日々雑記


茶杓

2013-09-01

今冬、利休の映画(『利休にたずねよ』)が公開。予告編で「美しい茶杓だ。俺には分かる」と述べるシーンがある。が、私には茶杓の美しさはよくわからない。
西山松之助氏が『日本美術工芸』誌上に「名杓拝見」を連載されていたのを思い出す。実物大のスケッチ図と部分図(印刷の関係で縮小してあるが)、茶杓入れの図が添えてあったが、文章はよくわかるのだが実感としてわかるわけでもない。竹を切っただけでなんとなく自分で出来そうにも思うのだが、きっと難しいのだろう。
お茶といえばいつもいただくばかりで、人様にさしあげるために茶を点てたこともないので仕方ない。茶杓や茶筅の良しあしは、きっと亭主にならないとわからないのだろう。

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胎内文書

2013-09-02

終日雨。某市で仏像調査。
仏像3躯で、ざっとみたところ江戸時代(17世紀後半から18世紀)だが、調査を進めていくと、背面腰に蓋?がありそっと開けるとこの有様。一同、びっくり。許可をいただき丁寧に撮影と開封、採寸など。わずか1尺5寸の仏像に胎内文書が5通も入っている。長年、調査を行っているが胎内文書の発見は四半世紀ぶり。年号はあったのだが、残念ながら胎内文書、像内や台座にも仏師の名前がなかったのだが・・・。
最後に調査した仏像は台座の見えない部分に丸い栓があり端には黒糸が垂れている。栓を抜いて黒糸を引っ張ると、再び文書が出現。こちらは4通が紙に包まれて黒糸で縛ってある。いずれも造像に込めた熱い思いが書き綴られている。仏像3躯ながら夕刻まで調査に手間取る。

時折、「調査」と称しておきながら“見るだけ”のところもあるが、実際のところ何もわからない。そもそも見えないところに様々な記録をしたためているので正面外見からは見えるはずもない。

某市初の調査は江戸時代の仏像ながらインパクト大。調査報告はちょっと分厚くなるなぁなどと考えながら帰阪。

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小林剛

2013-09-03

うちの小林剛氏ではない。ふとしたことで、美術評論家の土方定一と日本彫刻史研究家の小林剛が旧制水戸高等学校・東京大学で同級生であったことを知る。

『日本彫刻史研究』『仏師運慶の研究』など多くの著書や論文があるが、お気に入りは『日本美術大系 彫刻』(誠文堂新光社 昭和16年)。表紙はすべてラミネート加工してある座右の書。編纂主任ながら小林が執筆したのは総説と江戸時代、彫刻作家傳及系譜のみ。奈良時代は望月信成、貞観時代は金森遵、室町時代は谷信一という執筆陣である。「彫刻作家傳及系譜」には江戸時代の項目も。当時の肩書は東京帝室博物館。同巻には野間清六、金森遵、渋江二郎の同僚も執筆しているが、野間清六が1歳年上であるほかは皆小林より若い。にも関わらず・・・という思い。
昭和8年に奈良帝室博物館で開催された「運慶を中心とする鎌倉彫刻展」も画期的だが、同書で作品をもとに江戸時代の仏像を扱った点は驚愕に値する。

戦後、文化財保護委員会保存部美術工芸課、奈良文化財研究所美術工芸研究室長を経て奈良国立文化財研究所所長となる。この間にも数々の論文を執筆するが、「椿井仏師舜覚房春慶」や『宝山湛海伝記史料集成』また『奈良市史』美術編でも奈良時代と室町時代、江戸時代を執筆している。

数多くの論文に隠れて見えづらいが、大先達の室町・江戸時代の仏像に対する情熱はいったい何だったのだろうかと不思議に思う。

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石工 快慶

2013-09-04

三郷町・持聖院「一針薬師笠石仏」に「アン(梵字)大工匠人」の文字があり、快慶の初期作品だとする報道。
「一針薬師笠石仏」に鎌倉時代の高僧貞慶が関わったことは確かなようだが、どう判断したら快慶だと考えられるのか理解しがたく、発表をそのまま鵜呑みにする報道も然り。

「快慶が原図を作図した」とする太田古朴氏の説明がまだまし。「大工」「匠人」いずれを採っても快慶とは結びつかない。
鍛冶師と鋳物師が異なるように、ちょっと調べれば(考えれば)すぐわかることなのに。
こういう“花火”は、実に困る。

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模写と贋作

2013-09-05
絵画に「巧芸画」というのがある。コロタイプ多色刷で原画と同じ基底材(絹・紙など)に印刷したものである。
時折、掛軸の束に混じっていることもあるが、肉筆とはまったく違うのでそれとすぐわかる。

今も昔も絵画の習得は模写が主流。ところが印章落款までを模写したり、作品に後で(原画の)落款印章をしたためると贋作となる。
幕末、土佐の御用絵師林洞意は古物商中村屋幸吉に狩野探幽《蘆雁図》双幅の模写を依頼。ところが市場に出回った時には探幽の落款印章が押されている。購入者は《蘆雁図》の鑑定を依頼し贋作とわかり、林洞意は尋問を受け御用絵師を剥奪され城下追放の身となり、一介の町絵師となる。彼こそ「絵師金蔵」(絵金)。
模写と贋作は紙一重。

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墓穴

2013-09-07

「(大阪)都構想」を争点に堺市市長選挙の話題が新聞を賑わす。
松井府知事が世界文化遺産登録へのアピール策として、百舌鳥(もず)・古市古墳群の仁徳天皇陵古墳にふれ、「宮内庁がどう言うかはあるけどイルミネーションで飾ってみよう、中を見学できるようにしようと色んなアイデアを出して初めて指定される」と。

アホやねぇ。古墳は墓なの。それに仁徳陵古墳は竪穴式石室。「中をみよう」というのは発掘しようと同じこと。
そういうのは管理者である宮内庁が一番嫌がること。正倉院が世界遺産になって電飾したか、正倉内部を公開したか。せっかく堺市や大阪府が宮内庁と協議している最中に、知事がそんなトンでもない話をしたら、宮内庁の姿勢が硬化するのがわからないらしい。
地元も遊覧船、浮かべたらええやんという人もいるが、(世界遺産になっても)このままそっとという人も多い。世界遺産(候補)から徐々に遠のく雰囲気。
これまでの担当者の苦労がぶち壊し。墓穴そのもの・・・。

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子ほめ

2013-09-08

落語の演目に「子ほめ」というのがある。こういう文章を見ると、「『タダ酒』、飲ませてもらったんかいな」といぶかること多し。
写真でうかがうかぎりでは、大粒に刻まれた螺髪や肩の張った塊量的な堂々としたその体躯の表現から見て、十世紀の頃の作と考えられるが、衣文の彫法は比較的浅いようにも見受けられる。顔面は後世に塗り直されたものであろうが、画龍点晴という言葉とは逆に、後補によるこの瞳のまずい点じかた(じたい?)が、この薬師如来像本来の威力を減殺してしまっていることは惜しまれる。
見てへんのやわ、作品を。1978年の某教育委員会刊行物。

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酒会壺(酒海壺)

2013-09-09

胴部が張った中国龍泉窯の大型青磁蓋付壺のことである。北条顕時(1301年没)の骨壷に使用され(金沢文庫蔵)、日本では権威を示す財産として知られ、エジプト・フスタートからもエジプト産の摸倣作が作られている。
少し変わった製法で、口径>底径で、底なしの胴部を作ってから口の部分から円盤を入れて底の内外から釉薬留めしている。

首里城京の内遺跡からは1459年の失火により焼失した倉庫跡から14世紀中頃から15世紀中頃にかけての中国各地の青磁・白磁・青花やベトナム・タイの陶磁器・備前焼など518点が出土しており、青磁だけで289点、酒会壺も14個出土している。なかには定窯白磁蓮花杯(12世紀中頃~13世紀中頃)も含まれる。

遺跡から出土する陶磁器が難しいのは、制作年代、使用年代、破棄年代がそれぞれ異なるところにある。それまでの時代はおおむね破棄された土器の時期が時代を決める物差しとなったが、陶磁器の時代ではそうもいかない点にある。
青磁馬上杯などをみると堺出土の陶磁器も琉球経由ではなかったのかとふと思ったり。

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GALLERY

2013-09-10

西安踏査の写真(一部)を再びUP。(西安)

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勝林院

2013-09-11

京都産業大学むすびわざ館「京都大原勝林院の仏教文化と歴史」展を見学。

以前、この阿弥陀如来像について御下問があって、寺のパンフ(略縁起)には火災の翌年(元文2年・1737)に「大仏師香雲」が修復したとあるが、誰なのかという。
その時、香雲なる仏師は明治の案内記に初めて登場するので、①修復した仏師は香雲ではない、②火災の翌年に修復したとあるが、本堂再建は火災から43年後(安永8年)なので仏像の修復は元文2年より後であると答えた。
京産大へ行ったのはこれを確認するため。
ゆめゆめ胎内や納入文書に「香雲」などの文字があれば目も当てられない・・・。

会場には胎内仏3躯と「証拠阿弥陀腹内記」等々。胎内仏はすべて阿弥陀如来像。平安時代後期、鎌倉時代、江戸時代の三種。鎌倉時代のものは背面が薄く光背化仏、江戸時代のものは拱手して衣を前に懸けることから観音の正面化仏であろうか。

どきどきしながら「証拠阿弥陀腹内記」。康成(尚)、定超(朝)、慶秀と続き、以下は被災と再建の記録。「香雲」はなかった。安堵。
もうひとつの問題。「腹内記」には「元文二年丁巳秋本尊彫巧瑩落成」とある。む~ん、間違えたか・・・と思う。ただし「腹内記」の最後は安永8年の本堂供養で終わっている。 3躯の阿弥陀如来像の台座(すべて江戸時代)をよく見ると、それぞれ形が異なり時期幅が認められる。納入状況も平安時代後期は台座の上にそのまま、鎌倉時代は木瓜形の黒漆塗り厨子、江戸時代は白木厨子に納入。
一時期に納入したとすれば扱いがバラバラ。最も新しいと見えた鎌倉仏の台座はちょうど18世紀後半頃。「腹内記」を記した時期と同じように見える。

なんとなく納得しながら(安堵しながら)会場を去る。
それにしても体躯のほうが江戸時代の復興なのか(首と体躯との像内接合部写真パネルあり)。衣文表現は平安時代後期とみまがうばかり。展示は10月20日まで。

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訃報

2013-09-13

とある所から用件についてのメールで訃報に接する。先月上旬のことだそうだ。この春にお会いしたばかりなのに。
2月にお会いしたM氏も5月に亡くなっているし、校正原稿で訃報を知ることも。

懇意であった人、見知った人が亡くなるのはとても辛い。
後に託された重みをしみじみ知る。

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無土器時代

2013-09-15

JTA271便にて那覇へ。
西原町の沖縄県立埋蔵文化財センター。もと県立博物館のあった中城御殿(皇太子邸)と円覚寺についての知見を得る。平成14年から円覚寺の石牆(せきしょう・石垣)の復元整備が行われており、今回は南の範囲が確定。石牆復元後は希望的観測だが、堂舎の復元となろう。
その他、普天間基地内の文化財分布調査成果。調査可能な3割の地点から102遺跡が確認され、順次トレンチ調査。基地内の遺跡保存活用と「返還後の円滑な再開発」のため。ストーリーはすでに出来上がっているようである。

沖縄の考古資料はなかなか難しい。弥生時代(B.C.100)から平安時代後期(1150年)までざっくりと「貝塚時代後期」と称する。この時期は石垣島・宮古島では土器が出土しない「無土器期」。そしてグスクが作られ輸入陶磁器の時代を迎える。
土器を時期の基準とする日本の発掘では何もわからない。その後、琉球大学資料館風樹館。首里城関係の資料などを見学。

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沖縄は快晴

2013-09-16

朝から台風で関西ではえらいことになっているらしい。電話をすると緊急速報メールがいっぱい出たそうで「こんな時に限って・・・」と嫌味を頂く。こちらは超快晴。

恩名村博物館前の「道光四年十二月初六日立」(1825年)の唐人墓。
呂正等32名が商船一隻に乗り、泉州府同安県を出帆したが暴風で難破し26名が溺死、呂正ら6名は水桶に入って漂流し、恩納間切の仲泊沖にたどり着く。しかし呂正以外はすでに死亡しており、そこを墓地とし石碑が建てられ、呂正は陸路で泊村に運ばれて帰国。
石碑には「福建省泉州府同安県難民□□水櫃飄来」とあり、「呂仁、呂春、呂孝、洪貴、胡明」の名が刻まれる。

その後、本部町瀬底土帝君へ。瀬底土帝君は農業神。健堅親雲上(キンキン・ペーチン/1705‐79)が清国から土帝君の木像をもってきて安置したもの。

いろんな資料があるとつくづく感心。

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今帰仁

2013-10-17

今帰仁歴史文化センター。
ここの展示は、地元ローカルと世界遺産がごっちゃになった展示で、しかも今帰仁城の入場料と抱き合わせでいつ来ても不愉快だが、今日は辛抱の1日。
白い石膏で復元された酒会壺をはじめベトナム産大壺(底が分からないので「酒会壺」と断定できず)や青磁瓶、瑠璃釉碗など輸入陶磁器を見る。今帰仁城は北山時代の城郭。その後、中山(首里城)に征服されるも北山地域の監守城となる。これだけ良好な資料は首里城京の内遺跡以外にないのだが。

万国津梁の鐘に刻まれる「舟楫をもって万国の津梁となし、異産至宝は十方刹に充満せり」の異産至宝はまさにアジアの陶磁器である。そうした点でちゃんと展示すれば何倍もその魅力が引き出せるのに。その後、今帰仁城に登って大急ぎで那覇空港へ。JTA278で帰阪。

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図書

2013-09-20

図書を閲覧に兵庫県立図書館(明石市)へ。
公立図書館では、国立国会図書館(本館)とここにしかない。大学図書館で購入してもらおうとしても、今年は円安の関係で洋雑誌・洋図書の購入費が膨れ上がり、既に購入依頼は一時凍結の憂き目。どこが「トップクラスの図書館」やねん。

閉館間際までにひと通り閲覧したが、帰りは週末金曜で関西独特の「五・十日(ごとび)」と重なって3時間かけて帰宅。電車にすればよかった・・・。

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順誉故禅

2013-09-22

ようやくのこと、原稿がひとつ片付く。
絡んだ糸を解くのが仕事とはいえ、複雑過ぎ、研究者も余計に糸を絡ませていたりして大変。
最後は「順誉故禅住職被仰付」でひと苦労。 それまでの資料では「順誉了信」とあったが、調べていくうちに了信は禅宗の僧侶らしく、了信が亡くなって先の文が続く。了信は浄土宗で貢献しており特別の計らいで「順誉」の誉号を与えられ「故禅住職に順誉に仰せつけ」とみて喜んだものの、順誉の死亡記事はその後に掲出。順誉=了信でなかったことが判明。
よく考えると、「順誉故禅」がフルネームであることに気付く。まったく紛らわしい。

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北魏

2013-09-23

大阪市立美術館「北魏 石造仏教彫刻の展開」展を見に行く。
山口コレクション28点を含み、台東区立書道博物館や浜松市博物館などからも出品された60余点の特別展。 さすがに入館者は少ないが、驚嘆の作品群。

北魏は内蒙古に住む鮮卑・拓跋族によって建国。彼らは非漢族であるためお約束通り仏教を厚く崇拝。都を平城(大同)に移したが、河西回廊・涼州地方(北涼)の造像工人などを平城に強制移住。その中に曇曜もいた。彼らが制作したのが雲岡石窟。その間、仏像はガンダーラ風から中国風に大きく変化。493年には都は大同から洛陽へ遷都し、そこでは龍門石窟が開かれる。
今回の展示はそうした展開を知るにふさわしく、また地方性豊かな作品も並べられ「現在進行形」の研究状況がよく知られる。

山口コレクション展も1979年秋、1984年秋以来。いつものように石仏の前をぐるぐるしながら見て回る。天安元年(466)の如来坐像や延興2年(472)の大和文華館如来三尊像、武定2年(544)の書道博物館菩薩半跏像などはじっくりと。
見学後、図録を買おうとすると、今回の展示で山口コレクション以外の作品を収録した特別展図録が1000円、山口コレクション全カタログ(共にオールカラー)が1800円。合わせて2800円。少し躊躇したが購入する。自分へのご褒美。

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梵字

2013-09-24

本日から授業。夕刻、梵字を調べに図書館へ。梵字事典は「語学」のコーナー。
ひとつはすぐさま真言であることが分かったが、もうひとつはなかなか見当たらない。やむなく一字一字を“翻訳”。
バ・ア・ラ・カ・キャ。はて?まぁ読めたからよいかと事典を書架へ戻す。コピーに振られた音を眺めつつ図書館を出た際に「読めた」。 五輪塔に振られているキャ・カ・ラ・ア・バを反対に書いていたのだ。もうまったく。

梵字は苦手である。十一面観音や薬師如来の梵字(種字)は見慣れているのでわかるが、真言などが書かれているともうお手上げ。以前は京都・綜芸舎から出ているコンパクトな『梵字入門』が調査道具の中にあったが、どこかで紛失してしまいそれっきりとなっている。

江戸時代の真言僧 浄厳覚彦が創案したとされる「百字真言鐘」はまさに梵字が100文字。本格的に「悉曇」を学ぼうという気はなく『梵字入門』を再購入することにする。梵字フォントもあるが、今回はそこまですることもあるまいと、写真の横にルビ打ち。

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Cにすればよかった・・・

2013-09-25

会議ディ。
遅い朝、見るともなしにNHK TVを見ていると、静嘉堂文庫美術館で来月から始まる「松浦武四郎展」のニュース。 資料が映し出された映像を見て思わず「あっ!」と叫ぶ。これに酷似した箱書を見たことがある。

昨年秋頃だったと思うが、東京にいる旧友からメールが来て仏像の写真(PDFファイル)が添えられての質問。 件の仏像は

  A.ほぼ,贋物であろう。調査するには値しない。
  B.見てみないとわからないが,調査する価値はある。
  C.重要な資料となりうるものである。実見したい。

A・B・Cいずれかに○をしていただければとのこと。
あまりはっきりと覚えていないが、裏付けをとってBに丸を付けたように思う。 作品の都合からCというのはやや無理がある。 普段ならすぐさま「LET'S GO!」と返事が来るところだが、「そのうち、またいずれ・・・」と何やら歯切れが悪い。きっと多忙なんだろう・・・。
おそらくあの資料は静嘉堂文庫美術館の所蔵品だったんだろうと氷解。

聖徳太子像(江戸時代後期)もあることなので、ぜひこの目に見てみたいものである。
Cにすればよかった・・・。

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疑心暗鬼

2013-09-26

(頭の痛い)全学共通科目 秋学期初回。騒がしいことだろうと思いつつ教室に入ると意外に静か。ガイダンスを行っていると、男女五人組がぎゃぎゃ言いながら教室に入ってくる。静かにしろ!と一喝。こいつらを静かにするためには質問をしてやればよい、そうすれば、とりあえずは「前を向く、私語はしないはず」。
授業のマクラは「見ているけれど、実は見ていない」というもの。左のスライドを示して、「正しいのはどっち?」と質問を投げかける。件の男子学生、すかさず「上!」と。え゛ぇ~、をいをい。

大勢の学生を前にして“恥”をかかされた男子学生は余計私語に“励む”。再び一喝したら男女揃って退室していった。結果オーライか。
信号ぐらい間違えるなよ。この後の「サークルk」バージョンに進めないじゃないか。(笑)

真面目な学生が増えるいっぽうで、こうした学生も年々ひどくなる有様。 とりあえず初回にガツンとしておかなければ、真面目な学生が迷惑を被る・・・と思って初回は“強面”で臨む。
今は履修変更期間なので(これで)受講生が減ると思って、夕刻、再び名簿を見れば80名増の200名超。
“来週も強面”なのかと思うとかなり憂鬱。

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キャンパスメンバーズ

2013-09-27

昨日の授業終了後、学生が教壇に来て「さきほど、学生証をみせると国立博物館がタダになると言ってましたが・・・」と。
関西大学はキャンパスメンバーズなので、学生証を提示すると奈良博の常設展と京博の特別展は無料、奈良博の特別展も400円になるという“お得な1枚”。ただし教職員証は対象外である。
「浪人時代のつらい思い(一般料金)がありますので、大学に入ったからには学生料金で美術館に・・・」と殊勝なことも。
そして今日の1年生向け授業でも同じことが。

まぁ、入学式後のどたばたガイダンスではアナウンスすることも難しいが、それにしても大学のPR不足というか、これまで教員の誰もアナウンスしなかったのかが不思議。

「関西文化力」といいながら、結局、宝の持ち腐れ。だから東京で「洛中洛外図屏風」の展覧会が開かれるかとも思ったり。

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スタバで思うこと

2013-09-28

大阪大学で美学会。今回で御役御免の由。中途半端な時間に出たのでスタバで時間調整。

某県で初めてスタバの店舗が出来、大行列をなしたこともあった。隣県にあってなぜ我が県にないんだと憤る所もあるらしい。
良いモノ(別にスタバがよいとは思わないが)は全国どこで同じレベルで欲したがる。

江戸時代の仏像が画一化されたのは、こうした感情の結果でもあると思う。出来れば京都仏師が造った仏像を、それがダメでも江戸仏師や大坂仏師に頼んでと、近世の人たちはそう思ったはずである。
スタバが来なくても、うちには「喫茶いこい」があるじゃないか、「SHIBUYA109」の服がなくても「モンペ」があるじゃないかと強弁しても、白眼視されるだけ。

近世の仏像は画一化されてみるべき作品はないなどという人も未だに居るが、スタバを求める感情と同じものが近世にあったのではなかったのか。仏師も同じものを大量生産した結果、質的に低下したことも否めないが、それを求めた人々にも問題がなかったとはいえまい。
遡ると、古代の仏像からこうした人々の感情が流れていたことに気づく。

昔も今も変わらないと思いつつ、大阪大学へ向かう。

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