From 大学キャンパス to ナース・ステーション

ケアとケアの倫理について考える 第3回   

 

ソーシャルワーカーの見る風景 ―ケアを担う人々の傍らにて―

 

 

               横田 恵子(大阪府立大学社会福祉学部講師)

Emergency Nursing, vol.15, no.2, pp.76-79, メディカ出版、2002年2月1日

 

 朝9時すぎ。事務職中心の巷の職場なら、仕事の前に頂く一杯のお茶がデスクの前にまだある頃。しかし病棟ではとっくに申し送りも終わり、日勤帯の勤務者がさまざまな業務をフルにこなしている忙しい時間。

 こんな朝の始まりとともに、「おはようございます。いかがですか?」とベッドサイドでナースが呼びかけ、患者さんとの挨拶が交わされ始めます。多くの患者さんが、この毎朝のナースとの邂逅を待ち望んでいます。それは、ほんの一瞬「ここにいる」を忘れることが出来るからなのだそうです。

 思うように恢復しないとき、病名に打ちひしがれそうなとき、疼痛に人格までさいなまれそうなとき…いかなるときでもこの「朝の希望」の風景だけはある。この朝の一瞬だけは「ああ、生きていて良かったな」と思うんだよ。―――ある末期ガンの男性が、私にそのように語ってくれたことがありました。

 たとえこの希望が雲間の朝日と同じように、きらめいた次の瞬間には激痛と吐き気のかなたに消えていくものだとしても、何という確かな生の一瞬だろうか、と私は思います。

 夕刻4時半過ぎ。巷の午後の日差しはまだまだ高く、子どもたちが公園でサッカーに興じる頃。しかし病棟ではすでに準夜帯勤務者への引継ぎが始まり、病棟を回診していた医師たちは医局に引き上げてしまっています。食堂からは夕食の用意をする気配が漂い、見舞いに来ていた人々も帰路につく…。

 一日で一番寂しい時間の始まりだ、とある女性患者が言いました。刻々と窓の外に迫る夕暮れ、リノリウムの床の冷たさ。「帰れない自分」を一番意識する時間帯だそうです。そして夕食が終わり、急に静かになった病室で、患者さんたちは闇の中のテレビを見つめながら、「希望」に見捨てられないよう必死で耳を澄まし、何かを探します。そのとき聞こえてくるナースシューズの足音。「どうですか?」とかけられる声。

 闇に押されるようにして語られるさまざまな寂しさや焦りが、この時間帯に一番多いことは、誰よりも皆さんがよくご存じのことだと思います。「こんなふうに語り合える時間がもっと自在に取れたなら…」「患者さんからあふれ出る言葉や感情を、もっとかみしめながら側にいられる時間があれば…」―――ほとんどのナースがこのような思いを胸に秘めているはずです。「まさにこれこそが私が思う看護なのに…」、「人と人とが出会うこと、それこそが私のやりたい仕事なのに…」、「指示受けと処置だけで終わりたくない…」。

 ところで先日、あるポスターが目に留まりました。タイトルは「聴く医療・対話するケア」。日本ホスピス・在宅ケア研究会が主催する今年の全国大会のテーマです。ああ…、と何かが心の中で動いた方はいませんか?「聴くこと」「対話すること」「本当に私たちがやりたいケア」って…?近頃、こういう言葉が気になっていませんか?

 自己紹介が随分遅れましたが、私はソーシャルワーク研究者、つまり病棟の中ではワーカーさん、カウンセラーさん、と呼ばれる人たちがしている仕事について勉強している者です。こんな私のところにこの数年、頓に多い依頼があります。それは「看護職へのカウンセリング講習会」の講師役。

 初めの頃、私は不思議でたまりませんでした。医療は専門職の集団でなりたっています。だからもちろん、ナースも専門職。かたや私たちワーカーやカウンセラーなどと呼ばれる人間は、並み居る医療専門職の中に挟まれた唯一の「無資格者」。国家資格化さえ取り合って貰えない私たちからすれば、専門職であり、はっきりとした居場所と役割があるナースたちがなぜ「カウンセリングマインド」に注目するのか、なぜ患者さんの話を「聴く」ことや心に沿うことにこんなにも腐心するのか、と何だか腑に落ちない気がしたものです。

 でも、何人ものナースたちと話すうちに、皆さんが探しておられるものが何なのか、少しわかるような気がしてきました。皆さんが求めておられるものは「感じる」ということなのだ、と。

 客観性、再現性を土台にして「よりよい身体」を取り戻すことを使命とするのが医療だとすれば、「感じる」ことは禁じ手です。だから深夜の病棟で、引き込まれそうな患者さんの語りを聴いていても、魂と魂の邂逅に至る前に、引き離されてしまう。これは決してひとりの患者さんに注ぐことが出来る時間が少ない、という理由から来るだけではありません。皆さんの仕事が医療の中での専門職である限り、「身体を治す」使命によって呼び戻されてしまうのです。私はそのように考えます。

 さて反対に、私たち「無資格者」は何をしているのでしょう? 私たちは病棟の中では何も出来ません。患者さんに「痛い」と言われても立ちつくすだけ、「身体の向きを変えたい」と言われればナースステーションにナースを探しに行く有様です。そんな私たちなのに、医療スタッフに混ざっているのです。

 なぜ私たちは居続けることができるのでしょうか?それはどうやら患者さんたちが、「からだの状態を良くするのには何にも役に立たない者」「正解を持たず、患者本人と同じようにうろたえてしまう唯一の職種」として私たちを見ているからでしょう。つまり、医療機関という専門職集団の中に、唯一「うろたえる素人」が存在するわけですね。

 本来「聴くこと」「対話すること」は、このような弱さ、よるべなさを互いに共有する中から生まれてくるものだと思います。「聴く技術」「援助方法論」などというものは単なる小難しいハッタリにすぎません。―――こんなふうに言い切ってしまうと、「じゃあ、身体を快くするためにいろいろなことが出来るナースには、『聴く事』『対話すること』は出来ないとでも言うの?」という皆さんの非難めいた問いかけが聞こえてくるようです。いえいえ、そうではありません。私が申し上げたかったのは、ただひとつ、「弱さを共有する者の間のみに、共感をともなった対話が成立する」ということなのです。

 「患者自身の身体なのに、自分ではどうすることも出来ない」ことを代わりに行うという医療者の専門性は、確かに「弱さ」とは反対のものです。でも、ひとりの人間としては、ナース自身も自分ではどうすることもできない痛みをなにがしか抱えている。おそらく、「聴くこと」「対話すること」に惹かれていく心情の中には、「人間としてのわたし」のささやきが多分に含まれているのでしょう。

 医療の価値は、第一義には「患者さんがよりよく生きるために、少しでもその身体が出来ることを増やす」ことです。これを清水哲郎は「<出来ること>のQOL」と名付けています(1)

 しかし、たとえ身体機能的には思わしくなくても、あるいは長く生き続けることが最早かなわないとしても、それでも「今、ここでの患者さんのありようを全面的に肯定する」という「気持ち」になることだってありますよね?意識がなく、何日も眠り続けるだけに見える患者さんのたたずまいに人としての尊厳を見いだすとき、それはすでに「対話するケア」として立派に成立しているのではないでしょうか? 先ほどの清水は、これを「<居ることの肯定>としてのQOL」と名付けました(2)。何となく、いいなぁ、と思いませんか? でも、これは「通常の医療活動が依拠する価値観とは別の価値観」なのだそうです(3)

 看護の仕事の醍醐味は、まさにこの二つの異質な価値観が出会うところにあるのでしょうね。でも、だからジレンマなのでしょうね―――きょうもナースステーションでコールに応える皆さんを傍らで眺めつつ、そんなことを考える私でした。

 

 

 

コラム:専門家とプロフェッショナリズム

 古来、専門職(full profession)と言われているのは「聖職者、弁護士、医師」の三職種です。近代になってからは、これに会計士や一級建築士が加えられることもあります。

 看護職は、小学校の先生やソーシャルワーカーとともに準専門職(semi profession)と言われる領域に属します。この違いは何か。

 専門職は仕事の内容と範囲が明確に決められ、法や制度によって守られています。準専門職では、ときに「私の本当の仕事は何か」ということを巡って議論が起こります。専門職は雇われなくても仕事が出来ますが、準専門職は、圧倒的に組織に雇用されて働きます。専門職の教育体系はすでに完成していますが、準専門職の教育体系はややあやふやです。そして一番大きな違いは、専門職は「他の何かを真似しよう」とはしませんが、準専門職は「より専門性を高めよう」として、専門職モデルを真似ることにあるのです。

 

 

 

(1) 清水哲郎『医療現場に臨む哲学II ことばに与る私たち』、勁草書房、2000年、54頁。

(2) 同上、69頁。

(3) 同上、54頁。

 


連載記事のもくじにもどる