書評 川本隆史編『ケアの社会倫理学』有斐閣

 

 品川哲彦

『週刊読書人』2609号、2005年10月21日

 

 本書の編者川本はケアの倫理と正義の倫理とを個人の心理レベルではなく、社会倫理学の中で統合することをめざしている。ケアの倫理が提唱する互いにケアする人間のネットワークを基盤とする社会理論である。本書は医療、看護、介護の各領域について実践者による論稿二編と観察者による論稿一編、教育の領域では生命倫理に関わる授業経験者三名による論稿、コラム三編から成る。錚々たる執筆陣による読み応えのある一冊である。


 ケアの倫理は相手の資格や権利を審査する前に応答するように要請する。だから、生そのもの、存在それ自体が肯定された感を覚える文献が多い。本書もその例にもれない。あるべき子どもを求める育児、医療のマニュアル化等、生を抑圧する規範や基準が横行する現状を摘出しつつも、「今そこにその子が生きている」ことを基軸とする子育て(石橋涼子。執筆者名を括弧内に注す)、高齢者のなかのタフな精神の発見(高橋龍太郎)、「このマヒした手足を持って生きていこうという気持ち」を促す介護(三好春樹)等を説く叙述には、生のしたたかな勁さに改めて賭けてみる気にさせられる。正義の倫理とケアの倫理との対立の一つは原則主義と文脈主義にあったが、実践者の論稿を読むと、この争点が社会政策論では中央集権的な統制と現場による裁量との対立として現われていることがわかる。


 ケアの倫理に基づく社会理論にとっての課題の一つは、ケアする人とケアされる人との関係である。ケア関係は、@前者による後者への強制的干渉にも、A後者の依存による前者の搾取にも通じるからだ。ここからケアの倫理への正義の観点の導入を説くケア論者もいる。本書では、@については対話と合意による回避(清水哲郎)が示されている。ケアの倫理にオーソドックスな回答だ。Aについては、心からの共感を期待される看護職の疲労(武井麻子)、家族をケアする主婦層が介護を受ける側に回った際に被る経済的不利益(春日キスヨ)の指摘が鋭い。ケアする人をケアするネットワークの構築が不可欠である。


 だが、ケアする人とケアされる人との関係の一般的な説明は本書の論者によっても微妙に異なる。哲学者の川本、清水は、誰もが共に支え合うべき存在だという含意を籠めて「お互い様」と語る。とくに清水の説明がそうだが、公正、平等といった正義の倫理の規範をケアの倫理に読み替えた感が強い。一方、実践者の論稿では、看護職には患者からの互酬的な感情的応答が期待できない(武井)、世話される側にとって世話されることが我慢できない面もある(最首悟)等、どうしても解消できない非対称性が指摘されている。それでは、どうしてケア関係に入るのか。「必要とされていることを自分が必要としている」という自覚(武井)、世話に伴う臭さや汚さに直に向き合うことでもたらされる「落ち着きや安心」(最首)。こうした叙述を読むと、その答えは、今ここでの出会いを肩肘はらずに肯定する所にあるようにみえる。「ウンコ、シッコの臭いのする人間像」(三好)が肯定されている。日本自然主義的な言い回しだが、実践の場に立脚したケアの倫理だと思う。


 しかし今、私たちはこうした生の実感をどれほど共有しているだろうか。いのちの教育が生徒を生命の序列化に慣れさせてしまう逆効果(大谷いづみ)は評者自身も授業中に感じることだ。「自分の命の大切さを教えるのが、もっともむずかしくなっている」(香山リカ)、「専門的で近代的な人間観や方法論が、子どもと老いの世界で破綻している」(三好)。実は、評者は本書を一読する前に、どれほど制度改革や資源配分に立ち入っているかという点が本書の書評の眼目になるだろうと予想していた。しかし、本書に散見する右のような叙述は、ケアの社会倫理学はそれ以前に、私たちの、他人との、私たち自身との、自分の生との、他人の生との、関係の修復を課題とすべきことを示唆している。


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