日々雑記



演習(6)神坂雪佳

2009-7-1

神坂雪佳《百々世草》と図案。

「ほら、高島屋のお中元とかお歳暮とか、南海電車の吊り広告とか、みたことあるでしょ。」
ハイ、総スカンです。
「だから高島屋の包装紙は何?」「薔薇の…」
「そう!あれは洋画家の高岡徳太郎(元同社広告部)」
むぅ、授業開始早々にいきなり脱線。

黒板に【図案】【京都】【明治】と書く。

【図案】
東京美術学校(「日本の吹奏楽」以来、再び登場)は、絵画(日本画)、彫刻(木彫)、美術工芸(金工・漆工)の三科からスタートし、明治29年に西洋画科と図案科が設置。明治35年に京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)は、武田五一・浅井忠による色染・機織科と図案科からスタート。
「なんで図案科?」。
【京都】
美術工芸の長い伝統を誇る京都で、「国費ヲ以テ此種ノ学校ヲ美術工芸ノ最モ盛ナル地即チ京都ニ設立スルノ急務ナルヲ認メ」との貴族院での建議案。
「最モ盛ナル地なのに、なんで急務?」
【明治】
「美術及学理ヲ応用スヘキ工芸即チ染織、陶磁、漆等ノ技術ヲ練習セシムル学校」(京都高等工芸学校)。
「なんで『美術ヲ応用スヘキ工芸』?」

スクリーンに映し出された『百々世草』各図を眺めながら、頭の中でも「高島北海」や雑誌「明星」などを想起するものの、浅井忠と同時期に渡欧した神坂雪佳は「欧州の図案(アール・ヌーヴォー)とは、風呂敷の唐草文 程度のことか」と思ったに違いない。
だからこそ伝統の「琳派」に傾倒したのかも。

ほのぼのとしたデザインながら複雑な舞台裏事情。

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「がさがさ」

2009-7-2

全学共通科目も最終回。なぜかこちらも「尾形光琳」で〆。 この話 をして、スライドの後、再び「上嶋源丞宛書状」。
下書きもあまりきちんと描かないほうがいいですよ。だいたいの顔かたちや手足の位置を決めたら、あざはがさがさと描いてしまえばよいのです。
雪舟の絵を毎日五、七幅ずつ見ています。ずいぶん写しました。とにかく舐めるように描くのは絵ではありません。
「がさがさ」とは、ずいぶんな言い回しである。授業を終えタイプミスかと思って原文を確かめてみると、「其余ハ中にて ぐわさ ぐわさと」とある。
光琳に直接、絵を手ほどきした人物は一体誰だろうかとふと思う。メトロポリタンの松竹・鶴図屏風(画稿)などをみると、後の光琳作品を思いつかないほど。

毎回同じような話をしながらもいつも「がさがさ」で、不安だらけである。

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みたび「上嶋源丞宛書状」

2009-7-4

京都大学(文学部エリア)で美学会。
いつも通り、お二人の発表があり、おひとりは琳派。琳派ウィークである。 文学部エリアは久しぶり。徘徊しているといつの間にか遅刻。 発表を聞きながら、みたび「上嶋源丞宛書状」。

自分でもこんなに長く江戸に留まることになるとは思いませんでした。いまだに慣れませんし、良い機会にもめぐまれません。
酷暑のさなか大名屋敷へ行って数幅の絵を描いたり、いろいろ注文をつけられたときには、何の因果でこんなことをとも思います。 けれどもまあとにかく変りなく務めています。

この秋には東京大学で全国大会。

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将を射んと欲すれば・・・

2009-7-5

午後より大学。昨日同様に好天。

昨日、京都大学に行っている間、家人は高校PTA主催の保護者向け大学見学会に飛び入り参加。見学校は山中の某公立大学と我が職場。

「バスが正門から入って・・・」。さては大型バスで来たな。
「図書館の前で、ノリノリの男の子(学生)と記念写真を撮って・・」。はぁ・・・。何しに来てんだか。
「生協3階のグレープフルーツ・ジュースとコーヒーは大絶品!」。
未だに飲んだことはない・・・。
「学生スタッフもめちゃ親切で、綺麗な建物なんだけど・・・」。
「けど?」
「(山中にある)○○大学に比べて、雑草もないし、緑も少ない。」
「そんなホトトギスが鳴くような山の中にある大学と比較せんでくれ。緑の木々もたくさんあるし、木陰もあちこちに。学生街もあって、梅田へも20分で行けるやろ。」
「学生スタッフもそう言ってた。それに・・・。」
「それに?」
「紙袋にグッズが入ってなかった。○○大学はほら・・・」そんなん、見たくもない。
去年でもおととしのものでもいいから、オープンキャンパスの余りモノでも入れておけばいいのに。

「将(学生)を射んと欲すれば、まず馬(大蔵大臣)を射よ」ということだそうです。

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演習(7)佐伯祐三

2009-7-6

赤松麟作の画塾を経て川端画学校(洋画部)で藤島武二に学び、日本の美術アカデミズムの本山である東京美術学校を卒業後、パリに留学。
オーヴェール・シュル・オワーズにヴラマンクを訪ねるが、「アカデミスム!」という怒号を受ける・・・。やっぱり。

オーギュスト・ロダンに憧れ、ロダンに弟子入りしたいと願った荻原守衛は、パリでロダンに会って、懇願するが「日本にはよい彫刻(仏像)があるのに、どうして私のところに・・・」と追い返される。
ロダン先生の勝ち。

さて、本日の与太話。
大阪市立美術館にある天王寺美術研究所の創設者は赤松麟作で、元文部大臣の赤松良子氏は、その娘・・・といっても赤松元大臣なんかしらんやろし・・。
そこで「夭折の画家」。
「夭折」と黒板に書けばよかったが、口頭なので「佐伯のような『早死』の画家をこう、集めてですね、見てみると・・・。」と言うなり、大爆笑。
はぁ?なんか可笑しいこと、言った?

出征・戦死は別として、村山魁多(22歳)、青木繁(28歳)、佐伯祐三(30歳)、前田寛治(33歳)、松本竣介(36歳)、岸田劉生・古賀春江(38歳)。発表に登場した中村彝も37歳で亡くなっている。最近、注目されている石田徹也だって31歳だぞ。

油絵具は体に悪い・・・という冗談(オチ)を用意していたが、思わぬことで熱っぽい講義に変更。

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Kşitigarbha (文字化けではありません)

2009-7-7

七夕。小笹に短冊を付け、「どうか、仏像を研究テーマにする学生が現れますように」と。(嘘也)

霊験?あらたかなり。さっそく現れました「地蔵菩薩像の研究」をしたいという学生が。
しかもパリ第7大学からの交換留学生。
えっ~!思わず、事務の方に聞き返す。「パリって、あのパリですか。」「はい、あのパリです。」

よもや「仏像ブーム」は既に海外にも・・・、と思うのは考え過ぎだが、日本の学生が「後期印象派」をやって、フランスの学生が「地蔵菩薩像」とはなんか不思議。ま、勉強に国境はありませんから。
「日本のアニメや漫画が、海外ではトレンド」と言っているのはひょっとして日本だけが抱く幻想なのかもしれないとも。

事情により留学1年のうち半期を担当しますが、とりあえず今秋には大阪へ来はります。
もちろん、授業は日本語で、としっかり念を押す。
地蔵(jizo)もフランス語ではKşitigarbhaとなるので、できまへんって、そんなこと。

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「天地無用」厳禁

2009-7-8

朝刊をみると二条城障壁画。
ボコ、ボコッと、凹んだ痕をみると、まるでスローモションをみる思い。
雨除けの対処をして、ほっとして薄暗い室内に。乾いた小さな音とともに足裏に違和感。あっと思ったが、次の一歩が絵の外に出ずそのまま画面に。

飛行機ではCritical 11 Minutes(離陸4分・着陸7分)。
作品の扱いでは、ひと段落後の次の作業開始時。作品はあるべき状態を違えると、ダメージを受ける。
立った仏像を寝かせた時には、それまで力が掛らなかった背中に重力がかかる。屏風を壁に立てかけた時、斜めに力がかかって各扇の接続部(おぜ)を傷める。出来る限り、本来あるべき状態を保つように、違える場合はどこに力や危険が生じるのか、という観察力と想像力。

掛軸を丁寧に巻いて、薄葉紙にこれまた丁寧に包んで箱のなかで軸が動かないようにして(共箱でない場合)外箱に収めた後、ハトロン紙を広げて、海苔巻のように箱のほうをグルグルと回して梱包するのも、もちろん厳禁。(あの丁寧な仕事ぶりは何だったんだと激怒)
人を介して一時立てて保持しておればと悔やむ。(写真は二条城のものとは別)

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暑気払い

2009-7-9

本日補講日。大学院を除いて授業終了。

卒論ゼミも既に終了ながら、三々五々ゼミ室に集結。今宵は暑気払いコンパで、前回の終了時に「まぁ、適当に集まって(会場に)行くべえゃ・・・」と言ったらしい。
それにしては、書いた卒論原稿を持参している者も。
いくつかの助言があって、集合場所の阪急・淡路駅前へ皆で繰り出す。

“夏恒例の3回生(日本・東洋美術史演習)納会” と同じ場所、同じ部屋。
乾杯!の後、すぐさま宴たけなわに。
ちょっと引いて見ていると、今年のゼミ生は、元気があるというか、ノリがいいというのか・・・。
少し前に好対照の光景を垣間見ただけに、元気がなによりと思う。3回生の演習では、そんな片鱗すらなく、生真面目な姿だけしか知らなかったのだが。ゼミ生以外の学生は、きっと記憶が止まっているだろうが、どこかで、きっと“はっちゃけ”ているのだろうと思っていると、「このナマ中、誰~?」「あっ、オレ、オレ」。

彼・彼女たちはもう(最後の)夏休み。

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ウルムチ

2009-7-10

旧聞ながら、昨夏のカシュガルに次いで今度はウルムチでの抗議行動。
いよいよ縮小期に入ったかにみえる「中国」である。
マスコミが使う「暴動」という言葉は、ちょっと使いたくないもので「抗議行動」と。

新疆(東トルキスタン)を訪れてみると、確かに様々な面でのウイグル人と漢族との著しい格差を感じる。
そもそもここは彼らの土地なのに。
それでも当地に移り富を得た漢族は当たり前だが、それほど不満はない。むしろ先鋭的なのは「新疆でひと旗上げるか」と一攫千金を夢見てやって来て、結局、ひと旗あげることも出来ずに留まっている漢族である。
ウイグル人に対する優越感を抱きながらも、現実生活がそれに追いついていないので、ウイグル人への憎悪もひときわ厳しい。 この時の運転手 も漢族。

カシュガルの時と同様、今回も複雑な事情が幾重にも絡んでいると容易に想像できそうものなのに、ウイグル人VS漢族による民族対立の「暴動」とは、あまりにも浅い理解のように思えるのだが。
写真は某年9月上旬のウルムチ早朝。右の山手が紅山公園。

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冷たい眼

2009-7-11

朝、梅田へ立ち寄ると、ヨドバシカメラ前にこのバスがご鎮座。
何かのキャンペーンらしいが、パンフはもらえず詳細は不明。車体の大きなペイントはもとよりテールランプやマフラーまでもが、その形なんだと感心。ナンバープレートも別のプレートで隠蔽。
夢は壊しちゃいけないの・・・。

若者に混じってデジカメを向けると、周囲からやや冷たい眼も。
このバスの前では、夢を壊すおぢさんか、場違いなオタクにみえたのだろうか。

過日も手塚治虫が描いたディズニーの「バンビ」「ピノキオ」復刻版を見せて頂き、著作権とか手塚の苦労とかの話を聞いたばかり。
著作権を考える上で、ディズニーは格好の研究テーマなのだが、おおかたの動向は逆。
ディズニーが大好きで、こんな裏話や感動する話がたくさんある夢の国って、ホントすごいでしょっ!
と力説されても、こちらは、法務エクスパート・ドリームチームによって、W・ディズニー(1966年没)が生み出した“この形”の全ての権利を半永久的に保持しているほうがすごいと思うのだが。
著作権のうえでは、W・ディズニーは不老不死の仙人である。
ちょっと形がいいからと、テールランプやマフラーをこの形に改造すると、即廃車の運命にも。

「熱い心と冷静な眼」。
ディズニー・バスにカメラを向けるおぢさんに投げかけた冷たい眼が、研究には必要。

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銅像

2009-7-13

学内広報誌「関西大学通信」をみていると学生広報スタッフによる総合図書館前の朝倉文夫「友の像」についてのレポートあり。
現台座にも「朝倉文夫 友の像 昭和30年」とあるが、全く在学中の記憶になく、「死後鋳造」ではないかと長らくいぶかっていた。

レポートによれば、1955年に日展の出品作品を大学が購入し、旧図書館(博物館)前に設置されたのち、1965年には誠之館1号館東側に移設され、1990年に現在地に再移設したとの由。
在学中、サークルやクラブに入っていなかったから誠之館周辺は知らなかったわけである。

御堂筋にも高村光太郎やジョルジオ・デ・キリコなどによる銅像がある。もちろん「死後鋳造」なのだがこれらにはあまり関心はない。
新聞日曜版広告にある「高村光雲 『聖観音像』」鑑定書付 一括・分割払い・・・」と同じ類いである。贋物と言うと問題だが、オリジナルと呼ぶことが出来るのは「生前鋳造」だけである。

疑っていた作品がオリジナルと知って安堵。

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21世紀

2009-7-14

レポートを回収して、さくっと纏めて講義(大学院)を終え、足早に1回生分属説明会(専修別相談コーナー)。

「(分属)迷っていますが、大丈夫でしょうか・・・。」
「大丈夫、大丈夫。あなただけじゃない、みんな、そう。」と2007年冬、分属希望届の登録締切日のお話。大学生活には慣れたが、入学して3カ月ちょっと。無理もない。

「教職、とらないといけませんか?」
「教員志望ですね。」「いいえ、教員になりたくないです。」「はぁ?」
「教職は就職に有利ですか?」「いいえ。不利かもしれません。」
聞けば、「文学部なんだから教職ぐらいは取っておかないと。」との周囲の大合唱。

文学部では教職を取る学生が多いが、皆が教員になれるとは限らない。むしろ僅少である。それは大学院に入って「専修免許」を取っても同じこと。倍率は高く、大分と同じく「コネ」が幅を利かし、採用となっても、荒れる学校に赴任することもある。しかも「免許更新制」。
「子供が大好き」だけではやっていけない業界であることは、文科省さえ認めている。
周囲はそのあたりの事情を理解して勧めているのだろうか。

就活中の学生からみれば、就活ピークの大事な時期を「教育実習」等でごっそり取られてしまう。もちろん教員免許所持(予定)者を優遇する一般企業など聞いたことはない。
話を聞くうちに、世間がいまだに戦後復興・高度経済成長期の中にいるような錯覚に陥り、愕然。
総理大臣でさえ孫の代となった21世紀なんだけど。

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餅は餅屋

2009-7-15

朝9:00 美学・美術史資料室前集合。
満載の書架3本、らくらくパックにて梱包。絵画・彫刻等の教材標本模型(オリジナル多し)はこちらで別移動。
梱包された物品を資料室片側に積み上げて、10:30作業完了。
1日のエネルギーを使い果たした気分のなか、「じゃ次、○○研究室へ」と号令をかける作業員。

耐震工事に伴う引っ越しや物品の移動が昨日より開始。

「らくらくパック」というのはこういう風にするのかと感心。

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過去問

2009-7-16

全学共通科目の春学期試験。今年から中途退出は開始後30分から終了10分前まで。

設問のひとつに
「京都国立博物館など諸家に分蔵されている牧谿筆《瀟湘八景図》の制作当初の状態(復元案)を記しなさい。」がある。 正解は、2巻の巻子(巻物)装で、絵の間には漢詩が入る、である。もちろん授業で取り扱った内容。
牧谿筆《瀟湘八景図》は道有(足利義満)によって切断されて、現在の掛幅装へと変化。

途中から答案提出する者もチラホラ。まだ試験時間なので提出の答案をみると・・・。
おっ、正解・・・と思っているうちに「観音・鶴・猿の3幅」という回答も。それも牧谿なんだが。
「〈遠浦帰帆〉〈瀟湘夜雨〉・・・〈平沙落雁〉〈烟寺晩鐘〉の計8幅」。
増えてはいるが、むぅ、それではほぼ現状のまま。(現在「山市晴嵐」のみ行方不明)
恐れていた迷回答もついに登場。
「未完の巻物」。ミカンじゃなくてニカン。
そんなに活舌が悪いほうではないのだが。

過去問となったのでもう出題しません。どうぞご安心のほどを。
それにしてもイギリスの画家、ターナーが牧谿筆《瀟湘八景図》を見たら、卒倒、気絶することだろう、きっと。

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葡萄酒

2009-7-17

ワインである。酒切れの“非常時用”に備蓄し、たまに飲むものの産地・銘柄不問、よくある蘊蓄も知らない。

日本初のワインは、明治3年に山梨・甲府で醸造販売されるが、不評につき廃業。その廃業と時おなじくして、北海道では開拓使によるビールと葡萄酒の醸造所が設置。その後山梨では殖産興業の一環として二人の青年をワイン造りのためにフランスへ留学させ、再びチャレンジ。
ところが、ワインの酸味と渋味はあまり好まれず、明治40年に、鳥井商店(サントリー)が甘味料を配合した「赤玉ポートワイン」を開発し、「滋養酒」のひとつとして販売。ワインといえば「赤玉」の時代がながく続く。
1973年は「ワイン元年」とされる。以後、2000年近くまで国産・輸入も右肩上がり。むぅ、全くワイン・ブームに乗っていない。

ワインは圧搾した葡萄に酵母を入れて発酵させたもの。赤は皮と共に、白は果実だけ。よくみかけるワイン樽はフレーバー(香り付け)のため。熟成にはさほど関係しない・・・。だから年代物のワインはホコリのかぶったガラス瓶で登場するのか。ちなみに白ワインを蒸留させて樽詰めにして熟成させると、「ブランデー」が出来上がる。ほぅ~。まったくの“酒音痴”。

今日の某市文化財保護審議会はかなりの予習が必要であったと痛感。テイステングに魅せられて出席している場合ではなかったと反省。
すぐの復習が効果的と自戒の念をこめて帰途に一献。もちろん、珍しくワインから。
やっぱり飲むのかとの声あり。

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甘露

2009-7-18

梅雨もやや終わり近く。「甘露」とは古代中国では天子が仁政を行えば、天から降る甘い水。

ながく探していた本だが、ひょっこりと古書店に出てすぐさまゲット。昨日に届いたようで、大学に来ると、季節外れのクリスマス・プレゼントのように研究室に。

もちろん両書ともうちの図書館になく書誌検索によれば揃っているのは九州大学のみとあって、きっとあの先生が持っておられるのだと推測(ほぼ断定気味)。
ビートル号に乗って釜山に渡って古書店を探せば出てきそうなものだが、どうも彼地にも無いようである。
こちら からは未だ連絡なし)

仁政を行っているわけではないが(むしろ逆)、まさに「甘露」。雑事そっちのけで、頁をめくる。満足至極。大型カラー図版を前にハァハァ 言いながら(アブナイ!)見ているうちに、こんなマニアック本を国内で誰が持っていたのだろうかと思う。そしてまたなにゆえに売却することにもなったのだろうかとも思う。
ともかく研究再開。夏休みの宿題がまたひとつ増えた・・・。

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まるごと見せます 松岳山古墳

2009-7-19

大学に居続け、今日ばかりはお休み。
夜来の豪雨も過ぎ、柏原市立歴史資料館へ。

夏休みに入ると、大阪の博物館・資料館の企画展示はなぜか「考古一色」となる。「火炎土器」といった大阪に縁のない企画もあるが、市町村で発掘した考古資料が主で、埋蔵文化財の部署から展示関係の部署へ書類と資料が渡るだけで、特段、個人所蔵者との難しい交渉もなく・・・。

そうしたなか、柏原市立歴史資料館の夏季企画展「松岳山古墳群を探る」(7月11日~9月6日)は、ちょっと驚きの展示。
春季企画展「すべてみせます 高井田山古墳」に続く「まるごと見せますシリーズ」第2弾。
まずは「船氏王後首(ふなしおうごのおびと)」の墓誌。原品は国宝なのでさすがに近つ飛鳥博物館のレプリカ。やや照明が暗いかも。背後に廻ると国分神社蔵(大阪市立美術館寄託)の平縁盤龍鏡と三角縁神獣鏡。徐州の銅を用いて洛陽の工人が製作・・・。
次いで市で発掘調査した石釧がずらりと並び、その後も京都大学・大阪大学に分蔵される埴輪などが展示。更には藤田美術館蔵 重要文化財「歯車形碧玉製品」も出品(館外展示はこれで2度目)。中央には大きな楕円筒のヒレ付きの埴輪が露出展示され、加えて同じヒレ付き楕円筒の埴輪をもつ茨木市・紫金山古墳の埴輪片も参考展示に。

市調査分以外はすべて里帰りで、研究者垂涎の展示と思われるが、そこに至るまで公私の美術館や大学施設など他館との交渉ごとが5つもあって思わず脱帽。しかも入館無料。

リニューアル中のHPからはうまく繋がらないので、リンク。 夏季企画展「松岳山古墳群を探る」

むぅ、残念ながらポスター・デザインはいまひとつ。惜しい哉。

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時代考証

2009-7-21

某所にて聖徳太子絵伝(江戸時代)などの作品を拝見。

皆が注目したのは「太子絵伝」葬送の場面。
頂上で鳥が鳴く磯長陵の石扉が開かれ、中には琴・琵琶・箱。前には二重の鳥居。陵に向って伸びる白の帯状。
白の幕内で囲まれた中を白の衣冠束帯姿の神官?を前後左右に従えた3基の葱華輦が進む。葬列の先頭には天冠(幽霊が頭につける三角巾)を付けた者も。その先には僧侶たちが居並ぶ。

誰かが「『大喪の礼』を見るみたい」と言ったが、残念ながらリアル・タイムでは知らない(もちろん生まれていたが、TVが(必要と思っていなかったので)なかった頃である)。

絵はイリュージョンながら現実を伝える。当たり前のことながら、太子が亡くなったのは飛鳥時代で、聖徳太子の葬送を江戸時代に描くと、葬列の順序や細部は、ある程度の有職故実に従うといえど、江戸時代の現実の葬送に従ったものでなければならない。一見して理解できないところに、「語り」のピークが生まれ、絵説きも熱を帯びる。

と思っていると、この折の話題
「ネットで掻き集めた出来の悪い学生のレポートを見るような、高度な情報と雑駁な情報を無理からひとつにまとめた」、実に素直でない(ひねくれた)作品も存在する。
これは、未だにどう語るべきかの術すら掴めず。作品は、素直に限る。

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一切許可

2009-7-22

前期試験監督(補助)。
補助といっても、教職員のペア×2教室のうちのひとつを担当。

直接ご担当の先生いわく、「去年は(受講生が)50名ほどだったのに、今年は曜日・時間を変えたら300名も来てしまった・・・」。
この曜日この時限に開講すると、会議ディと重なるのであまりしないが、そんなにも違うのかと驚き。

試験の参照条件が「一切許可」なので、ずいぶんラクである。
事あるごとに「参照条件」を「一切不許可」か「一切許可」のどちらかにして下さいとの通達がくるが、監督するほうからすれば、当たり前のこと。なんなら部分条件を出す教員は、試験監督応援担当を倍増してもよいと思ったり。
そういえば、かつてこんなこともあった。
筆記試験、問題&答案用紙を受け取りに控室(本部)へ。
行くと黒山の人だかり。のぞきみれば、某科目の出題教員と事務職員とのやりとり。
「参照条件は、この2枚のプリントと教科書!」
「センセ~。ですから当該のプリントかどうかの判別は難しく、これをコピーして全員配布し、
他は一切不許可ということで・・・」
「じゃ、(プリント配布時に)欠席した者はどーなる?(有利になるじゃないか!)」
「でも、それでは各自(受験生)の参照条件が異なりますっ!」
「・・・・・・やむを得んな。それで教科書はこれで・・・」
と振りかざしたテキストのカバー。
「あ、センセ。テキスト(本)の部分は?」
「ない!」
「あの~、学生がカバーを外して持参することもあるので、テキストか参考書かは、こちらでは確認できないのですが・・・」
「みれば、わかるだろ!」
誰もわかんねー。(2005-1-21)
とは言え、原稿用紙のレポートにすると、“ミカン箱”3箱分のレポートが、ドンと郵送。
出題者・受験生、お互いなるべく手間暇かからぬようにしたいのが、偽ざる心境。

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緊張と緩和・集中と拡散

2009-7-24

併設高校連携プログラムの一環として模擬授業。
昨日は「北陽高校」、今日は隣の「第一高等学校」にて。

早く会場に着いたので、後ろで文学部紹介企画を拝聴。まさに始まったばかりの企画は、一高OB・OGと執行部(司会)とによる「先輩は語る」文学部拡大版。
ウキウキトークと思いきや、「ネガティブキャンペーン」かと思うばかりのボロボロ加減。見ていて痛々しいほど。なんじゃありゃと事務職員の方に呟くと、「某学部では収拾がつかなくなったほど」と嘆息。

違う意味で「学生をなめてはイケナイ」。この場に呼んだ理由をしっかりと説明して、台本もつくって、リハーサルもしないと、本番では何を言い出すかわからない。「ヤラセ」と思われてもいいのに。
どのみち学生は「・・・と言えと、言われてきました。」って正直に答えるんだから。
雰囲気をみながら、固くなったと思う頃に「ホントのところは、どう?」と振ってやると、笑いが取れる。(笑)
桂枝雀の「緊張と緩和」。かくいう私も初年度授業で何度も学習させてもらった・・・。

その後に模擬授業。こちらは「集中と拡散」。
「見ることの大切さ -美術作品を通して-」。ダサいタイトルながら、かなり好印象。Good!と思う回答もあって気を良くする。
殺人?事件やマニュキュア、はてはパイレーツ・オブ・カリビアンまで登場した「見ることの大切さ」。
もちろん、東西にわたる珠玉の美術作品もふんだんに。

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歳月

2009-7-25

学内で研究会議や雑務(採点)やら。展覧会もあれこれ始まっているのに未だ動けず・・・。

30年前に垣間見たはずの資料が登場。もちろん記憶もおぼろげである。話を聞きながらずっと妄想。
30年前といえば、「中国」とか「西域」とかが、まだまだ遠い頃である。
教科書には「人民公社」が載り、NHKの〈日中共同取材 シルクロード 絲綢之路」で思いをはせていた頃。人びとは皆、紺か緑の“人民服”であった。

この間、関連資料は飛躍的に増え、必要ならば現地へ行くことも可能である。歳月の流れの大切さを思いつつ、ホータンの博物館でみた「仏面の型」が脳裏に。こうしたモノも形を変えて、いずれ日本からも出土するのだろうかと妄想。

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出雲大社の三重塔

2009-7-26

クラブ合宿(娘の)への差し入れついでに、但馬妙見の三重塔を拝見。 国道を離れ、麓の日光院から山道(離合困難)を7K。駐車場から坂道をあがると、朱塗りの三重塔が目の前に。山道を上がる頃より予想はしていたが、標高780mの地は霧雨に包まれ、撮影写真もかなりベールに包まれている。

大永7年(1527)尼子経久により出雲大社(杵築大社)に三重塔が寄進される。尼子経久はこのほか大日堂、鐘楼、輪蔵も寄進。
時は過ぎ、出雲大社(杵築大社)寛文の大造営・遷宮にあたって、寛文4年(1664)出雲国造家の千家尊光は、藩主の松平直政と図って大社を両部神道(伽藍)から唯一神道(社殿)へと変更、境内の鐘楼、三重塔、経蔵、大日堂などは撤去の方針。
いっぽうで、出雲大社は造営用材調達を苦慮しており、そのなかで日光院より「妙見山の妙見杉」を譲与する申し出があり、不要となる大社三重塔の譲渡を交換条件として両者合意し、翌年、三重塔が但馬妙見(日光院)に移築され、今日に至る。
江戸時代の「神仏分離」である。

初層蛙股には「ウーン」(阿しゅく)「タラーク」(宝生)「キリーク」(阿弥陀)「アク」(不空成就)の梵字。内部の須弥壇には大日如来像(道の駅のチラシには内部の写真があったが、須弥壇のみ)。
初重の尾垂木の下には力士四体。
どこの塔でも邪鬼や力士が頑張って尾垂木を支えているが、ここの力士はアカン。どうみても、尾垂木で遊んでいるとしか見えない。
>

三層部の尾垂木の下にも四猿(見ざる・言わざる・聞かざる・思わざる)があるらしいが、全く見えず。
これらは大永の頃からいたのだろうかとふと疑問にも。
好天日での再訪を期し、下山。

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夏休みまじか

2009-7-27

お昼に晴れたと思えば、また雨・・・。なかなか梅雨明けに至らない。九州では梅雨明けしたものの、ノルマ達成に駆け込むかのように“大豪雨”。被害の大きさをみるにつけ、「あかんで、そんなことしたら」とも思う。

学内はまだ試験期間中ながら、試験終了直後を除いては閑散としている。一方で学舎裏に回ると、研究棟では耐震工事も本格化。雨ごときでは休めない。

一見すると、何も変わっていないようにみえるのだが、土台部分ではこの有様。基礎にあたる管路の迂回が大蛇のように地を這う。反対側でもミニショベルが大活躍。

当該研究棟では騒音などもあって、廊下で見かける先生がたもめっきり少ない。
蝉が気ぜわしく鳴くなか、夏休み?まで、もうちょっとである。

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夏休みまじか

2009-7-28

打ち合せにて小磯良平記念美術館へ。現在、戦前から戦中までの油彩を展示。秋の特別展に関係する作品もちらほら。
数少ない風景画のひとつ『石切場』(1936年頃)をみて、何処の石切場だろうか・・と思っていると、背後に人影。振り向くと担当氏。「しっかり、監視モニターで観察してたでぇ」。

企画展「小磯良平の室内画」を眺めた後、アトリエへ。先ほどみた作品のモチーフにもなったリュートやらガラス器、椅子とかが展示。「一時はアンティーク・ドールで部屋いっぱいになった時も」との由。ふと、壁付きの本棚をみると古今東西の美術全集などがぎっしり。そのなかに「絵金-ekin-」(1971年 光潮社)を見つける。
“血みどろ絵師金蔵”と小磯良平。なんだか対極にある1冊のように思い、他も探してみるが、これ以上の対極本はなさそうである。
どこでもそうだが、蔵書だけで人を判断してはイケナイ。

「(近代美術は)ええよなぁ。作品はあるし、画家もいっぱい喋るし、書いたモノ(雑誌等の投稿)まで残っている。それに比べて、仏像は寡黙や。誰かもわからへんし、運慶だって日記ないもん!」とは、かつての暴言。雉も鳴かずば撃たれまいということだろうか。委細面談。

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学長選挙

2009-7-29

国政選挙よりひと足早く、関大村の村長(むらおさ)選挙。
投票人五百数十名なので、いちいち「得票数 A:100 B:100 C:100」といった開票速報はなし。投票終了後、暫時休憩のあと再集合、「それでは発表します」と選挙管理委員長?が言うと、前方のスクリーン周辺が暗くなり、ドン!と確定投票数が表示。
「あぁ~」とか「おっ~」とかの声が飛ぶ・・・。これが2回。
3時すぎには新学長、決定。

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寧波展

2009-7-30

清凉寺・釈迦如来立像が今日までの出陳と聞き及んでいたので、慌てて奈良博へ。
むぅ、平日午前中、ある程度予想していたとはいえ、この様子。(また、そんなアングルから撮って・・・)

清凉寺・釈迦如来立像を取り囲む人も3人ほど。ゆっくりじっくりと拝見。また杭州雷峰塔・銀阿育王塔もしげしげ。泉涌寺・楊貴妃観音像や韋駄天像も同じく。順路に従わずにあれこれと見移りしても、今回は大丈夫。

ずらりと並んだ大徳寺・五百羅漢図。ボストン美術館本も展示されている。各幅に羅漢が5人。羅漢それぞれの動作も興味深いが、見ているうちに羅漢に従事する者たちも興味深い。「食事の支度」では櫃や食籠をもった侍者らを尻目に談笑まで。羅漢をみながら
罰当たりにも“ニートの集団”にも思えなくもない。

宋代仏画や十王図、六道絵、法界聖凡水陸勝会修斎儀軌、「起教大士面然鬼王」を堪能しながら、策彦周良関係資料へ。最後は雪舟筆「破墨山水図」(国宝)と渡唐天神像。奈良博の特別展で国宝を独り占めできるとは思わなかった。満腹至極。

その後常設展示をみて奈良駅へ。興福寺国宝館では、阿修羅のいない留守は、わしらが守るんじゃー、といわんばかりに金剛力士像や竜燈鬼・天燈鬼像。鎌倉彫刻の名品が勢ぞろい、しかも仏頭まで。十大弟子や八部衆の一部は既にご帰還なり。

久々の「仏教美術三昧」。大学へ向かうことがなければ、もっと楽しめたはずなのに。
ちょっと残念。

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夏期講習会

2009-7-31

地元で文化財の保護・啓発に努められている方々と共に某所にて仏像調査。

以前より、懇意にさせていただいている。
今回も“古そうな仏像”があるとの由にて。十一面観音像。もちろん一木造で内刳りはなし。古い体躯を江戸時代に修復。思ったほど、“改造”されていない。
後世の漆塗の亀裂線が首元正面と正中に走るが、頭部背後からみると頭部と躰部が1材であることは間違いない。
正中の亀裂も途中で消失。幕末の小像なら躰部1材、頭部1材で、共に丸彫り内刳りなしで首ほぞに頭部をねじ込むこともあろうが、表面をきれいにしているとはいえ、平安時代中期の作品である。
写真を先行したので、後補の頭上面は合致していないが、調査時に修正しつつ、実物に見ながら、触れながらあれこれ。
調査のあとも釈迦の脇侍に地蔵半跏像と如意輪観音(江戸初期の一具作)や近世の六地蔵詣で、室町時代と見まがう江戸時代の仏像(最近、この手の作品は慎重)などを見せていただく。

以前にもこの時期に調査したので「夏の特別講習会」と称されていたが、お教えいただくことばかりで、説明も要領を得ない(釈迦・地蔵・如意輪のセットなど、どの仏像本にも載っていないと思う)。
現場・作品を前に幅広く深めるという点では、実は何も知らないことを改めて自覚。
私にとっても、充実した「夏季講習会」。

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