日々雑記


ギョエテ(ゲーテ)とラテ欄

2009-6-1

昨夜、何気なく新聞のテレビ欄をみると、NHK教育 日曜美術館「伝道者ボーリズ傑作建築の秘密」。
「ボーリズ」って?
きっとNHKが「ヴォーリズ」を誤記したのだろうとネットの番組表で確認すると「建築家ヴォーリズの“愛される洋館”」。はて?

新聞のラジオ・テレビ欄(ラテ欄)は、放送局→配信社→新聞各社と原稿が流れ、複雑な原稿制限があるらしい。 どうもこの原稿では、
  理想の住宅・最も美し
  い女子大▽伝道者ヴォ
  ーリズ傑作建築の秘密

となって行頭に「ー」がくるのを何処かで嫌ったために“ボーリズ”としたのであろうか。
このHPでも読点(、)を多用、誤用しているが、ラテ欄の事情がわかるとなんとなく同情したくもなる。
事情を知って改めてみると、早朝欄の「買物◇アンパン◇皇室」というのもなるほどと思うのだが、
  ドリーム競馬「日本ダ
  ービー」日本競馬界最
  高峰の戦い歴史に名を
  刻むのは?     

というのもあった。
やはり短文ほど難しいものはない。

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佐藤主馬

2009-6-2

最近、新書版の“仏像本”が多く発行され、通勤途上で読書三昧。
このところは一坂太郎『仁王』(中公新書)。見たことのある仁王像はもとより関係した作品もいくつか掲載され、また近世仏師の作品もあって興味はつきない。

読みすすめていくうちに山口県萩市・仏光寺像で頁を繰る手が止まり、思わず凝視。
「胎内墨書によると江戸なかばの寛延元年(1748)、江戸在住の大仏師佐藤主馬の作。」(p243)

山口・萩に江戸市中の仏師? 確かに佐藤主馬は江戸京橋に住んでおり、関東で他の作品も残る。
理論上(?)、山口・萩周辺は京都仏師か地元の在地仏師(それと僅かながら大坂仏師の可能性も)のテリトリーで、少なくとも江戸市中の仏師の活動圏ではない。理論の破綻か・・・。

読み続けると、施主は長州藩主毛利吉元の正室と次女寧姫。吉元17回忌供養の造立。
正室は吉元生前より、次女寧姫も長門長府藩主毛利師就の正室として共に江戸住い。仁王像造立の依頼は江戸仏師に頼まざるを得ず、出来上がった仁王像ははるばる萩へと運ばれる・・・。
特殊事情と納得したものの、正室が江戸仏師に依頼し領地の寺社に奉納した仏像は全国(各藩)にあるのかもと不安にも思う。
理論の再構築・・・。

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五教科

2009-6-3

ふと気付いたこと。
我々が扱うものには“定義”があるといわれている。
「この本によれば、○○の定義について、1.云々・・・ 2.云々・・・としています。」と話すと、必ずや、「こういう事例もあり、こういう物もある。その“定義”おかしくはないか?」と批判を受ける。

社会全体のことが、国・英・数・理・社の小学校以来の五教科で割り切れることはできない、必要だとしても他と複合した別の観点が必要ということが、誰にもわかるはずなのに、どうして固執するのかが、私にはわからない。ましてや高校と社会の間にある大学生ですら、いまだに五教科を引きずっているのは不思議としかいいようがない。
そんなことも理解できないまま大学を卒業するから、「大学で学んだことは一刻も早く忘れてくれ!」と会社人から言われるのである。
大学で何を学び取っていくのは自由だが、五教科の延長では人生はあまりにも面白くない。

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不器用

2009-6-5
大学昇格記念日で休日ながら大学。

以前に調査した鎌倉時代の在銘阿弥陀如来像(制作時期、仏師名判明)が某所で展示されるようで、午後から新聞各社地方支局から問い合わせの電話が頻繁。

作風や構造から見て中央仏師による作品で、仏師も慶派仏師周辺のひとりとみられるが、現在は、この作例しかなく、その素性も何も明らかにできない。
初めは丁寧に答えていたが、各社は「国宝・重要文化財級」という見出しを打とうと強引に迫り、次第に語気が荒くなる。
国レベルの指定はともかく、“競争率”の高い地域ゆえに、「市指定」クラスに留まらざるをえないが、地域にとって「重要な文化財」に間違いない。国指定レベルを思いながら「国宝・重要文化財」指定は無理と断言しつつも、これが地方で見つかっておれば県レベルなら・・・とも思ったり。

 「宗教上、信仰上の意味は別にして“美術品”としてみれば、作者(の素性)もわからん、国宝・
 重要文化財級でもないとすれば、たいした作品でないわけですね?」と追い打ち。
 「そういう基準でしか見ることができないなら、たいした作品ではないとなるでしょうね。」
売り言葉に買い言葉。完全に大荒れ。
コメントを求める記者を敵にまわしながら、件の仏像から判明する事項だけを力説。

たぶん展示のお披露目紹介記事だったのだろうが、まったく逆効果になってしまった・・・。
やや反省、気落ちしつつも、疲労困憊にて帰宅。

ビ―ル片手に家人に一件を話すと、
「アンタはそうやって、いつも不器用なんやから・・・」。
その通りだと思うが、まだ学問的良心も残っていると冷蔵庫を開けて、杯を重ねる・・・。

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エステ

2009-6-6
記事掲載。
乱暴な態度にも関わらず、記事にしていただいたことにあつく感謝と御礼。

午後より京都工芸繊維大学にて美学会。
出かける前に学会の関係書類ファイル(The Japanese Society for Aesthetics)を垣間見た上娘が「ネイルとか脱毛とか・・・」とつぶやく。ちゃう、ちゃう・・・。

発表にしろ、参加者にしろ、質疑応答にしろ、その後の委員会にしろ、驚くことばかり。夜10時過ぎに帰宅。
珍しく夕食をがっつり食べていると、「やっぱり“痩身”は食事からやね・・・」。
ちがうっ、ちゅーねん。

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ギブアップ

2009-6-7
以前、関東へ行くべきか躊躇した時に家人がドンとひと押しをしたことがあり、昨夜、家人に同じようなことが起こったので、その時の御礼とばかりにドンとひと押し。ところがである。
「新幹線の品川で降りて、山手線で渋谷へ出て、京王井の頭線に乗り換えて・・・」と説明していると、「阿修羅展、まだやってたよね。行く?」「人多すぎ、行かねー。」「じゃ、私も行かねー。」
すったもんだの揚句、なぜか朝10時過ぎに品川駅の大通路に立っている。

路線図の紙を渡して、こちらは、パナソニック電工本社の汐留ミュージアム 「ウィリアム・メレル・ヴォーリズ」展。
入口のすぐそばには、1929年移転当時の〔関西学院〕の構内模型。北側には教員用と思われる瀟洒な宿舎が立ち並んでいる・・・。
展示図面をみれば、「大阪芸術大学所蔵」。展示資料を見ながらも深く知った喜びよりも嘆息ばかりつく。
東京駅前のビルにオフィスがあっても所詮は大阪の“田舎大学”にすぎないことを実感。昨年の村野藤吾展図録はなし(市販されているという)。写真は中庭にある旧新橋停車場跡(史跡)。

その後、もうすぐなくなる歌舞伎座(外観)を見た後、築地本願寺で伊東忠太による妖怪や動物たちをじっくりと見学。いつ見ても飽きることのない日本ロマネスク建築のひとつである。
帰るまでまだ2時間ほどある。さて・・・(って考えるなよ)。

ま、常設展示や東洋館、法隆寺宝物館もあるから・・・と自分を納得させるように上野に向かう。西洋美術館《地獄の門》前での行列を塀ごしに見ながら(「ルーブル」展)、再び自己暗示。
公園の片隅に「招待券、1000円で譲ります」の段ボールサイン。ダフ屋も登場。博物館前の横断歩道を渡ると、約40分待ちの混雑サイン。
譜面台のようなただいま大変混雑しております予めご了承くださいでは収拾がつかなくなったのであろう、大学の学園祭を思わせる 約40分待ちです (「4」の部分はホワイトボードで書換え可能)
ボードが急ごしらえで作られている。貼られた紙の下には俵屋宗達とおぼしき風神と雷神。大琳派展のものか。
むぅ、それにしても微妙な待ち時間。自己暗示が揺らぎ始める。
ひとまず本館へ向かうことをやめ、人波が流れる平成館へ向う。

銀行の取り付け騒ぎか、終戦直後のコメの配給(←これは知らない)と疑うばかりの長蛇の列、列、列。
ここでも「約40分」待ちの看板人。彼の足元には貸出用の黒い日よけ傘が入ったバケツも。行列手前のポールも騒動?の痕跡を留める。
幾重にも折重ねられているので、途中ギブアップしたら常設展へ逃げる?ということで、並んでみる。行列中の会話から初めて今日が最終日であったことを知る。(愚鈍)

途中給水所もあってビビったが、25分で入館。おっ~!

ようやく入館したものの残念ながら観賞とは程遠く、館内は驚愕するほどの人、人、人で埋め尽くされる。密かに見たいと思っていた「波羅門像」も遠目に見えたが、尋常ならぬ雰囲気が充満した一室(引火爆発するぞと思ったほど。ここに阿修羅がいるらしい)に飛び込んでいく勇気と時間はない。
九博か興福寺国宝館でまたお会いしましょう、とすぐさま階下に下って常設展へ。
ギブアップ。
東博「菩薩立像」「慶算作毘沙門天立像」やジャニーズ風に展示された曹源寺十二神将像を見た後明日からしばらく休館となる東洋館へ。

帰途、車内で「“阿修羅”展、見てきた?」と。「うん、“阿修羅展”を見てきた。」
嘘、偽りはありませんが・・・なにか?

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贋作

2009-6-8
交換を通して電話あり。交換の方が「どうしましょうか?」と気遣いされるので、ヤヤコシイ電話であることを予感させる。もちろん当方で処理。

新聞記事を見たという老人。むぅ、定番の切り出し口上。
「きわめて稀な中国の石仏を持っておりまして、最高の中国芸術品であり、センセがご関心ありましたら一度ご覧になってはいかがかと・・・」。
最高の中国芸術品って、いきなり自身でハードルを高く上げてどうするの。しかも見に来いって?
無言でしばらく放っておくと、「実は紫禁城で乾隆皇帝が秘蔵しており、戦争の時に買ったもので・・・」。
どんな手段であっても「買った」というのが常套句。「預かっている」(誰から?)という言葉も昔、聞かされたこともある。そんなモノなら早く中国へ返せって。そうなると、向こうも困るので漬物の重しにでもしたらと思う。
「日本の木の仏像以外は興味ないんです。では」とガチャン。
かつて「国宝級の高麗青磁」を自転車の後ろに結わえて旧職へ持ってきた御仁がいた。風呂敷包みを開けるまでもなく贋物。「桐箱を新調しまして・・・」とみれば、桐箱代のほうが高く付いている・・・。
私ごときでわかる贋物はどこまでいっても贋物であり、後世のため不燃ゴミで処分するに限る。
今度から個人所蔵者は実名入りで公表しようか。それと税務署へも。
(写真は贋作ですが当該の作品ではありません。念のため。)

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演習(4) 歌川国芳と戯画

2009-6-9
演習(3)《日本の吹奏楽》のあとは、歌川国芳。
15歳で初代歌川豊国に入門するものの、兄弟子に歌川国貞がおり、『通俗水滸伝豪傑百八人』を発表するまでの約16年間はじっと我慢、我慢・・・。

発表では、風刺画をさらりと流して猫やら金魚やらタヌキやらに移ったのは個人的によかった・・・。
1枚の浮世絵版画をみせられてこれを「風刺画」とするには、近世幕藩政治の知識が必要。新聞1面裏の「政治一コマ・マンガ」のように鳩山総務相と日本郵政社長がなぜもめているのかわからないと「風刺」の面白さはわからない。
地口(じぐち:語呂あわせ)も今となってはなかなかたいへん。東海道五十三次すべてそらんじている人も少ない。ちょび髭に見える腕の刺青が秀逸。
国芳あたりになると、さすがに余裕のコメント。
「もう、好きなモノを(卒論で)バンバンやっちゃってください!」

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補遺

2009-6-10
先週の話題でいくつか、補足やら。

新聞記事。
宝寿院阿弥陀如来像(文暦2年・1235 泉州別当定慶作)は、現在、京都府立山城郷土資料館 にて常設展示されている。
わがコメントながら朱筆を入れたい箇所もまま見られるが、記事になったということで幸とすべき・・・。

贋作写真。
かつて贋作を実際に見に行った末の反省写真か・・・、と想像した人もおられて驚く。
うちのゼミ生をはじめ幾人かは、あ、あれやと思ったが、他の方には説明不足でした。
写真の仏像は資料室の片隅に転がっている中国木彫仏の贋作。大学赴任以前からおり、ゼミ室にもなっている資料室の先住人として安座している。
どのような経緯で住人になったのかは、よくわからない。
“エマニエル夫人”(←古い!)風に半跏しているが、股間が痛すぎるほど不自然・・・。

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梱包

2009-6-11
この夏、現在私のいる研究棟に耐震補強工事が施されることになり、地階研究室(実質的に私だけ)が工事によって四面楚歌の状態になるので、現在、引越し作業中。
授業で使う参考図書を真っ先に箱詰めしたり、Webメールも確認できないなど、ちょっと不便な状況が続いている。
作業は専ら授業が終わった夜。ミカン箱よりやや大きめの箱(○通の6号箱)に本を詰めていく。
まるで“夜逃げ”の算段に思えなくもない。

梱包箱に目いっぱい本を詰めると箱の形は美しいが、到底ひとりで持ち上げることが出来ない重量になる。業者の方は頑張るが、取り扱いがいささか乱暴にもなりかねない。
7、8割ほど詰めて、箱蓋を閉じると、箱内の上に空間が生じる。運送時に上積みすると、箱はひしゃげてしまい荷崩れをおこす。展覧会図録などアート(紙)系は特に重いので、古新聞などで詰め物をしてもあまり意味をなさない。

そこで7、8割ほど詰め終わると、詰め込んだ高さまでカッターで箱の四隅に切れ込みを入れ、更にカッターの背を使って、箱内側に詰め込んだ高さに筋(水平線)を引いていく。その後、大きくなった箱蓋を内側に折り曲げると、隙間のないきれいな“変形箱”が出来上がる。

梱包に手間暇かけている場合ではないが、気付けば外が白々と明けている。

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引越し

2009-6-12
旧棟(法文研究棟1号棟)へ引越し。
間口・奥行ともやや狭いが、旧棟は1958年村野藤吾によるもの。現在大学に残る初期の作品。扉上の天窓が少しレトロ風の研究室で、大満足。
天井は高く(容積?は同じ)、造り付けの書架は壁全面でA4サイズ仕様。何よりも窓から空が見える(といってもほとんど総合研究棟の壁だが)。

朝9時に業者到着。
移動は書籍等の梱包箱一式、キャビネット、書架など。机、椅子などは既に別物が搬入。こちらは運ばれた箱を開梱し、まずは書籍を棚に詰め込んでいく。詰め込み終了と同時に解体された組立書架が到着、再び組立。最後にソファーやキャビネットが運び込まれて業者は終了。
後は書籍の再配置。造り付け、組立の書架ともにまだまだ余裕があり、その容量に驚く。
ごちゃごちゃとしたモノは来週に運び入れる予定。

電話(内・外線とも変更なし)は繋がったものの、LANは未だ繋がらない。

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松原市指定文化財指定記念講演会

2009-6-13
本年2月に布忍神社・布忍八景扁額と大林寺・十一面観音像が、初の市指定文化財として指定。

《布忍八景扁額》は、宮裏白桜、孤村夕照、野塘春日、平田秋月、南山残雪、西海晩望、竹林黄雀、籠池白鴎のタイトルにて布忍の名勝を絵と漢詩・狂歌・俳句であらわす。
宝永2年(1705)11月13日の年紀や下河辺長流や契沖、小西来山などの名も見え、布忍神社や庄屋宅を文化サロンとした富農層や神主・僧侶と大坂の著名文人との交流を明らかにする作品。

《大林寺十一面観音像》は、もとは布忍山永興寺にあり像高171cmを計る10世紀末から11世紀初めの大作。一木造(内刳りなし)。大阪府下では古刹を除いてこれほど大きな作品も珍しい。既に市史編纂の過程で、奈良博の光森氏が調査している。既に故人となられ、今回補足調査をした関係でお披露目の講演会を行う。

文化財保護審議会委員の西田氏による「松原の歴史と文化-布忍山永興寺と布忍神社-」。各種史料を用いながら詳細な講演。「快円恵空」や「俊賢」などの名も登場し、次の出番も忘れて最前列でメモ。
かたや「大林寺 木造 十一面観音立像の魅力」。和様彫刻の変遷・魅力を語るものの、「携帯電話」やら「女子高生」やらのたとえ話がもっぱら。なんじゃそりゃと思われているだろうと、やや反省。

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回想

2009-6-14
学内はオープンキャンパスながら、こちらは雑品類の搬入。
あれこれ整理していると、いろんなモノが登場し、手が止まりしばし回想・・・。
一抹の寂しさも感じないわけではないが、思いに耽っているとまた夜が来て白々と明けて・・・となるので、バッサリと処分。また心機一転して頑張るかと・・・。
というか、ややお疲れかも。
夜半までにモノの移動はすべて完了。清掃してプレートを外す。

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徘徊

2009-6-15
搬入した段ボールもそのままながら、旧棟を徘徊。

いつも見ていたはずなのに改めて見ればへぇと思うことも。タイル1枚見てもこちら(旧棟)は縦方向の突起(凸)が付いている。建物の角まで来ると今度は(凹)の筋目。
階段の手すりも木製。徘徊していると、授業開始・終了で出入りされる先生がたとも出会う。確実に不審者。
部屋に戻ると、チャイムも聞こえる。

さてこちらも授業へ、とPC機材を担いで扉を開けるも、あの教室に行くためには右方向なのか左方向なのか、しばし戸惑う。徘徊した意味なし。

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演習(5) 樂茶碗

2009-6-16
樂茶碗。発表を聞きながら、映画《利休》の冒頭が脳裏に広がる。
利休屋敷の庭の垣根に朝顔が満開?に咲きほころぶ。それを見たい秀吉(山崎努)が打水をされた庭に向かうと、朝顔は全て摘み取られている。困惑顔の秀吉。
茶室に通されると、茶室の柱にたった一輪の朝顔が生けられていた。おもむろに主人である利休(三國連太郎)登場。あの時使っていた茶碗は・・・・ お、思い出せない。
妄想ばかりしていてはイケナイので、発表途中ながら黒板に
「漢(唐物)→和・漢(さかいを紛らわす)→和(日本)」
と板書。レジュメにもある「耀変天目」やら「伊羅保」とか「雨漏」など、後で書き込む算段。
「手のひらの中に収まる形」「高台の削り」「口の当たり」などの言葉が出て、そうそう、と深くうなづきながらまたもや妄想。

「いいね、樂茶碗!」では授業にならないので、「『引き出し黒』、ちょっと説明してよ」と軽いジャブ。
利休あたりになると「あえて贅沢な簡素」が実感。
悦に入りながら講評するも、オーディエンスからはやや冷めた目線。質問も特になし。
あらっ? ひょっとして・・・と思い、「お茶、習っている、いた人っ?」
シーンと静寂。4、5年前まで1、2人は手を挙げたのだが、既に絶滅危惧種・・・。

発表者と距離を取りながら「一期一会」と茶室のコメントをし、不意にぐっと発表者に近寄って妙喜庵待庵の二畳の茶室へと。発表者は思わぬ形で茶を通しての主人と客の濃厚な関係が実感できたが、セクハラ スレスレかも(一瞬で離れましたが、もうしません)

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花園大学・仏教大学

2009-6-17
久しぶりに会議がなかった(とはいえ昼間に1件)ので、午後大学を抜けて京都の大学博物館巡り。

まずは、花園大学歴史博物館「みちのくの禅-松島瑞巌寺の寺宝-」展。もちろん?観客は私ひとり。
瑞巌寺中興の雲居希膺(うんごきよう 1582~1659)の資料が大半。
絵所徳栄筆《洞水東初像》(延宝8年)をじっくりと拝見。
その後、「弌景」印のある隻履達磨(せきりだるま)図も。

隻履達磨とは、達磨の没後に北魏の僧である宋雲が、西域からの帰途、葱嶺(そうれい・現在のパミール高原)で片方の草履だけを手にしていた達磨に出会い、「どちらへ?」と尋ねると「西天(インド)へと行く」と答えたという話。その報告を受けた孝荘帝が達磨の墓を掘らせると、棺の中には遺骸がなく片方の草履だけが残されていたという。
達磨の素足の爪や草履をもつ手の爪も伸び放題。見ようによっては、酩酊しふらつくサラリーマンのように見えなくもない・・・。
そのほか、瑞巌寺も女人禁制ながら盆と春秋の彼岸だけは入山できるとした制札も。

次に、広沢池畔にある仏教大学宗教文化ミュージアム。「海を越えた陶磁器と茶の文化-海のシルクロードの出発点“福建”」展。冗長なタイトルだが、考古系の「福建の沈没船と墓にみる出土品」展である。

入館料を取るだけあって、驚く資料が満載。

まずは沈没船からの陶磁器類。景徳鎮窯の生焼け不良品の青磁皿も積まれていたり、福建周辺の窯で焼かれた景徳鎮のコピー商品もあったりする。
福建の焼物といえば、建窯の天目茶碗(建盞)。天目茶碗の特徴である底部が三角なのは、周囲で火を焚いて、天目茶碗を温めたからとある。また天目茶碗も大中小のサイズがあって、大・小は用途がわからないという。確かに唐物天目は同じような大きさに思える。「大海茶入」も展示されていて、国宝にもなる「唐物」茶器も実は中国では雑器に過ぎなかったのではないかと思ったり。

このところ「茶」に関わる授業が重なり、出土品をみながら『君台観左右帳記』の評価はやっぱり日本の評価に過ぎないと再確認したり、輸入茶器とは基本的に現地の日常雑器を転用したもので、
「われわれからみれば、鳥籠に入れて鳥に水を与えること以外には何の役にも立たない茶碗一個がなんと銀九千両」と語った宣教師ヴァリニャーノの驚愕は、実際に天目茶碗の用途を観察した上でのコメントのようにも思えてくる。

長くなりそうなので、“墓”は後日にでも。

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浮世絵2題

2009-6-18
授業もはや終盤。基礎演習では「北斎」と「国芳」。

北斎は《冨嶽三十六景》か《北斎漫画》あたりだろうと、タカをくくっていたら《百物語》。  ん?
真剣に見るのは初めて。 当初は100枚刊行予定だったのだが、現存する5枚をじっくり。発表後も学生からよりも私のほうからの質問が多い。
(別にイジメているわけではありません。つい知らないことが多かったもので・・・。)
「しうねん」の位牌にみえる「「茂問爺院無嘘信云」。何と読むのだろうか?さすがに質問攻めでは、まずいので自分で調べる。「ももんじい、嘘無く信を云う」?「ももんじい」とは、ムササビの妖怪。
むぅ、そりゃわからん。

国芳のほうは「みかけはこはゐがとんだいゝ人だ」。例によってアルチンボルドの絵が提示。
両者の関係は?と問うと、さぁ・・・・?。
確かに見ていないと思う。しかし・・・」と、
《唐土廿四孝》や《美達住楼久楽翫》の画像を投影。
《唐土廿四孝》:山口県立萩美術館・浦上記念館 作品検索システムで「唐土廿四孝」と入力
《美達住楼久楽翫》:東京都立中央図書館 貴重資料画像データベースで「美達住楼久楽翫」と入力

「・・・ね。発表にもあったように、国芳は蔵壁の落書きや役者亀、雀のお宿、と幕府の規制を逃れていました。『切支丹ご法度』も、国芳にとっては何ともなかったかも知れません。西洋美術史で習ったかもしれませんが、人々の受容がないと絵は生まれません。輸入された洋書の挿絵や銅版画などにこうした“組み絵”があったとしても一向に不思議でなく、国芳にとってはさぞ “おいしい ネタ”になったことと考えますが、いかがでしょうか・・・。」

浮世絵版画も覚束ないのに、突然聖人の「輪っか」を頂く釈迦や孔子、達磨をみせられて仰天。
泡沫飛ばしながらも、以前見た、伊豆地方の幕末仏師である松本雲松制作のキリスト教図像まがいの仏像彫刻を思い出す。
この時期の「切支丹ご法度」は案外ゆるゆるだったのかも、と妄想。

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ひと安心

2009-6-19
朝から夏の日差し。
過日からの某所での調査に参加。こちらも後半戦にて専ら作品の選別。目ぼしいものは既に調査済で、確認・点検の様相。

とりあえず丹波壺などをピックアップして撮影班・計測班に引渡し。求められてファインダーを覗くとむぅ・・・。ぐぃと三脚をあげて俯瞰構図にすると、 カメラマン から「センセ、俯瞰にするなら、こういうアングルで・・・」と再び修正。
学ぼうとする意思のある学生の、驚くべき吸収力に脱帽。

もう、強いて来る必要もなさそうなので、そろそろ引退・・・というと、すぐさま総括チーフから怒号がとんで叱責されそうなので、お昼の弁当とオヤツの手配係に徹しようと思う。
ピックアップしたなかに「萬治」の年紀がある金銅製舎利塔。
各屋根の軒裏に銘文。こういう江戸時代の金工品にあまり関心を寄せる研究者も少ない・・・。

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評価

2009-6-20
真夏日ながら終日大学。研究室扉上に真新しいプレートも入る。
仕事をしていると、授業終了後に学生と何気なく交わした会話が甦ってくる。

プレ・スチューデント以来、よく知っている学生(西洋美術史)が授業終了後、つかつかと教壇へ歩み寄り、「今度のルーブルも“ゴミ”ばっかですか~?」。
これまで何度も「ルーブル展」で期待を裏切られた由。いまどき、巴里まで往復6万円(オフピーク)。
本場に近くなった分、日本で開催される泰西美術展の企画には辛いものがある・・・。
逆に「夏休み、なんか日本美術(の展覧会)で、ビビッと来るものはないですか?」と問われ困惑。
「また調べておきます・・・。」

「センセは授業でいつもニコニコしていますが、ホントは怖いんですか?」と未分属の1年生。
ちょっとショック。
「ほぃ、うちのゼミ生、ちょっと言ってやって!」と思ったが、ここは自分で弁明するしかない。
「例えばね、本からのコピーにマーカーを引いて、発表演習でそのコピーをそのまま読み上げる者や卒業式での袴の予約もしたし、両親も式に出る算段をしている。でもクリスマスまでどう頑張っても、(卒論の)原稿がこの程度しか出来ないし、年末年始もバイトが入っています。どうしましょう?
という学生にとっては、この授業で扱った地獄絵の獄卒以上に怖い。でもごく普通の学生に対してはかなり評判よいのですがねぇ・・、自分で言うのもなんなんだけど。」

「いくらなんでも、そりゃ、誰でも怒りますよねぇ。」と1年生も同情。
そうなんだが、それが・・・。

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隣国の美

2009-6-21
岡山県立美術館「朝鮮王朝の絵画と日本」展へ。
会場へ入ると、李厳などの仔犬図がまずはお出迎え。
ただし、研究報告のような展覧会内容と分厚い図録。
日曜日というのに閑散としている会場内。

サブタイトルにある-宗達、大雅、若冲-に魅かれると、たぶん展覧会の魅力が半減するかもしれない。あくまでこれまで帰属(国籍)が揺れ動いていた朝鮮王朝の絵画を明らかにし、日本の絵画とどのような影響関係にあったのかを論じる(展示する)企画と思える。
最後の部屋に展示されていた酒井抱一の「洋犬図」も韓国国立中央博物館の“ヨークシャテリア”犬図(1977.NO191)などを並べないと、李厳の母犬のイメージと重なって一般の人にとってはわかりづらい。充実した内容ながらマニアック。
発掘調査ではないが、“行政展示”が多いなか、こうした“学術展示”もかなり魅力的。ただ、まずは『別冊太陽 韓国・朝鮮の絵画』あたりでの予習が必要かも。

高麗・李朝仏画も出品されており、薬仙寺施餓鬼図(甘露幀)や摩利支天像、揚柳観音図をじっくり。揚柳観音図をみていると、帰属(国籍)の揺らぎも思わず納得する。若冲の枡目描きと韓国の紙織画。斜め格子と市松のパターン。ちょっと苦しい説明かも。
NHKの幼児教育番組に出てきそうな芹沢銈介記念館の「虎図」に笑い、蕪村「仔犬図」の小襖にも久々の対面し満足しつつ、岡山県立博物館へ移動。

当初、「渡来仏画名品選」展の“共催展”として見に来たのだが、入館するとびっくり。
県指定・市町村指定を含め、平安時代から江戸時代まで岡山県下の仏像が20躯ほど。ちょっとした特別展なみである。日光寺や元恩寺の地蔵十王図もそこそこに仏像のほうへ。
嘉暦4年(1329)、仏師集賢の宝冠阿弥陀如来像など見慣れた作品もあるがほとんどが私にとってはじめて。なかでも三宝院・如来立像は内刳りのない一木造の大作。10世紀後半ごろまで遡るものかと思う。素盞嗚神社・聖観音立像も筒形宝冠をもつすらりとした像で、ほぼ三宝院像と同じ頃か。それまで岡山といえば、安住院・伝聖観音立像のちょっとイビツなイメージが強かっただけに、改めて岡山の仏像を勉強。
ここも入館者が少ない。いかんせん、タイトルが「仏像入門」。もっとPRしてもよいと思うのに。

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金模様

2009-6-22
朝から「大雨洪水警報」発令中のなか某所で調査。地元の関係者が「中止?」と尋ねたほど。もちろん、やりますとも。

仏像の着衣には見事な截金(きりかね)。
うっ、老眼でよく見えないわ、文様用語は出ないわで、調査も一転して四苦八苦。眼鏡をはずして凝視しつつも、脳裏に浮かぶのは、せいぜいラーメン鉢の縁にある雷文ぐらい。そうだ、向かって右は「雷文繋ぎ文」で、左側は「麻葉繋ぎ文」。それに、盛り上げ彩色による「雲気文」と「草花文」。
調書をしたためるまでたどたどしいことおびただしい。
衣の種類の違い、衣の裏・表はそれぞれ截金文様を違える。ほかにも「四つ目菱亀甲繋ぎ文」もあって、とうとうルーペも登場。

調査が終わるころには雨も降り止むが、午後には再び豪雨。それでも負けじと調査続行。

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「とりあえず江戸時代」 とは・・・

2009-6-23
一転して夏日のもと調査。

阿弥陀如来坐像の制作時期が平安時代後期か江戸時代なのか、どうしても判断できない(像底には底板が貼ってあり構造も不明)時、大昔は、「とりあえずよくわからないので“江戸時代の作”ということで・・・」とお茶を濁す場合があった。
その後、近世彫刻を専門にしているので、さすがに口が裂けても「とりあえず江戸時代ということで。」とは言えない。「では江戸時代のいつですか?」と聞かれても、実は困ってしまう・・・。

阿弥陀如来坐像。小像ながら一見すれば、全く破損がない完品。裳先に広がる扇状のきれいに畳み込まれた衣文。綺麗すぎる。
よくみると左袖の衣文が数多く刻まれ、膝前にも細かな彫り。「ここは江戸時代・・・」と目線で頭部まで追っていくと、ふむぅ・・・。
お椀を伏せた高い肉髻、細かな螺髪、耳輪や頬にわずかな彫直し?も認められるが、頭部の奥行(面奥)は意外に深い・・・・。江戸時代か? きっと平安時代の頭部に江戸時代の躰部を寄せたものと思い、今度は、継ぎ目を確認するため再び目線を下げてみてもまったくわからない。頭部のみが平安時代とも思えるがだんだんと自信を喪失。体幹部は平安、江戸どちらもとれる微妙な表現。

「とりあえず江戸時代」と言えば楽になろうが、それにしては巧すぎる・・・。
難問なり。

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老いの坂道

2009-6-24
連続して会議。合間には学生の相談。
学生にかまっていると「センセ、会議、始まっています」との連絡もあって大急ぎ。遅刻して入室すると「迷ってられたんですか?」と同僚の先生の声。「い、いやっ・・・。」
このHPも更新していない・・・。
熊野観心十界曼荼羅(三重でのポスター)の上には阿弥陀三尊の上に人の一生が描かれている。学生達は右端の方のカップルで、こちらは日輪のやや右下あたり。忙しい、時間がないと感じるのは坂道を下っているからなのかと思ったり。左下隅の骸まであと少しである。
「老醜」という言葉も気になりつつ、会議も終わって退出すると、芝生でくつろぐ学生ら。来た道をまた今度は登るのかと思うと、あの時期に戻りたいととも思わなくなった。
転げ落ちるかのようにこのところ、暴走気味。

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奈文研

2009-6-25
過日、酒宴の席で奈良文化財研究所の関係者から「こんな写真があったのですが・・・。」と複写コピーを見せられて照会の依頼。
依頼はその夜の酔いとともに過ぎ去り、すっかり失念。
複写を見た折には奈良・西大寺十二天像のひとつと推測したが、改めて調べてみると、やはり同「伊舎那天像」。
置き土産である。

奈良国立文化財研究所(奈文研 現 奈良文化財研究所)は東文研と共に1952(昭和27)年に文化財保護委員会(現 文化庁)所管の調査研究機関として歴史・建造物・美術工芸の3研究室と庶務室が、現奈良国立博物館仏教美術資料センターに設置される。
昭和38年には国道24号線バイパス建設計画による平城京保存問題により平城宮跡保存調査部が、昭和48年には飛鳥保存問題から飛鳥藤原宮跡発掘調査部・飛鳥資料館が設置されるが、美術工芸研究室は、昭和60年4月に奈良国立博物館に移管され、翌々年には同館仏教美術資料研究センターとなる。
奈文研は、現在の奈良市二条町にある平城宮跡発掘調査部・埋蔵文化財センターに移転統合。

初代所長であった小林剛氏の『仏師運慶の研究』、『巧匠安阿弥陀仏快慶』をはじめ、長谷川誠氏の「資料・長谷寺本尊随侍像躰内納入品」や『日本美術院彫刻等修理記録』、『飛鳥の仏像』等が、奈良国立文化財研究所・飛鳥資料館から刊行されているのもそのためである。現在の奈文研にも、まだ仏教美術関連文献や関連写真が多く収蔵されている。

判明した複写コピーをみながら、奈文研での研修中(四半世紀前!)、夜通しで奈文研蔵書のコピーをとっていたことを思い出す。(研修生のコピーは研修終了時に一括清算払いで、7万円強と記憶。)
当時は飢えていたんだ、きっと。

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三方得

2009-6-26
某所で「社寺縁起絵」を拝見。
土佐光芳による絵と公家らの詞書。料紙幅は3尺ほど。残念ながらコラボレーションではないらしく、絵のほうが先行制作。

拝見しつつも各人で魅入る箇所が異なる。国文学の方からは詞書、歴史の方からはその内容、美術史からは絵の描写と、“三方得”の社寺縁起絵である。
国文学・歴史研究者からは、古文書の勉強の初歩としては地方文書(じかたもんじょ)などよりもこうした公家モノから始めるといいのだがとの言も。美術からは大阪・葛井寺には三条西実隆の勧進状が残り、各地にも実隆による縁起や勧進状が多く残るとも。

博物館にあっても、借用点数も少なく、嵩張らず、前期・後期でまったく異なった内容を見せることができて、歴史が語られ、文字や絵も美しい「社寺縁起絵」は格好の企画展に思える。
「社寺縁起絵」は“三方得”なり。

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豆腐

2009-6-28
終日、完全オフ。
呑んで寝て、目覚めては呑んで、再び爆睡・・・。とうとう業を煮やした家人が夕刻、買物へと引きずりだす。
「『冷奴』でもう一杯!」と売場の豆腐を見ていると、過日の演習での高橋由一を思い出す。

金刀比羅宮・高橋由一館の 《読本と草子》と 《豆腐》。
両者を比べて《読本と草子》のほうが良いと、発表者はいう。どちらを好むのかはどうでもいいが、《豆腐》が却下された理由が、《豆腐》の「木綿豆腐」の表面がゴツゴツしていて写実的でないからと言う・・・。失敗作?
「えっ・・・。」と絶句し、しばし教室の天井を見上げる。発表者はいたって大真面目。
その時は「まぁ、昔の豆腐ですから・・・。」と言葉を濁したが、失笑してはイケナイ。

丹後の「豪邸」がチリメン(ジャコ)の利益によって出来たと思う人や地方の食堂で「ワニの刺身」なるメニューを見て「クロコダイル!」を思う私もいるなかでは致し方がないとも思う。(ワニ=サメ)
こちらも明治初期の油揚げや焼豆腐の状況を知っているわけではない・・・。

五十歩百歩と思いながら、売場の「豆腐」を見るともなしに見ていると、「『玉子豆腐』にする?」と。
いや、それは「豆腐」じゃなくて、素(す)の“茶碗蒸し”・・・。

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脚下照顧

2009-6-29
ほぼ毎日通る阪急千里山駅前の踏切。知る人ぞ知る「文化踏切道」である。
「文化踏切」といえども何の変哲もない踏切。ちなみに、関大前駅の近くには「花壇踏切道」。

「文化住宅」「文化鍋」「文化包丁」。退職された某官僚が職場もこれらと一緒、と自嘲していたことを思い出す。
他人事ではない。
大学まで歩いていると、文学部1年生とおぼしき学生。「なぁ、専修(分属)、どうすんの?」「英米か映像・・・。」
英米文化・映像文化・アジア文化・身体運動文化・文化共生学。
脚下照顧。

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夏越の祓

2009-6-29
今日で6月も終了。早い・・・。

左は過日、某神社で見かけた“茅の輪(ちのわ)”。
間違っても、これに火を付けてムチもって「ハイッ!」と叫ぶと、トラが飛び込んでくる仕様にはなっていない。

職人さんがこしらえて去った後、出来上がったばかりの茅の輪を左・右・左と8の字形に初くぐり(横に解説板あり)。
半年分の汚れ落としと残り半年の無病息災。心の“リセッシュ”である。くぐっている間、もう一回ぐらい・・・と思ったが、輪の向う側で神主さんがこちらをみており、1回で終了。

毎年のことながら来月も輪をかけてあれこれと予定が立て込み、未だ出来ていない事柄も多く、蒸し暑い中で反省しきりの月末事情。

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