日々雑記


当世学生事情

2009-8-1

8月突入。
夕刻、同業他社の人と一献。「ようやく今日から夏休み・・・」とまずは慰労。
我らは学生とのコンパやら旅行やらが(他人様より)多い。傍目からみるといかにも気楽に、好き勝手しているようにみえて、実はこれが結構たいへんであると、同情禁じ得ず。

大半の学生はコンパには参加するが、会場の設定や段取りは苦手。誰かがダンドリしてもらえれば、それには参加するという。もちろん昔もいたように、若さゆえに“お酒の飲み方”も覚束ない。

他大学の例だが、コンパでかなり飲んで千鳥足。「大丈夫で~す!」との言を信じてともかく“解散”。件の学生は、ちょっと「大人の気分」で〆はラーメンとばかりに屋台へと繰り出す。そこでも酒を飲み、挙句の果てに、倒れ込んで屋台を損壊。
酔いも醒めると、屋台の修理費や休業保障など途方もない額の賠償金が発生。
大学の弁護士が仲介したそうだが、コンパを主催した先生にも管理責任とお詫び。

これも他大学の事例。
ゼミ旅行で東京方面へ。夕食・宴も済んで日付も変る頃、三々五々ホテルにご帰還。引率教員は「(今日1日無事に)終わった~!」とすぐさまバスタブに。
ほぅ~と和んでいると、ピン~ポン~!と
呼び鈴。なにごとと思い、全裸姿にバスタオル巻いてドアごしに「はい」。
「これから歌舞伎町で東京の友達と会ってきます。もし明日の朝までに戻らなかったら、警察に連絡して下さい。では・・・」。ヲイヲイ。
全裸同然の姿での突発的事態になすすべなし。
結局、シャワーもそこそこに、午前3時前まで、ホテルのロビーや玄関で、その子の帰宅?を待っておられたという・・・。
(携帯も電源、切っとったんや、これがまた・・・とも)

先生曰く、「自分の息子や娘(ゼミ生)と思うからそこまで出来るのであって、他の学生なら、ま、自己責任ということで、まずは無視してますわな。」との弁。
続いてこうも助言。
「ハセセンセは見学会等で校外に出ることも多そうだが、出来るだけ現地集合は避けた方がよろし。事故が起こったら、集合前とはいえ、センセの責任は免れまへんで!」。
そこまで脅かさなくても・・・と思いつつ、妙に真剣モード。

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税所篤

2009-8-3

仕事の締切があるものの、過日の柏原市立歴史資料館「大悪人 税所篤」が気になる。
考古学ではよく知られた話だが、一般の人にはえっ!と思うらしい(美術関係の編集者に話をすると、それって、本にできませんかねぇ?と興味津々。山ほどあると回答)ので、ご紹介。(それより早く原稿書けって!)

税所篤。薩摩藩出身。この御仁、至って古器旧物が大好き。
明治4年11月に2代目の堺県令(知事)となる。当時の堺県は旧河内国・和泉国・大和国を県域としており、古墳や遺跡の宝庫である。それらを盗掘すれば古器旧物がザクザク。垂涎のエリアである。
着任早々、県庁(西本願寺堺別院)から見えたであろう仁徳陵古墳(大山古墳)をターゲット。しかし「御陵」ゆえに手荒なことは出来ない・・・。そこで大義名分による一計を案じる。

明治5年4月15日に御陵(仁徳陵古墳)が鳥のフンなどで見苦しく汚いので、どうかお掃除したいと教部省へ申し出。教部省はそりゃ、ええこっちゃとあっさりと許可。
そこで、鉄の鋤(スコップともいう)などで、“お掃除”開始。
9月7日に「大ナル盤石」のそばの小石をのけると、ぽっかりとした穴が「開いた」。穴の中には甲冑や剣、陶器(須恵器)などお目当ての品を「見つけた」。
9月13日にようやく
「掃除中に石を除けると穴が開いて、覗くと「貴重御品」が見えました。そこで穴を厳重に塞いで番人まで張り付けています。ついては(壬申検査での正倉院)勅封開封のため京都に滞在中の瀬古延世氏にご確認願いたい。まずはご連絡まで。」との書面を出す。
19日には壬申検査で絵画(図面)担当の柏木政矩がやってきて石室等の図面を作成。
9月26日ではこんな書類も。
「御陵・分骨所などを取り調べるために教部省の役人が来るので、昔からその言い伝えのある場所を知っている者は申し出なさい。」
教部省からの正式な回答は翌明治6年5月28日付。
「過日の巡見で(仁徳陵古墳を)見たところ、全く掃除が出来ていないどころか、(切った)枯竹なども散乱している始末。御陵の掃除は中止!仮小屋やボート2隻も撤去。以後立ち入り禁止!」

アメリカ・ボストン美術館には、「伝仁徳陵古墳出土品」として環頭太刀柄頭・獣帯鏡・三環鈴・馬鐸が所蔵されている。このうち鏡は違うという説も有力。

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疲弊

2009-8-4

法文坂を上ると、昆虫網と虫かごを持った ちびっ子が大挙して下ってくる・・・。

はて?なにごとぞ。
坂を登ると白いテントが2張。今日と明日は関西大学博物館の「なんでも相談会」。チラシには「キャンパス昆虫探検隊」。
先ほどのちびっ子はこの参加者。
確かに大学構内は緑も多いし、梅雨明けのセミも五月蝿いほどに鳴いている。
ダブル・クロスの縄跳びに興じる大学生(セミほどに五月蝿い!)は居ても、虫かごをぶら下げて昆虫網をもって構内を歩く大学生はみかけない。
思わぬ所に目を付けたものと感心。
他にも「作って飛ばそう紙飛行機」や「葉っぱのバッタ作り」「縄文ポシェット作り」などハンズオンの企画がずらりと並ぶ。博物館ははどこともたいへん。

午後、図書館から戻る途中に、関係の先生と遭遇。挨拶していると、「拓本、読んでほしいという方がお見えです」と職員氏。退散(昨日締切の原稿有)しようとすると、そのまま博物館内へ拉致られる。
夏休みゆえサンダルとポロシャツ姿のいでたち。どうみても、ただのおっさんである。

チラシをじっくり眺めると「相談会(夏休みの宿題や美術・工芸品などの相談)」。
手抜かった・・・。
行けば、歴史サークルの一員と思しき60歳代の男性。大意を知りたいとの由。
自分たちであれこれ調べるほうがずっと面白いのにと思うものの、ご当人がいうように「なんでも相談会」ですから。

ところが、肝心の拓本(写真・現物)は持参せず、ワープロ打ちの白文のみを持参。他の先生共々、読んでいくと、「君」を「居」、「與」を「興」といくつかの誤植あり。確認しようにもモノがないので、こちらは文意が通じず困惑するばかり。
ひょっとして、歴史サークルではなくて拓本クラブなのか。それなら我ら以上に文字には詳しいはずなのだが。やむなく他の先生が地元での資料検索をアドバイスするも反応はいまひとつ・・・。

知りたい希望は強いものの材料すべてを提示しないのは、なんとなくアンフェアな気分。

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漠たる不安

2009-8-5

梅雨も明け、耐震工事もこの状態。研究棟1棟、吊りあげんばかりの勢い。こちら(旧棟)は至って静か・・・。
と思いきや、午前中より上層階でガリガリと工事音。個人的には、耐えられないことはない。やんごとない事情で断りきれなかった、ちょっと気の重い仕事の調べ物。

上階の音が止んだ夕刻、件のクレーン車はまだまだ作業中。ふと覗くと、なんと屋上に小型クレーンが鎮座している。クレーン車で小型クレーンの部材を吊りあげて上で組み立てたようである。
耐震補強工事が必要な建物の屋上に、小型といえどもクレーンを設置して大丈夫なのかと、素人目には思う。

ようやくいつもの静けさが戻ったと思えば、あらま!のニュース。
何とはいわないまでも、事の善悪も分からず、モラルや常識もない者がいっぱい居ても、大変なだけである。ごく普通のことがなんと素晴らしいことなのかと強く思うこの頃である。

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宝鑰(ほうやく)

2009-8-6

本日は事情により、家人の古里へ。
むぅ、私の故郷とあまり変らない風景・・・。新しく建った市民センターの横にある「産直」をこちらは尻目に、横に建つ寄贈された白壁の蔵を拝見。一見何の変哲もない蔵ながら、窓には新しいステンドグラスが嵌まる。
宝船に巾着、宝鑰(ほうやく)。こういうのを「粋(いき)」というのだろうか、感心しながら拝見。

宝鑰とは先が四角く曲がった蔵の鍵。巾着は財宝が入っており、宝船とともに吉祥文様である。皿・鉢などの工芸品によくある。ゲゲゲの鬼太郎にも登場する「一反木綿」のような模様は「丁子」(クロープ)。丁子は香薬のひとつで稀少なことから珍重され、「丁香」の名で正倉院宝物にもみえる。
ちなみに正倉院にはシナモンバーも残る。

財を求める姿は何時の世も同じだが、意匠化されないところに現代の貧困さがあるように思う。
もっとも臆面もなく、内実のないイミテーション(偽造)があちこちで、はびこっていては、デザインどころではない。そうしたなか、こうした伝統的デザインは新鮮に写る。本当は自明のことと思うのだが。

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七五三

2009-8-7

文科省の学校基本調査(速報値)が発表となり、大学進学率が56・2%、志願者に対する入学者の割合は92・7%と新聞報道。「大学全入」時代には至らなかったと見出しを打つが、こちらの関心は(確定値)にしか載らない。
平成20年の基本調査データ(確定値:私立文系・人文科学・昼・夜間)をみると、次の通り。(単位は名)

大学(私立/短大含) 進学 就職 その他 就職率
79,530 3,687 58,272 17,571 73.2%
大学院修士課程
3,418 536 1,635 1,247 47.8%
大学院博士課程
713(197) 7 204 502 28.6%
その他とは、「一時的な仕事に就いた者、専修学校等への入学者、死亡・不詳の者等を指す」との由。博士課程の(  )は博士号取得者。

もちろん様々な要因やカウント違いなどもあるが、公表データとしてはこうなっている。
「就活もめんどいので、(大学)院にでも進学しようかな」という学生は必見の由。

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猛暑

2009-8-8

炎天下のもと、午後、京都大学にて会議。
この猛暑で、京大の学内掲示板もやや“しおれ気味”。
もちろんゲバ字は相変わらず元気のご様子。

時計台記念館で開催中の「慈雲-原点を求める心-」展を拝見。第14回国際サンスクリット学会関連企画で、総数20点ほどのミニ展示ながら、充実。
美術作品としては山本義照筆 明堂諦濡賛の《慈雲尊者秉払半身像》(清荒神清澄寺)と慈雲筆《両界種子敷曼荼羅》(善通寺)のみ〔後者はこの後、高貴寺・原在中筆慈雲種子による《両界種子曼荼羅》に展示替〕。
前者は「優婆塞弟子義照謹拝写」と款記があり、後者は絹本金泥引きとした画面に墨痕淋漓とした種子。《悉曇十八章切継草紙》は慈雲14歳の梵字練習帳。表紙は師匠の忍綱貞紀が書いたもの。
慈雲は、呪術的解釈を排した梵学原典研究のために全国を渉猟し、資料を集成した。『梵学津梁』(1千巻)を編さんし、没後も弟子たちによって補完されている。現存するのは約半数。明治33年頃にはシルヴェン・レヴィ、高楠順次郎も調査している。
法諱「飲光(おんこう)」のサンスクリット表記は、Kāśyapaの漢訳。仏弟子のひとりで知識より実践を重んじたカーシュヤパ(Kāśyapa)に由来する。

そろそろ会議の時間。時計台記念館を出てジンカンのほうへと向う。

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来たもの・来なかったもの

2009-8-10

早朝より豪雨。台風接近。
期日のある仕事も多数積み重なるが、本日自主休校。
PCと面壁しながら、どうして未だ7月下旬の多忙モードなのか、自分でもよくわからない。今年はちょっと変。

日本と中国・朝鮮半島との交流(影響)を想う時、いつも弥生文化博物館にあるパネルを思い出す。そのパネルには弥生文化での「日本に来たもの・来なかったもの」が紹介されている。
姿かたちを変えてでも日本に来たモノや全く来なかったモノも。ワープロ打ちながら、春に見た金縷玉衣と玉猪も来なかったはずだと思う。
中国で「猪」は「豚」。多産豊穣と思ったが、あの世で食に困らないようにと。再生を願い、あの世でもこの世と同じように豊かに過ごせと、いたせりつくせりの中国での覇者(の墓)。それに比べると日本の古代は実に質素。

そんなことで脱線しているから遅くなるのだ・・・。

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お知らせ

2009-8-11

早朝、静岡沖で地震。
TVをみると、台風取材で静岡沿岸に出た記者がそのままの姿で駅前にて地震取材に変更。同地で実家が茶業を営む学生も知っているので心配にも。中国道沿いの町での豪雨被害もすさまじく、このところ、まさに天変地異。

7月下旬の豪雨に関しては、日本学生支援機構が災害救助法適用地域(飯塚市・防府市・山口市)出身の学生に対する奨学金の緊急採用と返還期限猶予を告知。該当市周辺で被害に受けた世帯も同様の措置がとられる。 リンク:日本学生支援機構
冒頭の豪雨・地震の被害を受けた地域も早晩、同様の措置が取られるであろう。

そうした重要な情報がなぜHPのトップに来ないのか不思議でならない。お気楽な会社のランキングに一喜一憂する前に、誰が見て、何を望んでいるのかちょっとは考えたらいかがかと思う。
「関西大学第5種給付奨学金(給付制)」という制度もあるのに、まったく・・・。
嫌われついでに。
関西学院大学・同志社大学ではトップの重要事項に掲載され、受験料免除も。他の幾つかの大学もトップで「重要なお知らせ」に。

役にたちそうにもないとわかったので、黄色い「危機管理マニュアル」はごみ箱へ。

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殺生

2009-8-12

図書館が休みにも関わらず、ようやく幾つかの仕事が終了。まだまだあるが、早い目に(既に月明かりである)帰宅して、久しぶりに夜釣りでもと思ったり・・・。

「“釣り”するのか?」といぶかられたりもするが、波止でぼんやり竿を垂らすだけである。拙宅は海にも程近く、引っ越した頃はよく行ったのだが。
ボウズかと思った明け方、やや大きいサバが掛かる。釣り上げて針を外し、椅子代わりに腰掛けているクーラーボックスに放り込むと、最初はバタバタと激しく暴れているが、徐々に動きが弱くなり、動く間隔も長くなってくる。そのうち、まったく動かなくなり、釣り上げる前の静寂が再び訪れる。断末魔の感覚とともに「殺生した」という何とも言えない気分に襲われて、その時以来、行っていない。

当時に比べてめっきり“凶暴”になったので、 「お盆に殺生」 涼みかたがた夜の波止へ行こうと思う。

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閻魔王からの贈物

2009-8-13

お盆まじか。
夜釣りではアタリがあったものの、結局、釣果ゼロ。お盆だから良かったんじゃないと家の者たち。
出かけた折の意気込みも消沈。
午後は大学にて、調査報告書作成。カラープリントで送付しようと印刷するもインク切れ。お盆までに間に合わせようと 頑張ったのだが、これも消沈。

かなり凹んでいると、中橋運平による享保12年の大日如来像が福山で確認された旨。
閻魔王・十王像の半年後には隣市で大日如来像などを制作。中橋は京都で制作した仏像を運んだのだろうか、あるいは中橋が笠岡や福山を渡り歩いたのだろうかと再考の余地。

かつて、とある仏師が居職(京都で仏像を制作し、彼地へ運ぶ)か出職(仏師が彼地へ出向き、現地で制作)かを問われたが、近隣で複数例が確認されると、この問題も難しい。
先の質問では、幸か不幸か、空白の間に関西で仕事していたことが確認できたが。
ともかくT大学のH先生に感謝。
お盆で地獄の蓋が開き、ようやく閻魔王からのプレゼントが届いたような気がしないわけでもない。
なにしろ、その折の修理報告書をみると、閻魔王と結縁していたことが判明・・・。

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神仏の眼

2009-8-14

MIHO MUSEUM「仏たちの物語」へ。

夏休み企画で解説が子供向きに平易に記されている。ところが大人が読んでもふむふむと判る按配になっている。
最初のコーナーにあるガンダーラの「燃燈仏授記図浮彫」が好例。メーガに関わる物語:有り金をはたいて蓮華を買う、散華、燃燈仏の足元が泥水で汚れないように(衣を地面に広げ)その上に自らの髪を解いて踏ませる、空中に上がり合掌礼拝、メーガと対峙する帝釈天、買った5本の蓮華と、丁寧に浮彫の図像が紹介されている。

百済寺・紺紙金字法華経もしかり。見返し絵の説明など、他館ではあまり見たことないが、ここでは経文に従う場面が部分拡大パネルと共に解説。 もとより子供向けなので嘘・偽りは許されない。
観普賢経(結経)では、物語(経文)では六牙の象とあるが見返し絵の象の牙は4本しかないとか、如来寿量品「良医病子」での見返し絵は父が嘔吐し、子が薬研で調薬しており、経文と見返し絵の場面は違うなど誠に正直、丁寧に解説。

仏像も四天王像や阿弥陀如来像などMIHO MUSEUMの所蔵品をはじめ。延暦寺・維摩居士像や薬師寺・玄奘三蔵像、櫟野寺・弥勒如来像(暦應3年・1340 秀弁・長弁作)も。近郊の古刹からの仏画もあり、ちょっとした近江仏教美術展である。
紺紙金字大般若経(細字経)は残念ながら老眼では文字すら判別できない。小学生と思しき男の子も「見えない!」と言っていたので、これは神仏の眼にしか見えないものなのか。そう思うと開経したことのなさそうな保存状態もよい紺紙金銀経も神仏の眼にしかわからず、奉納品であることも納得。
その後、遅まきながら大学へ。

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名言

2009-8-15

吉原治良(1905~1972)は、1924年に関西学院高等商業学部に入学し、この頃芦屋に転居。パリから戻った画家上山二郎と会い、新しい美術の動向などに触れる。1928年には大阪・朝日会館で、初の個展をひらき、魚を描いた作品などを発表、注目を集めた。

翌1929(昭和4)年9月28日に藤田嗣治は妻ユキ(リュシー・バドゥ)を連れて神戸に入港、一時帰国した。上山の紹介で吉原は藤田と出会い、吉原の作品を見た藤田は他人の影響を受けすぎると指摘され、オりジナルの重要性を次の言葉で説いたとされる。
「人のやらないことをやれ」

その後、藤田の推薦を受け、1934年二科展に出品し、初入選を果たす。その後も吉原は戦前・戦後の抽象美術界、アンフォルメル絵画など前衛美術を牽引し続けた。
1954年の具体美術協会結成後は、「他人の真似をするな」という信念で若き芸術家たちを導いたとされ、藤田の影響が多大であったことを物語る。

なかなか、よい話ではないか。
吉原治良は、「ゴールデンサラダ油」でおなじみ元・吉原製油の社長でもある。アグレッシブな画業とは裏腹に、実業はじつに堅実そう・・・。

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リンシャ

2009-8-16

世間では盆休み、日曜日であっても耐震工事は続行。黄色いヘルメットの作業員が、手押し車(「ネコ」とも。旧職では「リンシャ」と呼んでいた)押して頑張っている。

1輪であるため、土や瓦礫などを入れると安定は十分過ぎるほど悪い。
もちろん仕事用であるため、ささっと、動かさないといけないので、半分ぐらい土が入ったら、取っ手を持ち上げてスタンバイ。剣(先)スコ(ップ)からいきおいよく飛び出す土砂をキャッチ。
まず、ここで初心者の大半はひっくり返して怒られる。
手押し車の取っ手はバランスをとるためにあるもので、手腕だけでリンシャを支持し、持ち上げてはイケナイ。基本は足と腰を使って持ち上げて「押す」。土砂満載のリンシャの重心はかなり高いので、持ち上げた途端にその場でバランスを崩してひっくり返すこともある。怒られるポイントその2。
それでも慣れると、悪路でも歩み板(仮設の通路用板)でもらくらくと運搬できるので便利。

何度か往復しているのを見ていると、不思議そうにこちらをよそ見する作業員。
こちらも仕事をしに大学へ来たのであって現場監督に来たのではない。今日は、研究棟にどこから入れそうなのかと思いながら、部屋へと急ぐ。

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コミケ

2009-8-17

昨日で、“コミケ(C76)”終了。
もちろん同人誌の蒐集はしておらず、いまのところ?研究資料としても所有していない・・・。

今年も、ゆうちょのATM残金が枯渇したなどの話題もあったが、個人的には、この話題に脱帽。
あまりの出来ばえ?に、例によって画像を貼る。
この男の子、昨年のコミケでは「せんとくん」だったそうで、コミケの帰りに東博のポスターを見たのか、東博へ行ったのだと思う。
「なんだ、空也上人像、来てねぇのか・・・、そうだ、来年はあれだっ!」となったんでしょうね、きっと。
いや~ぁ、そのまんまの姿で、後期の授業に来て欲しい(笑)。

幾つかの博物館で「仏像コスプレ」のイベントもあった(メールでご報告いただいても、タイトルや本文に「コスプレ」の文字があるとスパム・メールとなります・・・)が、若い人の発想にはかないません。
仏像ブームの折、来年は「天燈鬼」あたりを希望するのですが、きっと今日からまた何かの「まねび」を考えているのでしょう。

記事を読みながら、彼と森村泰昌との距離は意外なほど近いかもしれないと思ったり。

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百年の計

2009-8-19

某所にて。
「緊急雇用創出事業」施策の一環として鎌倉時代の仏像をその筋のプロ(職業人)が“復元製作”したのだが、まったく現代の仏像。鎌倉時代の雰囲気すらない。江戸時代の仏師のほうが見事。
傍らには修理物件も。なんだか修理途中のようにみえるが、これで一応完成ということか。あまりにも雑な仕事振りに驚愕。
職人の手は違うものの、一番利益の出る台座は新調しており、彫りが細かく(手間暇かかる)光背は、そこそこの補強をして金泥の樽にザブーンと入れて、終了。まぁ、少々の振動でも転倒しないだけマシか。

もう、この仏像は当分の間(50年か100年位?)は修理しない。江戸時代の修理が劣悪であるというのもわからないではないが、見事なほど上質な修理もある。今も昔も目先の負担や利益だけで修理すると、不細工な出来を長くさらし続け、後世末代まで汚点を残すことになる。仏像は、今生きている誰よりもはるかに長生きするのだから、どのような修復であれ、少なくとも「百年の計」をもって臨まないと。
展示施設もあったが、何も考えていない、単なる場所塞ぎの役割しかなく、こちらも目先のことだけ。

帰宅後、選挙カーの演説に出くわす。
「これ(国会議員)もそうだ。」と思いながら、自宅でメールをみると「百年の計」を以って修理に臨んだ寺院とその気概をもつ修理者からの嬉しい知らせ。

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京都劇場

2009-8-21

今年も受験年であるため、家族で京都劇場『美女と野獣』へ。
ストーリーも熟知しているはずだが、まぁ、終わる頃には女性陣は皆ウルウル・・・。
ひとりだけ、「むぅ、背景の書き割り(特に遠景)はなぜ、こうも下手なのか」「大道具、あんな風になっていたのか」と思いながら観劇。主役だけではなく端役(ことのほか多い)にも目配り。
ここに至るまで並大抵の苦労ではなかったと思うが、十二分にプロの実力をみせつける。

皆、最初はアマチュアながらどこかで、アマのままである者とプロになる者との格差が出来る。その原因は「並大抵の苦労」の数ではなく、諸々を含めた実力に尽きると思う。
では何が実力かと問われると、千差万別、自分で見つける以外にない。劇団の大スターが必ずしも劇団経営に相応しい実力があるわけではない。無数にある「実力」が大学で伝授されるものでもない(キッカケを引っ掛ける棘はたくさん提供しているつもり)。

折しも大学生に対して、杜撰極まりない意識調査が発表された(配信したマスコミの感覚も疑うが)が、そんな結果は演劇ひとつからでも理解できようもの。
「授業以外の自主的な勉強は19%」。格差は今後も広がる一途である。

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御苦労様

2009-8-22

サントリーミュージアム天保山が2010年12月末で休館の報。
2003年3月に出光美術館大阪、2004年2月に萬野美術館が閉館して以来である。

こう書くと、あぁ、また大阪の文化が消えて・・・と思うかもしれないが、むしろ遅いぐらいに思う。サントリーの子会社は、全国でいくつもの美術館や文化施設の「指定管理」などを行っている。お膝元が赤字となれば、企業としてもいかがと思うはず。

美術館や博物館で「指定管理者制度」が問題になった時、様々な危機感が訴えられたが、果してその危機感が今でも持続しているだろうか。残念ながらいくつかの館では大いに疑問である。
代り映えのしない常設展示(美術作品は1、2か月に展示替しているのだが)、木に鼻を括ったような「研究お披露目」の企画(少なくとも市民にとっては)なんだかよくわからない展示がいかに多いことか。瑣末なことながら、ガラスケースのガラス内側が汚れている、展示台(サイコロ)にホコリ・ゴミが付いている、展示プレートが曲がっている、というのは職務怠慢を示す以外の何物でもない。喉元過ぎれば熱さを忘れて「予算がない」と再び嘆くばかりでは、以前と何も変わらない「保身」としか映らない。もちろん大きく変わった博物館や美術館も多くあるのだが。

「お笑い」と「コナモン」のほかに文化的価値を認めない土壌では、なかなか「文化」を測るスケールを見出しがたかったのも事実である。
1994年秋より様々な企画で楽しませていただいた。感謝の念を込めて「御苦労様」でした。

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もう新学期

2009-8-24

朝から騒々しく、なにごとぞと思いきや、中学・高校とも今日から新学期開始。
インフルエンザ休校の回復措置。
おやおや御苦労様と思いながら、大学に来てみると、ここでも学生がちらほら。夏休み明けの総合図書館に行くでもなさそうである。サークル・クラブ?
まぁ、よくわからんが、こちらはあれこれと。

今夏はどこにも行かずに(完全に出遅れ)、研究室にてお籠り。デスクトップの壁紙みながら、むぅ・・・。
授業再開まで1カ月。行き場のない(ことはないが)教員と学生のいる大学。
なんとなく親しみすらも。

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ライディング

2009-8-25

がさごそと絵画資料を漁っていると、獅子にまたがってライディングする文殊菩薩像出現。えっ?と思わず凝視。

左太腿あたりに右足裏は見えず、どうも半跏ではないようである。獅子の背上にも蓮華座はなく、しっかりとまたがる文殊菩薩。
総高は158cmもあって、かなりデカイ。いやはやアメリカ西部開拓時代のカウボーイさながらの姿である。再び漁ると、普賢菩薩像も同じように白象にまたがっている。こちらは寸尺の関係で、白象はやや ミニ豚風。

江戸時代にはこんな仏像も作られたのかと驚いていると、背面に「大仏(師)左京入道 勅 法印康祐」の朱漆銘。康祐晩年の作。残念ながら制作時期を1635年頃としており、どうも、康祐(koyu)を康猶(koyu)と間違えているようだが、やむを得ない。おおむね+50年。
いつもならすぐさまお知らせして、出来れば機材担いで調査・・・と言いたいところだが、康祐の訂正以外にも見所があり、下準備が整うまでちょっと保留。なにしろ所蔵はBritish Museum。
来年あたりにはなんとか・・・。

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ウソ也

2009-8-27

このところ好天が続き、やや埃っぽい。
『多聞院日記』天正12年(1584)6月24日条にこんな一文。
猿澤ノ池ノ水依炎天以外減故、土泥六方ヨリ人夫出て悉被上了、トロノ中五六才ナル子死テアルヲ引出云々、物恠題目也、清祓アルヘキ事也、ウソ也ト云々
翌々日には、「ナラ中」の家が猿沢池に水を入れているので、泥土の浚渫は事実のように思われ、可哀想な出来事も造り話としてはなんとなく手が込み入った話である。
こまめに「お買い物メモ」を残して「お小遣い帳」をつけていた多聞院英俊のことだから、信じたくないあまり「ウソ也」としたのだろうか。

身辺、「ウソやろ~」と思うことも多く、つい誤読気味。

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書式設定

2009-8-28

京都国立博物館「シルクロード 文字を辿って」を見学。
ロシア探検隊(ロシア科学アカデミー東洋写本研究所)の“古文書”展。

期待せずに行ったが、かなり面白い展覧会。
サンスクリットはもちろんソグド語やウイグル語、西夏語(一見すれば版ずれを起こしているような)もわからず、解説札を見てそんな内容かと理解するありさま。
それでも敦煌遺書(漢訳経典)をみていると、「1行19字前後、天地の余白もせまく、5世紀前半とみて間違いない」の解説をみると、書体もさることながら書式設定で時代判別するのかと思ったり。1紙28行は唐時代の標準的な形式などとあると、日本標準の1行17字はいつどこからと関心は尽きない。入ってすぐの地図には知った地名が多数あり、カシュガルやコータン(ホータン)では仏教と回教の城市が別だったことも。圧巻はS.M.ドゥーディン作図の敦煌千仏堂全景図。幾筋もレベルが引いてある。
文書によっては虫喰い痕によって巻物か折り畳まれたのか、貝葉経のように裏表で重ねられていたのかもわかり、結構楽しく見学。

京博の写真はいつも片山東熊ばかりなので、今回は「堪庵」。京博でも穴場中の穴場。

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まだまだ青い

2009-8-30

小文の初校が届く。今回もまた「この夏も暑かった・・・」と書く始末。残念ながら周囲に美術に関心がある者は少なく(話し出すとキリがないそうなので、かなり食傷気味)、ともかく家人に一読を乞う。

一般向けの小文であるために、出来る限り平易に書いているつもりである。もちろん語句にルビを振って事足れりではない。ぐだぐだと説明してもさっぱり要を得ない。そんなことは自明の事だと思っても、関心のない者にとってはただの「わからない文章」にすぎない。

「素人」相手に恐る恐る、初校のチェックをしてもらう。
時には、「てにをは」や「それで、何が言いたいの?」などと辛辣なコメントを浴びることもあるが、もちろん訂正するのはこちらであり、「このあたり」という指示のみ。
初校を渡した後、なんとなくその場に居づらく、この暑い最中、山手に散歩。ミカンも木に鈴なりだが、まだまだ青い。しばらくして戻ると、テーブルに初校が伏せて置かれており、「まぁ、いいんじゃない」。
もうちょっと、何とか言えんかと思いつつ、安堵。さて、これから校正に取り掛かるとするか。

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田舎侍

2009-8-31

昨夜は遅くまで総選挙の速報を見る。
どの報道とも、赤と青のドットや人形が左右から延びる構図と都道府県内の升目を赤と青などで塗る構図。
全体の2/3が青で塗りつぶされるなかで、升目全てが赤で埋まる県も。過疎を抱える所もあるのだが、ここはこれからどうしていくのだろうか。

「地元の声を国政に」といっても野党となってしまえば、多勢に無勢。山奥深い所と減反の田畑をいとも容易く用地買収して道路を通す公共事業も抑制され、同様の状況下にある青ドットの多い県が優先される。なぜなら青の彼らもまた「地元の声を国政に」と訴えているからである。
「県庁の星」にも逆風。地元選出議員を通した官僚への働きかけも「脱官僚」でパイプが切れ、その議員も野党ばかり。岐路があるとみえてその先は単線でしかない。末端行政も「銭のない」上級庁に用はない。これからは地元をかえりみない「田舎侍」が露呈する予感。

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