日々雑記


謹賀新年

2010-1-1

明けましておめでとうございます。

厳しい冷え込みの元旦。実家へ年頭の挨拶へ。

道中「正月に墓参りをする」という話題。最初は半信半疑で聞いていたが、お盆の対で、正月にも墓参りという話。春・秋の彼岸を含めて春夏秋冬となるわけで、なるほどとも思う。

一休は墓場で髑髏を拾い、竹の先にそれを取りつけて、元日の朝、京都の家々の門口に髑髏をさし入れては、「ご用心、ご用心」と歩き回った。
「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」とも。

実家でのんびり過ごした後、ひとり帰宅。
普段勤め帰りのサラリーマンで満席になる最終特急も今日ばかりはこの有様。

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信貴山

2010-1-2

夕刻に再び実家(家人)。実家は共に近鉄沿線。わかってはいるが反対のホームで「三宮行」とか「尼崎行」をみると未だにちょっと驚く。車内では、信貴山へのケーブルは“スルッとKANSAI”が利用できない旨のアナウンス。

今年は「庚寅」なので信貴山朝護孫子寺への初詣客も多い。信貴山と寅とは寅年・寅日・寅刻絡み。 寅の刻は午前4時である。
毘沙門天は「吉祥天」「善膩師童子」の妻子を随うが、霊宝館の銅造毘沙門天像(平安時代後期)は兜跋毘沙門天。また本堂裏には室町~安土桃山時代の二十八使者像が安置。『信貴山縁起絵巻』のヒーローである剣の護法童子は別棟にて。
詞書に「かうちにしきといふところ」→「やまとに」と改めるなど、(笠嶋忠幸「『信貴山縁起絵巻』についての新知見 詞書に記された『やまと』の再検討」『国華』1190)信貴山は奈良の寺院としてはちょっと謎っぽい。松永久秀が、平蜘蛛の茶釜とともにおさらば(自害)したものもここ。

鉢や校倉が飛んできたであろう山並みをみながら下車。

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道明寺天満宮

2010-1-3

道明寺天満宮へ初詣。今年は私事にてひとり(上娘)欠席。

普段は駐車場になっているところに露店が立ち並ぶ。もちろん周辺道路は進入禁止。指定の駐車場(道明寺南小学校 校庭)から徒歩。普段とは別世界の混雑。

本殿横の大絵馬は5世長谷川貞信の筆。上方浮世絵師である。多くの人がこの前で記念撮影。絵のほうは、ともかく上方絵画の受容基盤を見る思い。

参詣後、こちらは霊宝館(他は露店見物)。
青白磁円硯や伯牙弾琴鏡をはじめ名宝がずらりと陳列。
展示品は以前も見ているので、もっぱら笹散双雀鏡や天神縁起扇面貼交屏風などややマニアックな資料を拝見。上を見れば、《猿廻し与次郎図絵馬》(享和2・1802)。願主はもちろん2代目嵐吉三郎(璃寛)。絵師は吉村周南。

再び本殿前で恒例の御籤。今年もひとりだけ「上の中」ながら「1番 大吉」もあって、おおむね良好の由。
次いで傍らの道明寺へ。こちらまで来る参詣者は少なく、本堂内に上がって本尊十一面観音立像や聖徳太子孝養像、叡尊坐像をしげしげと拝見。

新年早々、よい仏像を見た。大吉なり。

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初出勤

2010-1-4

学内は閑散。近所の子供の遊び場代わりとなっている。
それでも研究棟では足音が聞こえ、学生とおぼしき姿もちらほら。コピー室ではコピーがフル稼働。夕刻でも明りが灯る研究室もある。

越年の仕事や用務。パソコン画面には、電子付箋?が貼ってあるのだが、あれこれ処理するうちに忘れていたことを思い出し、付箋の数はむしろ微増。
そもそも数時間で処理できる仕事ばかりでないのだが、「すみません。忘れてました。」と謝って済む案件は殆どない(かなり開き直り気味)。明日からは学生(ウチの)もやってくるので、熟考してもいられない。

さっそく、いつもの生活。

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逆転の発想

2010-1-5

日頃、「大学の実力」とか「ザ・就○」など、うざい 考えさせられる記事が豊富な大手Y新聞。

ところが、昨日の夕刊[5面]にはちょっと面白い「就職データ」が掲載。
「選考・就活で重視すること」として、学生(アピールポイント)、企業(採用ポイント)双方へのアンケート。学生と企業では、項目のほぼ全てが、ダブルスコア以上。
なかには5~8倍のひらきがある項目も。大学生が就活に関して、いかに身勝手に(他の学生と同じように、風説に流されて)解釈しているかがよくわかる。

有料記事なのか、正月休みなのか元データがみあたらないのだが、学生と企業でこれほど乖離しているのなら解決はさほど難しくない。要はサークルやアルバイトもほどほどにして、風説に惑わされず自信をもって自分で行動すればよいわけである。キャラ立ちする必要は全くない。これはむしろ逆効果。

「世間で言われるように、みんなが動くのと同じように、動くのはすごい楽やけど、最後になって世間がいうように自分も氷河期に入ってしもうたわ、それでもええねんな!」と必要以上に教室をフリーズさせたこともあったが、あながち間違っていなかったと自負。(企業が他社と)同じようなことをしても儲かるわけがないのである。

とはいえ、大人も新大阪駅構内の書店に平積みされている「明日からの営業成績が10倍伸びる」やら「絶対儲かる、注目株のカラクリ」というような本には群がるのだが。

「基礎学力」にしても4.6倍のひらきがあるのだが、これも企業にとっては、単に「優」の数云々ではないことは明らか。新聞社として こんな記事 を臆面もなく書いてしまって恥ずかしいと思う感覚が、企業としての基礎学力ではないだろうか。
(「太極殿」「上洛」「玉座?」)

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前夜

2010-1-6

明日、明後日は卒業論文提出日。

資料室にパソコン・プリンターを持ち込んでの最終確認と印刷。表紙も付けて・・・。
出来あがったと思っても、誤字脱字など気になる点は、限りない(らしい)。
ようやく完成し、ひとり、またひとりと退室するも午後9時を回ってもこの通り、最終チェックに余念がない。

明日からは授業も始まり、レポート試験や卒論などで、パソコンやプリンターが使えるセンターやサテライトは、混雑必至の予想。今日印刷してしまえば明日は提出だけ、ともアドバイス。つい、「このままオール・ナイトで仕上げて明日朝一番に提出して、そのまま帰宅して寝れば・・・」といらぬアドバイスも。

ともかくほぼ完成。きっと帰宅途中や家に帰って読み直してみると、「ぎゃぁ~」ということもあるだろうが、また明日にでも対応(といってもオフィスアワーの時間しかないが)することに・・・。

お疲れ様でした。

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提出宣言

2010-1-7

授業再開。今日 も月曜日の時間割。
卒論提出を済ませたゼミ生が、ピンクの紙(卒論受理書)をひらひらさせて提出宣言。

夕刻、卒論提出“祝賀”でゼミ生らと関大前で一献。某ゼミはミナミで「もつ鍋」とも。
予想通り、ITセンターやサテライトでは大混雑。総合図書館も入館するために長蛇の列との由。
ホンマかいな。

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2010-1-8

昔、凰林承章(相国寺僧)『隔冥記』(正字は冥+くさかんむり)を読んでいた頃、「杉原紙」が贈答品として頻出。ルビがないので、雑談で「すぎわらし」と言ったところ、「それは“すいはらし”と読む!」と先輩に頭をぽかりとこづかれたことがある。
また京都国立博物館常設展示の見学会で展示されていた「綸旨」がグレー色の紙だったので、質問したところ「自分でいっぺん調べてみてください」と珍しく?ご指導を受けたこともある。

杉原紙1束が2日半の職人の日当に相当する(室町時代)ことを知ったのもこの前後である。中国の寺院にも「惜字塔」という焼却炉がある。

日頃を顧みれば、反古紙の山。
文字、紙への感謝の念を込めて、真冬の見学会を企画。

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窓口

2010-1-9

過日、受講生より「CEAS」からメールを経由しての問い合わせ。たまたま傍にいたゼミ生に「なに、これ?」と聞き、「えっ、センセ、「CEAS」知らんのですか?」と逆に驚かれる始末。

今回はメールで来たので知るに至ったのだが、みると5年前にも「規定字数にマルとかテンとかは含むのか?」という問い合わせ(むしろ 嫌がらせ?)もあって驚く。
もう既卒者・・・。

ひとりからの問い合わせが「FAQ」というのもおかしな話だが(今回は免責事項ながら確かにFAQである)、多くの学生は公開メールアドレスを使って問い合わせてくるのだが、こうした対学生窓口もあることにいまさらながらに気づいた次第。

年末年始に山盛り届いたSPAMメールの元凶になっているメールアドレスの公開やCEASからも問い合わせがあると、対応する方がたいへんで(だからメール経由だったのか)、学生用窓口は一本化に限る。
折よく、とある先生とお会いし「CEASって開いてますか?」と恐る恐る尋ねたところ、「知っているけど、今まで開いたこともないわ」と心強いお言葉。
やはり授業支援システムにも向き・不向きがあるようである。

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湖北

2010-1-10

昨夜あいかわらずの時間に帰宅すると、まだ起きていた娘たちが
「あぁ~、雪、見たいっ!さらさら雪の上に“ばふっ”って、飛び込みたい!」とリクエスト。 はぁ、さらさら雪で “ばふっ” ですか。
横では「寒いし、アカンで」と一蹴の声も(←スキー場でもほぼロッジの管理人と化している)。
むぅ・・・。

ともかく雪を求めて湖北・木之本へ。
「木之本は北国街道の宿場町」といえば、聞こえはよいが、このあたりがノーマルタイヤの限界。

予想通りの積雪量。町のあちこちで「雪かき」。まずは木之本地蔵(浄信寺)にお参り。本尊は、仁治3年(1242)銘のある162センチほどの地蔵菩薩立像で秘仏である。天井絵は月岡雪鼎の門人である橘雪嶹の筆。外陣内をあれこれと見学。戒壇巡りも実施中。
裏手の書院や阿弥陀堂へ回ると、参道左右の雪面にはポコポコと大の字の窪み。なかには“ライフ・マスク”も。さっそく、やっとる・・・。

その後、町並み散策。冬場で観光客も来ずお店の殆どは休業状態。それでも岩根醤油や冨田酒造などは営業しており、家人らはそちらへ。「七本槍」と白木と漆塗りの1合枡を購入。
帰途、せっかくなので渡岸寺観音堂へ。
時間も遅くこの雪なので拝観者もまばら。何時見ても破綻のない美しさである。付いて来た末娘も「きれい」と。

新年から馬鹿っぽい話だが、最近はこの十一面観音像が「木彫に習熟した仏師」が作ったとは思えず、人智を超えた造形のように思えてならない。
人間の創造には必ずどこかに手わざや息遣い?が残るものである。それが360度眺めてもどこにも見えない。調木(或いは原木伐採)から制作、入魂まで、ずっと息を凝らして集中し続けた強靭さと卓越した彫技を感じるのだが、その高い完成度は類をみないほど孤例である。

観音像を見ながらぼんやりと思っていると、子供に促されてやむなく退室。
帰途、戻った車中での引率?報告。
「もう、ほうっておくと、夜になっても見そうやったから・・・」。
ご名答。

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せめてお名前でも

2010-1-12

拝啓 清琴西譲 様
貴殿について、『古画備考』をはじめとして、ありとあらゆる辞典類、書籍を調べましたが、まったくわかりません。安政5年(1858)を「安政著雍敦■(チョヨウ トンショウ)」(著雍=戊)(敦■=午)と記すなど、素養のあるかたとは存じますが、続く「榛國沙浦」のくだりは、いったいどこのことを仰っているのでしょうか。日本でしょうか、中国でしょうか。あるいは人名でしょうか。

大阪の下町にある絵を見事に描いた力量には感服しますが、印章も不鮮明に押され、清代来舶画人でもなさそうです。古記録も見当たりませんので、どのような機縁で筆をとられたのかも皆目見当がつきません。「琴」を崩されているので不安にも思いましたが、他ではしっかりと「清琴」と揮毫されておられますね。
その後、明治13年に森二鳳が補筆していますが、裏面の水墨画は貴殿の画風、実力を存分に残しておられ、ありていの画家ではないと御察しいたします。
愚考に際して与えられた時間も残りわずかですが、ぜひ貴殿のご出身地や経歴、ご業績の一端をお聞かせ願えれば、幸甚に存じます。  敬具

ここまではっきりしながら、まったく見当もつかないことに若干、苛立つ。

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図書目録カード

2010-1-13

朝は自宅周辺、昼間は千里山でもプチ吹雪く寒い日。
夕刻、2、3の学生(学部生)と非常勤の先生を囲んで「新年会」代わりに一献。

雑談のなか、こうやって文献を探したと図書目録カードを繰るポーズをすると「なんですか?それ?」と現役学生。そういえば、総合図書館からもいつも間にか図書目録カード棚が消えている・・・。
「どうやって(探すもとになる)その本が特定できるのか」と逆質問。イタタ・・・・。

「『日本美術年鑑』や雑誌の『総目録』などから探す。あるいは新刊書の参考文献一覧から遡る。」というと、「えっ!」と驚嘆の声。「(他の)図書館で目録カードを繰って、(その館に)本がなかったら?」「無駄足を踏むことになる・・・」と、はや降参。

現在は自宅に居ながら世界中の図書館蔵書を検索することが可能になり、「本探し」の時間が大幅に短縮され、なおかつ画面上でも論文が読むことができる時代となった。つくづく便利な世になったと思う反面、遅まきながら、なぜ初年度での発表が、時には的(大)外れになるのかもわかったような気がする。
ネット上のタイトルだけでは、雑文と論文の区別がつかないのかもしれない。ある意味、授業のうえでちょっと参考にも。

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ピーク

2010-1-14

最後の授業で試験をすることもあり、また論文試験提出日でもあり、学内大混雑。

こちらもそろそろ最後の授業。
配布プリントの残部は茶封筒に残し翌週の授業時に教卓傍に置いておくのだが、初回からの蓄積があり、さすがに今日は見慣れぬ学生が一斉に群がる。昨年末あたりで封筒に入りきれなくなり古い分はかなり破棄したのだが。普段出席している学生は「君らは池の鯉か」とやや憐みの眼差しで傍観。すでに「格差」。
講義は「菊花流水図」が上下逆転で映ったものの、若冲『動植綵絵』で〆。

授業が終わって論文試験の提出窓口そばを通ると見知った学生。「論文、提出?」と声をかけると「センセのです」と。「はい、よろしく」と相槌を打ってはたと気が付く。今日・明日が論文試験提出日ということは、もう1回残している来週の当該授業は出席学生が少ないということか・・・。
じゃ、久しぶりに出席票でも渡して、回収 というようなことはせず(絶対しません)、通常通りに講義の予定。当たり前ながらその後の「卒業演習」も自然休講。

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いちいち落ち込むな!失敗は次に生かせ!

2010-1-15

関大生協が発行している「KU-COOP TIMES」VOL.14に「就活」特集が組まれている。相変わらずガセネタ話もあるが、必勝法として上記の言。その通りだと思う。

昨日の講義「若冲」でも然り。
青物問屋『枡源』を(いやいや)背負って、40歳でようやく隠居の身となり、好きな画業に精進しながらも、跡継ぎ候補の末弟は死に、町会役員も務め、晩年も天明の大火で焼け出される有様。『芸術新潮』に「若冲すごろく」も掲載されるほどである。

このところ、新聞をにぎわせている日本航空にも旧日本エアシステム(JAS)からの社員がいる。私と同年代以上の社員なら東亜国内航空(TDA)時代からの人もいることだろう。「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ。」と言った総理もいたが、希望通り就職してもその先は平坦ではない。「1回休み」や「偶数が出るまで休み」「振り出しにもどる」があって当然の日常社会である。いちいち落ち込んでいては、身も心ももたない。「やけ酒」「やけ買い」でもしてひと晩寝て、再出発である。

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不覚にも

2010-1-16

夜遅くに震災のドラマ(録画)を見る。「神戸新聞だから許せる・・」といった思い。
倒壊家屋の下から助けを求める声をかき消した各社取材ヘリの爆音。渋滞のなか某大手新聞社の社旗を靡かせた黒塗りハイヤー。後部座席には踏ん反り返ったスーツ姿の人物。マスコミ自身が、反省のないままに15年。

見ながらも次第にうるっとしてしまい、周囲からは「鬼の目にも泪」と揶揄。
当時1歳にも満たない末娘が珍しく一晩中泣き続け、ようやく寝たと思ったところに猛烈な地鳴りと揺れに襲われた、あの日の朝。
「もう、ここには“動物的勘”は残ってへんな」と頭をこずいてやる。

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数珠

2010-1-17

滋賀県立安土城考古博物館「よみがえった文化財」展へ。文化財修復についての展示。

少なくとも一般の人にとっては見慣れぬ作業ながら理解は難しい。
八双や環金具、朱塗りなどの各種軸端が並ぶ掛幅パーツのなかに水晶(ガラス)製の「数珠」が展示されると、少なからぬ人が数珠をばらして掛軸のどこかに使用されると思ってしまう。
総裏打ちした掛軸の裏に蝋を塗り「数珠」で擦る-裏擦り-の時に使用する(こうすることで糊の層が破砕され表装が柔らかくなる→折れを防ぐ)のだが、なかなか展示だけでは理解できない。
本紙だけを剥がされた「枠だけ」の表装も展示してあったが、単に額縁を換えただけのようにもみえる。「布海苔」(フノリ)もルビなしなので、「糊」の誤植かと思ったりする人もいるに違いない。

分野が違うと、疑問も発生。生和神社の建築部材とともに「原寸大図面」が展示されていたが、なぜ紙(青焼コピー)でなくべニヤ板なのか、某建築修復現場の図面ベニヤは仮設足場の床板になっていたが。なぜそうなのかという素人目線の解説がなく、一知半解。
単に琵琶湖文化館の収蔵品と県新指定品(本隆寺僧形神坐像)を見に来たと思えばよいのだが、不完全燃焼。

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文化財修復

2010-1-17

パンフレットにも文化財修復の根本は「するのか、しないのか」とあるが、貴重な文化財、修復すればよしという思いが最近揺らいでいる。

調査で良質な作品に出会い、所見を述べた後、やや漆箔が剥落しているが大丈夫か、修理の要はないのかという問い合わせ。現状、仏像に問題はないと答える。半年ほどして「銘文がありました」との報を聞き、驚いて駆けつけると、解体された状態で一旦返却。

当事者が仏壇屋に漆箔止めをお願いしたが、強引に解体修理へと(そのほうが儲かる)。ところが、体内から銘記が出て、慌てて解体状態で返却。困り果てた当事者へ心当たりある文化財修復工房を紹介するも、以後連絡なし。たまたま某所で当該作品を見かけ、ここで修理かと理解する。
すっかり忘れたころに完成の問い合わせ。完成写真1枚見ることもなくコメントをし、改めて見れば、まるで別の仏像。だから修復しなくてもよいといったのに・・・。

「残念なことに所有者がほとんど予備知識のないまま修復を行った結果、文化財としての価値を損なうことになった例も多い。これらの根本理念は『文化財の現有する価値を存続させる』との目的を達成するためのものである。」 (下線部 筆者)

硬い文章ながらパンフレットを読みながら深くうなずく。

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パンパース男

2010-1-18

レポート(試験)や卒論、修論がどさっ、どさっと積み上がるこの時期。
夕刻、所用を兼ねて同業他社の方と一献。よその話ながら・・・。

まじめに勉強もせんと、さんざん好き勝手しておいて、イザという時はほぼ丸ごと「コピペ」。コピペはあかんで、というても「コピペしてません」と答える。コピペやないかと言うとちゃんと書き写しました、と。見れば確かに「五重蓮華座」が「五十蓮華座」になっとる。「そりゃ、盗作やで」というても、意味もわからんらしい。
忙しい最中にあれこれと指導?もするが、本人はどこが間違ってるんですかと言わんばかりに何の反省もない。
「就職ないんですが・・・」というてくるけど、今、こっちはあんたの尻ぬぐいでたいへんで、そんなこと、知るか!やわな。これまで通り、好き勝手したらええねんとも思う。指導中、もじもじしてるので、何かと思たら「パンパース」つけとる。こりゃ、やっぱり尻ぬぐいが要るはずや。
もう「草食系男子」やのうて、「パンパース系男子」やな、ガハ・・・。

ほろ酔い加減で虚実ないまぜな話ながら、決して他人事とは思えない。久しぶりにオムツのあて方でも練習しておくか・・・などと酔いに任せて思ったり。

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演習(16) 剣持勇の椅子

2010-1-19

学部は昨日で授業終了ながら、演習報告(16)。

剣持勇は戦後日本を代表するインテリアデザイナー。
のっけから厳しいが、「ジャパニーズ・モダン」と呼ばれるものは、広義の「デザイン」であって、厳密な意味でのデザインではない。
広義の「デザイン」は意匠(狭義のデザイン)・素材・加工(技法)から成り立つ。籐や伐根材からなる椅子を見ながら、素材・技法は確かに「和」ながら意匠はあくまでも「洋」。 だから初期作品はホテルや進駐軍住宅向けである。

一般普及するのは、日本人の住宅が畳中心から床中心へと変わる時期。1958年発表のスツールが「アパート生活展(於 銀座松屋)」が何よりもその事情を物語る。ところが廊下を境に左右振り分け部屋、奥隅わずかに畳という洋式住宅になると、今度は「和」の意匠ながら、素材・技法は「洋」。
フローリングでTVを見るときには鉄パイプを曲げて作ったカチャカチャと背もたれが曲がる坐椅子がほしくなる。(ちょっと違うか・・・)

日本のデザインというものは、環境に応じて和や洋に行ったり来たりとして振幅があるのかも。

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演習(17) 月岡芳年

2010-1-20

続いて月岡芳年。
最後に相応しく?妊婦宙づりの血みどろ絵《奥州安達ヶ原ひとつ家の図》。
お、とうとう来たかと息を凝らして発表を聞くも、若干震えのある細書きの線描と淡い色調が強調。
ありゃ?以後、おとなしく拝聴。

月岡芳年の師匠は歌川国芳。芳年の同門には落合芳幾、河鍋暁斎。
師匠である国芳のどっかに「血みどろ絵」があるはずなのだが・・・とまだ「血みどろ絵」にこだわっている脳内。
結論からいえば、「(国芳の浮世絵は)幕末期の不安な世相を反映しました。それを体現したために芳年も病んでしまいました、おわり。」では、絶対許さんという思い。芳年と同時期に活躍した五雲亭(歌川)貞秀の横浜絵や小林清親の「光線画」はどーなる?どうしても師匠の影響と思うのだが。

結論はやっぱり「幕末期の不安な世相を反映」。思惑がちょっとすれ違い、う~ん。
常は意識下にある残虐な人間の性(さが)を絵師は描き出し、人はそれを好むってのはいかがかと。決して時代だけではないはずなのだが。「絵金」とか伊藤晴雨、あるいは西洋絵画でも残酷作品は盛りだくさん・・・。
『和漢百物語 華陽婦人』 が映し出され「あ、サロメ!」と叫んだものの、全員に無視されながら終了。
ヲイ!

何の参考にもならないが演習17回のラインアップ。
(1)山村浩二 (2)横尾忠則 (3)日本の吹奏楽 (4)歌川国芳 (5)樂茶碗
(6)神坂雪佳 (7)佐伯祐三 (8)古賀春江 (9)河鍋暁斎 (10)大友克洋
(11)日本のジャズ黎明 (12)竹久夢二 (13)本阿弥光悦 (14)道成寺縁起絵巻
(15)横山大観(16)剣持勇(17)月岡芳年 その他:上年次生の発表

みなさん、お疲れさまでした。

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ちょっと異変

2010-1-21

秋学期試験期間。普段とは違う間隔でチャイム。今日はこちらの担当科目。
試験教室に入ると、こちらも普段とは違う光景。教壇前には“常連”学生に替わって、「日本美術・・・」「概説東洋美術・・・」などの書籍を積み上げた学生(参照条件:一切許可)が座り、空席も目立つ。

試験開始後、受験者数をカウント。履修者の2割が不受験。おゃ?いつもは履修者マイナス3、4名=受験者なのに。遅れてきた学生が前に座り、いましがた図書館開架閲覧室から借りてきたばかり(と思われる)本を取り出して答案に臨む。
むぅ、その本だけが頼りでは、私も解答できるかどうか不安・・・。
遅れてきたので、後方の学生をみることはできないが、後方学生は本など持参していない。こちらの配布プリントだけをひたすら繰っている。

30分が過ぎ、退室可能時間になると、続々と答案を提出。あそこに座っていたのかと“常連”学生を確認するが、それでも普段の授業でみかける顔ぶれが揃わない。教卓の真ん前に座っていた学生もいないようだ。自主放棄?聴講生?
ともかく試験終了。

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大看板

2010-1-22

所用にて法文坂を登り降りすると、途中にみえる「出口」大看板。奥の立て看板には「阪急 関大前駅へ」。

学内が迷路のようになって学生がはぐれないようにではなく、入学試験終了後の受験生帰路誘導看板である。
試験会場は大雑把にいって正門からそのまま進む会場(教室)と法文坂を上がる会場とに分かれている。つまり「坂の上」と「坂の下」。

試験終了後、受験生はいちどきに帰宅の途につく。放置すると、「関前通り」が受験生であふれ大混雑必至となるので、「坂の上」受験生は、この矢印通りに進んで関大前駅南口(途中エスカレーターも有)に至り、「坂の下」受験生は朝と同じく「関前通り」を経て関大前駅北口へと分散誘導する仕組み。
すぐそばでは上下が合流しないように規制線も張られるが、今生の別れとばかりに「正門(坂の下)で友達が待っているっ!」と、規制線突破する受験生もなかにはいる。

法文坂を上ってたまたま事務の方と挨拶。「(入試)忙しいけど、頑張らんと。」とのお言葉。
昨今の大学事情、あの大看板が要らなくなったらと思うと、ちょっとビビる。

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ミンナデ 弥生博ニ 行キマセウ

2010-1-23

出勤前に大阪府立弥生文化博物館企画展「大阪の二十世紀-古写真・出土品などからみた昔の暮らし-」を見学。

展示構成は5章だてで、うち考古学は〔「土」の中の大阪〕のみで、大半が近・現代の出土品。

閉室となった高石市立図書館郷土資料室や堺市立中央図書館の古写真、絵ハガキ、号外など盛りだくさん。明治維新を大化の改新と見立てた口上の「絵葉書聖徳太子御墓所」や2・26事件や日独戦争の「號外」。「日独戦争」とはちょっと戸惑うが「青島攻略」。
壁面には資生堂やDISCOVER JAPAN、トライスター(飛行機)などのポスターがずらり。明治~昭和の教科書も裏表紙のラクガキ頁を展示。

むぅ、楽しんで展示準備している気分。深読みをすれば、『小学生生徒心得』で示された巻末「睡眠不足の害」(人生の3分の1は睡眠で、不足すると「病む」)は、徹夜続きの展示準備の自虐ネタか、あるいは出版人「前川善兵衛・宗七」が隠れメッセージか。
出土品にしても、目薬瓶の形で時代が分かるとか、米軍機のプロペラ(銘文)から搭乗兵まで分かるという徹底ぶり。最後は万博で〆。万博はもう「昔の暮らし」なのか・・・。
写真帖に付属した液晶ミニモニター(大手スーパーにある)は他館でも普及しそう。

「弥生」の近・現代は面白い。セミナーも行こうと思うが、またもや先約があり、残念。

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自己点検&授業評価

2010-1-24

秋学期1コマを丸ごと日本彫刻史を扱い、受講者は100名を超えた。レポート課題は授業で扱った作品をひとつ取り上げて論述するもの。
以下、受講生が取り上げた仏像ベスト10
    1:東大寺 南大門金剛力士像35枚
    2:新薬師寺 薬師如来坐像10枚
    3:新薬師寺 十二神将像 7枚
    4:浄土寺 阿弥陀三尊像 6枚
    4:法隆寺 金堂釈迦三尊像 6枚
    6:広隆寺 弥勒菩薩半跏像 5枚
    7:平等院鳳凰堂 阿弥陀如来坐像 3枚
    7:興福寺 阿修羅像 3枚
    9:興福寺 法相六祖坐像 2枚
    9:興福寺 竜燈鬼・天燈鬼像 2枚

東大寺南大門金剛力士像、ダントツのトップである。
各時代分け隔てなく話したつもりだが、そのほかの作品を列記すると、バーミヤン大仏、飛鳥大仏、東大寺盧舎那大仏、同執金剛神像、同不空羂索観音像、唐招提寺鑑真和上像、東寺兜跋毘沙門天像、長岳寺阿弥陀三尊像、運慶願経、願成就院阿弥陀三尊像、同毘沙門天像、浄楽寺阿弥陀三尊像、興福寺無著・世親像、六波羅蜜寺地蔵菩薩像、醍醐寺三宝院弥勒菩薩像、遣迎院阿弥陀如来像、六波羅蜜寺空也上人像・・・。

和様彫刻の成立展開は人気?がいまひとつであることが判明。鎌倉時代の作品が多いのは講師の授業に対する意気込みの反映だろうか。遣迎院阿弥陀如来像とか運慶願経はちょっとマニアック。

これから採点。

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地獄坂

2010-1-25

阪急千里山駅から歩いて大学にたどり着く直前、100m足らずの急坂にさしかかる。電動付き自転車も押して登らないといけない。サイドブレーキが弱いと自動車もずるずると後進。さすがにこちらも登りは息も切れ気味(齢ゆえか?)。

本日、入試1週間前となったので、坂の麓に「関前通り」(派出所前~正門)の車両通行規制告知板。関西大学と吹田警察署の連名。
この坂を登ってしまうと、細道、行き止まりが多く、関大前駅周辺に車両で出るのは至難の業である。

毎日、この坂を登り降りしているが、不覚にも名前を知らなかった。なにしろ丘陵地なのでこの程度の坂はあちこちにあり、「地獄坂」も多く点在する。さしずめ「小地獄」といったところ。
「小地獄」を登り切れば、大学。たどり着いたところは「極楽」・・・
であればよいのだが。

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発掘調査

2010-1-26

某市文化財保護審議会。
審議会開催前に某遺跡発掘調査と資料館の見学も。

寒風吹く発掘調査現場で、職員氏から遺構や調査成果の説明を受けていると往時の感覚が甦る。

たった今検出されたばかりの柱址(掘方・柱穴)-やや茶褐色の方形部分が柱を据えるための穴・まんなかの白い部分が柱穴。そこに褐色系の土が混じるのは柱の抜き取り痕か-を見ながら、次の柱址とおぼしき位置を目で追う始末。手前の灰色も遺構(土壙)。

そんな姿を見ていた職員氏から「なつかしい?」と尋ねられ、「もう昔のことは忘れたわ」とうそぶくも未だ体は覚えている・・・。ちなみに遺構検出は業界用語で「ガリをかく(かける)」という。「ガリ」とは「手ガリ」のことで、おじさんが持っている道具。

審議会は珍しくロングラン。なぜか事務局が思うようにはなかなか進行せず、ちょっと不思議・・・

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彫刻史検定(割矧ぎ編)

2010-1-28

某所にて修復中のいくつかの仏像を拝見。

問1 面相が横を向いた前後割矧ぎとする立像。割首ながら、面部材の頬の部分でさらに割り矧いでいる。その理由を説明しなさい。
答案 : 躰部の割矧ぎ線を頭部まで延長すると、頭部の正中線を求めることが出来ない。そのため後頭部の一部をさらに割矧いで、頭部の正中線を確保した・・・。

問2 頭躰主要部を割矧いだ一木造の立像。頭部は耳後で前後に割矧いで割首とし、躰部は正中で左右に割矧いで2材としている。通常ではあり得ない構造だが、もう1回とある箇所を割矧ぐことで実現可能となる。割り矧ぐ箇所と割り矧ぎの順序を説明しなさい。
答案 : ・・・・・・。
説明(解答)を聞き、なるほどと納得。その他銘記なども。あれこれ説明のチャッチボールをしながら課題もたくさん。お伺いしたのも遅かったが、気がつくと既に夜。たいへん遅くまでお邪魔しました・・・。

こんな電車(昔)がよく似合う町でした。

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起立工商会社

2010-1-28

靖国神社にある銅製灯籠。
台座・格狭間には細かに彫られた麒麟、竿の部分は中国青銅器「尊(そん)」にも似た形、火袋には円形色ガラス。笠の稜線には、それぞれ龍がうねり開けた口からはこうもり傘の柄のようなカーブ。竿基部には「警視局」の文字。こてこての銅製灯籠。

警視局の「命」に応じて起立工商会社が製造。鋳工は鈴木嘉幸。明治12年8月に着工し、竣工は明治13年5月。この翌年に警視局は警視庁となる。
「こてこて」デザインは、ナセル・D・ハリリ・コレクションに代表されるようにこの期特有の“輸出用デザイン”と思っていたが、国内向けもあったとは。
「歪なジャポニスム」は「ハイカラ和風」とも見るべきものかと愚考。

大村益次郎銅像や富国徴兵保険相互会社の大灯籠など、靖国神社には明治・近代美術を考える材料がいっぱいあるが、もう少し考える時間がほしいところ。

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六甲

2010-1-26

テンション上がる中、間一髪&おっとり刀で六甲山荘へ駆けつける。3回生六甲合宿に合流。遅れること2時間強。
既に自由時間で今年もまた“大富豪”なり。

管理人氏、昨春に交代の由。東北ご出身でアットホームな雰囲気。例年の如く「すき焼き」・風呂・コンパ。
積雪、ツララもこの時期にして皆無。

他の教員が早々に会場を後にし就寝するも、これからという学生らと共に深夜に及ぶ。
学生と晩酌代わりに酒を適当に飲んで寝るのは容易いが、騒ぎながらも気分はどうか、彼(彼女)は大丈夫かなどと、あれこれ気を遣う。こちらも眠いが、引率教員としての責務もある。万が一のことがあってはならない。緊急事態は日付が変わってから起こる可能性が高い。

気になっていた学生も復帰し(単に眠たかった?)、2時前にようやく“1次会”が終了。会場となった部屋を片付け、2次会も“大富豪”ということで、こちらもようやく就寝。

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木目

2010-1-30

六甲から有馬へ散策しながらの帰途、仕事(書類作成)を思い出し大学に立ち寄る。

書類を作っていると、学生が来室。はい、何か?
他学部の学生で就職報告の由。??

話を聞けば、授業で見せたビデオに興味をもち(会社名が出ていた)、面接でも美術の話題が出て某印刷会社に就職出来たとのこと。もう社会人直前の学生だから、「もちろん、センセの授業は楽しく受けさせて頂きました」とリップサービスも忘れない。この学部からは、銀行員になった学生もかつて挨拶に来ており、なぜわざわざ挨拶に来るのかよくわからないが、まずは祝福。
先週の土曜は、他専修ながら見知った学生が大都市の図書館司書に採用されたと報告。実質倍率70倍という。学部生の時は「本が好きで書店に勤めたい」と就活しながらも採用に至らず、大学院でその名前を見た時は、びっくりしたものだが。

もちろんこちらがアドヴァイスしたことなどまったくないのだが、不思議にも共通した波長がどの学生にも感じられる。木目に逆らって木を割るのは困難である。自らの木目を見出し、木目に沿って自分の力で鉈を振り下ろした結果であると、恐縮。
「どこ(の会社)でもいい」と言う学生が意外に決まらない結果を招くのは、衆目の一致するところ。

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「創られるイメージ」のなかの真実

2010-1-30

終日、雨。寒い1日。

和泉市いずみの国歴史館「描かれた戦争、創られるイメージ」を見学。
日清・日露戦争関係の刷物を中心に140点にも及ぶ出品資料は、大半がコーディネーターと思しき個人蔵資料、残りは地元関係や桃山学院大学から。
明治になって日本はそれまで長く憧憬の対象であった中国(清)を戦争によって決別し、「脱亜入欧」「アジアの一等国」になろうと日露戦争が勃発。両戦争のプロパガンダとしての刷物と地元関連資料による現実を対比する試み。

日清戦争錦絵で、兵士がわらじ姿で戦う指摘はあったが、「従軍特派員」として久保田米僊が描いた『国民新聞』付録「戦場としての平壌」は、戦後の平壌の市井風景ばかりで、久保田は戦場の最前線に行っていない模様。
また日露戦争錦絵「旅順開城・水師営の会見」でも、1905年1月29日発行の「軍使会見之図」では、ステッセルの降伏が強調されるが、翌月、別会社が発行した「敵軍之降伏両雄会見之実況」では、乃木・ステッセルの対等な関係を描写。これは1905年1月5日付の『国民新聞』に両将、相讃え合う記事が掲載され、報道により構図変更したからである。それを「趣きが異なる」とのみ説明するのは、コーディネーター(東洋史研究者)としては、ちょっと情けない。

砲弾の射的場が信太山(現 陸自信太山駐屯地・演習場)から大津川に移動し、大津川から出土した明治の砲弾、日清戦争での清朝軍の軍服、浜寺にあったロシア人俘虜収容所の施設看板や地元の古文書のほうがより説得性をもつ。当たり前といえば当たり前だが。
戦勝杯や立版古、幻燈など、あれもこれもと総花的ながら中途半端かつ消化不良な「個人蔵資料」。
この展示もまた「創られるイメージ」のひとつであろうか。

このところ、意識的ではないが、近代に関わる展示資料を多く見ている。

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