書評:ヘルガ・クーゼ『生命の神聖性説批判』、飯田亘之訳者代表、東信堂、2006年

 

品川哲彦

週刊読書人、2651号、2006年8月25日

 

 回復の見込みのない重篤な病状の患者に対して三つの選択肢があるとしよう。@手段を尽くして延命する、A延命措置をやめて死を待つ、B致死薬を投与する。生命の神聖性(SOL)に忠実に従えば@を選ぶべきだが、その支持者はあまりいない。現実のSOL論者の大半はAを許容し、Bを禁じる。彼らは、AとBの間には不作為/作為、死ぬにまかせる/殺す、予見していただけの結果/意図した結果、間接的/直接的の区別があり、通常でない医療手段を要する場合にはAが許されると論じる。その判断の根底には、意図的に生を終わらせてはならず、生命の価値はすべて質の差はなく平等だという主張がある。

 ピーター・シンガーと多くの仕事をしてきたクーゼは本書で、これらの論拠を順次掘り崩していき、最終章に、患者の苦痛を短縮するゆえにBをも許容する「生命の質に基づく倫理」を提示する。クーゼによれば、Aは何もせずに死ぬにまかせているわけではない。それを行えば死を延ばすことのできる措置を知りながら、熟慮の上、自発的に差し控えているにほかならない。ここには生を終わらせようという、Bと変わらぬ意図がある。麻酔薬の服用を増やすといった措置は、延命措置を施した場合より早く死んだとしても、死を予見していたが意図しておらず、間接的に死の原因になったにすぎないとして許容する二重結果説は、複数の事例で相矛盾する指針を示しており、そもそも単一の行為について予見と意図の間に明確な区別は立ちがたい。行為者は行為の及ぼす結果すべてに責任がある。ただし、行為の結果とその行為をしなかったときに予想される結果とを比較考量してその行為を正当化することはできる。ここに援用されるのが通常の医療行為と通常ならざるそれとの区別だが、その区別の根拠は医療上の適応や慣習ではなく、その措置によって期待できる病状の改善とその措置に投じる人材・器材等との費用便益分析にある。したがって、Aを許容するSOL論者は、死んだほうがよい状態の存在を暗黙裡に認めている。だとすれば、生命の質の差を明言するか、延命至上主義を墨守するかでないと一貫しない。後者の選択は現実的でないから、SOL論者は生命の質の倫理に転向すべきだ。これが本書の結論である。本書は、今後、この主題を論じる際に不可欠な基本文献の一つとなろう。

 どうしても看過できぬ問題点を挙げておく。患者本人の自己決定・自律に言及されるのは、この浩瀚な書物の末尾の数頁、トゥーリーの議論を援用してからにすぎない。あたかも、自己決定・自律は延命措置の停止や安楽死を容認するための手続きとして要請されているかのようである。功利主義者クーゼにとっては、快適な意識状態の価値の方が人格よりも重要な論点なのだろう。また、人材・器材の効率的使用が語られているが、本書は医療資源全般の分配的正義には踏み込まない。その結果、医師が臨床現場で個人の判断で、患者の状態と人材・器材の効率的使用を根拠にAやBの行為に出るのを容認しているように読める箇所がある。

 日本では、医療現場の閉鎖性や病院間の技術的水準の差がしばしば指摘される。BだけでなくAにも責任を問う本書の主張は真剣に受け止めるべきだが、日本の現状では、医療全般における患者の意思の尊重、通常とみなされる医療行為の共通理解、専門職集団としての説明責任の遂行、医療資源の分配的正義等の方が優先課題だろう。

 


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 2006年12月26日に京都生命倫理研究会(科研費研究「生命の尊厳をめぐるアメリカ対ヨーロッパの対立状況と対立克服のための方法論的研究」代表盛永審一郎、科研費研究「子どもの医療をめぐる法的・倫理的諸問題についての比較法制研究代表横野恵、と共催)で、上の本の書評をしました(司会:加藤尚武、コメンテイター:水野俊誠、坂井昭宏、品川哲彦)。そのさいのレジュメを載せておきます。