日々雑記


???

2010-5-1

GW突入。
かなり前ながら、とある彫像について新聞にコメント。
GWでの「一般公開」で見に行かれる予定の一般の人から、「?」というメールが数件到来。こちらも新聞記事に掲載された自分のコメントをみて、既に「?」の有様ながら、分かる人には分かるだろうと放置していたのもまずかった。
  × :「図像が有名だが、像はほとんど知られていない。」
  〇 :「図像が有名だが、像はほとんど知られていない。」
平面と立体との比較なんだけど・・・。記事と組合せるとずいぶんおかしなコメントに思える。スクープが嵩じての単純なタイプミス、たぶん。

明確な事柄が多く、関連資料等をあれこれ調べているものの、皆目見当もつかない有様で、「?」である。神道系によくあるパターンだが。

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塩爺

2010-5-2

実家へ。散歩かたがた商店街へ。

上下に痛々しい焼け損じた部分が続く 『粉河寺縁起絵巻』(国宝)。
絵巻後半。長者の一人娘が長患いをし、童子の祈祷によって快癒したので長者は御礼にありったけの財宝を差し出すも固辞され、娘が差し出す提鞘と紅袴だけを受領。「せめてお住まいだけでも」と娘が問うと、「紀州那賀郡粉河」と言い残して立ち去る童子。
翌春、長者一家は彼地を尋ねて粉をすったような白い川をみつける。たどると山中に庵室発見。
(前半部分で猟師が建てた庵。ここでも仏師として童子登場) 扉を開けると中に千手観音立像。
手には提鞘と紅袴があり、童子は千手観音の化身であったと納得、長者一家は皆出家し、猟師一家は粉河寺の別当に。

この長者、詞書には「河内国さららこおり(讃良郡)」とあるが、『元亨釈書』や『続 群書類従』に載る漢文縁起には「渋川郡馬馳市」「佐太夫」とある。 この「佐太夫」の子孫が「塩爺」こと塩川正十郎氏。

昔からの長者。地元ではよく知られた逸話だが、以前は自宅から最寄駅まで他人の土地を踏まずに行けたとか。
前を通りながら、「うそやあらへん、ホンマのことやがな。ほれ、見てみぃ」と国宝の模写本(明和本)や加持祈祷に使ったという「井戸」見せてくれへんかなぁ・・・と思ったり。

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電気器具

2010-5-5

「部活」「デート」「お買い物」と三々五々出かけて行った子供の日。あらっ?

かなり前から廊下の電球1灯がなくなっている。トイレ、廊下、洗面所と全て同じレフ球(60W)。
きっとどこかが切れたので、使い回しをしていたのだろう。昨夜は洗面所の電球も切れた・・・。
さっそく近くのスーパーで買ってきて取換え。むぅ、長持ちするソフトクリームタイプ?の電球は値段が3倍もするのか・・・。通常のタイプに決定。

次はパソコン。
これも2、3日前からネットに繋がらない。「ようつべ」や「にこ動」が見れないと子供からのクレーム。
知るか!とはいえ、こちらも少し困る。ちょっと非力なルーターなので、これまで時々黙ってしまうことも。再接続を試みるもダメ。むぅ、なんかおかしい。
「トラブルシューティング」や「ヘルプ」を開いても内容を理解できる能力はないし、そもそも理解できるような記述にはなっていない。あれこれ触るも、どうもルーターには問題はなさそう。
今度はモデム→ルーター(無線LAN)の接続を確認するとモデムの電源がオフ。誰や、切ったのは~と叫びつつ電源を入れると、あっさりと回復。

過日、東京から帰ってきた時は、子供部屋の天井吊り下げ蛍光灯(シーリングライト)がコード1本で垂れ下がっていた・・・。端から出ている紐を強く引っ張ったのでフックが外れたらしい。以前はお碗(カバー)がすっぽり落ちてきたことも。

お出かけモードも萎えて、ビール片手に読書。

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禁断の書

2010-5-6

既に夏日。
大学図書館であれこれ調べ物。

ひと休みに書庫内を徘徊。最近は蔵書整理があって実にすっきり。可動書架前に鎮座していた売立目録もすっきりと整頓されている。なぜか960冊もある・・・。

最近でこそ仏像はオークション(入札)にかけられたり、仏像を盗む輩がいるものの(それでも自宅で信仰していたと強弁)、仏教彫刻が茶道主体の「売立目録」には登場するのだろうかとふと疑問に。今では「興福寺千躰仏」などど称されるが、床の間に花入代わりに登場するのは、いつ頃なのかと思う。

最初はそんな気持ちから綺麗な表紙をパラパラとめくっていたが、そのうち眼がテンに。
毛筆やら鉛筆で落札価格が記入されている・・・。
例えば左の大きな「もくろく」。
昭和9年11月に行われた「某(実名)氏先代以来多年蒐集愛蔵せられしものなるを愛国貯金銀行に私財として提供せられ銀行の有に帰したるにつき」(←銀行破たんから私財放出)の売立目録。

佐竹本三十六歌仙「源重之」の頁には「21.900」と鉛筆書き。
周文筆雪峯和尚賛「真山水」には13.910と値がつくものの、周文筆「瀟湘八景」八幅対には3.090。
たぶん、贋作とみたのだろう。

最高値は雪村「風濤図」。モノクロ写真右上にゴミのように見えるのが落札価格。60.000-。

水晶玉やら煙草盆、置物まで〆て180点の出品。その横にも鉛筆で805.000と。おー、こわっ。
右の小さい目録は落札金額と落札者の名も記されており、もっとこわいが、ふむふむと熟読。

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チリモン

2010-5-7

「チリモン」とは、チリメンモンスターのこと。「ちりめんじゃこ」に混じっている小さなエビやサカナなどの「異物」。最近もきしわだ自然資料館で「チリモン」の特別展があった。

さて、旧聞ながら大坂城下町からスペイン船「サン・ディエゴ号」で見つかったのと同じ壺が出土し、現在、大阪歴史博物館で展示中との由。
ミサに使うオリーブ・オイルを入れていたと記事にはあったが、 エステ ホンマかいな。

中世・堺の町からも、変わった大型の青磁大鉢(中国製)が出ている。
植木鉢のように見込み中央に穴が開けられている。釉薬が丁寧に掛けられているので製造時からの仕様。そこに蓮華を模した丸い円盤(「ビスケット」と呼んでいる)をわざわざ上から貼り付けて穴を塞いでいる。見かけは今流行のおしゃれな洗面台に近い。
この「植木鉢」タイプの青磁は、他には鎌倉・衣張山遺跡から1点(大碗)しか出ておらず、製造地である中国でも殆ど例をみない。実は、トルコやイランに同品があり、またエジプト・フスタート遺跡からは大量に出土しており、中近東向け特注品であったことがわかる。それが紛れ込んで日本にやってきた、いわば「焼物のチリモン」である。
平城京から出たイスラム陶器も「チリモン」である。

鎖国後も長崎を通じて、イギリス・スタフォードシャーやオランダ南端のマーストリヒトからのプリントウェア(銅版転写)、「煙草葉文水指」と呼ばれるアルバレロタイプの軟質陶器やドイツ製「髭徳利」などが日本にやってきた。

明日、御用で行く東大(東京大学構内遺跡・加賀藩邸址)からもトルコ・イズニーク窯やヨーロッパのプリントウェアなど沢山の「チリモン」が出ている。
時折、京博や「タバコと塩の博物館」などで紹介されるが、どこかで「All Japan やきもん・チリモン」展をしてくれないだろうか。考古学の人は概して皆大真面目で、「『お日様マーク』(ベトナム陶磁)は『チリモン』とは違いますっ!」って、怒られそうだが・・・。

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東京大学

2010-5-8

美学会東西合同委員会で東京大学へ。

周知のように明治17年(1884)、東大そばの「文京区弥生2丁目」から出土した土器が「弥生土器」で、その特徴を同じくする土器を使っていた主たる時代が「弥生時代」。
もし吹田市山手町3丁目3番35号から出土していたら「山手時代」あるいは強引に「関大時代」となったかもしれない(アホ)。
ところが、その遺跡名が「向ヶ丘貝塚」(「弥生二丁目遺跡」として史跡指定されるが)であり、記念碑的土器が静岡県西部産の壺で、縄文土器と共に出土したことは意外に知られていない。
ひょっとすると「駿河時代」と呼ばれたかもしれない・・・。

そんな場所を通って、東大構内へ。
きっと構内に誘導の貼紙ぐらいはあるだろうと、「法文2号館」だけをメモ。ところが文学部の看板がかかる「法文2号館」へ行っても、「ファサードから入ってください」という粗雑な貼紙のみ。ファサードに行っても何の指示もない。仕方なく巡回の守衛さんに聞くと、「あ、『教員談話室』ですよね、案内します」と。
既に何人も案内したとの由。そりゃそうだ・・・。

「こちらです。」と連れてきていただいた入口の頭上には「文学部長・研究科長室」のプレート。横には、「関係者以外立入禁止」の札も。恐る恐るなかに入ってみると、その奥にようやく「教員談話室」の表札。扉を開けると、委員会は今しがた始まったばかり。
そんな「奥の院 内々陣」で開くなら、開催通知に構内地図の1枚でも添付する必要があると思うのだが。

審議、報告があってうなずくことも多いが、時には唖然とすることも。
「社会に開かれた学会を」というが、配布された資料には「変容する術生成の場」とあり、主催は「術学関連学会連合」。「藝」の1文字へのこだわり -大昔の某授業ではこれで1年費やした-
は理解できるものの、一般の人にとっては校正ミスと思われても仕方ない。
議題はそれほど多くはなかったが、たっぶり4時間半。早く終われば、東博「平成22年新指定国宝・重要文化財」展へと思ったが、既に閉館。
やむなく宿舎へと向かう。

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大人の1日

2010-5-7

増上寺へ。
三門を眺めて右に折れると、東京芝・プリンスホテル。今は駐車場になっているが、ここはもと有章院霊廟。
有章院とは7代将軍徳川家継。霊廟は享保 2(1717)に建てられ、将軍個人の霊廟としては最後のもの。
二天門は戦災を逃れて現存し、二天像も当時のもの。記録では、康伝の制作によるという。柵があってまじかで見ることはできないが、手堅い伝統的な二天像。あれこれ、ためつすがめつ・・・。
その後、来た道を引き返して三門を過ぎしばらく行くと、旧台徳院霊廟惣門(重要文化財)。近年修復を受けて一新。仁王像は、もと埼玉・川ロ市の西福寺(真言宗)仁王門にあったもので、安政2年(1855)の暴風で大破、別保管されていたのを昭和23年に浅草寺に移され、“大人の事情”で、昭和33年頃までに現在位置に移動。
両者の差は「春日型燈籠」と浅間山鬼押出しにある「霊廟燈籠」ほどか。ちなみに浅間山鬼押出しの惣門二天像は宝永6年(1709)常憲院(綱吉)二天門のもので、「法橋香澄」によって作られた由。

東京国立博物館。
入口で「友の会カード」を見せると、期限切れであると指摘され、頂いた案内葉書が大いに役立つ。深謝の至り。さっそく「平成22年新指定国宝・重要文化財」展へ。

未指定から重要文化財となった高知・養花院 菩薩半跏像。蓮肉を含めて?サクラ材の一木檀像。大きく自由に翻る天衣(身体から離れた部分も共木)や柔らかな表情(後補の胡粉下地盛上彩色が悔やまれるが)は、奈良時代彫刻から檀像への過渡期的要素をよく表している。とある地方誌に掲載された小さな写真に文化庁の人が気づいて重文指定に。
藤田美術館地蔵菩薩立像(快慶・行快銘)もようやく重文指定。

作風だけでは平安時代末期にしか見えない金剛證寺地蔵菩薩立像(13世紀)や光明寺金銅如来立像(統一新羅)、建長寺伽藍神像、一蓮寺釈迦三尊・十八羅漢図もじっくり。
変わったところでは、大正15年(1926)の映画フィルム「史跡楠公訣別」(尾上松之助主演)。現存最古のオリジナルネガフィルム。さすがに現物は展示されずにモニター上映。そのほか、八瀬童子関係資料や群馬県行政文書(17858点)。後者には、全国で最初の「廃娼条例」を施行(明治26年)した一件書類も。
考古資料では、平泉・柳之御所遺跡出土品。折敷に書かれた「人々給絹日記」(給与支払一覧?)や「籌木(ちゅうぎ)」。見た目は普通の板切れながら、「籌木」と確定した努力にも頭が下がる・・・。前田青邨筆「洞窟の頼朝」は“大人の事情”により 大倉集古館にて展示中。
知恩院釈迦三尊・十六羅漢像(元和7年/康猶・康如)はさすがにパネル展示。

その後、調べ物で「よこはま資料室」に行き、帰阪。

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補正

2010-5-10

大学。頼んでいた「松井乗運翁行状」(大正7年)が届く。
松井乗運(文化12年・1815~明治20年・1887)は金沢の仏師で、著者は弟子である「彫刻師」の浅野吉次郎(乗吉)。冊子には当時の「添え状」も付属。

高村光雲(1852~1934)より一世代前の仏師ながら、同じく幕末~明治の木彫界に身を置いた仏師の行状伝。著者が乗運の弟子であるだけに割引いて読まなければならないが、当該期の木彫の変化を伝えるものとして面白い。

この期のテキストとしては「光雲翁昔ばなし」(後の『光雲懐古談』)がつとに有名で、既に研究書も出ているが、「東京(江戸)vs京都」という“温度差”もさることながら、「近世→近代:仏師→彫刻家」という流れが、全国一律同時に当てはまるとは到底思えない。
極端だが、《近代彫刻の誕生》として掲げられる作品は「氷山の一角」にすぎず、下に大きな潮流の変化が隠れていると想像するのだが。
「仏教破壊(廃仏毀釈)のあおりを食って仏に関係した職業は何事によらず散々な有様」(『懐古談』)なので、明日から「近代彫刻」とすれば、話は実にラクなのだが、現実はそうではない模様。

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文字サイズ

2010-5-11

いくつかの打合せの後、プリンターインクを買いに大手量販店へ。
平日の雨天にも拘らず、話題のiPadコーナーには人だかり。iPad自体にあまり興味はひかないが、タッチパネルと指を使ったマルチタッチには関心がある。

周囲のいわゆる「高齢者」(親)からパソコンを自由に使ってみたいという声を聞く。
最初は、なんだそんな事、と思っていたが、実際に画面を前にした親を見ていると、これがなかなかたいへん。電気屋で買うものは、全て電源を押せばON/OFFになると、かたく信じている(ともかくOFFになるので)。訪ねた折に様子見に起動させるが、ほぼ毎回「Windowsを再開しています・・・」の画面から立ち上がる・・・。ありゃりゃ。
あと、やはりマウスの操作(ダブルクリックなど)もぎこちない。

最大の問題は意外なところに。
息子が老眼なので、その親も然り。文字サイズを「最大」にしているが「途中から元に戻る・・・」と。
例えば、関大HPをみながら文字サイズを「中」から「最大」に替えると、文字(テキスト)は大きくなる。ところが「最大」のまま「バカ息子」のHPを見ると文字サイズは「中」のままで「元に戻る」らしい。
(うん、逆にそれはよいことかも・・・。) とある系統のWebは、ほとんど文字が“大きく”ならない。
「そんな時は上の〔拡大〕を押して・・・」と言いかけるも、マウス操作も難しく、文字サイズ「最大」でもメニューバー自体が「小」のままなので、これはこれでひと苦労。

「石版」みたいなiPadには興味がなくとも、画面へのタッチパネルとマルチタッチだけで操作できるパソコンはできないものだろうか。初期画面はATMみたいなのでよいから・・・。
先の打合せでも、「レジュメの文字は大きめでお願いします」とも。もちろん。
文字が小さいと、そもそも私が読めない・・・。

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シッポ

2010-5-12

朝、家人より「国宝の仏像が見たい!」と突然の仰せ。場所、尊像名不問との由。
せんとくん・まんとくんでごった返す奈良へ突入するのもいかがなものかと。

それでは、ということで小野・浄土寺へ。
田畑が広がる播磨国大部庄まで来ると、意外な様子。マニアックな小仏像見せて「ハイ、国宝」って言うなよ、という雰囲気ありあり。
午後一番なので鍵を開けてもらって、朱塗りの浄土堂(阿弥陀堂)のなかへ。
蔀戸から光が差し込み、眼が慣れると、大きい!でかい!と感嘆。「この辺りは東大寺の荘園で、鎌倉時代に東大寺を再建する時に重源というお坊さんがここに来て・・・」って、ヒトの話も聞けって。「わぁ、シッポあるわ」って大きい声で言うな。
ひとしきり感動した後ようやく解説再開。「ふぅーん、それでシッポがあるんや」って、雲。阿弥陀さんが乗ってくる雲。あ゛~もう。
説明後、こちらも須弥壇をぐるぐる回りながらあれこれ観察。
公共交通でここまで来るのはちょっとたいへん。同じく阿弥陀三尊像を見ていた初老の男性を電鉄小野駅まで送り(気付いたのは家人)、近郊の産直販売所へ。

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紺丹緑紫

2010-5-13

平安時代以降、彩色の基本色(カラーチャート)である。配色はどことなく最大手コンピューター会社のロゴに似ていなくもない・・・。
「紺丹緑紫」の用語は鎌倉時代の史料『二中歴』に登場するが、配色自体はすでに正倉院宝物にある「造花様」(念紙・転写紙)に登場する。
「造花様」表面には緑・白緑・丹・紫・青を意味する符号が記され、裏面にはベンガラが塗られており、現代風に言えば、彩色指定のチャコ・ペーパー。
実際には、更に段階的グラデーション(暈繝・うんげん)が施されて、よりいっそう華やかで立体感のある装飾となる。“ぼかす”ことに意味を持たせるのは、日本美術の随所でみられ、日本の美意識の一大特徴でもある。「陰翳礼讃」。

ただ奈良時代にはまだ定着しておらず、他の資料では青・赤・緑・橙系の暈繝彩色が主流。
むぅ、ますます某社のロゴと似るが、他人の空似であろう、たぶん。

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合宿

2010-5-15

新2回生合同合宿 in 明日香村。総勢90名ほど。

先遣隊として有志の先生と尼崎市にある米系スーパーに向かい、お菓子と特殊飲料を「卸し買い」。さすがに90名分のお菓子だと、コンビニ1軒にあるお菓子を買い占めるほどの分量。少量でよいものは、隣接する日系大手スーパーにて購入、明日香村へ向かう。

既に教員紹介も始まり、今年は授業を担当していないのでざくっと自己紹介。食事・入浴の後、懇親会。
3月のガイダンス以来、学生の顔を見ていないので、自己紹介する学生の顔を見ながら、おぼろげな記憶をたどる。
圧倒的に女子学生が多く、懇親会場となった大部屋は「女子学生」部屋。1次会終了後場所を移動し、“禁断の冷蔵庫”も開封しつつ3時過ぎまでお付き合い。もう若くはない・・・。

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飛鳥散策

2010-5-16

午後より千里山で教育後援会(PTA)があるため、M先生のみを残し、教員及び直帰する学生はタクシーで“下山”。
恒例のごとく、学生を引率しながら稲渕から石舞台古墳まで散策かたがた徒歩で下山(自由参加)。
今回は60名弱が参加し、長蛇の列。勧請縄、稲淵の棚田で説明しながら列を整える。

好天ながら棚田の様子は例年よりやや遅いように思える。最近は棚田オーナーによって維持されているようで、「大阪」や「なにわ」ナンバーの乗用車から長靴姿の人が降り、棚田に向かっている。

棚田を過ぎやや周囲の光景にも飽きた頃、「イチゴ」のサービス。
石舞台古墳周辺では「世界遺産劇場 飛鳥・石舞台」なるイベントが開催中。今宵のコンサートはゴスペラーズなり。周囲には屋台も並び、石舞台周辺でバス帰宅組と散策組に分かれて解散。散策組学生は3人なり。

その後、岡寺、伝板蓋宮、酒船石を見学。板蓋宮では以前は「大化の改新」と呼ばれた「乙巳の変」(645年)が起こった場所。
そばには「エビノコ大殿」もあるが、3、4つの「宮址」が錯綜重複しており、とりあえずまとめて「伝飛鳥板蓋宮」ということに、などと迷解説。
近所の食堂にて昼食。にゅうめんと柿の葉寿司、わらび餅のセットメニュー。(特段意味はないが・・・)

食していると、道路には韓国民俗音楽の楽団パレード。“味摩之(みまし)”の末裔?
その後、飛鳥寺で飛鳥大仏を見て、千里山まで戻る。
PTAが終わったようで、駅前には見知った先生の姿もちらほら。

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親の心子知らず

2010-5-17~18

GWのとある日。
親父曰く「上高地に行きたい」と。若い時分に行ったが、もう一度行ってみたいという。古稀も既に済み、「じゃぁ、行ってきたら」ともさすがに言えず、親子で乗鞍・上高地へ。授業がない分、各方面からのリクエスト・・・。

こちらも乗鞍高原には「若い時分」に行ったが、上高地は初めて。

今の学生には信じられないかもしれないが、高校生の頃、信州各地に夏場、「学生村」というのがあった。冬のスキー宿が閑散期の夏に始めた企画で、低料金で宿泊し(3食付)涼しい環境のもと勉強に励むというもの。まだ各家庭にそれほど子供部屋とかクーラーが普及しておらず、夏の朝早くから図書館自習室の争奪戦が繰り広げられていた頃である。
受験を控えつつ何とか遊びたいこちらの思惑と、「受験」という大義名分のもと親も即座に反対しづらい条件が重なり“合法的”にひと夏、乗鞍で遊んでいた。翌春はもちろん散々な結果だったが。

「番所大滝」や「一ノ瀬園地」を案内しながら(当時の知識が今、こうして役立っている?・・・)、夕刻にホテル。当時の民宿も健在ながら露天風呂付きのおしゃれなペンションへと変貌。

翌日は朝から快晴。まだ日陰にはわずかだが雪も残る。沢渡(さわんど)に車を置き、タクシーで上高地へ。
残雪が美しい焼岳と大正池を眺め梓川沿いにゆっくりと散策しながら、上高地へ。河童橋から少し奥まったところで休憩。
いたく感動したようでなにより。残雪の穂高岳を眺めては、夫婦であれこれとよもやま話。昼食後も、同じように座り込んで山をみながらあれこれ。
こんなに感動するなら、もう1泊ここで穂高岳を眺めてと思い立って急遽、周囲のホテルにあたってみたものの、既にいずこも満室。残念ながら再びタクシーにて沢渡。
「今回は下見ということで・・・」と言いながら思わぬ好評に驚く。何歳になっても「親の心子知らず 」とちょっと反省も。
10時過ぎ、無事、実家へ送り届ける。

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Google版 遣唐使

2010-5-19

かなりお疲れモードながら、遊んでばかりもいられない。雨天ながら大学。

出張準備などで不可欠なのが交通経路。
YahooとGoogle、ともに備わっているが、後者(Google Map)には手段に「徒歩」という選択肢も。

目的地の欄に地名・駅名を入力すべきところ、あわてて待ち合せの料理店名「北京」と誤入力(相当お疲れ)。
クリック直後に気付いたが、はや検索完了。しっかりとJR天王寺駅から北京市正叉路「北京人民政府」まで。
くそっと思い、悪戯心から「徒歩」にしてみると、約21日10時間。へぇ、算出するんだ・・・。小刻みに、フェリーを使い鹿児島・串木野から下甑島へ。そこから上海まで「ジェットスキー」で行けという。
はぁ?と思いつつ、試しに近鉄新大宮駅(平城京)から西安までだと、同経路で23日間と14時間。

調子に乗って「天王寺駅」から「ボストン美術館」。徒歩で133日 2時間もかかる上、茨城・土浦から今度は「太平洋をカヤックで横断」せよという。
ちなみにJR天王寺駅から「故宮博物院」を徒歩で検索。北京が出てくるのか、台北が出てくるのかを期待したのだが、なぜか「近鉄文化サロン阿倍野」までのルートを示して徒歩4分。

でもきっと、ジェットスキーとかカヤックで大真面目に挑戦する者が現われそう。
こちらも遊んでばかりではイケナイ。大真面目に仕事せねば。

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聖俗の狭間

2010-5-21

松尾剛次『破戒と男色の仏教史』を読む。

叡尊の父親が興福寺僧であったように、中世(官)僧の妻帯はごく普通。「真弟子」(弟子が実子)であることも珍しくはない。そこまで「破戒」しないまでも、「男色」は一般的。
南北朝時代の出雲・鰐淵寺の禁制には、「児童は、すなわち法燈を継ぐ種であって、冷然を慰むる媒(なかだち)である」(まぁ!)とまで。
そうした状況で、振り子が右に振り切れば「親鸞」、左に振り切ると叡尊らの「戒律復興」ということになろうか。

鎌倉時代中期、南都で活躍した仏師に善円がいる。理由は不明だが後に善慶と改名。叡尊発願による西大寺釈迦如来立像は善円の他に増金、観慶などの仏師。名前から見て血縁関係にはない。だとすれば、その子善春は「真弟子」なのだろうか。
造像技術の継承ということでは、親子関係が最も確実だが、「持戒」が前面に出ると、技術の継承(作風を継ぐこと)も途切れがち。下手すれば、円空や木喰のように「一代年寄」になりかねない。

もっとも江戸時代には、持戒どころかほぼ全員が俗世の人。親(仏師)が亡くなり遺産の「大仏師職」を引き継ぐためにお寺へ行ったが、お坊さんから「せめて髪ぐらい剃って来い!」と怒られた仏師もいる( 清水君、君や、君のことや! )。
聖と俗の狭間で揺れ動く仏教美術の周辺。

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処方箋

2010-5-22

過日、明日香で泊った部屋には、松浦莫章《十一面観音像》が掛っていた。見ての通り、室生寺十一面観音像がモチーフである。

大学からは『関西大学所蔵松浦莫章画集』が発行され、図書館利用案内など様々な媒体の表紙を飾っている。大学院棟にも名を冠したホールがあり、学内を歩くだけで多くの作品を目にすることができる。

今年はゼミを持っていないので現状不明ながら、そろそろ、これまで抱いていた研究テーマを修正する時期かとも。オリジナルを見たこともなく写真や雑誌特集だけからの感動ではすぐに色褪せてしまう。
ネットでは殆ど知られていないこともあり、「松浦莫章」は研究テーマ(卒論)に行き詰った際の“妙薬”でもある。

村野藤吾も素材が少なくなり、既に卒論で取上げた学生もいる。作品の良否はともかく、オリジナルが身近にあるというのが強み。
就活で精根尽きはて、「(卒論)もうなんでもいい!」と自暴自棄になる前の処方箋。

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似てへんがな

2010-5-23

朝から、雨、風ともに強し。

子供たちがプリクラ。
なんか見た雰囲気が違うと思えば、目元やほお紅などの加工を施した「デコプリ」だそうで・・・。
本人たちは気に入っているものの、ふむぅ・・・。

本人がいいようにと周りは思うものの、本人にとっては意にそぐわないことも多い。
とうの本人がいなければなおの事。肖像画や肖像彫刻などは、絵師や仏師が一生懸命頑張っても本人が既に居ないので、周りから似てるだの、似ていないだのと修正に次ぐ修正を重ねての作品。
周囲の故人に対する想いや理想像を造形化すべく、製作者は日夜努力の制作。そうした苦悩の末なのか、聖俗問わず、肖像粉本の頭部は修正に次ぐ修正で上から新たに紙を張る羽目に。それで一部の肖像彫刻も容易に頭部が抜ける仕様だったのかもと。
高橋由一《花魁》のモデルが作品を見て、泣き出したのも無理はないか・・・。
そう考えると、「寿像」は比較的楽な制作だったかもしれない。「ワシとそっくりや」のひと言で決定。

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100パーセント

2010-5-24

今春、卒業したゼミ生より「就職した~!」との連絡。ちょっと遅くなったが、これで今年も就職率100%達成。就職率が下がるなか、採用いただいた各企業に深謝。

別に学生と一緒に企業回りしているわけでもなく、不渡り手形同然の「ゼミ推薦書」も発行したことはない。ただただ、挨拶をする、相談をする、お礼をいう、素直に謝る、といった当たり前のことを徹底しているだけである。「つまらないことにもなんとか興味を持って頑張る、楽しいことは一歩引いて、周りを見渡す」などと偉そうに言うものの、こちらが出来ていないこともあるし、時には失敗もする。
学生はそれを見ながら、あ゛ぁ~とか、ふぅーんとか言いながら学ぶ(と思われる)。一応、指導教員と学生という立場なので、そのあたりはある程度の礼儀も必要ながら、いつも和気あいあいと。

毎年、この時期には「新入社員に求められる資質」なるアンケートも発表されるが、旧ゼミ生曰く、「なんか、ハセセンセがいつもいうてることやん」と思い当たることが大半(らしい)。

まれに顔を見ても挨拶もできない教員もいるが、そうした人のもとで学ぶ学生にも「師風」は自ずと“伝染”するのかもしれないと。これからこちらも“襟”を正さないと。
ともかく冬のボーナスまで、まずは頑張れ。

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境界

2010-5-25

早朝から盛岡へ。
新大阪から新幹線を乗り継いでも、飛行機とさほど変わらぬ時間ながらそれにしても遠い・・・。花巻駅には東京駅からの「500」キロポストが立つ。
まだ肌寒さが残り、袖まくりしたシャツを伸ばす有様。

気候も違うが、文化的状況もかなり違うように思える。
青森・岩手・秋田での「陸奥(みちのく)の仏像」といえば、黒岩寺・薬師如来像や成島・毘沙門天像が有名。しかしそれ以後、中尊寺を別にすれば、あまり進展をみるふうではない。
「北東北」三県から古代金銅仏が出ても、鎌倉期の都ぶりの仏像が発見などという話はあまりきいたことがない。
青森では、県下の仏像調査によって総数の99.5%が江戸時代の作品とされている。200躰にひとつしか室町時代以前の作品がないことになる。かたや、平安時代にピークを迎えるとはどういう現象だろうかと。
そう考えると、面白いのは花巻市博物館のジオラマ。
岩手県の北半分は南部、南半分は和賀・稗貫・葛西。
このうち南半分は豊臣秀吉の小田原合戦に参加せず(できず)、天正18年に領地は没収、和賀・稗貫は南部、葛西は秀吉側近の木村吉清へ。ところが、2ヶ月もしないうちに再び旧領地で反乱。
翌月には仙台・伊達が出兵し、翌年にも反乱がおこり、この時は南部が出兵。以後、和賀・稗貫は南部、葛西は伊達が支配することに。

そこで近世の藩境ではこんなものが設置。手前が伊達(仙台藩)の相去(あいさり)、向こうが南部(盛岡藩)の鬼柳。双方に番所があり、藩境の中央部にはなにもない非武装地帯?も。江戸時代の“38度線”。
きっとこの境の手前と向こうでは文化の質も違うと推測。

そんなことを思いながら岩手県立図書館で資料収集。資料は多いものの大半が地方仏や民間仏。
やっぱりと思いつつ、ちょっと多い目のコピーを頼むと、職員氏曰く「(館外)貸出できますが・・・」と。「大阪ですけど、ホンマにいいんですか?」と笑顔で念押し。(返却が・・・と口ごもる職員氏)

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盛岡・土沢

2010-5-26

朝から風雨強く、気温は10度、またもや寒い日。バスには暖房が入る、電車はボタンを押して扉の開閉。

岩手県立博物館へ。成島毘沙門天立像(複製)がお出迎え。
いまや数少なくなった総合系博物館。化石や植物標本、鯨の骨格やイヌワシの剥製、トンボの標本箱に混じっての歴史資料展示。(展示場は別)

天台寺の仏像(複製)もあり、「おさいせんをあげないでください」と注意書き。別資料(仏像)にも同様の注意があり「(おさいせんは)県の雑収入として扱います」とも。

常設展示を見ると改めて違いを感じる。縄文時代から9世紀までの土器が時代順に展示しているが、失礼ながらさほどの変化はない。平安時代でも分厚い器壁の長胴壺があるのは、ドングリが主食だったからか・・・。
岩崎台地遺跡出土の黒曜石 石器(←「7世紀」と書いてあった)や川原石を箱状に積み上げただけの竪穴式石室をもつ群集墳(奈良時代・副葬品は和同開珎)など、見れば見るほど驚き。
江戸時代の仏画にしても「南無阿弥陀仏」も「善導大師像」(共に民画)もすべて「まいりのほとけ」で一括処理。
学生の頃、宮沢賢治や石川啄木に共感できなかったのも無理はないかと、ヘンなところで言い訳。

駅に戻って東北本線、釜石線経由で「土沢」に。
小高い丘の上にある萬鉄五郎記念美術館「初期素描展-初学入門の人達へ-」展へ。
土沢は萬鉄五郎(1885~1927)生誕の地。

-初学の人は先ず(中略)矢張り古くからやっている様に、デッサンをうんとやっておく様に心掛けるのが、一番よいのである-(萬鉄五郎「初学入門の人達に」)

《裸体美人》や《もたれて立つ人》で有名な萬鉄五郎のあまり知られざる一面。どんな抽象作品ですら、基本がしっかりしていないとすぐさま馬脚を現す。

最初は水彩画から。『山水画譜』や小学校の図画教科書などが展示。当時はまだ 「毛筆画“派”」 の全盛期。
1903年に上京し、1906年には渡米するもサンフランシスコ大地震で帰国、翌年に東京美術学校に入学。

面白いのは、デッサン。入学当初は、石膏デッサンや男性ヌードのデッサン。ところが3年生ぐらいになると、(ようやく)島田髷を結った女性ヌードのデッサンが登場。《美校のアトリエ》(素描)には「御厨」(純一)、「三国」(久)、「清原」(重一)など同級生の名が書き込み。

1909年、在学中に浜田よ志(淑子)と結婚。手元にカメラがあったのか、寝そべるよ志夫人や小石川のアトリエ(2階)から前の道を通る女学生を盗撮? 手ぶれやカブリがあってうまく?いかなかったが、それでも《女学生》の素描や水彩画が残る。
その後、卒業制作である《裸体美人》完成までのプロセスを素描で展示。一部には升目や格子の線が引かれ、拡大して本制作に臨んでいたようである。
《裸体美人》が「ぬるい印象派」を旨とする黒田清輝らの教授陣に受け入れられるはずもなく、席次は19人中16番目。確信犯?とみえて、卒業式にも出席せず、教員免許も受取らない有様。当時の校長は正木直彦。
卒業後、糊口をしのぐため、あれこれと行ったが、1914年に画業専念のため郷里の土沢へ。前年には花巻・土沢間に軽便鉄道が開通。
1917年には再び上京し、制作を行うものの、神経衰弱を病み、1919年には療養のため茅ヶ崎へ。
個人的には萬の画業はここまでと思う。1927年5月、結核のため逝去。享年41歳。
素描だけでもその生涯がありありとわかる。

今は「銀河ドリームライン釜石線」と名を変えた元・軽便鉄道に乗って盛岡へ戻る。
むぅ、2時間に1本・・・。

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付録:硬教育

2010-5-26

芸術家は先づ壺の様なものだと思って見るとよい。アカデミックを段々つめ込んで、口までいっぱいになったら、なお山盛りにして棒で押しつける。屹度(きっと)底からはね返して来るだろう。その力を個性といってもよいのだ。はね返さないのは無個性の凡くらだ。軟教育ではだめだ。硬教育がよいのだ。
萬鉄五郎「雑感・壺」『マロニエ』(1925年7月)

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山形

2010-5-27

盛岡をたち、仙台で途中下車して山形へ。

今でこそ山形新幹線は東京始発だが、意外にも、山形は上方との関係が深い。北前船で日本海の酒田、そこから最上川を遡上して天童や山形へモノが運ばれる。米や紅花が上方に送られ、帰りには上方文化が積みこまれる。もちろん近世の仏像も然り。

さすがに大坂仏師の作品はなかったが、京都仏師の作品をいくつか(再)確認でき、今のところ江戸仏師の作品は皆無の状況。
さすがに、当時は蔵王の峰々を越えてくることは難しかったように思える。参勤交代はどうしていたのだろうか・・・。
資料調査が予想以上に早く済んで、後は帰宅のみ。
県立博物館や県下の近代建築も捨てがたいが、もたもたしていると大阪に帰れなくなるので、近くにある旧山形県庁舎(文翔館)と旧山形県会議事堂を見学。

一応の予定が終り、ちょっと早いが、缶ビール片手に高速バスに乗り込む。乗客は数えるほど。
先ほどコピーした資料を確認した後、さぁて、と思ったところ、途中のバス停から大学生(東北芸工大)が大挙して乗車し、一挙に満席状態。隣席にも女子学生が座る。う゛ぅ~、びーるが開けられない・・・。
ようやく日の光も射し込み、仕方なく「ふて寝」。
学生らは仙台の繁華街「広瀬通1番町」で降りたが、皆、定期券を見せての下車。蔵王越えの通学なのか。何事も机上ではわからないことも多いと、すっかり生ぬるくなったビールを新幹線ホームで開ける・・・。

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胸突八丁

2010-5-28

大学で資料整理などしていると、リクルートスーツの学生が来室。
いくつかの最終面接で落ちてしまったと。
話していると、原因も分かっているようで、まぁ、気にすることはない、今は「胸突八丁」と激励。

垣間聞く話では、自己PRで「腹筋が割れます!」と言った女子学生や「アジェンダ」「プロプライエタリ 」などやたら横文字を使う男子学生もいたそうだが、果して企業側にホンマに採用したい学生と写ったかについては、はなはだ疑問のように思える。

私が採用担当者なら、「体力もあり、語学も堪能なようなので、では、イラクに行って、石油ストーブとゴム草履、売りに行って来て下さい。」(実話・商社)と言うだろう。もちろん、これも仕事の一環だが、いまだ夢見る学生にとっては現実の社会もかすみがち。

「数か月前までエントリーシートの段階でかなり低い打率を誇っていたじゃないか。進歩、進歩。内定まであとわずか」とも。
今年もやや遅い目ながらも一歩一歩確実に階段を上がっているようで、まずはひと安心。
横には、ウキウキマークのハートの透かしも付いているじゃないかと。
いや、これは現実の階段のことで・・・。

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移動する仏像

2010-5-29

午後より和歌山県立博物館「移動する仏像」展。その後、同館で彫刻史研究会も開催。

実は大阪で「東南アジア彫刻史研究会」も開催。K先生にも久しくお会いしていない・・・と最後まで逡巡したが、結局「日本」を選択。
会場に入ると、あらっ?こちら(和歌山)にいるの と思う先生も。

仏像は諸般の事情によって移動するが、やみくもに動くのではなく「コミュニティ」(地縁?)に基づくネットワーク(知縁?)によるというのが、展覧会の趣旨とも。

有田川町文化財マップをみると、有田川上流域には旧清水町。「ミゝヲキリ、ハナヲソキ、カミヲキリテ、アマニナシテ、」で有名な「阿弖河荘」がある。「阿弖川荘上村百姓等申状」は建治元年(1275)。地頭湯浅氏の横暴もあり、喜海没後の有田川流域は、ただならぬ雰囲気と想像。湯浅党の構成員であった藤並松石丸による名田寄進状を見ながら、起請文にある「寄進の土地を妨害する者」って誰?などと思う。決まり文句ながら具体的なイメージが想起しそうにも。
懇親会にも出て、天王寺行き最終に乗車。

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〈アジア美術的〉近世

2010-5-31

以前、中国や韓国からの留学生と話をしていて、異口同音に「アジアには“近世”というカテゴリーはありません」と言われて驚いたことがある。事実なら、なかば失業やがなぁ…とも舌打ちも。

美術史を扱っていると、どうも「近世」は日本以外では通用しにくい。歴史学からみればグローバルにちゃんとした「近世」のカテゴリーがあり、ヨーロッパではルネサンスや大航海時代がそれにあたるのだが、世間では「中世の画家 フェルメール」とか「中世・ルネサンス」(実は、この「・」(ナカグロ)が重要)などという。先の中国や韓国にしても歴史学ではあれこれあるものの、「近世美術」はあまり見かけない。彼ら(留学生)がいうところの中世から近代への“一足飛び”。

「何をもって近世とするのか」という大きな問題も抱えるが、決して前近代(Premodern)ではないと思いつつ、ちょっと「生ぬるい」特集記事を読む。

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