日々雑記
竹内栖鳳
2013-12-01
2・3回生合同の見学会で、京都市美術館「竹内栖鳳‐近代日本画の巨人-」展へ。
就活解禁日と重なり3回生の参加は少なく、また最終日とあってあいかわらず入口近くで大混雑。館前でざっとした見どころを述べて後は自由見学。
京都の人は親しみを込めて「栖鳳さん」と呼ぶ。
東京の日本画家は「画家」として完結するが、京都の画家は、様々な伝統産業に貢献。菊池芳文や浅井忠の絵画もタペストリになって宮廷に飾られ、漆器や陶磁のデザインになる。竹内栖鳳も同じで《ベニスの月》が飯田新七によってタペストリになって大英博物館に収まる。極端にいえば、そうした工芸品が明治政府まもない頃に輸出され、外貨を獲得し、軍備や近代の社会インフラを整備していった。
美術館に展示される作品すべてが一級品であるとは限らない。どこかに絶頂期があり、それ以降は衰退であるとの持論で作品を見てみると、最後のピークはやはり《斑猫》あたりだろうか。
もっとも、この絶頂期は人によって大きく異なる。アイスクリームが溶けたような雪をいただく富士山がよいと思う人はそれでいい。みんな同じ感性だと美術は面白くない。
夕刻、お茶して解散。
ボツネタ
2013-12-02
知己の記者から、どう思いますか?と示された仏像と付属文書の写真。
仏像には墨書があるが、先方が言う時代(鎌倉時代)にしてはかなりへたくそな文字。うまく言えないが、もっと熱がこもっている書体でないといけない。 付属文書は鎌倉時代の文言の後に「紙を継いで」近世初頭の文言が続く。
ところが、鎌倉時代の文言を記した紙質と近世初頭の文言を記した紙質は同一のようにみえる。これでは、近世初頭に鎌倉時代風の文言を記したことに他ならない。仏像の作風もそう古くはないもので、もっと不思議なこともあるがここでは割愛。
記事にするにはかなり難しいと返事。
唐物の記憶
2013-12-03
とある雑誌を見ていたら、『天王寺屋会記』(宗及他会記)にみえる津田宗及がスケッチした玉澗 《山市晴巒図》が挿図に使われていた。
茶会に掛けられた軸なので、茶会が終わってから記憶をたどって記したものであろう。津田宗及は『天王寺屋宗及道具拝見記』も記しており、永禄10年12月25日の茶会では、“もつけい”(牧谿)の簡翁居敬賛《腹さすり布袋図》(九州国立博物館蔵)が掛けられ、これもスケッチ。
スケッチはちょっと「ウマヘタ」な絵ながら、同図は足利義政、上杉謙信、徳川将軍家に伝来した由緒あるもので、桃山時代の茶会には都合6回も掛けられている。
わびさびの茶ながら、掛物は唐物の独壇場。
木村立嶽
2013-12-04
幕末・越中出身の絵師に「木村立嶽」がいる。
狩野芳崖、狩野勝玉、橋本雅邦とともに「勝川院(雅信)門下 四天王」のひとり。彼を取りあげる研究者はわずかに一人。芳崖や雅邦の影に隠れて目立たない存在だが、作品は国内はもとよりボストン美術館、フリアギャラリー、フィラデルフィア美術館などに分散。もちろんフェノロサあたりの関与が大きい。
大学の会議で「グローバル」という言葉を聞きながら、日本で埋もれ欧米が注目する絵師を取り上げるのも「グローバル」ではないのかと思ったり。
坊主憎けりゃ・・・
2013-12-06
授業も終盤。分属があったり、試験問題や来年度のシラバス作成まで。
地元では、府の3セクである鉄道がアメリカ投資ファンドに売却。堺市議会が撤回要求。沿線大学では運賃値下げの要求も。売却価格は高いにしろ値下げは10円。売却価格は2位(接続私鉄)ながら値下げは80円。なにせ日本で1、2位を争うほど高い運賃なのでいやがおうにも関心は高い。堺市議会の「維新」も当初は売却反対していたが、幹事長(府知事)から「幼稚」と言われて判断停止。
市長選挙以来、徹底して抗戦を続ける堺市と大阪府だが、世界遺産候補としている「百舌鳥古墳群」での共闘は大丈夫だろうかと思う。なんだか暗雲が漂う予感。
既に2021年に関西で開催予定の生涯スポーツ国際大会「ワールドマスターズゲームズ」では、関西広域連合と堺市が賛同、大阪市と大阪府は費用対効果が見込めないとして参加拒否。
しかし、あいかわらず目先の銭にしか関心がない(法を破ることも恐れず)のは、さすが「維新」。
職人尽絵
2013-12-07
関大で美学会。
喜多院本《職人尽絵》には「仏師」が描かれている。大きな立像を囲んで仏師が制作中。右には僧衣に袈裟姿、頭巾をかぶって立像に指さす人物がいる。
一部の解説書には仁王像制作のクライアントである『僧侶』としているが、件の仏像は右手に戟を構え左手は掌を上に向けているので、毘沙門天像。また僧衣の人物が実は大仏師(棟梁)。
大仏師がノミや彫刀をもってあくせく彫刻しないのである。
仮小屋のなかでチョウナや槍鉋など色々な道具をもって仏師が仏像を制作。脚立に腰かけたのが、古参の仏師であろう。毘沙門天像もほぼ完成に近付きつつある。
この毘沙門天像の制作は出職であろうか居職であろうかと、ふと思う。それにしても等身大を超える大きな毘沙門天像である。
動物裁判
2013-12-08
午後よりプレ・スチューデントプログラムのため出校。
テキストの見本として取り上げられたのが池上俊一『動物裁判』(講談社現代新書)。
13〜17世紀前後の中世ヨーロッパでは、動物裁判というものが流行。これは、農作物を食い荒らすバッタや赤ちゃんを蹴り殺した豚(猪っぽい)など動物を、人間と同じく裁判にかけて処罰するというもの。もちろん判事も弁護人も大真面目。殺人罪の豚は絞首刑、バッタは破門宣告。
キリスト教世界において、罪を犯したものは人間や動植物、無機物であっても裁きを受けなければならないというキリスト教文化の土壌である。
「芋虫は歩みが遅いので、裁判所に期日まで出廷することは難しい」と弁護人。
今から思うとちょっと滑稽なヨーロッパ。
探幽三兄弟
2013-12-10
事情ありて東京へ御用。
朝早い新幹線にのったので、終わる頃には若干の余裕。
思い切って終了間際の出光美術館「江戸の狩野派」展に飛び込む。
メインは探幽・尚信・安信。贋作でよく登場する「探幽三兄弟の合作」でおなじみの画師。尚信《叭々鳥・猿猴図屏風》は見事。尚信ってこんなにうまかったんだと素人ながら感嘆。永納《遊鶴図屏風》と安信《松竹に群鶴図屏風》を同時に並べて(共に出光美術館蔵)京狩野VS江戸狩野とする点も面白い。
探幽縮図にも《鳥獣戯画等絵巻》。ざっと眺めただけだが、どうも巻末は猿僧正の読経か、びんさらさで踊るあと少し続いて、蛇の登場で終わるのかと。
30点ばかりだが、いい作品に出会えた。
美術館を出るとすでに夜のとばり。弁当とビールを買って新幹線に乗り込む。
しゃーなしやで
2013-12-11
再び“お仕事”が舞い込む。
いっぱいいっぱいだが、引き受けざるをえない。色々思うところもあるが、これもしゃーないか。
映画
2013-12-12
いっぱいいっぱいながらも映画が見たい。
「利休にたずねよ」もそうだが、12月20日まで梅田ガーデンシネマで2週間限定で「天心」が上映されている。岡倉天心は竹中直人、狩野芳崖は温水洋一。橋本雅邦は誰だろうか。下村観山や横山大観、菱田春草らを直接指導したのは雅邦なので。また九鬼波津子が登場するのがミソ(というか登場しないと五浦に辿りつかない)。
梅田を逃すと京都か神戸元町まで行かねばなるまい。そもそも梅田では、9:50と12:10の2回上映。昔、学校(大学)をさぼってしょっちゅう映画ばかり見ていました〜!のような上映時間。今は立場上、授業さぼって映画「天心」を見に行きました〜!では、非常にマズい。
困った・・・。
カレンダー
2013-12-13
師走。授業の合間をぬって学生ならぬ営業マン&ウーマンが来室。みな一様に「カレンダーを持ってきました」と。
月日よりも社名が大きかったり、記入する欄がなかったりで、なかなか使いづらいものが多い。
江戸時代のカレンダー「絵暦」は大変興味深い。左は某コレクションの絵暦。
印の部分には「明和弐(六画の下にもうひとつ)」とあって明和三年(1766)のもの。竿に絡んだ釣り糸は「ひのへ戌のとし」の文字。戎は頭から「正、三、五、六、八、九、十一」とあって大の月、鯛は「二、四、七、十、十二」と小の月。
今日ではまったく使えないものながら、昔のカレンダーはひと工夫もふた工夫もあって楽しみがあった。
旧職場では、旅行社ではないが、3カ月分のカレンダーが壁に貼ってあったことを思い出す。
今日頂いたカレンダーは記入欄が大きく使いやすい(「授業日(月)」とか書く)のでもう1本欲しいところ。
襖絵
2013-12-14
某文化財保護審議会。
指定となっている民家。雨漏りがひどく早急に修復の必要性ありと。現状写真では畳にバケツが置かれ、床にも大きな雨漏り痕。
写真を見て驚愕。床の横には江戸時代中期は下らないと思える襖絵。雨漏りは分かっても襖(絵)までは気が回らなかったようである。“緊急避難”を強く求める。
地方の庄屋などには襖絵がある。庄屋クラスなのでそれなりの絵師に描いてもらっている。
民家だから建築史関係の方が実地調査に入られるが、襖絵はほとんど黙殺。落款署名があっても建築史の方が絵師の画号まで調べることはまずない。建築当初、あるいは改修時期の推測を補強出来るかもしれないと思うのだが、あまり呼ばれたこともない。
未指定の民家はもっと悲惨。
かつて旧職に突然、軽トラいっぱいに積まれた掛軸や襖絵とともに解体業者がやってきたことがある。「値打ちあるもんか?」と。「なんですか、これは?」と聞くと、「民家潰した時に出てきたんや。家主がいらんというんでもらってきたんやけど、値打ちあるもんか?」
その時、たしか市内にある2,3の古美術商(の所在地)を紹介したと思う。
襖(絵)は建具なんだが、絵が描いてあるとなぜか美術。分野の隙間に落ちた襖絵はなかなか扱いが難しい。
日経新聞
2013-12-16
12月に入ると、さすがに3回生の授業は出席率が悪い。就職活動で授業どころではない。
もとより授業のあいた時間はバイトなどで埋めているので、そこに就活が入るとなお難しい。
かくいう我が家も秋から普段の新聞に加えて“日経新聞”を取った。
これが意外に面白い。まず活字が小さい=記事が多い。しかも広告面やスポーツ欄が少ない。普段の新聞は見開き3面がスポーツ欄、しかも全面広告や企画広告がことのほか多く、地方欄では近所の幼稚園で早くもクリスマスが行われましたなどと。そもそも地元記者は関心をもって歩かないのでネタが少ない(役所の大本営発表を待つ)し、訳知り顔、物知り顔で解説とか執筆するので、時折?といった記事も。
日経最終面は文化欄。近頃では平瀬礼太氏の「銅像はつらいよ十選」や著名なアメリカ経済学者の趣味が「根付」などとユニーク。
ちょっと見直しの傾向かも。
刀剣
2013-12-18
夕刻より某所でプチ講演会。
旧職の元上司(事務方)からの依頼。財政厳しい折、色々と手助けして頂いた“ご恩返し”。
講演後、「父の形見を整理していたら刀が出て来て・・・」と相談。
「まずは地元の警察へ」と。その後の手続きを説明していると、こんなものが付いていましたと「スマホ」の画像を見せてくれる。「登録証」。よかった・・・。
銘が切ってあるらしく、刀工の名も。所有者の変更や刀剣が要らないなら、しばらくは銘に所縁のある博物館へ「寄託」されてはいかがですかと。
「登録証」のない刀はやっかい。時折鍛えのない刀剣は警察に没収されることも。突然出てきた刀剣に戸惑う方が圧倒的なので、「鍛えのない刀」とはどういうことなのか、なぜ没収されるのかも、理解しがたい。
刀剣類も文化財関係の所掌事務。これも理解しがたく、役所内でさんざん“たらい回し”され、怒り心頭の時分にようやく文化財へ。
目の付けどころがヘン
2013-12-21
ムサビ(武蔵野美術大学)の出版局から『保田龍門・保田春彦往復書簡』の案内を頂く。和歌山龍門村出身で親子共に彫刻家ながら父は東京美術学校西洋画科、息子は同彫刻科。父はブールデルに師事し、息子はザッキンに師事。
ムサビから出版されるのは春彦が同大学教授であった由。
パンフレットには龍門の写真・・・よりも右側に写っている中国彫刻に目がいく。初唐あたりの石造菩薩像。
いったいどこの作品だろうか。
往復書簡集の内容よりもそっちのほうが気になる・・・。
生来の性癖
2013-12-23
昨日、今日と大学で終日“物書き”。
「やれば出来る子なのにどうしてやらない」とか「どうして今にならないと出来ないの」などと怒られたりした青少年の頃。
この性癖は未だ治っていない・・・。
9月夏休み明けが11月学園祭終了時と延び、11月学園祭が11月末。そして先日、年内授業最終日(明日)午前中に印刷業者が原稿を取りに来るのでそれまでに提出せよとの“最後通牒”。
ようやくのこと、提出できる目途だけはついた。
内容は言わずもがな、である。
訃報
2013-12-24
本日で年内授業最終(月曜日の時間割)。
昼前、懇意にしていただいた先生(他学部)の訃報に接する。
ちょっとやりきれない思い。
秋田
2013-12-25
伊丹からJAL2173便で秋田。秋田は小雪。
秋田に七条左京の作品があると聞く。まずは県立図書館で資料調査。
秋田市天徳寺仁王像。天徳寺は久保田藩(秋田藩主)佐竹家の菩提寺。寛政9年(1797)に9代秋田藩主・佐竹義和が発願し、七条左京が製作したという。寛政9年なら康朝(31代)の手によるものだろう。山門の修理報告書をみると寛政7年と9年の文書(詳細不明)と台座下から秋田の別寺に送った納入箱(「七条左京」銘)があった由。
仁王像は京都で製作され、秋田に運ばれて、据え付けのため七条仏師が京都から秋田に来たのであろう。
あと由利本荘の永泉寺釈迦如来像・十六羅漢像の報告も。
この時期になると七条仏師も地方へ進出したのだろうか。
由利本荘
2013-12-26
由利本荘へ。羽後本荘駅から歩いて本荘郷土資料館「永泉寺山門のほとけ様展-十六羅漢と天女の世界-」へ。
永泉寺山門2階に安置されている釈迦如来坐像、阿難・迦葉、十六羅漢像が展示。山門棟札に「慶応元年」「七条左京」とある。因みに「仁王仏師」は地元の梅津巳之吉。慶応元年だと康教(35代)。
どこともそうだが、年末の郷土資料館は閑散期。じっくりと拝見しながらも誰も来ない。そう大きくもない企画展示室からなかなか出て来ないので、逆に不審がられて受付の方が「檀家さんの方?」と尋ねてくる。「どっから来なさった?」「大阪から・・・」。明らかに不審者。
雑談をしながらどうも「七条左京」が仏師名と思っておられる様子。現実に由利本荘の矢島藩家老に「七条左京」がいるので無理はない。「家の名前なんです。康教というんです。」と。
固い表現でちょっと東寺講堂阿弥陀如来像にも似ており、「慶応元年」もむべなるかな。
ただ不思議なことがある。脇侍が阿難・迦葉なので釈迦如来だが印相は定印。南禅寺山門釈迦如来像のように定印の釈迦もないことはないが、宝冠釈迦如来像。ところがこれは螺髪のある通常の像。敢えて言えば“阿弥陀如来坐像”である。
十六羅漢像も不思議といえば不思議。第一尊者の賓度羅跋囉惰闍だけがひとまわり大きい。チラシでは釈迦の前に置かれている像である。「賓頭盧尊者」とはいえなぜ大きいのか・・・。
資料館を出た後、永泉寺山門へ。梅津巳之吉が製作した仁王像をみる。寒いのか腰にスカート(布)を巻きつけており、下半身の造形はもこもこ。
ホテルに戻り、京都国立博物館本「仏師系図」をみると、蔵之丞の項目に「元文二巳年出羽国本庄永泉寺十六羅漢中尊共ニ作ル」とある。
謎は深まるばかり・・・。
藤田嗣治
2013-12-27
天徳寺山門へ。
赤色が鮮やかだが造形は堅実のようにみえる。この仁王像の存在はかつてA先生からご教示頂いたもの。今ならすぐさま飛んでいくものを当時は年末まで勤務、なかなか秋田まで行くことが出来なかった・・・。
霊廟も高い門塀に囲まれてみることが出来ず。止んでいた雪がまた降り出し秋田市内にもどり、県立博物館(追分)へ。
常設展はほぼ縄文時代で展示の過半を占めている。土器などがこれでもかというほど並べられてもねぇ。ユニークなのは菅江真澄資料センターと秋田の先覚記念室。前者は丁寧に他国者(三河・渥美出身)の菅江真澄の業績にスポットをあて、後者はまさに「秋田県の殿堂入り」である。もちろん知らない偉人もたくさんいるが、寺崎廣業や狩野亨吉や内藤湖南も。きっと現在の秋田出身の政財界人も、いつかここに俺のコーナーが出来ると思っているのだろう。銘板にはまだまだ余裕が。
再び秋田市に戻り、秋田市立千秋美術館で藤田嗣治《花鳥画》(デジタル写真)を見る。作品はパリの「連合国クラブ」の長押に描かれている。キャンバスに金箔を貼り、油彩で描かれた花鳥画。伝統的日本絵画のモチーフ、手法を使用した作品。
藤田嗣治といえばすぐさまパリを思い浮かべるが、決してそうではない。20世紀のパリに来て初めて、日本で教えられたのはぬるい印象派の絵画であったと悔やむ。パリではキュビズムやシュールレアリズムなど隆盛し、日本ではひと時代もふた時代も昔の絵画を学んでいたのである。
パリの藤田は日本画の伝統を油彩という西洋技法で描くことを思いつき、名声を高めることとなる。そうした意味で藤田の特徴をよく示す作品。
県立美術館では「藤田嗣治渡仏100周年記念 レオナール・フジタとパリ 1913-1931」の展覧会もあるが、なんとなく期待にそぐわないようだし吹雪になってきたので空港へ。
雪のためかなりダイヤが乱れたが、JAL2178便で大阪。
年内最終
2013-12-28
午後、卒業演習(臨時)。
夕刻まで頑張るが、今年度は提出日までもう一回授業があるのでなんとなく気がラク。
後片付けをして終了。