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ケアとケアの倫理について考える 第5回

 

人間科学としての看護 ワトソン看護論を読む

 

森下雅一(関西大学大学院博士課程)・品川哲彦(関西大学文学部教授)

 Emergency Nursing, vol.15, no.4, pp.80-83, メディカ出版、2002年4月1日

 

 

 ナースでもなければ医師でもない素人が、なぜ、看護論を読むのか?

 筆者の1人(森下)は1996年の夏に祖父を病院で亡くしました。臨終が近づき、蘇生措置が始まると、家族。親族は病室から出されました。病室の外でただおろおろするばかりです。結局、家族は祖父の傍らに立って死をみとることができませんでした。病院という施設では、このようなことは日常的な出来事なのかもしれません。しかし「祖父はこのような形で亡くなることを望んでいたのだろうか」という思いが、森下には大きな疑問として残りました。それから間もなくして、住んでいたアパートの近くにある本屋でこの疑問を解く手がかりとなった1冊の本に遭遇しました。山崎章郎の『病院で死ぬということ』(1)です。こうした体験と出会いから、森下はバイオエシックスを研究するようになり、現在ではケアについて研究を進めています。

  もうひとりの筆者(品川)は倫理学研究の一環として、倫理的行為のプロセスを記した文献の一例として看護論を読んでいます。すると、ひしひしと感じられるのは、看護論の著者たちが看護という仕事を、いかに、人生と生活の深い次元においてとらえようとしているかということです。そして、そこから看護職に従事している人々へ贈られているメッセージの熱さです。むろん、現実にはそこに描かれた理想がそのまま実現され得るものではありませんし、ナース全員が同じ理想に賛同するとも限りません。でも、それはそれとして、自分の仕事と一生をなおぎりにせず、そこに何かの意味を見出そうとしている人の本を読むのは楽しいものです。そういう意味で、優れた看護論はそれ自体、ケアする効果をもっています。

  さて、今回はその中から、J。ワトソンの『ワトソン看護論 人間科学とヒューマンケア』(2)を紹介したいと思います。

 冒頭、ワトソンは「看護とは生きられる謎だ」と語ります。看護とは何かという問いをナースは身をもって生きているという意味です。看護を通じた人と人との出会い。それはナースにとって、患者にとって、看護し看護されるこの両者、つまりは人間にとってどんな意味をもっているのか。これがこの本の主題です。看護テクニックの本ではありません。以下、限られた紙幅ですから、ワトソン看護論の重要概念である人間科学とヒューマンケアに絞ってお話しします。

 看護を人と人との間で行われるケアとみること。これが出発点です。そこで、ワトソンは人間科学としての看護を提唱します。患者を心身両面にわたって全体として受け止め、人の命をかけがえのない存在として驚きと畏れをもって眺める。そういう視点を含んだ科学を、ワトソンは人間科学という名に託します。そのもとで、ヒューマンケアーすなわち、数多くいる患者の中のある誰かではなく、患者を“今ここにいる”この世にひとりしかいない独自の人間としてケアすることは成り立ちます。

 ヮトソンの主張はワトソンが批判している従来の医学。看護のあり方と対比することで分かりやすくなるでしょう。医学、一般に自然科学は実証主義と還元主義によって推進されてきました。看護もその手法にならってきました。そこでは、医師やナースの患者をみるまなざしは身体に向けられます。身体の故障箇所を見付け、疾患を命名し、分類し、処置をする。常に局部が対象です。こうして獲得された知識は同様の事例によって繰り返し検証されることで実証的な価値を持つに至ります。確かに、このやり方は一義的な診断を下し、一定の治療を施すことで、多くの場合、短期間の入院、通院の後に社会復帰させて、大量の患者を処置していくことを可能にしました。それは患者にとっても有益ではあります。でも、このやり方では見落とされてしまうものがあります。一人ひとりの病人の心、内面です。そしてまた、病人の思いを少しなりとも受け止めようと志しているナースがいるなら、そのナースも挫折せざるを得ません(ここはあえて「病人」と申します。というのは、「患者」とは上に述べたような科学的な見方で病人を診たときに初めて使われることばだからです。皆さんもご家族が病気にかかったときは、「家に病人がいるの」とは言っても、「家に患者がいるの」とはおっしゃらないのではありませんか?)。

 ですから、ワトソンが人間科学という耽念を着想した背景には、以上のような自然科学のみに立脚するやり方から脱却し、人を人としてみる看護、人間性の尊厳を保持する看護を構築しようという意図があるわけです。でも、そんなことができるでしょうか? ナース自身も、患者を対象とみるこれまでの見方にもはや慣れてしまってはいないでしょうか?

 ここに、ワトソンが導入するのが現象学的方法です。現象学は普段、私たちがどっぷりつかっている思い込みを中断することを迫ります。この場合では、実証主義や還元主義がそれです。すなわち、主観と対象、看護する自分と看護される患者というふうに自他を対立させてとらえる見方を中断する。その代わりに、その揚その場の場面でナースが、また、患者がどのように感じ、経験し、それをどんなことばで言い表したか、当事者のことばで語り得るものを探っていくのです。かみくだいていうなら、「私は医学の知識と技術を身に付けたナースなんだから、それを用いて患者さんの状態をコントロールしなくちゃ」といった身構えや、何々病の患者だというので何々病のマニュアルにがんじがらめになってしまうような硬直した姿勢をいったんほぐしてみる。肩書きや身構えを外すと働き出してくるも の、見えてくるものがありませんか? ワトソンは、「人間性というコモンセンス(誰もが持っている感覚)を生かす」と表現しています。すると、苦しんでいるその人が見えてくる。苦しんでいる人を前にして困惑しているあなたの姿も照らし出される。あなたは相手の苦しみを感じることができるかもしれません。同時に、相手は自分の苦しみをあなたが察しようとしてくれていると感じていやされるかもしれません。そうしたケアが患者の治癒カを高めることもあります。このとき、ナースが身に付けてきた専門知識は、患者の状態を想像するためにこそ役立てられています。

  いずれにしても、ここでは、ケアする側では自分の役目、ケアされる側では自分だけに負わされた苦しみによって責めつけられ、こわばり、それぞれの穀の中に閉じこもりがちな心が開いて、心の奥底、魂の深い部分での共鳴が起こり得ます。ワトソンはこの状態をトランスパーソナルケアと呼び、一人ひとりの人間を大切にするヒューマンケアという考え方をさらに展開した議論の中でそれを論じています。 

  もっとも、その背景には、アメリカの超越論思想、東洋哲学、ユング心理学に対するワトソンの親近感があり、その議論の進め方は必ずしも明快とはいえません。また、先にも記したように、ナース全員が彼女の理想を共有するわけではないでしょう。ワトソンが指摘しているように、現在、医療制度はますます技術化、官僚化が進んでいます。その中で“ミニドクター”としてのナースを自らめざしている人もいるでしょう。それが適性という人もいましょうし、そうでなくても、組織の中での自己防衛としてそうなるのもやむを得ない面があります。それを思えば、ワトソンの主張は体制改革よりも精神論に傾きすぎているきらいがあります。

  とはいえ、“ミニドクター”としてのナースは、かつていわれた“医師の小間使い”としてのナースの裏返しで、看護という仕事に根ぎしたナース像とは言えますまい。これに対して、ワトソンは看護の本質がケアにあることをあくまでも見据えて、人が人をケアすることのありようを考え、それを通して、ケアに関わる人がいかに自分自身を変えて成長させていくかを探究していきます。そしてその結果、ワトソンは看護の仕事の中に人間同士が深い次元で触れ合う可能性を見出し、(彼女自身も含めて)その仕事に携わる人にとってのやりがいを伝えようとしているわけです。

 

 

コラム 現象学

 現象学は二〇世紀初頭のドイツの哲学者E・フッサールにはじまります。現象学とは、日常生活の常識や既存の科学に植えつけられた先入見によって理解してしまおうとせずに、徹頭徹尾、身をもって体験していることに即して事態を見つめなおそうとする態度です。現象学の態度を看護にあてはめるなら、なによりもまず、患者が今おかれている状況をどのように把握しているのかということを、こちらもまた身をもって理解し、分けもとうと努めるところから出発することが求められます。

 

 

引用。参考文献

1)山崎章郎。病院で死ぬということ。東京、文芸春秋。1996269p

2J。ワトソン。ワトソン看護論;人間科学とヒューマンケア。東京、医学書院、1992155p

 


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