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ケアとケアの倫理について考える 第6回

 

見知らぬ他人に対してドアを開けること
    
ジャック・デリダの「歓待」について

 

高井雅弘(関西大学非常勤講師)

 Emergency Nursing、 vol.16、 no.5、 pp.58-61、 メディカ出版、2002年5月1日

 

 

 

 もし、あなたの家にまったく見知らぬ人物が訪ねて来て、ドアごしに「中に入れてください」と言ったら、あなたはどうするでしょうか? 現代 フランスの哲学者ジャック・デリダが最近重視しているテーマの1つ、「歓待」について考える際、こうした事例は有効だと思います。広い意味での家の主人が他人である客をもてなすことが歓待ですから。
 しかし私がこうした質問をした場合、あなたに「人に尋ねる前に自分はどうなのか?」と逆に聞き返されるかもしれません。私の実体験で答えましょう。私はあるマンションの一室に住んでいます、とある休日の朝、インターホンを使わず部屋のドアを乱暴にノックする音とともに、「高井君、開けてえ」と言う聞き慣れない声が、寝ぼけてもうろうとした私の耳に入って来ました。知り合いに違いないと思い、ついドアを開けてみると、某新聞社の勧誘員が顔中に笑みを浮かべて立っていました・・・。私は「しまった」と思いましたが、時既に遅し。それからは彼の熟練した営業手腕に踊らされるばかりでした。
 とはいえ、私はこのとき、デリダのいう「歓待」に(あくまでも)似た行為をしたのかもしれません。というのも、デリダのいう歓待は無条件のものであって、一方、彼は条件付きの歓待のことを「招待の論理」といった言い方で表現しています。「招待の論理」とは、その語が示すとおり、わが家の主人が主導権を握って客を招待するというニュアンスが強い考えです。例えば、京都のある料亭では紹介者がいないと入れないと聞きます。いわゆる一見さんお断りということでしょう。また高級なフランス料理店では入店の際、男性はジャケッツ着用を命じられるようです。かつて私が20代だったころ、ディスコが流行りましたが、ジーンズではは入れない店も ありました。これらの例はすべて、店の主人が何らかの「条件」をあらかじめ出すことで、客を選んでいるという共通点を持っています。とりわけ主人がいる家が店の場合、お金が絡んでくる以上、金銭を払おうとしない客は招かれぎざるものとなるでしょう。ですから、デリダがいう条件付きの歓待としての「招待の論理」は、訪れる客より主人に都合を合わせた考えであるといえます。
 一方、デリダが「無条件な歓待」と呼ぶ考えは、既に述べた「招待の論理」の定義とまったく逆の性格を持つといえます。彼は「無条件な(あるいは純粋な)歓待」に添う考えを「訪問の論理」ともいいます。この論理は、主人にとってまったくもって見ず知らずの赤の他人が、不意に家に訪 ねてきたとしても、主人はいかなる条件も出すことなく、素性の知れぬ人物をわが家に客として受け入れるという考えに基づきます。そしてこの場合、無条件に受け入れることが重要なのですから、主人が客に「あなたは誰なのか」と質問したり、またわが家の都合によって、その客を受け入れることができるのかどうかあらかじめ知ることさえ許されないのです。例えば、完全予約制のホテルやレストランに、飛び込みで客が入ってきたとき、その人物がお得意さんや家族、友人ではなく、さらに言葉の通じない外国人であったとしても、主人が彼(女)を受け入れるときなどを想像すればよいでしょう。つまり無条件な歓待としての「訪問の論理」は迎えるべき主人の側よりもむしろ訪れる客の側に都合の良い性格を備えています。
 なぜ、デリダはこのような無条件な歓待というものを考え出したのでしょうか? それは彼の思考遍歴を通じて、「他なるもの」を尊重するという一貫した姿勢があるからです。デリダはフランス人で、自分の思考をギリシャ以来の西洋文明の中で築き上げてきた人です。しかし、デリダは西欧民族中心主義を疑っています。例えば、文字にしても、西欧民族中心主義では、アルファベットのような表「音」文字こそが最も進化した文字だと主張されますが、デリダはわれわれが日々使っている(そしてこの原稿自身がそれで書かれている)漢字のような表「意」文字もまたアルファベットと同等の、しかし他なるものとして肯定しています。
 歓待の理論においても、他なるものを肯定するというデリダの立場は変わりません。すでに、デリダにおける歓待に閑して2つの考え方が提示されました。一方は家の主人が「他者」を迎え入れることにおいて、条件付き のもので、他方は条件を課さぬものでした。デリダは従来の歓待について の思考が、それが西洋のものであれ東洋のものであれ、他者を迎え入れるのに、さまぎまな条件を課することで、限界を設けてきたと考えます。つ まり歓待の思想は今まですべて「招待の論理」にすぎなかったのです。デ リダによれば、われわれは他者と出会う経験を制限しているということに なります。いまだ現れぎる紹対約な他者を迎え入れること、そのような試 みによる従来のとりわけ西欧文明を支配してきた理論の、そして倫理の変 革を、デリダは無条件的歓待という考えを用いて行おうとしているのです。
 それにしても、無条件な歓待とはあまりに途方もない考え方ではないで しょうか? 例えば、この考えを用いると、付き合いにくい人はもちろん、 規則を守らない人、他人に迷惑をかける人さえ受け入れることにもなるで しょう。こういった考えは現状ではとても素直に受け入れられないでしょ う。私が冒頭に苦い実体験を披露させていただいたように、招かれぎる客 もあなたが住む部屋のドアの前に立っているかもしれないからです。 「安易にドアを開けるべからず」というのが、むしろ慎重で賢慮に満ちた 態度でもあり得るでしょう。現実的には常にわれわれは「招待の論理」を用いることをデリダも否定しません。来るであろう他者を予測し、計算し、 いうなれば経験に基づき、受け入れることが可能な客として、主人である われわれの理解の、忍耐の範囲内に収まるよう、マニュアル化します。医 療現場でも、患者さんを何々病患者として分類し、病院の規律に合わせた 仕方でのみ応対することもあるでしょう。しかし、それでは一確かに困 難で不可能なことでしょうが−その患者さんをいかなるマニュアル化に も当てはまらない、その人そのものとして受け入れ、その人として初めて 摸するような気持ちにはなれないでしょう。発見の少ない仕事を繰り返し ているにすぎません。それゆえに、条件を課す歓待だけではなく、無条件 な歓待という考えも必要なのです。それは、自分たちの思うとおりに相手 を処置しようという身構えた姿勢、かたくなに既存のやり方に引きこもろ うとする姿勢を突きくずし、他者との出会いを再び新鮮なものにしてくれ るのです。
 当然というべきか、私自身自分の行為の指針として、デリダのいうマニュアル化不可能なものとしての訪問の論理に向かう傾向を選択するか、マ ニュアル化可能なものとしての招待の論理を選ぶかと問われるなら、日々、 心が、行為が揺れ動きます。しかしこのいずれかのみを選択することが最善とはいえないでしょう。
 ところで「恋愛にマニュアルなし」とは良く聞く言葉ではないでしょう か? 好きな相手とうまく付き合うことに計算可能で予測可能な規則とい うものはありません。デリダがいう無条件的に歓待されるべき客、つまり 他者としての相手も、マニュアル化が絶対的に不可能なものです。しかし、 だからといって、まったくマニュアルを扱きに行為することも現実的では ないでしょう。
 患者さんの応対に関しても、あくまでも理想論として響く無条件な歓待 と冷徹で現実的な計算に基づく条件付き歓待との狭間で、葛藤することが 重要なのではないでしょうか。この2つの歓待を同時に使えば、あなたの心 に必ず生じる矛盾を通じて、初めて正しい歓待についての妥協が生まれる のではないでしょうか。
 ここまで忍耐強く読んでくれたあなたに、最後にもう1度お尋ねしたい。 不意に、あなたの家に「ドアを開けてください」と語る見知らぬ人物の声が聞こえたとき、あなたはドアをどのくらい開けますか?     

 


病院(ホスピタル)、ホスピス、歓待(ホスピタリティ)


これらのことばはどれもラテン語hospes(主人、客)に由来します。なぜ、主人=客なのか。心から迎え入れるには相手を主にしなくてはならないからです。初期キリスト教徒は家の中に病人を迎え入れて看護する部屋を造りました。キリストの「私は異邦人だった。しかもあなたは私を迎え入れてくれた」ということばに応えるためです。病院はまた、異邦人、障害者、貧しい人、老人、誇示を世話する場所でもありました(1)。ケアと無条件の歓待との古い結びつきを示すものです。

1) J.A.ドラン 看護・医療の歴史、東京、誠信書房、1978、512p


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