書評:香川智晶『命は誰のものか』、ディスカバー・トゥエンティワン、2009年


品川哲彦

週間読書人、2807号、2009年10月2日

 


 
生命倫理の中心には、希少な医療資源の配分の問題がある。技術的に生かせるようになった事例のなかで、誰を生かし、誰を死なせるか。この難問を解く「魔法の杖」として、当事者の自己決定が援用されてきた。だが、それはしばしば「他人の命を決める理屈」(二五一頁)に転化してしまう。著者はこのような見取り図のもとに、重度障害新生児の治療停止、出生前診断と選択中絶、代理出産、子どもの臓器提供、尊厳死、末期患者の治療停止、臓器移植法改正をとりあげ、内外の歴史的事例に言及しつつ説明していく。社会の対応は往々にして不十分な情報やイメージによって左右され、既成事実の積み重ねや論争疲れのために沈静化し、法律やガイドラインのもとに誘導される。マニュアル化した判断過程やそうした「パッケージ化した知識」にしたがって答えを出すのを急がずに、生命操作技術の進展を推進する人間の欲求がどのようなものであるかを見極め、行きつく先の展望に努めるべきだ。そう筆者は提言する。新書判ではあるが、しっかりと重心を据えて議論を進め、歴史的背景の情報にも富んだ、生命倫理学の簡潔な入門書である。


 この評価の上で疑問点を記しておく。著者は自己決定の援用や他人の命を「物」扱いすることへの「居心地の悪さ」(二五三頁)を指摘するが、自己決定という概念の誤用だとまでは断言しない。だが、他人の命を決めるのは自己決定ではないと言い切ってもよくはないか。また、著者は二〇〇九年の臓器移植法改正の背景に、人間は「死後に臓器提供をするべく自己決定している存在」(厚生省研究班「臓器移植の法的事項に関する研究」)だという人間本性論があると的確に指摘し、この本性に根差すとされる善意が臓器の資源化、人間の「物」化を隠す衣の役目を果たしていると示唆している(二五二頁)。だが、個人主義的リベラリズムに発する自己決定に人間本性という普遍概念を結びつけること自体が論理的に破綻していると言い切ってもよくはないか。ただし、このように言い切るなら、その命がその人のものであるといえるための所有の主体、権利の主体たる条件、つまりは「命は誰のものか」というその「誰」たりうる条件を明らかにして、他人がその権利を侵害するのは不正義だと批判する展開を進むことになるだろう。だが、そうすると、胎児や幼い子ども、あるいはまた、対応能力を失った患者や対応能力をもともと欠く患者等については、その主体たりうるかが争われ、決着のつけがたい人格論に踏み込むことにもなる。


 著者がこの方向をとらない理由は、生命を操作したいという欲求が背景にある以上、「主張に論理的欠陥を指摘しても、あまり響かない」(一二六頁)という箇所に窺われる。そこで、著者は、読者として想定される一般の人々の抱くだろう直観(居心地の悪さ)に訴えて、一般に共有されているだろう生命をコントロールしたいという欲求を見直す戦略に出たのだと思われる。しかし、欲求があってもけっして着手してはならない領域を想定しようとするなら、あるいはまた、(臓器移植法の改正がその一例であるような)善意の誘導や強制(善きサマリア人主義の拡張)に対抗するには、やはり、著者が焦点をあてている自己決定概念の援用と医療資源の配分についての正当性の有無を論じるための規範(権利、正義)を正面切ってとりあげる必要があるのではないか。そこが疑問として残った。
 


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