日々雑記


南都の仏師

2010-4-2

「だんはん[(旦(那)はん]」「ごりょんさん」「こいさん」「いとはん」を機軸に「番頭」「丁稚」と徒弟制が広がるかつての船場。

今では「店棚」が会社となり、「だんはん」は社長、丁稚は社員や従業員、社長の家族のことは噂には知りえても口外厳禁。もはや上方落語でしか知りえない世界。船場の「だんはん」が自らを「大坂の商人(あきんど)」とは、絶対に言わない。
「大阪(大坂)の」と付けることで、上方落語から吉本新喜劇風の「儲かりまっか」「ぼちぼちでんな」という「がめつい」イメージのみが増幅。得たものもあるが、失ったものも大きい。呼称(言葉)の変化は置かれた環境変化に対応したものかと思う。

運慶の父康慶の師匠である康朝。その息子は「南京大仏師」成朝である。
南京とはもちろん「南都」のこと。仁治3年(1242)兵庫・石龕寺金剛力士像を制作した肥後別当定慶は「大仏師南方派肥後法橋」。浄瑠璃寺・馬頭観音像には「南都巧匠良賢」、奈良・長弓寺地蔵菩薩像には「南都大仏師康俊」、子息の康成も然り。
鎌倉時代後半以降、「南都」と肩書する仏師が増えるが、当時の南都でどんな環境の変化があったのかと、つい考えてしまう。

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金箔瓦

2010-4-3

大学。今日は新入生ガイダンスのようで、サークルなどの勧誘も。法文坂の桜も満開。先生がたとも久しぶりにお会いする。

閑話休題。
大坂城や伏見城などあちこちの遺跡から金箔瓦が出土している。これまで漠然と別注品の「金箔瓦」があると思っていたが、ごく普通の瓦に金箔を貼ったものであると理解。

天神さま御門〔京都・北野天満宮東門〕のかわら(瓦)ニ今日はく(箔)おき申候、
『北野社家日記』天正18年9月朔日条

既に6月5日には東門は上棟。足場を掛けて瓦に金箔を貼っていたのだろう。3年前には境内で「北野大茶湯」が開かれ、すぐ南側にはこれも金箔瓦を使った聚楽第。見方を違えると許されたのは「金箔瓦を使用する」ことではなく「瓦に金箔を貼ること」であったとも読み取れる。現在の東門(慶長12年・重要文化財)は銅板葺き。

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桜と桃

2010-4-4

奈良県立図書情報館へ。
情報館の前を流れる佐保川に沿う桜並木も満開。堤でお弁当を広げる家族連れの姿も。図書情報館もこの時ばかりは駐車場兼トイレ、休憩所となって、明日月曜日も開館(ただし図書館は休み)。

幾つかの文献を閲覧、コピー。
どの業界でも同じ状況だが、全国すべての調査報告書や刊行物が1ヶ所に集積されているような施設は、存在しない。国立国会図書館への納本制度もあるが、網羅されていない。
従って博物館や美術館と同じように都道府県レベルの図書館を個別に訪れることになる。時には予想もしなかった“掘り出し物”の発見も。

そんな話を学生にすると、「なんか阪急百貨店の○○寺バイヤーみたいっすね」と。まぁ、当らずとも遠からずというところか。
(注)阪急電車に馴染みのない方へ。阪急電車には時々、阪急百貨店での彼の名を冠した物産展の吊り広告が登場する。

“今日の仕入れ”を済ませて帰宅途上みた「包近」の桃畑も満開。日曜日なのでイーゼルを立てる姿も。桜と桃を愛でた後、自宅で“仕込み”作業。

“熟成”まではまだまだ遠い・・・。

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職務専念

2010-4-5

学生よりメール。
「センセ、何時(個人研究室へ)行っても、いてはりませんが・・・。」
あれっ?と思うも、よく考えると新3回生(文08)には連絡していなかった・・・。

今年度の「職務」は、「研究」(もちろん成果も大きく問われる)。
担当授業も6月のリレー講義1回のみ。これとても「職務専念 義務違反 免除」の上申書を提出。
今年度ばかりは授業抜きの研究が本職ということで・・・。
ちょっとしたトラブルに加えて「面倒だけど、諸々の事項も(上申書を)出しておいたら」とアドバイスを頂き、職務免除(願出)事項を列記。

さて給与も減額となって、これから毎日どう過ごそうか・・・と定年退職後のような落ち着いた状況ではなく、あれこれと中断放置した仕事が目いっぱい控えている。某先生からは、「この期間に論文を書いてストック増やしておかないと後々がたいへん。」とまで脅される始末。

以前、学内のとある方から「センセ、(大学)辞めはるんですか!」と真顔で聞かれたことを思い出すと、こうした学生相談も命綱にみえる。「これからはほとんど毎日在室していますので」と返信。
ありがたい限り。

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平安時代のRPG

2010-4-6

奈良国立博物館では「大遣唐使」展が開催中。《吉備大臣入唐絵巻》が久しぶりの里帰り。

《吉備大臣入唐絵巻》は、24m52cmにも及ぶ絵巻。学生向けに言えば、鳥獣戯画甲巻が11.5mなので、AV-B教室1往復以上。実務者レベルでいうと、えぇっ 25mも~、果てしなく巻いていくのか。雪舟《山水長巻》でも16m弱なのに・・・と。
しかも巨大太巻で重い・・・。

初めて里帰りは、1964年東京国立博物館で開かれた東京五輪記念の「オリンピック東京大会日本古美術展」。同絵巻がボストン美術館以外で展示されたのもこの時が初めて。
その折、現状の4巻に分割(間違っても「絵巻切断」とはいわない)。
直近での里帰りは1983年春、東博・京博での「同館所蔵日本絵画名品展」。この時は見ているはずだが、何もかもすっかり忘却の彼方。

予習かたがた、改めて図版(日本絵巻大成)を広げつつ、黒田日出男『吉備大臣入唐絵巻の謎 』を読む。
Stage1:文選 Stage2:囲碁、アイテム(?)は鬼(阿倍仲麻呂)とすれば、初年度授業にも使えるかもと思ったり。 もっとも、吉備大臣入唐絵巻にはファイナルステージの「野馬台詩」やラスボスの皇帝、隠れアイテムの蜘蛛や双六筒はないのだが。錯簡は“バグ”といったところ。

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日本最古のLOUIS VUITTON

2010-4-7

終日大学。
関西大学博物館で「はくぶつかんの海外資料~モノでめぐる世界旅行」展を見学。昆虫のフンコロガシ(スカラベ)の形をしたエジプトの古印からニューギニアの仮面、紫禁城の屋根瓦、ドイツ軍の兜(ピッケルハウベ)まで、ほぼ全世界からの資料が展示。さしずめ「関大版みんぱく」である。

本山コレクションはもとより寄贈や探検隊・山岳部との共同調査での成果など、収蔵経緯もさまざま。「考古資料に混じってこんなたくさんのモノが・・・」とは学芸員氏の弁。

違う意味で興味をひいたのが、“日本現存最古のルイ・ヴィトン”。

展示されているトランクは、関西法律学校初代校長の小倉久が、駅逓官として1884年にリスボンの万国郵便会議に出席の折にルイ・ヴィトン本社にて購入。「顧客名簿」によれば、1872年(明治5年)の製造で、明治17年(1884)9月2日に購入。価格は1800フラン。日本人で初めてルイ・ヴィトンを購入したのは1883年1月、後藤象二郎らしいが、トランク(現物)は既に失われた模様。日本に現存する最古のルイ・ヴィトンのトランクである。

調査のために、ルイ・ヴィトン本社に問い合わせると、「修理しましょうか?」との由。いやいや・・・。正規品は「永久保証」(有料かも)である。既に当時からイミテーションも出回っていたらしい。
小さなルイ・ヴィトンのトランク持って商売を始め、(商売が)大きくなるごとにルイ・ヴィトンのトランクも大きくなる・・・。夢のある話ではないかと思う。

ちなみにGUCCIは馬具メーカー。広いヨーロッパでお商売するには馬も必要。

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総合図書館

2010-4-9

ちらほらと知人の人事異動も仄聞するところ。
最初は戸惑いもあるが次第に慣れていくものである・・・。

総合図書館でもちょっと変化。
3月にゲートがこれまでのスライド式からPiTaPa(Suica・ICOCA)式に変更。校友(卒業生)利用券もICカードになるため、9月以降の発行は有料化の由。
書庫入庫や個室利用の受付もこれまで一覧表に入・退出を記していたが、各申込書に記入した上で名刺大の札をもらう・・・。
聞けば、プライバシー保護のためだとか。
思えば、「いやぁ、今日も長い間、(書庫に)潜ってられて・・・」とか言われたこともある。逆に退出時刻を書く際に、他人の入退時刻を確認したこともある。最初はちょっと面倒にも思うが、きっとそのうち慣れるだろう。
あと書庫内のコピーも。

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長浜

2010-4-10

好天に誘われ、滋賀・長浜へ。

到着後、同行の家人たちに町並みマップを手渡して、黒壁ガラス館まで誘導し、その後しばし解散。当方は長浜別院「大通寺」へと向う。

本堂もそこそこに新御座・含山軒へ。
各堂舎は複雑に入り組み、立入禁止の箇所もあってなかなか全貌はつかみにくい。障壁画も木村重圭氏の論考(『日本美術工芸』560~562号)や『長浜・大通寺の精華』展でも知られるが、また同様に複雑。

寺伝では狩野山楽・山雪、円山応挙、狩野永岳、岸駒と錚々たるメンバーが筆をとったとされるが、現実は各建物の改築時期と複雑に絡み、そう単純ではない。
横一列に並ぶ障壁画は圧巻で、古様をみせる狩野派の作品も。ただ各モチーフがバラバラで、惜しい。
新御座は岸駒による墨梅図。「天明丙午仲秋」(天明6年・1786)の款記がある。上段には狩野永岳。ただ、天明6年には永岳はまだ生まれていない・・・。
含山軒は狩野山楽・山雪として知られるが、山雪、永納の作品との推測も。蘭亭も応挙と伝えるが、新御座控の間と同様に不詳。絵画史と建築史との一致が測れない謎めいた湖東の障壁画群である。
さて、障壁画を堪能した後、賑やかな一角を離れて旧長浜駅舎や舟板土塀が残る静かな街並みを散策。

そろそろ合流する時間となり、「今、どこ?」と連絡すると、これから「海洋堂」へ向うところという。ご存知の通り、(株)海洋堂はフィギュア・メーカー。ミュージアムも併設。

到着後、娘たちからプレゼント(お土産)あり。ありがたく頂きながらもちょっと困惑。
普段、娘たちの話題に合わせて「ハルヒ」や「聖☆おにいさん」などと喋っているが、決してあなたがたの親爺は「痛い親爺」でもなく、もちろん「エヴァンゲリヲン」フリークでもない。しかしながら包装紙の眼鏡を掛け腕組みをしている男が「碇指令」とわかる自分自身が悲しい・・・。シール付。あいかわらず盛り上がるなか、「第何話の話題?」と突っ込む末娘。知るか!である。

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アルバム

2010-4-11

「アルバム」のうち、 「シルクロードの旅 2」「河北省の旅」を改訂。

まだ取捨選択の余地はあるものの、ようやく出揃った感じ。

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北限の仏像

2010-4-12

現行の「高校日本史」教科書を見ると、我々の世代とは違い、琉球やアイヌ(北海道)の記述が充実していることに気付く。まだ「北海道・沖縄開発庁長官」という国務大臣もいた頃で、自ずと基礎知識も欠乏しがち。

北海道の某氏より、季刊『悠久』119号-特集「北海道の拓殖と社」-(鎌倉・鶴岡八幡宮 発行所:(株おうふう))を恵与。
某氏の論文を興味深く拝読した後、頁をめくると、仄聞していた平取・義経神社の義経像。台座裏の銘記写真はないものの、明治の明細帳に、近藤重蔵の意向を受け「寛政十一年(1799)己未四月 江戸神田住大仏工法橋善啓ヲシテ」作らせた旨がみえることが記されている。これが円空仏を除く近世伝統彫刻の北限だろうか。

北海道で唯一、重要文化財(彫刻)指定の函館・高野寺の大日如来坐像(平安時代)も明治24年に高野山谷上大日堂から移されたもの(奈良国立博物館編 『国宝・重要文化財 仏教美術 (北海道・東北)』 微妙な問題も惹起)。北海道の仏像と聞くと、明治以降の開拓に伴って本土からもたらされたイメージが強いが、ちょっと認識不足。

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手形裏書

2010-4-14

社会に出ると、手形の知識は必須事項。ほいほいと受け取ってしまうと後でエライことになる。

手形は「裏書」によって割引現金化されたり、他人譲渡もできる。裏書が連続しない、あるいサイトの長い手形は要注意。また連帯保証人は親子でも兄弟でもなるな!も世の掟。

早稲田大学には「尊勝寺領近江国香庄文書」(重要文化財)がある。
尊勝寺庄園である近江国香庄(愛荘町香之庄)にかかわる平安時代~南北朝時代の売券、譲状の文書。ここに運慶が“裏書人”として登場。
「藤原氏女」(藤原雅長娘・「冷泉局」)が運慶の娘・如意を養女にし、正治元年(1199)10月晦日、伝領する香庄を如意に譲与。そこで父親の運慶が保証人として「裏書」。文書の繋ぎ目には「割印」も。気持ちはわからないでもない・・・。

ところが、承元3年(1209)8月13日の「藤原氏女(冷泉局)譲状」には次の一文。
如い(如意)にゆつ(譲)るといへども、あいたかへ(相互)のけいさう(契状)をそむ(背)きて らんはう(乱暴)をいたすによりてとりかへ(取返)して せいけん(承元)三年八月十三日に中なこん(納言)のきみ(君)そん上(尊浄)にゆつ(譲)りたてまつ(奉)りをは(了)
如意に契約違反があり、冷泉局は香庄を取り返して、新たに迎えた養子の僧尊浄に改めて譲渡。後段には運慶の子供が「裏書」して、譲状ありとは言わないようにとも釘をさされている。譲状には、荒々しく横3本の無効線。

いつの世も子供の教育は頭が痛いが、この件に関しては運慶のミス。裏書きする際、調子に乗って
但如意 もし人まね(真似)の事なんとあらは、運慶か子共(供)の中ニ御前(冷泉局)の御心ニかな(適)はむもの、此庄(香庄)を可知行也、
と、如意に不始末があれば、運慶の他の子から冷泉局に適う人物に知行させてよろしいとも。厳密には、尊浄は運慶の子供ではないから「藤原氏女」も強引だが、よほど腹に据えかねたのだろう。
手形でのこういう付帯事項を「有害的記載事項」という。
運慶、大いにへこむ・・。

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柳原義達

2010-4-15

三重県立図書館・美術館へ文献収集・資料調査。

余録は、明治28年 玉皐筆「日清戦争出征軍人絵馬」。「玉皐」とは藤島武二の雅号。藤島は当時、第一中学校の図画教師。上京前の作品。

美術館では、「Tsu Family Land 朝田政志写真展」の展示準備中で常設展のみ。まずは柳原義達記念館へ。

今年は柳原義達生誕100年。展示はデッサンと人物・鳥の彫刻作品。
柳原義達(1910~2004)は、それまでロダンやブールデルへの憧憬をもちつつも端正な(平凡な)彫刻を制作していたが、43歳の時(1953年)、「彫刻を基本から勉強し直す」ためにパリに渡る。
帰国後はごつごつとした塊量感のある彫刻へと変化。人物像では特に足の表現が膝下が急に細くなる-栄養不足の大根のように-いっぽうで腰から上はひとつの塊で表わされた充実した作品が続く。いい彫刻だと眺めていると、70年代に入ると再び平凡な作品へと回帰。1960年代の作品が実にうまい。

常設展示室(洋画)でも自画像と人物。村山槐多と岸田劉生の《自画像》が秀逸。常設展示室(日本画)では、曾我蕭白特集。旧永島家襖絵《瀟湘八景図》と《林和靖図》。蕭白の手にかかると林和靖も「ニートの親分」のようにみえる。「蛇足十一世」をなのる世古鶴皐の《倣曾我蕭白山水図屏風》。平日午後なので、どの展示室でも独占状態。最後は横山操《瀟湘八景》。
伝統的な俯瞰構図ではなく、「平遠」+「接近」の瀟湘八景。あいかわらず爆発していますが・・・。

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四条仏所

2010-4-16

昨日、今日と真冬の気候。

京都駅から七条通りに出て、京博方向に歩き、高倉通と交差するところに「七条仏所跡」の看板がある。
なぜここかといえば、同地(七条東洞院東入材木町)には七条道場黄色台山金光寺があり、そこはもと定朝以来の仏師邸宅とされる。毛利久氏は14世紀初めに七条仏師某が寺地を寄進したと推測。

仏師系図(江戸時代)でみると、「先左京」とされた康誉は「四条」に家があり、室町時代「宰相」と呼ばれた康清(東寺大仏師職の支証を“担保”にした仏師)は「定朝以来七条住人也今四条函谷鉾町」に移住したとあり、康正も「今四条烏丸水銀屋町」に住むとする。件の看板にも「21代康正のとき四条烏丸に移転した」とある。
それ以降はすさまじい。康乗は「四条之家」、康祐は「柳馬場二条上ル町」と記すが、『京都御役所向大概覚書』では、大仏師左京が麩屋町四条上ル町、法橋康伝は二条河原町角にそれぞれ住む。
なんとなく近世「四条仏所」であるような気もするが、あまりに複雑・・・。

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観光バスの行かない・・・

2010-4-17

河内長野市・金剛寺へ。
金堂(建築)及び大日如来像、隆三世明王像、不動明王坐像が6月より修復されるため、特別拝観。再開は、7年後という・・・。

まずは楼門へ。持国天像、増長天像は弘安2年(1279)大仏師法橋正快らによって制作。東京国立博物館ではその威容が明らかであったが、楼門に入るとなんだか窮屈。金剛柵の隙間から覗き見る。

金堂では内陣傍まで歩み寄って見学。僧侶の説明は「尊勝曼荼羅」の説明が主で、一般の人にはなんだか 難しそう 有難いお話。こちらは聞くともなしに法話?の輪の端っこ前にて仏像をしげしげと眺める。説明後、「なにかご質問は?」とされて、拝聴していた人から「光背の上にある多宝塔は・・・」と問う人あり。
最近、これに関わる論文を読んだだけにドキリとして、思わず質問の出た方向を見入る。同業者?
どうもそうではなさそう・・・。再び視線は仏像のほうへ。

多宝塔を眺めた後は宝物館に向い、虚空蔵菩薩像や尊勝曼荼羅図(仏画)や小さな五智如来坐像をみて(日月山水図屏風はG・Wに公開、それまでは複製)、帰宅。

観心寺も特別拝観らしく臨時バスも運行。普段は「観光バスの行かない」古刹なのだが。

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元号とひげ

2010-4-18

台座裏には様々な銘記が書かれている。
たぶん誰も見ないと思っているのか、かなり乱筆。崩し字も読めないほどで、落書に近いものまである。一瞥しただけでは、「元禄」(1688~1703)か「文禄」(1593~1596)かはわからない(さすがに「天禄」(970~974)とは思わないが)。1字違いで100年も違う。
仏像だと、作風を見て判断できるのだが、古文書などは、専門外ゆえにすぐさま断定できるはずもない。検地帳など土地関係の文書は「元禄」を強いて「文禄」にするなどの事例もあるらしい。

そうした他意はないけれど、戦前や戦後古い時期の郷土誌などには、寺伝と銘記・金石文がみごとにマッチした記述に出くわす。
「(伽藍は)大坂夏の陣によって荒廃を極め、中興何某はこれを嘆きて」とあって、「什宝の某像は、元和二年の銘ありて・・・」。江戸時代の仏像からすれば初期の作品ながら作風はちょっと新しい。
今、改めて台座裏の写真をみれば、「天和二年(1682)」の墨書銘。

むぅ・・・。
関係者一同、皆「元和」と信じ込んでいるので、「見た目(作風)がなんじゃ!」と反論されること、必至。郷土誌のコピーを前にして在銘の作品を見つくろう。作風変遷から説明するつもりだが、いつかのように「若造(!)に何が分かる!」と猛反撃されたらどうしようか、とつい不安にも。
在銘の仏像写真を集める前に、いっそ髭でも生やそうかとも思ったり。

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建築の“誘惑”

2010-4-18

今日より東京出張。初日は広尾。

小洒落たカフェを横目に東京都立中央図書館へ。
当初は“建築”も兼ねて日比谷図書館と思ったが、昨年春より休館の由。代わりと言ってはヘンだが、都心とは思えぬ有栖川宮記念公園で有栖川宮熾仁親王騎馬像(大熊氏廣作・明治36年)を見る。

都立中央図書館には、重要文化財となっている甲良家(江戸幕府作事方大棟梁)伝来の江戸城造営関係資料や江戸時代、内裏御用を勤めていた木子家伝来建築資料「木子文庫」がある(いずれも特別文庫)。
「ヲイ、また建築?」と思われる向きもあるが、前者には紅葉山霊廟関係資料や江戸城襖絵、後者も東大寺関係図面や御所画工目録もあり、けっして美術史とは無関係ではない。

もちろん東京都の文化財資料も充実。開架式書架の本を“立ち読み”しながら、昔、懇親会で何気なく質問されたことはこういうことだったのかと思いを巡らすことも。

しばらくの間、朝夕渡る聖橋。湯島聖堂やニコライ堂など“誘惑”もたくさん。

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亥鼻城

2010-4-20

千葉へ。
ひと駅ながら千葉を過ぎると、横須賀線や東海道線の旧車両、行き先看板はホーロー製と、どことなくローカル色豊か。

下車駅からは城が見える・・・。
不覚にも千葉城?があったとは知らず、立ち寄ると立派な天守閣。正面には「千葉市立郷土博物館」。岸和田城とさして変らないのかと理解。「企画展 千葉市の戦国時代城館跡」が開催中。千葉市史編さん40周年事業。

千葉市の歴史については皆目無理解だが、《本行寺日泰上人坐像》が展示。千葉は日蓮聖人誕生の地である誕生寺(鴨川市)や本山である中山法華経寺(市川市)を擁しており、いわば日蓮宗王国。近世の造形文化-本尊のバリエーション・配置-は、そのまま各流派の独自性とも繋がるため、はなはだ微妙。

“城”を出ると、同じく退館した男性から「どちらから?」と問われ「大阪・・・」と答えると、プチ解説の始まり・・・。
「『千葉城』は誤りで、正しくは「猪鼻城」という。猪鼻城は鎌倉時代の“城館”で、室町時代には佐倉に移ったという。この天守閣は昭和42年に新しく建てられ、「こんな天守閣はありえへん!」というようなことを(関東弁で)憤慨。「はぁ、そうですか・・・」と相槌。この上層階には以前、プラネタリウムもあったとの由。
確かに、「市史編さん事業」は市(県?)民には浸透していると、違う意味で実感。
話を聞きながら頭の中では、「コノヒトハ ディズニーランドランドニ イッタコトハナイ」とも。エージング、ウェザリングの世界。
その後、ようやく目的地。午後から雨。

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道徳山哲学寺

2010-4-21

再び、都立中央図書館。
好天でシャツの袖口を折って半袖にするほどの陽気。

予定していた目的もひとまず済み、さて・・・。
日頃の不勉強がたたったのか、早や、お疲れモード。夕刻には知人と会う約束も。
ミッドタウンの新国立美術館、サントリー美術館(「和ガラス」展)も近いが、疲労度は倍増するかも。そこで、中野区「哲学堂公園」で思索?に耽ることに・・・。

哲学堂公園は明治37年に井上円了が精神修養の場とした公園。
周辺の店舗は概ね「哲学堂」「哲学堂公園」の名を冠する。不動産屋も然り。
「あの~、このあたりでワンルーム、6万円ぐらいで・・・」と問うと、不動産屋の親父曰く、「この物件をあなたは「物」 (Ding) と捉えるか、「物自体」 (Ding an sich) と捉えるのか、まずは知りたい!」とか「ここは夜になると、自己合理化の表象の中で沈黙を強いられた自己の中の他者が現れ、それと応答することができるんです!」などと言われることは、まずないはず・・・(そんなことは絶対にない)。
哲学堂公園は、見ようによってはある種のパロディ。
正門は「哲理門」と呼び、通用門は「常識門」、古建築が並ぶ広場は、哲学の時間空間を意味する「時空岡」で、下った左右には庭があり、それぞれ「唯心庭」「唯物園」と名付けられる。
左右の岐路は「二元衛(にげんく)」と称され、唯心庭の四阿(あずまや)は「主観亭」、唯物園の四阿は「客観盧」。順路ひとつとっても「丘上の論理域に至らんとするに直覚径(小道)を避けて、この道を選べばよい」とされる「認識路」。「独断峡」では「この断崖(確かに崖面)を行くことが唯心庭に通じる」とあるが、その下には「この崖を登ることではなく、唯心庭に通じるということ」と断り書き。似たような話は大学では日常茶飯事。

あれこれとオーバーヒートした頭を冷却して、知人と合流。一献傾けながらも持参された資料で再びヒートアップ。

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幕臣たちの実像

2010-4-22

朝から雨、昨日と違って真冬並みの気温(8℃)。TVでは「今日はコートが必要です」というが、そんな・・・。

竹橋の国立公文書館。紅葉山文庫史料が引き継がれている。当該史料は既にネットで検索済。
昼前に、北桔門から宮内庁書陵部にて相談事。
午後、再び公文書館。

史料閲覧の合間(息抜き)に1Fに降り「旗本御家人Ⅱ-幕臣たちの実像-」展を見学。
幕臣といえどサラリーマンと同じ境遇で実に面白い。来館者も多く、皆熱心に古文書を見ている。

今の「センター入試」が「学問吟味」。
その問題作成用テキストもあり、「嘉永癸丑」と朱書きがされて既出問題も一目瞭然。そのほか、幕府重職者へ出勤前に日参する「対客登城前」。日に三度も日参する猛者もいたとか。もちろん賄賂も横行し、森山孝盛が「小普請組頭」のポストを得るために「対客登城前」はもとより48両も費やしている。
また武家の結婚事情も。当時の幕臣の結婚事情は再縁(再婚)が多い。男性が要求する「持参金」さえ準備できれば婚姻OK。離縁(離婚)の際には持参金返却なので、男は離婚した後再婚して、再婚先からの持参金を(先妻への)返却金に充てた由。また娘が多いと持参金が準備できず嫁にいけない家もあったとか。荻生徂徠はこうした幕臣の実状を踏まえ大真面目に「縁組ヲ司ル役所」(婚活センター)を設けるべきだと提言。教科書の徂徠像とはまったく違う・・・。
ほかにも死者からの「急養子願」や近藤重蔵、高橋景保、川路聖謨の書物もかなり興味深いもの。

最後に大日本帝国憲法と日本国憲法(共に複製)。「御璽」が違うようにみえるのだが、紙や朱肉(戦後の物資欠乏)の違いによるもの・・・。
同じ建物の上や下で、丸1日。

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見学日

2010-4-23

終日小雨。気温も下がったままで吐く息も白い・・・。

台東区立書道博物館へ。
洋画家、書家である中村不折の旧宅。自ら収集した漢字資料の展示施設(書道博物館)を設立し、現在は本館と新館からなる。
斜め向かいが正岡子規の病室・書斎・句会場である子規庵(ここから「病床六尺」が誕生)、その隣が陸羯南宅であるが、現在は「ステイ 3900円」なる看板が林立する環境の真ん中に立地する。ちょっとビックリ。

洋画家で書家でもある中村不折の生涯も興味深いが、主に中国造形資料(青銅器・石碑・仏像)には瞠目。「書道博物館」なので、解説も独特。開皇8年(588)銘の石造道教尊像には「みどころは筆圧の変化、起筆の打ち込みが強く・・・」といった風。当り前だが仏像はほぼすべて在銘。なかでも阿弥陀如来坐像(唐・景雲2年(711))には驚くこと多し。買地券(墓券)、瓶(へい)など、文字のみならず資料もじっくりと。

寛永寺境内を通って、東京文化財研究所、そして黒田記念館。東文研美術部はもとここにあった。
入って右側の部屋には…とか、赤いクルマは…とか、わずかながらも思い出は尽きない。
東京藝術大学正木記念館。沼田一雅《正木直彦像》を見て、大学美術館「コレクション展」へ。傍の朝倉彫塑館が保存修復工事のため朝倉文夫と芸大コレクションの2本立て。
朝倉文夫《墓守》は秀逸。展示彫刻のなかでも異彩を放っていたのは《可美真手命(うましまでのみこと)像》。芸大コレクションでは名品主義ながら高橋由一《鮭》、横山大観《村童観猿翁》、山本芳翠《猛虎一声》、杉浦非水《孔雀》をじっくり。

夕刻になり東博へ移動。浄瑠璃寺地蔵菩薩像、内山永久寺伝来愛染明王像、焔摩天等が描かれた同厨子薬師寺地蔵菩薩像(善円)を拝見。絵画では服部雪斎筆《花鳥図》に驚く。
退館、常の如し。

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西の仏像・東の仏像

2010-4-24

ホテルを引き払って浦和で資料調査。窓から見えるスカイツリーも当分見納め。大阪ではあまり話題にならないが、こちらに来ると、なるほどと思う。

大阪では、あまり気にならないが、他所で気になることがもうひとつ。それは「平成の市町村合併」。

大阪では堺市+美原町→堺市の1件だけが合併しただけだが、他の都道府県はすさまじい。せいぜい「浦和」や「大宮」ぐらいしか知らないところに、「さいたま市」や「ふじみ野市」が現れ、その上に「市町村合併」による名称変更。菖蒲町や鷲宮町(←検索端末で「鷺宮」と入力するおバカぶり)など旧地名表記にやや戸惑い。

近世の関東地方では、弘法大師像と興教大師像がセット(一具)で安置されるのが一般的。新義真言宗のお寺が多い。このセットも関西では少ないはず。

「仏像」という共通した基盤に立ちながら東西の違いに驚いた1週間。夕刻浦和をたって帰阪。

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京都・春の特別公開

2010-4-25

京都国立博物館友の会より更新のお知らせ。
なかに「京都非公開文化財 特別公開」(~5月9日)のパンフレットが挟み込んであり、会員証提示で100円引きになるという。最近は博物館でJAF割引のあるところも多くなった。

真珠庵・隣華院・智積院・天授庵と等伯作品がずらりと特別公開。妙蓮寺も長谷川宗宅。なるほど提携展示ということかと合点。
いっぽう、狩野派は玉林院、知恩院三門が狩野探幽、聖護院が狩野益信。

長谷川等伯の位置は豊臣秀吉を軸にするとよくわかる。茶道では豊臣秀吉の黄金の茶室と千利休の「侘び茶」が対立し、絵の世界では秀吉が狩野永徳を好み、利休は等伯と親しむ(表千家蔵利休像は等伯筆)。
利休・等伯が大徳寺とすると、秀吉・永徳は祥雲寺(現智積院)となるはずだが、永徳、既に過労死・・・。
狩野永納『本朝画史』には、(利休・等伯が)「心合わせて」狩野派をそしったとも。

今年度の京都国立博物館は上田秋成・袈裟・中国書画・園田湖城(本館の題字を書いた篆刻家)、来春が「法然」と、ちょっと渋め・・・。

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落書

2010-4-27

雨。昼過ぎより風強く、荒天。久々に大学であれこれ。

過日の東博では写真撮影している人がずいぶんいた。もちろん、フラッシュを発光させない、撮影禁止の作品を避けての撮影だが、写真を撮った後、展示ケースから次の展示ケースへと渡る?姿を見ると、本当に作品・資料を見ているのかどうかかなり疑わしい。

普段ここに写真をたくさん載せており矛盾するようだが、調査はもとより展示作品の前ではスケッチが基本。時には落書にもみえ画才のなさにあきれるが、メモスケッチすることで、くまなくよく見ることができ、その特徴も理解できる。
多くの美術館・博物館ではまだまだ撮影厳禁だが、メモスケッチ(落書)ならあまりお咎めはない。
時折、「スケッチ(落書)もダメです」と不可のところもあるが、図録を購入し、文句いうボランティアに鉛筆を借りて、図録に黒々とメモ書き。

見ることが最も大切ながら、見るだけでは記憶に定着しない。

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大学院に関して

2010-4-28

大学HPでようやく公開したので、こちらも解禁。


〔重要〕
2011年度より大学院に「東アジア文化研究科」が設立される予定(現在、文科省設置届出申請中)であり、中谷伸生教授がそちらに移籍されますので、2011年4月以降、大学院「文学研究科」には所属されません。学部(芸術学美術史専修)ではそのまま在籍されますが、大学院出願を予定している学生は大学院「試験要項」の「担当者一覧」を再度ご確認ください。
なお現在(2010年4月)、大学院「文学研究科」に在籍し中谷教授より指導を受けている大学院生は、修了時まで指導教員の変更はありません。


余談
専修で“浮いている”わけでも“嫌われている”わけでもない。むしろ小さな世界での転機への第一歩というべきか。

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御陵前

2010-4-29

今日は「昭和の日」。
昭和時代には「天皇誕生日」、崩御後は「みどりの日」となり、数年前から昭和の日となる。あいかわらず大学。

「その是非はともかくとして関東では『天皇陵』に対するイメージが関西とはちゃうんや、これがまた・・・。」とは、知人の弁。
関西で天皇陵といえば、仁徳陵古墳(大山古墳)みたいな(鍵穴形の)前方後円墳、しかも周濠付きを思い出すやろ。ところがな、こっちでは昭和天皇陵(武蔵野陵)のような土饅頭(上円下方墳)なんやから・・・。
なるほど・・・。「桃山御陵前」「畝傍御陵前」(近鉄)や「御陵前」(阪堺電車)という駅があるだけに、「御陵」が身近な“言葉”として定着しているとも(武蔵野御陵・多摩御陵の最寄駅は「高尾」)。

昭和に入り、各地で「皇陵巡拝会」が組織され(戦前には「関西大学皇陵崇敬会」なるものも存在)、一大ブームとなった。四国八十八ヶ所や西国三十三ヶ所の昭和バージョンともいえる“皇陵巡礼”。宮内庁管理の陵墓は、現在、東京・京都・奈良・大阪を除いても山形県から鹿児島県まで29県にも及ぶ。

そんなことを思いながら論文を読む。

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地方仏

2010-4-30

とある研究者より〈第1回 地方仏フォーラム講演会〉のご案内を頂く。

「中央」と呼ばれる地域から仏像や作り手、イメージが「地方」とされる地域にわたって一滴の雫として落ち、それぞれの風土の中で複雑な波紋となって広がっていく。さらに「中央」からは絶えず雫が落ちて一層複雑に変化していく。

じっくりとその地に腰を据えれば動向も窺えるのだが、通りすがりであるために「中央作」やこれまで見てきた「地方仏」しか思い出せず、つい「古様」(昔の流行≒時代遅れ)という言葉を使いながらも、そのモノサシは正しいのかと、ふと考え込んでしまうことも。彼地では最先端の流行であるかもしれない。

「中央」とされる奈良・京都にあっても吉野や丹波ではもう「地方仏」と呼んでもよいような仏像が、数多く存在する。
地方仏は見るだけだと楽しいが、研究するにはなかなか難しく、意欲的な試みに思える。
地方仏フォーラム(第1回)は6月13日(日)14:00~17:00 東京国立博物館 平成館大講堂にて。先着380名。事前申込制。

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