本の要約(あらすじ)

訳者による「モンダヴィ事件」要約-Résumé de l’Affaire Mondavi-

本書で描かれた米国モンダヴィ社のフランス南西部ラングドック地方アニアーヌ村への進出計画の失敗事例は,「米国流のグローバリゼーションとフランス流のテロワール(地域特性)の対比」「マクドナルド化するワイン(没個性化するワイン)」「新世界ワインの台頭によって危機に陥るフランスなど欧州の伝統的ワイン生産国」「米国の巨人を追い返したフランスの小村」「ローマ人の征服に抵抗する人気漫画アステリクスに喩えられる実話」「ファミリー企業経営の課題」など,さまざまな観点から読み取ることができる。以下は訳者による「モンダヴィ事件」の要約である。

1.カリフォルニア・ワインの父 ロバート・モンダヴィ

 1906年にチェーザレ・モンダヴィはイタリアからカリフォルニア州に移住した。14年間に及んだ禁酒法が1933年に廃止された後の1936年から,モンダヴィ家は同州ナパ・ヴァレーでワイン生産を営むようになった。長男ロバートの強い進言で,1943年に,モンダヴィ家は,1861年創業のナパ・ヴァレー最古のワイン園であるクルーグ・ワイナリーを買収した。そして1946年にはクルーグ・ワイナリー社を設立した。同社では,父チェーザレ・モンダヴィと母ローザが40%の株式を保有し,兄ロバートが20%,弟ピーターが20%,姉2人が残りの20%の株式を保有していた。起業家肌の兄ロバートがマーケティングと販売を担当し,職人肌の弟ピーターがワイン生産を担当していた。1959年に父チェーザレ・モンダヴィが亡くなると,徐々に,兄弟間の路線の食い違いが目立つようになった。  1965年,ついにロバート・モンダヴィは,弟ピーターとの確執から,半ば追放されるような形で,クルーグ・ワイナリーから飛び出すことになった。兄弟間の争いは法廷の場に移され,長年に渡ってモンダヴィ家を分断する骨肉の争いが続くこととなった。  ロバート・モンダヴィは,52歳になる1966年に,ロバート・モンダヴィ・ワイナリーを設立した。同社では,当初から,高品質ワインの開発が目指された。やがて,ロバート・モンダヴィのワインは大成功を収め,カリフォルニア・ワインを今日の地位に押し上げる立役者となった。ロバート・モンダヴィ・ワイナリー社では,長男マイケルが経営戦略やマーケティング面で,次男ティムがワイン生産面で父ロバートを支えた。

2.モンダヴィのグローバル化戦略

 ロバート・モンダヴィの傑作ワインの一つに,モンダヴィ家とロートシルト家の合作「オーパス・ワン」がある。これは,ボルドーでシャトー・ムートン・ロートシルトを領有するロートシルト家のフィリップ・ロートシルト男爵とロバート・モンダヴィとの出会いを契機に長い準備期間を経て設立されたジョイント・ベンチャーにより生産されるようになった高級ワインである。ロートシルト家のボルドーにおける高級ワイン生産ノウハウをモンダヴィのカリフォルニアのワイナリーで実践する形であった。  カリフォルニア・ワインの代名詞としての地位を確立したロバート・モンダヴィのファミリー企業は,積極的なグローバル化を推進した。この際,ロートシルト家との信頼関係に基くオーパス・ワン事業の成功体験から,モンダヴィのグローバル化戦略には,次のような基本線があった。①進出先において,地元の文化と歴史と人間を知るパートナー,高級ワイン生産のノウハウを持つ信頼できるパートナーを探すこと,②対等な関係を維持できる50%ずつ折半出資のジョイントベンチャーを構築すること。この条件を充足するのは,ロートシルト家のような,当該国のワイン分野における第一線のファミリー企業であった。地域に根ざすこと,事業への情熱,技術の伝承と永続性という観点から,ファミリー企業に勝るものはないことをモンダヴィは自身の歩みから体感していた。こうして,イタリアでは30代にわたってワインを生産しているフレスコバルディ家と提携して「ルーチェ」を開発し,チリでは1850年代からワインを生産しているエドワルド・シャドウイック家と提携して「カリテラ」を開発した。  非上場のファミリー企業の資金調達は,自己資金か銀行借り入れに限定される。グローバル化を推進する上で,さらなる資金調達に迫られたモンダヴィは,一大決心の末,1993年に株式を公開した。ところが,予想に反して,ロバート・モンダヴィ・ワイナリーの株価は下落し,経営の先行きが危ぶまれた。ファミリー企業の経営課題の最大のものが事業承継である。マーケットがモンダヴィの事業承継の先行きを懸念していることを悟ったロバート・モンダヴィは経営の第一線を退くことを決意した。長男マイケルがCEOに就任して経営とマーケティングを担当し,次男ティムがワイン生産責任者に就任した。これによって,マーケットの懸念を払拭した。モンダヴィは,いよいよワインの本家本元フランスへの本格的な進出を目指し始めた。

このページのトップへ

3.モンダヴィの南仏ラングドック地方への進出計画

 フランス進出にあたり,モンダヴィが目をつけたのはフランス南西部のラングドック・ルシヨン地方だった。ラングドック地方は,長い伝統を誇るフランス最大のブドウ生産地で,かつては高級ワインを生産していた。しかし,やがて低価格低品質ワインの大量生産地として定着し,高品質ワインの生産でボルドーやブルゴーニュなどに完全に追い越されて現在に至っていた。  モンダヴィは1998年3月にラングドック・ルシヨン地方のワインを100%使用する自社ブランド「ヴィション・メディテラネアン」の開発に着手した。モンダヴィは,モンペリエ市長ジュルジュ・フレッシュら,この地方の政治家との接触を重ねた。やがてモンダヴィ自体がブドウ栽培から手がける本格的な進出先を探した。その結果,2000年4月にエロー県モンペリエ市近郊のアニアーヌ村への進出を決め,村議会に計画書を提出した。その内容は,アルブッサス山地を開拓して50ヘクタールのブドウ園を作るというものであった。7月に,地元のワイン生産共同組合と共同生産する形に計画が修正されると,地元のブドウ栽培者の多くが賛成に回った。地方の政治家の後押しもあり,村議会はモンダヴィの進出計画を承認した。  この計画実現の暁には,念願のフランス進出を果たすモンダヴィはもちろんのこと,地元アニアーヌ村のワイン製造者から地方自治体に至るまで,計画に関係する者すべてがWin-Winの形で,勝者となるはずだった。

4.反対運動の旗頭 エメ・ギベール

 モンダヴィの進出計画に対して,反グローバリゼーション運動家,環境保護主義者,狩猟愛好者,共産党,農村移住者たちが反対勢力として立ち上がった。とりわけ反対運動の中心を担ったのが,アニアーヌ村で家族主義的なワイン園「マ・ド・ドマス・ガサック」を営むエメ・ギベールであった。彼はかつてアヴェロン県ミヨー市で手袋を中心とする皮革製品製造会社を経営していた。しかしグローバリゼーションに伴う韓国製品の輸入解禁の影響で彼の会社は経営破綻してしまった。  アニアーヌ村に移住したエメ・ギベールは,地理学者アンジャルベールの進言により,自らの土地が高級ワイン用のブドウ栽培に最適であることを悟った。1978年から伝統的な手法で本格的にワイン生産を開始すると,「低価格低品質ワインの大量生産」のイメージが強かったラングドック地方において,高品質ワイン生産に成功した。「マ・ド・ドマス・ガサック」は,ラングドック地方を代表する高級ワインのブランドとなった。なお,モンダヴィはアニアーヌ村進出にあたり,前述したグローバル化戦略の基本方針に基づき,地元のファミリー企業たる「マ・ド・ドマス・ガサック」に提携や買収を持ちかけたと言われている。  グローバル化の波に飲まれて一度事業に失敗したことのあるギベールは,モンダヴィのグローバル戦略の一環としてのアニアーヌ村進出計画に,徹底的に反対した。本書の著者オリビエ・トレスは,古代を舞台にしてローマ人の侵略に徹底抗戦する内容のフランス人気漫画の主人公アステリクスの姿にこのエメ・ギベールを喩えた。トレスは,「フランス特有の文化であるワインの分野にも,グローバル化が進み,マクドナルド化の波が押し寄せるのか? 」「侵略者に抵抗しようとする農村国フランスの勝利を語る新たな物語か?」「大量生産方式のワインと地域生産のワイン」「グローバル化を推進するアングロ・サクソン型資本主義とフランス流共同体的保護主義」という図式で描いている。  ギベール家のファミリー企業であるマ・ド・ドマス・ガサックは,父子間の事業承継に成功した企業という評価を得ている。本書訳者は2007年夏の訪問調査の中で,「事業承継の成功要因は何ですか」という問いを投げかけた。後継者である息子のサミュエルはひとこと「パシアンス(忍耐)」とだけ答えた。創業者である父親に対して辛抱強く接していくことこそが重要ということだろう。一方,創業者である父のエメは次のように語った。「トランスミッシヨン(事業の承継・伝承)という発想は間違っている。これは受け取る子供側の問題。受け取る術を知り,受け取るものを大切にし,それを守っていく若者がいます。一方で,大切なのは価値であって,受け取るものが何もなくても,自分で作り出していくんだと考える若者もいます。受け取ってくれて,それを守ってくれる子供を持つ者は幸せだということなのです。」

5.モンダヴィのフランス撤退とその後

 はからずもモンダヴィの進出計画の是非を問う形となった2001年3月の地方議会選挙において,全面的反対を公約に掲げた共産党マニュエル・ディアズが,推進派の社会党の現職アンドレ・ルイーズを破り,新しいアニアーヌ村の村長となった。ディアスは,前議会が行った産地開発許可を保留し,議会で進出計画反対決議をした。5月には,開発計画推進派だった地元のワイン業者グループが開発からの撤退を表明した。9月になって,モンダヴィはラングドック地方からの全面的撤退を発表し,フランスにおける子会社ヴィション・メディテラネアンをフランスの同業者に売却した。こうしてカリフォルニアのファミリー企業は失意のうちにフランスを去ることとなった。  訳者が2007年夏にアニアーヌ村役場の村長室で行ったインタビューの中で,ディアス村長は当時を振り返って語った。「アメリカ流のグローバリゼーション,地元に利益をもたらさない手法,そして何よりも山を切り開くような計画に断固反対したのです」。  南仏進出計画に失敗した後,モンダヴィでは,事業戦略をめぐって父子間の確執が決定的となった。ファミリー企業内は大きく揺れ動いた。ついに2004年9月にカリフォルニア・ワインの代名詞であったロバート・モンダヴィのファミリー企業は,アルコール飲料で世界トップのコンステレーション・ブランズに買収されてしまった。こうしてモンダヴィ家は自らの家名を冠する企業の経営権を失うこととなった。 2008年5月16日,アメリカカリフォルニア・ワイン産業の父であるロバート・モンダヴィは,94年に及ぶ波乱の生涯の幕を閉じた。
(「オーナー企業経営の特異性」『オーナー企業の経営 -進化するファミリービジネス』第5章,中央経済社,2008年より)

このページのトップへ