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なぜ研究をするのか?〜(卒業)論文を執筆する意義が見出せない学生さんへ〜



論文執筆は就職後に役に立つ!?
 
 研究活動とは、主として研究論文を執筆することを意味します。研究論文は、主に「問題設定」「仮説の設定」「分析(仮説の検証)」「分析結果(+インプリケーション)の提示」というプロセスを経由します。また、そのプロセスをたどるためには理論的・論理的思考が必然的に求められます。実は、これこそが、皆さんが社会に出たときに最も役に立つ、そして社会で活躍する上で不可欠な思考の方法・プロセスなのです。


何が問題?

 社会人になると、皆さんは(会社だけでなく、プライベートでも)様々な問題に直面するでしょう。その「問題」は、各自が直面する環境や事情によって千差万別です。さらに深刻なのは、問題が生じていたとしても、そのことに気づかないことさえあるということです。高校生までのように、(答えが決まっている)問題を教師が「はい宿題です!」と宣言して与えてくれるわけではありません。問題に気づいたときにはもう手遅れということもしばしばあります。

 子供のころは、仮に問題に直面しても、親や教師が皆さんの状況や能力をある程度把握し、適切なアドバイスをしてくれたかもしれません。しかし、「大人」になると、悲しいかな、誰に相談しても決定的なアドバイスは得られません(好き勝手に無責任なアドバイスはたくさんしてくれますが…)。なぜなら、大人になるにつれ、他人には(また家族であっても)、皆さんが直面している状況や皆さん自身の能力、問題解決に使用できる資源などを正確に理解・把握することが難しくなるからです。それゆえ、自分で問題を早期に発見し、自分で解決案を見出し、何らかの行動を意思決定することが求められるのです

 研究論文の執筆は、自ら問題を発見し、その問題を客観的に分析し、合理的な解決案を(たとえ暫定的なものであっても)導出するトレーニングとして有効に機能します。特別なウェイトマシーンがないと鍛えられない筋肉があるのと同様に、こうした能力は、問題と答えが事前に用意された「宿題」や「ドリル」では決して鍛えられません。そして、こうした「筋肉」がなければ、社会に出ても、直面しているはずの問題に気づくことができず、問題を分析することもできず、したがって、解決案を見出すこともできません。たとえ行動力があったとしても、ゴールの方向も分からず「迷走」することを強いられます。


最善手の見つけ方

 論文執筆にはもう一つ重要な特徴があります。それは半年から一年という長い時間をかけて構想を練り、じっくりと考えることができる(おそらく最後の)チャンスだということです。社会人になれば、時々刻々と変化する状況の中で、瞬時に意思決定することが求められます。じっくり考えている暇はありません。

 そうであるのなら、論文を執筆することでじっくり考える能力を養っても意味がないと思うかもしれません。しかし、決してそうではありません。瞬時に正確な意思決定をするためには、直面している問題を素早く合理的に再構成し、単純化する「理論的思考能力」と、問題を客観的に分析し、その結果に基づいて合理的な解決案をスムーズに導出するという「論理的思考能力」が不可欠です。複雑な状況を複雑なまま処理しようとしても、絡み合った様々な要因の中から本当に重要な問題を見つけ出すことはできません。また、根拠(論拠)のない分析とそれに基づく解決案は(偶然に良い結果をもたらすことがあったとしても)安定した成果を継続的に生み出しません。研究論文の執筆を通じて無自覚のうちに養われるのは、こうした理論的・論理的思考能力であり、そして長い時間をかけるからこそ、絶え間ない検討と改善を積み重ねるという反復トレーニングが可能となるのです。

 持ち時間を使いきった一流の棋士(将棋指し)が瞬時に最善の手を見つけることができるのは、そうした追いつめられた状況に慣れているからではなく、それを想定したトレーニングをしているからでもなく、むしろ、その一手に辿りつくまでに、気の遠くなるほどの熟考と研究を重ねてきたからです。その鍛錬によって、状況を瞬時に把握し、(問題を解決するための)最善手の候補をいくつかに絞り、相手の反応を(合理的に)予想することが可能となり、結果、最善と思われる一手を選択できるのです。こうした「思考」と「意思決定」の積み重ねこそが、最終的には勝利の糸をたぐりよせます。じっくりと考えて正確な答えを出せない人に、瞬時に正確な答えが出せるわけはありません。偶然の妙手が浮かぶことを期待しているだけの棋士は、対局中にたとえそれが何手か指せたとしても、地道で着実な一手を積み重ねる棋士に勝利することはできないのです。


企業が文系人間に求めるもの

 企業は、物理も化学も機械も工学も分からない文系大卒者に何を求めているのでしょう?それは、(時に自然現象よりも厄介な)社会における複雑な問題に対処し、たえず(正解かは分からない、しかし)最善と思われる策を見つけ出し、検討と改善を繰り返し、複雑に絡まるツタやしがらみをかき分けて力強く前進する能力であるはずです。それでは、企業は、高校卒業後すぐに社会で揉まれることを選ばなかった文系大卒者に何を求めているのでしょう?それは、じっくりと時間をかけて思考し、問題を識別し、それを周りにも分かりやすいように整理・説明し、誰もが納得できる合理的根拠と論理を駆使して、チームのメンバーを説得し、一つの方向に向かわせる能力なのではないでしょうか。

 もちろん、こうした能力は、アルバイトやサークル活動でも少しは育くむことができるでしょう。しかし、決められたタスクをこなすことがメインのアルバイトや、仲間で楽しむことが主目的で、問題をわざわざ発見し波風を立てる必要がほとんどないサークル活動ではおのずと限界があります。そうした能力を育てる最も効果的でかつ大学生にとって身近な「トレーニングマシーン」として、論文の執筆以外に思い浮かぶものがありません。

 企業でのキャリア競争は、就職後すぐの研修から、より正確には内定直後から始まります。企業は自ら考え、かつ(問題解決のために)行動する能力がある新入社員を研修で選別し、配属を優遇的に決定します。考える力のない社員には考える必要のない単純労働が待っています。そこでは日々単調で単純な「ドリル解き」が課され、複雑な問題を解くスキルは一向にアップしません。他方、考える力(またはその素養)のある社員には、その力をさらに伸ばすためのキャリアが用意されます。最終的にどちらが「偉く」なるかは分かりませんが、どちらのキャリアのほうが刺激的で楽しいかは自明のように思われます。


最後に

 研究論文の執筆過程では、まずは問題を見つけるという課題を突き付けられます。そして問題を見つけるためにはどうしたらいいのか、ということをたえず考えさせられます。様々な情報との「格闘」を経て、漠然とした問題を見つけたとしても、それをより明確化する(言い換えれば、仮説をたてる)という新たな問題に直面します。そして、問題をどう分析し、どう説明し、仮説をどう検証するかという難問が待ち構えています。欲張りな人には、分析結果から問題の解決策やインプリケーション(示唆)を提案・提示するというスペシャル問題まで用意されています。

 これらの「問題」との対峙は、ドリルの問題を解くのと同様に、ときに苦痛を伴います。しかし、それを解いたときに得られる喜びと言い知れぬ知的充足感は、比べものにはなりません。この快感は学生生活の最後の思い出といったものではなく、むしろ、社会人としての生活の中で、何度も味わうことのできるものです。しかし、それは誰もが味わえるものではありません。研究論文の執筆は、知的トレーニングを十分に受けた人だけが知ることのできる、その密やかで芳醇な果実に出会う「初めの一噛み」となるのです。そして、その甘美な経験は、社会に出て(大小様々な)問題にぶつかったとき、明晰な思考と分析、そして問題解決のための綿密な計画の立案を可能にしてくれる貴重なスイッチにもエンジンにもなってくれるはずなのです。

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