『阪急電車――千里線物語――』(2010.3.10開始、2010.5.5更新)

阪急電車――千里線物語――

 

【お断り:本小説は、有川浩氏の『阪急電車』(幻冬舎)のアイデアを借りています。有川氏が『阪急電車』というタイトルで、今津線のみを扱われたので、千里線で書いてみたらどうなるだろうと思って書き始めてみたものです。】

 

北千里駅

 

北千里駅のロータリーには、この時間次から次に車がやってきて、通勤、通学をする人々を送り出し、そしてまた去っていく。

 

「ママ、サンキュー!行ってきま〜す」

「じゃあ。頑張ってくるよ」

 

 沙織は元気いっぱいに、克也は少ししんどそうに、それでも精一杯の笑顔を作って、車から降りていった。

 

「おにいちゃん、今日も早いね、就活?」

「ああ」

「やっぱ、たいへん?」

「ああ、たいへんだぞ」

「そうかあ。でも、きっとおにいちゃんなら大丈夫だよ」

「そうかあ。ありがとう。根拠なくても、沙織にそう言ってもらうと、なんかそうなりそうな気がしてくるなあ」

「ひどいなあ。根拠はあるよ、沙織の勘!とにかく、ファイト!」

 

 仲良く兄妹が駅に向かうのを見ながら、信也も車を降りる。

 

「曜子、いつものことだけど、ありがとう。助かるよ」

「どうってことないわよ。これも私の大事な仕事のひとつだから、ね」

「でも、会社の同僚の中には、朝飯も作ってもらえないって言っている奴もいるよ」

「奥さんも働いているんじゃないの?」

「いや、専業主婦だそうだ」

「そう。わたしにはよくわからないわ」

「まあ、ね。それぞれ事情があるのかもしれないね」

「あらっ、急がないと、遅れるわよ」

「おっ、いけない。じゃあ、行ってくるよ」

「行ってらっしゃい。今日もいつも通り?」

「たぶんね。帰る前に電話するよ」

「了解。気をつけてね」

「ああ」

 

いつもの朝がいつものように始まったなと曜子は思った。就活が始まる前は、克也は優雅な大学生活だったので、この時間に車で送ることは滅多になかったが、信也を送るようになってからはもう4年。沙織を一緒に乗せるようになってからは2年近く経つ。信也も沙織も、帰りは遅くならない限り、20分ほどの道のりを歩いて帰ってくる。

 

「ハンカチも持ってる?お財布は?定期券も持ってる?」

「うっせーな!ガキじゃねえよ!干渉するなよ!」

「そんな干渉なんて……。ママはあなたのことを思って……」

「それがうっせーだんよ。早く帰れよ!ババア!」

「……わかったわ。気をつけてね」

 

 おやおや。また木谷さん親子だわ。これもいつもの朝の風景だ。ということは……。おもむろに後部座席のドアが開いて夫の雄作が出てくる。

 

「じゃあ、行ってくるよ」

「勝手に行けばいいでしょ。早く降りて!」

「ああ」

 

 なんで、こうまで息子と夫に対する態度が違うのだろう。いくらなんでもひどすぎる。あそこも奥さんは専業主婦だから、ご主人のお給料で暮らしているはずなのに……。いけない、いけない。他人の家庭には余計な口出しはしない方がいいわね。何か事情があるのかもしれないし……。でも、木谷さんのご主人って、本当に人がよさそうで、奥さんを怒らせるようなことはしそうにない人に見えるけど……。曜子がそんなことをふと考えていると、目が合ってしまった木谷恵子が声をかけてきた。

 

「あらっ、山手さん」

「おはようございます」

「おはようございます、いつもお互い大変よね」

「ええ、まあ」

「なんで女はこんな役回りなのかしらね。損よね。若い時は私のためにアッシー君をやってくれる男が何人もいたのに、今やあたしがアッシーさんなんだから、嫌になっちゃうわ。亭主に甲斐性があって、もっと駅近くの一戸建てを買えたら、こんなことをしなくてもいいのにね。大体……」

「ねえ、そろそろ車、動かさないと、まずいんじゃない?」

「そうね。ごめんなさいね。引き留めちゃって。じゃあまたランチでもしましょ!」

「ええ、また」

 

 車が北千里駅のロータリーから出たところで、ふと曜子も考えた。「女の役割か……」

 

信也がホームに着くと、克也と沙織が待っていた。

 

「チチ、遅いよ。先に行っちゃうところだったよ」

「ごめん、ごめん」

 

 3人は天下茶屋行きの電車に乗り込んだ。千里線は梅田駅に行く電車と大阪市営地下鉄堺筋線にそのまま乗り入れ、天下茶屋駅まで行く電車がある。この83分発は天下茶屋行きだった。座れる席は2つだけだったが、沙織が「うちは次やから、チチとおにいちゃんが座って」と言って、2人を座らせ、自分はその前に立った。発車のベルが鳴る中、同じ車両に木谷亮平がだるそうに乗り込んできた。家族ぐるみのつきあいとまでは言えないが、互いに顔は見知っている。亮平はちらっと信也たちを見たが、挨拶することもなく、信也たちからもっとも離れたところまで移動して、iPodのボリュームをあげた。

 

「克也は、今日はどこに行くんだ?」

「今日は梅田」

「そうかあ。じゃあ淡路で乗り換えだな」

「うん」

「チチ、千里線って、昔は北千里まで来てなかったって、ホント?」

「本当だよ。チチが小学校に上がる年に、北千里まで延びたんだ」

「へえ、そうなんだ。知らなかったな」

「一番後にできたのが山田駅なんだよ。不思議だろ?」

「えっ、なんで?終点のひとつ手前の駅が後でできたの?」

「そうなんだ。山田駅ができたのはチチが中1の時だったんだ」

6年間も山田駅はなかったの?それじゃ、山田駅周辺の人は不便だったんじゃない?」

「だろうね」

「うちの高校の先輩たちはどうやって通っていたのかな?チチは?」

「チチはその頃は、南千里の団地にいたから、家から自転車で通ってたよ。その頃でも南千里から自転車で通う人が多かったから、山田駅がなかった頃もそうしてたんじゃないかなあ」

「ふーん」

「山田駅ができる前に、一時この辺に駅があったんだよ」

「ええっ〜。ここ、何もないよ」

「今はね。その時は万博が開かれていて、その開催期間だけ万国博西口駅っていうのがあったんだ。チチは万博に行きまくったけど、いつもその駅を使ってたよ」

「万博かあ。愛・地球博みたいな奴だよね」

「まあね。でももっともっとすごかったなあ。日本人の半分以上の6000万人を超える人が来たんだよ。未来って感じがしたなあ」

 

 ちょうどあれから40年だと信也はなつかしく思い出していた。小学校3年の終わりに始まり4年生の秋まで、日本万国博覧会はこの千里丘陵で開催されたのだった。日本全国から人がやってきて、当時同居していた下新の祖父母のうちにも親戚や知人が次から次に訪れたものだった。あの頃は、ホテルに泊まるより親戚、知人の家に泊まる人の方が多い時代だった。

信也は30回以上も行ったので、月の石も見たし、ソビエトの宇宙船も見たけれど、小学生だった信也にとって外国人がたくさんいるのが何よりの驚きだった。高かったし、いつもおかんの握り飯を持っていていたので食べることはできなかったが、ハンバーガーやピザという外国の食べ物の存在を知ったのもこの時だった。

あれから40年。今はグローバリゼーションの時代になり、信也の勤める会社も今はその売り上げの半分近くは海外との取引から得ている。国際化は間違いなく進んだけれど、あの万博で感じた夢のような未来は来たんだろうか。あの頃あって今はなくなったものはなんだろう。将来に対する明るい希望かなあ。それにしても、隔世の感があるとはまさにこのことだなあと、信也が感慨にふけっていると、山田駅に到着するという車内放送が流れた。

 

「あっ、かなちゃんだ。また、だいちゃんと一緒だ。仲いいなあ」

「ずいぶん背の高さの違うカップルだね」

「うん」

「ちっちとサリーみたいだな」

「何、それ?チチとサリー?」

「チチじゃなくて、ちっち。昔のマンガだよ」

「ふーん。どんな話なの?今度聞かせてね。じゃあ、行ってきま〜す」

「いってらしゃい」

「おう」

 

山田駅

 

沙織は梅田方面からの電車を降りてきた友人の加奈子とその彼氏の大輔に山田駅の改札口で追いついた。

 

「おっは!」

「おっは!」

「おはよう」

「いっつも一緒だね」

「まあね。かなが寝坊せーへんかったらね」

「ひどいなあ、だいちゃん。23回しただけやん」

「そんなことないやろ。今年に入ってからだけでも、もう5回以上あるよ」

「はい、はい。ごちそうさま。2ヶ月で何回かってことでしょ。十分仲良しだよ」

「へへっ」

 

 沙織と加奈美とは高校1年の時に同じクラスになり、すぐに仲良くなって以来の親友だ。一緒にカラオケに行ったり、旅行もする、互いになんでも話せる友だちとしてつき合ってきた。その加奈美から恋の相談をされたのは半年ほど前だった。

 

「沙織のクラスに背の高い松村君って、おるやん」

「うん」

「あの子、誰かとつきあってたりしてる?」

「さあ〜。あまり喋ったことないから知らんけど、いないんちゃう」

「そう、やっぱりそうだよね」

「なに?もしかして……」

「うん。ちょっと気になるんよね」

「ふ〜ん」

 

 なかなかいいところに目をつけるなと沙織は加奈美をちょっと見直した。今流行りの草食系男子の典型のようでもあるが、少し前にあったクラス対抗のバスケの大会では、機敏な動きを見せ、その時クラスの女子たちから「松村ってやるやん」と見直されていたところだった。勉強はもともとよくできる方だし、バスケ大会以来、密かに「松村は買いだよね」という噂が女子の間で流れていたので、近いうちに誰かコクるのではと、沙織も思っていた。まさか親友の加奈美が来るとは予想していなかったが、ここは応援してやらねばと沙織の義侠心(友情心?)に火がついた。

 

「で、うちはなにしたらええの?」

「えっ?なにって、別にそんな……」

「いいって、いいって。好きなんやろ?」

「……うん、まあそういうわけでも……」

「やっぱり、バスケ大会から?」

「違う!確かに、バスケ大会で松村君、活躍して、急に人気者になったの、知ってるけど、あたしはもっと前から好きやった」

「ほら、やっぱり好きやったんやない?」

「……うん」

「いつからなん?」

「うん……。今年の716日」

「きっちり覚えてるね」

「うん」

「その日に、なにがあったん?恋愛の大家・沙織先生に話してごらん」

「恋愛の大家って、沙織、つきあったことないやん」

「まあ、それはおいとこ。で、なにがあった?」

「うん。あの日、朝のうちはいい天気だったのに、夕方から急にひどい雨になったやん」

「知らんわ。そんな昔の天気、覚えてないわ」

「そうか、そうだよね。あの日、あたし、ハスぶうに手伝って言われてて、帰るの遅れたんよ。もうその時は空が暗くなってきててやばいなあと思ってたんやけど、まあなんとかなるかって、歩き出したら、ポツポツって来て、すぐにザーって。参ったなって走り出したら、『あのさあ……』って後ろから声がかかって、えっ、て振り向いたら松村君がいて、『おれ、傘持ってるから、一緒に入っていかへんか?』って。誰かに見られたらめっちゃハズいと思ったけど、雨がすごかったんで、入れてもらうことにしたんよ」

「なるほどね。で、恋心が芽ばえた、と?」

「うん、まあね。顔は好みちゃうと思ったんやけど、めっちゃ背が高くて普通に傘さしたら、あたしが濡れるのがわかったみたいで、途中から膝を曲げてなるべく低い位置で傘さしてくれたんよ。すごいやろ?」

「確かに、ね。うちの高校から駅まで結構あるからね。あの距離を膝を曲げて歩くのはしんどいわ」

「そやねん。で、大丈夫だから普通にさしてってゆうたんやけど、『おれ、中学ん時、バスケやってた時、こういう練習あって、慣れてるから、大丈夫』って、結局駅までずっとそうしてくれたんよ」

「そりゃ、惚れてまうわ!」

「でしょ」

「うん。で、なんですぐ行動に移さへんかったん?」

「うん……。でもそんな一目惚れみたいなこと、今までなかったし、すぐに夏休みに入ってしもうたやん。で、この間のバスケ大会で、松村君、一気にスターになってしもうたから……」

「なるほど。で、作戦はどうするん?」

「作戦って……。なんもないんよ。だから、沙織に相談してるんやん。どうしたらええと思う?」

「そうやな。うちも加奈美も小細工苦手やし、正面突破で行くしかないかな」

「正面突破って?」

「あたしとつき合ってください!」

「無理!絶対、無理!もしもだめだったら、二度と顔を合わせられなくなるやん!」

「じゃあ、オーソドックスにメールでコクったら?」

「それも自信ない。文章うまくないし、返信戻ってこなかったらって思うと……。それに何よりアドレス知らへん」

「そうなん?てっきり雨の日に聞いたかと思うたわ。じゃあ、お礼、ゆうてへんの?」

「次の日、たまたま学校でおうたから、『昨日はありがと』って伝えた。すぐに松村君の友だちが戻ってきたんで、彼も目でええよって感じで、その後会う機会ないまま夏休みに突入。9月になってからは、学校で会っても、会釈くらいで……」

「ふがいないなあ」

「しゃあないやん。沙織だって、なんもしたことないくせに」

「うちは好きな人がおらへんから、そんな機会がないだけ」

「沙織だって、できへんわ」

「なことないと思う」

「……じゃあ、あたしのために、松村君のアドレス、聞いてきて」

「えっ、なんなん、それ?」

「お願い!自分のことでも軽くできるんなら、友だちのためならもっと気楽やから、簡単やろ?」

「そんな……。なんで、うちが……」

「お願い!だって、『うちはなにしたらええの?』って、最初に言ってくれたやん?」

「そりゃ、そうやけど……」

 

 もともと親友のために一肌脱いでやろうと思っていた沙織だったので、結局、加奈美の「お願い」攻撃に、アドレスを聞く役を引き受けさせられてしまった。こんな面倒なことは早く済ませるに限ると、翌日の昼休みに、お弁当を食べ終わって文庫本を読んでいた松村のところに行き、アドレスを教えてもらうことにした。

 

「あのさあ、松村君」

「うん?なに?」

「なんか突然なんだけど、メルアド、教えてくれへん」

「えっ?ええけど、なんでまた?」

「うん。実はうちの友だちで、松村君のアドレス知りたいゆうてる子がおるねん」

「……そうかあ。山手さんちゃうんか」

「へっ?うん、いや、うちも知っておいてもいいかな、と思うてるけど……」

「知っておいてもいいか……。まあいいか。ええよ。じゃあ、山手さんと赤外線でやっとけばええねんな」

「うん、助かる。ありがと」

「どういたしまして」

 

 互いにケータイを出して、赤外線通信でメルアドを交換し、すぐに加奈美にアドレスを送ってやった。加奈美からすぐに戻ってきたメールには「沙織、大好き」という短いメッセージの後に、ハートマークが5つもついていた。沙織が驚いたのは、その日の晩だった。「松村大輔です」というタイトルの長いメールが舞い込んだのだ。

 

「あまり絵文字とか使わへんので、堅苦しくなるかもわからへんけど、許してください。今日、山手さんからメルアドを聞かれて、実はすごくドキッとしました。というのは、本当は大分前から俺の方から、山手さんのメルアドを聞きたいなと思ってたからです。一瞬、めっちゃ喜びました。でも、友だちが知りたがっていると聞いて、ガクッとしました。その場では、格好つけて、軽くええよと言いましたが、うち帰ってからよく考えてみると、これは山手さんの友だちからなんか連絡があるということで、その場合、俺はどうしたらいいんやろって、ずっと考えてました。で思ったのが、俺が好きなんは山手さんなんやから、ついでみたいな形やけど手に入ったこのアドレスを利用させてもらおうと思いました。率直に言います。俺、山手さんのことが好きです。つき合ってもらえませんか?返信待っています」

 

 沙織はあせった。なんでこうなるの?これ、めっちゃまずい状況やん。松村、いい奴だなと前から思っていたので、加奈美の思いを聞く前なら、違う選択肢もありえたような気がするけど、今はない。100%ない。この松村の思いを受け止めてしもうたら、親友を失う。沙織の頭の中には、どう断ったらいいか、ということしか浮かんでこなかった。1時間くらい悩んでいたが、いい断り方が思い浮かばず、ついに母に相談することにした。

 

「ちょっと、ママ、いい?」

「な〜に?」

 

夕飯の片付けも終わり、老眼鏡ではないと言い張るメガネをかけて、パソコンで趣味のお菓子作りの研究を始めようとしていた母が振り向いた。

 

「あのね。ちょっと困ってて、ママの知恵を貸してほしいんやけど」

「へえ〜。珍しいわね。何でも自分で解決する子じゃなかったっけ?」

「うん……。まあね。ただ、この手の問題は慣れてなくて……」

「なに、なに?恋の話?」

「うっ。なんでわかるの?」

「まあ、だてにあなたの母親を17年もやってないわよ。で、好きな人ができた?」

「そうじゃなくて……。ちょっとややこしいんやだけど……」

 

沙織の話を聞き終わった曜子は、さわやかに笑った。

 

「なるほどね。うちの娘はもてるんだ」

「ママ!そういうことじゃなくて」

「わかってる。わかってる。こう見えても、ママも昔はずいぶんもてたから、断り方については随分研究したものよ」

「うん。頼りになりそう。で、うちの場合はどうしたらいいん?」

「このケースは、Y12のパターンね」

「なに?Y12って?」

「曜子の12番目のケースってこと」

「ほんと?」

「冗談」

「もうママったら!」

「でも、似たようなケースは、ママにもあったわ」

「そうなんだ。で、どうしたの?」

「別に、特別な解決方法はないのよ。事情をちゃんと相手に話すしかないと思ったので、そうしただけ。さおりちゃんももしもその男の子のことが実はすごく好きだったというなら、かなみちゃんに事情を話して理解してもらうしかないし、そうでないなら、彼に事情を話して理解してもらうしかないんじゃない?」

「そうだね。それしかないよね。でも、逃した魚は大きいなんて気持ちにならないかな?」

「別に、さおりちゃんが釣りに出たわけじゃなんだから、それはないんじゃないの?」

「だよね。またチャンスは巡ってくるよね?」

「当然じゃない。曜子さんの娘なんだから」

 

 この母親の言葉に勇気づけられて、沙織は松村に正直に事情を説明した。メールで文章化するのはたいへんそうだったので、ケータイで話した。家族通話以外でこんなに話すのは初めてと言っていいくらいだった。松村はさわやかだった。全部聞いてわかったと言ってくれて、さらに加奈美がいい子だったらつき合うことになるかもしれないけれどいいかとまで聞いてくれた。ちょっと逃がした魚はやっぱり大きいかもと思った晩だった。そして、その2日後、加奈美と大輔はめでたくつき合うことになった。それが半年ほど前の出来事だった。

 

「沙織、どうしたの?ぼうっとして」

「ああ、ごめん。ちょっと妄想してた」

「また?沙織も早く彼氏、つくんなよ。ねえ、だいちゃん!そうだ、だいちゃん、今日の帰り、トイザラス、寄って行こうね!」

「うん……。そうだね」

 

南千里駅

 

 電車は南千里駅に到着しようとしていた。

 

「とうさんは、結婚前はここに住んでいたんでしょ?」

「ああ、中学に入る時に、この辺は学区がいいというんで、下新からこの駅に近い団地に引っ越してきて、その後、バスで10分くらいのマンションに移って就職するまではそこだから、結構長く住んでたなあ」

「じゃあ、なつかしい?」

「まあね。でも、ここはもともとニュータウンの建設にあわせて作られた駅だから、あまり故郷イメージがわきにくいんだよね。」

「ニュータウンって、千里ニュータウン?」

「ああ、そうだ。日本で最初のニュータウンなんだよ」

「ニュータウンって、ぼくらにとっては、昔なつかしい響きもするけど……」

「そうかもしれないね。1960年代、70年代の言葉って、感じかもしれないね。最近もニュータウンは建設されていると思うけれど、彩都みたいに、わざわざニュータウンとはつけないからね」

「ふ〜ん」

「まあでも、やっぱり昔住んでいた所のすぐ近くに行けば、なつかしいけどね。4年くらい前に、吹田市が千里ニュータウン展というのをやったのを覚えてるかい?」

「覚えてないな」

「そうか。そうだろうな。とうさんはちょっとなつかしくて行ってみたんだ。」

「うん」

「吹田市立博物館って、おばあちゃんのマンションの近くにあるだろ?」

「ああ、あのあまり見るもののない博物館ね」

「まあそうかな。でも、その千里ニュータウン展はなかなかおもしろかったよ。千里ニュータウンの歴史が紹介され、ちょっと珍しい展示もあったんだ」

「へえ〜、どんなもの?」

「移動式のお風呂」

「移動式のお風呂?なに、それ?」

「まあ、イメージ、湧かないよな。昔の団地って、お風呂のない部屋もあって、徐々にお風呂があるのが当たり前になってきた時に、お風呂のなかったうちが欲しがったんだろうね。小さな湯船にテントのようなものがついたもので、ベランダとかで使ったんじゃないかな」

「信じらんないね。とうさんも昔は使ってたの?」

「いや、とうさんがこの辺に引っ越してきたのは、昭和48年だから、もう家にお風呂があるのは当たり前になっていたし、その前は普通に銭湯に行ってたから、そんな移動式お風呂には入ったことがないよ」

「だよね」

「その千里ニュータウン展では、実際に団地の1室も公開していたんだけど、そこはなつかしかったなあ。とうさんが住んでいた団地のすぐ近くで、間取りも同じようなものだった。2DKで、今から思うとすごく狭いんだけど、風呂なし、くみ取り式の2Kのアパートから引っ越してきたんで、何でも立派に見えたもんだったよ。入口だって、それまでは引き戸だったのが、真鍮の取っ手のついたドアだし、水洗トイレだよ。すごいなあと思ったもんだよ」

「なんか大昔の人の話みたいだね」

「いやいや、大昔じゃなくて、30数年前の話。それだけ、日本が急速に変わってきたということなんだ」

「そういえば、この駅にプラネタリウムがあったよね?昔、家族で来たよね。まだあるのかな?」

「そうだね。なつかしいね。実は、あのプラネタリウム、できたばっかりの頃、とうさん、デートをしたことあるんだよ」

「へえ〜、そうなんだ。いつのこと?」

「大学の頃」

「へえ〜、相手は?」

 

一瞬、信也の脳裏に、突然「星、見に行こうか?」と言い出した律子の顔が浮かんだ。

 

「えっ、星?」

「うん、星」

「いつ?」

「いま」

「いまって……。昼間やし……」

「うん。でも、大丈夫」

「……あっ、そうか。プラネタリウムやな」

「うん。南千里にできたって言ってたやん」

「そうや。プラネタリウムかあ。ええなあ」

「ええやろ」

「うん、いこ。でも、ふたりだけで?」

「うん」

「ちゅうことは、デートって考えてもええんかな?」

「まあ、そういうことかな」

「ちゅうことは、おれら、つき合うってこと?」

「かな」

「そうかあ」

「なんやねん、不満でもあるの?」

「ない。まったくない」

 

 そんな風に突然に律子とのつき合いは始まったんだった。

 

「どうしたん、とうさん?ぼうっとして。で、相手は誰だったの?」

「ああ、いいよ、もう。こんな話、朝からしらふでする話じゃないよ」

「なんやあ、自分から、話始めたくせに」

「悪い、悪い。いつか一杯飲みながら、ゆっくり聞かせてやるよ」

「うん、楽しみにしてるよ。そういえば、1回生の時の課題で、両親の子ども時代、青春時代の話を聞いてくるっていうのがあったけど、あんとき、とうさんのそういう話を聞き出しておけばよかったな。おかんの方が簡単にできるので、おかんにしたけど、おかん、そのあたりは口が堅かったからな。なんも聞き出せなかった」

「はははは。だろうなあ。女親は喋らないだろ?それより、おかんって、かあさん、嫌がらないのか?」

「そうそう。だから、本人の前では言わないけどね。ただ、友だちなんかと話していると、おかん、おとんが、関西では使いやすいんだよ。大体、うちはなんで関西弁ちゃうの?とうさんなんかバリバリの関西人やん?」

「そうやなあ。おかあさんが東京の人で、関西ベタベタになるのを嫌がっとったからかなあ。とうさんが就職で東京に行き、そこで知り合って結婚して、10年は東京だったからなあ。下手に関西弁を使うと、なんかおもしろいことできるんだろって空気になるやろ?だけど、とうさんはそういうの苦手やから。なるべく関西人ってばれない方が楽だと思って、東京弁ばかり使ってたら、いつのまにか東京弁の方が使いやすくなったってところやな」

「まあわからなくはないね。ぼくも小学校2年まで向こうだったし、こっち来てからしばらくカルチャーショックだったよ。今でも、みんなのボケとツッコミにはついていけへんと思うこと、多いよ」

「だろうな。うちでは、うまいのは沙織と意外に曜子やもんな。沙織は物心着いてからほとんどこっちやから上手なのは当然としても、曜子はなあ。全然、関西弁ちゃうのになあ。ノリは関西やで」

「そうやね。ちゅうか、ああいうのって、本当は地域、関係ないんちゃうかな?頭の回転っていうか、キャラっていうか……」

「そやな。きっとそうなんやろうなあ。ああ、久しぶりに関西弁、使こうたなあ」

「中途半端な、ね」

「はははは」

 

 そういえば、律子も関西弁はうまく使えないって言ってたなあ。あの頃から、少し関西弁を使わなくなっていたのかもしれないと信也はふと思っていた。

 

千里山駅

 

 電車は千里山に着き、奥さんのお腹が少し大きくなりつつある若いカップルが乗り込んできた。ちょうどドアに近いところに座っていた信也に気づき、会釈をする。信也が時々行く千里山駅近くの小料理屋「勝手気儘」の中澤翔と美樹の夫婦である。親父さんの代から30年近く続くお店で、信也も就職が決まった時に、自分の父親に連れられて行き、その後大阪に戻るたびに、時々顔を出すようになり、克也も就職が決まったら、連れて行ってやろうと思っていたお店である。そういえば、律子と最後に会ったのもその店だった。

 

 律子は大学時代、千里山のアパートに住んでいた。律子と出会ったのは、大学に入学してすぐのことだった。英書講読Tという授業で同じクラスになったのがきっかけだった。最初に見た時に、大人っぽいきれいな人だなとは思ったが、とうてい自分とでは釣り合いも取れないだろうと、信也はあまり意識せずにいた。同じクラスなので、たまに話す機会もあったが、まあそれだけのことと思っていた。

それが夏休みももうじきというある日、「星、見に行こうか?」という律子の一言で、ふたりの関係はそれまでの3ヶ月とはまったく変わってしまった。つきあいはじめて半年ほど経った頃、信也は律子に「おれのどこがよかったん?」と聞いてみたことがある。律子は「どこかなあ」と笑ってまともに答えてくれなかった。でも、結局そのまま卒業までつき合いは続き、その間、律子のアパートがあった千里山は、自宅のあった南千里よりもよく降りる駅となっていた。

喧嘩もほとんどしたことがなく、周りからは「めっちゃ、お似合いやん。りっちゃんとしんちゃんは、ゴールイン、確実やろ」と言われ続けたが、卒業後、信也が東京に配属が決まると、ふたりの関係は潮が引くようにいつのまにか自然に終わっていった。携帯もメールもない時代で、たまにかける長電話がふたりをつないでいたが、互いに依存しない性格だったからか、仕事が忙しかったからか、理由ははっきりしないが、いつのまにか互いに連絡をあまり取らなくなり、気がついたら、信也は曜子とつき合いはじめていた。別れをきちんと告げないままの自然消滅だ、と信也は思っていた。

 

それが律子にとってはそうではなかったことを知ったのは、大学を卒業して4年目の暮れのことだった。正月休みで帰阪し、大学時代の友人たちと梅田で飲んだが、なんだか妙に早く終わり、その上、大学時代の話なんか出たものだから、久しぶりに千里山で降りて、「勝手気儘」に顔を出してみようと、のれんをくぐったら、そこに律子がいた。

 

「りっちゃん?」

「しんちゃん?久しぶり」

「ああ、久しぶりやね。あっ、おやじさん、ビールくれる?」

 

ビールをコップに注ぎ、酎ハイを飲んでいた律子と軽く乾杯をした。

 

「何年ぶりかな?4年?」

「そうやな。卒業した年の夏に会って以来やから、3年半くらいかな」

「そうか。3年半かあ、早いね」

「本当やね。早いね。なに、時々ここ来てたの?」

「ううん。卒業してからはじめて」

「ちゅうことは、おれと卒業式前に来て以来?」

「うん」

「そうかあ。で、どうしたん、今日は?」

「特に何もないんだけどね。会社も正月休みに入ったし、ちょっと暇にしてたら、ふとなつかしくなって、大学前と千里山をぶらぶらしてみようかなと思って……」

「そう」

「うん、そしたら、このお店があったんで、なつかしいなと思って、入ってみた。マスター、覚えててくれたよ」

「美人は、忘れないもんですわ」

「ありがとうございます。お世辞でもうれしいです」

「お世辞、ちゃいますよ」

「ありがとうございます」

 

「でも、ほんま偶然やね?元気にしてた?」

「うん、元気だったよ」

「仕事は?相変わらず?」

「うん、まあね。最近景気よくなってきたから、あたしたちも忙しいけどね」

「そうだろうね。金融関係は儲かっているだろうな」

「まあね。あたしたちに恩恵はそんなにないけどね。しんちゃんの方は?」

「うん、まあまあってとこかな」

「そうか。東京はどう?なじんでる?」

「どうやろね。結構、関西人を隠して生きてるから、まあ適応してるんちゃうかな」

「なんで、関西人、隠すん?」

「笑い、とれへんから」

「なるほどね。しんちゃん、そういうの、昔からうまくなかったもんね」

「うん。変わらへんわ、今更」

「そうやね。そういえば、言葉もちょっと東京弁っぽくなった?」

「かな?まあ、りっちゃんのめちゃくちゃ関西弁よりはまし程度かな」

「ひどいなあ。うちは使いやすい関西弁だけ、使用しとるんどす」

「なに、それ?」

「へへ」

 それからたわいない話を1時間ほど続けた。

 

「りっちゃん、今どこに住んでるん?」

「南森町」

「そっか。まだ時間、大丈夫なの?」

「うん」

「でも、本当に偶然やな。俺もここに来たの、1年ぶりくらいなのに、りっちゃんと出会うなんて」

「…………偶然、じゃ、ないんだ」

「えっ?」

「偶然じゃなくて、ちょっと仕組んだ」

「へっ?」

「今日、保谷ちゃんたちと飲んでたでしょ?」

「えっ、なんで知ってるの?」

「だから、計画的なんだ」

「どういうこと?」

「このあいだ、保谷ちゃんと連絡を取ったら、今日、しんちゃんと飲むって言うから、ちょっと協力してもらった」

「よくわからないけど……」

「飲み会、すごく早く終わったでしょ?で、このお店のこととか、大学時代の話とかいっぱい出たでしょ?」

「えっ?なに?それがりっちゃんの仕込みなの?」

「というか、保谷ちゃんのアイデアだけど……。ただ、あたしがしんちゃんに自然な形で会えないかなって言ったから、保谷ちゃんが考えてくれて……」

「でも、おれ、この店に来なかったかもしれないし……」

「うん。その時はその時で仕方がないかなと思ってた。でも、しんちゃんの行動パターンからすると、あんなに早く飲み会が終わったら、どこかで飲み直したいと思う可能性は高いかなっと、思って。だとしたら、ここに来るかなって」

「まいったなあ。でも、どうして」

「うん。会って、なんかはっきりさせたかったってことかな」

「えっ?」

「ほら、あたしたちって、別にちゃんと別れようと言ってないやん?」

「うん、まあ……」

「あたしはしばらくまだしんちゃんとつき合っているつもりでいた」

「……いつ頃まで?」

1年くらいは」

「そうか……。でも、連絡、のうなったやん」

「うん。なんか特別な用もないのに、連絡するのって、結構難しいよね」

「まあ、確かに」

「でも、また自然に会えば、また前みたいになれるんじゃないかって、ちょっと思ってた」

「そうか……」

「でも、1年目の暮れに連絡なくって、会わなくて、あれって思ってたら、なんかそのまま連絡できなくなっちゃって」

「うん……」

「で、最近、しんちゃん、東京で彼女ができて結婚するらしいって聞いたんだ」

「うん……」

「ほんと?」

「……うん、まあ」

「そうか、やっぱり、ほんとうか……。そっか……」

「ごめん」

「ううん、謝ってもらうことじゃないんだけどね。自分の気持ちをちゃんと整理しておきたかったんだ。ありがと。すっきりしたよ」

「そう?そんならいいんやけど。りっちゃんは、彼氏は?」

「うん、つき合ってほしいって言ってくれている人がいる」

「そうか。ええ人かい?」

「うん、ええ人だと思う」

「そうかあ。よかった」

「うん」

 

 頷きながらも、律子の目からこぼれ落ちた涙を、信也は今でも鮮明な記憶として刻んでいた。青春が終わったのかなと思った晩だった。

 

 そんな信也の青春の1ページの一部始終を黙って見ていた「勝手気儘」のおやじさんが、急になくなったのは2年前のことだった。通夜にも告別式にも参列できなかったが、あのお店がなくなるのは寂しいなと思っていたら、京都の大きな日本料亭で修行していた翔が、店を引き継ぐことになった。

信也は、翔のことは子ども時分から知っており、「しょうくん、しょうくん」と言って可愛がっていた。大店で修行してきた腕はさすがにだてではなく、こんな料理をこんな値段で出して大丈夫なのかいと信也が思わず聞いてしまうほどの料理をだしてくれるため、おやじさんの時代よりも人気が出てきている。

もうひとつおやじさんの時代より、お店が流行っているのではないかと思える原因は、翔の妻の美樹の感じのよさゆえであった。どんなお客さんにも嫌な顔をせずに笑顔で応対する美樹は、お客の評判がすこぶるよく、翔の料理以上に、美樹に会いたくて通っているものも多い。その二人に待望のあかちゃんができたと聞き、常連客はみな喜び、「でもしばらくは美樹ちゃんにあえなくなるな」と悲しんだ。しかし、美樹は「わたしはぎりぎりまでお店に出ますし、身二つになったら、またすぐカムバックしますよ。だって、翔ちゃんひとりでは回らないし、人を雇うほど、うちは儲かってないですから」と言って、常連客を喜ばせた。

それにしてもぎゅうぎゅう詰めとまではいかないが、それなりに混んでいる朝の千里線に妊婦さんを立たせておくのはまずい。信也が席を立とうとすると、克也が「ぼくが代わるよ」と言って席を立った。

 

「どうぞ」

「いえ、大丈夫ですから」

「いや、そんな遠慮をなさらずに座って下さい」

「そうですか。ではお言葉に甘えさせていただきます」

「ありがとうございます」

 

「めずらしいですね、電車でお会いするなんて。初めてじゃないかな?」

「そうですね。いつもは車なのですが、ちょっと車が故障してしまって。吹田まで行かなければならないので、タクシーでと思ったのですが、美樹がもったいない。たった3駅なのだから電車にしようと強く言うものですから」

「だって、私、まだ6ヶ月ですよ。臨月や流産の危険のある時期ならともかく、こんな安定期なら少しくらい動いた方がいいんです」

「そうですか。気をつけてくださいね。翔君、代わろうか?奥さんの隣に座ったら?」

「いや、わたしは結構です。山手さんがゆっくり座っていてください。席を代わって下さったのは、もしかして……」

「息子です」

「克也と言います。いつも父がお世話になっています」

「ああ、ご丁寧にどうも。千里山で小さな料理屋をやっている中澤と言います。こちらこそ、いつも山手さんにはお世話になりっぱなしで」

「妻の美樹です」

「はじめまして」

「いやあ、山手さん、立派な息子さんですね。今時、珍しいですよ」

「なに、言ってるんですか。翔君だってお若いのに、立派にやっておられるじゃないですか」

「わたしなんか、まだまだです。それより、ぜひ今度克也さんとご一緒にお店にいらしてくださいよ」

「ぜひ、連れていらしてくださいね」

「ありがとうございます。わたしもそろそろそういう時期だなと思っていたところです」

「とうさん、ぼくもぜひ行ってみたいな」

「いける口ですか?」

「ええ、まあそこそこに」

「ほう、それはたのもしいですね。魚はお好きですか?」

「大好きです」

「それは腕の奮い甲斐がありますね。近いうちに親子でいらっしゃるのを楽しみにしています」

「ありがとうございます」

 

関大前駅

 

 電車は関大前駅に到着する。学生らしき人がわずかに降りる。関西大学の1時限目は午前9時からなので、この早い電車で大学に行く人はほとんどいない。むしろ、乗ってくる若い人の方が多い。みんな克也と同じようにリクルートスーツに身を包んでいる。美樹がふと気づいたようにつぶやく。

 

「そうかあ。今はその時期ですね。もしかして、克也さんも?」

「そうなんです。就活中です。これさえなければ、あと2時間、曜日によっては4時間以上遅いこの電車に乗って、ここで降りて楽しい大学生活を過ごせるのですが……」

「そんなに遅くていいのか?」

「うん」

「克也さんはどちらの学部なんですか?」

「社会学部です」

「ということは、お父様と……」

「そうです。親子二代、関西大学社会学部です。ちなみに、妹も行きたいと行っているので、3人目が出るかもしれません」

「へえー、すごいですね。そんなにおもしろいんですか、社会学部って?」

「いやあー、どうでしょうね。私の頃は社会学部だけ正門の外にあるので、『関西外大』とか言われて、落ちこぼれ扱いされていたものですが……」

「今は、『関西外大』なんて言われることはほとんどないよ。むしろ、社会学部の女の子はかわいいと評判で『社ガール』なんて言い方もあるんですよ」

「『社ガール』ですか。なんかおしゃれですね」

「ええ、もっと言うと、1回生は『社ギャル』、2回生が『社ガール』、3回生が『社レディ』、4回生が『社マダム』というそうです。『社ギャル』と『社レディ』と『社マダム』は、実際に使っている人に会ったことはないので、どの程度普及しているのか、よくわかりませんが。」

「『社ギャル』、『社ガール』、『社レディ』、『社マダム』ですか。最近の若い人は、おもしろいこと、考えますね」

「そうですか。でも、『最近の若い人は』なんて、美樹さんだってまだ全然若いじゃないですか」

「もう私なんておばさんですよ。千里山のばばあ。『千ババ』です。なんか『千と千尋の神隠し』のおばあさんを思い起こさせますね。そこまではひどくないと思うけど……」

「美樹さん、きれいですよ。最近の男子学生って年上の女性がタイプなんですよ。美樹さんみたいな方だったら、めちゃめちゃ人気ありますよ」

「おい、克也、翔さんを前にしてなにを言ってるんだ!」

「あっ、すみません」

「いいですよ。妻が若くて素敵だって言われるのは、夫としても嬉しいですよ。ただ、美樹には手を出さないで下さいね」

「も、もちろんです!」

「なに、馬鹿なことを言ってるのよ。克也さんにとっては、ただのおばさんよ」

「いや、だから、絶対そんなことはなくて」

「克也、もうやめなさい!」

「あっ、すみません」

「はははは。いいですよ」

「ねえ。ところで、さっきの話ですけど、社会学部って、今は人気があるんですか?」

「だと思います。関大はもともと法律学校から出発したので、法学部が一番レベルが高いらしいんですが、その次が文学部か社会学部らしいです。ぼくは関大にどうしても入りたかったので、法も文も社も受けてありがたいことに全部受かったのですが、迷わず社会学部を選びました」

「それは、やはりお父様が卒業した学部だから?」

「それもないわけではなかったですが、高校2年、3年といろいろな大学のオープンキャンパスを回ってみたのですが、関大のオープンキャンパスが一番充実していて、大学生たちが本当に楽しそうに生き生きとしていたので、この大学に入りたいと思いました。特に、社会学部のオープンキャンパスは充実していて、3年生の時に「体験ゼミ」というのに参加して、絶対に関大の社会学部社会学専攻に入って、この先生のゼミに入ろうと思ったんです」

「すごい情熱ですね。それで今、その先生のゼミに入っているの?」

「おかげさまで。すごく人気ゼミで競争率も高いと言われていたんですが、思いをしっかり伝えれば入れるはずと信じて応募して、見事合格しました」

「よかったですね。なんか大学合格より嬉しそう」

「まあそこまではどうかな。でも、その先生のゼミは卒業後もゼミのつながりが続いていて、毎年新ゼミ生が決まると、その歓迎会を兼ねて、卒業生にも声をかけて大パーティが開催されるんです。毎年120名を超える人が集まるんです。一番上の方はもう40歳に近いんですよ」

「すごいわね。珍しいゼミね」

「だと思います」

「先生がよほど人格者なのかしら?」

「人格者、じゃないでしょうね。よく怒ったり、喜んだり、いい歳して、子どもみたいなところのある先生ですよ。まあでもそういうところがいいのかな」

「とうさんの頃とはだいぶ違うな。昔はゼミの先生はいかにも大学教授って感じで、とっつきにくかったもんだけどね」

「今はそういう先生は人気がないよ。難しいことを難しいまま喋るのでは、顧客満足度は高くならないからね」

「なんで、大学で顧客満足度なんて言葉が出てくるんだい?」

「今は、学生が顧客なんですよ。教育サービスを学費という対価を払って買っているって考え方です」

「ふーん。そんなものなんだ。まあ学費を払っている親の立場からすると、そういう考え方はありがたい気もするけれど、教育ってそういう見方だけでいいのかな?とうさん世代にはちょっと違和感があるけどね」

「克也さん、私も山手さんの意見に賛成です。学生が顧客という考え方はなにか違う気がします。私は大学には行っていませんが、高校卒業後、ある日本料理店で徹底して鍛えられました。時には、やりすぎじゃないかと思うほど、つらい修行の時期もありました。しかし、今から思うと、すべてありがたかったなという感謝の気持ちでいっぱいです。無駄に見えたこと、厳しすぎると思えたこと、そのすべてが役に立っています。もちろん、中には不当なほどの指導の仕方をした先輩もいましたが、それも自分はああいう指導の仕方はしないでおこうという参考になっていますので、無駄にはなっていないです。自分は顧客だという傲慢な意識は、自らの成長を妨げることになりはしないでしょうか?」

「そうですね。そういう気もします。うちのゼミの先生も似たようなことをいつも言っていますので、ぼくも正直言うと、そんなに顧客だって思っているわけではないんですけどね」

「克也さんのゼミが楽しそうなのはよくわかったけれど、他の社会学部のゼミもみんなそんな感じなの?」

「関大の社会学部には4つの専攻があって、他専攻のことはよくわかりませんが、社会学専攻はどのゼミも楽しんでいると思います。年に1回、ソシオカップというイベントがあるのですが、それは社会学専攻のゼミ対抗ソフトボール大会なんです。うちのゼミの先生がいつも言ってるんですが、全国の大学を探しても、社会学部でゼミ対抗ソフトボール大会なんてやっているのは関西大学だけだろうって。それも、うまい子だけが出るんじゃなくて、女の子もいっぱい参加して、上手い人は上手い人なりに、下手な人も下手な人なりに楽しめるように、みんなで試合を作っていく感じがいいんですよね。その上、その日の晩には合同ゼミ打ち上げコンパもあって、ものすごく盛り上がるんですよ」

「本当に楽しそうね。うちの大学にはそんなのはなかったなあ」

「美樹さんはどちらの大学のご出身なのですか?」

R女子大なのよ」

「そうなんですか。学部は?」

「文学部。なんとなく女の子は文学部かなという感じで行ったんだけど、よく考えてみれば、本を読むのがあまり好きではなかったので、文学部は不向きだったわ。彼の仕事を見ていて、本当に好きなことを学ぶ場は大学でないこともあるんだって感じたわ。だから、これからの人生で色々なことがまだまだ学べるだろうって楽しみにしているわ」

「いいですね。そういう考え方。ぼくも賛成です」

「就職活動も学ぶ場になるのかもしれないわね」

「ですね」

 

豊津

 

 電車は豊津駅に着き、リクルートスーツを来た女子学生が乗り込んでくる。

「あっ、かっちゃん。おはよう!」

「あっ、おはよう。めぐみ」

「かっちゃんも今日は説明会?どこ?」

「ああ、D社とH社」

「そうかあ。あたしはM社とS社」

「そうなんや。ああ、こっち、うちのおやじ」

「ええっ!お父さん?」

「そうやねん。この人は同じゼミの西端恵さん」

「どうも、はじめまして。克也の父です。いつも克也がお世話になっています」

「あっ、いえ、こちらこそ。いつもかっちゃん、じゃなくて山手君にはお世話になってばかりです」

「かっちゃんでいいやん」

「え、でも、初めて聞く人はびっくりするでしょ?あんまり親しげな呼び方していると、誤解されるかもしれないし……」

「そうかな?俺ら、慣れてしもうてるからなあ」

「まあね」

「ということは、君たちは恋人同士とかいう関係ではないんだね」

「全然です。もうまったく普通のゼミ仲間です」

「そうそう。うちのゼミは先生の方針で、なるべくみんなニックネームで呼び合うようにしてるんや。で、みんな、こんな感じ」

「なるほど。昔なら、そんな呼び方していたら、すごく親しいのかなと思ったりしたものだけど……」

「いいわね。最近の若い人たちの関係って」

「えっ?」

「ああ、こちらのご夫婦は親父が行きつけにしている千里山料理店をやっている中澤さんと奥さんなんや。今さっきゼミのことなんかを話していたところ」

「そうなんですか。はじめまして。西端恵と言います。今度あたしもお店にうかがっていいですか?」

「どうぞ、どうぞ。歓迎しますよ」

「ありがとうございます」

「めぐみ、俺もまだ行ったことないんやで」

「そうなん?」

「ああ。今度おやじに連れて行ってと頼んでいたところ」

「じゃあ、今度行く時は西端さんもお誘いしようか?」

「わあ。嬉しいです」

「飲める口ですか?」

「お酒ですか?」

「ええ」

「ああ、お酒はちょっと……。梅酒なら少し飲めますけど……」

「大丈夫よ。おいしい梅酒も置いてあるから」

「そうなんですか。わあ、楽しみです」

「最近、飲めない人が増えましたよね」

「そうですね。うちのゼミで飲み会をやっても最初にビールを注文する人は半分もいません」

「そうなんだ。じゃあ、『とりあえずビール!』っていうのはできないのかい?」

「無理無理。みんな最初から、『カシスオレンジ』だ、『梅酒ロック』だ、『烏龍茶』だ、とばらばらだからね」

「そうなんだ」

「うちの先生は『卒業までに、とりあえずビールで乾杯ができるようになろう』っていつも言ってるけど、ビールは苦くて好きじゃないと公言する人がたくさんいるから難しいんじゃないかな」

「最近は、お酒だけでなく、タバコも吸わない人が多いし、そんなものよりスイーツが好きで、食べるだけでなく、自分で作るという男の子もたくさんいるんですよ」

「へえー、そうなんだ」

「そういえば、克也もこのあいだ、なんか作ってたな」

「うん。ときどき作るよ」

「かっちゃんはなんでも上手ですよ。うちで鍋パーティやったときも、一番仕切ってましたから」

「女の子のうちで鍋パーティ?」

「そんなん、今は普通だよ」

「そうなのかあ」

「そうなんですよ。そのまま男の子が帰れなくなって泊まっていくことも結構ありますから」

「ええっ。そうなの?」

「はい」

「心配ないの?」

「全然ないですよ」

「ふーん。不思議な時代だね」

「そうですか。自然だと思うけどなあ」

 

「ところで、西端さんはどこの出身?」

「あたし、富山です」

「そう。就職は地元で?」

「地元に戻りたい気持ちもあるんですけど、大阪にいたいなあという気持ちも強いです」

「東京は?」

「東京はあんまり……」

「どうして?華やかで楽しそうじゃない?」

「あたし、大学で大阪に来た時もしばらくなじめずにいたくらい田舎の子なので、東京は適応できない気がします。それに、せっかくここまで作ってきた友だちと離ればなれになるのも寂しいし……」

「でも、他の友人たちが東京に行ってしまうかもしれないでしょ?」

「そうですね。でも、結構話を聞くと、みんな関西にいたいって言っているし、そういう勤務が可能なところを、特に女の子たちは探しているので、こっちにいたら、結構友だちもいると思うんですよね」

「俺も本音で言えば、こっちいたいけどね。まあ、今年は就職状況が悪いから、そんなことも言ってられないけどね」

「へえー。おまえもこっちにいたかったのか」

「そうだよ。たぶん難しいとは思うけどね。まあ全国転勤ありでもなんでも、今はやってやろうという気分だけどね」

「そう言えば、この間、ラジオで若者の地元志向が強まっているって言ってたけど、やっぱりそうなんですね」

「そうですね。3分の2くらいの人はそう思っているんじゃないでしょうか」

「でも、日本の企業って、全国転勤を経験しないと出席もできないんじゃないですか?」

「そうなのかもしれませんが、ぼくらの世代って、出世意欲ってあまり強くないような気がします。潰れない会社に入って、今の生活水準をあまり落とさずに暮らせていければいいと考えている気がします」

「確かに、昔みたいに、景気が年々よくなるというイメージはないからね。若い人も夢を見にくいよね」

「そうなんです」

「父さんの大学時代くらいが、日本の絶頂期だったのかもしれないなあ」

「そうだよ。高度経済成長期だろ?」

「いや、高度経済成長期じゃないよ。あれは、1973年に終わっているから、父さんはまだ中1だった」

「そうなん?俺が生まれたバブルの頃まで、高度経済成長期ちゃうの?」

「バブルと高度経済成長期は違う時代なんだよ。高度経済成長期は1960年から73年までで、その後低成長期があって、80年代後半から90年代初めがバブル期、そしてバブル崩壊っていう流れだ」

「ふーん。で、おやじはどの時代に就活だったん?」

1982年。低成長期というか安定成長期だな。まだ国鉄、電電公社、専売公社があった頃だ」

「あっ、それ、現代社会の授業で習いました。今の、JRNTTと、後なんだったっけ?」

JT

「そうそう!JTです!」

「禁煙車両とか禁煙コーナーなんてほんのちょっとしかなくて、みんな、周りの迷惑なんかまったく気にせずに、タバコを吸ってたなあ」

「信じられないです!タバコなんて本当に迷惑なのに。今から見ると、そんな時代があったなんて信じられません」

「つい最近って気もするんだけどね」

「で、その頃は、就活は楽で、4月中にはみんな決まってたん?」

「いや、あの頃は、就活というか就職活動って言ってたけど、そういう活動は4回生の夏くらいからしかやってはいけないことになっていて、3回生の頃なんて、まったく何もやっていなかったから、4月中に内定が出るなんて、なかったよ」

「そうなんですか。私たちなんて3回生の夏くらいから動き出している人も多いですよ」

「なんか大変ね。私たちの時代でもまだそんなことはなかったな」

「美樹さんの頃はどうだったんですか?」

「私たちの頃は、ちょうどバブルが崩壊したすぐ後くらいだったんだけど、まだ今みたいに、このままずっと悪い時代が続くなんて思ってなかったわ。株価はずいぶん下がったけど、ジュリアナ東京とかも流行ってたし、まだバブルが崩壊したのかどうかも、当時はよくわかってなかったわ」

「ジュリアナ東京ってなんですか?」

「そっか。知らないか。そうよね。若いもんね。今ではクラブって言っているけど、当時はまだディスコって言ってって、それの派手なお店として有名だったのがジュリアナ東京」

「へえー、美樹さんも行ったことがあるんですか?」

「何度かね」

「へえー、それは初耳だな。美樹もお立ち台で踊ったの?」

「まさか。いやね、翔ちゃん。あんなすごい格好して、あんなところ立てるわけ、ないじゃない」

「そりゃ、そうだよね」

「そんなすごい格好だったんですか?」

「うん、まあね。だんだん露出が多くなっていったわね」

「へえー。ちょっと見てみたかったような……」

「父さんは行ったことあるぞ」

「えっ、父さん、もうおじさんだったんちゃうの?」

「ひどいなあ。まだ30代前半だったんだから」

30代って、おっさんやん」

「そのくらいの社会人の方もたくさんいましたよ」

「ほらな。だけど、もう結婚していたので、ちょっと好奇心で1回行っただけだけどね」

「そうんなんや」

「まあ、それにしても、日本もずいぶん変わったなあ。こんなに就職が大変時代が来るとわなあ」

「ホント、私たち、不幸な時代に生まれました」

「そうね。でも、どうなのかしらね。今のお年寄りは年金もちゃんともらえていていいようにも見えるけど、子ども時代や青春時代が戦争だったり、戦後の物のない時代だったりして苦労されているんじゃないかしら。私も含めてだけど、今の人たちは子ども時代や青春時代に物がいっぱいあって、お腹一杯おいしいものを食べて、あまり苦労も知らずに育っているから、人生トータルで見たら、どうなるんでしょうね」

「えっ。そうかあ。そんな考え方もあるんですね」

「でも、ちょっと上の先輩たちは、売り手市場って言われて、いいところにすいすい決まっちゃって……。あと23年早く生まれていたら、よかったのにって、やっぱり思っちゃいます」

「そうね。確かにそうかもしれないわね。でも、もう10年早く生まれていたら、就職氷河期、ロスジェネだし……。難しいわね」

「だけど、君たちは正社員になろうと、今就活で苦労しているけど、今勤めている人も、こんな時代だと安泰とは言えないからね。いつリストラされるかという不安は、父さん世代には結構つきまとっているよ。万一、リストラなんてされてごらん。家のローンも返せなくなるし、沙織を大学に行かせてやれなくなるんでは、と考え始めたら、おそろしくなるよ」

「そんなこわいこと言わないでよ」

「山手君のお父さんは大丈夫ですよ!」

「なんで」

「だって、格好いいし。お話も上手だし。会社もこんな立派な人をリストラなんかしないでしょ」

「いやいや。そんなこともないと思いますよ」

「いえ、私も山手さんは、絶対大丈夫だと思います。どんな時代になっても、魅力のある人というのはちゃんとわかってもらえるはずだと思います」

「いやいや、どうも。朝から、こんなに褒めていただけるとは……。気持ちよく、仕事ができそうです」

 

 

(続)