日々雑記


うたいみそーちー

2009-11-1

会議の結果、フェリーでの離島プチバカンスは断念し、レンタカーでの離島、美ら海水族館へ向うことに。

昨年はマイクロバスタイプだったのでちょっとビビったが、今年は余裕のツーリングワゴン×2。
小雨も降る那覇を出発して沖縄自動車道を抜けると、この青空。
あれっ、離島行は?というクレーム発生を危惧しつつ途中でガス抜きの寄り道。
沖縄の青い海を目の前にし、はっちゃけ大興奮の学生。こちらは安堵そのもの。
盛り上がったところで、瀬底島ビーチへと向う。別組の1個大隊は既に到着、ビーチリゾート満喫の真っ最中。陽射しも最高潮。なかには泳ぐ者も。ヲイヲイ。

“須磨”とは違う砂の感触を楽しんだり、膝辺りまで水に浸かったり、ヤドカリ捕まえたり(食べないで下さい・・・〔ギャグ〕)。きゃきゃと楽しむ学生を横目にみ、各隊長曰く「これで(離島ビーチの実感は)十分。」と。売店も閉まるシーズン・オフの離島ビーチで半日過ごすのは、正直、きついものがある。

その後、美ら海水族館へ。
天気予報(那覇)は雨ということでかなりの人出。ここでしばし昼食兼自由行動。昨年も来ているのでおおかたの展示室?はスルーして、大水槽前のスロープ途中にて見学。
やっぱり、デカイわぁ~と、素人そのもの。

皆が見学している最中、“役得”で車を更に北上。雲が広がり、猫の目のような天候。10分後、世界遺産である今帰仁城(なきじんグスク)址へ。
日頃の行状か、学生や同僚教員を水族館に残してきた天罰なのか、到着後まもなく猛烈なスコール。グスクの目前まで来ておきながら、このまま引き返すわけにも行かず、横風強雨のなかを見学。

14世紀の琉球(沖縄本島)は、北部を北山、中部を中山、南部を南山がそれぞれ支配。首里城に「中山」とあるのはここに由来。今帰仁城は北山の本拠地。北山は1416年に中山の尚巴志によって滅ぼされた後は、監守の居城となり、1609年薩摩の琉球侵攻にあって廃城。その後は御嶽(うたき)となる。
割石を乱積した急勾配の石垣、首里城と同じく湾曲するラインで構成され、中世城郭そのものといった感。
「御内原」から海を眺めたが、ほとんど“台風上陸地での実況中継”さながらに雨が頬を叩き付け、傘はキノコ状になり、全身ずぶぬれの状態。すぐさま退散。垣間見た海岸沿いの集落が“城下町”であったはず。

併設する歴史文化センター。
城跡からの出土中国陶磁器や銭貨には興味を引くが、それ以外は今帰仁の郷土資料館といった按配。入館者も増えないので、グスクとの共通入場料にしたのだろうが、内容が世界遺産である今帰仁城に特化出来ていない。村の偉人である「新城徳祐」氏の企画展をしていたが、雨宿りかたがた、入場した人たちの滞在時間は驚くほど短い。展示室入口からざっと展示を見渡して踵を返す人さえいる。キャプションには、ハングル・中国語はもちろん英語も併記されていない。私のような“変り者”はごく稀である。

来館者がどういう地域から来て、どのような展示内容を望んでいるか、入館者アンケートでもとれば、すぐわかる事柄なのに。残念ながら、おそらくそこに「新城徳祐」は浮かび上がってこない。場所からしても希望する企画に「印象派」「ピカソ」とかを書くバカもおらんでしょうに。

嘆息していると、集合時間も迫り、再び美ら海水族館へ。
寄り道したいほどの魅力たっぷりの名護市役所を眺めた後、海岸沿いの国道脇に点在する「墓」をみながら那覇へ。沖縄は「洗骨葬」。きっと海水で洗ったのだろうと想像。
明日は終日フリータイム。「玉陵」にでも行くか・・・。
夕刻ホテル着。往復200キロ。うたいみそーちー(おつかれさま)。

top

んじちゃーびら、うちなー

2009-11-2

行きの機内誌で葛飾北斎「琉球八景」の話題。記事自体はたいしたことはないが、ホテルからも近いのでいくつか行ってみることに。

琉球八景とは「中島蕉園」「城嶽霊泉」「長虹秋霽」「筍崖夕照」「臨海湖声」「粂村竹籬」「泉崎夜月」「龍洞松濤」。このうち、「富士山」が描かれているのは、「中島蕉園」「城嶽霊泉」「長虹秋霽」の3枚で、後2者は種本である「琉球国志略」(冊封副使 周煌の冊封使録)にも「富士」が描かれている。むしろ「龍洞松濤」を雪景とした北斎のセンスに関心がひかれるのだが。
まずは、ホテル裏の「福州園」(粂村竹籬)。久米村発祥の地で「久米三十六姓」の碑も。彼らは福建からの客家(ハッカ)である。次いで波上宮(筍崖夕照)。砂浜が伸びて「筍崖」の下は現在ビーチ。
次いでバスターミナル(中島蕉園)。目印はゆいレール駅側にある「中島の大石」。とことこと歩いて
商工会議所あたりまで。58号線とゆいレール下の川が離れるあたり。ここが「泉崎夜月」。後は点在しているので、今回はここまで。

ゆいレールに乗って再び首里に向い「玉陵」へ。ここも世界遺産ながら見ての通り、閑散の極み。ある意味、琉球国の「天皇陵」ながらも世界遺産(としての集客)は、復元首里城の一人勝ちといったところ。

中央が“霊安室”。「洗骨」後、蔵骨器に納められ、王と王妃は東室(左側)へ。その他の一部親族は西室へ。屋根の高さが僅かながら異なる。被葬者は「玉陵碑」に規定されているにも関わらず、東室で1人の不明者が存在し、西室では半分が氏名不詳。なおかつ中央室にも蔵骨器が1つ。尚元(1572年没)以後の蔵骨器には僧形菩薩が描かれる。パネルには「僧形」と訂正の貼紙があり、もとは地蔵だったのだろう。
天皇陵同様、こちらもなかなか謎に包まれている。

気になる「洗骨」までの期間。尚泰の長男尚典の葬儀は1920年9月。御安骨(洗骨)は1934年9月。実に14年。後者の日取りは易者(大里朝恒氏?)が決定。洗骨に携わった一部のアンシタリ(女官)も手をゴシゴシと洗う・・・。
上は「玉陵」キャラクターにもなっている西室高欄羽目板レリーフの「コウモリ」。もちろん「福」絡み。

その後、金城の石畳道。平日の昼間、歩く人も少なく、のんびりとした、いい感じである。腰を下ろして坂道を眺める。初めて沖縄へ来た時に関係者各位と飲みに来たのも石畳道であったような気もするが、それらしい店もないので思い違いかも・・・。
幸か不幸か博物館・美術館が月曜日休館なので、ゆったりとした空気と時間が流れていく。

座り込んでいると、観光客(アンタもそう)にデジカメのシャッターを頼まれる。

国際通りにもどり、那覇空港へ。17:55 ANA1738便にて関西空港へ。
うちの学生たちは「琉球ガラス」の工房体験をしたらしい。本当はシーサー製作をしたかったが、生憎、講師が不在。
手にいっぱいのお土産を持ちながら「某日、合同研究室宛てに届きますのでよろしくお願いします・・・」と。「では作品が届いたら合評会をしましょう。」と言うなり、皆、絶句。
ともかく帰阪。んじちゃーびら、うちなー(さようなら、沖縄)。

着陸態勢に入り、関西空港の気温は17℃とアナウンスされると、機内に小さなどよめき。寒波がきているらしく多少揺れたが、嵐の中の離着陸に比べれば全くの通常運航。関西空港に到着後、「もう、落ちるかと思ったわ。」の学生の声に、今度はこちらが絶句。到着口で最後の記念撮影?をして解散。
関空なので、9時過ぎには帰宅。

top

感動をお包みしませう

2009-11-4

学園祭が始まる前に見知った学生と博物館内でひょっこり。
「久しぶり~。元気か? ところで、こんなところで、何か御用?」
はい、と言いながら差し出された博物館実習展の企画書。「ダメ!って言われたんです、先生に」。
一瞥すると、なんだか難しそうな用語が並んでいる。
ま、私もこの企画内容ではボツ・・・と思いつつ、こちらも遅刻ぎみの会議だったので、「また困ったら、部屋(研究室)に来なさい」と言い残して会議室のなかへ。

今日、大学に来ると早くも実習展のリーフレットが出来上がっていた。あれ以後も一生懸命に考えたのだろうが、理詰めの企画である。キーワードは「境界」ながら、そんなことは展示資料と直接には、結び付かず、結び付けようとするためには“理詰め”が必要である。観覧者は展示をみながら決してそんな“理詰め”を求めていない。
ちなみに私は博物館実習担当ではない・・・。

私ならと思い、出来たサブタイトルが、「感動をお包みしませう」。
尤もこれは東博ミュージアムショップのほぼパクリである。語尾の「せう」が和風を思わせ、我ながらなかなか良い出来栄え。

そんな事を考えつつも、来るべく感動を包むべく、「松田改組」などについてあれこれ。

top

KIPS

2009-11-5

授業再開。
いつものように坂を下りたり登ったり。めっきり冷え込んできたので図書館の蔦もこの彩り。ちょっと絵になる光景。

早くも、3年生の企業合同説明会も開かれ、就活もそろそろ始動。ただ4年生も未だ就活中。今の時点決まっていないということで、別段、落ち込むことはない。残念ながら数あまたある企業の中から1社しか行くことは出来ない。職種や勤務条件等々、分類不可能なぐらいである。まして誰もが「社会人未経験」である。相変わらず、「花長風月」がよいという幻想のもと、何を仕事としたいのかが漠然としており、これから社会で鍛えられるであろう自己の能力を過大評価しすぎて、なかなか決まらない学生(他専修)が存在するのも事実である。

キャリアセンターのKIPS(関大限定就職支援サイト)にもまだ多くの企業が来春新卒者を継続募集。ただ、キャリアセンターHPからのKIPS在校生へのリンク(インフォメーションシステム)は古いため、リンク切れ。総合認証システムから入るべし。

なぜか、教員もKIPSを検索することが出来る。(再就職向け?)
ごじゃごじゃと社会に出ることに駄々をこねているヤツらには、勝手に5、6社選んで「このなかから最も適当と思われる1社を選びなさい」と試験形式にすれば、正解を求めて必死になるだろうか。
大学での最大の学習成果は「正解など世の中に存在しない」ということなのに。

“いまだにぬるま湯の中の4回生”を目覚めさせるためなのか、「就活がうまくいかないから大学院」「就活やり直しで留年」「仕方ないから公務員」という刺激的な文言も。
でも学生の本質をよく見抜いている。頑張れ、ニューフェイス(予備軍)。

top

実技

2009-11-6

ゼミ生たちの体験学習“琉球ガラス”も到着。
青の色被せガラスである。吹き竿で巻き取っての宙吹き。丁寧にサポートしてくれたらしい。口縁部やその下のすぼまりは「ハシ」を使ってうまく仕上げてくださったようである。底にはアイス・クラック(氷裂文)まで。着色は青がコバルト・銅、緑はクロム、黄色は銀、赤は金である。

琉球ガラスの本格稼働は、終戦後。米軍施設から大量に出されたジュース、コーラ、ウィスキーなどの空き瓶を材料としたエコ・ガラスである。廃ガラスを使用するので気泡や器壁に厚みが出るが、そこに独特の味わい深さがある。

当専修は理論や歴史の研究であり授業としての実技は行わない、と某書類に書いたばかりだが、実技を垣間見ることで、歴史や理論のお勉強も深みを増すものだと思う。紙漉きや陶芸など実技の真似ごとをさせてあげたいと思うのだが、日々に追われるのは学生も同じ。送られてきた作品をみながらちょっと反省。

top

大きな誤解

2009-11-7

本日、来客(アポなし)多し。学生も来室。

何か?と聞けば、「学芸員になりたいんですが大学院に行かないといけませんか・・・」。
見知った学生ながら、私の演習では見かけない。
「(卒論)何やってんの?」と聞けば、泰西美術。むぅ・・・。
「はっきり言って(求職)ないですよ。」と切り出すと、当人は大学院進学の可否を尋ねに来ただけなのに、その先を断つ返答に意外な表情とかなりご不満のご様子。

「でも、あちこちで展覧会やっているじゃないですか!」「まぁ、落ち着きなさい。そんな巡回展用だけに税金使って職員を定年まで雇いますか?」とこちらも反論。

確かに諸々の巡回展は学芸員がコーディネートして図録解説も書くのだが、おおかたは洋画担当か一番近いと思われる学芸員に白羽の矢が立つ。本業はもっと別の場合が多い。時にはコーディネートする団体があり、美術館がまったくの貸会場と化す場合もある。もちろん個人コレクション主体の私立美術館の学芸員は例外ながら、数はかなり少なく、求職もまた限りなく少ない。

遠まわしにせめて日本美術に転向したらともアドバイスしたものの、私以上に血圧急上昇中の学生の耳には届かない。「どこの国で商売するつもりや!」とも言いたくもなるが、某所から学生指導の件でお呼び出し(お目玉)を食らうのも面倒である。

「じゃ、ま、それほど熱意があるなら、ちょっと試験しましょうか。」と資料室へ。
授業で使ったばかりの「佐竹本三十六歌仙絵巻」(復元複製)を差し出し、「これ、『斎宮女御』のところまで広げて、また巻いて下さい。」。むぅぅ・・・。
「ダメですか。じゃ、次は洋画です。」とヘンリ・ムーアのリトグラフ小品(オリジナル)。「紙箱と黄色い布から(額装作品を)出してまた箱に収めて下さい。」
無茶苦茶ながら箱から取り出したのはよいが、またもや、むぅぅ。あの~、作品がさかさまに・・・。
「ちょっと、学芸員としては実力不足ですね。ひとりで作品が扱えるようになって、(改めて)学芸員を目指すのも悪くはないでしょう。ま、頑張って下さい。」と話しながら、これ見よがしにテキパキ収納。

top

媚びた絵

2009-11-8

朝より大学。事情あって手元にある美術全集や画集をあれこれと繰る。
「なんじゃ、こりゃ!」と思わず声をあげた作品。隅のキャプションには、「 横山大観 《四時山水》 」。
27mにも及ぶ絵巻。昭和22年の作品である。

白く泡立つ水も糊を載せたように生彩を欠き、巌もごつごつとした実感がなく、不揃いの松。ひと言で言えば、構図が破綻しており、特に色遣いは醜悪のひと言に尽きる。手抜き作品もはなはだしい。
これが「生々流転」と同じ作家とは思えないほど、ひどい出来栄え。
御歳79歳、作品の上で老醜を示すのもまぁ、無理はなかろうと同情してみるが、その後に齋藤隆三『横山大観』(1958年 中央公論美術出版社)を読むと、再びガックリ。
尊王派水戸藩士の流れを引き、岡倉天心を尊敬していた大観は、戦争協力で終戦直後GHQ将校の取調べを受ける。通訳の深い同情のもと事なきを得た大観は将校を築地の料亭(!)に招いて、接待。大いに満足させた後、おもむろに「戦争で荒んだ人心を和ませるために」三越で日本美術院小品展の開催を要請。閉会後は全出品作をアメリカへ寄贈する申し入れまで。
アンタが描いた富士山は「霊峰富士」じゃなくて「フジヤマ、ゲイシャ」のほうだったのか・・・。

絵(作品)は正直である。臆面もなく老醜をさらけ出した時期の作品は特にひどい。
藤島武二のように、風景画を極めたいと思いつつも下手であることを自覚し努力している姿は、まだ救われるのだが( 《港の朝陽 》(1935)と《芳惠》(1926)との大きな落差 )、信条を180°曲げても、我が身の保身とは。
普段、見慣れぬ画集やカタログの《作品解説》を読みながら、上のような暴言が立場上書けないのもたいへんな作業。なんとなく落語「牛ほめ」のような按配である。

top

事務連絡

2009-11-9

芸術学・美術史専修3回生へ。

12月2日(水)お昼休みにA502でゼミ分けガイダンス(弁当付)がありますので、万難を排して必ず出席するように。
なお「卒業演習選択希望届出」は各演習で配布中です。また哲学合同研究室でも配布しています。所定の事項を書き込んで、11月25日16:00までに合同研究室に提出しておいてください。
・・・ってか、そろそろ出席しようぜぃ。(最近、アナウンス傍ら他の演習にも抜き打ち的に現れる・・・)

哲学倫理学専修・比較宗教学専修3回生もガイダンス・卒業演習選択希望届出の提出は同じです。
ヨロシク。

top

演習(10)大友克洋

2009-11-10

4回生の発表(プレ卒演)も終わって再開。大友克洋とは「AKIRA」などの作品を発表している漫画家。
丁寧な発表ながら「若者」とか「青年」とかの言葉が端々に出てくる・・・。

終わって質疑応答。危惧した通り、「読者は“青年”ということですが・・・」と学生から質問。「何才から何才まで?」という辛辣な質問も。誰に似たのやら・・・。

漫画を扱う学生は、画像が小さいことからみてコミックを「原著」としているように思うのだが、これでは「受容層」は見えてこない。原著は「掲載誌」である。

『じゃりん子チエ』は大阪下町が舞台のほのぼの・はちゃめちゃ漫画で、子供からおっさんまで愛読者はいる。しかし「作り手」が広汎な読者層をターゲットしていたと断じるのは微妙である。 この掲載誌は『漫画アクション』で、掲載当時の漫画と比較しないといけない。あるいは掲載広告がどのような類いなのか考えてみる必要がある。間違っても「日ペンの美子ちゃん」は載っていないはず。

おぼろげな印象からすると、国道沿いで深夜しか営業しないドライブイン(食堂)で、前に喰った人の餃子たれがシミになっている、よれよれの漫画雑誌が『漫画アクション』『週刊漫画ゴラク 』であった。表紙には太マジックで「○×食堂」と書かれていたが、後者は「お色気度」が高く、既に表紙がちぎれ、醤油や得体のしれない汁のシミが付いており、殆ど古紙寸前であったような気がする。
これらのことから掲載当時の『じゃりん子チエ』が子供からおっさんまで幅広い愛読者層はTVアニメからという仮説も成り立つ・・・。
世代間のギャプをしみじみ感じながら、いくつかサジェスチョン。

top

ノルマ

2009-11-12

過日、「正倉院展」出品の写経所での業績報告(「一切経経師等手実」)に関する新聞記事が掲載。
写経1枚あたりの報酬は約5文(1500円)。1か月で24枚しか書写出来なかった者もおれば、221枚も書写する役人も。8時間労働だとするとほぼ1時間に1枚のペース。かたや朝から夕方までゆっくりと1枚を写経。
速いばかりが、とりえではない。「経師等布施法」によれば、脱字5字または誤字20字で紙1枚分、脱行1行で紙4枚分の減額。校正係(5枚で1文の報酬)もまた同じ。誤字1字の見落としは、1文の減額、脱字1字で4文、脱行1行で20文の減額也。 いまどきの心落ち着けての写経とは程遠い。

百万塔製作も同じような話題。月々の期限が決められていたようで、最初(月の初旬)はそれほどの製作数ではなく半ば頃に小さなピークを迎え、期限直前に最大製作数を数える。
ともかく、これでノルマ達成・・・といった感じ。
信仰の篤さはそのクオリティではなくボリュームで計られるとする考えは、その後、三十三間堂の頃にもう一度やってくる。数が力というわけではないが・・・。

なんとなく過去のお話、他人事とは思えない。

top

よーちゃん、もうちっと頑張らんと

2009-11-14

午後、神戸市立小磯記念美術館にて美術講座。

出かける直前に「どこ?」と尋ねられ、「六甲アイランド」と答えると、「ファッションプラザ!」と女性陣が色めきたち、急遽同行。げ、げっ!
彼地まで案内しこちらは美術館へと向う。「講座に出て後ろの席で聞いて(監視して)あげる」と言われなくて、なにより幸い。

テーマは「日本美術の戦中・戦後」。分野違い&漠たるテーマで、お引き受けしたのは、美術館関係者に30年来の悪友がいる。
疲れている頃に、「よーちゃん、もうちっと頑張らんと!」というほどの仲である。館長にも旧職ではずいぶんお世話になり、微々たるものながら御恩返し。

それ以上に、社会が大きく変わる時に作品は変わるのか否か、変わるとすればどのように変わるのかを見てみたい思いがある。近代彫刻史の研究者にとって、幕末・明治初期の仏像は無関心そのものである。しかし仏像を研究している者にとっては、幕末の仏像が明治のどのあたりまで生き延びていくのか興味あるところである。
明治初期の彫刻はこの複眼的観点で見ていく必要があり、戦中の日本美術も同様な状況。戦争美術という全否定か、あっさりと戦前、戦後の美術で括ってしまってすっぽりと戦中が抜けていることも多い。この点を概観してみようという試みである。

当然、それを「語る私」にも私のバイアス(偏り)が存在しながら、出来る限りそのことを意識しながら(バイアスが少なくなるように注意しながら)作品を選んで講筵。80名弱の受講された方々も理解されたようでまずはひと安心。講座終了後、「担当者もうなずいていたことはあっても、えっ?という顔はしてなかったでぇ~」という悪友の弁に、なにより胸をなでおろす。
なんだかんだと言っても、そこは「専門外」。内心は実に不安いっぱいである。

講座が終わった頃に女性陣が来館。お~、危ないところだった・・・。
その後、久しぶりに揃って三宮へ出る。

藤田嗣治や山口蓬春、川端龍子 (《水雷神》1944年:大田区立川端龍子記念館蔵) などと長く格闘していたら、世間は既に冬。「神戸ルミナリエ」の準備も着々と進んでいる。

top

法明院

2009-11-15

大津市立歴史博物館「湖都大津 社寺の名宝展」へ。

尊像別に展示した仏教美術入門編と「湖信会」の什宝物からなる。一見、ざっくりとした展示構成ながら、初めて見る作品も多く、しげしげと拝見。愚考することも多し。

今日は「関西文化の日」であり、常設展は無料。常設展にも若王寺大日如来像や安養寺阿弥陀如来像、九品寺聖観音像も並ぶ。さすが、三井寺、比叡山のおひざ元である。
仏像で堪能した後はミニ企画展「膳所藩主のブレーン・皆川淇園の文人画」。上品で気真面目な淇園の人柄をしのばせる文人画で、これには少しハマったので、後日にでも紹介。

その後、山道を歩いて法明院へ。三井寺山門の行楽喧騒とはうって変わって静寂そのもの。ここも三井寺・北谷である。紅葉の庭を眺めてつつフェノロサ・ビゲローの墓参。
フェノロサ没20年(昭和2年)に玉垣を新調。その折の銘板に連ねた人物に軽い驚き。
その後は大学へ。

top

不易流行

2009-11-16

皆川淇園展。解説に伊東宗裕氏の「れきはく講座 資料」を使用。この解説が興味深い。

京都は18世紀まで全国からの遊学先となっていたが、その後江戸や地方で教育環境が整備されるにつれ、地味で寂しい地となっていく。皆川淇園(1735~1807)は京都にあって、地味で人気のない学問を地道に行う毎日。18世紀末になると、「学者タレント」が京阪に出て大層にぎわったそうな。
当時の狂歌にこんな一首がある。
   「冨は弼(ひつ) 詩は山陽に書は貫名 猪飼経書に 粋は文吉」
          「弼」とは篠崎小竹、「猪飼経書」は猪飼敬所、「文吉」は中島棕隠

そんな中でも晩年を過ごし、地味な京都の学問の世界でトップクラスにあったという。

なかなかよい話ではないか。そんな淇園が膳所藩主に進言し、没後出来た藩校が「遵義堂」。人柄に呼応して書画も上品で巧い。

top

素手

2009-11-17

終日雨、寒い1日。雨天ながら某所にて仏像の梱包。

建造物(国宝)が修理ということで、事前に堂内の仏像を移動することに。数は少ないが指定の仏像もある。雨天ながら堂内で梱包だけを行うことに。
移動先は50mほど離れた別の堂宇。教育委員会文化財の方が資料館にあった「L担架」(別の坐像用)を持ってきていただいた。感謝。作らないといけないと思い、先日採寸をしたのだが、これで十分。

外れるモノ(持物・装身具など)を外した後、梱包開始。どの部分がアブナイ箇所なのか、どんな構造かは採寸の折に調査済。「綿枕」「薄葉紙」「サラシ(晒)」を使って梱包。我ながら、やさしくかつ丈夫で、きれいな梱包が出来た。

意外に思われる方が多く、こちらのほうが意外に思うのだが、作業は素手で行う。
巷間でよく言われる「白手袋」は、滑りやすく、木や漆箔に引っ掛かって仏像の表面に傷つける、なにより手の触覚が鈍ってしまうので原則的に着用しない。最近は、白手袋をせよと五月蝿い所も多いので、鞄には忍ばせているが。
以前、調査で「医者が手袋をはめて、患者を触診しますか?」と文句言ったら、「(仏像を軽く叩いて)コンコンと打診はするんですね」と返された。まったくもう・・・。

top

どたばた

2009-11-18

お昼休みには分属相談コーナーがあり、その後博物館実習展を見学後、東西学術研究所の研究会に出て、その後は再び研究会(市内で合宿)。
合間にも学生がやってきて相談ごと。

最近、どたばた具合が半端じゃない。何かの前触れ?

top

精度

2009-11-20

見るともなしに見てしまった授業評価アンケート。
最近はなるほど、そういうことを期待していたのかという意見も少なくなった。むしろ1回授業が終わると、ここが改善の余地ありと自己評価。

上から順に、「授業内容は、講義要項、授業計画等で示したものに沿った内容でしたか。」「授業内容について、わかりやすくする工夫がなされていましたか。」「担任者の解説の声は、はっきりと聞き取れましたか。」の内容。以下にその他の項目もある。

右の棒グラフでお気づきの通り、全項目「どちらともいえない」(黄色)「全くそう思わない」(緑)が同じ数(1~3)。
これで評価平均が下がる仕組みなのだが、こういう学生がいる限り(出席して心底、そう思う者はきっと自由記述欄に記しているはず)、データ自体にあまり意味がない。たまに出席して熟睡のさなか「声は、はっきりと聞き取れ」るわけもなく、「よく理解できる」はずもない。でも、これをしないことには「開かれた大学」ではないという烙印。
自分のマイナスポイントは自身の講義と前方座席の学生の表情とで十分わかる。

これから「前方5列目までの人にアンケート取りま~す」と言ったら、精度はあがるだろうか。

top

愚鈍

2009-11-21

某所で打ち合わせ(会議)。
初対面の方もあり、終了後名刺交換と相成り、雑談へと。話題は、もっぱらグラーツの「大坂図屏風」が話題に。
TVでも放映していたらしいが、大坂城天守閣でこの特別展が開催されているようである。「(展覧会へは)もう行かれましたか?」と、尋ねられ、首を横に振る。
関心もあるが、やはり「餅は餅屋」ということで。既知の事柄も得意そうに話されるので、つい「そうなんですか。(第1学舎の)陶板画をよくみておきます」とお茶を濁す。最近、ご教示いただいた天水桶や風呂敷包みを頭に載せる女性は授業後によく見たのだが・・・。

大昔、大阪湾の街並みを淡路島あたりから眺めた屏風を購入したことがある(職場が)。
その折、古美術商の方から「四天王寺から和歌山、紀伊半島・・・」と説明された。「このあたりが御坊の煙樹ヶ浜」と思ったりしたが、他の場所ははあまり特定できずに不審であったが、ともかく購入。
後に分かったことだが、左右隻の配置が逆で、紀伊半島ではなく阪神間を描いた屏風であった。
大いに笑われもし、その顛末は某市編さんだよりの記事にも取り上げられたが、今から思えば、愚鈍であってよかったと思う。
もしその場で「なんか、おかしいですよね、配置が。」など口ばしって、古美術商が半信半疑?に阪神間の同業他社に売り込めば、もっと高値で売れると皮算用したはずである。そうなれば、その屏風は安価で購入することもできなかったのだ。
生きていく中で、敢えて愚鈍になることも時には必要であるのかも知れない。

top

セット

2009-11-22

某所2件目。自治体文化財の方が、あれっ?と気付き、よく知っている建築史の先生もそうかもしれないと・・・。

当初は一具の四天王像だったのが、幾星霜を重ねて、二天像2セットに分かれ、堂宇を違えて今日まで・・・。で、こちらに相談が来、本日お伺いして実見することに。今は事情あって4躯とも同じ場所に保管。

関係者の期待が大きく膨らむが、拝見した限り、二天像2セットのままで、四天王像1セットとはならない。一組は平安初期の余韻を残す10世紀末から11世紀初め、もう一組は11世紀後半から12世紀初め頃。重心の位置が違い、袖端の処理(当初)や甲冑の細部意匠も異なる。前者は内刳りのない一木彫、後者は背面に内刳り。 像高も微妙に違える。

ちょっと残念な関係者。もしそうだとしたら、何処かにもう半分が人知れずにあるかもしれませんよ、と慰めにもならない言葉をかけるが、仕方ない。

top

九州モジュールと鉄川与助

2009-11-23

ようやくのこと、八代市立博物館未来の森ミュージアム「みほとけの貌(かたち)-熊本県南部の仏像-」展へ。
熊本ではお馴染みとなった明言院・毘沙門天像をはじめとする熊本県南部の仏像が一堂に。
本日最終日。

明言院像の傍には、勝福寺跡毘沙門堂・毘沙門天像(久寿3年)がそびえたつ。両者を見ながら、体躯を(逆)「く」の字型に曲げ、捻りを加えるのが九州流と思ったり。観世音寺・兜跋毘沙門天像も腰を曲げている。
中山観音堂・聖観音菩薩像の抑揚のある、すらりとした体躯に細かく衣文を刻む作例は、福岡市博物館『空海と九州のみほとけ』展でも学習済で、平安時代でも古い作品であると納得。見ているうちに、あれこれと九州や熊本での類似作品を思い浮かべ、独特の九州モジュールが存在すると確信。もちろん初めて見る作品が圧倒的に多く、会場2室を上がったり降りたり、行ったり来たり。ひと休みに常設展の仏像も。

仏像に大満足したところで、対岸?の天草へ。フェリーで50分。
まずは丘の上の天主堂、大江天主堂。南欧風の写真ながらこの麓にはもちろん日本の民家や田畑が点在する。
このあたりは隠れキリシタンが多くいたとされ、解禁後、1891年に布教のために来日したルドビゴ・F・ガルニエ神父は地元信者と共に1933年1月に完成をみる。

作った人物は鉄川与助。長崎・五島出身の大工棟梁であった鉄川は、ペール神父やド・ロ神父ら外国人宣教師にリブ・ヴォールト天井など西洋建築を習い、長崎を中心に九州各地に多くの天主堂を建てている。鉄川与助はある意味、明治初期の「擬洋風建築」を建てた日本人棟梁の究極の姿でもある。
ロマネスク調の大江天主堂は、祖国フランスに帰ることなく1941年にこの地で没したガルニエ神父と一度もヨーロッパを見ずに教会建築を作り上げた鉄川と、それを支えた地元の人たちの結晶ともいえる。

来た道を少し戻り、港に向かうと、波止に係留された漁船や屋並みの奥に天主堂が見える。崎津天主堂。1935年、鉄川与助56歳の作。正面はコンクリート造りで、会堂以下は木造ゴシック風。

天主堂に至る道すがらに露店。今日は、崎津諏訪神社の神幸祭。毛遣り、太鼓踊り、神輿等が狭い路地に繰り出す。普段は静かな港町だろうが、今日は賑やか。天主堂を見に来たこちらは、祭礼を見に沿道に立つ人々とは逆の視線。場違いな光景である。でも、太鼓や神輿の若衆たちが着ていた藍染め吉祥文の法被はかなり時代を経たシロモノ。こちらのほうもしげしげと見つめる。(若衆ではなく法被のほうです。お間違えなく)

祭礼の一行が到着した諏訪神社。ここから上に登れば、港と教会を眺めることができるが、最高潮に達した祭礼の人々をかき分けないといけない。祭がひと段落するまで再び教会内部を見学。畳敷きに椅子席となっており、漆喰壁にリブ・ヴォールト天井が映える。
ようやく山(展望公園)へと登って港町と天主堂を堪能。黒い瓦屋根に囲まれた中央に天主堂の尖塔がそびえている。港の集落にゴシック調の教会が溶け込んだ不思議な空間である。

その後、夕闇に包まれながら、上天草の明徳寺へ向うも着いた頃は既に日没。辛うじて山門に至る石段に刻まれた「十字」を見つけ、山門に懸かる聯「将家賢臣革政其除耶蘇邪宗」を見る。石段のあちこちに刻まれた「十字」は隠れキリシタンならぬ、「隠れ踏み絵」。何事も徹底。

天草四郎率いる島原の乱以後、天草は天領となり、代官鈴木重成は人心安定のため、島内各所に曹洞宗と浄土宗の寺院を創建。浄土宗寺院の仏像は京都出来あるいは京風ながら、曹洞宗の仏像は、長崎仏師による「長崎様式(唐様)」であったことは、既に熊本県立美術館による調査、展覧会で判明。仏像は三角半島や八代からではなく、島原半島、あるいは直接天草灘を渡ってやってきた。地図を見る限り、天草と八代との間の「八代海」は内海のようにもみえるのだが、仏像の伝来は全く異なる様相をみせる。

予定よりずいぶん遅くなったが、後ろ髪をひかれる思いで帰途へ。

top

現状説明

2009-11-24

自ら作成したパワーポイントをみながら、授業中にふと疑問。
「なんで唐招提寺の戒壇にストゥーパ?」
以前は何もない状態だったが、1983年、森本長老の時にストゥーパ(宝塔)が載る。東大寺戒壇堂も多宝塔があるけれど、内部には釈迦如来像と多宝如来像。もちろんストゥーパではない。大写しにした画像をみながら、これでは「三師七証」も座りづらいと思ったり。

僧侶集団(僧伽)に持戒を誓うだけではなく、三世の諸仏にも誓いをたて(「起請」と似ている)、悪行はしない、良いことはすすんでする、世のため人のために尽すと宣誓するのである。当然のことながら、妻帯や窃盗、殺人、嘘言はもちろんご法度。このあたりの話は、僧侶(真宗以外)の子弟が出席していないかとやや慎重にも。

高野山上には、スナックも「お酒」も置いてあるコンビニも、焼肉・ホルモンを扱う飲食店もある。以前はパチンコ屋もあったが、今はどうなっているのだろうか。また、調査後の雑談に「僧侶の婚活」や「お寺を継いでくれる婿養子」などの話題が出るのもごく普通で、お坊さんを巡る悩みは我々以上に切実である。でも「持戒」ゆえに表面化されない(できない)。
現状と最も乖離が甚だしい業界?のひとつで、大いに同情しながらも、現状説明は殊の外、難しい。

top

分属・履修

2009-11-25

終日、会議。合間にも専修分属相談。
とある会議の席上、「分属受付が始まると、必修にも関わらず1年生が、やる気ゼロモード・無関心全開モードになるんだが・・・」というニュアンスで話をされる。深く同意。

もう、今受講している専修とは関係ない、単位さえ取れば、いや保険代りに履修している者さえいるので、やる気の無さはリーグ優勝や日本シリーズも決まった後の消化試合以上である。残り試合、勝っても負けてもリーグ3位だから・・・という空気がかなり充満。
春学期最大の教務“イベント”であったカリキュラム改訂もこの点についてはほぼスルー。

別の会議。カリキュラムに沿った科目履修が出来ていないという嘆き。各自好き勝手バラバラに科目を履修。譬え話だが、卒論指導で初めて見かける学生が「仏像」をテーマ。でも履修済み科目には、私の授業はもとより「日本美術」「西洋美術」すらない場合も起こりえる。

昔は潜って受けた数々の授業(これを「天ぷら」という)が、正式に卒業単位に組み込まれるシステムになった、そのために必修科目を削減したのだが (「これが我々の時代にあれば、本当によかったのに」と仰る先生もおられる。こちらも深く同意) 、あれこれ多すぎて迷子になる場合も。
徒労に終わった「自分探し」の大学4年間だった人も、いないことはない。

個人的に出来ることからと、いくつかの策を弄する予定である。

top

大和の廃寺

2009-11-27

午前中、大和郡山城にある柳澤文庫へ。「郡山藩と陵墓修復事業-平城京跡周辺を中心に-」が開催中。
建物は柳澤伯爵家の郡山別宅。玄関は車寄せ、展示室は廊下右の襖を開けて・・・。

元禄や文久の陵墓修復は興味深いことがいくつも。
被葬者の変更(陵墓名の変更)や盗掘事件、「山陵様」への雨乞い、神功皇后陵への勅使参向などなど。勅使は奈良→横田→二階堂→田原本→八木→今井町(泊)で神武天皇陵に向かうオフィシャルルート。

展示された古地図には、陵墓に加えて超昇寺も。超昇寺は平安時代からの古刹で「生類憐みの令」を進言した護持院隆光が晩年を過ごした寺。明治の廃仏毀釈で廃寺となり寺の位置は不明。中世には「超昇寺城」もあったが、その関係も不明。古地図によると、場所は朱雀大路と平城京北端とが交差するあたり。「超昇寺城」とはちょっと離れている。
眉間寺にも興味深いことが。
『大和名所図会』では、惣門(横に地蔵堂)があり参道を行くと麓に四足門、そこから急な石段を登り切った右手に舞台造りのある本堂、裏には多宝塔や鐘楼、正面に観音堂、左に太子殿、横は方丈という配置。聖武天皇陵の鳥居は裏門を抜けて更に登った所にある。
文久の陵墓修復事業では、陵墓の鳥居が麓の四足門の場所に移動し、眉間寺の境内を区切る塀がそのまま陵墓の境界に。まずは左側の太子殿・方丈が撤去され、方丈のみ参道四足門寄りに移転(「元坊舎跡ヨリ25間下 当時再建中」の文字)。この古地図では観音堂が「御本地殿」に。
その後の地図(文久~幕末までの地図)では、他の堂塔も全てなくなり荒蕪地となり、境内全域が「宣命所」(「拝所」と呼ぶエリア)に。麓では再建中の建物と本堂らしい建物、「東御門(隆慶)居宅」のみ。 つまり、眉間寺は文久の陵墓修復事業で大打撃を受け、廃仏毀釈で終焉を迎えたということであろう。

よく勉強した後は、大学へ。

top

7.5日

2009-11-28

法文坂で、偶々学生がご挨拶。博物館実習展のお礼である。雑談しながら登っていると、「(来館者)アンケート(の内容)って、ホンマですか?」と。
あの時 は急いでいたので、木戸銭代りのアンケートかと思いつつ、邪魔くさそうに丸印をつけた覚えがある。
「博物館へはどのぐらいの割合で行きますか?」の問いに選択肢冒頭の「毎週」に丸を付けたらしい・・・。
「ごめん、ごめん。あれはウソやと思う。まぁ、ひと月にひとつとか、ふたつぐらいは・・・」と答えて、それぞれ別棟へ。

改めて「日々雑記」を見直すと、1月から順に3、5(中国)、4、2、3、5、4、3、4、6、5(水族館含む)箇所の、計44か所の博物館・美術館へ行っている。ざっと7.5日おきに訪れていることになるが、お寺を入れるともう少し増える。

まんざら嘘ではなかったのか・・・と思いつつちょっとビックリ。見逃がしてしまった展覧会も多く、今日のように、「あ゛っ~、まったくもう!」と言いながら大学へ出てきているのに。

top

演習(11)日本のジャズ黎明

2009-11-30

ジャズの黎明は外国航路(特にアメリカ)と深い関わり。
行きはクラシック、帰りはアメリカ最新音楽であるダンスミュージックが客船楽団によって演奏。
アメリカ最新の音楽は、ラグタイム・ピアノやニューオリンズ・ジャズ。ところが、アメリカ経由の音楽はすべて「ジャズ」という認識。
そういう理解だから映画館やホテルなど限られた場所でしか理解されない(演奏されない)。もっとも当時の庶民の英語の識字率は低く、またダンスといっても所詮は高根の花。

ところが関東大震災後の状況やモボ・モガ時代の到来によって日本にも「ダンスブーム」が到来。〈My Blue Heaven〉(1927年)が翌年に二村定一によって「青空」へと編曲。ポピュラーミュージックからダンス・ミュージックの変換や訳詞の問題などを経て30万枚の売り上げ。

「これが“青空”です」と曲が流れる。
♪ せまいながらも楽しい我が家~ 愛の灯影のさすところ~ ♪
あっ、この曲、知っている、唄えると思いながら、私はいったい何歳?

top

過去ログ