日々雑記


襖絵

2009-12-1

午前中、寄り道して奈良・正暦寺へ。
菩提山正暦寺は、正暦3年(992)に一条天皇の発願により、関白九条兼家の子兼俊が創建。
この時期に訪れたことはなく、全山紅葉に感嘆しながら、福寿院客殿へ。

孔雀明王像(鎌倉時代)もみどころながら、客殿の襖絵・杉戸絵は狩野永納。狩野永納は狩野山雪の長男。父親譲りの学究肌で、父山雪の勉強ノートを纏めたものが『本朝画史』である。客殿の絵画制作も九条家との関係によるもの。
京都の障壁画はつとに有名だが、奈良の障壁画は意外と知られていない。探せば(探さなくても)、展覧会の2、3回は企画できるほどの質と量を誇る。
紅葉の季節で借景を見せるためなのか、襖の殆どは取り払われて別保管。壁貼付のすぐ傍には「一陽斎狩野永納筆」の落款印章と「己巳」とみえる。元禄2年であろうか。
それでも杉戸絵の浜松図や雪中柳鷺図、縁側上部の花卉図は、必見。殊に「雪中柳鷺図」は山雪の作品と瓜二つである。
こうした作品はとても興味深いのだが、永納に関心を寄せる人は少ない。尤も父親にしても「奇想」という言葉で括られて、学究肌の作品群は二の次といったところ・・・。

縁側に立つと、上部に永納の「紅葉図」が描かれ、その向うには、実景の紅葉が映える。襖絵というのは、単なる画面形式ではなく、縁側には実景が広がり、目を襖(室内)に転じればそこに仮想現実(バーチャルリアリティ)が広がるということを教えてくれる好例。
「越前守」時代の岸駒が描く銀地水墨による「龍虎図屏風」を見た後、本堂に向う。ここでも狩野清信筆の「十二天図」「羅漢図」、紅葉のお蔭?で開扉延長になっている金銅薬師如来倚像(奈良時代)も拝見。
その後、奈良市立一条高校人文学科へ出張講義。はや3年目。
地の利を生かした様々なフィールドワークを行い、大学や研究機関あるいは東大寺などの学僧による講座を、うまく授業に取り入れたカリキュラム。

雑談のなかで、唐招提寺展での東山魁夷の襖絵が話題に。
同展を見学し、後日、唐招提寺御影堂を見学した時の女子学生のコメント。「この(襖)絵は、ここ(御影堂)に、はまってこそ生き生きとしている」と感想を述べたという。豊かで鋭い感性である。

本を読む、知識を得るなど、そのこと自体はとても大切だが、それは鈍化する感性を磨いておく砥石に過ぎないのではないか、鋭い感性は勉強によって得られるものではなく、実際に様々なモノを見て、行動しないと(刃物でいうと、実際に切ってみないことには)、本当のところ(砥石の効果=鋭さ)は、わからないのではないかと。 思い当たる節もあり、また「高松塚古墳壁画再現展示室」の話題もあって、ご担当の先生との会話も弾むうちに、授業へ。

50分×2コマ。皆熱心に聴講。内容も多少ブラッシュアップし、見慣れたはずの先生も思わず熟視。定刻どおり終了で今回はうまくいった。安堵しながら帰宅の途に。

top

迷い

2009-12-2

ランチタイムを兼ねて卒業演習ゼミ分けガイダンス。

芸美専修は比較的わかりやすいゼミ選択なのだが、それでもイザというと迷うのが人情。
教員のところに丸印があるにも関わらず、テーマが未定というのもある。紙を渡して「とりあえず紙に名前を書け!」とやや悪徳金融のようなケースもあったが、最終的に決定するのは、来年4月に学生が履修登録のボタンを押す時である。
履修登録まで、今日(までに)決めた卒論テーマが覆らないとも限らない。4月に授業が始まっても、まだ迷っているのが現状。
「平等院鳳凰堂」から「岡田三郎助」に変更(!)ならどうにでもなる(!!)が、泰西名画から尾形光琳に替るのが現実である。

それに対して、改善の解答がない限り(ないことはない)、迷える学生に対して「ほら、誰でもいいじゃない」とは決して言えない。もちろんスタートは早いことにこしたことはないが。
むしろゼミが決定したことで安堵し、4月まで卒論に向けて何もしないことのほうが重大事である。

top

リクエスト

2009-12-3

某授業。
例年に比べて格段に真面目&静かに講義を受ける学生。別に一喝したわけではない。

授業が始まってしばらくの頃、学生より講義内容のリクエスト。一応シラバスにも載っているが、何時講義をするのかと。少しいぶかりながらも12月第1週と答える。
今日はその日で「長谷川等伯」を講筵。約束だから最終回は「歌川国芳」。「等伯」も普段と変わらぬ内容ながら、終了後にリクエスト学生がお礼に。むぅ、この内容でよかったのかしら・・・。

ラジオのDJもどきで「ちゃらい講義」じゃないのかと、思う方もおられるかも知れないが、長年の講筵にてブラッシュアップしており、かなり濃い内容。その分、口調もかなり砕けてきたが・・・。

実は別の学生からもうひとつリクエストがある。「伊藤若冲:動植綵絵」。
MIHO MUSEUMへ「鯨と象」を見に行かねばと思うが、ちょっと無理な状況かも。

top

怪訝・化現

2009-12-4

某所で文化財調査。
仏像はなぜか全て阿弥陀如来像ばかり。平安後期から明治まで。事情あって絵画の方でやや手間取る。

最後の仏像は堅い調子からみて明治時代のもの。眺めていると、あっ、と仰天。
正面からはきれいな右旋回の螺髪ながら後頭部、耳後ろからは髪を伸ばし、先端が丸く渦を巻く。ちょうどそのあたりに頭部材前後の矧ぎ目がみえ、よもや不動明王像の頭部材を利用した改造阿弥陀如来像と思い熟視したが、特に古材を用いた形跡はみられない。渦の調子も同じで、現状では頭部は別像のものを改造した可能性も考えられる余地があるとしか・・・。

修行中は不動明王像のような頭髪ながら、悟りを開いて如来に“昇格”するうちに、髪の先端が丸く渦を巻き、そのうち螺髪になっていく、そうした過程を示した「化現」像であるというようなことは絶対にない。明治のいたずらかも?
ともかく怪訝に思える像でさすがにお手上げ状態。もっとも堂宇自体も不思議であったが。

top

配慮

2009-12-5

恒例となった美学会西部会第278回研究発表会in関大。

事前準備もさることながら、刷り上ったばかりのレジュメに驚く。
レジュメで使われた用語に著しい不快感。弱者に対する用語への配慮が全く欠如。翻訳引用であれ(自ら翻訳したならなおのこと)、こうした用語を平気で使う発表は論外である。聴いていても、全く意に介さない鈍感ぶりである。
発表が終わるやいなや、レジュメ残部はすべて回収。

別にヒステリックに荒らげる必要はないが、研究者や内容以前に人として大いに問題があるのであろう。当番校挨拶について意見が出たが、馬耳東風。いくら“お勉強”がよくできても、個人的にバツである。
そんな意図はないと訝る人もいるかもしれないが、かなりのレッド・ゾーンという予感。
改めて経歴をみると、某大学で教鞭をとっており、2度びっくりしたが。

top

臨時

2009-12-6

師走ながら相変わらずドタバタ。
紅葉見物も最後らしく、地下鉄天下茶屋では嵐山直通の臨時急行で駅構内大混雑。

早くもシラバス入力など続々と来年度の準備も始まっており、今日もプレ・プレスチューデントが行われているが、今年からメンバー交代で、こちらはあれこれと。

秋学期は、月曜日が休・祝日となる場合が多かったようで、12月19日(土)と1月7日(木)が月曜の時間割である。むぅ、これは気付かなかったとはいえ、慌ただしさにちょっと拍車。
授業は全15回のお約束なので、そのうち休・祝日に通常授業が組み込まれるのだが、こうなると、日曜日にタグ(出席票)付「見学会」に移行の予定。タグ付きなのが、ちょっと寂しいけれど。

top

演習(12)竹久夢二

2009-12-7

焦点が定まらない目つきで、おぼろげな表情の「夢二式美人」。
有名な「黒船屋」(1918)や女十題(1921)など、次々とスクリーンに。「夢二式美人」は、その多くが和装姿の女性で、発表タイトルにもある「大正浪漫(ロマン)」を感じさせるもの。ところが前回の発表もあって、おやっ?と思う。
夢二が活躍していた頃は、ダンスブームやカフェーが起こった「モボ」「モガ」の時代。若者の好趣は何時の世も先端をいくので、もちろん洋装志向である。和装の女性を描く夢二は、実際、どんな人をターゲットにして好評を得たのであろうか。男だろうか、女だろうか。
男性目線からの「夢二式美人」と思い「ジェンダー」などの用語もちらりと浮かべるも、男女共々評判になったというので、違うのか・・・。

後は、たまき・彦乃・お葉。
以前の卒論で「お葉(永井カ子ヨ)」を扱った学生がおり、久しぶりに聞く名前。
日本における近代西洋画発展のためには裸体デッサン=ヌード・モデルが不可欠。そこで宮崎菊が初のヌードモデルとなり(←授業コメント訂正)、その後「宮崎モデル紹介所」を作り、洋画家や美校にモデルを派遣。お葉もそこに登録し、藤島武二らのモデルとなる。
ヌード・モデル料は男1円、女80銭、老人70銭。未だに相場がおかしいと思うが、女性労働としては高給で在籍数が多かったのか、単に当時の一般労働条件を適応したのか、よくわからない。
まだまだ「ウブ」だった頃で、「お葉」をモデルとした藤島武二・竹久夢二・伊藤晴雨のうち、懇願して「責め絵」の伊藤晴雨を取り下げてもらった。藤島武二「芳恵」のモデルも「お葉」である。

竹久夢二や高畠華宵など、大正ロマンで括られる作家はどことなく“ちゃらい”マルチ・クリエイターのようでもあるが(そのことは別に問題としない)、どうして当時好評だったのか、不思議でならない。

top

弥陀来迎

2009-12-8

一条高校人文学科の先生からお礼の手紙。
講義後、教室からこのような夕日が見えたとの由。
講義では、小野・浄土寺阿弥陀三尊像を扱ったばかり。「この夕日を見ながら、講義をうかがえば、更に生徒の興味関心が高まったのに」と。

大阪の人は、大阪湾に沈む夕日を見て来迎を思い(四天王寺西門)、奈良の人は、生駒・葛城山麓の夕日を見て来迎を思う(当麻寺)。
労働を終え1日の終わりを告げる夕日と阿弥陀来迎はよく出来た演出であると実感。今は苦しくとも来世では、という敬虔な祈り。
つくづく、浄土寺をプランニングした重源はすごいと思ったり。ひょっとして中国に先行事例があるのかもと思ってしまう。

top

毛筆ネイティブ

2009-12-9


御用の後、立ち寄った松原市民ふるさとぴあプラザ。「特別展 近代学校誕生と松原」が開催中。
藩校で使われた四書五経やノート代わりの石盤、明治8年の試験表などが展示。因みに四書五経を教える先生は「支那学教師」と呼んだ。試験表では落第者が殆どいないことから合格見込みのない者は受験させてもらえなかったとの由。上に掲げたのは、当時使われていた図画手本・・・ではなく、明治35年に屯倉神社に奉納された三宅高等小学校児童の作品。
今の小学6年生、中学1年生の作品である。手本があるとはいえ、驚愕の筆遣いである。

学芸員氏との話題でもこの「筆さばき」が。きっと彼ら(児童)は我々と違って“毛筆ネイティブ”だったのでしょうと、またもや“おバカ発言”。 後で調べてみると、意外なことが判明。(下に別稿)

地道な調査・収集の賜物と松原市に限らない興味深い展示内容。入場無料、しかもモノクロ18頁の正式パンフレットさえ無料である。財団運営でネットには、特別展の紹介もなく貸会場のことしかないが、穴場中の穴場?企画である。12月20日(日)まで開催。

top

毛筆 VS 鉛筆

2009-12-9

引き続き“毛筆ネイティブ”。
「学制」公布後、欧米模倣による「鉛筆画」(臨模)の教科書が教育現場へ。ただ教師自身も鉛筆に慣れていなかったのか、1885(明治18)年に岡倉天心とフェノロサが西欧へ実情視察へと出向く。
ところが、天心や文相 森有礼のバイアスも手伝って「わが国の伝統の美と芸術の風趣を増す美術画法」が採用となり、図画は毛筆画に。

現場での大混乱が想像されるが、文部省内でも鉛筆画、毛筆画の優位論争が勃発。やがて「鉛筆画」の旗手であった小山正太郎が辞職し、毛筆画の勝利となって、1886(明治19)年以後10年間の図画教科書は毛筆画121種、鉛筆画27種、用器画8種、水彩画1種。

日清戦争後、国際的地位の確立を計りたい日本は、1902(明治35)年に正木直彦を委員長に、再び欧米各国の実情調査。出た結論が、鉛筆画・毛筆画の優位云々ではなく、児童を中心とした教育の立場から考えようという、実にまっとうな答申。
1905(明治38)年4月からは「尋常小学校」「高等小学校」へ「毛筆画」「鉛筆画」各1種類、計4冊が教科書に。
三宅高等小学校の“毛筆画”はまさに毛筆画“派”の全盛期にあたる。

参考とさせていただいたのは、秋元幸茂「図画・工作教科書」(滋賀大学附属図書館編『近代日本の教科書のあゆみ」-明治期から現代まで- 』 2006年10月 サンライズ出版 )である。深謝。

top

年末年始のお知らせ

2009-12-10

木曜日の授業は今日で年内最後・・・。
というわけで、年末年始の在室予定。今年はなんだかややこしい。
  月・日:授業関係:在室 
   
~12月16日(水):通常授業:通常どおり
12月17・18日(木・金):補講日(学部):通常どおり
12月19日(土):月曜日の時間割(通常授業):通常どおり
12月21日・22日(月・火):通常授業:通常どおり
12月23日(祝):祝日:~18:00
12月24日(木):水曜日の時間割(通常授業):通常どおり
12月25日(金)~1月6日(水)冬休み
12月27日(日)~1月5日(火)総合図書館休館
12月25・26日(金・土):~18:00
12月27日(日):お休み
12月28・29日(月・火):~18:00
12月30日(水)~1月3日(日):お休み
1月4日(月)~1月6日(水):~18:00
1月7日(木)~:授業再開:通常どおり

事情により不在となることもありますので、12月23日以降はメールでご連絡のほどを。

top

予習

2009-12-11

朝から雨。今年最後の調査である。

事前の下調べ(予習)を経てシュミレーションした上の調査ながら、予想外の好資料の出現に驚き、見事に覆る。シュミレーションは、ボツとなり、いわゆる「現場合わせ」で四苦八苦しながら対応。

乱暴な話だが、大学も「予習」「復習」ということが叫ばれているが、事前準備や知識とは違う「予習」が、本当に必要なのかと思う。
示された資料が「猫に小判」状態では論外ながら、「予想外の驚き」「不思議」を思い、「どういうこっちゃ?」と自らの力で明らかにしようとする姿勢こそ、学ぶ源泉があるのではないだろうか。

予習が単なる叩き台でしかないことは、あまり理解されていない。高校まで、長く正解か誤りかの二者択一に慣れ親しんできた弊害でもある。「予習」をして理解?し、「復習」を経て定着させるというのはごもっともな話ながら、「予習」通りに事態が進まないのが現実である。大切なことは、「予習」通りに事態が進まない時に、どう動くべきなのか、どう克服するかを考えることであると思う。
「予習」通りの人生はあまりにもつまらないと思うのだが。

top

なにわ・大阪の文化遺産

2009-12-12

関西大学博物館「なにわ大阪ものがたり」展。

なにわ・大阪文化遺産学研究センターが来春、5年間の事業を終える。その成果展である。

木崎愛吉旧蔵の拓本類、牧村史陽旧蔵の近代大阪の写真、赤松麟作や菅楯彦の絵画などに加え、肥田晧三氏所蔵の「宇崎純一(うざき・すみかず)」コレクションも展示。(12月19日まで 10:00~16:00 日曜休館)

展示最終日の12月19日(土)には、肥田晧三氏の講演会が開催される。「大阪の生き字引」である肥田先生の講演は、メール・電話での事前申し込みで先着100名ながら、歳末にふさわしい企画。

これほどの成果は、ひとえにも、M・I氏をはじめとしたP.D.やR.A 諸氏の尽力があればこそである。こちらも彼等を通じて学んだことも多く、展示資料をみながら5年の月日を振り返りつつ、感慨深い。

仄聞ながら、展示準備が整った後、R.A 諸氏の多くが“疲労・心労”でお休みがちにも。
展示場であれこれ言いながら、「ゆっくり、しぃや」と声をかけるお気軽「研究員」相手では、さぞ疲労も積み重なることよと、やや反省も。

top

“もぐら”

2009-12-13

「産直」フリークの家人と某所へ。大根やらミカンやらを積み込んだ帰途、MIHO MUSEUM「若冲」展へ 。
産直野菜を積んでの帰りに若冲展とはなんと似つかわしい姿かとひとり苦笑い。

さすがに名品は既に展示終了となっているが、それでも入館者は多い。あれこれと迷解説しながら《白澤図》や《乗興舟》、《鹿図》、《花鳥蔬菜図押絵貼屏風》などを拝見。さすがに若冲については、幾つかの作品を知るようで、「『野菜の涅槃図』、出てないね」と。
むぅ、厳しいご指摘である。

ようやく《象と鯨図屏風》とご対面。若冲82歳の作品で、みるほどに不思議さが漂う。若冲人気があればこその新発見である。屏風を前に離れたり近づいたりして眺めていると、「こんなん、持ってんだ」と尾形探香《象の絵巻物》や《象のかわら版》(関大図書館蔵)を指差す。「関大は象には強い」と冗談とも本音ともつかない返答。

反対側のケースを見るなり「あぁっ!」と思わず叫び声。
狩野古信《鯨図》。これは、某授業で使われている教材。講義の内容は忘れても、「“もぐら”じゃない、鯨だ!」と言えば、思い出す学生も多いだろう。いつもホワイトボードの前に吊り下げられていたのが立派なガラスケースに収まって…。(写真は某授業時のもの)

「確かに“もぐら”。それで「鯨」の授業をするの?」とこれまた厳しいご指摘。
「狩野古信、かのう・ふるのぶ ではなく、ひさのぶ と読む。江戸幕府御用絵師の作品で表装も豪華。
明治に入ると、御用絵師である狩野派本流の作品は否定され、多くの作品は打ち捨てられ、絵師の名前も忘れられ、表装だけが別作品に使い回しされることとなった。従って、御用絵師狩野派の作品は逆にあまり残っていない。こうした作品の価値基準を作ったのは誰かという話に展開する・・・って、途中から聞いてへんやないか・・・。

この後も「百犬図」や「伏見人形」、また同時代作家として与謝蕪村や曽我蕭白、葛蛇玉の作品までも展示されており、満足しながら解説のほうも正真正銘の「迷解説」に。

top

業務連絡。

2009-12-14

芸術学・美術史専修3回生へ。
2010年1月29日(金)・30日(土)に「六甲山合宿」を行います。各演習時間に案内が配布されましたが、未だ入手していない芸美学生は、長谷までメールでお知らせください。PDFファイルで送付します(携帯メール不可)。
申込み締切は1月13日までとなっています。

なお今年度も夕食は神戸牛による「すき焼き」です。年々、“鍋奉行”が減少の一途をたどり、絶滅危惧種に近づきつつありますので、 “関西風すき焼きレシピ” を貼っておきます。参加者有志は熟知しておいてください。牛脂・酒・砂糖・醤油セットと「割り下」セットもありますので、お好みに合わせて・・・。
ちなみにビールは「ヱビス」ではありません、念のため。

top

演習(13)本阿弥光悦

2009-12-15

書を初め、作陶、能面、蒔絵と光悦の様々な活動が語られるものの、絵画に手を染めた節がない。宗達とのコラボレーションはつとに知られるが、あくまでも書の担当である。記憶にも光悦の絵画はない。せいぜい「蔦の細道図屏風」の落款あたりか。絵画は宗達にお任せ?
発表は光悦茶碗がメイン。名品の「不二山」や「加賀光悦」、「雨雲」、「熟柿」が続々と登場。

宗達の講義で版木やらタネ本を紹介した後での演習なので、その「作為のなさ」が樂茶碗の命とも思えて逆に新鮮に映る。
「手びねり」による長次郎と光悦との対比。利休に対する挑戦状のようにも思うのだが。「新身とても名作におとらぬもの有之 此後とても昔の名作におとらぬ名人いくらも出申べし」(『本阿弥行状記』)。
作陶に関しては、宗達・光琳派の枠組みとはちょっと違った光悦の一面をみた思いも。

top

親爺トーク

2009-12-17

本科的に冬。
朝、ベランダに立つと、槇尾山や葛城山の中腹から上が冠雪。
高速道路情報をみれば、木之本から朝日(富山・新潟県境)まで雪チェーン規制。米子道や松江道、中国道(北房以西)もチェーンが必要。
〔もうあまり気にすることもないが、つい・・・〕。

卒業演習(臨時)。
時間より早くに来たので、「寒いですね」と資料室の鍵を取りに来る女子学生。
鍵を渡しながらあれこれ雑談。サークル仲間で卒業記念に札幌へ行く予定。
「北海道は大阪より寒いでしょうね。」と聞かれ、「大阪のほうが寒い。」と。
意外な表情。
「札幌の通りを歩いてみぃ。こーんな、短いスカート履いて女子高生が闊歩しとるわ。」
つい調子に乗って「太腿、真っ赤にしながら、タイツも何も、履いていないもん」と。
へぇと驚く表情が、次第に怪訝な表情に。「しまった、親爺トークになってしまった」と軌道修正。
本当に真冬の大阪での体感温度は、北海道より寒い・・・。(もう手遅れ)
頭をかきながら資料室へ。

その後「教壇を前にすると、(教員は)人格が変わるのです」という某先生の言葉に、深く同意。

top

ガラポン

2009-12-18

めでたく「クリスマス」(!)を迎えるべく、午後よりゼミ生が三々五々集合し、スキャンやら質問やら。
そこへ学生が生協での「ガラポン」で得た お菓子(末等)の差し入れ。彼女たちは「ガラガラ」という。
ちなみに特賞は、「高級和牛」。このあたりの感覚が、いしいひさいちの『バイト君』に出てくる大昔の「関大カラ―」を引きずっているよう。

歳暮の配送にあけくれ、ゼィゼィと言いながら下宿へ帰る主人公、そこに眼鏡をかけた長髪の学生が、包みを差し出し「今日、生協で『肉』、当てた。」「おぉ~!」。ボロアパートで鍋となるが・・・。

カットやネイルサロン、ベーカリーショップもある生協だが、新旧ごっちゃになっているところがいかにも関大らしいところである。(あくまで生協の話・・・)

top

演習(14)道成寺縁起絵巻

2009-12-18

今日は月曜日(の時間割)。発表を聞きながら、どういうこっちゃと訝る。発表はごく真っ当なものながら、縁起の内容そのものに。

いわゆる「安珍・清姫」の物語。主人公の女は『大日本法華験記』『今昔物語』では寡婦。しかし『縁起絵巻』では「清次庄司」の妻に設定変更。人妻ってヲイヲイ。
有名な釣鐘一件の後日談。道成寺の僧の夢枕に2匹の蛇。えっ?「終に悪女のため夫婦となれり」と確かに詞書にも。
「悪女はないだろうに」と思いながら、法華経書写で「蛇道を離れて巧利天にむまれ、僧ハ都卒天にむまれぬ」とあって、二人なかよく天女の姿で描かれる。えっー?なんか無理やりのハッピーエンド。
騙した僧侶と騙されて蛇身になった女との愛憎物語。

道成寺は騙した僧侶を隠匿したにも関わらず、寺の縁起に。発表に拠れば、立派な「宮子姫伝説」もあるというのに。
異本「日高川絵巻(賢学草紙)」はもっとすごい。若き僧賢学は占いで「女性と結ばれる」と聞かされ、その娘を刺しに行く。刃を突き立て無言で立ち去る賢学。しかし、そうとは知らずに二人は清水寺で再会し結ばれるが、はだけた女の胸に残る刀傷を見て凍てつく・・・。
ごくごく真面目に発表しているだけに、ちょっと凄味も。
(釣鐘写真は本文とは関係ありません)

top

専門演習(池上先生)受講生へ

2009-12-21

課題?となっています展覧会(奈良県立美術館「神話」展)の図録は、既に合同研究室が閉室となっていますので、美学美術史資料室にて保管しています。
閲覧希望者は、長谷研究室まで資料室の鍵を取りに来て下さい。
なお、長谷研究室は この日程 で開室していますが、図書館等でうろちょろしていることがありますので、あらかじめメール等での連絡があれば、確実に在室しています。

top

演習(15)横山大観

2009-12-22

横山大観と富士山について。発表を聞きながら色々と妄想?
「朦朧体」。「東洋(絵画の美)は線にある」と巷ではまことしやかに語られるが、水墨画や(琳派の)「たらし込み」はどうなるのよと言いたくなる。 石膏像デッサンを例にあげるまでもなく、線が集まって面をなし、面が集まって立体(感)が出来上がるのは、洋の東西、同じこと。

岡倉天心『東洋の理想』冒頭の"Asia is one."(アジアは一つ)。
確かに戦中期、「八紘一宇」などと結びつきポリティカルなスローガンとなったが、天心が刊行当時、果たしてそうした意図をもって著されたとするのは疑問。「脱亜入欧」のもと、少なくとも文化の面では朝鮮半島、中国、インドとその源泉を遡り得ると反論したかったのだろう。これと大観のバイアスをごっちゃにしてはいけないとも。

肝心の大観の“富士山”。戦後に描いた富士は、「敗戦の脱力感」で駄作が多いとするのは発表者と一致したが、今回富士山を通観すると、戦前にも変わった作品がある。屏風を上下に区切り、下は雲海、上部中央に富士山がぽかりと真ん中に浮かぶ《群青富士》。
大観(明治元年 生れ)は29歳で東京美術学校助教授に就任して以後、天心ともども日本美術院を牽引し、インドやアメリカ・イギリスにも行く、文展審査員も引き受け、再興日本美術院も切り盛りするなど、業界公務(ロビー活動)も超多忙を極めた。そうした中で描いた富士には、迫力のない駄作も含まれるであろうと思う。いつの時代も一緒であると、同情も。

top

日本近代美術における「外地」

2009-12-23

豊田市美術館「近代の東アジアイメージ」展へ。たぶん今年最後の展覧会見学。
サブタイトルに「日本近代美術はどうアジアを描いてきたか」とあるが、このアジア(東アジア)は中国と朝鮮。
「内地人」である日本人画家が「外地」をどう描いてきたのかを検証する展覧会である。

日清・日露戦争を契機に「憧憬の文人(画)世界」の中国から荒涼たる大地や市井の人々が息づく現実の中国に転換する。同様な転換と視線は朝鮮半島にも。
渡欧し凱旋を果たした近代洋画家たちは帰国後、“風土”の違いから日本での創作活動に悩む。
彼らは模索するなかで、親しみを持ちながらも日本とは異なる風土や新奇な風俗をみせる「外地」に活路を見出す。洋画のみならず日本画や版画、写真も同じように好奇に満ちながらある種の暖かな眼差しが東アジア(「外地」)に向けられる。展覧会ではこれを「エキゾチシズム」「オリエンタリズム」と呼ぶようであるが、東アジアに向けられた眼差しは「韓国でエステ」や「上海でカニ」を楽しむ現代の「お手軽海外旅行」とも通底するのかも。

章立てと解説は生硬ながら、あの画家もこの作家も思うほど、おおかたの近代日本美術の作家は、「外地」を描いている。
出品作品の制作時期は、「第8章〈現代にて)」を除きおおむね昭和16、7年まで。最古の作品は、高橋由一《上海日誌》(慶応3年・1867)。このうち兵士が描かれた作品は、「浦島図」でお馴染みの山本芳翠《唐家屯月下歩哨図》(明治39年)と石井柏亭《西部蘇満国境》(昭和18年)の2点。

小磯記念美術館で、戦中の日本美術は日米開戦翌年(1942年)までは、いわゆる「戦争画」らしい作品が少ないことを述べたが、それらの作品は、この近代から引き継がれた「外地」イメージの表現にほかならない。
従軍画家の中には、近代からの「東アジアイメージ」をそのままひきずった者や戦争という歪んだ形で「東アジアイメージ」を得ようとした「乗り遅れた者」もいたことだろうと想像。だからシンガポールや南洋なのかとも。

最後は会田誠「美しき旗《戦争画RETURNS》」で〆。
豊田市までかなり遠かったが、得たもの、学んだものも大きい。

top

プレゼント

2009-12-24

例年の如く、終日卒論対応。
研究棟や総合図書館でもかなり厳しい表情の学生達と行き交う。いずれも女子学生。今宵の予定もあろうが、結局、粘りや行動が結果に左右するのかもと。

さて毎年この時期になると、希望したわけでもないのに論文審査(査読)やら特急便の原稿など、悲鳴をあげるほど“予期せぬ”ビッグなプレゼントが届く。
夜、今年は何もなく平穏無事にと安堵して帰宅すると、「教育後援会」(PTA)からの分厚い封筒。
恐る恐る開封すると・・・、やっぱりビッグなプレゼント。
「年明けに改めてお願いに上がって・・・」。いやいや、必要ならこちらからお伺いしますって、封筒に喋りかけてどうする?

今年はクリスマスツリーを出さなかった。肝心のプレゼントも既に「先払い」しており、こちらのほうはいたって平穏である。

top

序盤

2009-12-25

夕刻、大型スーパーに立ち寄ると、慌しく店員が棚卸し。
さっさとイルミネーションを外し、売れ残った「デコ台」(素ケーキ?)やカリフラワーなどが撤去され、金時人参や百合根、くわいなどが置かれて、上に「寿 迎春」というポップボードを挿して、クリスマス特集から正月用コーナーに早変わり。店内を1周すると、もう売場の雰囲気ががらりと変わっている。
それでも天井から吊り下げられた「Merry Christmas」の懸垂幕はそのまま(外部発注)で、その下に並ぶ迎春用のカラフル「結びコンニャク」はどことなくオカシイ。

なかには微妙な商品も。
木箱を傾けて陳列台にしたワイン。「金箔入り清酒」のキンキラした紙箱の向かいに置かれており、木箱の上には、先の蔬菜でみた同じ「寿 迎春」のポップが挿してある。でも木箱の小口に貼られた値札プレート「フランス産 ○×△ 1,780円」の上隅には赤い実を付けたヒイラギのイラスト。

「七五三」「クリスマス」「迎春」「バレンタインディ」「ひな祭り」「入学祝」「こどもの日」と続く商戦(特に菓子業界)はまだ序盤に差し掛かったばかり。

top

宝船

2009-12-26

予想通り、さっそく本が必要になり、近傍の堺市立中央図書館へ。
図書館の傍には与謝野晶子や河井醉茗の歌碑・詩碑。
  堺の津南蛮船の行き交へば春秋いかに入りまじりけむ 晶子

南蛮屏風。
高さ6尺の本間(ほんけん)屏風〔大屏風〕なら3億とか4億ぐらいだが、新出作品はほとんど望めず・・・。
入港する南蛮船は縁起物の「宝船」とみなされ、需要は減るものの鎖国以後も細々と描かれた。
カピタンや崑崙奴の行列や洋犬など物珍しい「異国風俗」の描写は面白いが、漢画にみられる宮殿風の「異国建物」など中国的な要素が濃厚である。
積荷の内訳は、あまり描かれておらず、描かれても朱塗り段重や黒釉壺など西欧の新奇な品ではない。これもなんとなく中国ぽい。

漢画風の建物描写などは、絵師が西欧建物を知らなかったので粉本から「異国風景」を生み出したと失笑気味?に説明されるが、最近はそうは思わない。
南蛮船はダイレクトにポルトガルあたりからやってくるのではなく、マカオや中国・南沿岸部あたりを経由する。そこで日本向けの積荷(中国製)を積んで日本へ来航。積荷から見れば、「異国」は中国であり、意外と南蛮屏風の情景は南蛮貿易の実情を示したものではないかと。
無知を承知でいうのだが、日本に現存する、南蛮貿易で確実にもたらされたとされる16世紀後半のポルトガル製品(切支丹遺品を除く)には、ほとんどお目にかかっていない。不思議である。

top

鳥海青児

2009-12-27

大学に入学した頃、褐色で厚く塗り重ねられ、ぼんやりと浮かび上がった大聖堂の絵を扉絵にした本が配られた。扉裏には鳥海青児「夜のノートル・ダーム」とある。その時はそんな有名な画家・作品とも知らず、長い間過ごした。後年その名と作品を知るが、なぜそれが大学案内に掲載されていたのか知る由もなかった。

鳥海青児は、関西大学出身である。
1920年(大正9)経済学部予科に入学、授業にはほとんど出席せず絵を描き、また音楽部に入ってマンドリン、ギターを弾く大学生活。1924年(大正13)第2回春陽会展に出品した《洋女を配する図》《平塚風景》が初入選しプロデビュー、春陽会若手の川端信一や三岸好太郎らと麓人社を結成。
1926年、関西大学経済学部商業学科卒業。
(東俊郎 編「鳥海青児年譜」による)
ところで、東氏 編「年譜」では1924年「6月、関東大震災で破損した校舎の新築がなり、記念美術展がひらかれた。鳥海の他、在校生の原精一、森田勝も出品した。」とある。関東大震災で千里山でも被害があったのか。
また、この記念美術展は関西大学美術部白鷲会HPの「資料館」(平井章一氏 執筆)で紹介している6月27日、28日に第14号教室で開かれた「関西大学洋画研究会」による「千里山洋画展覧会」を指すものと思われる。

過日の豊田市美術館で、鳥海青児の名と厚塗りの作品を見て思い出したのと、卒論テーマに悩める3回生へのプチ・アドバイスも兼ねてのご紹介。

top

役立たずの携帯など、捨ててしまえ

2009-12-28

学生来室。事前連絡があったはよいが、「午前中」という括り。11時過ぎに学内で打合せがあって、11:40にしてくれとメール。
打合せが終わると、すぐさま資料室に行き暖房を入れて、待つこと30分。
来んがなぁ・・・。携帯電話をみるも連絡はない。
やむなく、部屋に戻ってしばらくすると、ノック。特に息をきってあせった風でもない。i‐podをようやく外しての来室。「(持っていた)紙袋が破れまして・・・」という。

通勤途中、急にお腹が痛くなることもある。最寄駅で下車してトイレに駆け込めばよいのだがそれでは遅刻してしまう。悪化する腹痛のなかで、会社まで耐える(耐えうる)のか、有休や始末書で対応するかと、悩んだ経験のある社会人は私だけではないと思う。
後者を選ぶとしてもまずは、始業時間までに会社に「伺い電話」するのが常識である。労働法としても「無断遅刻」は「債務不履行」にあたり、たかが腹痛では済まされないのが社会の掟。

教員も学生もこの点、やや甘いのが大学の伝統?ながら、さすがに卒業・就職を控えてくると、学生も時間厳守になってくる。幸か不幸か、NON就職組ながら「いいかげん目を覚ませ」と、今年最後の「怒り納め」。

これで「ハセは怖い」と言われては、たまったものではない。

top

仕事納め

2009-12-29

約束時間通りに学生来室。その後「今日も(大学に)来てはるんですか!」と知人(社会人)より電話があり、学内某所で相談、18:15に退室。掃除・整理整頓は今年もなし。

お持ち帰り仕事に加えて幾冊かの本。
その中に『Aube』4・5号(淡交社・京都造形芸術大学比較藝術学研究センター・2009.3)。特集は「食べる」とあるが、朴彦坤氏の「東アジア寺院における戒壇の比較研究--戒壇形式と受戒生活」が所収されている。以前、抱いた疑問 に答えるような内容。金剛戒壇や真身舎利、舎利浮屠などが、キーワード。

普段に増してやや重いカバンで帰宅。世間はいつの間にか仕事納めで、電車は休日並み。

top

遷都1300年

2009-12-30

午後より散髪。親に連れられた子供が理髪台を占拠中。騒がしいこと、おびただしい。ようやく静かになり理髪台に。「このかき入り時に(客単価の低い)子供ばかり来ても・・・」と親爺もつい愚痴。

マントみたいなシート(ケープというらしい)を掛けてもらいながら「“遷都1300年”には、行きはるんですか?」と。え、まぁと生返事をしながらこれまでの会話を反芻。だいたい散髪中の会話は、結構適当に受け流しているもので。確か、いちど古墳かなにかの話題をしたような。

「あしたから信貴山や吉野、“赤目”なんかで始まると、言うてますけど」。へぇ、もう明日からなんやと応えつつも、「遷都」なのになぜ平城宮址がなく、場所もかなり分散してないか?
それに“赤目”は違うやろ、あそこは三重県。???だらけの会話である。

帰ってネットで見ると、確かに金峯山寺(朱雀・南)、奈良公園(玄武・北)、朝護孫子寺(白虎・西)、それと「室生寺」(青龍・東)で明日からの開催である。親爺の話ではすっぽり「四神」が抜け落ちて、なんだか初詣案内に近い。「せんとくん」「まんとくん」とキャラ先行の平城遷都1300年祭である。

top

おおつごもり

2009-12-31

雪こそ降らないが、寒い大晦日。自宅に居るとつい起床時間も遅くなり・・・。

例年のように年賀状を作りつつ本や論文を読んだりと、普段の休日風にグダグダと過ごす。子供も同様。
夕刻、思い余って家人が引き出しの中から緑の封筒と赤の封筒。おっー「年末ジャンボ宝くじ」。連番とバラで各1通。

「はい、それではいきます・・・」とネット画面を見ながら。
「上2桁で、いち、さん・・・」。「ねぇー」と上娘。「あるっ!」とちょっとテンション高めの末娘。「続いて。いち、さん、はち・・・」。「あ゛・・・」とため息。束の間の楽しみである。
「あ゛~!」「え~!」と続くなか、「それでは最後となりました。末尾、きゅう!」「おっ!」「やった!」と娘たち。「はい。その券をもって年明けに駅前(宝くじ売場)で交換して下さい」と家人。
末等であれ、彼女たちにとっては貴重な現金収入。ただし叶うのも年越しだが。

今年も貧素な内容ながら拙家頁をご覧いただき本当に有難うございました。学生のみならず教員、職員の皆様、また学外の様々な方が多くご覧になられていることに気付いた1年でした。
来年も「いまどきの若者」「いまどきの大学」に右往左往するオジサンの姿を記したいと思います。
この1年、本当に有難うございました。
まずは年末の御礼かたがた。

top

過去ログ