日々雑記


九州の味

2014-10-01

もう10月。カレンダーも残すところあと1枚。

今月の表紙(?)はかつての伊予鉄道三津駅待合室のベンチ(2009年解体新築)。
「大阪の味」とあるのがミソ。終点である高浜駅の先には松山観光港があり、以前は阪神からの定期船が出ていた。ベンチの広告からは、神戸や大阪からの人やモノの流れが感じられる。

過日の『四国へんろ展』の図録をながめていると、《真野長者由来記》(享保17年・1732)。
豊後蓮城寺の僧が四国遍路に訪れた際に語った蓮城寺の由来を太山寺の住職が書き留めたとの由。四国遍路が九州に浸透していたと説く。

そこで思い出したのが高知・高知市竹林寺弘法大師坐像(寛永12年)や土佐清水市金剛福寺金剛力士像を製作した「空玄房緒方久高入道」。
前者は「四国修行」とあり、後者は「宮嶋[芸州也]仏師空玄来て」と寺の記録にみえる。
そもそも「緒方」なる仏師は天正の頃から元禄にかけて熊本・球磨郡で活躍した仏師である。
四国遍路を思う時、常に目は東(関西・高野山)を向くが、実は西(九州)からのことも考えないといけないのかもしれない。

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美しかったら、似てなくってもいいのよ

2014-10-02

10日から岡山県立博物館で「護国山曹源寺」展が開催。後半に少しお手伝いするので、只今準備中。研究室の扉にもポスターを貼り、ゆめゆめサボらないようにとの戒めに。

近衛家熙の行状・談話を纏めた山科道安筆『槐記』享保13年9月14日条にちょっと面白い記事。

後水尾院ノ、中和門院ノ画像ヲイク通リモ書サレテ、其中ニテ一チ美キヲ、是ニト極ラレシカハ、女中ノソレハ一チ似モヤラズ 是コソ能似タリナリトモウサシカバ、百年ノ後ハ、誰知リ覚エ、見覚エタル人モアルマジ。斯美キ御在様ナラント思ハンコソ、イミジカルベケレト御詔也。

後水尾院が、母である中和門院(近衛前子)の画像をいくつも描かせ、その中から中和門院が最も美しく描かれた1枚を選んだところ、女房のひとりがそれはちっとも似ていない、別の1枚こそよく似ていると言ったのだが、後水尾院は、百年たてばそんなことを知っている者は誰がいるのか、それよりも画像を見て、こんなにも美しい方であったのかと思わせるような姿で描かれていることのほうが素晴らしいのだと。

記事は後水尾院の母に対する思いでもあろうが、中和門院のみならず当時の(現代の)女性の誰もが深くうなづく見解ではなかったのだろうか。「美しかったら、似てなくってもいいのよ」というのは、いつの世の女性でも共通した思いであろうか。

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予告運休

2014-10-03

最寄駅まで来ると、ごった返す人たち。「みどりの窓口」もシャッターを下し、バス振替券を手渡す駅員、殺到する群衆・・・。お馴染み「阪和線」が止まっている・・・。
バスに振り替え、南海で新今宮へ、そこから通常の通勤ルートへ。

杉本町駅での「線路支障」とのことだが、実は「線路陥没」。このところ雨が降らなかったのに、また何故?

帰宅時、駅には運休・遅延のお詫びの看板は見当たらず、はや接近する台風のため大幅な遅延や運休が発生するとの“予告”。
しかし、運休・遅延には色々な理由があるものだ(考え付くものだ)と、あきれ返るのを通り越して感心するばかり。

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明珠在掌

2014-10-04

教員人事の面接(官)にて大学。明日も大学院入試があって大学。

通勤途上、アレックス・カー『ニッポン景観論』(集英社新書)を読む。カラー図版が多いので“読む”というより“見る”。 日本各地の醜悪な風景が満載。我々が日常住まいする日本人と外国人から見た日本を求めるイメージが大きくずれている。

このままだと、「日本」の魅力が激減、絶滅してしまうことは必至。
巻末に痛い言葉で締め括られる。
日本は長年必死に「文明」と「発展」を求めて、山と川をコンクリートで埋め、古い町を恥だと思って壊し、交通のない「ループ橋」や、お客の訪れない「ふれあいの館」をたくさん作ってきました。しかし日本は「光る珠」として自然と文化的なたたずまいを初めから掌の中に持っていたので、それを再認識することが、これからの課題です。
“外圧”でないと、気づくことができない“ニッポンの魅力”。

模擬授業で配布された大坂の古地図を見ながら、失われた実に多くの景観を思う。
掌の中の珠もいまや絶滅寸前かと。

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台風

2014-10-06

未明から台風接近。
土・日が用務で潰れたので、早朝からTVをみながら共に休講を願う親子。

が、あっさりと、7時半には、「警報解除」。しかもなぜか大阪府だけに・・・。「なんで大阪だけなん」「午後から(授業)か~」と深いため息をつく親子。
警報は解除になっても電車はまだ止まっているし、重い足取りながら朝の支度に。

久しぶりに大学の「交通機関のストライキ及び台風等に伴う休業等に関する内規」をみた。
いまどき、関西の公共交通でストライキする会社はないだろうから、2項の交通機関のストライキをわざわざ掲載する必要があるのだろうか。大学図書館の「お知らせ」をみて確認するありさま。

3項の「大阪府の市町村のいずれかに発令」というのが恨めしい。
午後から通常授業。

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お持ち帰り弁当

2014-10-08

台風一過、秋空の好天が続き、会議も続く。

いくつかの会議は、各先生方ご多忙の由にてお昼休みに行われ、弁当が出る。こちらは会議そっちのけ(ということはないが・・・)で弁当をパクついていた。

会議での姿が“災い“したのか、この秋から「進行役」を仰せつかった・・・。
いやもう弁当どころではない。議事進行の打合せに始まり、会議の円満な進行、事後の報告と緊張すること、夥しい限り。
いままでパクついていた弁当も、会議前の数分で駆け込んで素早くとるか、終了後、研究室へ「お持ち帰り」となる。

タダ飯ほど怖いものはないと実感。

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ぶんまわし

2014-10-09

学生の発表。葛飾北斎の版画を示して、直線と曲線から構成されるという構図論。
ここにも「ぶんまわし」が・・・と、どうも版画に「ぶんまわし」(コンパス)が使用されていることに関心があつまったようである。

当人の熱っぽい姿勢とは裏腹に、こちらはやや不機嫌。こういう(←:台座裏面)事例も知っているだけに、どこがすごいのかちっとも理解できない。

だいたい作品(コピー)に定規を当てて、コンパスで円を描き構図はこう決めたというのは“後追い”に過ぎない。「じゃ、左に描かれている柳の樹木はどうして決定したんだ?」と意地悪な質問のひとつでもしたくなる。

「絵を描く」ということと「図面を引く」ということは繋がらない。
こちらとしては明治30年代後半に日本から浮世絵は払底してしまい、そこまで流出できたのはいかなる事情からなのかが関心が高かったのだが。

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近世の仏画・頂相

2014-10-10

午前中、栗東歴史民俗博物館「近世の仏画・頂相」展へ。

出品は25点ながら内容は充実。木村徳応や喜多長兵衛(道矩)の作品をはじめ卓峰道秀《戒場三聖像》、照山元瑤(後水尾院第八皇女)《弥勒菩薩像》、小原慶雲《仏涅槃図》などが展示される。《弥勒菩薩像》は師である卓峰の作品と並べられ、さすがによく似ている。版本ながら浄厳が創出した両界曼荼羅も興味深い。

《仏涅槃図》には「林泉寿印」の印。入滅する仏の周りを談笑しながら歩く人たち。まるで物見遊山にでも来たような雰囲気。釈迦も雑魚寝(宝台なし)なんだ。
卓峰道秀は絵所徳力善雪の子息ながら萬福寺第5代住持高泉性潡に師事。黄檗宗の画家としてそのほかにも藤原種信の作品も。
特集展示なので図録がないのが少しさびしい。 別室には仏像5躯(11世紀から13世紀)も展示されている。

後ろ髪を引かれながら大学へ。

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消息不明

2014-10-11

大学で雑務をこなしていると、今春の卒業生が来室。

「早や(会社を)辞めたい!」と言いに来たのかと、やや不安になりながら雑談。
近況を聞きながら、同級生が集まる機会があるが卒業後、連絡が取れない同級生がいるとのことで「センセ、知りませんか」と。
卒業した後は、たまに連絡してくれる元ゼミ生がいる一方で、まったくどこに居て何をしているのかも分からない者も多い。

それぞれ社会に出たからは、そうした点は多少はやむを得ないところもある。
かくいうこちらも、同級生の動向を知っている者は数えるほど・・・。

「また飲み会(の機会を)作りますので、センセも来てくれはりますか?」。
「人寄せパンダやな」と快諾しながらも、いったん社会に出ると、学生時代とは状況が一変するということを実感した模様。

「(会社を)辞めたい!」という話がなかっただけでも良かった・・・。

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曹源寺展

2014-10-12

岡山県立博物館「曹源寺」展へ。

黒田日出男氏曰く、「もはや(これまで)肖像画は肖像画だけ、肖像彫刻は肖像彫刻だけで論じるわけにはいかない」(p13)「(彫刻史研究にとって)肖像彫刻史などは傍流であり、そうした傍流とされる肖像彫刻史のなかで(中略)俗人肖像彫刻史という傍流のなかの、さらに傍流(細い一筋の流れ)でしかなかった」(p42)(『源頼朝の真像』)現状に対して再考を促す展覧会。黒田氏に加えるならば「江戸時代の彫刻なんぞは・・・」ということも。
歴史的なアプローチはもとより、画像と肖像彫刻が併せて展示されている。

担当者からの解説を受けながら、展示資料を拝見。寿像と遺像、理想化といった問題を考えざるを得ない。
仏像も然り。十六羅漢像、釈迦如来像などは近世京都仏師の基準作品となるもの。益することはなはだ多し。

禅宗寺院の展覧会といえば、これまで頂相、墨蹟、茶道具、古文書が中心で、彫刻はほとんど添え物。曰く「モノクーロムからカラフルな禅刹」。激しく同意。
四天王像(江戸時代)は、平安時代っぽい作風で、しかも彫眼。京都仏師(田中弘教)の自意識過剰気味の造形には瞠目。

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ストライクど真ん中

2014-10-13

台風が接近するので、ベランダ回りの片づけ、買物と続く。
夕刻にはJR各線も止まり次第に風、雨とも激しくなり、時折ゴゥッという風音も。
夕闇のなか、土砂降りの雨と風は益々激しくなる。

早い目の夕食も済み、何気なしにTVのニュースを見ていると、「午後8時半ごろ、大阪府岸和田市付近に再上陸」とのテロップ。
あらっ。
「えらいピンポイントやな」「(TVの進路図が)ちょっとずれてるやん、そこは梅田。」と子供たち。
暫くすると、堺町で床上浸水、近所の牛滝川が氾濫危険水位に達する見込みとの報道が流れ、ちょっと緊張。
堺町は、だんじりで有名な「こなから坂」の下手。“チリモン”で有名な「きしわだ自然資料館」は大丈夫なのだろうか。

その後、雨は小降りとなり、台風は名古屋方面へ。

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不感症

2014-10-15

某所で資料を拝見。

いつもなら、ほぼ何でも興味深く見て、あれこれと勝手な?妄想を抱き、面白い資料ですねなどと御世辞のひとつでも発するのだが、この資料はなんとなく関心が涌かない。
よくある“仕込み絵”で万事よく描かれているが、ワクワク感がまったく感じられない。なぜだろう?と逆に自問。
景物も特定できるが描写も下手で、人物の面貌表現がまったくなく、まるで生気がない。

浮かない表情をしていたらしく、周りの人が不審がっている。
「見ていて、なんかドキドキしないんだよね」などと。

不感症だろうか、それほどの資料ではないのだろうか。

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参考図書

2014-10-17

連続する会議の合間に授業。

芸術系大学ではないので、参考図書を調べる時には、いきなり「大学図書館検索(KOALA)」で検索せずに「CiNii(NII学術情報ナビゲータ)」で検索してからKOALAで検索するように、また大学図書館で図書がない場合は、横断検索という手もある・・・、と先週の必修ゼミ。
ところが、大学、近所の図書館で検索してもなかったので、助けてくれという学生(来週、発表)からのメールが飛び込む。

何を聞いていたのかと憤りながらも、返信をしたためているうちに、氷解。
件の学生は先週、休んでいたのだ・・・。

放置しておき発表内容に関連して猛省を促す、あるいは、必修で休むにはよほどの事情があるだろうから、助言の返信メールを返す・・・。

さて、どうしたものか。

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ドラえもんは風刺漫画?

2014-10-19

秋空がひろがるもと、午後からAO入試や編転入学試験など。

待機時間に過日の授業(〈鳥獣人物戯画〉)のコメントカードに目を通す。
「高校で“風刺絵”と教えられたが、そうでないことがわかって、ショックでした」なるコメント多数。いったい高校教師は何を教えている?
高校のセンセが言うことには間違いないと信じて疑わない学生もいて、こちらもショック。

そうした学生に授業後、何を風刺しているのか?と尋ねると、「平安貴族の腐敗した政治」とか「堕落した僧侶」というが、鳥獣人物戯画を所蔵しているのは何処だ、筆者はどういう人なのかを示すと、「・・・・。」

動物の二足歩行=風刺画という教師の単純な思い込みでしかない。
じゃ、ドラえもんは風刺漫画だね!?
そもそも錯簡、断簡の多い甲巻は、現状では不完全な絵巻で、それをどうやって“風刺絵”と断じることが出来るのか。

京博では連日、長蛇の列らしいが、会場では物知り顔で「風刺」を語る大人も多いだろうと憶測。

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わけわからん

2014-10-20

最近、在阪の地下鉄や私鉄などを利用すると、目につくポスター「大坂の陣400年天下一祭」。特命応援隊長に和田アキ子、副隊長に片岡愛之助。

慶長19年(1614)に「大坂冬の陣」、翌年には「大坂夏の陣」。前者では外堀を埋められ、二の丸、三の丸の破壊で和睦するも、後者は大坂城落城、豊臣家の断絶を招く。とばっちりを喰って堺も全焼。大阪にとっての400年前はなにひとつよいことはないのだ。しかも「天下一」とは・・・。
なにが「祭」なのか、まったくわからない。勇敢に闘った大坂方の武将が注目されるが、でも結局は敗北。

盛大な追悼会ならわからないことはないが、なにを祝っての「お祭り騒ぎ」なのか。何かにつけて騒ぎたがる土地柄ゆえにわからないわけではないものの、これだけはわけわからん。最初はパチンコ屋のポスターと見間違ったほど。

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南街会館

2014-10-23

所用にて午前中、難波へ。

大阪のキタもミナミもずいぶん様変わり。もう完全な田舎者である。
旧南街会館のエレベーターを待つ間、そばの銘板に目をやると、ここが映画興行発祥の地であることを知る。

私がこの南街會館を建てるに際し偶然この地が日本に於ける映画興行の發祥の地である事を或る文献によつて知る事を得た
即ち京都の稲畑商店が明治三十年二月十五日(一八九七年)より一週間當時此處に在つ南地演舞場でフランス人オウギュストリュミエールの發明にかゝるシネマトグラフを初めて日本で公開興行したのである
日本で最初のスクリーンに映された映画が人々の眼にふれたのは實に此の場所であった
五十七年前のこの事實を私は知らずして南街會館建設を企画したのである
誠に奇しき因縁と思つてゐる
一九五三年十一月
小林一三

「東宝」の創業者は小林一三。「東宝」の「宝」字は(株)東京宝塚劇場だったのかと合点。それにしても銘板は以前、どこにあったのかを全く思い出せないでいる。

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九州視察

2014-10-24~26


詳細は こちら

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オラショ教

2014-10-27

天草では“カクレキリシタン”の話題。

腑に落ちなかったのが、「天草崩れ」。
文化2年 (1805) に崎津、今富、大江、高浜など天草西海岸一帯で、5000人以上の“カクレキリシタン”が発見されたが、マリア観音像などを礼拝する信仰であったため異宗を信仰した「心得違」として一人の咎人も出さずに穏便に解決。驚くべきことに彼らは絵踏まで行ったという。
厳しい弾圧を受けたとされる「浦上崩れ」も慶応3年(1867)の「浦上四番崩れ」だけが例外で、それまでの寛政2年(1790)、天保13年(1842)、安政3年(1856)の「浦上崩れ」は穏便に処理されている。とりわけ天保13年(1842)の「浦上三番崩れ」は、「天草崩れ」と同様に「異宗事件」として処理。

更に明治6年(1873)キリスト禁教令が解かれて信仰の自由が認められたにもかかわらず、本家本元のカトリック教会とは一線を画し、独自の信仰形態を採用している。カトリックの神父がやってきても「おらたちの信仰とは別物だなぁ」などと噂されたに違いない。

文化11年(1814)に黒住宗忠が「黒住教」を、天保9年(1838)には中山みきが天理教を興した同じ頃、“カクレキリシタン”はいわゆる「オラショ教」なる独自の新興宗教を形成していたのではないかと想像すると理解が容易くなる。
だから幕府から弾圧されず、キリスト教容認後も正統なカトリック教会と合流しなかったのかも知れない。

そのほか長髪、イケメン風に描かれる天草四郎像も雑談の俎上。あれは単に現代人の妄想、刷り込みに過ぎず、本当は野良着を着たもっとダサい青年だったかも知れないなどと。

振り返ってみると、江戸時代の隠れキリシタン発覚=厳しい弾圧というのも、単に現代人の妄想、思い込みに過ぎない。

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大仏像寸法注文

2014-10-29

学内会議を終え、『頼朝と重源』図録を購入すべく奈良博へ。

奈良博は正倉院展。この時期に久々に来たが、物販用や行列待ちなどの仮設テントが随所に貼られて、何かのイベント会場のよう。驚愕しきり。
正倉院展でも見ようと思った私が甘かった・・・。

帰途、図録を眺めてみると東大寺中性院蔵「大仏像寸法注文」が掲載。昭和8年田中主水による写本。
あっ と思わず叫ぶ。
かつて、これは別所で実際に見たことがある。
当時は冒頭の「武蔵野」や「東国大仏立砌」の文字に気を取られて鎌倉大仏かと思っていたが、高徳院阿弥陀如来像とは印相も異なり、どこの大仏なのかわからないとした。
『頼朝と重源』図録解説を読んでいくと、東京藝術大学藝術資料館にも明治23年(1890)の写本もあるという。

高村光雲の弟子に、あごはずしの名人である「田中栄次郎(祥雲)」がいる(高村光雲『幕末維新懐古談』「谷中時代の弟子」)。光雲は明治23年4月から明治25 年まで谷中に移り住んでいる。明治22年から東京美術学校に奉職しているので、奉職時代に書写されたもの。
いっぽう、田中栄次郎は大阪天王寺町の由緒ある仏師の弟ということだが、田中主水は長く大阪高津新道に工房を構えており、主水の弟である田中栄次郎が持参した大仏像寸法注文を光雲あるいは光雲周辺の者が書写したものが藝大本とみられる。

当時、もう少し落ち着いて観察すればよかったと後悔するが、同一本が3本存在することが分かっただけでも収穫。

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歴史遺産

2014-10-30

新聞記事で「歴史遺産 灯台もと暗し」の見出し。東西2800人へのアンケート比較。

関西の居住者は歴史遺産の高さをあまり重視していない とも。
「もうかりまっか」「まけてーな」が日常会話となる土地柄。歴史遺産なんぞに関心があるはずもなく・・・。

「日常すぎてあまり関心を払わない」(大坂・80歳男性)、学生時代に歴史遺産はまわったが、「趣味や関心がなければ繰り返し行く気にはなれ」ず、休日はもっぱら商業施設やゴルフ場で過ごす51歳の神戸市の男性、「観光客で混雑しており近寄りにくい」(兵庫・24歳男性)。
爺さん、親爺、息子の関係を想像すると、情けないDNAが引き継がれているといえよう。

「日常」とよぶほどよく知っているでもなし、歴史遺産への関心を高めるのは自らなんだし、観光客でなぜ混雑するのか理解できていない。いずれも不勉強の成果。銭ばっかり追っている者のなれのはて。

こちらは時間さえ許せば毎日でも見て歩くのだが。しかし、こうしたアホ回答、よくも集めたものだと逆に感心。

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苦しゅうないぞ

2014-10-31

行楽シーズン、多客期の空港内搭乗口。
「本日、○○行き××便 定刻18:45発は予約数が座席数を上回っております。後続便への振替にご協力いただける方を募集しております。なお振替便は明朝7:45発となります。ご協力いただける方にはご協力金として○万円お支払いします。」というようなアナウンスが時折、流れる。
これに手をあげると、いったいどうなるのだろうかということで、某日某空港で試してみた。

まずは搭乗口カウンターで協力の旨を告知。必要なのは1席ということで搭乗開始まで待機。
搭乗開始直後、残留決定。
(以下、丁寧語・謙譲語 略)
eチケットと預け入れ荷物札(クレイムタッグ)を提示し、預入れ荷物の特徴を伝え(既に預入れ荷物は飛行機のお腹のなか。もう一度飛行機から降ろさないといけない)、再びチェックインカウンターへ戻れとの指示。

最も端にあるカウンター(「CLOSE」と表示)でも懇切な御礼が述べられ、今日宿泊する予定のホテルはあるのか、なければこちらで手配するが・・・と聞かれる。「ない」。

しばらくすると、次の書類が渡された。
 (1)振替便の航空券申込書。所定事項は既に記入済。
 (2)ホテルの宿泊バウチャー(空港至近 2食付)
 (3)封筒入りのご協力金(翌日振替なので2万円。当日振替は1万円。)

すべてを確認した後に、明日はeチケット(有効期限は今日まで)と(1)を必ずチェックインカウンターへ出してくれとの由。説明の間、飛行機から降ろされた荷物が手元にもどる。
ホテルの送迎バスの停車場所を教えてもらい、最後に受領書にサインして完了。深々とお辞儀をされて、空港を後にする。

ほどなくして、送迎バスでホテルへ。ここからは通常の宿泊。夕食券と朝食券付。ただし宿泊カード備考欄には「△△△(航空会社名)欠航」と。
その後、夕食を取り(もちろん飲み物は自腹)、風呂に入って就寝。

翌日、朝食を取り再び空港カウンターへ。
混雑を避けるため、昨日の端っこカウンターに案内され、再び振替の御礼が述べられて手続き。荷物を預けて無事に出発。

空港会社が費用を負担してまで座席(23H)を確保したい人はいったいどのような人だろうかと機内で想像。

「ご協力金」のゆくえ?
こちらが帰宅しないことを奇貨として、家族で“回らないお寿司”を堪能したとの由。

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