改革にかかわるある委員からパッケージの目標は前者のみではないかと私的に疑義が出されました。

     私は、註(5)(6)に記した「新しい知の枠組み」を作る意図と「できるかぎり三つの分野にまたがるグルーピング」をめざすといういきさつから、パッケージは学際性・総合性も目標のひとつとしてかかげているとおもっています。また、学際性・総合性なしにパッケージなるものをくんだなら、結果的に、あたかも非専門ならばどのような内容でもいいかのようなカリキュラムになるのではないかという危惧ももっています。

     しかし、疑義を提出した委員は大学全体の中枢にかかわるひとでありました。この発表は個人として参加したものですが、他大学の方にカリキュラムの説明をするときには、学内に異議があるかもしれる点について私自身の意見をつよく出すのはどうかとおもってひかえました。

     とはいえ、私個人の意見では、学際性・総合性なき非専門性とは、学ぶ者にそれを学ぶ動機をあたえにくいとおもいますし、そういうことを考えること自体、非専門に目をひらいていないあかしではないかとおもっています。なお、平成10年度の履修手引でも、パッケージ別科目の目標には『非専門性』『学際性・総合性』がともどもあがっています。

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