From 大学キャンパス to ナース・ステーション

ケアとケアの倫理について考える 第4回

 

 

看護婦が働きながら大学で学ぶということ

                              

谷口 恵子(大阪大学医学部附属病院看護婦)

Emergency Nursing, vol.15, no.3, pp.41-44, メディカ出版、2002年3月1日

 

 

 大学に入学してから現在に至るまで、他人から何度も尋ねられたことがあります。それは「どうして看護婦さんの仕事を持っているのに、わざわざ大学に来るのですか」という質問です。高校を卒業して現役で大学に進学している学生たちと違い、「なんとなく大学に来ました」とか「みんなが行くから私も来ました」とか「なんとなく行ってみたかったから」というようなものは、社会人学生では答えにはなりません。雇用条件のよいフルタイム仕事をわざわざ辞めてまで大学に来るというのは、それなりの理由があるのだろうと多くの人は関心を持って聞いてくれているのですから、もう少し明確な大学進学の動機や学ぶ目的、そして病院の職場事情についても少し説明する必要があります。

 私は看護学校卒業後、4年と3ヶ月の間、ICUに勤務していました。大学進学と同時に現在も勤務している大学病院で外来検査室の「採血業務のパート」へ転職しました。「採血のみ」と言っても、毎日約600人の患者さんの採血を4人で分担しますので、ラクな仕事ではありません。朝8時半から昼15時までの6時間勤務、休憩時間は昼30分。18時からの大学の講義まで少し余裕があります。休みは土日・祝日。通勤に1時間強、大学から自宅までは1時間半強かかります。帰宅後の時間を予習復習に当てる余裕はなく、平日の仕事を終えてからの2時間弱と土日を自己学習に当てます。3交代勤務をしながらの通学も可能だったかもしれません。現に勤務しながら、大学を卒業した方もいらっしゃるでしょう。しかし、臨床経験4〜5年目の看護婦といえば現場の即戦力です。責任ある仕事を次々と任されるようになります。「大学」を理由に現場の仕事を交代してもらったり、勤務調整をしてもらうことは1度や2度ならいいかもしれません。しかし、4年間ともなると周囲への遠慮がストレスになるだろうということは想像できました。ですから、私は転職しました。

 さて、大学進学の動機は3つありました。一つ目は大学を卒業すること。私は専門学校を修了し看護婦免許を取得しましたので、学歴上は高卒になります。専門職である「看護婦」の世界でも最近は学歴が絡むことがあります。可能ならば大学を卒業しておいたほうが今後の選択肢が広がるのではないかと考えました。二つ目は自分を見つめなおすこと。自分の行動を日々振り返えることはどこにいてもできることだと思います。それでは、なぜその場所として大学を選んだのか。現実逃避ではないかと言う人もいるかもしれません。しかし、仕事場である医療現場と生活の場である家の往復では忙しさを口実に、自分を見つめることから逃げてしまいがちになります。だから、あえて趣味でもなく仕事でもない「学生」という立場に身を置いてみることにしました。そして、三つ目は視野を広げたいということでした。

 入学当初に動機を説明するのならば、これだけで納得してもらえることもありました。しかし、学年を重ねて、人にこの説明を繰り返すたびに他人がどうこう言うのではなく、自分自身が納得できなくなっていることに気が付くのです。「入学当初に持っていたような動機そのものは、何の目的をも達成し得ないのではないだろうか。あまりにも抽象的過ぎるうえ、その先に目指すものが見えない。では具体的に自分は何を目的としてどういう段階を踏んで、どのような目標に到達しようとしているのか」「目標?目的?大学を卒業することはできるかもしれない。それは形が残る。しかし、自分を見つめるとか視野を広げるとか目に見える形として残らないものは、時間の経過とともにどんどんボヤけていく。何とかして、その見えないものを自分の中にとどめ、蓄積させなければいけないのではないだろうか、自分の現在地点を何らかの形で表現しなくてはならないのではないだろうか」と考えはじめます。かつて私が考えていたような「自分を見つめる」とか「視野を広げる」といったことは形がないわけですから、「手段」にはなりえても「目標」とするには頼りないものです。それこそ年月が経ち、「自分のものの見方が以前と変わったな」とか「以前は気が付かなかったことに気が付くようになったな」とふと思った時に、学ぶ過程で「視野が広くなっていたこと」や「自分自身の見つめ方を身に付ける」の基礎がためを自分がしていたことに気付き、やっと学びの成果を実感できるのかもしれません。定職についている社会人でも、仕事に必要な勉強を続けなければなりません。けれども、大学での学びは専門職につくための知識と技術を習得する勉強とは根本的に異なっていて、大学というところは、ごく当たり前のように受け止めていることに対する疑問のもち方、自分で問いをたて、それに答えるための糸口の見つけ方を考える場所であるらしいのです。私がある事実を見て当たり前だと考えるのにはどういう理由があり、その理由はその事実の正当性を示すのに妥当であるかどうか、こうしたことを真剣に考えるところが大学という場所のように思います。

 大学に来て学んでみての感想は「看護婦というのは幸か不幸か、あまり疑いを持たないように訓練されているのかもしれないなぁ」ということです。そして「私も含めて、看護婦は自分の職業の歴史というものを知らなすぎる」ということです。医療の現場では職種に応じて職務内容が法律で規定されており、それにより自然と職業上の上下関係が出来上がっています。それは非常に強固なものであり、その上下関係がそのまま人間関係にも影響を及ぼしているように思います。かつて、治療方法は、医師から見て最善なものが選択され、それが正しい事とされていました。しかし、現在では医師だけでなく医療関係者全体が患者さんに情報を提供し、患者さん自身が選択します。そのなかで、患者さんを「人間として受け止める」という「当たり前のこと」に対して、医療現場では今まで以上に力が注がれていると思います。しかし、それ以前に医療関係者同士はお互いの立場を理解し、認め合うことができているのかどうか疑問です。「人間として受け止める」とか「相手の立場にたつ」とはどういうことなのかを「職務規定」を離れた視点を持って、意識的に考えてみることなしに「患者さんを全人的に受け止めること」ができるのかどうかは疑問です。

 看護婦が医療現場で疑問を持つとき、それが患者さんに関するもので看護婦の職務に属する観察項目ならば、観察したことを専門用語で言語表現ができるかもしれません。しかし、このことは看護婦が職場で使うことばが看護婦の役割にきわめて制約されていることのあかしかもしれません。ですから、患者さんを観察する立場を離れて、看護婦が看護婦自身の立場について語ろうとすると、ことばがなかなか出にくくなります。そこで、自分たちの立場に疑問を感じたとしても、話を看護婦の内輪だけに留めてしまい、外部に向けての表現ができなくなる傾向があるように思います。結局は「仕方ないよね」と、看護婦が抱える問題については看護婦同士で「愚痴」として片付けて、その場をやり過ごすしては同じことを繰り返しているのではないでしょうか。そして、毎日の業務の忙しさを半ば言い訳に、自分が持っているモヤモヤしたものの表現方法を見出せず、「不満」があるけどそれが何なのかを明確にできないまま燻らせているのかもしれません。

 「何かに対して疑問を感じている」気がするけれど、どのように表現すればよいのかわからないときってありませんか?日常生活や医療現場でもよくあるように、大学の講義でもあります。「何がわからないか」が、わからないから質問すらできません。でも、人の話を聞くには、あるいは何らかの現象をとらえるには、自分が基準として置いている視点だとか尺度を測る手がかりのようなものが必要です。もし、考える視点がなかったら、視界に何かが入っていたとしても、何かが聞こえてきたとしても、それを自分にとって意味のあるものにすることはできないのかもしれません。そういうとき、適当に流してしまわない。わからない場所を見つける。自分なりに何らかの説明をつけてみる。すると、一旦は理解できたものとして、その問題解決の過程を私ははっきりと記憶することになります。これは医療現場で技術を身につけていく過程やさまざまな状況への対処方法を身につける過程と同じです。そうやって、日常生活で必要な思考の手順は成長してくる過程で学んできました。看護に必要な思考方法は看護教育と看護実践の中で学んできました。でも、大学で考えるときには、「医療従事者として」でもなければ、「一般的に」でもない。自分が当たり前であると思い込んでいることを“私にできる限り”「より広い視野から考えてそれを表現する技術」を私は大学で学んでいるのだと思っています。

 

コラム 実践知(フロネーシス)

よい行為とはよい人のすることである。こういわれたら面くらいます。でも、何をするのが適切かはその場その場で違い、前もって決めておくことはできません。ですから、経験に富んで分別のある人ならするようなことこそその場に適した行動だというわけです。こうした実践知――状況を把握して適切な判断を下して実行する能力――は実地の経験を通してしか身につきません。アリストテレスの倫理学の重要概念です。これに対して、近代の倫理学は誰にでもあてはまる法則性を重視する傾向があります。しかし、職業倫理では、実践知は依然として重要です。教科書やマニュアルでは歯の立たない複雑な状況に出くわして新米ナースが右往左往する目の前で、「ああ、ああするものなんだ」と思わずため息の出るような仕事ぶりを、先輩がしてみせてくれたという経験はありませんか?

 


連載記事のもくじにもどる