日々雑記


福建省の旅

2010-2-26~3-1

詳細は こちら

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安堵

2010-3-2

朝より教職科目関係の打合せ、会議、卒論優秀者の推薦書など、お仕事盛りだくさん。

会議中、ポケットの携帯電話が震える。末娘からの電話。
失礼と思いつつ、席を外して受け取る。もしもし・・・。

「あ゛のでぇぇ~、い゛ま、ぼろぼろにな゛い゛でんねん・・・。」
受話器からは、あ゛ぁ゛ぁ~と号泣ばかりが聞こえてくる。「泣いてるだけやったらわかれへんやろ、どっちや?」「どーぅ゛った(通った)。」
あ~もう。

公立高校合格の第一報。これで4月から上娘・末娘ともに同じ高校へ通うことに。
早く帰宅して祝言をと思うものの、相変わらずの時間に。

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やむを得ない理由

2010-3-3

今日、明日と後期入試。
朝、JR尼崎での信号故障でダイヤが乱れているとの連絡あり。
こうしたハプニングも織り込み済である。別室で受験することになるので、延着証明をもらっておけば大丈夫なはず。慌てない、諦めないことが肝心。

定期試験も同じ。新型インフルエンザや電車の延着で受験出来なかったとしても診断書・延着証明があれば再試験を受けることが出来る。
もっとも定期試験では、想像上で電車が延着した者(電鉄各社に問い合わせると通常通り運行)や就職のために欠席した者(就職試験ではなく就職説明会に参加)もおり、これらは全てアウト。
事由が「(試験を受けられなかった)やむを得ない理由」にあたるかどうかの判断ぐらいは出来そうなものだが。なにごとも証明書があれば、まずは大丈夫。

ついでに忌引の場合も「会葬の御礼状」あたりが必要かも。ひと頃、市役所などで問題となったが、亡くなったはずの親戚や危篤状態であるはずの保護者が元気よく卒業式にでも現れたら、こちらも驚く・・・。

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玄奘三蔵

2010-3-4

日頃は小さな鞄ひとつ持って旅行に出かけるのだが、中国や韓国だけは一番大きなスーツケースを持っていく。行きは着替え以外、何も入っていないのだが、帰りはずっしりと重い。
それは現地で書籍を買うからである。

中国での夜のお楽しみは、京劇観賞&ディナーでもナイトクルーズでもなく「新華書店」。あれこれ目移りするほどの書籍が並ぶ。
カード払い(銀聯カードでなくてもOK)にして、翌日郵便局に行って船便で送るという強者もいるが、こちらもこの時ばかりは散財。
書籍・図録を担いで関空に立つ姿はまるで「玄奘三蔵」である。

今回は最近できたばかりの「外圓厦門書城」。リュックサックは無料ロッカーに入れて・・・。一番の収穫は長広敏雄『雲岡日記-戦争時期的仏教石窟調査-』。既に1988年にNHKブックスから出版されているが、早くに絶版。翻訳本は46元(約600円)也。
辞書片手に早く読みたいものだが、なかなか・・・。

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島成園

2010-3-6

出勤途上、堺市立文化館に立ち寄る。
ギャラリーで「島成園と堺の日本画家」展が開催中。70点ほどの作品が並ぶ中、《無題》・《鉄漿》・《自画像》を見る。すべて大阪市立美術館蔵。冷たい雨のなか見学者は少ない。
じっくりと拝見。

女性画家が描いた綺麗なだけの「美人画」は面白くもない。男からはうかがい知れない「人間の内面」が見たいと思う。そんな凄味、ある種の不気味さを感じさせる上の作品。

粥川伸二は堺出身ながら、北野恒富(金沢生)、木谷千種(堂島生)、石井柏亭(東京生)、中村貞以(船場生)と、ややタイトルに難。そうせざるを得ない事情もよくわかるのだが、小さく纏めるのも手法のひとつかとも思う。

その後、与謝野晶子・アルフォンス=ミュシャを拝見。文化館開館10周年で後者は、リクエスト展。
“サラ・ベルナール時代”よりも“チェコ時代”の作品に心響くが、リクエストは少数。
苦節ながらポルタスからもう10年も経ったのかと思いつつ、歯がゆい思いも。

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不思議

2010-3-7

一般には、現在の大学教員での職階呼称で戸惑う人も多い。
周囲での職階は、教授-准教授(助教授)-専任講師・助教(専任講師)-(助手)∥非常勤講師である〔カッコ内は旧職階〕。

∥ の右と左との違いは大きい。批判もあるが、私立大学も知的サービス業。授業評価アンケートの低い評価や学生からのクレームがあれば、「解雇」もありえないことではない。おざなりな態度で授業に臨んでもらっても学生の満足度はかなり低め。
(これは左側にも言えることだが)

一般学生に微細な専門内容を語ることで得意になるあまり、自らの主張を語る場が学会発表以外になくなってしまったというのは笑えぬ話。
この職階は仕事の負担率でも、もちろん優劣の差でもない。世間から見れば、博士号のない教授と博士号取得が必須となった准教授、専任講師が同居する世界は不思議だが、今のところ、ゆるやかな年功序列といった感じか。

閑話休題。
東京大学の助教が提出した博士論文の4割が他人の論文からの盗用とわかり博士号剥奪。
不思議だが、審査委員(教授・准教授)は誰も「被盗用論文」を読んでいなかったのだろうか。分野が違うといえばそれまでだが、では提出論文がその分野での「新見解」「新たな地平」であるといったい誰が認めるのだろうか。 論文提出者も「論文博士」(乙)であろうか。そうすると論文末尾には、出典(初出一覧)が付くはずだが、誰も確認しなかったのだろうか。

いくら細分化された“タコツボ”であっても、審査に当れば周辺論文は読むはずなのだが、不思議。

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なにわのことも

2010-3-8

大学で仕事をしていると、某市文化財関係者が来室。
お会いする約束もなかったはずと思いつつお仕事の話。話の途中で「いやぁ、今日「なにわ」の最後の合同例会で・・・」と仰られ、あらっ!と驚く。私も参加予定。

すっかり失念しており、ジーンズにセーターという超ラフな格好。「ハセさんも行きますやろ」と関係者からも念押し・・・。むーん。

用意を整え取り急ぎ駆け付ける。通常、こういう会合は下手から席が埋まる。空席は上手のみ。
まずは自己紹介せぃということで、道明寺天満宮やグラーツ、杭全神社などの思い出をごくごく短く。
学生もそうだが、最初の自己紹介で全てが決まる。かつての2回生ガイダンスでは、全員が「うどんが好きか、そばが好きか」という自己紹介?もあった・・・。

後に続かれた研究員の先生がたもそれぞれの思いを語られながら自己紹介。司会から冒頭であるこちらにちょっと苦言されたが、いいんでないの、最後だし、と思う。椅子を温めてひと言も発言せずに有難く業務報告を拝聴する場でもあるまいに。

打合せもあって懇親会にも顔を出す。残る業務もあるが、これにてひとまず終了。
しばらくすれば、「なにわのことも夢のまた夢」である。

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教務センター

2010-3-9

終日雨天の寒い1日。
年度末最後の会議。定規持って卒業査定を確認した後は、はや4月からのスタンバイ。
各種予定表や名簿も頂く。

このところ、夜の10時半を過ぎても教務センター&研究支援課には、煌々と明かりが灯っている。我々に配布される資料や学生の成績をはじめ、ありとあらゆる事項の窓口が教務センターである。卒業や進級などもまじかに迫り、常にも増して極めて多忙な毎日。
今年の卒業式から、“記念品”として(←というと笑われたが)、成績証明書1通が配布される。これも式当日の混雑を緩和するため。もちろん、緩和された時間は暇ではなく別の仕事が待っている。

明後日からは4回生に対する試験成績の不服申立て期間も。あくまでも「後期試験の成績に対する疑義」である。「就職、決まってますんで」などと、埒外なこと言って多忙に拍車をかけるような学生が現れないことを切に願う。
これは教員にもいえることだが・・・。(それはアンタ!)

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社会見学

2010-3-10

朝から会議(代理出席)。
いつもは文学部系の会議が多く、(最近は)緊張することもなくなったが、今日は大学執行部の会議。議長は副学長、場所は理事会議室で、巨大な楕円形会議卓には個々の据付マイクと名札。椅子もややふかふか。場の雰囲気に圧倒されるものの、ほとんど小学生の社会見学状態。おもわずマイクのボタンを押しそうになる・・・。(ヲイ!)

見知った顔ぶれの先生方もおられるが、この雰囲気では気軽に声もかけづらい。配布レジュメにも「学習ポートフォリオ」や「キックアウト」などの用語集が付く重要な会議だが、代理出席なので有難くご提案、ご意見を拝聴。
隣席の先生が発言。そうか、ここを押すと、マイクのあの部分が光って発言者が誰であるかがわかる仕組みになっているのか・・・。(触るなって!)

終了後、隣接の建物へ。この建物には、いくつかの部署があり「受付」もある。ここに御用のある時、決まって部署の場所が分からず、受付にその場所を尋ねるのだが、必ず「どちら様でしょうか?」と問われる。怪しい者では決してないが、受付横には大きなレリーフがかかっておりそれが気になる。敢えて、受付真横でカメラを取り出して不審感を増幅させる勇気はこれまでなかったが、今日、玄関から覗くと、珍しく受付が席を外していたので、すばやく建物に入って撮影。(十分怪しい)


関西大学創設関係者のレリーフで、創立80周年事業のひとつとして昭和40年に作られたもの。作者を確認するまでには至らず残念。

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踏絵

2010-3-11

お仕事絡みで、鎌倉時代(建長6年・1254)の “虚々実々説話集”である『古今著聞集』を読む。当該記事はすぐに確認できたが、相変わらずの寄り道も。

建久元年(1190)10月19日、再建あいなった東大寺大仏殿上棟。当日は九条兼実と後白河法皇が参加したが、源頼朝はこの時はまだ上洛していない。(初上洛は11月17日。19日には後白河法皇と対面)。

『古今著聞集』では、東大寺大仏殿上棟に参加した源頼朝と後白河法皇とが法要後に雑談。
法皇曰く、秘蔵している「宝殿の御絵」-関東では見ることが出来ない屏風絵や絵巻物の数々-をちょっと、見せてあげましょう とお誘い。
しかし、「門外不出とされた秘宝の数々、私ごときがどうして拝見できますでしょうか。誠に畏れ多いことで、失礼いたします」と固辞する頼朝。あっけにとられる後白河法皇。

上洛の長旅に疲れた頼朝への慰労とも、ある意味、両者の美意識の相違を示すものとも思えるが、ちょっと意地悪く読むと、 「そちには、都(みやこ)の絵画が理解できるほどの美的教養をお持ちか?この成り上がりの田舎侍が。」とも読み取れる。赤穂浪士の吉良上野介のように・・・。
あるいは、これを見たらこれからは法皇に逆らうことはできない。後々になって「あの時、秘蔵の絵巻を見せたやないか。もう親子同然の杯を交わしたも同然やで・・・」と言われるかもしれない。

武士の魂でもある刀剣や禅宗系の絵画が「美術品」となるには、いましばらくの時間を必要とした。
絵画が権威を示す財であり、教養を計る物差しであった時代でもある。都の人からみれば、慶派の仏像も野暮なものにみえたのだろうか。奈良・興福寺南円堂諸像制作に対する九条兼実の執拗な「いちゃもん」もなんとなく分からないではない・・・。

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みずもの

2010-3-12

朝より展示準備のため杭全神社へ。

今回もリサーチアシスタント(RA)が主担である。以前、展示に携わる職に就いていたとはいえ、でしゃばってはいけないと思い、最初は色々と気付かないところで作業していたが、次第に資料に触れ、最後は見事に仕切ってしまう。
猛反省。

展示は“みずもの”。いくら図面の上で資料をこう並べるべきだと思っても実際に資料を展示してみないことには判らないことも多い。そこを如何に現場合わせできるかが、展示の要である。
学生の博物館実習展では、並べてみて何かがおかしいということに気付いていても、展示することに集中し過ぎて、当初の展示プランから外れることに強い躊躇を示す。実は、そうした展示の不自然さ(違和感)は、真っ先に来場される方が感じるものである。

木戸銭をとろうがとるまいが、他人様に資料を見せることは、そうした不自然さをひとつでも解消することである。今もなお、この定型なき展示作業(現場)に無上の楽しみを感じる。幸い、近所に“百均ショップ”があり、足らずの小物はそこで賄え、夕刻のVIP内覧にも何とか間に合った。

展示終了後、曽根崎新地で4月からイギリスへ在外研究へ行かれる先生の壮行会。こちらもお相伴にあずかる。

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含翠堂

2010-3-13

再び杭全神社。
現在、本殿(重要文化財)の屋根葺き替え工事が進められており、特別出展として、各本殿の狛犬計3対も展示。寄木造や一木造の“大型犬”もあって展示に手間取り、開始直前までセッテイング。

展示が始まってしまうと、後は“なにわの若い衆たち”に委ね、平野を散策。神社を抜け国道沿いには、「摂津名所図会」挿図を配した立派な「含翠堂跡」碑がたつが、本来の位置はひとつ奥の民家角。

含翠堂(がんすいどう)は、享保2年(1717)に土橋友直を中心に平野七名家らが創設、運営した郷学(私塾)。井上赤水邸宅を校舎とし、三宅石庵が「含翠堂」と命名。非常勤講師は三宅石庵のほか伊藤東涯や藤澤南岳ら。経書講読・国学・医学・算学等を教授したが、諸派学説の違いにこだわらず、広く知識を教授。このあたりは近世大坂画壇の流派に拘らない姿勢とも一致。 さらに飢饉に備えた積み立て基金があり、救済活動(施米)も行った。含翠堂旧蔵書の一部は今回の展示品にもあり、どの書籍にも朱や墨による書込みが散見できる。

4時過ぎ終了。地元の方々を中心に多数の観覧者があった由。全ての資料を撤収・収納し、会場を再び元の状態にもどして解散。

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関西大学と電車

2010-3-15

日頃お世話になっている阪急電車が100周年。
昨日から南茨木-正雀の間に摂津市駅も出来てダイヤも改正。新たに「快速」なるものも登場。

関西大学は、何かと鉄道と関わりがある大学。
願宗寺(西区京町)、興正寺(北区河内町)での”お寺時代”を経て明治36(1903)年に西区江戸堀に独自の校舎を設立。3年後には大阪市電の敷設による立ち退きに遭い北区上福島に新学舎。(建設中は天王寺美術館を間借り)

しかし校舎の傍を東海道線(JR神戸線)が通るやかましい環境であったため、大正8年には現在の豊津駅付近に1万坪の土地を購入。その後阪急の要望で、今の第1学舎付近の土地1万5千坪と交換し、校舎建設。(豊津まで電車が通るのはその2年後で何らかのご相談もありかと?)
その後、福島校舎も東海道線の拡幅・高架により収用され、東淀川区長柄中(天六)の土地を購入。以後、長く千里山と天六の時代へ。ちなみに昭和38年の名神高速道路建設でも千里山校地が分断。普段あまり気付かないが、トンネル〈千里山トンネル〉の上に敷地がある。

4月からは、新たに「堺校」と「高槻駅前校」もオープン。どちらも駅前ながら「高槻校」はすでにある。これから諸々の会議で「高槻駅前」とよばれるのだろうか。

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ファンタジック

2010-3-16

朝、新型インフルエンザで延期になっていた修学旅行(ソウル)のため、上娘を関西空港まで送る。旅程も1日短縮の由。新型インフルエンザも既に終息。今やマスク姿はもっぱら花粉症対策。

某市文化財審議委員会に向かう途中、古墳群を見学。こういうものが崖面に散在。いわゆる横穴墓。

明治時代、東京大学で人類学教室を開いた坪井正五郎は、関東にある横穴墓を発掘調査し、これをアイヌ以前の先住民であるコロボックルの棲家と結論づけた。今日では一笑に付されるかもしれないが、立派な入口や排水溝まであると、間違うのも無理はないかと同情。
なにより東大の先生が横穴を研究してファンタジックな推測(ご当人は大まじめだが)をしていたことに好感。

審議会委員会では、古墳や寺院址、民俗資料や近代遺産までバラエティ。なかなかファンタジックには考えられない現実。

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困惑

2010-3-18

11時より新2回生ガイダンス。履修ガイダンスと自己紹介。
すでに教務センターから頂いた名簿も見たが(忘れた)、学生が先に気づいた。
「男ってボクだけ?」
「まぁ、ワシらもおるし・・・」と慰め?にもならない言葉をかける。

男子が少ないのは伝統ともいえる。以前は3専修1学科なのでそれほど目立つことはなかったが、それでも芸術学・美術史だけになると男子学生は少ない。私の時も他に何名かの男子学生もいたにはいたが、あまり大学に来ない者が多く実質的に私だけの時が、かなり多かった。

そういう状況を見ていると、「この学年はワシが引っ張ったる!」と、まずは背筋が伸びてしっかり者になってくる。逆にあまりに優柔不断な態度だと、女性陣から容赦なく侮蔑の目線が飛ぶ。
我々もすぐに名前も覚えたし、早くしっかりすれば就職も有利・・・、といいことが多いはずなのだが、ご当人はちょっと困惑気味。

団結、ガンバロー!

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常行堂

2010-3-17

宝冠を頂き、ずぼっとサイズ間違いの大き目のタートルネックのセーターを着て、膝前で定印を結ぶ阿弥陀如来像は常行堂の本尊である。
常行堂(常行三昧堂)では念仏を唱えながらぐるぐると90日間にわたってこの阿弥陀様の周囲を回る。天台宗に特有の行。

さて大和国では、近世まで興福寺の勢力が強く天台宗寺院は少ない。しかし興福寺と同じく藤原氏との縁がありながら興福寺相手に、平安時代以来長年のバトルを繰り広げた天台宗寺院がある。紅葉の名所でもある多武峯寺、現在の談山神社である。常行堂は現権殿。
国家に異変があるとき、裏山の藤原鎌足廟(御破裂山)が鳴動し、また聖霊院(現本殿)の鎌足像が破裂するという。

図書館で面白がって調べて部屋に戻ると、「何処行ってはりましたか、色々と探しましたんやで」との電話。用件を聞きながら「やっぱり、鎌足像が破裂する時、どーっかん!ではなく、メキッメキッ!って感じですかね?」と訳わかんないことを口走ってしまう。

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前日

2010-3-19

午前中、大学にて会議。

明日は卒業式である。既に大看板も掲げられ、体育館に至る通りの左右にもガムテープで「ホーケン」「チャリ部」などのマーキング。
掲示板にも卒業式のイッキ飲みは御法度の高札。

学部が増えたため、今年からは午前と午後の2部構成。保護者の方は隣接の東体育館でライブ中継。文学部は女性が多いため、午後の部。
これまで早朝から髪結いやら着付けやらがあって式に臨み、終わってからもレンタルの返却もあって、晴れて卒業証書が授与される頃には「もう、お腹ペコペコ~」という女子学生も多かった。
某専修では早くも本日卒業パーティー。

余裕が出来たとはいえ、毎度の「若手 印象に残るスピーチ」が長引くと、日が暮れるかもしれない。すでに何人かの先生は“ネタ”も出来あがったとの由。
こちらもそろそろ“ネタ”仕込みに取り掛かるも、新2回生が履修相談に来室。某先生からの電話も入り、最後までお仕事。

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卒業式

2010-3-20

午後より卒業式。
卒業証書授与式会場に事務方と配布物と卒論を机に並べてスタンバイ。卒業証書ホルダーの金文字は現学長の揮毫。定刻に卒業証書入りの持箱を取りに行く。

授与分担は例年通りながら、成績優秀者・卒論優秀者はせっかくだから文学部長ということに。卒業式で各学部長は房つき角帽?とガウンを羽織る“コスプレ”で登場。(ゼミ生談)
卒業式終了後、授与式会場に三々五々学生が集結。事務方より伝令あり。センセの学生が卒業式で気分が悪くなったため休養し、遅れて授与式に来る由。えっ!と驚くも、「たぶん帯の締めすぎ?」というジェスチャー。

比較宗教学専修の卒業者氏名を読み上げた後、いよいよこちら。一番最初の授与者には全文を読み上げ、後は「卒業証書・学位記、○○○○、以下同文。」と。渡す際に「おめでとう」のひと言も添えて芸術学美術史専修全員に証書を手渡す。件の学生にも無事に授与。

その後は教員からの祝辞。授与式開始が15:40頃なので17時を過ぎる頃から袴などのレンタル返却やサークルの追コンなどで学生がちらほら退出。
今年の辛口祝辞は、失敗や間違いには、まず「すみませんでした」というひと言が大切と。時の流れが自然に解消してくれるわけでも、そのうち相手も忘れてくれる・・・ワケはないと力説。

終了後、欠席者の証書等を返却し、合同研究室に戻る頃には既に日没。
(追記)卒業生(ゼミ生)のMさんより写真提供。多謝。かなり緊張している模様。

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卒業パーティー

2010-3-21

午後、大阪歴史博物館を見学後(下記に別稿)、梅田のリッツ・カールトンで卒業パーティー。

歓談しながら写真を撮ったり、時には被写体も。
カメラ撮影をお願いすると「ハイ、チーズ!」と言うのが普通。
ところが、よほど昨日のこちらのスピーチが気に入ったのか、どこで増幅されたのかは知らないが、「ハイ!優・良・可・不可・××」と。教員への花束贈呈の御礼でも「2チャンや関大ナビ掲示板で、このフレーズを晒さないで下さい」と懇願。

掛値なしでこの学年 も 優秀であった。就活で多忙なはずなのに何事もなかったかのようにほぼ皆勤。休んでも(卒演の)遅れを取り戻そうと、よく原稿を書き、こちらが付いていけないこともあった。楽しいことも多く元気のよい学生であった。
2次会も無事終了し帰宅の途へ。

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筆飛将軍

2010-3-21

卒業パーティー前に大阪歴史博物館「特集展示 筆飛将軍 林門(門+良)苑―異色の唐絵師―」を見学。

「りん・りょうえん」と読む。20余点の展示ながら、初の林門苑展。
じっくりと拝見。常設展でも林門苑の作品を岡熊岳(おか・ゆうがく)が模写した《唐人物図》が展示。
殆どが初めて見る作品で、鞠が顔面を直撃する《蹴鞠図》や天神祭の神輿を橋のたもとから見下ろす人々を描いた《神輿図》は、遊びに耽る人や無遠慮な人への皮肉が込められており、生真面目な性格を物語る。朝、起きてすぐの“すっぴん顔”の唐美人を描いた《睡起未顔粧図》なども秀逸。

『書画珍本雑誌』(大正13年7月15日)には、林門苑「竹鶴」に関して
大阪人。元明ノ画法ヲ究メ 一家ヲナス 其ノ一生ヲ殆ド研鑽ノ為メニ費シ 支那ノ風物ニ接セントシテ渡航ヲ願出スレドモ 官コレヲ許サズ 遂ニ憤死ス 天明年中とある。真偽は不明。

参考展示として「番付」も。番付は刊行されるので、「なぜ彼より画料が低いのか!」と揉める原因にもなる。春泉居編『南宗書画品価録』(慶応2年・1866)では、筆頭は蕪村の金6両(絵)。林門苑は金2分で墨江武禅、三熊花顛と同じ。不思議にも同書では若冲 金1分、土方稲嶺 金3朱。

何人かの方から問合せがあったが、10年程前に林門苑の論文を発表している。編集者の怠慢からか、この報告書は執筆者すら配布されず、誰が何を書いているのすらわからないシロモノであった(後に関大の図書館に1冊あることが判明)。
誤解もあるが専門外ということで。

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年度末大掃除

2010-3-22

大学へ。
空調の業者さんと挨拶。「休みなのにお仕事ですか?」と問うと「年度末やからねぇ」。

大学も年度末である。今週あたりから在外研究のために出国する先生も多い。366日間在外にて研究に専念、この期間は重大緊急時(親の死亡等)以外は帰国厳禁(帰国後にパスポート・チェック)というものながら、異邦の地で研究に専念できるのは、ちょっと憧れ。
わが身はもとより学内状況ならぬ家庭状況を考えると、1年間、海外での研究生活はとてもとても・・・・。

成績発表も済んで保管していた答案用紙やレポート、不要となった会議資料をシュレッダーにかけ、散乱していた図書も整理整頓。要らないチラシ等もゴミ箱へ。
ようやくのこと、 お休み 研究準備モードに。

既に研究棟の桜も咲きほころぶ。
たまたま出勤されていたM先生の研究室にお邪魔してほぼ満開となった桜を眺めさせていただく。法文坂の桜は新入生を迎える頃。桜の種類も違うのだろうか。

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モダン寺

2010-3-23

午後、野暮用にて神戸へ。
窓からはポートタワーやビルに混じってミニ・アンコールワット様の尖塔。なに、あれは?と同席した人に尋ねると、「モダン寺」とのこと。
正確には浄土真宗本願寺神戸別院。昭和5年より長年親しまれた建物は平成7年に建替え。かつてのイメージはファサードや塔屋などに残っている。自動車で来たので判らなかった・・・。

浄土真宗(本願寺派)の建築は重厚な伝統建築のほかに東京・築地本願寺を筆頭にアジアン・テイストな建築が多い。
1917(大正6)年に木造本堂が焼失、その後鉄筋寺院での復興が進められたとされる。築地本願寺(1931年)や西本願寺上海別院(1931年)よりも早い時。既に光瑞は探検隊への資金投入による大谷家の破産や教団運営資金流用による“疑獄事件”により法主を辞任し中国・大連に隠退、尊由も連座によって第一線から退いている。

浄土真宗の基本は「聞法」(もんぼう)にある。各地の真宗寺院が「道場」「集会所」から展開しており、他の宗派が「定期コンサート」とすればいわば「ライブ」である。
既に「学びの扉」テキストでもお馴染みなように、神戸には関帝廟やシナゴーグ(ユダヤ教・教会)、ジャイナ教寺院、イスラーム教のモスクなどがあり、宗教施設もエキゾチック。そうした環境のなかでの復興は「仏教ライブ」も目立たないといけないと思ったのだろうか。

夕刻、ライトアップされた正面をみながら、何事も“最初のつかみ”が大切であると実感。

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職人泣かせ

2010-3-24

某所某寺天神坐像(像高1尺5寸ほど)の畳座裏面墨書銘。
寛政十二申年再興仕る也
此天神さまとびんるさまと
びんづるそん也
 両方ニ而金弐分御座候 甚そんが
参り候
大きになん儀仕事なり
神田□熊大仏師勇慶
こんな仕事ハそんなるものか 其の
時ハあきらめて
南無阿弥陀仏
南無天満宮と
いふへし
       『藤岡市史 別巻』
金2分なら、大体5万円ほどか。仏像修理を終え畳座もきれいになって、やれやれと思ったところに修理代金の提示。「勇慶」もちょっと真っ青な金額。なんで「注文書」を出さなかったのかと悔むやら、呆れるやら。
きっと誰も見ることはあるまいと思って書きつけた嘆息まじりの愚痴。
業界関係者は見逃さない・・・。

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ひとやすみ

2010-3-25

終日、教務関係から学生相談まで色々と。
「目立ちたい者の集まり」とまで罵倒された専修代表者会議もオブザーバー時代を含め通算5年。
哲倫・宗教の専修代表をはじめ教務・オフィスともどもお世話になりつつ、ありとあらゆる事項の窓口となってきたが、4月からちょっとひと休み(国内研究員)。

ちなみに恒例の3専修合同新2回生合宿は、明日香村で5月15日・16日に開催。

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塩小路櫛笥

2010-3-26

通勤途上、よく立寄る古本屋さんに『鎌倉遺文』の端本。端本ながら美装。
函から出して表紙を開けると、中に挟んであった「月報」がパラリと床に落ちる。あっ・・・と拾い上げて合わせていると、月報掲載の小論文タイトルにおもわず瞠目。
 戸田芳実「仏師弁忠と塩小路櫛笥の地」(『鎌倉遺文 古文書編6』月報6)

 ・ 文治3年(1187)10月13日 源氏女私領譲状(東寺百合文書 り)
京都・蓮華王院仏像修理で、「成功(じょうごう)」が行われ、「兵衛尉」の任料である左京八条一坊(塩小路櫛笥)の土地が直接、修理料として仏師弁忠に渡された。
*「成功(じょうごう)」とは、官の事業に対して私財(任料)調達の方法。見返りは官位である。

 ・ 建久2年(1191)7月20日 僧弁忠戸主売券(東寺百合文書 り)
弁忠は仏像20体の修理(「御仏中破弐拾体御修理」)が終り、塩小路櫛笥の土地を鴨部兼貞なる者に「上品八丈絹」35疋、銭1貫200文で売却。

戸田氏は、「分業組織の一端を担当する小親方的な中下級仏師」である弁忠が蓮華王院の修理料を直接、絹・銭で受領することができたにも関わらず、塩小路櫛笥の土地に固執したのは、そこが、七条大宮仏所(院派仏師)に近い「一等地」で、そこを確保し住屋・工房を設けようとしたようしたからであると説明する。

後者売券の末尾には弁忠による「但御仏料少モ未下不致状如件」の言。つまり諸経費完済のため、土地は転売されたことがわかる。荒っぽくみれば、土地を「担保」に事業展開、この修理事業がうまくいけば、グループ本社そばに新社屋、ところが・・・。
何時の世も中小企業の悲哀は同じなのかと同情を禁じえない。弁忠の頃に“土地バブル”があればと思ったり。「塩小路通櫛笥小路」は、今の梅小路公園の芝生広場あたり。

もちろん月報は「端本」付きで購入。3000円也。

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寺御幸

2010-3-27

好天ながら日中も気温が上がらず、花冷えの1日。
終日大学。

京都市街にかなり不慣れな人が道を尋ねると露骨に怪訝な表情。阪急河原町駅あたりに立って「河原町ってこのあたりですか?」と聞こうものなら「どこの河原町?」と返ってくる。間違っても「京都の河原町。」と答えるとボコボコにされるかもしれない。電車の行先は「京都河原町」ながら「四条(の)河原町」である。
根っからの関西人なのでこのくらいは知っている。

ところが、「上ル」「東入(ル)」が入ってくると未だによくわからない。頭の中で「丸竹夷二押御池・・・」と呪文を唱えるも、求める通りは南北方向。「寺御幸」の唄もあまり聞いたことはない。
「上ル」「下ル」は南北方向の移動ながらも基点が違うと、まったく別表記になる。更にこの下になんとか町(写真では「中御霊図子町」)と付くと完全にお手上げ状態。
「六角大宮下ル」も「大宮蛸薬師上ル」も実はほぼ同じ位置なんか、よそ者にわかるわけないやん!と思いつつ、机の下に大きな京都古地図を敷いている。

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不在地主

2010-3-28

以前は同じ町内にいた地主が引っ越したため、クルマで15分ほどの所に駐車場代を支払いに行く。さすがの田舎でも田圃のあぜ道に駐車するわけにはいかない(駐車している車もあるが)。
昔でいうところの「不在地主」。

絵所預である土佐派は戦国時代、和泉国上神谷(にわだに)に領地を持っていた。土佐光吉や光則が堺で活躍したのもこの領地の関係から。光起も堺生まれ。
狩野探幽も河内国(現 東大阪市客坊町)に200石の知行地を拝領している。残念ながら、いずれの領地内にも作品・文献とも僅少。土佐派・狩野派ともども地元にとっては「不在地主」というべきか。思えば、幕府の大工頭中井家領地での収支報告書の論文も見た記憶が。
ここで大胆な予想。
ごじゃごじゃと調べると、やっぱり・・・。

   田中村 七条左京知行 7石3升7合9勺 (享保14年「山城国高八郡村名帳」)
『京都市の地名』(平凡社) これではちょっと、資産運用にはほど遠い・・・。

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要らない

2010-3-29

突然ながら問題。
左の写真は明智光秀が造営した福知山城大天守閣の石垣。この写真では、いったいいくつの五輪塔や墓碑の石材が転用されているでしょうか?(回答はオンマウス)

今、話題の島田裕巳『葬式は、要らない 』(幻冬舎新書)を読みながら、こんなことを考えている。
同書で指摘されるまでもなく、確かに葬儀に掛かる費用は高額。それじゃ、三途の川を渡る“道路”も“無料化”でいいのだろうかと思ったり。
お彼岸で参る墓もなく、生命のバトン交代もごく当たり前。死への畏敬もあったものではない。きっとお墓も要らないということで、土地不足の日本、墓地もマンションになって、墓石もこのように・・・。

このような状況は、戦国時代(織豊期)の都市遺跡を発掘調査すると、必ず出くわす。坪庭の敷石に使われる板碑、小さい子供が用を足しそうな小溝の側石に一石五輪塔が積まれる、どれもが本来の役目からは20年ほどしか経っていない。再びこうした世界にもどろうとしているのだろうか。

宗教が、その誕生から終始、現世と来世とが一衣帯水であると説いてきたことを忘れた著書(著者)のようである。

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(株)東洋土地

2010-3-30~4-1

遅くなったが、春休み家族旅行へ。
末娘の希望も踏まえ、女性陣の衆議一決で、千葉県浦安市の(株)東洋土地 敷地。
彼女たちはほぼ毎年のことながら、こちらは10数年ぶり。
3日間、しっかり“お父さん”していました。

ヤン・ファン・アイク《アルノルフィニ夫妻の肖像》
サンダルと子犬はなし
    フラゴナール《ぶらんこ》
 
  ゴッホ《芸術家としての自画像》  ゴッホ《自画像》(逆バージョン)

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