昔ばなし
(令和3年4月9日更新)
山口誠一 (東京理科大学教授)
1994年4月から1998年3月まで東京理科大学理学部一部数学科に在籍し,神楽坂で4年間をすごした.神楽坂の表通りには色々な店が並ぶ一方で,
裏路地に入ればかつての芸者街を感じさせる雰囲気があった.
3年次からゼミが始まり,4年生ゼミも含めて,山口誠一の下で微分幾何学を学んだ.
3年次は小林昭七著「ユークリッド幾何から現代幾何へ」(日本評論社)をゼミ生全員で輪講形式にて読み,4年次はB.Y.Chen著「Geometry of submanifolds」(Dekker)を大学院志望の学生中心に輪講形式で読み進めた.
3年次に山口の微分幾何学の講義を受けたが,参考図書は立花俊一著「リーマン幾何学」(朝倉書店)で,バリバリのテンソル解析による記述だった.後にも先にも,他人様の話を聞いたときに,曲率テンソルを添え字で定義したのは山口だけであった.結局,勉強し始めにテンソル解析を学んだので,未だにテンソルで書く方が馴染みがある気がする.
大学院は他大学に進学したため,学部のみの付き合いとなり,また,当方の勉強不足で学部時代では研究レベルまで能力が達しなかったため,研究上の接点は一切なかった.山口ゼミの大学院生の話だと,若宮校舎(当時,数学科専用の建物で,若宮校舎というのがあった)の書庫で微分幾何学の本を探すと,探す本,探す本,細かく修正がされていて,誰が借りたのかと見てみると山口が借りていた,ということだった.相当な勉強量だったらしく,年に3本の論文を常に書いていたらしい.
山口の話だと,自身も東京理科大学理学部数学科の出身で,大学院時代,1日8時間勉強したそうである.修士1年の夏に論文を1本仕上げ,当時,先輩として在籍したメンバーをことごとく抜かしていったとのことだった.
結局,修士時代に4本の論文を仕上げたらしい.博士号をとるときには論文数が17本だったと云っていた.自身は24歳で結婚したそうだが,結婚したい人ができると研究が進むらしく,弟子たちに「1日8時間勉強しろ」「結婚したい相手を早く見つけろ」と云っていたらしい.順調に助手になって,当時は上に上げない因習があった理科大の中で教授まで上り詰めた.
やり方は強引なところもあり,反感をもつ人も多くいたと思うが,親分肌の江戸っ子気質で,頭を下げられたら嫌とは云えないところがあった.当方が4年生当時は,バブルが崩壊した後の不景気で,おまけに山一證券が潰れた年でもあり,就職活動がままならなかった時代でもあった.
そのような時代でも,就職が決まらないゼミ生に就職の口を利いたこともあった.また,飲み会の会計時も,「釣りは要らねえ」と万札を出したり,「二次会にカラオケにでも行け」と万札を渡して去っていったりしたものである.
在職中に大きい病を患い,長く闘病生活を続けての職務であったが,60歳で亡くなった.「花も要らねえし墓も要らねえ.戒名も要らねえ」と身内には云い残していたらしく,立つ鳥跡を濁さず,のきっぷの良さを感じた.
当方,修士は東京工業大学の宮岡礼子(2016年現在,東北大学教授)に弟子入りしたのであるが,その前に山口から「contact structureを勉強しておけ」と佐々木重夫の3部からなる講義ノートを渡された.師・宮岡礼子が学会でcontact structureに関連した研究成果を講演しているのを見たことがあったらしく,その内容を勉強しておけという厚意だったようだ.アンダーラインや修正がしまくっている本で,山口本人の勉強ぶりが感じられた.3部ともコピーをして今も手元にあるが,結局,それが形見になった.
大槻富之助 (東京工業大学教授,東京理科大学教授)
東京工業大学を定年退職後に東京理科大学理学部に教授として着任した.当方が4年次の1997年に,当時79歳,理科大の定年の関係で最後の年になる大槻富之助の講義を受けた.4年次に母校の高等学校に教育実習にいったのであるが,指導者が東京理科大学理学部数学科卒で,大槻のことを知っており,
「微分幾何学の権威」と云っていた.さて,どのような人かと思ったら,気の良い穏やかなお爺ちゃんという感じの,背が低くて背筋の曲がった老人という印象だった.多様体の定義から始まり,大槻多様体,大槻接続,測地線を複素関数論を用いて決定するなどの内容だったと思う.
大学院に合格し,師・宮岡礼子のゼミに参加するようになったとき,大槻の講義を受けていると云ったところ「大槻先生は何をやっているの?」と聞かれたので「大槻多様体とか大槻接続とか・・・・・」と云うと,「相変わらず好き勝手やっているわねえ」と笑いながら,すべてを知ったような感じの発言が返ってきた.後で判ったことであるが,師・宮岡礼子の師匠にあたる人,即ち,当方にとっては大師匠にあたる人だった.
講義中に聞いた話だが,大学在学時代に教官とバトルになったらしい.当時は期末試験に制限時間がなかったらしく,大師匠がある問題を数時間考えていたところ,担当教官が「大槻君,諦めたまえ」と云うのだが,ひたすら考え続けたそうな.結局,解けずに帰宅後,一晩かけて自身の納得いく答えを見つけて,翌日,担当教官のところにもっていったところ,見もせず云い争いになったとか.最終的に「君は生意気だ!!」と怒鳴りつけられたことに憤慨し,しばらく大学にいかなかったらしい.「大学教授はそんなに偉いのかなあ?」と大師匠は振り返っていた.その後,教官の方から詫びがあったそうな.教官の話だと,「その問題は当時,某雑誌に載った研究結果をそのまま出したので,学生に解けるはずがないと思ったが,大槻君の証明はその証明に大体沿った議論をしていた」とのことである.
交友関係にある数学者の名前が講義中に出てくるのであるが,その固有名詞がS.S.Chernを始めとした大御所ばかりで,それをサラッと云うものだから4年次の当方にとっては驚くことが多かった.1970年あたりにJ.Simonsを始めとした数学者を呼んでの国際研究集会を開いたことも講義中に聞いた.
後に,師・宮岡礼子からも同じ研究集会のことを聞いたが,その研究集会に呼ばれたメンバーの詳細を聞くと,いずれも世界最高レベルの研究者ばかりの名前が並んでおり,改めて驚いたことだった.
最後の講義のとき,数学の内容を講義し終えた後に「自分はこの業界でやってこられるとは思わなかった.読む本,読む本,難しいしねえ.やること,やること,たくさんあるし.でも続けられたのは好きだからだと思う.今,自分はブラックホールに興味をもっている.測地線論を使ってブラックホールを解明したいと思っている.君たちも「あのときあの爺さんがこんなことを云っていたなァ」と思い出して欲しいのだが,すべてのブラックホールは一点を共有していると僕は予想しているんだよね」という感じのことを云った.その姿を見て,自分は80歳のときにここまで夢を語れるだろうか,と驚愕したものである.94歳で亡くなるのだが,90歳のときに論文を書いている.その情熱には感服以外の言葉が見当たらない.
ちなみに本学理工学部に所属している素粒子論の専門家に,大師匠が云った「すべてのブラックホールは一点を共有している」ということに言及したところ,「我々はそれを本線と考えております」という答えが返ってきた.大師匠がそのことを知っていたか知らなかったかは今となっては確認しようがないわけだが,いずれにせよ,改めて感心した次第である.
4年次にB.Y.Chen教授が理科大で講演をした.そのときは大師匠や立花俊一先生を始め,色々な教授陣が若宮校舎にそろった.大師匠の講義の中にもB.Y.Chen教授の名前は頻繁に出てきた.大師匠が台湾大学に滞在していた折に指導した学生だったそうで,B.Y.Chen教授は「そのときに数学の学び方を教わった」と大師匠に強い恩義を感じているらしい.大師匠が理科大に赴任した後のある日,B.Y.Chen教授から「大槻先生から学位(博士号)をもらいたいので理科大に滞在したい」と連絡があったそうな.それに対して大師匠は「理科大は学位を出すときに金をとるし,東京に滞在するのもお金がかかるし,お勧めはできないよ」と答え,その場は断ち切れになった.1年後,再び連絡があり「お金がたまったので,手続きをお願いしたい」と云われたので,彼の希望通りに理科大に滞在させ,学位を出したとのことである.
2001年春の学会が慶應義塾大学であり,幾何学分科会の企画特別講演で酒井隆先生が講演していたときに,大師匠が会場にのっそりのっそりと入ってきた.ちょうどそのときに酒井先生が大師匠の1950年代の結果を紹介していた.その帰り,矢上校舎から日吉駅に向かう長い坂道(定年坂?)を大師匠が
一人とぼとぼ歩いている後姿を見つけた.当方も一人だったので,近寄っていき「大槻先生ですか?」と声をかけた.「大槻と申します.どちら様でしょうか?」と聞かれたので,理科大時代に講義を受けたこと,宮岡礼子の弟子であることを説明した.「宮岡礼子先生の学生さんですか!?」と目を輝かせていた.話しながら歩いていると「今日,俺が何か証明したとか云っていたなあ」と大師匠が云うので「1950年代の結果とのことでした」と答えると「う〜ん,昭和何年だろうなあ?」と云うので「昭和〜〜年です」と答えると「ああ,じゃあ東京に出てきたくらいのときかな」と答えが返ってきた.当方もそうだが,最近のことならいざ知らず,昔のことは19〜〜年よりも昭和〜〜年と云われた方が実感がわく.
大師匠もそうなのかと,昭和時代の人間は想う次第である.その後,「珈琲でもどうですか?」と誘われ,日吉駅に隣接している喫茶店で珈琲をご馳走になった.色々な話をする傍ら時計を気にしているので「何かご予定が?」と聞くと「〜〜時までに帰ればよいんだよね.80歳過ぎてからバイオリンを習い出してね」との答え.基本的に楽器は幼少期からやっていないと身に付かないという個人的な偏見があり,それを80歳過ぎてから始めるというその馬力に驚いたことである.
その後も会う機会があった.ある日,東工大の図書事務にいくと,ゆっくりとした動作で大師匠がかばんを抱えて図書事務から出てきた.「大槻先生ですか?」と云うと「大槻です.どちら様でしょうか?」と云うので,件の如しの自己紹介をした.どうやらコピーしたい論文があって,100頁ほど印刷した,とのことである.相変わらず凄まじい情熱だなァと感心した.
孫弟子にあたるし,会う回数や話をした回数もそれなりにあったものの,とうとう名前と顔を覚えてもらえなかったが,会うたびに感心させられる好奇心旺盛な大師匠だった.
長野正 (上智大学教授)
1999年4月に師・宮岡礼子が上智大学に教授として転出してから,上智大学に出入りする機会が多くなった.2016年現在,広島大学で教授を務める田丸博士氏(当時は上智大学助手)と知り合ったのもこの時期である.
当時,上智大学には長野正先生と金行壯二先生が在職しており,定期的に微分幾何学セミナーを開いていた.セミナーには大仁田義裕先生(東京都立大学,2016年現在は大阪市立大学),Martin Guest先生(東京都立大学,2016年現在は早稲田大学),田中真紀子先生(東京理科大学),田崎博之先生(筑波大学)など,東京近隣に職をもつ微分幾何学のスペシャリストたちが出席していた.講演者は大学院生を始め,著名な数学者など,バラエティーに富んでいた.
長野先生は数学に対して非常に純粋で,丁寧にノートをとりながら一つ一つの講演を,考えながら聞いておられた.
当方も大学院時代に何回か講演させてもらったことがあった.特に,博士課程時代に本格的に研究に取り組んだ,平坦トーラス内の極小曲面の理論については,長野正先生とB.Smyth氏による絶大な研究成果が1970年代から80年代までに確立されていた.それに関係する結果を講演したときに,「僕の論文なんて読んでくれたんだ」と穏やかに笑っておられた.
他所から聞いた話だと,70年代当時,長野先生が「B.Smythが平坦トーラス内の極小曲面に凝ってしまって困ったよ」と云っていたとか.当方が知る長野先生の研究は,対称空間に関する仕事が多い印象があった.それでも極小曲面の論文を何本も書かれているところから引き出しの多さを感じたことである.
修士1年時代に筑波大学で幾何学シンポジウムがあり,メインスピーカーを担当していた長野先生の講演を聞いた.板書で講演をするのだが,説明をするときに黒板の前を左右に歩いて単振動する癖があった.その幅が段々広くなっていって,最後は教室の外に出ていってしまうのではないかと思うくらい左右に動くのだった.人それぞれ,色々な癖があるものだと思ったが,それも今や良い思い出である.
当方が修士2年のときに定年退職となられ,それを祝う研究集会が開催された.当方も会場係として研究集会の場にいた.B.Y.Chen教授も講演者として来日しており,講演後に網膜剥離の手術で入院していた大師匠・大槻富之助の見舞いにいったという話を聞いた.
その後,師・宮岡礼子が九州大学に転出し,田丸博士氏も広島大学に転出した関係で,上智大学から足が遠のいた.それもあったかもしれないが,長野先生とお会いする機会がなくなって久しい.