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ケアとケアの倫理について考える 第2回

 

「女性の気遣いにはかなわない」?――ケア役割と性差

 

                                   後藤博和(関西大学文学部非常勤講師)

Emergency Nursing, vol.15, no.1, pp.70-75, メディカ出版、2002年1月1日

 

 まずは、ご存知(?)『おたんこナース』のワン・シーン(1)をご覧ください。前後の状況を簡単に説明しますと、白衣の男性は、不明熱で入院した患者の担当医となったものの、三週間たっても診断をつけられず憔悴している研修医です(それもそのはず実は詐病)。その彼、当直室がいっぱいのため、なんと寝袋にもぐって廊下で仮眠をとっていました。そこに現れた主人公の新人看護婦、「体力回復しないとつく診断もつかなくなると思うよ」と、研修医をずるずる寝袋ごとリネン室に運び、簡易ベッドに寝かせて毛布をかけ、さらには自分の夜食用のおにぎりまで与えました。引用した最初のコマでの彼の礼はそのことに対してです。で、問題なのはそれに続く彼の台詞。これが主人公と先輩看護婦を激怒させます。「女性の気遣いじゃない!同僚の気遣い!」「看護婦は医師の妻でも母親でもないんです」(続くコマでの主人公と先輩看護婦の台詞)というわけです。

 快哉をさけぶ女性(とくに看護婦諸姉)さぞや多かろう、という場面ですよね。男である私にもその気持ちはよくわかります。しかし、ここでちょっと立ち止まって考えてみたいのです。マンガの中の研修医の勘違いはともかくとして、「女性ならではの気遣い(ケア)」といった言い回しは、いまでもしばしば耳にします(ときには女性の口から)。また、実際に看護職や介護職についている人、あるいは家庭で子どもらの世話(ケア)に主に当たっている人は女性が圧倒的に多いという現実があります。こうしたケア役割と性差の問題について私たちはどう考えればよいのでしょうか?

 性差というのは実にやっかいな問題です。男と女はちがうというだけなら当たり前。しかし、どこが、どう、どれほどちがうのかはけっして自明な事柄ではありません。また、そのちがいは生まれつきのものか、それとも生後、さまざまな環境要因によって形成されたものかとなると、話はさらに複雑になります。生物学的性差と社会的・文化的性差とがそれぞれ「セックス」「ジェンダー」として区別されるようになってかなりたちますが、両者は概念上ほど単純に切り離せるものではないからです。私たちが性差を認めるいろいろな事柄のうち、「これは100パーセント『セックス』!」(あるいはその逆)と言い切れるものは少数で、むしろ多くの事柄において両者は協働していると思われるのです。たとえば男女の体格差。進化生物学からも、また「男脳/女脳」をめぐる脳科学からもさまざまな説明があり、一見すると100パーセント「セックス」のように思えます。しかし、食の細い男児/女児に対する親の態度の微妙なちがいや、成長期の最中にもかかわらず過度の痩身願望をもつ少女が珍しくないことなどを考えあわせると、ここにも「ジェンダー」的要素はいくぶんなりとも――いや、かなり?――存在すると言ってよいでしょう。

 では、ケア役割の担い手(ケアラー)は女性が圧倒的に多いという性差ついてはどうでしょうか? これは女性がケアに向くよう“生まれついている”ためでしょうか? あるいは、フェミニズムが説くように、男性優位社会が“押しつけた”性別役割分業の一つにすぎないのでしょうか? それとも、“生まれつき”と“社会の押しつけ”の両方によるのでしょうか?

 ナイチンゲールは、看護婦たちが看護職も医師と同じく免許制にしてはと提案したとき、「母の登録や試験ができないように、看護婦にもそんなことはできません」と答えたそうです。また、ナイチンゲールが理想とした看護婦とは、彼女が生きたヴィクトリア女王治世下の英国社会の性差別を反映した「女性らしさ」を体現するもの、つまり「医師には絶対的服従という妻の務めを捧げ、患者には母の無私の献身を捧げる」ものだったといいます(2)。このような看護婦像は、現代では(頭の古い一部の男医を除けば)とうてい受け入れがたいものでしょうが、「女性=母性=ケアラー」という基本図式そのものは、入院したとたん幼児がえりしてしまったかのように看護婦に甘える一部の患者ばかりか、職場にチラホラ出没する看護士に妙なイライラを覚え、ついイジワルをしてしまう一部の看護婦――少なくないと聞いていますが?――の頭の中にも存在しているように思われます。

 この図式の鍵は、中間項、つまり「母性」のようです。この概念の“守備範囲”が妊娠、出産、授乳に“狭く”しぼられるなら、これはまぎれもなく女性の“生まれつき”の能力かつ役割です。しかし、これだけでは「女性」=「ケアラー」とはならない。「母性」を介して両者が結びつくには、この概念の“守備範囲”がもっと“広く”なければ、つまり、わが子と情緒的なレベルで深くつながり、そこから子どものニーズを敏感に感じとって、配慮し、世話するといった能力をも、最低限、含むものでなければなりません。

 けれども、そうした“広い”「母性」概念は、E.バダンテールの画期的著作以来(3)、フェミニズム陣営の集中砲火を浴び、悪評紛々、その「復権」を唱える林道義氏のような論者が出てくるほどです(4)。しかしながら、林氏を含め「母性」擁護派の論者の多くが依拠する母と子の「絆(ボンディング)」に関する心理学的研究は、(くわしく吟味する余裕はないので結論のみ述べることにしますが)しょせん「科学的虚構」の域を出るものではなさそうです(5)。とすると、ましてや、わが子ならぬ他人との間に特別な“絆”を築く能力がなぜだか女性には“生まれつき”備わっている、などと考えるのはバカげているように思えます。

 それなら、子どもの世話にかぎらず一般にケアの担い手(ケアラー)には女性が多いという現実は、性差別的社会の生みだした事態にすぎないのでしょうか。私はかつてそう考えていたのですが、最近では、そうとも言い切れないのでは、と思うようになりました。男たちからもちあげられることの多い「母性」とは逆に、むしろやいのやいのとたたかれることしきりの“女のおしゃべり”が、意外にも重要な役割を果たしそうなのです。

 「女のほうが口達者」というのは多くの文化に共通してみられる俗説ですが、大脳生理学者、田中冨久子氏によると、それなりの生物学的根拠があるもののようです。氏は、大勢の人前で話すときに求められるような論理的に話す能力には生物学的性差はないだろうが、「情動に駆動される発語」が男性より女性に多く起こることを示唆する脳の性差はあると述べ、さらに、「このようにして起こるおしゃべりは、冷静に作文しながら行われる話に比べ、文法的に間違いがあるかもしれないが、迫力があるだろう。これが、女性の脳のおしゃべりの本体かもしれない」と推測しています(6)。この説はケア役割と性差の問題を考えるうえで、きわめて興味深いものと思われます。というのも、たとえば、さまざまな苦痛や不安に悩む入院患者が看護職にまずもって期待するのは、けっして冷静な“ミニ・ドクター”的役割などではなく、こちらの情動的な訴えにそちらも情動的に共振してくれることだろうと思われるからです(看護職の側から言えば、それだけでプロとして勤まるわけはなく、専門的な知識と技術の裏打ちが不可欠なのは当然のことでしょうが)。

 こうしてみると、ケアの担い手(ケアラー)をめぐる性差には、男女の体格差の場合と同様、「セックス」的要素と「ジェンダー」的要素との両方があるとするのが無難な線のように思われます。仮にそうだとして、では双方の割合はどの程度なのかということが次に気になってきますが、これまた体格差の場合と同様、正確なところなどわかるはずもありません。男女が同性および異性双方にまつわる「らしさ」のイメージにまったく縛られずに育つような社会でも実現しないかぎり、純粋に生物学的な性差の範囲が画定できないからです。

 歯切れの悪い物言いが続きましたが、ケアの担い手(ケアラー)に女性が多いという事実に何らかの生物学的根拠があることが判明しても、それはけっして、男性がケア役割を女性に押しつけてそこから逃げ出すことの免罪符にはならないという点は断言できます。男女には生物学的に否定しがたい体格差、体力差があるから、女性は体を鍛える必要などなく力仕事はすべて男に任せなさいという主張がナンセンスなのと同様です。男女の生物学的性差を無視してなんでもかんでも同じに扱おうとするのは賢明とは言えません。しかし、それを口実にしていたずらに現状を肯定するというのも、そこに差別的、抑圧的な側面があることを否定できないかぎりは、断じて許されないことでしょう。

 さらに以下の点も強調しておきたいと思います。「ケアの倫理」の草分け的論者の一人、C.ギリガンは、男女の道徳観のちがい――「正義(公平)の倫理/気遣い(ケア)の倫理」――を指摘して、男性優位社会にあって軽視されがちな後者の重要性を主張するのみならず、両者は対立関係ではなくむしろ補足しあう関係にあり、成熟した大人の道徳観とは両者を統合したものだとも再三述べていました(7)。こうしたある種の“両性具有(アンドロジニアス)”志向は、男/女を問わず、またプロ/アマを問わず、ケアラーにとっても必要不可欠なものでしょう。

 ケアを必要とする特定の個人との間に深い信頼関係を築いて、その者に注意を集中し、気遣い、世話する――こうした基本的なケアのあり方はどうしても“母性”イメージと重なるものですが、それはそれでよいのかもしれません。女性のみならず、男性もまたじゅうぶん“母性”的になりうるし、なるべきだという点を忘れさえしなければ。一方、こうした“母性”的ケアがマイナス方向に働きかねない場面、つまり、目の前の特定の個人(たとえば担当患者)に専心するあまり、他の者(他の患者や患者の家族や社会全体など)に思わず知らず害を及ぼしてしまうおそれがある、そんな場面もままあります。そうしたときには、“母性”的ケアを補完するものとして、いわば“父性”的ケアとでも呼びうるもの――特定の狭い“文脈”から離れて“全体”を俯瞰するケア――が必要となるでしょう。

 “母性”的ケアと“父性”的ケア――このどちらもが、どちらの性にとっても必要なのです。こうした観点からも、「女性の気遣いにはかなわない」「女性ならではの気遣い」などといった言い回しは一日も早く姿を消してほしいものですね。

 

(1) 佐々木倫子、小林光恵『おたんこナース』6巻、小学館、1998年。

(2) B.エーレンライク/D.イングリッシュ『魔女・産婆・看護婦』、法政大学出版局、1996年。

(3) E.バダンテール『母性という神話』、ちくま学芸文庫、1998年、

(4) 林道義『母性の復権』、中公新書、1999年。

(5) D.E.アイヤー『母性愛神話のまぼろし』、大修館書店、2000年。

(6) 田中冨久子『女の脳・男の脳』、NHKブックス、1998年。

 昨今おおはやりの脳の性差に興味がある方には、この書を一読されることをおすすめします。話がドータラ、地図がコータラといった例のベストセラーとちがって、「ジェンダー」的視点にもじゅうぶん目配りのきいた好著です。  

(7) C.ギリガン『もうひとつの声』、川島書店、1986年。


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