日々雑記


「驚くより、頭が痛くなった」

2011-09-01

とは『(関西)大学の下流化』(NTT出版)の著者でもある人間健康学部竹内洋先生のインタビューで。

野球部、レスリング部に続いて今度はヨット部。
新聞を見ながら「またかぁ」という言葉を遮り「ヨットの次はどこやろ?」と辛辣な(家人の)お言葉。

竹内先生ではないが、観察(実験)材料としてこれほど面白い人たちはいない(体育会系)。
拙家頁すら こんな話題 も登場させてくれる。ジャージ姿のまま教室のうしろで私語にいそしむ者が「私語はやめてほしい」と授業評価アンケートに書く。発表をさせれば、本のコピーにアンダーラインを引いてそのまま棒読み。全部、体育会。

大学も、頭を下げて風をやりすごせば済む話と、「再発防止に努めたい」とマスコミには流し、HPには未だ「大阪マラソン」のムービーや学長とサッカー部員の話題。うちはいつから「関西(体育)大学」になったんやろ。
「これまでのクラブ活動は従前どおり。ただし(不祥事で)「新聞沙汰」になれば理由のいかんを問わず即廃部、試合に出場できるのは評定平均78点以上の者とする」だけを公約して学長選挙に臨んでも20票は獲得できると思うほど、末端・現場の不平はかなり高い。

「大学に“体育”はいらん」というのが持論だが、はやく「破れ窓」を塞がないと、そのうち大学全体が大火傷をして、取り返しのつかない痛手を負うことになると思うのだが、その時が来ないとどうも理解できないらしい。驚くより、頭が痛くなった。

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茶碗の箱

2011-09-02

茶碗の箱。まずは紐の結び方である。色々な本に書いてあり100回ぐらい練習すれば、自ずと手が覚える。

問題は箱蓋。ぱかっ!と開けて無造作に横などに置くと後々面倒。蓋の表や裏にはたいてい文字が書いてあるので、箱蓋の天・地はわかる。ところが箱の身の部分には上・下の目印がない。長方形の茶碗箱は少なくたいていは正方形。蓋内側の桟も上下の二方桟や写真のような四方桟もある。

人の顔が左右正対称でないように、茶碗箱も左右・上下正対称ではない。蓋と身の上下を覚えておかないと、元に戻す時、ぴたりと蓋が閉まらなかったり、蓋が反ったり、時には桟がパキパキと・・・(最後のはあり得ないが)。博物館実習での基礎中の基礎。

今日のように台風が近づくなど湿度が高くなると、木は膨張して蓋はなかなか開かない。特に新調された四方桟の箱はたいへん。
「あきまへんな」と駄洒落をいって諦めるのは容易いが、それでは何をしにきたのかわからないので、頑張る。ようやく開いたものの、件の茶碗を拝見した後は、また元通りに仕舞わないといけない。
蓋・身の上下は間違っていないものの、なかなか蓋はぴたりと閉まってはくれない・・・。

台風のバカヤロー。

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プライオリティ

2011-09-03

大昔、「ミスター縦割り行政」なる者がいて、違う部局の仕事(文化財調査)を手伝おうとしたところ、「先方から『派遣依頼願』が来ていない、(君の)業務分担にその仕事はないから」と認めなかった。関係ない仕事ならいざ知らず、その成果を公開するのが私の業務のひとつなのに。小売が卸市場や問屋に行かんと、どうすんねん。
「行くんやったら、休暇を出せ」とまで言われ、売り言葉に買い言葉、休暇を出して調査に出かけた。

今も昔も、国から市町村に至るまで文化財関係には「カネ」はない。そんなことは百も承知である。
「(予算ゼロでも)ノープロブレム。こちらも勉強になりますんで・・・」「いやいや、それでは・・・」と調査実施以前に担当者と押し問答。

「じゃ、こうしましょう。(仏像)調査をして運慶や快慶の銘が出たら、その(論文の)プライオリティは私にあるということで。その時は絶対、箝口令ですから・・・」「・・・・。」
残念ながら、未だ運慶銘・快慶銘の(新出)作品に出会ったことはないが、出れば「プライスレス」。

こちらが心配するのは予算の有無ではなく、「ミスター縦割り行政」のほう。もちろん担当者の意欲も不可欠なり。

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少しは「歴史」に学べ

2011-09-04

拙宅周辺では9月2日18時22分に「大雨警報」が出て、現在(4日23:07)なおも発令中。今も時折、激しい雨。(追記:5日5:50 大雨警報解除)
昨夜からは「土砂災害警戒(警報)」や峠越えの道路(R480)も通行止。“田舎”ですから・・・。

北海道・空知には「新十津川町」がある。
明治22年(1889)8月18日から20日にかけての暴風雨(台風)によって十津川村を中心に大水害が発生し、大規模崩壊(91㎡以上)1147箇所、死者249人、全壊家屋200戸、流失家屋365戸(『明治二十二年吉野郡水災誌』)〔なお『十津川村史』では死者168 人、流失・全壊戸数426戸〕という被害を出した。
そこで翌年には、新たな生活地を求めて十津川村民600戸・2489人が北海道・トック原野(徳富川流域)に移住し「新十津川村」(現 新十津川町)を開村。

国交省の資料 では「台風は8月19日午前6時過ぎに高知県東部に上陸し、まっすぐ北上し四国地方及び中国地方を縦断し20日に日本海に抜けた。」とあり、今回とまったく同じコース。相変わらず浮き足立っているおバカなマスゴミはもちろんだが、地元ですら足元の歴史理解はおぼつかない時代になった。122年前の出来事。

「貞観地震」もそうだが、地元の歴史を知らないと命取りになる世の中になった。
地名を聞いてすぐさま風景を思い浮かべるよう場所が多く、かなり心配。

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お仕事拝見

2011-09-06

朝から好天。鞍馬へ行こうと(家人ともども)お出かけ。
京都南ICで降り京阪国道口で右折すると(東寺)五重塔。
「ここでよくね?」「仏像は今、東博で何にもない!」「じゃぁ、ここ!」「なんで?」と、教王護国寺(東寺)に変更。

講堂に入ろうとすると、「調査中」の張り紙。はぁ?
堂内の仏像はかなり“歯抜け”になっており、仏像のあった場所には薄葉紙等の養生がされ、金剛波羅密多菩薩像の周辺には足場が組まれている。金剛波羅密多菩薩像は頭部が引き抜かれ、胴体だけが仰向けに置かれている。

胴体内を懐中電灯で照らして見る美術院と文化庁のO氏。あらっ。
作品が作品だけに声をかけようかと思ったが、まさに真剣そのもので調査中。また隣人も何をしでかすか分からない存在。かつて斯界の重鎮から直接電話があって、「今、お風呂ですのでまた掛け直して下さい」と言い切った素人でもある。コワイ、コワイ・・・。

確かに、金剛波羅密多菩薩像は四方を国宝の仏像に囲まれ、こうした機会(博物館出陳)がないと調査は難しい。さすがは文化庁。

不規則発言が出ないうちに、ささ、金堂へ。ここでも薬師如来坐像周辺に足場を構架中。日光・月光菩薩像をじっくり。その後、日陰になった金堂基壇に腰掛けてしばし五重塔をながめた後、夜叉神堂、食堂。雄雌の夜叉神像はちょっと注目。

午後、寺町・錦小路に向い食事など諸々。寺町界隈の老舗では、屋号の看板や店内の扁額に注目。鳩居堂には頼山陽の扁額が掲げられ、「彩雲堂」や「桂月堂」の看板は富岡鉄斎、「柚味噌」は北大路魯山人の筆によるなど、まるで“街角書展”。
かたや、錦市場で生卵、ミョウガ、鰻巻、手羽先(唐揚)など白いビニール袋をいくつも持つ姿はまるで“地元のおばちゃん”。

待合わせを兼ねて便利堂(絵はがきギャラリー)。橋口五葉《鴨》・小原古邨《金魚》なども出ており、まだまだ夏。絵葉書数種を購入。

実は、ここで待ち合せたのは前振り。
便利堂から1軒隔てた北隣にはギャラリーH2O。現在、開催中の「金井杜道写真展 鑑真さま」(~9/11)を拝見。
買物のビニール袋をもってギャラリーとは不釣合いだが仕方ない。小路を入った先の茶室には黒バックとグレーバックの鑑真和上像。眺めていると、ご本人が登場し、どうぞ、どうぞと。
それこそ大昔に京博でお会いしたことがあり、その折の名刺もあるが、今のこちらはビニール袋提げた“買物帰りの市井のおっさん”。

脱活乾漆の質感が印画紙上に見事なまでに再現。失明(気味)の鑑真和上像の姿を通して「見ることの意味」を思い知らされる。カメラのわずかな角度によって微妙に表情も異なる。正面には実物大のプリントも。写真がもつ豊かさと重要性を実感。もちろん作品は全てモノクロ。そばでは、「まつげ、あるっ!髭剃りの剃り残しも!」と不規則発言。

京都でのお仕事拝見の一日。

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ドナドナ

2011-09-07

夏休み明け初の会議、2ケ。

最近、学生の頃から見慣れた仏像を見ながら題箋に記された所有者に驚くことが多い。仏像が譲与されているのである。
SG美術館→国、K寺→M美術館等々。いずれも著名な作品で長く所有者のもとにあったのだが、ここ数年、加速気味。

もとより美術館にあったわけではなく、本来あった寺からいつの頃か寺外へ出たものだが(盗品ではけっしてない)、再び移動の時代を迎えたような気配。かつて文化(財)を支える層が、財閥などの創設者をはじめとする数寄者であったが、再び新たな層に替わりつつあるのかもしれない。もちろん以前の所蔵者である寺にそんな余裕はない。海外に流失しないだけ、よしとすべき。

写真は仏像の返却で決して譲与ではないものの、仏像はこうして運ばれる(ちょっとごちゃごちゃしすぎ)。「荷馬車がゆれる~」では困るのだが(エアサス完備)、新しい所有者のもとで見慣れた仏像をみると、なんとなくドナドナのような心境にも・・・。

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ロダンの心境

2011-09-09

以前 にも触れたが、1907年にオーギュスト・ロダンを訪ねて弟子入りを乞うた荻原守衛(碌山)に対して、ロダンは「君の国には、よい彫刻(仏像)があるのに、どうして私のところに・・・。」と言われて、翌年に帰国。
帰国後の荻原守衛は、「彫刻だけに就て考へて見ても、どうも奈良朝あたりのものに傑作があるらしい。帰つて其を研究して見たくて堪らなかつた。で帰る早々奈良へ飛んで行つた。案の條良い物がある。世界に向つて誇るに足るべきものがあると云ふ私の自信は益々堅くなつたのです。」(『早稲田文学』第31号)とうそぶく・・・。

日本に一度も来たことがないロダンは、1900年のパリ万博にあわせて刊行された初の日本美術史概説書である巴里万国博覧会臨時事務局編『Histoire de l'art du Japon』を通して、日本の仏像を知っていたのである(その邦訳である『稿本日本帝國美術略史』は翌年刊行)。

とはいえ、日本の仏像を学ぶため、ロダンのもとを訪ねるような人もいないと思うのだが、この時期になると決まってロダンの心境に。

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弘前

2011-09-10

早朝に出立し、JAL2151にて青森・弘前へ。10年ぶり。

10年前に来た時は豪雪で夜行列車も遅れ、駅で用件を済ませた程度。今回はゆっくりと“最後の夏休み”。

まずは最勝院五重塔。日本最北端の五重塔。4代藩主津軽信政により寛文6年(1666)完成との由。寛文4年(1664年)8月の刻名がある。最勝院寺域(弘前八幡宮が隣接)はもと大円寺。明治の神仏分離で、弘前八幡宮別当最勝院が大円寺伽藍を引継ぐ(仁王門金剛力士像は岩木山百澤寺山門に安置像・現在の護摩堂が旧大円寺本堂)。大円寺は大鰐に移転(大円寺阿弥陀如来像は平安末~鎌倉期)。

「弘前犬」《A to Z Memorial Dog》を見てから、弘前市立博物館「津軽のほとけ」展へ。本日初日。

青森県は全国唯一、県下全ての市町村で悉皆調査が終了した県である。(次点は神奈川か埼玉か千葉)。弘前大学のS先生がすべてを調査。
会場には日本最北端の「押出仏」(腰鼓を打つ菩薩坐像・8世紀)をはじめとする40数点。十三湊(とさみなと)あるいは周辺からの出土品。たとえ、パラレルではなくとも驚愕の一品。
「民間仏」と称される百拝、寂導の作品や初出品の本覚寺・多聞天像。多聞天像は難陀龍王像+大黒天+多聞天像の姿態。
もちろん円空仏も2躯。

悉皆調査を行うと、悩むのは「近世の仏像」。右のポスター写真は、妙経寺・妙見菩薩半跏像。さて何時代?
一見、南北朝か室町時代にみえるのだが、実は文化18年(1814)、林如水7代目の作品。19世紀の仏像である。その他にも、報恩寺・十一面観音像は元禄14年(1701)の作品。どうみても鎌倉時代の作品に見えるのだが、でもここは江戸時代、ここも江戸・・・と考えると、製作時期は光背朱書銘にある元禄14年に落ち着かざるを得ない。
見所、考えどころの多い展示である。常設展示には稲荷神像(伝康伝作)も。

学芸員氏に挨拶をして、夕刻、青森から戻られたS先生と久々にお会いする。来週には、A大学のY先生も来るらしい。青森では13年ぶりの仏像展ながら、プロ好みの展示でもある。

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卍の街

2011-09-11

朝から雨。
弘前市の市章は「卍」。禅林街(主に曹洞宗)と新寺町(浄土・法華その他)があるので・・・ではなく、津軽氏の旗印。傘をさしながらの仏閣見学。

まずは、袋宮寺(たいぐうじ)。
「丈六仏」というのは1丈6尺(約4.8m)。たいていは坐像なので、半分の2.4m。しかし、袋宮寺十一面観音像は、像高1丈9尺6寸(6.15m)を計る丈六の立像。延宝5年(1677)に津軽4代藩主信政が父信義公の菩提を弔うために造立。頭部と両腕は留め金具で固定。こうした留金具は香川・善通寺薬師如来像など幾つか見たことがあるが、何時頃からだろうかと思う。
仏師は不明(ゲンケイとも)、頭上面には不動・愛染もあるとの由。

禅林街には黒門がありそれをくぐると、栄螺堂 ( さざえどう )。正式には三匝堂(さんそうどう)。
入口を入ると一方通行で、“さざえ”のようにぐるぐる回って、出口に(同じ通路を通らない:参拝者と帰る人がぶつからない)構造の建物を「栄螺堂」という。
前夜、言われた通りにR院で鍵を借りる(先生のお名前を出すまでには至りませんでした)。内部に入ると1周半で頂上部?、そこからは階段で降りる変形版。
栄螺堂は天保10年(1839)に弘前の豪商中田嘉兵衛が町大工の秋田屋安五郎に作らせたもの。関西ではなじみがないが、東日本では五百羅漢寺を嚆矢としてちょっとした「さざえ堂ブーム」。

禅林街の突き当りには、長勝寺。

津軽家の菩提寺。本堂のほか、御影堂には初代藩主 津軽為信像。慶長11年(1606)に病気平癒のため京都に登った為信が、仏師に作らせたとされるが、御影堂と同じく寛永6年(1629年)頃と思われる。本堂は修復中。

蒼龍窟には、旧百沢寺(岩木山神社別当寺)からと伝えられる釈迦如来、十一面観音、薬師如来の各立像の他、十六羅漢像、五百羅漢立像を安置。五百羅漢像のうち、なぜか「マルコポーロ像」も案内説明のためか脇の位置に。
境内奥には津軽家御霊屋。初代為信室(寛永5年建立、寛文12年再建)、2代信枚(寛永8年建立)、2代信枚室(寛永15年建立)、3代信義(明暦2年建立)、6代信著(宝暦3年建立)の各霊屋。

その後、足を伸ばして革秀寺。ここには為信の霊廟もあるがこの雨では拝観停止の由。残念。

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雨男

2011-09-12

今日も雨。
朝から西津軽地方には大雨警報。日に数本しか走らない五能線も午前中、鰺ケ沢~東能代駅間で運休。レンタカーで深浦へ。
県道31号線を通って鰺ケ沢、その後国道101号線(大間越街道)で深浦と思っていたら、カーナビは県道3号線から岩木山環状線(反時計回り)を通って再び県道3号線で鰺ケ沢、大間越街道というルート。ちょっとおかしいと思いつつも指示通りに。もちろん青森の道路は国道以外、ほとんど知らない。途中強雨に遭うこと数度。

途中、リンゴ畑も点在。真っ赤に色づいた樹もあるがあと少し。弘前駅前にも姫リンゴの木。(もちろん大阪とは違って誰も取らない)
青森とリンゴは切り離せないが、栽培は明治に入ってから。明治7年、政府が果樹栽培振興のため果樹の苗木を輸入配布。青森には翌年12種類346本がもたらされる。そのうちリンゴは75本。ここから青森のリンゴが始まる。

3時間弱でようやく深浦・円覚寺。深浦は北前船の風待ち港。境内には水難者供養碑も建つ。
山門・金剛力士像は明和5年(1768)京都・吉田源之丞の手によるもの。棟札には金剛力士像が上方から船に積み込まれて来たと記される。吉田源之丞老舗は現在も寺町三条に健在。
薬師堂内厨子(重要文化財)前に立つお前立ち三尊像は嘉永4年(1851)大坂・高津松屋町筋二ツ井戸の岩井弥兵衛の作、弘法大師像、役行者像、孔雀明王像なども天保13年(1842) 大坂・平島春慶の作。深浦・円覚寺は大坂仏師北限の地でもある。
寺宝館には船絵馬や髷額など奉納海上信仰資料。なかでも寛永10年(1633)に越前敦賀住庄司太郎左衛が奉納した船絵馬は、「北国船」を描いた唯一の資料で、舳先の錨の前にはざんばら髪の「持斎」の姿。航海中、海が荒れれば祈祷を行い、それでもダメな場合は「人身御供」として海に投げ込まれる人である。描かれた乗客(遊女もいる)はまさに近世初期風俗画そのもの。
髷額(まげがく)は、船乗りが海難に際して髷を切って祈り、一命をとりとめた後に感謝の気持をこめて奉納したもので、大坂や堺の地名もみえる。その他の舟絵馬も多数。
変わったところでは「蝦夷錦」や中世の大形懸仏も。清朝の官服も倭人に渡れば、仏前の打ち掛けに変身。

未だ雨も止まないが、弘前へもどる。
鰺ケ沢に向っていると、突然、カーナビが「道路規制によりルートを変更します」と、今来た道を引き返す。強雨で通行止? 来た道を強行してもカーナビは変更ルートに従うように指示するばかり。
仕方なくカーナビの指示通りに走ると、車は国道から外れ、どんどんと山奥へと入り込んでいく・・・。
よもや、まさかの「世界遺産(白神山地)」越え。(逆ルートながら こんな道

1車線、ほぼ全線砂利道(舗装路はごく僅か)、連続S字カーブ。崖からは随所で滝のような水が流れ、倒木や今しがた落ちたばかりの小落石も。時折、対向車とのすれ違いも。雨も激しくなる一方で、もうすぐ夕闇も迫る頃で、徐々に暗くなる。パンクでもしたら最後かもと、心細くなるが今さら引き返す余地もない。

もう泣きそうになった頃、携帯に大学・事務のMさんから連絡。
「センセ、今(電話)よろしいですか?」「はい、大丈夫です!」
(ぜんぜん大丈夫じゃないです。無事に帰れば何でもしますから、Mさん、助けて!)こんな山中でも携帯は繋がると思いつつ、用件はそこそこで、無事帰れるかどうかのほうが心配・・・。
真っ暗な山道を走りぬけてようやく8時前に弘前市内。4時間半のオフロード。
絶対、あのカーナビはバグっているはず。

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青森

2011-09-13

曇一時雨。時折晴れ間も。
弘前は空襲に遭っていないため寺以外にも洋風建築も多く残る。
なかには、えっ!と思うモノも存在する。

カトリック弘前教会は明治43年建造。御用大工の系譜をひく大工棟梁横山常吉の施工。従って教会堂内は畳敷き。ところが正面の祭壇を見ると、紛れもないゴシック様式の祭壇。

祭壇は、1866年(慶応2)に建築家イ・ア・オールによりオランダ・ルールモンドで製作され、アムステルダム聖トマス教会に設置されたもので1939年(昭和14年)に譲り受けたもの。部材には「1866」や「AMSTERDAM」の刻銘もみえる。正真正銘の舶来品。

次いで誓願寺・山門へ。
こけら葺、正面に切妻破風を配置する妻入りの重層四脚門という構造の、おそらく国内唯一の門。解説板には「京都誓願寺山門を模し」とあるが、京都・誓願寺に今も昔もこんな門は存在しない。
棟入りの重層四脚門を間違って妻入りにしたのであろうか。

弘前駅に戻り青森へ。弘前の次駅は難読駅名上位の「撫牛子」駅、無人駅であった新青森駅(普通でも通過した記憶)が新幹線駅になるなど、驚きの車窓。単線なので上下線どちらが遅れても延着するのは以前と変わらない。

棟方志功記念館へ。以前は鎌倉市に「棟方板画美術館」(晩年の自宅)もあったが、昨秋に閉館、板画美術館の作品、資料はすべて記念館へ移された。


《釈迦十大弟子》・《門舞頌》・《湧然する女者達々》などをみる。《群生の柵》は大屏風に日本の神々をダイナミックに表現。圧倒。クレジットは板画美術館。
ボッティチェリ《ヴィーナスの誕生》をモチーフに制作した《誕生の柵》も裏彩色が効いている。
合間には、『出雲の和紙』装丁をみたり、墨は古梅園製かなどと。
小展示では棟方愛蔵品展。池大雅、富岡鉄斎、斎白石や地元の野澤如洋、蔦谷龍岬などの軸物。ゴッホにあこがれ板画を目指し、キュビスムなども採用しダイナミックな作品を生み出し続けた棟方のもとに南画(文人画)があるというのは、やや意外。

夕刻、JAL2158にて大阪・伊丹空港へ。

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J‐カレー

2011-09-14

猛暑のなか、会議ディ。

珍しく昼前に某所「CoCo壱番」でカレーを食して出勤。
関大前に来ると、インド料理店Tがある。ここにもカレーがある。店の親父はインド(ネパール)の人。同じ「カレー」といってもCoCo壱とTでは、まったく別物である。白飯に対してナン、CoCo壱の定番「ビーフカレー」は、Tにあってはご法度。どろりとしたルーに対して“しゃぼしゃぼ”のスープ状。

もし、CoCo壱番のトップがインドや欧米に出店するなら、まずは考える。
いくら日本では「リンゴとはちみつ云々」でどろりとしたカレーが常識でも、彼の地で評価を得るのは、本場のスープ状なのか、それともドロリ系なのかと。日本のカレーが大好評であっても、それがそのまま欧米や本場で通用するのかは別問題。

そのぐらいは、(常識として)わかりそうなものだが、どうもアカン人もいるらしい。残念。

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近江の神仏

2011-09-15

会議ひとつを終えて、滋賀県立近代美術館「祈りの国、近江の仏像」展内見会へ。業界関係者も多数。

MIHO MUSEUM「天台仏教の道」(~12/11)、大津市歴史博物館「日吉の神と祭」(10/8~11/23)との三館共同企画「神仏います近江」のひとつ。
タイトル通り、近江の神仏、全員集合である。

西教寺阿弥陀三尊像(行快)など初めて見る作品も多く、会場内を行ったり来たり。
常照庵不動明王像の裳の彩色や法蔵寺薬師如来像(文明9年)に驚く。西教寺阿弥陀三尊像は、観音像に銘記があり、3体のうちでも同像の出来栄えは秀逸。長命寺大日如来像(天正17年)はまだ室町時代の余韻を残すなど、見どころいっぱい。図録も三館共同で分厚い大著。
近江へ再び、と思う展覧会。
帰り際、担当者のお疲れもピークとみた。

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仕事大将軍

2011-09-17

仏像やら建築やらにかまっていると、仕事はたまるいっぽう・・・。
来週からは授業も。

毎日を楽しくするヒント。
出来るだけ「楽しいこと」をアフターファイブ(夕刻)に廻す。ニンジン(ビール)に釣られた馬車のように、日中には用務を片づけるようと思う・・・。同じように週末にも楽しいことを。

イヤな仕事は適当に。そんな仕事は完璧にしてもなかなかOKがでない。あれこれと難癖もつく。時には・・・・。まぁ、あまり何事にも真剣に取り組めないのは、根っからの性分か。

モノ(出来事)にはいくつもの見方があり、人によって得手不得手もある。一律に考えずに、眺めているとその人の素性や関係が見えてくる。これまで疑問に思うことが解けることも。
まずは熱くならないことが肝要かと思うものの、そんな方針?を無視して仕事は際限なくやってくる。

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集古十種

2011-09-18

連休の合間ながら、午後から御用出仕にて大学。

「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶというて 夜も眠れず」は寛政の改革を推進した松平定信を皮肉った狂歌。
定信は寛政12年(1800)頃、谷文晁らに命じて各地の古宝物を模写した宝物図録集『集古十種』を編さん。
『集古十種』には「古画肖像」もあり、画像・木像取り合わせての掲載。ここには六波羅蜜寺運慶・湛慶木像も収録。

ところが、『集古十種』所収の画像は現在六波羅蜜寺での名称とは逆。頭頂がフラットなほうを「雲慶木像」(右)、とんがったほうを「湛慶木像」としている。文化庁指定名称も寺での名称に準じる。
『真美大観』(明治32年・1899~明治41年・1908)では、既に現行と同じ。とんがったほうが「運慶」(像高2尺5寸3分)。
百年の間にどこかで、誰かが取り違えたのだろう。天心の仕業だったりして。

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レジュメ

2011-09-20

今日から授業開始。

某講座(大学関係)の資料づくりで、いきなり午前様。をいをい。
10枚以上という暗黙の規定があって、う~んと悩んでしまったのが誤算のもと。締切は明日。

講演会に出かけるとばっさりと厚いレジュメが配られることもあれば、A41枚に1.2.3.と三分割で見出しだけを打ったものもある。前者の場合、講演ではレジュメにほとんど触れずに済まされると、「これ(分厚いレジュメ)はなんじゃ!」と思ったりする。後者だと、逆にこの大きな余白に聞き取って書けということかと思う。
どちらが丁寧かというと前者である。後者では、適当な話で済まされてもなぁ・・・と思う。事実、適当な与太話を集めただけの講演も少なからぬある。

近づきつつある台風で荒れる外を見ながら、明日、(提出先の)担当者は来るのだろうかとも。
この分だと、もう1日猶予が出来たのかもしれないと、思ったり。

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雨ニモマケズ 風ニモマケズ

2011-09-21

暴風警報発令(終日休校)のなか、開催しないわけにはいかない事情も多数あって、全ての会議が開催。

とあることで話題になった「コピペ」。
URLを記せば剽窃ではないとの誤解。記された剽窃をたどれば、コピペそのもの。総合図書館から連絡。
とある地方雑誌(定期刊行物)に掲載された論文の複写依頼をした一件。

申し訳なさそうに、職員氏が以下の如く説明。
「センセが依頼された地方雑誌の当該号は大阪府立大学に架蔵されていますが、その副題に「○○氏追悼記念論集」とあって、『雑誌』とはみなされずに『論文集』とされているようです。そのため各論文の半分までしか複写できないそうですが、いかがいたしますか?」と。

地方誌ゆえにISSNなどはついていないのによく調べてくれたと感謝しつつも、どういうこと?と一瞬、理解不能。雑誌でも論文集でも全ページの半分まで(単行本と同じ)はコピーOKじゃないのか。

国立国会図書館では、雑誌・新聞(最新号を除く)に掲載された個々の論文・記事については、その論文・記事全部を複写できることになっているものの、論文集などではそれぞれの論文の半分までとする複写規定があるらしい(短編集・分担執筆も同様)。
大阪府立大学でも国立国会図書館のこの規定に準じているそうで、無能な官吏がよくやる手(国がそうしていますから!)である。

(アホな)図書館員が雑誌のタイトルだけをみて「これは雑誌じゃなくて論文集」とみなせば、各論文の半分しかコピーできない。半分しか読むことができない論文など、意味をなさない。
「大阪府立大学では、研究論文の半分しか読まずに研究をしているのですね。」とうちの善良な職員に皮肉を言っても始まらない。
「当該地方の市立図書館に出向きます。お手数をおかけしました。」と謝辞。

多くの学術雑誌(定期刊行物)はほぼ論文集に近く、また古希や退官記念などの論文集も多い。そこに掲載された各論文の半分しか複写できないのは、学問・研究を阻害する以外なにものでもないと思うのだが、官吏はどうもそう考えないらしい。

仕方ない。1泊2日で某市立図書館に出向いて1枚10円で10枚ばかりのコピーを取りに行くか。

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杓子定規

2011-09-22

スポーツ嫌いなので、ご意見無用にて。
各地で高校野球・地方予選が始まっている。サヨナラや僅差で勝ち進むところもあれば、大差で勝つところもある。これは仕方ないとは思う。
でも、33-0とか39―0、71-0で「勝ってめでたい」と思うのは異常。相手にとっては“メッタ突き”。他人への思いやりが全く欠如しているとしか思えない。ここまで放置する大人(審判)もバカだから、なかなかコールドにしない。「健全な心と体の成長を遂げてくれることを期待しています」と高校学内での講演会。はぁ、今、何と仰いました?
情けない(危ない)世界である。

大手新聞社「大学の実力」調査。そこに千葉の高校教員が授業中のマナーへの対応を尋ねていないがという問い合わせ。教員の高校では、携帯電話の使用禁止、 人の話を聞きながら他のことをするのはマナー違反と教えるが、大学で受け継いでくれるかと。
尋ねる方もバカだが、記者も「ある大学の場合、教室ごとに「携帯、飲食、私語禁止。脱帽、コートは脱ぐこと」と貼り紙がされているが、事実上、野放しだ。」と指摘。「マナーの問題には、奇妙な閉塞感が漂う」と結論つけるが、社会常識の問題だろ。

簡単に剥げるようなメッキを施して、「はい。高校を卒業したのであとは大学で」というなら、メッキが剥げたなら、PL法で高校へ戻して、(不良品を)もう一度剥げないように改めるべきだろう。

“弱者”をメッタ突きにして喜ぶのは人としていかがと思い、不良品を出し続ける下請け工場の親方の「逆ぎれ」にも思える高校側の理屈。
新聞社も同じ穴の狢(むじな)だから共感するところも多いのだろうと邪推。

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私は貝になりたい

2011-09-23

大学の先生を観察すると、時には不思議な行動に。

突発的な事態が発生すると、その迷走ぶりは目を見張るほど。「こういう事態が発生し、急を要することなので、このように対処いたしました。(事後承諾がた)ヨロシク!」で済む話が、「役割分担ではこうなっている」、「こうした事態に備えて新たなルールを作るべきだ」などと、三日三晩にわたって、メール上で、“炎上”。

会議でもしかり。「どう考えてもちょっと無理・・・」と躊躇する提案。メンバーの誰もがそう思っている。でも、「おかしいんと、ちゃいますか?」「かなり無理があるんじゃないですか?」とは、誰ひとりとして言わない。皆、下を向いたまま無言。提案者はその様子をうかがって若干の修正は必要かとは思うが、基本路線は了承されたと勘違いする。

そこで、「それはおかしいのと、ちゃいますか?」と反論。「おやっ?」とも「えっ!」とも思える提案者困惑の表情。会議が終わって、周囲は「あそこでガツンと言わないと・・・」「よくぞ、言ってくれた!」とお褒め(評価)の言葉を頂くものの、提案者は諦めたわけではない。
しばらくの後、提案者が「貴重なご意見をありがとうございました。でも種々の事情から(提案通りに)進めないことには・・・」と個人的にアプローチ。こちらもそうした事情は織り込み済で、「アカンでぇ」とはとても言えない。結局、言いだしっぺがやっかいな仕事を引き受けざるを得なくなる。かくして苦悩することにも・・・。

黙って下を向いては、事態は深刻化するいっぽう。とはいえ発言すれば自ずと“火の粉”はこちらへ。
ヒール役には慣れているとはいえ、こちらに“火の粉”が降り注ぐのは、いつもと同じパターン。
本当はこういう「キャラ」じゃないのだが・・・。

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伝統

2011-09-24

夕刻、大阪大学にて美学会委員会。
少し早く着いたので、文学研究科玄関で待つ。玄関には重建懐徳堂の模型。平成に入って、設計図面(青焼)が見つかったらしい。

懐徳堂は享保9年(1724)創建され、明治2年(1869)に閉校。しかし市民の要望から大正5年(1916)10月に「重建懐徳堂」が創設され、昭和20年の空襲によって焼失する。写真には見えないが、鉄筋コンクリート3階建ての書庫・研究棟も付属する。

こういう模型は伝統を視覚的に理解するのに格好の資料である。京都大学時計台記念館にも同様の模型がある。翻ってわが校は・・・。(比べるなって)
安心なされ。ちゃんと設計図面は京都工芸繊維大学に所蔵されているから(昭和30年代、村野藤吾の図面だけど・・・)。金メダル並べている場合ではないと思うのだが、伝統に対する関心は薄いようである。

8時前まで会議。

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2011-09-25

神仏います近江

産直野菜を兼ねて、MIHO MUSEUM「天台仏教への道」。

入ってすぐに千手寺・善願寺の僧形坐像。「なんで唐時代?」といきなり(質問)。聖僧(しょうそう)といってもダメだし・・・。サクラ材で、「違うモノを目玉に入れてるし、観心寺にも似た像があるし。」と頼りなげ。
「お釈迦さん?」「違うんだ、これが。左に見る小さな青年2人。違う場面だが、これが(前世の)お釈迦さん。泥道に髪を敷いて燃燈仏の足が汚れないようにしている。」「おっ、踏んどる、踏んどる。」
・・・と相変わらず。

石山寺維摩居士像はガラスケース入りながら直近。大日寺・薬師如来像は360度見渡せる。観音寺伝教大師坐像や松禅院菩薩像も圧巻。変わったところでは《央掘摩羅経》。奥書には光明皇后が父母の追福と夫聖武天皇の時代での福寿を願うもの。天平12年5月。
これだけ名品が集うと、聖徳太子像(室町時代)だけが場違いな印象も。もちろん多聞天像も出品。
作品を前にして120分の“迷”講義。「これが学生なら・・・」と、アンタが言うな。

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めっちゃええや~ん!

2011-09-26

仮に「目玉焼き」と揶揄される吉原治良の「円」のスライドを3枚、学生に見せるとする。1枚目は典型的な代表作品。2枚目は駄作(失敗作)。3枚目はちょっと異質、異色な作品。初めて見る学生にとってはどれも似たり寄ったりにしか見えない。

「例えば皆さんが美術館の学芸員でこのうちのどれかを購入しようと思います。皆さんはどれを選びますか?まず1番目だと思う人・・・。」 それぞれに挙手。

美術館が初めて吉原の作品を購入するなら迷わず1番目だが、既に吉原の作品を所蔵している場合は3番目。躊躇なく2番目を選ぶようなら、かなり問題(の学芸員)。ただでさえ狭い業界、「アイツはモノがわからない、みえていない」と風評著しい。
なぜ2番目が失敗作であるかは、吉原治良の作歴や制作意図を研究しないとみえてこない。

本当は彫刻や古美術でも同じことなのだが。
本日にて春学期授業終了。

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土居通夫

2011-09-27

昨夜、少し話題になった土居通夫(1837~1917)。
明治の実業家。大阪府権少参事(副知事)、大阪控訴裁判所所長、大阪電灯(株)社長でもあり、鴻池の大番頭。

大阪商工会議所第7代会頭でもあり、同地に銅像が立つ。碑文は藤沢南岳の撰によるもの。初代の銅像は、没年の翌年、(大正7年・1918)に建てられ昭和17年に“出征”(金属類回収令)。現在のは昭和31年に建てられたもの。

明治時代の論評で「東京にこれほど多くの銅像を建ててどうする気なのか」といった文を読んだが、大阪も負けず劣らず・・・。

「どうしてその話題を外す?」という言葉も聞こえそうである。
宇和島藩士で、関西大学創設者のひとり。 大学会館の胸像レリーフにも土井はいる。

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在地仏師と朦朧体

2011-09-28

“無茶ぶり”とわかりつつも、長野・飯田市へ。
今日は会議がないでぃ。

飯田には「井出」を名乗る在地仏師がいる。初代幸蔵と2代正忠が時の飯田藩主に招かれて佐久郡海瀬村から飯田に居住したのが最初。作品は上・下伊那郡と飯田市に集中。在銘作品では寛文12年に正忠が作った千躰観音像を除いて、圧倒的に運正(4代目・享保~明和)と祐正(6代目・安永~寛政)の作品が多い。5代目は佐久に戻ったようである。

運正は「大仏師法橋了慶弟子」「江戸日本橋法橋了慶弟子」とし、祐正は「大仏師法橋了無末流」と。「江戸日本橋了慶」の弟子ながら、後年京都の了慶(蔵之丞)と混同し「了無末流」としたのかも知れない。京都ブランドの力技なのか。明治になると、12代目嘉仙はもちろん“近代彫刻家”として活躍。
元善光寺。江戸時代の涅槃像(木像)がふたつも。《善光寺絵伝》は、難波の堀江に投げ捨てられた仏像を聖徳太子が救出しようとすると、仏像が池から顔を出して「アンタじゃない(待つ人あるべし)」と、聖徳太子がシカトされる場面がユニーク。もちろん仏像は本田善光を待っている・・・。

飯田市美術博物館「春草晩年の探求-日本美術院と装飾美-」。今年は菱田春草没後百年。飯田は春草の生誕地でもある。博物館前にも横山大観揮毫の「菱田春草誕生之地」。3室に分かれ、第1章が菱田春草の生涯、第2章が日本美術院と装飾美として横山大観、下村観山、木村武山の作品。

誤解を恐れずにいうと「朦朧体」とは西洋絵画にみる空気遠近法による「空間構成」を目指した「運動」であった。そのため日本画特有の輪郭線は喪失し、色彩によるグラデーションの獲得を目指す。
折りしも明治30年代は近代初の光琳ブームでもあり、春草は早い段階で「朦朧体」から(脱却し)、琳派作品にみられる「たらしこみ」や「つけたけ」「ほりぬき」を通して琳派(装飾美)へと傾倒していく。

《落葉》(福井県立美術館・茨城県立近代美術館)や《雀に鴉》《柿に猫》(永青文庫の黒猫)は秀逸。《落葉》では既に奥行表現が減少し、《松竹梅》では銀地屏風で完全に喪失。茨城県立近代美術館本ではハラハラと舞い落ちる落葉と整理された画面構成。
《賢首菩薩》は下絵とともに出品され微妙に相違する。その他の小下絵は六曲一双の屏風用らしく、各扇ごとに縦線。
それに比べ、木村武山はともかく、横山大観、下村観山の作品は酷いものばかり。きっと、世間では名品と評価されるものだろうが。

「朦朧体」の欠点は多数の色をグラデーションすると、色彩が濁る点にある。つまり「きたない絵」になってしまう。観山《寿星》で寿老人が腰かける岩は限りなく醜い。《小倉山》(右隻)は苦心が窺われるものの、観山《獅子図屏風》に至っては中学校の美術部作品?と思ってしまった。

横山大観に至っては「なんじゃ、これは」と呟くばかり。名所である《三保松原》の州浜は薄墨の太い線が引かれ、州浜が南極の棚氷にもみえる。《阿やめ》は女性と菖蒲のバランスが完全におかしい。《群青富士》では片岡球子?などと。

「美人薄命」というが、菱田春草も腎臓炎を患い失明状態に。明治44年8月29日付の手紙は妻千代による口述代筆。自宅も新築したというのに・・・。追伸に「重篤」と千代。
9月16日に36歳の生涯を閉じる。

半券持参で長野県信濃美術館(長野市)「没後100年菱田春草展」が団体料金になるものの、明日は授業。泣く泣く大阪にもどる。

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浪花節

2011-09-29

美術館や博物館で作品を借用する時、電話で「こういう展覧会を企画しており、貴館ご所蔵の○○をお借りしたいのですが」とまずは電話連絡。そこで、内諾が出ても「そこで、ご挨拶とお願いかたがた、貴館をお尋ねして・・・」ということで、面談(相談)にこぎつける。逆に貸すのが当たり前といった風のところは見向きもせず即、貸出しお断り。

こんなことは最低限の常識だと思っていたが、今の若者は、さにあらず。貸す、貸さないのはこちらの胸先三寸にかかる。なにもそうした非常識にこちらが合わせることはない。

顔を洗って出直しておいで。(もちろん作品の借用にはあらずの話)

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和傘

2011-09-30

久しぶりに雨模様。関大前通りにも傘の花が咲く。

傘(差しがさ・柄傘)は最初高貴な人用の「日傘」。平安時代には和紙に油を塗布して防水性を持たせた「雨傘」が誕生。
和傘は防水性には大変優れているが、耐久性に優れているとは言えない。
英一蝶《雨宿り図屏風》は好きな作品のひとつだが、突然の驟雨に慌てて屋根や門の下に駆け込んで肩を寄せる人々。前には破れ傘。雨の跳ねよけにも見える。外で働く人たちはやれやれといった表情で、子供は無心にあそぶ。右からは破れ傘に3人の人物が駆け込む。確かに耐久性はなさそう。庶民は江戸時代なかばまで菅笠(すげがさ)と簑(みの)。
和傘のどこが「eco」なんだ。

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