Part1

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KSつらつら通信 Part2

KSつらつら通信 Part3

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<目次>

第36号 競争することについて(2000.12.28)

第35号 メールが嫌いになりそう……(2000.12.25)

第34号 日本的決定方式(2000.11.22)

第33号 顔を上げて(2000.11.8)

第32号 演劇を授業に(2000.11.5)

第31号 走り出す3回生たち(2000.10.28)

第30号 柔道・篠原の「銀メダル」に思うこと(2000.9.22)

第29号 なぜ日曜日から1週間が始まるのか?(2000.9.19)

第28号 教育改悪?(2000.9.10)

第27号 「プロジェクトX」がいい(2000.9.5)

第26号 ラジオ体操の放送時間(2000.8.31)

第25号 好奇心(2000.8.30)

第24号 インターネット・ゼミ?(2000.8.19)

第23号 試験の採点をしながら思うこと(2000.8.1)

第22号 「日本の未来は世界が羨む」かな?(2000.7.28)

第21号 「探偵ナイトスクープ」ももう終わりにした方がいい(2000.6.30)

第20号 良きフォロワーから失敗を恐れぬリーダーへ(2000.6.24)

第19号 日本は国を開いた方がいい(2000.6.5)

第18号 若いことは価値のあることなのだろうか?(2000.5.12)

第17号 近い将来、シングル・マザーを後押しするのは……(2000.4.23)

第16号 頭のギア・心のギア(2000.4.23)

第15号 若乃花と癒し系(2000.3.18)

第14号 柔らかな合理主義精神の必要性(2000.2.23)

第13号 (笑)って変じゃないですか?(2000.1.17)

第12号 北野たけしの映画を斬る(1999.12.27)

第11号 日本議会制度改革私案(1999.12.19)

第10号「無思考主義」の蔓延(1999.12.17)

第9号 90年代最大の論客(1999.11.29)

第8号 「平成」の「二千円札」おじさん(1999.10.21)

第7号 「小恋愛結婚」のすすめ(1999.9.21)

第6号 欲望のままに生きていては……(1999.8.8)

第5号 バブル経済と女子高生文化の誕生(1999.4.27)

第4号 夢なき時代の公務員志望(1998.11.19)

第3号 寅さんとタコと『戦争論』(1998.11.12)

第2号 新年のご挨拶(1998.1.13)

第1号 半分「個」・半分「類」として生きてみたら(1997.6.10)

36号(2000.12.28)競争することについて

 今年、シドニーでオリンピックが終了した後、パラリンピックが開かれました。今回は、これまでのパラリンピックの何十倍もの報道がなされたように思います。そして、少なからぬ数の人々から、「パラリンピックがあんなにおもしろいとは思わなかった」、「まさに、スポーツ以外の何物でもないんだということに気づかされた」といった賞賛の声を聞きました。確かに、ハンディキャップを持ちながら一所懸命頑張る選手たちの姿は美しいと思います。しかし、そう感じる一方で、私の中には小さなしこりのような違和感がありました。その違和感は何だろうと考えていたのですが、たぶんこういうことだと思います。ハンディキャップを持った人たちを何の疑問も持たずに、競争原理の徹底するスポーツの世界に巻き込んでしまっていいのだろうかということです。もちろん、障害者はスポーツをしない方がいいなんてことを主張するつもりは毛頭ありません。ただ、金メダルをいくつ取ったなんてことだけで、パラリンピックを評価してしまっていいものだろうかという疑問が湧いてきたのです。パラリンピックに参加できないほど重い障害を抱えている人たちは、どうなるのでしょうか?ハンディを補う高価な器具の買えない障害者はどうなるのでしょうか?健常者も障害者も生きやすい社会にするためには、過度な競争原理は抑制されなければならないというのは常識になっているはずだと思うのですが、パラリンピックの報道を見る限り、この辺のことが少し忘れられていたような気がします。パラリンピックは素晴らしいイベントだと思いますが、勝ったか負けたかだけではない何かをそこに見るべきではないかという気がしました。

 こんなことを書くと、私は「競争原理」を批判する平等主義者のように思われてしまうかもしれませんが、そうではありません。私が批判したいのは、「過度な競争原理」であって、「適度な競争原理」は必要なものだと思っています。適度な競争原理まで消し去ってしまうと、人々は意欲をなくし、社会は沈滞、いや衰退します。20世紀に多くの社会主義社会が消えざるをえなかったのはそのせいですし、日本でも「15の春を泣かせるな」の迷文句でいくつかの都道府県で導入された「学校群制度」で、公立高校が衰退してしまったのも、同じ理由によるものです。あまりの陳腐さに最近はやらなくなったようですが、運動会の徒競走でも順位をつけないようにゴールの前で遅い子を待ち、手をつないでみんなでゴールインするなんてことを行った小学校もあったと聞きます。そんな無理矢理な平等主義には、「百害あって一利なし」です。人は適度な競争の中で、はじめて自らを伸ばしていけるのです。自分のめざすべき目標を、他人とは全く無関係に立てることは非常に困難です。過去に生きた先人も含めて誰か準拠になる他者があって、多くの人は目標設定ができるのです。そうした目標達成をめざすということは、意識的・無意識的に他者と競争することを意味し、その競争心で自分の意欲をかき立てているのです。「他の人のことは一切考えなくていいから、マイペースでやりなさい」なんて「立派な」アドバイスをする人に時々出会いますが、この「マイペース」というやり方だけで、自らを伸ばしていける人がいたら、会ってみたいなと思います。適度な競争があって、人は自らの能力を伸ばしていけるのです。

 子供の時から適度な競争になじませることには、もうひとつ重要な意味があります。それは、負け方を覚えるということです。競争ですから、勝者がいて敗者がいます。そして、多くの競争は1対1ではないので、NO.1の勝者になるよりも多くの場合はNO.2以下の敗者にならざるをえません。自分より上がいるというのは、屈辱でしょうし、くやしいでしょう。でも、そうした経験を繰り返しながら、また人は次のステップへ進むことができるのです。負けるたびに、人生を終わらせるわけにはいかないのですから、負けは負けと潔く認め、次のためにその敗北をどう生かすかが、より大切なのです。(その意味で、今年のアメリカ大統領選挙でのゴア氏は、ぎりぎりのところで、負けを次に生かすように転換させたケースと言えるかもしれません。)この負け方のトレーニングを積まないまま、年を重ね、ある日大きな敗北を経験したりすると、「もう自分の人生は終わった!自分とともに社会も終われ!」とばかりに、無茶な事件を起こすような人間も出てくるのです。

 問題は、どの程度が「適度な競争」と言えるかということでしょう。これは、各社会、各時代ごとに異なるので、一概に言うことは難しいとは思いますが、例えば現在の日本で言うとどうなるでしょうか。もっとも典型的な競争としてよく取り上げられる学歴獲得競争で考えてみましょう。18歳という年齢で、希望大学への合格をめぐって競争することを過度な競争と指摘する人はほとんどいません。高校入試の場合は、上にも書いたように、否定する人はいますが、私は個人的には構わないだろうと思っています。中学入試の12歳は厳しい競争にさらすにはまだ早すぎる年齢だと思います。負け方のトレーニングを十分積む前の年齢の子供たちに、中学入試不合格という重い現実が突きつけられた場合、うまく処理しきれない可能性が高いのではないかという気がします。しかし、現在競争はもっともっと低年齢まで下がっています。名門小学校への入学をめざす競争、そういう小学校へのコネのある幼稚園や塾に入学するための競争、適当な同学齢のお友達獲得競争、さらには「○○さんちの○○ちゃんはもうオムツが取れたのに、うちの子はまだ取れない」というオムツ取り競争、「お腹の赤ちゃんにはモーツアルトがいいらしい」という胎教競争と、際限なく低年齢化していきます。低年齢化すればするほど、もう子供自身の競争ではなく、親の競争になっているのですが……。

 15歳や18歳での競争を肯定したからといって、私が何の疑問も感じていないかと言えば、そんなことはありません。現在の日本の高校入試や大学入試は形骸化してしまっていて、健全な競争にはなっていないと思っています。高校も大学もそこで学ぶのにふさわしい人間だけを合格させて鍛えていかなければいけないのですが、今はそうなっているとはとうてい言えません。ほとんど全入制に近くなってしまった高校、そして大学ですらわずかな試験科目で判断をして、学ぶ意欲を持たない人間を多数合格させてしまっています。高学歴が高い能力を保障しなくなっていることは今や自明のことです。社会の高学歴化の要望に応えて拡大してきた高校や大学の枠ですが、結果的に知識欲や学習意欲の弱い「高学歴」の人間を多数生み出すという役割を果たしてしまったとすら言えるのではないでしょうか。こうした事態の改善のためには不必要なほど拡大した高校や大学の枠が狭まり、進学率が低下すべきでしょう。そして、無意味に高学歴を獲得した人間より、学歴は高くないが知識や技術がある人間がきちんと評価される社会でなければならないと思います。

 こうした学歴獲得競争の例でもわかるように「健全で適度な競争」は、放っておくと「不必要で過度な競争」に転化しやすいものです。現在のパラリンピックはまだ批判すべきものなのではないかもしれませんが、あまりに諸手をあげての賞賛の声ばかりだったので、先々問題が生じてくるのではないかと思い、警告を鳴らす必要を感じて書いてみました。

35号(2000.12.25)メールが嫌いになりそう……

 わりと「メール好き」を自認してきた私ですが、最近一方通行的なメールを続けざまにもらい、メール嫌いになりそうです。一人よがりで、勝手なことを書いたものを、とりあえず反論もできないまま読まされるわけです。特に怖いのが、メーリング・リストです。手紙なら、同じ一方通行でも1対1なので、波及効果はありませんが、メーリング・リストを使って流されると、話は複雑になってきます。また、メーリング・リストを使って反論することもできますが、それはそれで多くの人にとっては、一方的なメールがまた届いたということになるだけでしょう。結局、あちこちに電話をして、直接話して誤解を解かなければならないはめに陥ります。便利なものには、やはり落とし穴があるようです。会ったこともない、顔も知らないという人とのメールを楽しんでいる人も多いのでしょうが、私はだめですね。やはり、基本は、互いの顔の表情もわかる対面型コミュニケーション置いておきたいと思います。

34号(2000.11.22)日本的決定方式

 自民党の加藤紘一はみっともないことをしましたね。ずっと「戦わない政治家」「お公家さん」というイメージがあったのを、ここ10日間ぐらいで一気に変え、国民に大きな期待を持たせておいて、最後の最後に逃げるんですからね。いくら、他の同志がとめたからと言っても、それでやめるぐらいなら、最初から「国民の声に答えるんだ」などと格好いいことを言わなければいいのにと、みんな思ったことでしょう。「あんたは大将なんだからひとりで玉砕しちゃだめだ」なんて言われて、涙を流して思いとどまるなんて、国民の声に答えようという気持ちより、自分を総理大臣にしてくれそうな同志のことしか考えていないという見事な証明になってしまいました。自分の出世しか頭にない奴に、国の将来を任せることはできません。自民党の政治家という地位は守れたかもしれませんが、国民のことを考えて働く政治家というイメージは、完全に消え失せました。長期的に見たら、加藤紘一の選択は、絶対に間違っていたということになるでしょう。

 それにしても気に入らないのは、欠席という戦術です。どうせ負けを認め、執行部の言う通りにするなら、出席して不信任案に反対票を投じてこいというのです。(もちろん、一番いいのは、負けることがわかっていても、初志貫徹して賛成票を投じることでしたが。)しかし、意志を明確に示さず、曖昧な形で事態を収拾するというのは、政治家の世界だけでなく、日本の組織ではよくやる決定方式です。某大学某学部でも、ちゃんと議決方式が明文化されて規則としてあるにもかかわらず、「投票などという方式で議決をしてはいけない。そんなことをしたら、しこりが残る。慣例にない」などという議論がまかり通り、曖昧な形で異論を封殺し、「全員一致」のような形を取ろうとします。提案されていることをどうしてもひっくり返さなければならないという強い意志を持った人以外は、「よくわからないし、まあ提案通りでいいんじゃないの」という雰囲気に飲み込まれていきます。そして、議決をしてみたら、反対意見もかなりあったかもしれないのに、議決をしない故に、漠然と「提案承認」という結論が導かれます。異論を持っていた人にとっては、たまったものではありません。ちゃんと議決をして、過半数を占められなかったということであれば、それはルールですから、あきらめることもできます。しかし、議決をせずに、なんとなく「よろしいですね」といった雰囲気で決められてしまっては、それこそ「しこり」が残ります。

 なんでもかんでも議決しろというわけではありません。誰も異論を言わない提案であれば、それは承認されたと見たって構わないでしょう。しかし、少なくとも異論が出ているなら、ちゃんと議決をすべきです。そして、責任ある組織の構成員なら、「よくわからない」などと無責任なことは言わないで、ちゃんと考え、それぞれが自分なりに最善と思う判断を下さなければならないのです。大事なことはきちんと賛否を問うて議決するような社会に、日本はなるべきです。こんな悪しき「ムラ社会」みたいな組織ばかりだから、改革も進まないのです。ちゃんとしようよ、日本人!

33号(2000.11.8)顔を上げて

 夏には、たくさんいたジベタリアンも涼しくなってきて随分減ってきましたね。特に、銀杏の実が落ちている道端には、さすがの若者も座りませんね。確かに臭いはちょっと強烈ですが、美しく色づいた銀杏の葉を見ると、秋だなあとしみじみ思います。私の好きな季節です。きれいな季節です。そんなことを思いながら歩いている私の前を、最近しばしば、下だけ見て通り過ぎる若者がいます。右手には携帯電話を持ち、せっせとメールを打っている人たちです。余計なお世話でしょうが、思わず「顔を上げて」と声をかけたくなってしまいます。「こんなきれいな季節なんだよ、見てごらん」って。メールをするのもいいでしょう。私もメールは嫌いではありません。でも、家で一人でいるときにやるならともかく、外に出ているときに、下を向いて携帯電話ばかり見つめていたら、すてきな景色も見逃しますよ。

 景色だけではないと思います。すてきな人が通り過ぎても気づかないですよ。電車の中でも友達とのメールのやりとりに夢中になっている人をよく見かけますが、電車に乗っている人を観察していた方が私はおもしろいと思うのですが。 顔を上げて、視線をまっすぐにしていたら、下を向いてメールをしている人より、何十倍も豊かな情報が得られると思うのですが……。

 授業中もそんなことを思うことがあります。結構下を向いている人がいるんですよね。最近は、授業中にもメールをやっている人が少なくないらしいですから、そのせいでしょうか。「ゼミガイダンス」の時などは、みんなしっかりこちらを見ていますから、情報をたくさん仕入れようと思うときは、やはり顔を上げるんでしょうね。街中を歩いていても、授業中でも、背筋を伸ばして、顔を上げて、しっかり前を見ていたら、おもしろいことを見つけられる確率は、随分大きくなると思いますよ。携帯電話という高度情報化社会の申し子のような存在が、実は取り入れる情報を非常に狭いものにしているというパラドックスが生じているような気がします。

32号(2000.11.5)演劇を授業に

 若い人たちと「Aプロジェクト」という「演劇ごっこ」を何回か続けていく中で、日増しに強く思うようになってきていることがあります。それは、演劇を小中学校の授業にもっと取り入れた方がいいということです。ある役を演じるためには、その役柄についての深い理解が必要になります。物語の時代背景を知り、自分が演じる人物について、どのような家族構成で、どういう人生経験を経てきて、どのような知識をもち、どういう性格なのだろうかということを考え、登場場面ごとに、その人物の置かれた状況を理解し、どのような心理状態になっているかを考えなければ、短い台詞ひとつ的確に語れません。小学校以来、国語の授業で、何頁もの物語を読まされてきたと思いますが、そこでは、単に字句を間違えずに読めればよかったわけです。むしろ、演じるように、役柄になりきって朗読したりすれば、級友はもちろん、教師からも冷たい眼差しを向けられるのは確実でしょう。しかし、本当にその物語を理解するためには、そこに出てくる人物と状況について深く考えることが必要なはずです。それが、現在の国語教育では、できていないような気がします。演じなければならないという状況を作り出すことによって、自然と深く理解しようという気持ちになるはずです。

 もうひとつ演劇を授業に取り入れた方がいいと思う理由は、日本人のプレゼンテーション下手を直すことができると思うからです。若い人たちを日頃観察していていつも疑問に思うことは、インフォーマルな場では、ペラペラよくしゃべれるのに、ちょっとでもフォーマルな感じのする場になると、途端にしゃべれなくなってしまう人があまりに多いということです。人々に注目される中でしゃべるということを、多くの人が異様に恥ずかしがります。もしも、人前で演じるという経験を若いうちから積んでいれば、こうした無用な恥感覚は薄れているはずです。

 本当は、私が改めて「学校教育に演劇を」なんて言わなくても、かつての小学校では、当たり前のように演劇をやっていました。年に1回の「お楽しみ会」や「卒業生を送る会」などが、その発表の場であったと記憶しています。私自身も演じた経験があります。それがいつの間にかなくなってしまっています。うちの子供たちは、昨年「ロンドン日本人学校」で、初めて演じる経験をしましたが、日本の小学校では、全くそういう経験をしていません。想像するに、主役を誰がやるかでもめたり、親が文句を言ったりすることを先生方が恐れて、演劇をしなくなってしまったのではないかと思います。しかし、たった一言の台詞でもいろんなことがそこに表現できるはずです。昨年うちの娘の台詞は、「さあ、今日は年に1度のりんご祭りだ!」という一言だけでしたが、ずいぶん練習して、徐々にうまくなっていきました。この台詞ひとつでも、どんな場面で、どんな気持ちで言わなければならないかを考え、それを恥ずかしがらずに出せるようにならなければうまくいかないのです。最初は、恥ずかしがって、元気に台詞が言えなかったので、年に1度の楽しい「お祭り」がやってきそうな感じが全然出なかったのですが、場面を理解し、練習を重ねていくうちに、明るく楽しい感じが出てきました。主役でなくても、たった一言の台詞でも、しっかりできたら充実感が持てるはずです。自分が演じていなくても、演じているのが友達なら、「ああ、こんな風に演じたらもっと良くなるかな」なんて発想も持ちやすくなるでしょう。「みんな平等」だけでいい教育はできないでしょう。恐れずに、演劇を授業にどんどん取り入れてほしいものだと思っています。

31号(2000.10.28)走り出す3回生たち

 数年前に就職協定がなくなってから、就職活動がどんどん早まってきました。今では、3回生の秋には、当たり前のように就職活動が始まっています。人よりも少しでも早く動き出して、良いポジションを確保したいと思うのは、この「就職難」の時代においては、当然のことでしょう。でも、まだ大学生活を2年半しか経験していないのに、もう就職活動をしなければいけないなんて、なんだか可哀想な感じがします。

 大学への入学目的を尋ねると、多くの学生たちが、「社会に出る前にもう少し考える時間がほしかったから」とか「自分に何が合っているかを見つけるため」といった理由を聞かせてくれます。大学生活わずか2年半で、もう十分ですか?十分なわけはないですよね。自分に何が合っているかがそんな簡単に見つからないですよね。でも、そんなことをいつまでも言っていられない。そんなことを言ってたら、他の人に遅れを取ってしまう。潰れそうもない大企業にとにかく勤めたい。3回生の今の気持ちはそんなところでしょうか。

 大学は、高校までの勉強と違い、知識を得るおもしろさ、物を考える楽しさを知ることができる場だと思うのですが、そうしたことを本格的に行いうるゼミが始まって半年で、もう卒業後の就職のために、学生たちの腰が落ち着かなくなってしまうというのは、教師としては非常にむなしさを感じます。こんな時代ですから、就職活動をするなとは言えませんが、あまり先のことばかり心配せずに、現在の大学生活を充実させようという気持ちだけは忘れずにいてほしいなと思います。そうでないと、もったいないですよ。せっかく素晴らしい学生時代なのですから。大学時代、よく学び、よく遊んだ人の方が、卒業してからも、魅力的に生きていることが多いですよ。

30号(2000.9.22)柔道・篠原の「銀メダル」に思うこと

 いやあ、今日の柔道男子100kg超級の篠原選手はかわいそうでしたね。柔道というスポーツのルールはよく知らないのですが、背中から落ちたら、一本を取られるらしいということだけは、この何日間かで理解していたので、今日の決勝戦はやはりどう見ても、篠原選手の勝ちだと思いました。あんないい加減な判定がまかり通るようでは、困りますね。篠原選手は口惜しくてたまらないでしょうね。

 それにしても、柔道ってあんなに審判に左右されるスポーツだったんですね。今日のようなケースは極端としても、主審1人、副審2人の判断が一致しないことなんて日常茶飯事ですからね。なんか、見ていてすっきりしないです。どんなスポーツにもルールがあり、審判は必要なのでしょうが、審判の比重が大きいスポーツは、問題が置きやすいように思います。体操やシンクロもすっきりしないことが多いですよね。それに比べると、陸上のようにルールが単純なスポーツは結果が一目瞭然でいいですね。女子マラソンが楽しみです。

 それにしても、今日だけは日本柔道チームの監督が、中日の星野監督だったら良かったのに……。

29号(2000.9.19)なぜ日曜日から1週間が始まるのか?

 前々からずっと疑問だったんですが、なぜ1週間は日曜日から始まるのでしょうか?月曜日以降に「今週の日曜日」と言ったら、過ぎてしまった日曜日のことで、次にやってくる日曜日は、「来週の日曜日」と言わなければいけないんですよね。一体、誰がこんなこと決めたのでしょうか?

 私は、月曜日から1週間が始まると思って暮らしているので、よく間違えます。以前にも、日曜日に知人に電話をして、「来週の水曜日に会おう」と約束して、相手が来なくて困ったことがあります。私は、3日後の水曜日のことを考えていたのに、知人は、10日後の水曜日だと思ったわけです。これは、私の方が間違っていたわけですが、でも、なんか納得いかないんですよね。だって、「週末に旅行に行く」とか「週末のお天気は……」と言う時には、必ず日曜日が週末に入っているじゃないですか。大体、1週を7日にするというのは、聖書の「神は6日間天地創造をし、7日目に休息した」という話から来ているはずですよね。だったら、どう考えても、休みの日から1週間が始まるというのは、おかしいと思うんですけどね。辞典によれば、7日目のことを「サバット」と呼び、それは現在の土曜日にあたると書いてあったので、そのあたりが日曜日から1週間が始める根拠になっているのかもしれませんが、それなら土曜日が週の休息日となり、日曜日から働き始めるべきじゃないでしょうか。たとえ、語源がどうであれ、日曜日が休息日である限り、日曜日が週の最後に来るべきだと思うのですが……。もしかしたら、キリスト教の熱心な信者は、日曜日は礼拝に行くので、神に祈りを捧げる日が日曜日であり、それが1週間の始まりになるのは、当然のことだとか言うのかもしれませんね。でも、キリスト教文化圏でも、そういう熱心な信者は少なくなっていますし、ましてや日本はキリスト教に支配された国ではありません。実質的にほとんどの人が、土日を合わせて「週末」と認識しているはずです。生活実態に合わせるなら、月曜日から1週間を始めることにした方がいいと思うのですが、皆さんどう思います?

28号(2000.9.10)教育改悪?

 先日録画しておいた「ここがヘンだよ、日本人」を見ていて、頭を抱え込みたいような気持ちになってしまいました。今回は、若者の「学力低下」がテーマでした。もちろん、番組の意図はみえみえで、最近の若者を登場させ、その無知さ加減をさらけだし、それを外国人たちに厳しく批判させようというものです。番組に登場する外国人たちは、異文化社会で暮らしていける優秀な人たちなので、ディベートに日本の若者たちが勝てないだろうということはわかってはいましたが、あそこまでひどいとは……。何よりも愕然としたのは、若者たちが自分の無知なことを全く恥ずかしいと思っていないことでした。もちろん、そんな若者ばかりでないことは、いつも学生とつき合っている私はよく知っています。無知を恥と思い、知を得ようと努力している(いや、楽しんでいると言った方がいいかもしれません)若者を、私は何人も知っています。しかし、一方で、第23号で書いたように文章をまともに書けない大学生や、「歴史なんて知る必要があるんですか?」と真顔で聞く大学生もたくさんいることもまた知っています。だから、今回の番組は、やや誇張されていたにせよ、現実を全く反映していなかったとは思いません。このままで行くと、知識を持っている極少数のエリートと、毎日が楽しければそれでいいという大多数の無知(「無恥」とも書きたい気分です)な大衆とに、日本は階層分化してしまうような気がしてなりません。

 物的資源に恵まれていない日本社会の最大の資源は、勤勉で知的向上心の高い人間が相対的にかなり多いことにあったはずです。識字率は、江戸時代ですでに世界で有数の高さにあり、明治時代には当時の世界の最先進国だったイギリスなどよりも高かったのです。明治以降急速に日本が先進諸国に追いつけたのも、戦後敗戦の痛手からあんなにすばやく立ち直れたのも、この優れた人間という資源があったからです。今やこの資源を日本は急速に失いつつあります。漢字も読めない、故事・ことわざも知らない、歴史を知らない、小説なんか興味もない、算数も解けない、そして何よりもそのことを恥とは思わない、そんな人間がどんどん増殖していって作り出される社会を想像すると、薄気味が悪くなります。

 どうしてこんなことになってしまったのでしょうか?番組に出てきた若者たちは、「学校の勉強の教え方が悪いんだ」と口を揃えたように強弁していました。そして、番組に引っぱり出された文部省の官僚は、「そういう問題点に気づいたので、今改善を図っています」と弁明していました。その改善とは、「ゆとりの教育」をめざすというもので、2002年からは、完全週休2日制、今の授業内容をもっと減らすことなどが柱になっています。番組に出演していた『学力崩壊』という本の著者・和田秀樹氏も指摘していましたが、これは改善ではなくて、改悪だろうと思います。学校に来る時間を短くしたら、子供たちがもっと学ぶことが好きになるなどという因果関係は、一体どこをどう考えたら出てくるのでしょうか?強制されなくとも勉強を好きでやるなんて子供が本当にいるんでしょうか?文部省は、「嫌いな教科を押しつける時間は減るので、自分の好きな教科をたくさん勉強できるようにするための時間が取れる」などと言っていますが、体育だけが好きって子は体育だけやっていればいいんでしょうか?好きな教科がない子は、何も勉強しなくていいんでしょうか?好きか嫌いかなんて子供の意志なんか聞いていないで、義務教育で教えておかなければならないことがあるのではないでしょうか?そのハードルをこんなに下げていいのか強く疑問に思います。私には小学生の子供がいるので、現在の小学校のカリキュラムを知っていますが、現行のカリキュラムでも少なすぎるという気がしてなりません。

 文部省の官僚さんは、また「ひとりひとりの個性に合わせた教育ができるようになる」などと言っていましたが、そんな教育のできる能力の高い教師が一体どれほどいると考えているのでしょうか?1割もいないでしょう。大体、そんな素晴らしい能力なんかなくてもいいから、子供を教育することが好きで教師をやっているという人は、公立の小中学校では、3人に1人ぐらいだと私は見ています。後の2人は、公務員仕事のひとつというようなつもりでやっているんだろうと思います。(そういう教師たちも、教師になったばかりの頃は情熱を持っていたはず、と思いたいのですが……。)しかし、私はこの比率が最近大きく変化したと思っていません。(つまり、ここ10数年の間に教師の質が急に悪くなったと思っているわけではありません。)むしろ、自分自身の小中学校時代の経験から言っても、そんなものだと思っているのです。私が習った頃の教師はしばしば「デモシカ教師」と揶揄されていました。高度経済成長期ですから、企業に勤めれば、どんどん給料も上がり、良い生活ができるようになるのに、その道に進めず、「教師デモやろうか、教師にシカなれない」という人が教師をやっていると言われていたわけです。みんながみんなひどかったわけではありませんが、確かにこんな人が教育に携わっていていいのかと思うような教師も何人もいました。生徒のことを殴ったり蹴ったりすることに何の抵抗も感じていない教師、すぐにヒステリックになって授業を放棄する教師、自分が音楽の教師だからと言って合奏練習ばかりさせ、音楽コンクールなどに参加させることばかり熱心な教師、女子生徒の胸の名札をいちいち触ってまわる教師、いろいろいました。それに比べたら、今の教師の方が余程優秀な人がなっていて、ましなんじゃないかと思います。でも、そんなひどい教師がいても仕方がないんです。世の中、自分を愛してくれる人間ばかりではないんですから。むしろ、こういう教師たちに出会って、こういう大人を相手にしてもなんとか切り抜けていく術を子供の方も覚えるのです。今の時代が困るのは、子供の親がまずこういう割り切り方をできないで、「なんでうちの子がこんなひどい先生のクラスに入れられなければならないの!」と目くじらを立て、しばしば教師に文句を言いに言ったり、校長に訴えたりします。そこまでしなくても、親が「あの先生は、はずれだわ」と毎日のように言っていたら、子供の方も教師をなめてかかり、自分の勉強ができないのは、教師の教え方が悪いからだなんて責任転嫁を当たり前のようにしはじめるのです。

 親も子供も教師に期待しすぎてはだめです。そして、文部省も。そんなに個々の教師の能力に依存するつもりなら、学習指導要領なんかも作るのをやめたらいいんじゃないでしょうか。そんなに能力が高くない教師でも、子供たちにそれなりのことが教えられるように、学習指導要領を作ってきたのでしょう。その内容を減らすことが、危険だっていうのがわからないのでしょうか?学校で教える内容が多すぎたので、若者たちがだめになってきたわけではありません。人間は勤勉に努力しなければいけないんだ、知識を増して内面的な魅力を高めていかなければならないんだという価値観が弱まってしまったことが原因なのです。もちろん、これが原因だと気づいても、その対策は容易に打てるものではありません。ただ、世の中の悪しき流れに棹さすような「教育改悪」は考え直してほしいものです。むしろ、手を打つなら、小学校にも教科担任制度を入れてほしいと思います。もともと理数系が苦手で嫌いな教師が、どうして子供たちにそのおもしろさを教えることができるのでしょうか?各教科が好きでその教科のスペシャリストになっている教師の授業なら、おもしろい確率はかなり高いはずです。なぜ、この改革をしないのかが私は以前から不思議で仕方がありません。小学校のうちは、長時間に渡って子供たちを見る担任制度が合っているという意見を言う人もいますが、別に担任がずっと一緒にいなくても、朝と給食と終わりの反省会、それに自分の担当する科目があれば、クラスの生徒のことは十分わかるんじゃないでしょうか。それでわからないという教師は、全科目教えてもわからないんじゃないでしょうか。

27号(2000.9.5)「プロジェクトX」がいい

 ファンも多いかと思いますが、毎週火曜日にやっているNHKの「プロジェクトX」という番組がお薦めです。今日は、東京タワーを建設した男たちの物語でしたが、東京タワーがほとんど手仕事で組み立てられたのだと知って驚きました。この番組では、毎回戦後日本の技術者たちを取り上げ、丁寧に紹介をしています。こんな風に仕事と取り組んだ人たちがいたんだ、こんな技術が日本で生まれたんだと知るのは、感動します。私は文化系の人間で、技術とは縁遠いのですが、職人芸とも言えるこうした優れた技術が日本を支えてきたんだと心から思います。楽な仕事、休みの多い仕事ばかり選ばないで、しんどいけれどやりがいのある仕事を求める人が減らないようにしないと、日本の将来は本当に危ないのではないでしょうか。理工系を選ぶ若者が減ってきているそうですが、好ましからざる傾向です。理工系を優秀な若者が選ぶような優遇策が必要ではないかと思います。

26号(2000.8.31)ラジオ体操の放送時間

 子供たちの夏休みは今日で終わりです。明日からは2学期が始まります。さて、夏休みというと、朝のラジオ体操がつきものですが、最近は実施日数もずいぶん減っているようです。それでも、参加する子供たちは毎年のように減り、存続が危うくなってきているところも多いようです。寝る時間が遅くなっている上に、しんどいこと、無駄なことはしたくないという価値観が、親も含めた多くの人々に広まっている現在、こうした趨勢が生じるのは、当然のことと言えるでしょう。うちでも、3人の子供のうちひとりがどうしても起きられず、最後の方はずっとさぼってしまいました。今日は最終日だったので、出れば参加賞がもらえたのに、結局起き出せず、参加賞はもらえませんでした。起こそうかなと思ったりもしたのですが、6時半という時間は学校があるときでも起きていない時間なので、たたき起こすのが可哀想で、そのままにしておきました。

 その時、ふと思ったのですが、ラジオ体操の放送時間って早すぎないでしょうか?夏休みに子供たちにラジオ体操をやらせるのは、学校が休みだからといって生活時間がだらしなくならないようにするためですよね。ならば、学校がある時と同じくらいの時間に起きるようさせるべきではないでしょうか?小学校は普通徒歩でそう遠くない所にあって8時半くらいから始まるところが多いでしょうから、せいぜい起きるのは、7時半ぐらいではないでしょうか。特別の事情がない限り、今時6時半前に起きて学校に行く準備をする子なんてほとんどいないでしょう。となると、ラジオ体操の6時半は早すぎます。頑張って体操に行った子が、帰ってきてまた寝てしまうなんてこともおきます。8時ぐらいの放送ならちょうどいいと思うのですが……。もちろん、早起きが好きで、6時半のラジオ体操を楽しみにしている人もいるでしょうから、6時半からの放送をやめろとは言いませんが、短い放送時間なのですから、8時ぐらいに2回目のラジオ体操放送を流したらいいのではないでしょうか。そうすれば、夏休みのラジオ体操参加者がもっと増えるし、1日の生活リズムも狂わないと思うのですが……。

25号(2000.8.30)好奇心

 今日の朝日新聞朝刊(14版)の天気図に奇妙なものを発見しました。なんと台風に顔があるのです。たぶん誰も気づいていないでしょう。でも、もし朝日新聞をとっていたら、見てみて下さい。2921時の天気図で、台湾の東海上にある台風12号に、目と口があるんですよ。見てくれたら、きっと「本当だ!」と同感してもらえると思います。これを発見してから、もう気になって気になって。遂に、この謎を究明するために、朝日新聞に電話をすることにしました。でも、いい歳をしたおじさんがこんなしょうもない電話をしてくるなんて「アホちゃう」と思われるのが恥ずかしくて、子供が発見して興味を持ったことにしてしまいました。(まだまだですね。)

 で、朝日新聞の人も「なるほど。そう見えますね」と同感してくれましたが、「天気図は気象協会から送られたものをそのまま使っているので、気象協会に問い合わせて下さい」とのことでした。そこで、早速気象協会に問い合わせたところ、手元に朝日新聞を置いていなかった係りの人は、私の話を聞いて、「きっとそれは島でしょう」とおっしゃいました。なるほど島かと思って、電話をいったん切ったのですが、他の日の天気図と比べてみると、そんな位置には島はないのです。こりゃ納得いかないぞと思い、再度気象協会に電話をしたのですが、前の電話の時に対応してくれた相手の名前を聞いていなかったので、指名して再度話を聞くことができず、今度出た人は結構冷たく、「島じゃないんですか?大体、朝日さんにはうちから送ってないんですよ」と言います。「えっ、気象協会から送ってないんですか?」とびっくりして尋ねると、「気象協会ですが、大阪からではなく東京からなんです」と言います。それでも、いろいろ質問していると、「じゃあ、調べてみますから」と言ってくれました。10分ぐらい後、電話がかかってきて、「やはり島でしょう。島が隠れているんじゃないですか?」「いや、隠れているんじゃなくて、顔のように見えるんですが……」「そうですか、それじゃあ、わかりませんね。朝日さんはトレースしているので、その関係じゃないかな?」「そうですか。じゃあ、一度東京の気象協会に電話して確認してみたいのですが……」「同じこと言われると思いますよ」と言いながらも、一応電話番号を教えてくれました。

 で、東京にかけたら、「ああ、さきほどの件ですね」と事情をわかっている人が電話に出てくれました。(大阪の気象協会の人は東京に問い合わせをしていたわけです。同じことを言われると言うわけです。)事情を少し詳しく説明したところ、たぶんコンピュータで、原図を見てくれたようでした。その結果、「ああ、なるほど。確かにそうなるかもしれませんね。この21時の段階で、台風12号は975ヘクトパスカルなのですが、980ヘクトパスカルの等圧線が太く書いてあって、その中に975の線がやや不明確な感じでありますね。たぶん、これを朝日新聞の方で、トレースしたら、たまたま顔のように見えたんでしょう」ということでした。これで、ほぼ納得できました。全く仕事と関係のない好奇心でしたが、納得のいく回答にたどり着けてなんかすっきりしました。(「先生、暇ですね」という声が聞こえてきそうです。暇なわけじゃないんだけど……。)

24号(2000.8.19)インターネット・ゼミ?

〔下記の文章は、関西大学教育後援会が発行している『葦』(平成12年8月号)に掲載されたものです。ゼミ生諸君には今更目新しさもない文章ですが、目に触れる機会もあまりないでしょうから、掲載しておきます。〕

 昨年の3月から「片桐ゼミのホームページ」(http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~katagiri/)を開設した。4月からイギリスへ1年間在外研究に出かけることになっていたので、ホームページがあれば、遠く離れていて会うことが容易ではないゼミの卒業生たちに、イギリスから情報を発信できるだろうと思ったのがきっかけだった。ホームページを持った効果は予想以上だった。イギリスでの1年間の生活が充実したものとなったのは、ホームページのおかげと言っても過言ではないかもしれない。「ロンドン便り」などというコーナーを設けたので、ロンドンという都市とイギリスという社会に対する社会学的観察を行おうという意識が徹底された。結局1年間で、なんと190号まで書いた。(帰国してから書いた続きを含めたら、200号まで。)こんなに書き続けることができたのは、このホームページをまめにチェックして、感想や意見を寄せてくれたゼミ卒業生たちのおかげである。彼らの感想や意見は「ゼミ生の声」というコーナーで紹介している。(時々、プライベートな相談も届くが、もちろんそれは紹介していない。)

 ホームページを作って卒業生たちと電子メールでやりとりをしていると、まだゼミを続けているような気がしてくる。7〜8年前まではこんな形で卒業後もゼミ生たちとコミュニケーションができるとは想像もしていなかった。何か新しい教育方法を獲得したような気がしている。ただし、私のゼミの本当の自慢は、年に1回開催している「片桐ゼミの集い」である。現役ゼミ生と卒業生とが一同に集い、一夜を楽しむのだ。やはり顔を合わせて話すのが最高だなと思うひとときである。

23号(2000.8.1)テストの採点をしながら思うこと

 今、前期末試験の採点をしていますが、いろいろなことに気づきます。これは鋭いなという解答になかなか出会わないのはまあ仕方がないとしても、文章を書く基本が全くできていない解答がたくさんあります。まず、字が飛び跳ねている人がかなりいます。下手な字でも、文章を書き慣れている人は、字にまとまりがあるのですが、日頃あまり文章を書かないのか、字の大きさがばらばらで見た目の汚い文章になっています。それでもテストですから、こちらはきちんと読みますが、こういう飛び跳ねたような字で中身のある文章に出会うことはまずありませんね。では、まとまりのある字を書いている人は、大丈夫かと言えば、そんなことはありません。どうやったらこんな誤字を書けるのだろうと首を傾げたくなるような人、単なるテストの解答なのに、自分のことを「筆者」とか「著者」と書く人。実にいろいろな人がいます。こうした基本はクリアしている人なら、良い解答を書いているかというと、これもまだほとんどはだめですね。多いのは、考察ではなく、感想になっている人たちです。「私はこんなことではいけないと思います。」「私はそんなことは絶対しません。」「日本はおかしいと思う。」小学校以来、文章を書かされると言うと、そのほとんどが感想文だった悪影響でしょうか。考察と言えば、因果関係を考察することだというのは、今の学生にとっては常識ではないことはわかっているので、教えたつもりだったのですが……。

22号(2000.7.28)「日本の未来は、世界が羨む」かな?

 「日本の未来は、世界が羨む」って、確か「モーニング娘。」の「Love Machine」という歌の中の歌詞にありましたよね。確かその後は、「あんたも、あたしも」とか「みんなも、社長さんも」"Dance, Dancing all over a night"でしたよね。「桃の天然水」娘も「ヒュー、ヒュー」言いながら踊っているし、郷ひろみのバックでも"Go,Go,Go,Go!"と叫びながら、女の子が踊っています。こういう映像を見ながら、みんな何を思っているんでしょうね。ビルの中から「桃の天然水」娘を見ていたおじさんたちのように「若さがはじけてるねえ……」と思うのでしょうか?

 かつて90年代の初めに「ジュリアナ東京」というディスコ(今はクラブというのでしょうか)が流行っていた頃、日本人がラテン民族化してきているのではないかなんて話がありましたが、21世紀を前にその風潮は一段と強まっているような気がします。踊り、歌うのが何より好きで、肌の露出度は高く、SEXにはおおらか。こんなイメージを「ラテン民族化」と言ってしまっていいのかなとも思いますが、いずれにしろ、表出的快楽を楽しむという意味です。こうした快楽に身をゆだねている人は、知的な内面的なことは全く楽しみにならないんでしょうね。知的なことなんて楽しくもなんともないなんて思う人々が支える社会って、どんな社会なんでしょうね?想像したくもありませんが、少なくとも世界は羨まないと思います。

21号(2000.6.30)「探偵ナイトスクープ」ももう終わりにした方がいい

 今日の「探偵ナイトスクープ」を見ていて、猛烈に腹が立ちました。あんなどうしようもない企画を垂れ流すくらいなら、もう「探偵ナイトスクープ」は放送終了にすべきです。上岡竜太郎がやめてから、番組の水準が急速に落ちてきているなあとずっと思っていたのですが、今日の3本目の企画はひどすぎました。くだらない企画はこれまでにも多数ありましたが、見ていてこんなに不快だったのは初めてでした。テレビ局に抗議の電話をしようかとも思いましたが、どうせ「お聞きしておきます」で終わりでしょう。それより、自分のHPに意見を載せた方がすっきりしそうなので、そうすることにしました。(きっと私と同じような気持ちになった人はたくさんいると思いますので、抗議の電話はかなりかかっていると思います。)

 そのどうしようもない企画のことは本当は紹介するのも腹立たしいですが、紹介しなくては見ていなかった人にはわからないでしょうから、嫌ですが、紹介します。4歳の息子が母親である自分と結婚したいと言っているので、ぜひ結婚させてくださいという28歳の女性の依頼に応えて、夫に離婚届の判を押させ、教会で結婚式をあげるという企画でした。依頼を聞いたときから、なんて馬鹿な依頼を取り上げるのだろう、でも「探偵ナイトスクープ」のことだから、最後はオチをつけて、ほのぼのした気分にさせてくれるのかもしれないと思って見ていたら、全く予想を裏切られ、依頼を聞いたときの不愉快さが見終わったときには、何十倍、何百倍にもなっていました。

 4歳ぐらいの男の子が「ママと結婚したい」なんて言うことは、そう珍しいことではありません。それだけ愛されているんだと母親が喜んでも一向に構いません。しかし、それは幼子の庇護者としての母親への信頼表現以外の何物でもないのに、たとえ娯楽番組の中とはいえ、子供の発言を字義通りに解釈し、真顔で受け止め、夫に無理に離婚届に判を押させる女性の感覚は許し難いものです。「冗談じゃないですかあ。そんなにまともに腹をたてるなんておかしいですよ」と言われそうですが、冗談でもやっていいことと悪いことがあります。こんな番組を垂れ流されたら、社会に悪影響を与えます。特に、私の不快感を頂点まで高めたのは、その女性の母親の発言です。冗談でやっている企画のはずなのに、「私はもともとこの結婚には反対だったから、離婚は本当に嬉しい!」、「こんなしゃきっとしない男は大嫌い!」、「こんな男に娘は任せられない!」と、男性に罵詈雑言を浴びせかけていました。それらの発言は演技で言っているのではなく、本音だということが、視聴者には十分伝わってしまいました。なんてひどい義母なんだと心底憎く思いました。こんな母親だから、こんな馬鹿な娘が育つんだと憤りは頂点に達しました。今日の学術講演会で、山田昌弘さんが「今は、娘が離婚して孫を連れて帰ってきてくれたら、親は大喜びする」とおっしゃっていましたが、まさにこの母親はそういう人間の一人でしょう。社会を腐敗させる存在です。

 番組は結局何のオチもつけず、この男性を最後まで救わないままで終わってしまいました。上岡竜太郎がいたら、絶対烈火のごとく怒っていただろうと確信します。こんな企画を垂れ流す、上岡竜太郎なしの「探偵ナイトスクープ」なんて、もう百害あって一利なしです。もう終了させてもらいたいと思っています。

20号(2000.6.24)良きフォロワーから失敗を恐れぬリーダーへ

 巷で頻発する少年・少女たちの事件を聞きながら、「今時の若者は、どうしようもない」と嘆く人が多くいます。私もある面では、そうした意見に同調するところがありますが、現実に私の周りにいる大学生たちはそんなに露骨な反社会的な人間ではありません。どちらかといえば、決められたことはきちんと守るし、反抗的ではないし、いい子たちが多いように思います。かつて大学生の意識調査をして、「新人類」と呼ばれる人たちの主要な価値観を「個同保楽主義」(個人主義的でありながら、同調性が高く、現状が大きく変わってほしくないという保守的志向を持ち、楽に楽しく生きて生きたい)と名付け、世間で言われているほど、組織に適応できない人間ではなく、むしろ良きフォロワーになりうる存在だと指摘したことがあります(片桐新自「若者のコミュニケーションと価値観」『関西大学社会学部紀要』第25巻第2号,95-131頁,1993年)。この認識は大学生たちを見る限り、今も変える必要がないと思っています。たぶん、これは「集団主義」と呼ばれる日本の伝統的身の処し方と密接な関わりがあると思います。波風を立てないようにしながら、存在が埋没してしまわない程度に自分の存在に気づいてもらう。これが老若男女に受け入れられる日本人の生き方なのでしょう。(最近の事件は、いい子で来すぎた子が、自分の存在が埋没しているような意識に捕らわれ、引き起こした事件という説明が可能かもしれません。)

 でも、ふと疑問が湧きます。全員がフォロワーを目指したら、誰が集団を、そしてこの社会を引っぱっていくのでしょうか。きっとどこかにリーダーとか政治家とかになりたい人がいるだろうから、その人たちに任せておけばいいと思っているのでしょうか。そうかもしれませんね。本気で信頼もしていないけれど、代わりに自分がやろうなんて思いもしないから、結局「政治家なんてろくな奴はいない」とぶつぶつ言いながらも、全権委任をしてしまっているわけです。政治なんて遠すぎる実感の湧かない話をしていても、若者たちの心の琴線に触れることはできないでしょうから、話をもっと身近な集団に変えましょう。(本当は、大学生というのは、社会のエリートで、社会のことを考えなければならない存在のはずだったのですが……。)ゼミという小集団でも、リーダーが必要です。大多数の学生たちは、みんな何か楽しいこと、充実感をもてることをやりたいなと思っています。でも、自分が音頭をとって、みんなを引っぱっていこうという気概のあるリーダーがなかなか現れません。自分が言い出してみんながついてこなかったらどうしようという不安が先に立つのでしょう。たった20人程度のゼミ仲間ですら率いるのは大変な仕事のようです。失敗したらどうしよう。浮き上がるのは嫌だ。ずうずうしい女と思われたくない。動き出すのを止める理由などいくつも容易に浮かんでくるでしょう。でも、そうやってみんなが「誰かやってくれないかな」とフォロワー気分になってしまったら、何もおもしろいことは起きません。いわゆる「フリーライダー問題」(みんなを率いる「しんどさ」という費用を払わず、参加する「楽しみ」という利益だけを享受したい「ただのり者」ばかりになると、楽しいことなんか絶対に生じないというジレンマ問題)が出現するわけです。

 確かに社会や集団には良きフォロワーが必要です。しかし、失敗を恐れないリーダーもいないと集団は動きません。「水割り大学生」とか「マス(大衆)化した大学生」ということが言われて久しいですが、再度、大学生にエリートとしての自覚と、それにふさわしい行動を取りうる人間に育て上げる教育も必要ではないかと思っています。もちろん、50%近くもの人が大学に行く時代です。全員をエリートにすることはできません。しかし、私が見る限り、今は学生たちの方が自分で勝手に自分の可能性を低く見積もって、楽なフォロワーになる道を安易に選びすぎているように思えてなりません。自分を鍛えて、エリートとしての道――社会(自分が属する集団)のリーダーとしての道――を歩もうという気概を最初から捨て去っているような気がします。誰しも可能性は持っているのです。恐がらずにチャレンジしてみませんか。なしえた時の充実感は、ただのフォロワーでは味わえないものですよ。社会のエリートとしての自覚を身につける第1歩は、ゼミや自分の所属している小集団を率いることから始めてみてください。

19号(2000.6.5)日本は国を開いた方がいい

 日本でも80年代後半から、外国人労働者を受け入れるべきかどうかという議論が何度もなされ、研修生制度などで少しずつ門戸が広がってきましたが、まだ日本国籍をかつて持っていた――あるいは今も持っている――親戚とがいないと、「単純労働者」としては入国できないことになっています。安易に国を開くと、お隣の中国をはじめ、余剰労働力をたくさん抱えた国々から人々が膨大な数流入するのは見えており、その結果として日本の労働者の労働環境が悪化し、治安も悪くなり、さらには日本文化のアイデンティティも崩れてしまうのではないかといった議論もあります。

 私も数年前までは、「開国慎重派」だったのですが、最近考え方を変えつつあります。日本が海外の労働者に国を開いたら、そんなに悪いことが起こるのでしょうか?「労働環境が悪化する?」でも、若い人たちは働きたがっていないじゃないですか?現場作業の多い中小企業や介護・看護の仕事など多くの肉体的にしんどい仕事領域で慢性的に人手不足になっているのに、一方では失業率がどんどん上がっているんですよ。奇妙な現象じゃないでしょうか?もちろん、中年のリストラ失業者は本当に大変でしょうが、若い人の無職なんてほとんど自分の趣味でやっているんじゃないでしょうか?そんな人たちの労働環境を守ってやる必要などないように思います。

 「治安も悪化する?」もしも日本に来た外国人が職を得られず、金に困って何らかの事件を起こすことがあるとしても、それは長期的に見たら改善される余地は大いにある理解可能な犯罪と言えます。日本人自身だって戦後食べる物に困っていたときは、あちこちにスリやかっぱらいがいたのです。生活が向上すれば、そうした犯罪は犯さなくなります。それよりはるかに怖いのが、最近日本人が起こしている犯罪の方でしょう。お金に困っているわけではない。ちょっと注意されたから、自分の存在を確認したいから、死について知りたいから、自殺に自分を追い込むために、遊ぶ金が欲しいから、人を殺します。日本人だけなら、治安がいいなんて今や誰が言えるのでしょうか?

 「日本文化のアイデンティティが崩れる?」じゃあ、このままで行ったら日本文化はちゃんと継承されていきますか?能や歌舞伎、茶道や華道とまで行かなくても、かつて多くの人がなしえた短歌や俳句を詠むことができる日本人がどれほどいるのでしょうか?季語を知っていますか?筆を使えますか?敬語は?漢字は?日本文学をどのくらい読んだことがありますか?日本の歴史を知っていますか?関心がありますか?もうこのままで行っても、2030年も経ったらすっかり日本文化のアイデンティティなんて崩れ去ってしまうでしょう。ジャパニーズ・ポップスを歌う等質な顔をした女性歌手たちと、派手な化粧をしたジャパニーズ・ロックを歌う男性歌手たちが現在の日本の「文化」を形作っているのです。イスラム文化が入ってきても、ヒンズー文化が入ってきても、構いやしないじゃないですか。むしろ、そうした異文化が身近に登場することによって、日本の文化とは何なのか、何を守っていかなければならないのかに、若い人も気づくようになるのではないでしょうか。

 さて、勢いだけで書いて終わりにしたのでは、現実性が全くなく、十分な論考とは言えないでしょう。何の制限条件をつけずに外国人労働者に国を開くことは、無理があります。この国を愛する者としては、やはり優れた人に来てもらって、この社会の一員となってもらいたいと思います。そのためには、次のような手だてを打つといいと思います。まず第1に、「日本語TOEFL」のような公的試験を作って一定以上の日本語能力を備えたもののみに国を開くこととします。(できることなら、日本史と日本社会に関する一般常識テストも行い、その能力も問うのもいいと思います。)次に、入国に当たっては、日本での所属が明確になるように、受け入れ先企業からの書類も提出させるようにしたらいいでしょう。これだけの条件がクリアされるならば、どの仕事にでも外国人がついたって構いはしないと思います。現実的には、日本の若者がつきたがらない仕事をやっている経営者が積極的に外国人労働者の導入を図るでしょうから、いわゆる「3K職」労働に外国人がつくことになり、様々な職業差別やら外国人差別やらが生まれることになると思います。しかし、短期的に生じるそういうコストを恐れて、何もせずに済ませて良い時代ではもうないと思います。思い切って国を開くべきです。長期的に見たら、努力する外国人家族の地位は向上し、また、社会の健全化にも寄与すると思われます。物づくりをするところに後継者が育つようになり、少子化問題も解決し、年金問題すら解決するかもしれません。行き過ぎた個人主義が是正され、ラモスやロペスのように日本を愛する新しい日本人がたくさん生まれてくることが期待されます。「日本民族は実質的な単一民族である」と主張する人もいますが、もとはと言えば北や南から流れ着いた民族の寄せ集め、混淆集団が日本民族の原型なのですから、「日本民族」などという曖昧なものにこだわりすぎることはないと思います。むしろこだわるべきだとしたら、国籍の方でしょう。ラモスやロペスが日本人だと言えるのは、一にかかって、日本国籍を取得したからでしょう。国を開いた後、やってくる外国人が日本に永住したい日本国籍を取りたいということであれば、取りやすいようにしてあげればいいだろうと思います。カタカナ名字も認めればいいし、日本で生まれで3年以上日本に住んでいたら、親の国籍に関わらず、日本国籍を与えたらいいのではないかと思っています。

18号(2000.5.12)若いことは価値のあることなのだろうか?

 「若い人は将来があるからいけないと思った」と言って、60歳代の女性を殺した17歳がいます。なんと傲慢な発言でしょう。「若い人は将来があるから……」という言葉は、確かによく聞く言葉です。しかし、この言葉を発してよいのは、若い人以外です。決して17歳の若者が発してはならない言葉です。そもそも、60歳代の女性には「将来」がないと言うのでしょうか。冗談じゃないと怒りに身が震える気分です。来年は初めての海外旅行に行ってみようかとか、再来年には孫のかわいい小学生姿が見られるわねと楽しみにしていたかもしれません。生きている限り、誰にでも「将来」はあるのです。若い人だけに「将来」があるわけではありません。

 はっきり言って、日本は「若者天国」すぎます。「若いことに価値がある」と多くの人が信じています。年配者を「おやじ」「おばん」と侮蔑的な名称で呼ぶ若者は少なくありません。女性たちは30歳を過ぎた頃から年齢を隠したり、実年齢より若く言ったりします。男性はお酒を飲む場所で若い女性が接待してくれるというだけで、高い値段を払うことに何の疑問も感じていません。「女子高生」というだけで、価値があると思っている輩がたくさんいます。そして、65歳を過ぎた頃から、みんな口を揃えたように「もう年だから」と引き気味になります。

 若さの価値って何ですか?女性なら、肌がきれいだとかスタイルがいいと言うのでしょうか。でも、そんな外見的なことが、どれほど価値のあることなのでしょうか。今そう思っている人たちは、容色が衰えたらもう終わりなのですか?「お肌の曲がり角」は25歳なんでしょ?ということは、残りの50年間ぐらいの人生は、ひたすら価値を落としていく過程なのですか。男性なら、体力があると言うのかもしれませんね。確かに筋力は若い人の方があるでしょう。でも、その筋力をつらい厳しい力仕事に使おうとしていますか。みんな「3K職」は嫌だと言って、楽な方に逃げているじゃないですか。大体、本当の体力って持続力じゃないでしょうか。持続力は若い人よりも年配者の方があるような気がします。

 私は、若いことそれ自体に価値などないと考えています。人間は、男も女も年齢とともに経験と知識を増し、魅力を増していくのです。若い人より、経験を経てきた高齢者の方がはるかに価値があるのです。私は、20歳の女性が接待してくれるお店と70歳の女性――男性でも構いませんが――が接待してくれる店があったら、後者の店に行きたいと思います。20歳で興味深い話を聞かせてくれる人なんてほとんどいません。話をしようと思ったら、こちらが20歳の女性に合わせてあげなければなりません。どっちが接待しているのかわからなくなります。でも、70歳なら、その人が生きてきた人生の話を聞くだけで、実におもしろそうじゃないですか。

 日本は価値観を変える必要があります。若いだけなんてなんの価値もないのだと。人は知識と経験を増して成熟し、魅力的になっていくのだと。18歳より20歳の方が、20歳より30歳の方が、30歳より40歳の方が男も女も価値があると思われるようになっていなければならないのです。80歳を過ぎても笑顔で毎日を送っている方がいれば、もうそのことだけで十分尊敬に値すると思います。

17号(2000.4.23)近い将来、シングル・マザーを後押しするのは……

 少子化対策の一環として、その言葉を使わないまでも、中教審が実質的に「シングル・マザー」を認めたと少し話題になっていましたが、いろいろ考えていたら、近い将来シングル・マザーを後押しする存在が見えてきました。それは、孫を欲しがる年齢になった人々、特に女性たちではないかと思います。

 現在の少子化問題の最大の原因は、未結婚率の増大にあります。そして、結婚せずとも快適に暮らせる状況を提供してくれているのが、両親です。親元に居続けるこうした独身者を「パラサイト・シングル」(寄生独身者)と山田昌弘氏が巧みにネーミングしています。今はまだ親たちは、「なんとか結婚してくれないか」と思っていますが、シングル・マザーが社会的に認められていくようになれば、必ず「結婚はしなくてもいいから、子どもだけは作っておくれ」と言うようになるでしょう。そのうち、本音で言えば、「孫――家と墓を相続してくれる愛情の対象となる存在――は作っても、結婚はしない方がいいよ――異物である婿は要らない――」になるでしょう。ただし、もちろんこれが可能なのは娘を持つ親だけです。息子しか持たなければ、やはりなんとか結婚してもらうしかありません。しばらく前から、子どもを一人だけ持つなら、将来の話し相手、介護してくれる存在になる可能性の高い娘がいいと答える母親たちが圧倒的に多くなってきていましたが、シングル・マザーが社会的に認知されてくると、この傾向がさらに強まるのではないかと思います。怖ろしい予測ですが、そのうち子どもを生めない男は、雄鶏や種馬、肉牛並の価値しかない存在になってしまうかもしれません。

 現在「パラサイト・シングル」状態にある20歳代後半の女性が、この「つらつら通信」を読んでも今は違和感のみを感じることでしょう。「私は結婚したいし、母だってそう思っている」と。でも、社会の変化は早いものです。20年前には、「できちゃった結婚」なんて言葉はなく、結婚前に妊娠がわかったら、親は怒り、おろせと言い、そうできない場合は必死で隠したものでした。それが今や結婚前に妊娠しようと、結婚さえすれば、親も堂々と親戚にも言えるというところまで、意識は変わりました。今から20年後、いや10年後に、「うちの孫は、シングル(マザー)ベビーなのよ」と笑って話している60歳代があちこちに生まれているような気がします。パートナー探しをあきらめ、シングルでもいいから子どもだけは欲しいと女性が真剣に思うようになるのは、30歳代後半あたりからでしょう。もしかすると、これを読んでいるあなたが10年後に「シングル・マザー」になっているかも……。

16号(2000.4.23)頭のギア・心のギア

 比喩的な表現ですが、頭や心にもギアがあるような気がしませんか?よくだらけていると、「気合いを入れなさい」とか「集中しなさい」とか言われるでしょ?あれって頭のギアを入れ替えなさいと言われている感じだと思いませんか?私も、授業に行く前に気持ちを高めていくようにしていますが、あれも頭のギアを切り替えているようなものだと思います。疲れた頭で運転をしているときに、高速道路に進入した途端、頭がはっきりしたことが何度もあります。高速道路ですから、集中していなければ命に関わります。無意識のうちに集中力を高めるように脳が指令を出したのでしょう。

 「心のギア」はあえて言えば、「情と理」の切り替えでしょうか。と言っても、片方を立てたら片方が消えるというものではないと思いますが、「情」を熱くすべき時と、「理」を前面に押し出した方が良いときと使い分ける必要があるだろうと思います。議論は「理」でやりましょう。そして、「理」を出すときは、「頭のギア」を適当なレベルに切り替える必要があります。4段階くらいの調整が効くといいと思います。友達と話すときは第1段階、第2段階のギアで対応がつくでしょうが、私と話す時は、第3段階、第4段階ぐらいのギアで向かってきて下さい。議論は理詰めで行きましょう。

 「情」の方は、どうでしょうか?一見すると、「情」の方はみんな簡単にギアを入れているようですが、どうもバック・ギアばかり入りやすくなっているような気もします。「むかついた」「キレた」「頭に来た」「腹が立つ」、こんな言葉ばかりよく聞きます。「感動した」「嬉しかった」「楽しかった」「ありがたかった」、こういう素敵な言葉を、面と向かって相手――例えばご両親――にちゃんと言えますか?「情」は何も「喜怒哀楽」だけではないですよね。「おもしろい」「興味深い」「不思議だ」「よくわからない」いろんな感情があります。講義を聞いている時でも、みんなもっと「情」を顔に表していいんですよ。表情が豊かな人の方が魅力的です。ゼミならなおさらです。感じたことを表情に出し、言葉に出してみたらいいんです。議論は「理」ですべきものですが、若い学生諸君なら、自信を持って「理」を立てられないときには、「情」だけで語りだしても許されるのです。(いい年をした大学教員が「情」でしか物を語れないと、馬鹿にされますが……。)

 実を言えば、「頭のギア」も「心のギア」もすべて脳の支配を受けています。脳をどれだけ使えるかが人生を生きていく上でのポイントです。でも、大脳皮質ばかり使って妄想に走ったりせず、延髄も中脳も間脳も小脳もしっかり使って生きて欲しいと思います。

15号(2000.3.18)若乃花と「癒し系」

 「おにいちゃん」の愛称で親しまれた横綱若乃花が引退を発表したようですね。彼は、私が12年前にアメリカへ半年の在外研究に出発した3月春場所に相撲界に入り、今度は私が1年間のイギリスでの在外研究を終えて日本に帰らなければならないこの3月春場所で引退することになったわけです。単なる偶然ですが、なんだか感慨深いものがあります。まだ29歳ぐらいですよね。相撲取りとしては体が小さいので仕方がないかなとも思う反面、ちょっと早すぎる引退だなという印象も持ちました。ここ数年の二子山部屋をめぐるゴタゴタや兄弟、夫婦の諍いが、彼の引退を早めたような気がします。

 子供の頃からの相撲ファンの私――初代若乃花の相撲も見たことがあります――は、この数年の若乃花の周りで生じた出来事をほぼ把握しているつもりですが、あの状況下でもっとも立派な態度を示し続けたのは、若乃花だったと思っています。弟の貴の花から絶縁宣言をされ、まともに料理を作ってもくれない妻に悩まされながらも、彼らのことを一度も悪くは言わず、よく耐えていたと思います。もちろん、博多に愛人がいるらしいという噂も知っていますが、たとえそれが事実だとしても、美恵子さんのような妻なら仕方がないと、私は同情的です。男も女も同じでしょうが、よい仕事をするためには、自分のバックボーンとなっている家庭が安定していないといけません。家庭が安定せず、精神的な不安があるときに、外で良い仕事ができるとは思えません。その意味で、若乃花は本当につらかっただろうなと思います。

 しかし、弟のことはともかく、愚妻を選んだ責任は若乃花自身にあるのです。たぶん、このことは若乃花自身が一番よくわかっていて、それゆえ外に向かって妻の愚痴を言わないように気をつけているのでしょう。若乃花――貴の花も、と言っていいと思いますが――は、母親以外は女性がいないという相撲部屋の中で男兄弟として育ち、若いときからマスコミに注目されることにより、女性に関しては純粋培養されてしまいました。結果として、女性に対する目が養われず、見た目がかわいく「ぶりっ子」をする女性を魅力的と思うような好みになってしまったわけです。貴の花が宮沢りえや河野景子を選び、若乃花が美恵子さんを選んだのは、偶然ではなかったのです。見た目のかわいさと家庭を切り回す能力との間には、何の因果連関もありません。中には、見た目もかわいく家事もしっかりできるという女性もいるでしょうが、そうでない人がたくさんいたとしても全く不思議ではありません。むしろ、「ぶりっ子」が身についてしまった女性ほど、しっかりしていないことが長所になると無意識のうちに思い込んでいますので、家庭の切り盛りがうまくできない可能性の方が高いと言えるのではないでしょうか。それでも、誰も助けてくれなければ、自分が頑張らなければいけないんだということを徐々に学習して変化していくはずなのですが、最近は困ったことに実家の母親がすぐに助けに駆けつけます。こうして、結婚して子供もいるのに、いつまでも「お嬢さん気分」の抜けない困った主婦が誕生するわけです。

 こうした状況は何も若貴兄弟に限られたことではありません。相撲部屋という特殊な環境で育たなくとも、男兄弟ばかりでなくとも、男性は最初は大体誰でも、見た目のかわいい「ぶりっ子」が好きなものです。何度か痛い目を経験して、外見より中身で選ばなければいけないということに気づくようになるのです。ところが、最近は恋愛経験が少ない人が多くなって、こうした痛い目を見ずに結婚適齢期まで至ってしまうケースが増えて来ています。この傾向は、まっとうに良い高校、良い大学と進んできた人に、より顕著です。それは言ってみれば、勉強の妨げになるようなものは極力入れないようにと、母親が純粋培養器を作ってきたということです。こんな未経験な男性が、見合いでもして、見た目のかわいい「ぶりっ子」に出会ったら、即結婚しようと言うことになり、次にやってくるのは、「成田離婚」か「若乃花地獄」です。

 最近芸能界では「癒し系」と言われる女性タレントが人気だというのも、実はこうした状況を反映しているのだと私は見ています。一見頼りなさげに見える「ぶりっ子系」の怖さが喧伝され、かといって「男と対等系」はしんどそうと思う男たちが見いだしたのが、「癒し系」であったわけです。まるで、母親のように家庭で自分を癒してくれる、そんな女性が結婚相手にいいと思うのは、この状況から言えば必然だったと言えます。でも、女性は演技が上手です。かつての「ぶりっ子」は「かわいい子ぶりっ子」でしたが、当然「癒し系」が人気となれば、「癒し系ぶりっ子」が出て来るに違いありません。(たぶんもう出ているでしょう。)そして、「癒し系だと思って結婚したのに、ちっとも癒されない」とぶつくさ言う男たちが出て来ることでしょう。

 まあ考えてみれば、家庭で癒されたいと男たちが思うようになったのは、別に最近のことではなく、昔からずっとそうだったと言えるわけです。「男は妻に母親的要素を求めている」というのは、以前からよく指摘されてきたことです。いずれ「癒し系」という言葉も下火になるでしょう。その次は、また「ぶりっ子系」が復活するかもしれません。恋愛と結婚に関しては、人間はあまり進歩をしていないし、これからもしないのではないかという気がします。なぜなら、こればかりはいくら本から知識を得てみてもだめで、自分で経験して学ぶからしかないからです。私の経験から言えば、やはり結婚相手は、互いに思いやりの気持ちを持ち合える「対等系」が男も女もいいと思うのですが……。

14号(2000.2.23)柔らかな合理主義精神の必要性

 横山ノック氏の後に大阪府知事になった太田房江氏が大相撲春場所の土俵に上がるかどうか注目されていますが、私は大相撲協会がいつまでも古い慣習に従うのはもうやめるべきだろうと考えています。女性を土俵に上げないというのは、昔はよくあった「女性=出産や月経=血の穢れ」という考え方から来ているものです。今時こんな考え方を大きな声では言えないので、大相撲協会はひたすら抽象的に「ご理解いただきたい」と繰り返すだけです。しかし、大きな声で理由を言えないようなことをいつまでも続けようというのは無理があると思います。相撲は実に多くの慣習的儀礼を持っていますが、そのほとんどがもともとは何らかの意味を持っていたのでしょう。例えば、長い仕切は集中力を徐々に高めるため、塩を撒くのは怪我した際の消毒効果を狙ったもの、腕を広げ手のひらを返すのは、何も武器を持っていないことを示すためと説明されると、なるほどなあと思えるのも多くあります。しかし、女性に対する偏見に基づいた伝統はもう変えなければならないでしょう。私は別にフェミニストではありませんが、大多数の人がおかしいなと思うことは変えるべきだ思っています。誰もあまり大きな声では――いや小さな声でも――言いませんが、皇位継承順位から女性を外すのももうそろそろ変えるべきではないでしょうか。女性を外す合理的根拠などどこにもないと思います。

 相撲の塩撒きのように伝統的行為の中にも合理的根拠があるものも中にはありますが、そうでないものがやはり多いでしょう。そうした伝統的行為を続けることに対する異議申し立てが生じたとき、どう判断すべきかと言えば、理にかなったものを採るしかないでしょう。柔道でも、国際大会で青い柔道着を導入する際に物議を醸しました。結局「白のみ」を主張した日本が敗れて、青も導入されたわけですが、もう今や定着しつつあるのではないでしょうか。私はこの議論が喧しかった時から、「別に青を導入してもいいんじゃないの」と思っていました。白を着ようと青を着ようと柔道の実力には関係はないはずだとというのがその根拠でした。人によっては「白は穢れなき色で純粋な精神を表す」などと主張していましたが、それは色に対する単なるイメージにすぎないのであって、青い柔道着を拒否できる根拠にはとうていなっていないと思いました。青と白の闘いにした方が見ている人たちにわかりやすくひいては柔道の国際的普及にもつながるという主張の方が、この映像時代においては理にかなっていたと言えるでしょう。

 「理にかなう=合理的」という言葉を簡単に使ってきましたが、何が合理的かの判断は実際には簡単ではありません。マックス・ウェーバーの概念で言えば「目的合理的」なものが、一般に言われる「理」にかなったものでしょうが、「理」とは何なんでしょうね。突き詰めていくと、「客観性」に関する議論とダブってくるように思います(「社会学を考える 第3章 社会学における客観的認識」を参照)。すべての人が全く異論のない「理」なんてものは厳密にはないのだろうと思います。しかし、大多数の人が「理にかなっている」と思えることはあると思います。確かに大衆はマス・メディアに操作されやすいですが、長期的に見た場合、そのマス・メディアも大衆に操作されている(迎合している)とも言えなくありませんから、結局社会が何かを判断しなければならない場合は、大衆の意識がどのへんにあるかを捉え、それに合わせていくしかないのだろうと思います。大衆は情動的で非合理的な存在だという認識を私は採りません。おそらく、そうしたイメージの元となっているのはヒットラーのナチスによって操作されたと言われる1930年代のドイツ国民だと思いますが、第1次大戦でプライドをずたずたにされたあの時のドイツ国民にしてみれば、ヒットラーのナチスに政権を取らせたのは、合理的選択の結果だったと考えるべきだと思います。

 こうした観点から見た場合、例えば「日の丸・君が代」を「国旗・国歌」に認めるということも、理にかなったことだと思います。日本国民の大多数はとうの昔からもう「日の丸・君が代」を「国旗・国歌」だと思っていたはずです。国内だけではなく、国外でもそう思われてきたはずです。いつも右翼的な発言が自民党の政治家などからなされるたびにクレームをつける中国政府や韓国政府も、「日の丸・君が代」に関しては何も抗議してきていません。たぶん外国の人は、「日の丸・君が代」は今まで日本の正式の「国旗・国歌」ではなかったと聞いたら不思議な顔をするでしょう。「じゃあ、なんでオリンピックやワールドカップで使用していたんだ?」と。過去の経緯や歌の歌詞などクレームをつけようと思えばいくらでもつけられるのでしょうが、国民の意識の中に定着しているということ以上に強力な判断理由はないだろうと思います。「日の丸・君が代」に反対し続ける行為というのも、私には一種の「伝統的行為」に見えます。

 他にも合理的に考えたらもう直した方がいいのではないかと思うことは、たくさんあります。ただ注意しなければならないことは、「合理的」と言う言葉で少数派の意見が完全に無視されてはならないことです。社会は結局のところ、「最大多数の最大幸福」を目標にするしかないとは思いますが、その目標のために少数派が不幸のどん底に落ちてはいけないのです。競争をベースとした自由主義社会が今後も生き延びていくためには、少数派にもそれなりの幸福を与えられるように配慮することが必要です。強すぎる合理主義ではなく、弱さと情にも理解を示しうる「柔らかな合理主義」が社会をリードする精神となるべきだと思っています。

13号(2000.1.17)(笑)って変じゃないですか?

 最近しばしば見かける若い人の文章表現で私が非常に違和感を覚えるのが、自分の文章に(笑)という表記をつけるものです。これは、もともとはインタビューや座談会の雰囲気を文章で記録するために発明され使われてきたものだと思うのですが、最近では最初から文章として書かれたものに、書いた本人が(笑)という表記をしばしば使っています。見かけるたびに、私の笑顔が凍ります。それを書いた人は、本当にその文章を書いた時に、笑っていたのでしょうか?だとしたら、ちょっと気持ちが悪いですね。普通おもしろい文章を書いているときも、書いている本人は笑っていないと思うのですが……。どちらかというと、読んでいるこちらが「笑え!」と強制されているようで、あまりいい感じがしないのですが……。

 確かに言語は生き物のようなもので、時の流れとともに徐々に変化していくものです。それゆえ、「ら抜き言葉」が定着していくのも、「一所懸命」が「一生懸命」になってしまうのも、仕方のないことだと思っています。でも、(笑)はおかしいと思います。これは、あくまでも会話の文章化でのみ使われるものであって、記述的文章では使われるべきではないでしょう。何でも変化を肯定すればいいというものでもないでしょう。押しとどめるべきものは押しとどめておかないといけないと思います。ついでに書いておけば、「価値観」が「価値感」に置き換えられることにも私は断固抵抗しようと思っています。本来思考の結果としてあるべき「価値観」が、無思考者たちによって好悪の感情とイコールにされてしまわないように、「価値感」は間違いと言い続けようと思っています。

12号(1999.12.27)北野たけしの映画を斬る

 この12月にロンドンで、北野たけし監督作品がすべて上映されていました。「菊次郎の夏」だけは見損なったのですが、それ以外の作品はすべて見ました。日本では1作も見たことがなく、今回が初めてで一気にほとんど全部を見てしまったことになります。カンヌ映画祭のグランプリを受賞し、今や世界に通用する日本の映画監督と言えば北野たけしだという声もあるぐらいですから、北野映画についての私の感想を書きとめておきたいと思います。

 まず結論から言えば、悪くはないがそんなに素晴らしい映画とは思えないというのが、私の感想です。映画監督としてはバリエーションが少なすぎると思います。確かに、「その男、凶暴につき」も「ソナチネ」も「Hana-bi」も1本だけ見たら、なかなかよくできた映画だと思いますが、基本的なコンセプトが全部一緒です。元刑事か最初から暴力団かの違いはありますが、主役のたけしの性格設定はほとんど同じですし、脇役の設定の仕方もストーリー展開も暴力という味付けの仕方も同じです。短期間に続けざまに見たせいもあって、最後に見た「Hana-bi」などは、「またか」とため息が出てしまいました。

 たけしが主役ではない他の4本もあまり変わりはありません。「みんな〜やってるか?」は、私の嫌いなビートたけしのギャグを映画にしたようなもので、批評するに値する映画とは思えません。「3−4X10月」と「キッズ・リターン」は、主人公が寡黙で、内に暴力性を秘めている点で、たけしのミニチュア・キャラクターです。「あの夏、いちばん静かな海。」は、唯一暴力性の薄い映画ですが、主人公が無口で最後は死んでしまうこと、ヒロインがハンディを持っていることなどで、「その男、凶暴につき」や「Hana-bi」と同コンセプトで作られています。この映画は、脇役が魅力的でないのも評価できないポイントです。

 7本見たうちで、しいてどれが一番良かったかと言えば、カンヌ映画祭のグランプリを受賞した「Hana-bi」より「ソナチネ」の方でしょう。最後の方のいつもの暴力的展開に進む前の、時間がゆったりと流れているような沖縄でのシーンがいいと思いました。この映画でのたけしが一番自然体だと思います。他の作品では、あまりにも押し黙りすぎていたり、しゃべりすぎていたりしていて、不自然です。ビートたけしという人は俳優としては魅力的な素材だというのはよくわかります。かつて大島渚が「戦場のメリークリスマス」でたけしを見事に使いきったように、たけしは誰か巧みな監督に使われるだけの方がよいのではないかと思います。

 それにしても、近年の日本映画で海外に出た作品と言えば、北野作品以外では、伊丹十三作品や「Shall we dance?」などですよね。もっと黒沢明のようにストーリーで唸らせるような作品が出てこないといけないと思います。

11号(1999.12.19)日本議会制度改革私案

 日本では、比例区の定数を減らすかどうかでゴタゴタしているようですが、そんなみみっちい改定ではなく、もっと思い切って日本の議会制度を変えませんか?(って、私は一体誰に語りかけているんだろう?)

 まず、衆議院は300議席とし、そのすべてを全国1区の比例代表制で決める。全国1区にすることで、地元のためだけに尽くそうとする「どぶ板議員」は当選できなくなる。投票は政党名を書く(あるいは○をつける)方式とする。こうすることによって、実質的な政策本位の選挙になる。また、白票投票を有効な票とみなし、白票分だけ当選議席数を減らすこととする。たとえば、白票が全体の10%あったら、議席数を10%(30議席)減らし、残りの議席を得票数に応じて配分する。このやり方を導入することによって、政党不信の意思をはっきりと示すことができるようになる。

 比例代表のみとなると、地域の問題を誰が国政に反映させるのかという意見が出てくるだろう。そこで、次のような改革も合わせて行う。それは、現行のような参議院を完全に廃止し、第2院は、地方行政を担当するものによる地方代表者会議のような性格のものとする。構成メンバーは都道府県知事、人口50万人以上の市長(東京23区の区長からの代表1人も含む)、各都道府県の人口20万人以上50万人未満の市長から代表者各1人、同じく各都道府県の人口20万人未満の市長から代表者各1人、それに各都道府県の町村長から代表各1人とする。この第2院は議決はしないけれど、地方の問題について徹底的に議論する場とする。第1院の議員である衆議院議員はこの第2院での議論を傍聴しなければならない。参議院で過半数を取っても実質的にはほとんどたいした意味を持ち得ない現行の2院制度は2つある意味がない。2つの議会を持つなら、その機能を明確に異なるものに設定することが必要だろう。地域に足場を置いた責任ある立場の人たちが、地域の問題について話し合う方が、「どぶ板議員」が地域の問題を取り上げるより、ふさわしいのは明らかだろう。また、こういう議会を作ることによって、自治体ごとの首長選挙に対する関心も高くなるだろう。

 投票制度も変えなければならないだろう。上で述べた全国1区の比例投票、白票の有効票化以外に、選挙権は16歳から行使できるようにすることも提案したい。こうすることによって、高校生のうちから選挙権を行使することができるようになる。高校時代は多くの人が住民票のあるところに住んでいるので、物理的理由で投票にいけないということがなくなる。逆に現行の20歳だとかなり多くの人が大学生や社会人として、住民票のあるところから離れており、物理的理由で棄権することが多くなる。最初の選挙を棄権すると、投票習慣が身に付きにくい。16歳は幼すぎる感じもするが、そのぐらいの年齢から社会がどうあるべきか考える訓練をさせた方がいい。また、外国人についても6カ月以上居住し住民税を納めているものには、地方選挙の投票権を与える。

 こんな改革ができたら、日本の政治風土もかなり変わるのではないでしょうか?

10号(1999.12.17)「無思考主義」の蔓延

 横山ノック大阪府知事が大分厳しい立場に追い込まれてきたようですね。ずっとマス・メディアで話題になっていたのは知っていたのですが、横山ノックという人に全く魅力を感じていなかったので、特段取り上げる気が起こりませんでした。せいぜい早くやめればいいのにぐらいにしか思っていませんでした。今でもその考えに変わりはありません。大体、彼は知事を辞めた方が芸人としての仕事を多くできるようになり収入が増えるので、心のどこかでは辞めるタイミングを計っていると思いますよ。「セクハラで知事を辞任」というのも、芸人に戻ったらネタにしますよ、きっと。日本のマスコミは政治家の性的道義観に甘いですが、それが芸人となったら、道義観なんて全くないと言ってもいいのではないかと思います。本来なら、5年間ぐらい社会的に抹殺してもいいはずですが、知事を辞めさえすれば、それで一件落着という扱いになるのでしょう。

 そもそも私は4年前に初めて知事に当選したときから、横山ノックなどを知事に当選させる有権者がおかしいとずっと言い続けてきています。芸人だからいけないというのではありません。元芸人――あるいは今も芸人――がそのネームバリューを生かして政治家に転身しても構わないと思います。しかし、政治家になるには、こんな社会にしたいという政治理念をしっかり持たなければいけないはずです。横山ノックは参議院議員から数えれば、その政治経歴はかなり長い方です。しかし、彼に一体どのような政治理念があるのか、私は全く知りません。ほぼ同じ時期に出てきた同じタレント議員でも、青島幸男や石原慎太郎(今やタレント議員に含めたら怒られそうですが、元はと言えば、小説家で著名俳優の兄ということで出てきた人です)なら、その政治理念は大体わかります。しかし、ノックには何もないのではないでしょうか。最初に知事に当選した頃、学生たちにこのことを話すと、「でも、先生、どうせ誰がやっても同じじゃないですか。それだったら、天下り候補より、大阪らしいノックさんの方がいいですよ。そんなに悪いこともしなさそうだし」というような反論によく出会いました。たぶん、この考え方は、学生たちだけでなく、横山ノックに1票を投じた人たちが共通して抱いていたものでしょう。特にあの頃は、自社連立というかつての政治観では信じられないような内閣が存在していたときでしたので、政治理念なんて誰も信じられなかったのは無理もないと言えるでしょう。東京も大阪も一番無党派っぽい有名人が当選したということです。そういう心情に有権者がなったことはよく理解できることですが、そんな時でも、やはり何の政治理念もない人は当選させてはいけなかったのです。

 気になるのは、日本社会全体に「無思考主義」――社会に関する――が蔓延してきていることです。きちんと考えようとせず、雰囲気だけで行動してしまう人々が増えてきているような気がします。「考えたってしょうがない」とか「誰がやっても同じ」とかいった発言をよく聞きます。現代の多くの若者がこうした「無思考主義」にとらわれていることは、いろいろな人がいろいろな言葉で語っていますので、改めてここで指摘することもないでしょう。しかし、「無思考主義」的選択が横山ノックを当選させたとすれば、これに感染しているのは投票にあまり行かない若者だけでなく、中年以上の人々も含まれると考えざるをえないのです。そもそもこの「無思考主義」は、政治的安定と経済的な豊かさを当然なものとして享受して育った人に生まれやすいものですから、「高度経済成長」が軌道に乗り、「55年体制」が安定化した1960年以降あたりからしか記憶にない世代には蔓延しやすいものだったのです。

 その一番上の世代が40歳代前半という若い中年層の域まで来ています。1955年生まれの私などの世代がその走りなのでしょう。学園紛争をやったベビーブーマーたちがほぼ全員去った後に入れ替わるような形で大学に入ってきた世代です。私たちの世代は「しらけの世代」とか「三無主義」(無気力、無関心、無感動)などと言われたものです。確かに、少し上の人たちがやったことを思春期に入りかけの素直な気持ちで見ていた我々世代には、熱くなりすぎることの愚かさのようなものが焼き付けられてしまったという部分はあったように思います。熱くなりすぎないように心にブレーキをかけることが大事だと皆自然に思い、それが「しらけている」とか「三無主義だ」と見えたのでしょう。しかし、私たちの世代はまだ「熱くなるべきか、ならぬべきか」を考えていた世代でしたが、もう3年ほど下の世代になると、ベビーブーマーたちを全く意識しない「幸福な若者たち」が現れます。このように多少の違いはありますが、若いときに天下国家のことを考えずにきた世代の上限が40歳代前半あたりまで来ていることはほぼ間違いないでしょう。この層が現在の「無思考主義」の先頭に立っていると思われるのです。

 このことは社会にとっては非常にゆゆしき事態だと思います。若い時に考えなかったのはまだ仕方がないとしても、30歳代後半から40歳代という若き中年世代――社会の一番の推進力にならなければならない年齢層――に入っても、いまだ「無思考主義」にとらわれていてはまずいと思います。静かにですが確実に日本社会は衰退に向かっています。自分と家族と友人、恋人のことしか考えられない人間ばかりになったら、その社会は一体どうなるのでしょうか?若き中年は、「無思考主義」から脱却すべきです。「考えたってしょうがない」とか「誰がやっても同じ」なんてことはないはずです。鈍臭くてもいいから一所懸命考えて行動しようじゃありませんか。でないと、次の大阪府知事は西川きよしなんてことになってしまいます。(ちなみに、西川きよしは、横山ノックより大分ましです。彼には、福祉に対する関心があります。ただし、それだけでは府知事になるにふさわしい政治理念の持ち主だとはとうてい言えないと思います。彼が当選するとなると、どうせまた大阪らしいとか人柄が良さそうで当選することになります。もうそのパターンはやめましょう。)

第9号(1999.11.29)90年代最大の論客

 高度情報化時代ですので、日本の情報はイギリスにいても、結構入手できます。ジャニーズ事務所から、新グループ「嵐」というのが出たとか、またまた髭をはやした怪しげな宗教関係のおじさんが出てきたとか。そんな中で、社会学者として見過ごせないなあと思っているのが、「カリスマ美容師」をはじめとする「カリスマ」の大安売りです。マックス・ウェーバーが広めた社会学の重要概念が、安易な使われ方をして、イメージが変わって行くのが気になっています。来年度から社会学の講義で「カリスマ」という言葉を使ったら、学生さんたちは特定の「美容師さん」の顔を思い浮かべたりするのかと思うと、気分が滅入ります。

 「カリスマ」をこんなに軽いものにしてしまったのは誰だろうと考えてみました。もちろん直接の犯人はマス・メディアだと思いますが、マス・メディアにこの概念を使わせやすくしたのは、漫画家の小林よしのり氏ではないかという気がします。彼が、例の『ゴーマニズム宣言』の中で、意識的、無意識的に「カリスマ」を演じ、「カリスマ漫画家」になることで、この概念が90年代的広まり方をしたのではないかと思います。小林氏自身のカリスマ概念は、ウェーバー以来の用法と大きく異なってはいないのですが、「漫画家」が「カリスマ」になるということ自体が、マス・メディアにとってはパロディで、カリスマ概念が軽く使えることになったことの証拠と捉えられたのではないでしょうか。

 しかし、小林氏がカリスマかどうかは別として、日本の90年代という時代において、彼が与えた影響力は決して小さなものではないでしょう。「漫画」という一見シリアスではないメディアの性質をうまく利用して、従来タブーであったテーマに次々と切り込んでいった、その力量はきちんと評価されなければならないでしょう。差別問題から始まり、オウム問題、薬害エイズ問題――そこから派生して「運動論」――、そして最近の教科書問題――「戦争論」を含む――等になってくると、もう漫画という領域を越えて、大きな反響を呼んでいます。あえて、90年代最大の論客を一人あげろと言われたら、私は躊躇なく小林よしのり氏をあげたいと思います。その主張の中には、首肯しがたいものもありますが、これだけ多くの議論を巻き起こし、また社会的影響力を持った論客は他にはいないでしょう。世紀末日本を代表する論客が漫画家だったというのは、見事に日本社会の爛熟ぶりを語っているような気がします。

第8号(1999.10.21)「平成」の「二千円札」おじさん

 なんか西暦2000年を記念して「二千円札」が発行されるんだそうですね。反対論を書いている人もいましたが、まああっても悪くはないですよね。アメリカの20ドル紙幣や、イギリスの10ポンド紙幣がよく利用されていることを考えると、「二千円札」も結構使いでがあるでしょう。もちろん、アメリカやイギリスでは小切手が一般化しており、状況は少し違いますが。自販機を新しく作り直して行かなければいけなくなるでしょから、新たな国内需要を生み出します。経済効果はそれなりにあるのではないでしょうか。

 それにしても、小渕首相自身の発想かどうかはわかりませんが、「二千円札」発行ってなんか小渕首相に似合っていますね。2000年は、小渕首相にとってコンピュータの誤作動問題より、「二千円札」発行年として意識されているんでしょうね。「平成」に元号が変わった際の官房長官で、国民に初めて「平成」を知らしめた政治家だし、首相になってからは経済はちょっと上向くし、2000年という区切りの年を首相という立場で迎えられるし、「なんて俺はついている男なんだ」ときっと思っていますよ、彼は。自民党の総裁――すなわち総理大臣――に初めて選ばれた時には、国民も「ええっ、なんであんな人が?」と言っていたのに、今や内閣支持率も上がり、下手すると長期政権になるんじゃないかという様相を呈してきたようですね。やはり、日本の首相って、誰でも務まるんだなという思いを強くした人も多いのではないでしょうか。海外向けには、ちょっと格好良くないけど、国内向けには、小渕さんでもいいんじゃないのというムードが漂っていますね。

 リーダーたるものは、識見豊かで自らの考えを堂々と述べられるような人物でなければならないとよく言われますが、集団の大きさや形態によって必要とされるリーダーのタイプは異なってくるように思います。大きさが小さいほど、また官僚制化が進んでいないほど、リーダーの果たす役割は大きく、高い能力が要求されます。逆に、集団の大きさが大きく、官僚制化が進んでいるほど、リーダーの果たす役割は小さくなり、たいした能力は必要とされなくなります。そうした観点から見た場合、一国の首相などに大きな能力が要求されるような社会は不安定で、恐いような気がします。小渕さんで十分首相が務まるような日本であり続けてくれれば、日本は良い状態にあると言えるのでしょう。国会答弁も官僚が答えるのではなく、大臣や政務次官が答える形に変わっていくそうですが、まあそれをきっかけに政治家がちゃんと勉強するようになってくれるのはいいことですが、辞任した前防衛庁政務次官のように、政治家が自分の考え方を強硬に主張するようになると、ややこしいことにもなりそうです。官僚の能力を信じてそれを使っていくこともある程度必要でしょう。小渕さんのような下の意見にも耳を貸しそうな人が、結局日本では一番良いリーダーということになるのかもしれません。

第7号(1999.9.21)「小恋愛結婚」のすすめ

 ゼミ生諸君はよく知っていることですが、私は「恋愛と結婚は別物」という主張をし続けてきました。特に「大恋愛結婚」は、互いに理性を失っている状態で結婚することになるから危ないぞと言い続けてきました。でも、映画やドラマではみんな「大恋愛」をしているので、みんな夢をみてしまうんですよね。もちろん、できるならば独身の間にーー特に若いうちがおすすめですーー「大恋愛」は経験してみた方がいいと思います。(自分がどこまでのぼせ上がれるか知っておくのもいいことでしょう。)でも、そのまま結婚に持ち込まない方がいいと思います。「大恋愛」は必ずいつか冷めます。「ぼくは50年後も君を愛し続ける……」と武田鉄也が言ってましたがーーうーん、古いな。これが分かる人は何歳以上だろう?ーー、嘘です。そんなことはできません。もちろん、愛の形が、父と母という子育てパートナーとしての愛や、長年人生を共有した茶飲み友達の友情に近いものにと変わってよければ、続くこともあるでしょう。しかし、男と女として引き合う「大恋愛」が永遠に続くなんてことはまずないと言って過言ではないでしょう。

 さてそれではどんな結婚をしたらいいのかということですが、「大恋愛結婚」が良くないなら当然その対極にある「見合い結婚」じゃないのと言われそうですが、必ずしもそうはなりません。確かに「見合い結婚」は、冷静に相手を観察しようとする点では、「大恋愛結婚」より危なくないかもしれませんが、一般的に短期間のつき合いで結婚に至ってしまいますので、いくら頑張って観察してもなかなか相手のことを十分には把握できるものではありません。「大恋愛結婚」のリスクも、ほとんどの場合、「大恋愛結婚」が短期間で結婚に至ってしまうところから来ていることを考えるなら、「見合い結婚」にも同じようなリスクが伴うことがわかっていただけるでしょう。つまり、一般的には全く違うと思われているこのふたつのタイプの結婚には、重要な共通点があるわけです。

 「大恋愛結婚」もだめ、「見合い結婚」もだめとなったら、一体何がいいかと言えば、ここで私は「小恋愛結婚」というものをすすめたいと思います。「小恋愛結婚」って何ですかと首を傾げる人が多いでしょうね。私が造った造語です。(誰かがどこかで同じようなことを言っているかもしれませんが、私自身は知りません。もしも先に使っていた人がいたら、ごめんなさい。)「小恋愛」とは、自他共に認める特定の関係として1年以上つき合い――やはり1年は生活の中での重要なサイクルです。相手のことを理解するためには、春夏秋冬すべて過ごしてみないといけませんーー、相手に対する無用な感情の高ぶりは起きなくなり、にもかかわらずこれといったことをするわけでもないのに一緒にいるのが心地よいといった状態に入った男女関係と規定しておきたいと思います。(この規定が同性愛にも使えることは十分承知していますが……。)そうした「小恋愛」の状態で結婚に至れば、もっともリスクの少ない結婚ができるだろうと思います。ただ、この「小恋愛」の状態に入ると、「もうそろそろ結婚しようか」と決断するきっかけがなかなかつかめず、「小恋愛」関係が長期に渡るということがしばしば起きがちなのが、この「小恋愛」の難しいところです。

 まあ、以上のようにいろいろ好き勝手なことを書きましたが、リスクのない人生なんてどうせないのだし、リスクを限りなくゼロにしたいなんて思っていたら、絶対結婚なんてできなくなります。だって、現在の日本なら、30歳ぐらいまでは親元にいる方が確実にリスクは小さいのですから。この文章を読んで、考えすぎて、さらに結婚から遠ざかる人が増えないように祈っています。

第6号(1999.8.8)欲望のままに生きていては……

 「必要は発明の母」だと言う。では、その「必要」の母は誰だろう?それは、たぶん「欲望」なのだろう。「発明」が人類社会の進歩をもたらしたと考えるならば、結局「欲望が進歩の母」だということになるのだろう。しかし、21世紀を目の前にした我々が持つ欲望は本当に人類社会に進歩をもたらすのだろうか?

 人は一人の異性を愛するだけで満足できるほどのかわいい欲望しか持っていないのだろうか?この答えは間違いなく"No"だろう。人間社会の歴史の中で、十分すぎるほどの財力を持った人間たちがやってきたことをみれば、この答えが"No"であることに異論は挟めないだろう。かつては、宗教や道徳がこの欲望に歯止めをかけてきた。しかし、今や宗教も道徳もかつての力を失った。こんな欲望を解放したら、一夫一婦制家族は崩壊せざるをえない。

 「一夫一婦制家族不要論」を唱える人もいる。確かに窮屈な制度だ。だが、この制度に取って代わりうる一体どんな制度があるのだろうか。欲望を一夫一婦制という窮屈な制度の下に押さえ込んで偽善的に生活していくことこそ、人類という種が生き延びていくために、生み出した知恵だったのではないだろうか。もちろん、「一夫一婦制」などに従わなくとも、新しい生命は生まれる。しかし、その命はどう育まれるのか?産んだ女性が一人で育てるのか?父親は不要なのか?偽善的であっても、愛する父親と母親を演じる人間が必要なのではないだろうか?「自分は愛されている」という思いが、人を育むのではないだろうか。

 家族制度の問題だけではない。あれが欲しい、これがしたいという欲望がすべて肯定されたら、その欲望を達成する人の群で、社会はカオス状態にならざるをえない。「万人の万人に対する闘い」が現出することになる。不法な手段を使ってでも欲望を達成しようとする者たちばかりの世界。我慢と忍耐を知らない者たちが創り出す不気味な世界。21世紀を目前にし、今や新たな「十戒」の必要な時代がやってきているような気がして仕方がない。

第5号(1999.4.27)バブル経済と女子高生文化の誕生

 将来90年代後半が振り返られた時、この時代の日本の文化は女子高生によって代表されることになるのだろう。私はこれをあまり好ましい事態とは受け止めることができない。たぶん私と同様の感想を持つ人は少なくないだろう。にもかかわらず、相変わらず女子高生文化は元気だ。最近は男子高生も女子高生と同じような存在になってしまった。なぜこんなことになったのだろう。

 いろいろな原因が考えられるのだろうが、結論を言えばやはり1980年代後半以降の円高とそれによって引き起こされたバブル経済に主たる原因は求められるだろう。それ以前の日本の経済は海外に物を売ることで、経済成長をはかってきた。しかし、こうした日本製品の海外市場での強さに対する反発として1980年代後半以降、円高を進め、日本の内需を拡大させるよう国際的な圧力がかかるようになった。

 しかし、すでに決して貧しい国ではなかった日本で、他国を納得させるほど内需を拡大するためには、なくてもいいような無駄な物をどんどん買うか、まだ使える古いものを壊しあるいは捨て、新しいものを造るあるいは買うということをせざるをえなかった。結果として、新しいものに価値があり、古いものに価値を置かない考え方が急速に増幅することになった。

 バブル経済が崩壊した後も、海外市場で稼ぐことに対する他国の抵抗は決して弱まらず、経済を再活性化させる唯一の道は、やはり内需拡大しかなかった。そうした中で最初の人格形成期をバブル経済の中で迎えた90年代後半の高校生たちは、無限の欲望を持つ格好な存在だった。ブランド物も携帯電話も勉学にいそしむべき高校生には本来不要なものだろう。しかし、勉学にいそしまず、友だちと遊ぶことにのみ熱心な高校生たちにとっては、それらは不可欠な物となった。携帯電話でたいした話がされるわけではない。誰かから電話がかかってくる、話す相手がいる、ただそれだけが重要なのだ。ブランド物だって本当に使う場があるわけではない。ただ、それをうらやましがる友人に見せるためだけに必要なのだ。

 しかし、こうした無駄な消費を政府もマスコミも経済界も本気で批判はしない。なぜなら、内需拡大につながるから。生活に追われて無駄な消費をしてくれない親たちに代わって、子供たちが無駄な消費をしてくれる。これは必要悪のようなものだ、と。古いものを後生大事に使われたら、経済は活性化しない。新しい流行商品を次々生み出して欲しい。無駄でもいいから何でも買ってくれ。買う気が起きないなら、商品券もばらまきましょう。こんな時代だ。こんな時代の中では、どんな方法であろうと金を稼いでそれを湯水のように使ってくれる女子高生は時代の優等生になる。新しい人間たちがやることに追随していったら、そこに新たなる需要が生み出されるのではないか、そんなことを政府もマスコミも経済界も漠然と考えているのではないだろうか。かくして、女子高生文化は誕生し、過去のことーー歴史や古いもの、人、ことーーなんかに全く興味はないという若者たちができあがる。

第4号(1998.11.19)  夢なき時代の公務員志望

 「公務員」って、何がおもしろいんだろう?「公務員」って、どんな職業なんだろう?今、多くの学生が「公務員」をめざしているという。不況だから安定性を求めて、ということなのだろうが、一体どんな仕事をするつもりなのだろうか?「公務員」になって、自治体を改善しようという気持ちを持っているのだろうか?公務員でも、職種限定−−たとえば、消防士になりたいとか、警察官になりたいとか−−ならまだわかるのだが、一般事務職−−特に地方自治体の−−として公務員になることには、安定性、残業が少ないこと、地元に帰れること以外に、どんな魅力があるのだろう。

 そもそも仕事に魅力を求めること自体が時代遅れなことなのだろうか?仕事は金を稼ぐための手段であって、目的ではないという時代なのかもしれない。じゃあ、目的は何?以前、J君が「僕は社長になりたいですよ」と言っていたけれど、あれっていいよね。夢だよね。昔は、みんなが思っていたことなんだけれど。YM君は政治家になりたいと言う。夢持ってるよね。なんで、O君はスポーツ・インストラクターをめざさないのだろう?O君の夢は何?

 夢は夢で叶わないかもしれない。でも、夢を持たない人生より夢を持った人生の方がきっと楽しいだろう。確かに夢は仕事じゃなくても構わないだろう。でも、できれば、仕事と自分の夢が合致していた方が楽しいだろう。金を稼ぐためだけの意味しかない仕事なんて苦役のような気がする。長い人生で多大な時間を仕事に取られるのだから、楽しく仕事はしたいものだ。

 そんなこと言われても夢が見つからないんですと、きっと多くの学生が言うんだろうね。卒論のテーマすら決まらないのに、人生のテーマがそんな簡単に決まるわけないよね。でも、大学入る時に、「この4年間のモラトリアム期間で自分のしたいことを見つけよう」って思わなかった?見つける努力はしましたか?一生懸命考えたかい?友と本気で語り合ったかい?いろいろなことを学んでみたかい?もうじき大学生活は終わってしまいます。遊びは充実したかな?abilityは高まりましたか?

 卒論に関しては、多くの人が真剣に取り組んでくれているので、嬉しく思っています。卒論を真剣にすることで、専門的に研究することのおもしろさがきっと少し感じられると思います。でも、私としては、君たちにもっともっと学んでほしいと思っています。このゼミが教員の専門テーマに特化した内容のゼミになっていないないのは、その方がゼミ生の能力をより高めることができると思っているからです。いろいろな関心を持ったゼミ生が一生懸命調べてきたことを発表するのを一緒になって真剣に考えることで、君たちの力は高まるのです。自分の発表以外は関係ないという気持ちでいたら、ゼミから得られるものは5分の1、いや10分の1ぐらいになってしまうでしょう。ゼミも、もう後6回です。欠席も、遅刻も、早退もしないで、もっと考えよう、もっと語ろう、もっと学ぼう!

第3号(1998.11.12)   寅さんとタコと『戦争論』

 昨日「寅さん」の最終作を見てひとりで感動していました。昔「寅さん」なんかじゃ感動しなかったのに、なんでこんなに感動するようになったのかな、やっぱり歳を取ったのかな。趣のある風景と人情の機微、いいよね。ああ、旅に出たい。

 そんな私のメランコリックな気分をあざ笑うように、「タコ」が言うんだ。「大阪府は赤字団体になります。」バブルがはじけたというのに、山奥にニュータウンを造り続け、暇な公務員をいっぱい抱えた大阪府が破産するのは当然じゃないかと思うのだが、他方では、政府・自民党は公明党のご機嫌をとるために、「ふるさと商品券」を高齢者、子供、障害者に配るなどというしょうもない政策を打ち出すやら、神戸市は疑問の声に耳を貸さずに空港建設に向けて猪突猛進、なんだかこの国にはまともな頭脳を持った人がいないのかと憤慨しきりです。

 小林よしのりの『戦争論』が売れているそうです。私も読みました。ひとつの考え方ですが、マンガは怖い。描かれたキャラクターの雰囲気によって、善悪が判断されがちです。映像世代に与える影響は大きいでしょう。第2次世界大戦(太平洋戦争?大東亜戦争?)とは何だったのか、昨年のこのゼミなら討議のテーマになっていたかもしれませんね。

第2号(1998.1.13)     新年のご挨拶

 新年あけましておめでとう。たくさん年賀状をありがとう。1枚1枚楽しく拝見させてもらいました。現役ゼミ生には口頭で返事はすることにしているので、返事はお送りしませんが、ご了承下さい。卒業後は必ず返事を書きます。(ちなみに、「先生」と呼ばれる人に手紙やはがきを書く場合は、宛名は「○○様」ではなく、「○○先生」と書くのが礼儀です。ついでに言えば、電話も「○○さんのお宅ですか?」ではなく、「○○先生のお宅でしょうか?」というのが礼儀です。)

 さて、3回生ゼミも今日で終了です。教師としては、それなりに充実感を感じさせてもらいましたが、「遊んでばかりであまり勉強をしないゼミだあ〜!」といつも文句を言っているゼミ生もいますので、君たちがどう受け止めているかはわかりません。ただ、いつも文句を言うO嬢の意見を聞きながら、改めて思うのは、日本の受験教育の歪みです。課題を与えられなければ、勉強できないというあり方を、大学では変えて欲しい、特にこのゼミでは、自分で学ぶことのできる学生に育てたいと思ってやってきましたが、なかなか壁は厚いようです。しかし、この教育方針を変えるつもりはありません。本当に学ぶ楽しさを会得するためには、自分で考え、調べ、表現するしかないのです。私は、アドバイス役に徹します。私をどう利用して、大学生活を充実させるかは君たち次第です。楽しようと思えば、徹底して楽のできるゼミかもしれません。それで満足ならそうしてもらっても結構です。(もちろん、心の中では、みんなそうではないと信じたいと思っていますが……。)とにもかくにも、いよいよ4回生、就職活動となるわけですが、その前に、卒論の方も少し進めておきましょう。例年は、口頭で伝えていたことなのですが、O嬢のような意見を持つ人もいますので、本意ではないですが、きっちり文章化して、春休みの課題を出しておきます。

<春休みの課題>

提出日:春期休暇明けの第1回目のゼミの際(4月からは木曜の4時限目に移す予定)

テーマ:各人の卒論の一部、ないし全体像。

枚 数:自由

用 紙:B5版の大きさの用紙。できる限りワープロを使用すること。

就職活動も始めたい時期だと思いますが、例年見ていると早く始めたからといって、結果がいいとは限らないようです。就職活動一色にならずに、うまく大学生活とのバランスを取って下さい。それができる人間が、就職活動もうまくいくようです。

第1号(1997.6.10) 半分「個」・半分「類」として生きてみたら

 最近、学生たちと話していると、「男らしくとか、女らしくではなく、自分らしく生きたい」という発言によく出会います。おおいに結構なことです。しかし、さらにしばらく話を続けていると、こんな発言が出はじめます。「自分らしく生きるって、具体的にはどんな風に生きたらいいのだろう?」「自分に合った生き方がどんな生き方かよくわからない。」こうした悩みは、かなり広く若者の間に共有されているのではないでしょうか。そこで、「自分探し」がはじまります。ある者は宗教に心酔することによって、ある者はボランティア活動に一所懸命になることによって、またある者はブランド品で身を固めることによって、何者かたらんと求めています。表面的な現れ方は様々ですが、いずれも「自分らしく生きたい」という動機がベースにあると言えるのではないでしょうか。

 若者を導く確固とした価値観の消え失せた現代社会は、ある意味ではとても生きにくい社会なのかもしれません。かつてほどには「こういう風に生きなさい」と社会は生き方を押しつけてきません。親が多少生き方を強制しても、ちょっと社会に目を向ければ、親の正統性を崩す多くの事例がすぐに見つかります。まるで「自由に生きていいのですよ」と社会が微笑みかけているようです。しかし、規準を持たずに生きるのは、たいへんなことです。必死で、自分らしい生き方を探さなければなりません。下手をしたら、「自由からの逃走」が生じます。オウム真理教にはまっていた若者たちの心理は、これに近かったのではないでしょうか。

 こうした「自分探し」のプレッシャーから、若者を解放してやる必要があると思っています。そのために提案したいのが、半分「個」・半分「類」として生きてみたら、ということです。確かに思索する動物である人間は、一個の個体として充実した生を送りたいという思いを抱くものです。しかし、それですべてではないはずです。人間も生物種のひとつであり、生命の歴史を紡いでいく存在でもあるのです。たとえ取り立てて語るべきこともないような人生であっても、親の子として生まれ、子の親となっただけでも、間違いなくその人間が存在した価値はあったと言えるはずです。個性的に生きられなくとも、自分らしい生き方が見つけられなくとも、自分が元気に生きているだけで喜んでくれ、もしも自分の存在が消えてしまったら、嘆き悲しむ親や子、そして仲間たちがいるのならば、生きているだけで価値があると言えるのではないでしょうか。「個」として充実した生を生きられなければ自分の人生は無価値だなどと思わずに、「類」として自然に生きていくことにも価値があると考えるようにしたら、もっと楽に生きられると思います。もちろん、「類」としてだけ生きるべきだと言いいたいわけではありません。半分「個」・半分「類」として生きるぐらいの気持ちがちょうどいいのではないかと思っています。

 「類」として生きるという考え方を少し拡大するならば、他者を思いやるという生き方にもつながると思います。「個」としてのみ生きるのなら、自分だけが良ければそれでよいということにもなるかもしれませんが、「類」としても生きたいのなら、こんなことをしたら、自分のことを思いやってくれる人が悲しむのではないかということも念頭に置かねばなりません。「援助交際」をする女子高生がよく語る「誰にも迷惑をかけているわけじゃない」という論理も、「個」として生きるという発想からは批判しきれないかもしれませんが、「類」としても生きて行くという発想から言えば、その事実を知ったら嘆き悲しむ親や未来の自分の子どものことを思いやって行動すべきだと批判することが可能です。もちろん、100%「類」として生きるべきだというわけではないので、場合によっては、嘆き悲しむ親がいても、「個」として輝きを求めるべき時もあるでしょう。しかし、「個」として生きることが強調されすぎる傾向のある現在の論調の中では、針を中央に戻すためには「類」として生きることをやや強調する必要があるように感じています。