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ケアとケアの倫理について考える 第8回



「ケア」が安楽死を肯定する?

  ―ヘルガ・クーゼ『ケアリング−看護婦・女性・倫理』の衝撃―


岡田篤志(関西大学非常勤講師)
Emergency Nursing, vol.15, no.7, pp.40-43, メディカ出版、2002年7月1日




 欧米では、患者の依頼に応じて医師が致死薬を処方する「医師自殺幇助」や、さらには患者の依頼に応じて医師みずからの処置によって患者を意図的、直接的に死に至らしめる「積極的安楽死」に対する社会的容認が進んでおり、すでに一部合法化が実現している。

 現代において受容が進んでいるこれらの安楽死は、激痛のためにやむを得なくなされる緊急回避的な旧来の安楽死とは様相を異にしている。また、不治末期患者のジョノサイドとか「死の文化の徴候」(ローマカトリック)というような反対派が用いるレトリックに言われるような非道で異状な事態として断罪することももはや適切ではないように思われる。というのも、現代において安楽死は、(1)快方に向かうことのない病状での肉体的な苦痛や不快感、症状の悪化や自分の身体をコントロールできないことから由来する精神的苦悩など、患者自身が耐え難いと判断した苦しみから患者を解放すること、(2)たとえ死であるとしても患者みずからが選択する身の処し方を尊重し実現すること、(3)そのような患者の訴えに耳を傾け、深く同情し、実際に手を貸すことなど、無下には否定しがたい理由のもとに主張されているからである。人生の終末に際しての苦痛と不自由を回避するためにみずからの死期を選びたい、という欲望が解放され、共感を得始めていると言っても過言ではないだろう。また、オランダやオレゴン州での事例を見れば、近親者や友人を呼び最後の別れをして、致死薬を服用して死ぬことが、あたかも人生の新たなイベントとして受け入れられ始めているようにも思える。

 終末期ケア、ホスピス・ケアは通常、安楽死に反対している。これらのケアは、患者の「死にたい」という言葉を、「死にたいほどつらい」という苦境の訴えと聴き、そのような患者の「つらさ」を心身両面から緩和することに努める。しかし、緩和ケアがなされている場合でも、安楽死を訴え続ける患者が存在することも確かである。もし、「ケア」というものが相手の苦境に深く共感し、相手が真に望む方向に手助けをするものであるならば、患者の求めに応じて致死薬の処方や積極的な致死処置を行わなければならないのだろうか。

 驚くべきことに、積極的安楽死や、医師ならぬ看護婦による自殺幇助を説くケア論が出現している。メディカ出版から訳出されているヘルガ・クーゼ『ケアリング―看護婦・女性・倫理』である。クーゼにはすでに『尊厳死を選んだ人々』という安楽死を求める患者やその必要性を主張する医師たちの声を集めて安楽死の合法化を説いた著作があるが、『ケアリング』においては、ケアに徹するなら、看護婦は判断能力を持つ患者の自殺幇助や安楽死に応じるべきだという(1)

 「ケアが安楽死を肯定する」! 事情は一体どうなっているのだろう。

 クーゼが踏み台にしているケア論の代表者ネル・ノディングスは、もちろんクーゼのように安楽死の解禁を推奨しているわけではない。安楽死への求めがあればそれにすぐさま応じるのではなく、「生き続ける決定の方を勧めるべきだ」とする。しかし、ノディングスも安楽死を否定はしない。それはケアリングという営みそのものが、この場合には患者自身とは疎遠な安楽死の禁止というような原則、規範を大前提にせずに、患者の実相への共感と援助を最優先するからである。ノディングスは主著『ケアリング―倫理と道徳の教育―女性の観点から』においても、ケアすることの根本的特徴を際立たせるために、「殺してはならない」というような基本的な原則ですらケアリングに先行しないことを、安楽死の例を出して述べていた。

 「ケアするひとは、一般的に殺人を誤ったものとみなす。しかし、ケアされるひとが悲惨な状態にあって、客観的に見ても望みを失っているならば、かれを殺さずに置くよりも殺す方がましだと思うかもしれない。ケアするひとはそのひとに向かって、『わたしはあなたを救けたい。でも、わたしには殺せない』などと言うことはできない。なぜなら、そのように言うのは、人格を無視して原理を適用するのと同じであろうからである」(2)

 つまり、ノディングスの立場は、ケアすることを最優先するために、安楽死の是非を一様に決定していないと言えるだろう。「安楽死は許されない」といった原則への固執ではなく、安楽死の可能性を開いた状態で、患者との共感あふれる対話の中で結論が出されるべきである、と。

 一方、クーゼはノディングスのような人間関係に根差したケアすることだけでは恣意性に陥ると批判し、原則の重要性を説く。しかし原則の重要性といっても、それは決して「請われても致死薬の処方をしない、積極的に死期を早めない」といった原則ではなく、患者の「福利」well-beingと「自己決定」self-determinationである。クーゼの論理には、非宗教的で自由主義的な欧米のバイオエシシストたちと同様に、個人の自己決定の尊重と価値の多様性の肯定がある。このような理論的前提と、その場の患者と無関係な生命尊重などの一般的な原則を用いて「傍観者的な立場」から裁定する態度を排し、個別的な患者の境遇と願いに専心するケア論が合流するときに、クーゼのような結論が現れてくるのであろうか。

 いずれにせよ、この過程で、「請われても致死薬の処方をしない、積極的に死期を早めない」という根本的な規範意識は大きく揺らぎ、安楽死への禁忌感は薄れてきているように思われる。

 クーゼは言う。「『決して人の命を意図的に終わらせてはならない』という原則には長い歴史があり、今もそれが広く受け入れられていることは確かである。だが、どんな原則であろうと、ただ単に『広く受け入れられているから』というだけで受け入れるべきではないのである。広く受け入れられている原則や規則、規範であっても、患者に対するよいケアと衝突するなら、基本的には、まず否定してかかるべきである」。

 もちろん、安楽死の問題を、殺人と見なし、頭ごなしに否定することは、安易に肯定することと同様に適切ではない。また、何らかの安楽死否定の論理は、患者のためであるよりも、医師や社会の側の安穏に役立つのかもしれない、という批判もある。むしろ是非の論議を言挙げるよりも、患者との良好なコミュニケーションを保ちながら、終末期ケアの充実を模索することがありうべき姿勢であるかもしれない。つまり、必要なのは安楽死の是非の議論ではなくて、安楽死という早すぎる解決を無限に繰り延べ、繰り延べるという迂路を経る中で、死を選択せざるを得ない環境を改善し、安楽死以外の選択肢を充実させていくことが肝要であろう。しかし、この迂路が十分に辿られるためにも、安楽死をしないという規範を確固としたものにしておくという課題も自覚されるべきではないだろうか。

 ところで、クーゼが一種のケア論として安楽死の肯定を行ったことは、安楽死を選択肢にしないという規範をもう一度しっかりとしたものにし直す手引きを与えてくれている。

 「生命の尊厳」、「生命の神聖さ」に関する伝統的「教理」をふりかざして安楽死に反対するのはもはや無理である。むしろ、患者を安楽死へと追い込む医療制度を含む社会のあり方や、それを反映した人間観や健康観への批判、さらに安楽死が実施される場合の社会的影響への懸念など、いわば後方支援的な取り組みがなされるべきであろう。しかしながら、もっとも期待されるべきは、ひとりひとりかけがえない患者との関わりのなかで、患者を「聴き」、患者に「ふれる」ケアの営みのただ中から紡ぎ出される感性と経験の知恵が語る「ケアは安楽死を肯定しない」という誓いであろう。

コラム 安楽死解禁の動向

 20年以上も前から安楽死が容認されていたオランダでは、今年、安楽死を明確に非犯罪化する法案が両院を通過した。欧州では他にスイス、ベルギーでもオランダを追従する動きが出ている。また、オーストラリア北部準州では、安楽死の合法化を含む「末期患者権利法」が一時期存在した。アメリカでは、医師自殺幇助を合法化する法案がワシントン州、カルフォルニア州では僅差で否決された後、1997年オレゴン州において「尊厳死法」として住民の支持を受けて成立した。また昨年11月にはメイン州で同種の法案が住民投票で否決されているが、差はわずか2%であった。国内では、1998年に行われた「末期医療に関する意識調査」(旧厚生省)によれば、「痛みを伴う末期状態における延命治療のやめ方」に関して、一般集団では「痛みから解放し安楽になるために、積極的な方法で生命を短縮させる方法」を選択した割合が13.3%にも及んでいる。

 


1)H, クーゼ、ケアリング:看護・女性・倫理、大阪、メディカ出版、2000、213-52
2)N, ノディングス、ケアリング:倫理と道徳の教育−女性の観点から、京都、晃洋書房、1997、167-8


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