「脳死は人の死か」再考 脳死・臓器移植再論

 

品川哲彦

1.両義的で曖昧な問い(週間読書人2309号、1999年11月 5日、掲載)

2.先取りされた“死”(週間読書人2310号、1999年11月12日、掲載)

3.贈る人、受けとる人(週間読書人2311号、1999年11月19日、掲載)

 

1.両義的で曖昧な問い

 脳死は人の死か。最近、この問いを耳にしなくなった。臓器移植法が脳死を人の死とするか否かを一様に決めず、個人の選択に委ねたその時点で、世論調査をする意義が薄れたためであろう。脳死状態からの臓器移植もすでに四例を数えている。しかし、私はなおこの問いから離れられずにいる。この問いはそもそも両義的で曖昧であり、そのことが周知されていないことが気にかかるからだ。

  •  問一「脳死は人の死だと思いますか」。
  •  過去の世論調査はこれだけで賛否を集計していた。だが、次の問いを重ねて尋ねたらどうだろう。

  •  問二「実験的に脳死にしたイヌと脳死の人とを、あなたは同じように考えますか」。
  •  問一と問二は独立だから、答えは四通りである。@どちらにもイエス、A問一にイエス、問二にノー、B問一にノー、問二にイエス、Cどちらにもノー。

     問二にイエスと答えた@Bは、人といっても動物としてのヒトを考えている。@とBの意見が分かれるのは、その生物個体のなかでの脳の位置づけである。@は脳を全身機能の中枢とみるゆえに脳死をその個体の死と考え、Bは脳もまた他の部位と相互依存関係にある点を重視し、循環の永久停止をもって個体の死とみなす。Bの死の定義は脳のない動物にも植物にも通用する。

     ACはなんらかの点で実験動物と異なる存在として人をみている。Aは脳を重視するが、理由は@と同じではない。人の人たる特質を脳の機能に求めているのである。その特質とは高度の精神活動であり、大脳がそれを受け持つ。それゆえ、Aの支持者の一部は全脳死だけでなく永続的な植物状態も死とみなすだろう。この見解を狭義のAとしておく。一方、Cは脳死を人の死と認めないが、理由はBと同じではない。Cはそもそも身体の部位や機能に死を局限する発想を拒み、人間関係のなかで死を意味づけようとしている。

     @Bは生物医学における記述的観念としての人を論じ、ACは社会のなかで尊重すべき存在、評価的観念としての人を論じている。そこを無視して@とA、BとCを加算したところで、何が得られるのだろうか。

     人はもともと評価的観念である。このことは自明なために看過される。そこで、争点は@とBの間では死の定義に、@の内部では脳死判定基準に移行する。人命の尊重のもとに、早過ぎる死、早過ぎる脳死判定が危ぶまれる。しかし、早過ぎる脳死判定は回復の可能性と医療費用からして遅すぎる判定よりましだという意見があるのをご存じだろうか。脳死を人の死と認めることは、畢竟、人として尊重される範囲の(少なくとも全脳死を、狭義のAならより多くを外す)縮小にほかならない。もはや人命尊重を素朴に語ることはできない。

     この論点を鮮明にするのが(とりわけ狭義の)Aである。Aの正面切った支持者は日本の脳死論には登場しなかった。それゆえ、論争は@とB、@とCの間に展開された。臓器提供者の範囲を全脳死以外に広げる狭義のAの主張がCから批判されなかったわけではない。けれども、@はAではない。だから、@は判定基準の厳密さ、脳死と植物状態の違いを「啓蒙」して「杞憂」を払ったつもりになる。こうして、脳死をめぐる言説全体が医学の視点に支配されていったように思われる。

     脳死を人の死とみなすか否かは個人に委ねられている。これは法が倫理に立ち入らぬ証左だろうか。一面ではそうだろう。だが実際には、現代の日本では、倫理について語り合うことが空しく感じられるほど、倫理とは徹底的に個人的な信念のことであると思い込まれているのではないか。その一方で、強固な内面を自負する人は多くなかろう。むしろ、私たちは倫理的観点から考え、語り合う習慣をまだ十分に身につけていないのではあるまいか。私もAを支持しない。しかし、脳死を契機として発展しえた、発展すべき論点が未消化のままなのを飽き足らなく思っている。

     

    2.先取りされた“死”

     予想されていたことでも、現実になると予想以上に際立ってくることがある。脳死判定・臓器移植にも、そういう点がいくつかあった。情報開示については、村上氏、西島氏ともに言及された(週間読書人九月二四日号〜十月二九日号)。別の点をとりあげる。

     臨床的診断と法的判定とが鋭く対比されるしかたで報道されたことは私の注意を惹いた。医療現場を象徴する臨床的診断。社会を象徴する法。医学的な記述的観念としての人の死と尊重すべき存在という評価的観念としての人の死との前回指摘した違いが、この対比に形を変えて現れているように思えたからである。しかも、法の定める手続きは完全には遵守されていなかった。手続き自体の不備や現場の混乱もあったろう。だが、結果からみると、法は軽視されていたというほかない。判定基準を手がけた指導的人物は「臨床的な感覚からすれば問題ない」「経験からいうと(法の運用規則通りには)進まない」と語ったという。法の定めた判定基準ももとは医学上の知見である。前回述べたように、日本での脳死をめぐる言説は医学の視点に支配され、前述の二つの観念の違いを曖昧にしたまま進んできた。この経過は法の尊重より軽視に通じやすい。あるいはまた、医学界を法とは独立の「社会」とみる感覚を妨げはしない。しかし、臨床と法で「二つの脳死」があるのは人の観念の両義性から当然である。必要なのは、内容面をすりあわせて現場の混乱を防ぐことではなく、それぞれの役割、権能の根拠、権限の正当に及ぶ範囲を明確にすることである。

     医学の次元で脳死を人の死とみる主張の論拠は、全身の機能を支配する脳の特記的な位置にある(前回の@)。では、脳の機能が心臓や肺と同様に人為的手段で代替できたらどうだろうか。脳から分泌される抗利尿ホルモンを人為的に投与すると、脳死状態を引き伸ばすことができる。一機能であれ、脳の機能を代替しているこの例を厳密にうけとれば、脳を特別視しないで心臓死を選ぶ(前回のB)か、なお脳死を人の死とする――ただし別の論拠、つまり精神活動の永久の喪失ゆえに死とみなす(前回のA)かいずれかである。Aはただちに永続的植物状態を死とみなす狭義のAになるわけではない。それには新たな死の判定基準を要するからだ。では、それが技術的に可能になったら? 全脳死を脳死とする定義が変わる可能性もあるのである。その一方で、脳死移植はいずれ不要になるかもしれぬ「つなぎの医療」だとも言われている。事態を一過程と捉え、しかも進歩の神話に解消せずにみること――将来なら脳死にならずに済んだ人と移植を受けずに済んだ人との間に成り立つ医療とみることは、事態を陰陽両面にわたり冷静にうけとめる助けになろう。

     法施行後、初の脳死判定が行われた病院の関係者は、判定前に治療をやめたかという記者の問いに気色ばみ、一方、「葬儀後」に情報開示すると発表し、その発言をそのまま伝えた報道陣には家族を傷つけると憤慨した。この怒りは至当である。しかし同時に、判定まで死を無きがごとくに遇しつつ、その実、死を先取りしてしまっている脳死なるもののディレンマをあらためて感じさせられた。脳死と判定した後でも依然として生きているように語る人は脳死に多く接した医療関係者のなかにも少なくないという海外の報告もある。

     脳死の人は死んでいるのか、死んでいないのか。臓器移植法はこの決定を本人の自己決定に委ねた。倫理的次元でAを支持する論者は、人を尊重すべき根拠を究極的には自己決定能力におくゆえに、精神活動を人たる証と考えている。だから、脳死は一律に死とみなされる。臓器移植法はAよりもさらに一貫して自己決定を尊重していることになる。しかし、死を孤立した個人の問題に還元するのを許さない論者(前回のC)は、本人の決定によるこの棲み分け自体を認めまい。それゆえ、人の死をめぐるAとCの対立は棲み分けをもってしても解消していないのである。

     

    3.贈る人、受けとる人

     臓器移植を考えるとき、自他の区別という問題に必ずいきあたる。すでに細胞において、それはある。免疫抑制剤はこの隔てを弱めて移植を可能にするが、同時に感染症という別の他者を招き入れる。自分の体の一部を他人に贈ろうと決めた人は自他の区別をなんらかの動機から超えたはずだが、贈られる側もまた他人の命を受け継ぐことの重みを感じずにはいない。臓器提供と違い、移植を受けるかどうかは代替手段の難しさと術後の生活の質にもとづいて判断すべきで、平生から決めておく必要はない。ただ、私自身ならば今の心境では手術に躊躇する。自他の相剋に苦しんでいる人間が他者を利用できるときだけ迎え入れるのを無礼に思うからである。同じ態度を人に勧めはしない。後に述べるように、別の考え方もあるからだ。ましてや、移植を待つ人を精神論で苦しめるつもりはない。

     臓器を提供しようとする動機は何だろうか。一方の極では、偽善の臭いをまとわせながら愛が語られ、他方の極では、提供者と家族を傷つけながらリサイクルが語られる。

     自分の体を贈ろうとする人には、受けとる相手が誰だかわからない。もしかすると、今の自分とはけっして相容れない人かもしれない。どんな人にも受け容れられてもよいと考える人は、その時点ですでに他者を受け容れ、他者をそのまま肯定していることになろう。ここまで考え詰めてドナーカードに署名する人の心情は愛と呼んでもよいのかもしれぬ。

     それでも愛という言葉が偽善に聞こえるのは、脳死移植では、脳死状態の人はもはや存在せず、したがってその体をもはや必要としていないことが前提だからである。こうした認識が動機だとすれば、すでにいない存在から固有名を欠いた不特定の他者にむけて行われる臓器提供は、むしろ単なる所有の放棄であり、さらにいえば所有の消滅である。とすれば、もはや誰のものでもないものがそれを最も必要とする人のものになるのは正義にかなったことではあるまいか。だが、後者による取得を正当化するには、ひとりひとりの体はもともと全員が利用できる自然だという前提がなくてはならない。提供拒否を表明していないかぎり脳死者から臓器を摘出してよいとする一部の国家はこの見解に近づく。

     それに比べて、日本の臓器移植法は、体を本人に固有のものとみなす意識が強いといえる。けれども、私たちにはまた、自分が生きていられるのは自然からの恵みだという意識もある。死とともに還すべきものを還すつもりで臓器提供する人もいるだろう。この考えからすると、誰の生も自己自身には由来しないのだから、生きる可能性は等しく分けられなくてはならない。したがって、移植を受ける人の選定には公正さが要求される。移植例が増えればますますその方針を貫くのが難しくなるとしても、能力や性格や資産などの基準ではなく、生存率の高さに直結する医学上の適格性の優先がまず期待されるのである。

     しかし、この配分の正義が視野におさめているのは移植を待つ人だけである。医療を必要とする人全体には及ばない。当然、脳死移植とそれ以外の医療との間でも、医療資源の適切な配分は追求されねばならない。

     法施行後初の脳死移植では、臓器が空路で運ばれる一方、結果的に臓器を提供することになった人が病院に運ばれるまでには約一時間を要したと報じられている。あたかも、固有名をもった人よりも固有名を欠いた臓器のほうが、特定のその人よりも他と代替できる能力のほうが優遇されているかにみえる。自他の区別を取り除くことで成り立つ臓器移植は、たしかに、人を尊重する意図をもって進められてはいよう。ただし、そこで尊重されているのは不特定の人一般である。それ以前に、少なくともそれと平行して、固有名をもった人が固有名を失った臓器提供者になってしまうのをくいとめる救急医療がいっそう改善されていくことが不可欠の前提である。

     

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