大学改革 教員渡世(広島大学総合科学部報『飛翔』52号、1997年、12-3頁)

 

 私が常勤の大学教師になったのは88年、勤務校は単科医大でした。91年の大綱化をうけて前任校でも教養課程の改編に携わりましたが、争点はつまるところ教養的教育は専門的教育に収斂するのか、専門以外の視野の拡大にあるのかでした。広大の教養的教育の目標でいえば、前専門性か非専門性かです。前任校で感じたのは、改革案には教員が大学時代に受けた教養的教育に対する評価が反映するということ。会議で、第二外国語など不要と息まく先生には、ああこの人はドイツ語で苦しんだのだと思い、医者にも人文科学は必要と主張する先生には、この人は若い頃心動かす本を読んだ経験があったのだと思い、改革には人間喜劇の面があります。

 93年に広大に移りましたが、単科医大と違いはあれ、非専門をどう評価するかという論点は変わりません。教員が看過しやすいのは、学生はまだ何の専門家でもないということ。学生はとりあえず何かの専門家になって社会に入り込まなくてはいけないので前専門の即効性を評価しがちです。広い視野とか年をとるとわかるといっても説得力が足りません。

 非専門性を評価するには知的余裕が要ります。知的能力とは申しません。専門だけにしか興味をもたない優秀な人はいます。ただし、知的能力が高いほど知的余裕も増えることもたしかで、これは予備校講師時代の経験ですが、同じジョークをいっても成績の悪いクラスは受けない。笑えないほど目前の課題で手一杯なのです。

 今回の改革でもいわゆる超難関校ほど非専門性を重んじているようです。知的余裕は創造的な立案能力に通じるでしょうし、優秀でもそれを欠く人材は、示された案を理解し遂行する受け身の立場に立つでしょう。

 広大の改革案も『広大フォーラム』332号座談会***で申しましたようにパッケージ科目*を始め非専門への広がりに顧慮しています。ただ、教室の収容能力など万やむをえぬ事情**もあって履修方法が細分化し、また内外の大学の改革の長所をとりいれるのに急で、遊びがないようにみえます。そこで、学生、教員ともども改革への対応に追われ、創造性の開発とはかけ離れた受動的な態度が蔓延するのでは、と思い過ごしでしょうが、一抹の不安もあります。

 

[註]

* パッケージ別科目というのは、1997年度から広島大学が教養的教育の一部として採用しているカリキュラムで、学生は「知の根源」「人間の自画像」「制度と生活世界」「国際化と異文化交流」「科学技術と環境」の5つのパッケージのどれかひとつを履修します。それぞれのパッケージのなかには、「人間・価値の視角」「社会・世界の視角」「自然の視角」という三つの視角から展開される授業科目が数種類ずつ入っており、学生はそれぞれの視角から2種類以上の授業科目を選択することが必修とされています。この制度は、教養教育のなかでも専門に近い授業科目しかとらないのを防ぎ、また、たんにばらばらの科目をとるのではなくてひとつの理念のもとにまとめた科目をとることによって分野間のつながりを意識してもらおうという意図から設置されました。ただ、難題であることはたしかで、それについては、非専門性をいかにとりいれるか、および縁とパッケージへ。

** (1)教室の収容能力の限度のために受講志望者が多すぎる授業科目では抽選を行う、(2)受講者数を制約するために、当該の学生が履修するパッケージ以外のパッケージに属する授業科目を履修できない、などの方針が定められたので、学生の選択の幅を狭めている面があります。個人的には、教育環境が良好に保たれる限界内で、熱心な受講希望者ならば受け入れて、履修した単位はパッケージ別科目以外に換算するのはどうかという考えをもっています。

*** 広島大学広報誌『広大フォーラム』332号座談会で、(1)1997年度から広島大学の教養的教育の一環としてはじまった「パッケージ別科目」の目標と教養的教育のなかでの位置、(2)専門以外の領域を学んだり視野を広げたりするという教育目標がつまるところ学生、教員両者の姿勢にかかっている点にふれて、次のような発言をしております。最初にあげている教養的教育の三つの目標などは広島大学の公式の方針ですが、もちろん、発言内容には、三つの目標の理解や改革の趣旨の理解など私見も混じっていることをお断りします。

(1)

安藤[司会] 今度の教養的教育の改革の中で新しい名前が出てくるのは教養ゼミとパッケージ別科目群という名前。次に、パッケージというのはどういうものなのか。なんでこういうことをやったのかということについて話してもらいます。

品川 教養的教育の目標というのは、最初に前専門性。すなわち専門の勉強に進むために必要な基礎知識、あるいは、専門的な勉強をするための態度。例えば教養ゼミでやろうとしているようなことですね。もう1つは非専門性。単に専門だけの知識を身につけるのではなく、もっと広い視野でものを見ること。3番目は学際性・総合性。これは「さまざまな分野には意外なつながりがある。自分はそれを専門にしていないけれどもいろんな立場の人の意見を聞いて問題を考え直そう」という、そういう考える態度を身につけること。以上、3つの目標があります。

 教養的教育科目にはさまざまな種類があるからそれぞれ目標を異にしているわけで、パッケージ別科目というのは、そのうちの非専門性と学際性・総合性をひたすら目標にします。そのほかの個別科目(これまであった哲学とか生態学とかいったものですが)は、その授業を受ける人によっては前専門性になります。

 例えば、基礎科目として学部、学科がそれを指定している場合には、前専門性になります。しかし、仮に医学部の人が哲学なりなんなり自分の興味でやるとすれば、これは非専門性。あるいは学際性・総合性ということをめざすということになります。一応このように色分けしたわけです。

 なぜ色分けしなければならないのかというのは大きな問題です。1つは、今言った目標でさえ、これまでは1年生に伝えようとする努力を、大学側があまりしていなかった。1年生がどうやって自分の勉強を組み立てていくかと言えば、先輩や親戚の人から聞いたり、「誰々先生のが取りやすいよ」とかの一種のうわさで動いているんです。これはなんて言いますか、授業というものを商品だとすれば、大学は売り手側と言いますか提供する側の努力を怠っているわけで、今度の改革では「教養的教育ではこういうことをやるんですよ」とまず言いたい。この「こういうことをやるんですよ」を整理していった結果、3つの目標が出てきたわけです。

 その3つの目標に応じて「こういう科目はこの目標でやりましょう」とはっきり宣言していったら、改革案にあるように授業科目が細分化していった。

(2)

安藤 従来のそれぞれの学問、例えば哲学、生物学とか言っていたそういう個別の科目であったものをパッケージにした。パッケージというのは、ある科目を3つ連ねて、そこを1つの同じ思想でもってつなぐ。これがパッケージになるんですね。

品川 思想というか理念と言うか。金平糖というお菓子がありますが、あのイメージを思い描いてもらうといいんです。例えば核となるパッケージ別科目の中で、生物学なら生物学という分野で興味が持てた。それなら個別科目に生物学に関連する科目があるならそれを取ってみようじゃないか、というふうに金平糖の角を伸ばしていく。

 これまでは、教養的教育で学ぶことがらをどうやって1人1人がまとめていくかというのは、すべて学生個々人に任せていました。それだからこそやれたという学生もいるし、だからこそ散漫になってしまったという人もいるかもしれません。パッケージというのは、学生の選択の自由と散漫にならないという2つのベクトルを両方あわせようとして、今計画されているかたちになったということです。

 ただし、教員側にとってもそれなりの努力はいります。パッケージというのは、今言ったように非専門性が目標ですから、自分が専門にしていることを専門にしない学生に向かって伝えることになります。はっきり言うと、教えるときは専門が同じ学生の方が教えやすい。けれども、あえてそうじゃない科目ができたわけです。教養科目を聞きにいったけれども、結局、教師の専門のことであって話がわからない。あの人たちは自分の専門のことを伝えているだけであって、私になんの関係があるんだというような不満が教わる側にはあるんじゃないかと思います。それをこのパッケージ科目で是正する方向で改革しようと考えているわけです。

安藤 ちょっと質問ですが、パッケージに括くくろうとした精神はどういう精神なのか。

品川 1つは、やはりその授業科目の目標をはっきりさせるということです。例えば、仮に何々学という名前の授業科目を一般教養でやっているとしても、将来的にはその何々学を専攻するような学生に向けてやろうとしているのか、そうではないのか。その辺がこれまでの一般教養の各科目の中ではあまりはっきり区別されていません。

 それからもう1つは、パッケージの理念に盛り込んだようなあるテーマを追いかけない限りは幅広い視野というのはできてこない。その1つのテーマ、理念をパッケージそれぞれで追求していって、「こういう科目はこういうふうな関わり方をするんです」と受講生に道しるべをする。

 例えば、「科学技術と環境」というパッケージに倫理学や文学の分野が入っています。倫理学とか文学という科目をそれぞれ別個にやっている限りには、別に環境問題に触れなくてもいい。しかしこのパッケージの中に倫理学とか文学とかを入れていく以上は、当然その科学技術と環境という問題に触れるような切り込み方でその授業を展開していく。そうすると、これはまさに非専門性ということにつながるわけですが、こういう切り口でなかったら倫理学も文学も興味がないという学生に、一見、全然無縁に思えるかもしれないけれど、こんな分野でもこんなことをやっているんだということを伝えることができる。それは、今回の改革のプラスになるところではないかと思います。

 教養的教育改革というのは、おそらく2つの極があると思うんです。1つはまったくテクニックの涵養をめざす。例えば自動車の免許を取るのに自動車学校に行くとか、パソコンを使うとか、英会話ができたり英作文ができるというのは、もちろんそれを使って世界が広がるんだからテクニックだけとは言えないんだけれど、それだけとればテクニックなんです。そういうテクニックは、おそらくそれぞれの学部・学科にあるでしょう。

 もう1つの方の極は非専門性と学際性・総合性。ところが、これに対して学生になんでそんなことが必要なのかと聞かれますと、1番弱いところです。まあ、元をたどれば、教養的教育には、1つには昔から言われているノブレス・オブリージュというんですか、高い位置にある者ほど負担が大きいとか責任を果たさなければならないという方向もあると思うんです。つまりいろんなことを知った人間は、それだけその社会の中で知ったことを活かす責任があるという方向がある。単にテクニックを身につけるだけなら、その人は就職に有利だとかあるいは同じ目標をめざしている同業者の中で有利だということにはなるかもしれません

 また、大学教育というのは、人を育てて、その人から社会的に還元することも要求されます。そうすると、「広く知る」、つまり単に1つの専門の中で使われる側ではなくて、もっといろんな分野に連絡が取れて、かなり広い仕方で問題に関われるような人間を育てなければならないという部分があるかと思います。

 しかし、それはまったくある意味ではきれいごとでして、今度の教養的教育改革でいろんな大学が苦労しているところでしょう。学生の側にも当然要求があります。例えば「自分たちはテクニックの方を教えてもらえば結構だ。広い視野と言われても、そんなのは難しいからどなたか考えてください」ということを要求している学生だけであれば、そこの教養的教育はどうしてもテクニックの方にいきます。また、学生だけの責任だけでもない。教える側に「もう自分は自分の専門と同じ学生を育てるだけにしか興味を持たない。自分の専門を、ほかの専門をやろうとしている学生に伝える気力もない」というような先生が集まっていれば、これは提供側からしてもテクニックの方にいきます。

 今度の改革がどうなるかというのは、いくら制度をつくっても内容的なことはやってみなければわからない。おそらく広島大学の改革でも、ほかの大学と同じように、テクニックと広く知るという両極端のあいだに学生側の要求と教える側の要求との接点ができて、最終的に内容は決まってくると思います。


大学改革 教員渡世のトップページへもどる。