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ケアとケアの倫理について考える 第1回

 

<ケアの倫理>が語られる理由

 

品川哲彦(関西大学文学部教授)

 Emergency Nursing, vol.14, no.11, pp.51-55, メディカ出版、2001年11月1日

 

 ケアということばで、私はある小説を思い出します。

 春の夕方、旅人が歩いています。旅人は作曲が趣味でした。野宿で過ごす今日この晩にも、新しい曲ができあがりそうです。旅人はその調べをもう幾日も温めてきました。でも、実際に歌ってみるのをためらっていました。というのも、調べでも何でも、思いをかけて育むときには、それが「だんだんふくらんで、幸福な自信となる」まで待たねばならないからです。早く表に出しては、すっかりだめにしてしまいます。さて、旅人がいよいよテントに腰を落ち着けると、思わぬ邪魔者が入りました。一匹の虫が訪れて、自分はかねて旅人に憧れていたとか、自分にはまだ名前がないとか、うれしそうに話しかけるのです。貴重な時を奪われた旅人の応対はいきおいそっけなくならざるをえません。それでも、名前はつけてやりました。すると、虫はぞっとするほどうっとりとその名を叫んで、そそくさと姿を消していきます。翌朝、旅人は出発します。ところが、昨夜の虫のことが気にかかってなりません。引き返す。虫はいません。夜ふけてようやく見つかった。でも、忙しそうです。名がついて自分がはじめて自分になった。自分の人生が自分の人生になった。そんな感想をせわしく口走り、「チェーリオ。ぼくはありったけ生きるのをいそがなくちゃならないんです」。旅人は取り残されてしまいました。旅人には、しかし、かわりに、きのう失いかけた旋律が戻ってきます。それは、憧れ、春の哀しみ、ひとりでいる喜びを主題とする歌でした(1)

 日ごろ、看護という限られた意味のケアに、しかも職業として携わっている方には無縁な話に思えるかもしれません。私にとっても、ケアとこの話とが結びついたのは、M・メイヤロフの『ケアの本質』(2)を読んでからのことでした。メイヤロフはケアを広い範囲で捉えています。私たちがケアするのは病人や子ども、他人だけではない。自分自身もケアします。さらにはベランダの植木鉢、ペット、編みかけのセーター、描きかけの絵、心に抱く計画など、心にかけているものはみなケアの対象です。それでは、ケアとは何か。メイヤロフは「そのもの(人)がそのもの(人)になるのを手助けすること」だといいます。自分の思うとおりにすることではありません。ですから、ケアには、ケアする対象(相手)にその時々に必要なことを看て取る感受性が要りますし、相手がこちらの意図からそれていくときも、相手を信じ、手を出したくなるのを控える忍耐力、相手が自立していくのにまかせる勇気を要します。一方、ケアする側もケアを通じて自分にできることとできないこととを見きわめ、それを素直に受け容れることで自分を正しく見つめなおし、自分の能力について思い込みとは違う本物の自信をつかんでいきます。やがて、相手は自分で自分をケアできるほど回復、自立し、その時点で、ケアは終わります。

 先に紹介した話では、旅人はまず歌をケアしています。うっかり手離さず注意深く温めているようすは、医療現場でのケアでいえば、病人の快復を見きわめて病院から送り出すまでと似ているでしょうか。つぎに、旅人は不本意ながら虫をケアします。歌と虫とどちらが大切か。旅人にとっては歌です。けれども、こちらを頼りにしている相手につっけんどんな対応をしてしまうと、あとで歯噛みをするような思いにかられざるをえません。だから、旅人は足止めを食うわけです。しかし、幸いにも、名を呼ぶとは、その人(ここでは虫ですが)を他と異なるその人にすることでした。虫は独り立ちして、自分がこれからケアする大切なものを探し出すのに夢中です。旅人は歌に帰ります。実は、それは同時に彼自身へのケアでもあります。というのも、彼が得た「ひとりでいる喜び」とは、自分が自分を取り戻せたときに、いかにも自分らしく時を過ごしているときに、自分が自分自身と融和できたときにこそ訪れるものだからです。ただし、彼がその時間を手に入れるのは、最初は重荷に思えた虫へのケアをまっとうしたあとのことでした。

 私は哲学、倫理学を研究しております。ケアということばはこの分野でも二〇年ほどまえから注目されてきました。倫理学とは、どんな行動をすべきか、どういう心構えであるべきかと考える学問です。これは人びとがずっと悩んできた問題で、残念ながら納得のいく答えはなかなかみつかりません。ですから、難病を熟知した医師が患者に安請け合いしないのと同様に、倫理学者には「こうするといい」などというお説教はできません。むしろ、倫理学はもっともらしいお説教に疑問を投げかける学問です。さて、それでも答えがあるとすれば、それはいつでも、誰にでもあてはまる原則のようなかたちをとるように思われます。たとえば、二〇世紀後半、医療の倫理ではそうした原則のひとつとして、インフォームド・コンセント、患者の自律の尊重が打ち出されました。この考え方は強制的な人体実験や患者が望んでいない治療の押しつけを阻む点でけっして否定できません。もし、あなたがあなたの生活をあなた自身で選ぶ権利があるなら、患者も治療を選んだり今後の生活を考えたりするために自分の病気について知る権利があるはずです。それを認めないのは患者が同じ人間であることを否定する差別であり、差別は正義に反します。

 けれども、実際に病人に重い病名や厳しい見通しを知らせるとすれば、私たちはそうすべきかどうかとともに、いやそれ以上に、病人を不当に傷つけないように、病人の具合がどんなときにどんなふうに伝えるべきか、逆に、伝えなければ伝えないことがかえって病人を傷つけてしまうのではあるまいか、などと悩むのではないでしょうか。ここで方針を決めるには、病人が、今、何をこちらに求めているのかを看て取り、病人の対応によってはこちらに何ができ、何ができないのかを見きわめるケアが不可欠でしょう。さらには、医療現場には、集中治療室に搬入された患者に明らかなように、患者の意向をいちいち確認できない場合があります。だとすれば、インフォームド・コンセントが不可能な状況を含めて医療という営み全体を考えれば、患者が必要としていることをその場その場で注意深く洞察し、世話するケアという態度がその根底になくてはならないように思われます。

 ケアということが再評価されるひとつのきっかけは、女性の心理学者C・ギリガンの研究でした。善いことって、たとえば、どんなこと? ギリガンの調査によれば、男性では、他人に干渉されずに自分で決める権利、そうした基本的な権利を誰にも認める正義、どのケースにもあてはまる原則を貫くことといった答えが多かったのに対して、女性はそのつど他人の必要としていることを気づかい、おたがいに満足できる関係を築くことだと考える傾向にあります。従来、倫理観というと前者の捉え方が支配的だったので、身近な人間関係を気にする女性は未熟な人間のように評価されがちでした。しかし、ギリガンは、後者は前者の正義の倫理に劣らぬ別の倫理だと主張して、男性の発言とは異なる、女性が発する「もうひとつの声」、ケアの倫理と呼んだのです(3)

 看護という仕事を考えるとき、ケアの倫理は参考になりそうです。高度化する機器の操作。本来は医師や薬剤師がすべき仕事の代行。患者の訴えの聴き取り。便の世話。清拭などなど。ナースの仕事は多岐にわたります。それらの仕事を医師の指示や患者の必要に迫られて後追いしているだけでは、看護とは結局どういう仕事なのか、はっきりしません。この多様な仕事を、こちらを頼りにしている病人に必要なことをその場その場で看て取り、世話して、病人が自立した生活に戻っていく手助けをすること、たとえ病気や障害のために元通りではなくてもその人なりに新しい生活を築いていく手助けをすること、つまり、ケアという観念によってまとめることができるのではないか。さらには、看護をケアとみることで、医学的には何々病の一症例、制度的には大勢いる入院患者のひとりとして見過されがちな病人にひとりひとり別の「何々さん」としてむかいあうことの多いナースの「もうひとつの声」を医療の場に反映させられないか。こうした可能性がみえてきます。

 もっとも、この立場はナース独自の地位を確立しようという動きであるとともに、悪くすると、ナースを特定の役割に押し込めてしまう危険ももっています。もともと、ギリガンの主張にもそのおそれはありました。というのも、男性にはない女性の特質を強調しすぎると、またしても女らしさの押しつけに利用されてしまうからです。そこで、ギリガンはケアの倫理に即して女性の成長を三つの段階に分けています。自分自身をケアすることしか視野にない段階、自分以外の人についてだけケアする責任を感じる段階、自他の区別なく誰もがケアされる権利をもつと考える段階です。第二段階にとどまると、ケアは自己犠牲にすぎません。それではケアする人が燃えつきてしまいます。しかし、ケアの倫理は美談の押しつけではありません。冒頭の話に戻れば、旅人は自分と自分の歌だけではなくて虫のことも気づかうことで自分自身の安らぎを得ました。ケアの倫理はそうした繊細な感覚を表わそうとしているにほかなりません。

 だとすれば、ケアの倫理とは、ケアする人こそが的確に理解することができ、また、その体験から発酵してきた思いをこめることのできる思想なのだといえましょう。

 

 

コラム 生命倫理学と原理原則主義

 人体実験、妊娠中絶、脳死と臓器移植、安楽死、生殖補助などの是非を決するために、生命倫理学は多様な問題に一律にあてはまる原理原則を追求してきました。患者の意志の尊重(自律)、患者を害さない(無危害)、患者のためをはかる(仁恵)、医療資源の公平な利用(正義)はその代表です(4)。でも、八〇年代以降、原理原則だけでは個々の事例の独自性がくみとれないという批判が出ました。ケアの倫理もこの流れに属しています。

 

 

(1) T・ヤンソン『ムーミン谷の仲間たち』、講談社文庫、1979年。

(2) M・メイヤロフ『ケアの本質』、ゆみる出版、1987年。

(3) C・ギリガン『もうひとつの声 男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティー』、川島書店、1986年。

(4) T・L・ビーチャム、J・F・チルドレス『生命医学倫理』、成文堂、1997年。

 


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