日々雑記


現金掛け値なし

2010-6-1

5月も過ぎ、諸々の精算。精算に必要なのが領収書。
JRの「領収書」といえども、レシートタイプや手書きなど色々とあるもの。

電卓叩いて精算していると、あれっ?と思った領収書も。
クレジットカードで切符を購入した際の手書き分。
「但し書き」欄の乗車券・クレジットに印をつけて、ご丁寧に 「上記の金額を領収しました。」 にも二重の抹消線。
いやいや、そこに抹消線引いたら「領収書」としての意味がないんとちゃうか・・・。それとも見事?に銀行口座から引き落とされたら、改めて「正式な領収書」を発行してくれるのだろうか。
ターミナル駅名の発行ながら、実際は地元ローカル駅。「研修中」の新入社員が対応したが、抹消線を引かせたのは彼の背後にいた指導係。新人君は収入印紙をもってオロオロ・・・。

「JRは『現金掛け値なし』」ということなのだろうか?
近所のサラリーマン氏が駅前のディスカウントチケット・ショップに行って、駅では「指定」を取るだけなのも無理はないかと思ったり。

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対価

2010-6-2

このところ、あちこちのビジネス・ホテルを利用。

サラリーマンの頃は、出張先での仕事が終わって同僚や相手方と飲みに行き、ただ寝るだけの施設であった。グダグダに酔っぱらってしまって、午前2時にチェックインしたことも。(さすがに怒られた・・・)

今では真っ当に矯正したが、逆に気になることもある。
パソコンや携帯を持ち込むので、コンセントは多いほうがいいとか、出来れば机の前に鏡はないほうがいいとか(目の前で自分の姿が写るのはどうも・・・)。イスも硬すぎず柔らかすぎず。齢のせいか、出来れば「ユニットバス」よりも「大浴場」があれば、なおのこと よしである。

最後までわからないのは「隣人」。
かつての自らを見るように、夜中の2時頃に大声あげて(酔っているので声もでかい)こちらのほうに近づき、ひと際大きい「おつかれさま!」の声とともにドタンバタンしながら、隣の部屋に入ってくると、今では殺意?すら覚えてしまう。

「『宿代』というのは、その設備や環境に対する対価ではなく、隣人に対する対価なのです」と仰った先生もおられる。至極名言なり。

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市民講座

2010-6-5

午前中、伊丹市中央公民館で講座。

「仏像の美となりたち」が与えられたテーマだが、次週は元市教育長(住職)による「ほとけの心」、その翌週には市内にあるお寺の仏像見学と続く。
貸切バスで遠方の名刹を訪ねるのもいいが、地元にも見るべき文化財があるという再発見の試み。

「初めての仏像入門」ということもあるが、「姿と形」担当としては、せっかくの仏像見学なので、多少の参考にもと欲張ったあまり、ちょっと内容が散漫気味にも。
「(長谷寺式)十一面観音像」や「(胎蔵界)大日如来像」などちょっとイレギュラーな仏像たちの解説を「美となりたち」のなかに組み込むのは難しい。さすがに「三面大黒天像」は説明しなかったが。
しかも宗旨は浄土宗ながら本尊は十一面観音像。終わった後、「昆陽池」見て、ちょっと反省。

大阪湾を跨いで、午後からは泉佐野市佐野公民館にて講座。
関西に住んでいるからといって関西人すべてが京都や奈良の仏像に詳しいわけでもない。通天閣に昇ったことのない私のように。古刹名刹が日帰り圏内にすっぽりと収まるだけに「何時でも行けるわ」とつい後回し・・・。さすがに観光バスでの奈良・京都観光 仏像巡りもちょっと気が重い。
話をしながらこれをきっかけにお寺に足を運んでみて下さいと。もちろん「仏像のみかた」に約束事はないので、ポイントを中心に講筵。

夕刻に京都大学で会議があるものの、さすがに欠席。

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微妙

2010-6-8

奈良・橿原考古学研究所附属博物館「大唐皇帝陵展」へ。
観光バスでの団体や赤い法被を着たボランティアのハイテンション解説を避けつつ展示品をみる。

《十四国蕃君長石像》や《哀冊》《諡冊》など興味深い資料が展示。《俑》を見比べてみると、「新城長公主墓」(663年)、「節愍太子陵」(710年)、「恵陵」(742年)では、顔の肉付けが微妙に異なる。
「節愍太子陵」では頬の上に肉付けがみられ、「恵陵」では下膨れの“ぽっちゃり美人”。《跪拝俑》も下から見上げると、ふっくら顔。
742年には既に東大寺戒壇院四天王像や法華堂日光・月光菩薩像などの日本の仏像とは似ても似つかぬ表現。敢えて関連づけるとすれば唐招提寺木彫群なのかとも・・・。
「御物(副葬品)」は日・唐でシンクロするものの、(彫刻に関しては)初唐はアリだが、盛唐はバツだな・・・と思ったり。
いかん いかん。盛り上がる奈良=(盛)唐ムード、台無しじゃないの。

壁画は模写と剥ぎ取り。
《馬球図》(剥ぎ取り)は、ためらいのない力強い描線で一気呵成に。「皇后の礼」をもって埋葬されたはずの新城長公主の墓も実態はそうではないようなので、外戚なら下絵もなしに・・・と考えたか。
巨大な模写(青龍図・白虎図)は日本での「蜘蛛の巣まで描く」模写とも敦煌画模写とも違う、なんか微妙な塩梅。

文化財保護といえども、現状(現地)保存を旨とする日本と剥ぎ取りと模写による保存を旨とする国では、その意識や理念も違う。文化財保存の国際協力が華々しいが、現場(現地)での苦労も察してあまりあるものと想像。

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デハ二50形

2010-6-9

諸々のことで、島根県立古代出雲歴史博物館へ。

隣の出雲大社本殿は現在、修復中。
俗に「雲太・和二・京三」という。出雲太郎(出雲大社)・大和二郎(東大寺大仏殿)・京都三郎(平安宮大極殿)とした建物ベスト3。往古の高さは16丈(48m)。倒壊しても再建されてその威容を誇り、現在も8丈の高殿。
手前の丸印は3本の巨木を束ね金輪で縛った柱1本。実物(宝治2年・1248)の本殿「宇豆柱」は古代出雲歴史博物館ロビーに展示。
「雲太」と称された平安時代には近くの稲佐の浜に神木漂着。
神の木も仏の木も漂着するのか・・・と思う。神・仏あれこれと御用。

その後、映画「RAILWAYS」でおなじみの「BATADEN~一畑電車百年ものがたり~」展を見学。観覧券も大型の切符パターンで入鋏の由。
鉄道マニア垂涎の資料が数多く展示されるなか(一部は撮影可)、「噴水式ジュース自販機」も展示。なつかしい。
(学生はググってみるべし)
解説によれば、今も、大田市(さんべ食品工業)で現役活躍中とのこと(10円なのか?)。その周辺にも関係者ならニヤリとする個人蔵の資料も。

既にお土産代りに一畑電鉄・出雲大社前駅にて係留中の電車(「デハ二50形」)も撮影したが、入場券も硬券。
電車の前にもその筋らしい人達が何人も。聞くともなしに彼らの会話を聞けば、横に停車している黄色い電車は、もと南海電車であったとのこと。
実は、出雲大社前駅の駅舎も面白いのだが、“その筋の人たち”はほとんどスルー。同じ「撮鉄」でも電車マニアは駅舎マニアにはあらず。そばには「旧大社駅」もあるのだが、こちらはほぼ無人状態。SLもあるのに・・・。

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出雲

2010-6-10

朝から某所で仏像拝見。見ての通り平安時代の作。傍らには同じ時期と思える別作品も。
神仏混淆とは、神様が元気な?時には仏様も元気なのかと思うほど。

出雲大社は、江戸時代に早くも「神仏分離」を行い 三重塔も他所へ譲った ほどだが、過日の和歌山県博「移動する仏像」でもみたように、仏像はそう簡単には破棄されず、(人目に触れず)移動して今日まで残る。
しばらく滞在して調査すれば、仏像展が何度ひらけることかと思いつつ、展覧会予算や防犯事情等を考えると、そうお気楽には考えられないが、おそるべし出雲・・・。

暑いほどの好天ながら海岸線の絶景に驚嘆。磯釣りを楽しむ人もおり、(昨日見せてもらった道案内の地図も「磯釣りガイド」・・・)海岸を見ながらのんびりとしたいところだが、そうにも行かない。

十六島(「うっぷるい」と読む。島根の難読地名)を経て鰐淵寺。
神仏習合のもとで、「国中第一之霊神」である杵築大社(出雲大社)と「国中第一之伽藍」(鰐淵寺)との結びつきは深まり、江戸時代の「神仏分離」までその関係は続く。夕日が美しい「稲佐の浜」も「神迎え」の浜であると共に極楽浄土の入口とも。
天台宗寺院なので常行堂も。昨日の話題もそういうことだったのか・・・と理解。愚鈍なり。
山深く新緑美しい境内を散策した後、遅くなった昼食。初めて?出雲蕎麦を食す。美味なり。

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諸刃の剣

2010-6-11

出先から帰ってくると、写真などの資料整理。
いつも持ち歩くデジカメには、2GB(ギガバイト)のメモリーを入れてあれこれ撮影するが、まだまだ余裕。調査用のデジカメでもほぼ大丈夫。

このHPは現在まで180MB。ところが許可容量は1GB。巨大な写真や動画を入れ続けない限り、定年まで使い果たすことはない。
学生らが使っているiPodは最大160GB。1日に100曲聞いたとしても100年間はもつ容量。パソコンショップでは2TB(2048GB)のHDDが2万円を切るという価格。あらゆるデータが丸ごとひとつに収まってしまう。

ところが、突如“逝ってしまう”こともある。幸いにもこれまで職場では経験していないが、突然無一文になるショックは、殊のほか大きい。USBでも容量がかなり大きいので紛失してしまうと、個人情報が入っていなくともたいへん。
とはいえ、図版入り卒論ひとつを1枚に収めることすら出来ない3.5インチフロッピーデスク(1.44MB)に、もどることは、もうできない。フロッピーデスクも来春には製造中止との由。

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蝸牛(かたつむり)

2010-6-12

九州では入梅。こちらは真夏日。
午後、佐野公民館で講座。今回は「平安時代の仏像」。限られた時間ゆえ、割愛した話題も多い。

平安時代、藤原家は天皇の外戚によって勢力を伸ばす。のちの天皇となるべき孫の顔みたさ・・・もあろうが、「おじいちゃん~!」とJr.からは好々爺の存在になってこそ、藤原家「わが世の春」を謳歌することができる。
母系社会の時代、夫(天皇)にしても、義父からの言葉(進言)を「なに言ってんですか、お義父さん!」とも言いがたい。

「爺」は、世の監督権、人事権を一手に掌握しているので、「爺」に連なる貴族たちからの下心見え見えのプレゼントも数限りない。
たいしたことないのに、1日祈のため100体の大威徳明王像をドン!とプレゼント。やりすぎ・・・。
かくして御所にはプレゼントされた仏像が「群蝸」のごとく並べられる。国が疲弊するとまで評されたので、決して“ちゃちい”モノではなかったはず。用済みの仏像はそのまま「お蔵入り」だったかも。
プレゼントのお陰もあって中級貴族が地方役人に昇進。任官状とともに「お蔵」の仏像も下賜され、貴族は下賜された仏像を携えて地方へ赴任する・・・とは考えすぎか。

いくらなんでも市の施設で「贈賄・収賄」の話はマズイかと・・・

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Pick up

2010-6-13

昨日から上娘ひとりで義弟(東京)宅へ。入念な下調べのもと、原宿や池袋?で楽しんでいるらしい。
ところがである。
母親としては心配に思うらしく、夜半に「お迎えかたがた東京へ・・・」という。はぁ? え゛っ~!
幸いにも「地方仏フォーラム講演会」(於 東博)が開催。

はいはい、行きますとも・・・と、午後には東博講堂。
ご案内頂いた方にまずは御礼。
挨拶、講演と続く。「鳳凰堂阿弥陀如来像も山城地方の地方仏」とされ(挨拶)、思わずヲイヲイ・・・。とうとう仏像も『中心の喪失』(H・ゼードルマイヤー)になったのかとも。
「『鞍馬口から(バスに乗って)丹波・達身寺へ』は、行けません」と、暴走する基調講演に突っ込み入れながらも、すみません、疲れもあるのか後は少しウトウトとなる有様。
何はともあれ、一般の人が阿修羅などの名品に加えて、地域に埋没しがちな仏像に関心を寄せることは大切。彼らを巻き込んでいく(引き込む)キーワードや仕掛け、力技にも脱帽。

夕刻、品川駅で娘をPick up、「ヨッ!」とハイタッチ。「ヨッ!」じゃねーよ、まったく・・・。

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紙一重

2010-6-14

「無尽」というのがある。関西では頼母子(たのもし)講。
学生向けに説明すると、例えば20人集まって講(クラブ・サークル?)を作り、一人千円を毎回持参。集まった金額は2万円。初回はリーダーがゲット。次回も2万円となるが既に当たった者は除外され次回以降はくじ引きか順番で。これを20回繰り返すと、全員が毎回1000円ずつ払って、どの回かで必ず2万円をもらう仕組み。(信頼の上に立っての)金銭融通のための相互扶助。決してねずみ講ではなく、違法でもない。

ところが、一度当選した後は当選権とともに毎回の支払いも除外される(講から抜ける)と、2回目の当選金は19000円、3回目は18000円とドンドン少なくなり、20回目の当選者はそれまでの19回分 19000円を払ったにも関わらず、20回目の持参金1000円しか戻ってこない。トランプの「ババ抜き」に近い状態。これを「取退無尽」(とりのきむじん)といい、完全な賭博(違法)となる。

江戸時代の某寺再建記録を読んでいると、ヤバい橋(「取退無尽」)を渡った僧侶と檀家。もちろん寺院追放、10年間国払いの処罰に。ところが、江戸に出て大成し、赦免されて故郷に凱旋。
肝心の仏像(研究)からはドンドン離れていく・・・。

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末代の恥さらし

2010-6-15

お世話になっている某仏像修理工房へ見学。
通された作業場の一角に、解体された仏像の各部材が広がる。部材の随所に「毛引き」の墨線。墨線の間の長さを測ると、躰奥と膝部材の幅が同寸で、背面材と胸前材とも同じ、中軸線から墨線までの距離の4つ分が膝幅・・・と比例がわかり、近世初頭だと、用いた角材の幅まで理解できる。こうすることで、無駄になる材はあまり生じない・・・。(写真の「毛引き」は別物)

見学後、その他の写真をみながら色々とお話。
最近は、安価ゆえに仏像修理を中国に委託する輩もいるらしい。ブローカーがいるらしく、国内である程度の量が集まるとコンテナ船に積まれて中国へ。中国のお寺にある仏像を見たことのある人は理解できるが、どれも金ピカ、極彩色の像になって帰ってくる。色調も、スカイブルーやショッキングピンクが混じる、見事なまでのチャイニーズ・カラー。
戻ってくると無知な檀家はきれいになったと喜ぶが、どうみても安いプラスチック製にしかみえない。さすがに住職はあまりの変わり様に絶句し、あわてて薄いレースのカーテンを買う始末。戸帳代りに新調した仏像はさっそく薄いベールに包まれる・・・。それほど直視できない悲惨な状況。

せっかく集めた資金をドブに捨てるようなもの。お堂に真新しい寄付の木札がに掛っているが、件の仏像をみれば、馬鹿を末代まで晒すようなものと憤る私。
そうならないためにも、まずは我々に相談してくれればよいものをと。

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出席票マシーン

2010-6-16

本年度最初にして最後の授業(リレー講義)。

普段は出席を取らないが、この講義では出席点も評価するので「教職員証」を持参して下さいとの事前連絡。(教員によっては)トラブルもあり得るので、臨機応変にとも。どうもICチップを使った出席確認である。初体験でワクワク・・・。
もっぱら出席を取るのは授業支援スタッフ(SA・学生)なのだが。

心待ちにしながら授業開始。30分ほどした頃にSA来室。
この時間なら出席/遅刻の区別も大丈夫。まずは私が「読み取りリーダー」にピッ!とタッチ。その後、時限などを入力して、各学生の間をまわって、ピッ!ピッ!と。出席をみていても仕方ないので講義を続行し、気がつくと、既にSAは退出した模様・・・。

いやはや、出席票も変わったものである。以前は色違いの紙片(出席票)をそっと忍ばせて、同色の出席票が回ると友人の分を代筆。教員もそれを阻止しようと、紙片端に赤マジックで印をつけたり、刻んだり・・・。
そのうち壁掛けタイプになって、入退出時刻が記録されるタイムカード方式になるのだろう、きっと。
(写真は高知工科大学のモノ。うちもこれと同タイプ。)

危惧された「出席のみ目当て」の学生もなく、円滑に授業終了。

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雨の日の憂鬱

2010-6-16

朝から雨。

今は逃れているものの、雨の日の通勤はかなり憂鬱。
多くは駅構内でバサバサと傘の滴を振り払う。はなはだしきは地下鉄の入口(関大前駅もそう)で、下に向かってバサバサ。車内に入ると、むゎ~と淀んだ空気が充満。
駆け込み乗車する者は、駅前でバサバサしている余裕などないから、雨水(滴どころではない)が滴り落ちる傘をべったりと人のズボンに密着。
しばらく経つとズボンの異変に気づくも、満員の車内ではどうすることもできない・・・。わずかに足をずらす。下車すると、見事な“世界地図”がズボンに刻印。
どうすんだよ、これから商談だぜ、という声も聞こえそう。

雨の日は道路も混雑。クルマ通勤でという人も多い。駅での傘袋のビニールがエコでないというのはわかる気もするが、その分クルマに転嫁するなら帳尻はいかがなものだろうか。「環境」に気配りするのは結構なことだが、盗撮とか酪酸とかを見聞すると、帳尻合わせがどうも下手なようである。

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連立方程式

2010-6-16

佐野公民館での講座も最終回。3週にわたってお世話頂いたF氏をはじめ職員氏に深謝。

東大寺南大門金剛力士像。
近くで見上げるとさすがに圧倒的な迫力である。阿形像と吽形像の視線が交差するのは、南大門中央の敷居から3歩、歩いた所とされる。視線が交差するよう、吽形像では眉を盛り上げて視線を下げ、臍の位置を下げた修正も行われた。

『東大寺別当次第』によれば、建仁3年(1203)7月24日より造り始められ、10月3日に開眼。
阿形像の金剛杵矧ぎ面墨書にも7月24日に始まるとあり、大仏師運慶とアン阿弥陀仏(快慶)の名も見える。「少仏師」や「番匠」は員数のみ。
吽形像胸部に打ち込まれた『宝篋印陀羅尼経』は、8月8日に惠阿弥陀仏が南大門東脇で書写。
ここには湛慶・定覚の名と「造東大寺大勧進大和尚南無阿弥陀仏」(重源)の名も。
2躰は同時並行して制作されたのだろうが、阿形像がまず出来上がり、吽形像が門に収まった後、修正が加えられたのだろうか・・・。運慶・快慶の金剛杵矧ぎ面墨書銘と湛慶・定覚の『陀羅尼経』奥書。自ずと性格も異なろうが、担当仏師の名前と銘記場所、修正など考えること多すぎ。
映し出したスライドを見ながら、相変わらず、ちっとも解が見えてこない連立方程式を見る思い。昔から数学は苦手だったので・・・。

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五穀納入

2010-6-20

雨の中、岡山県立博物館「〈仏〉胎内の世界-餘慶寺千手観音納入品-」展へ。千手観音立像は本尊なり。

千手観音立像(室町時代)の像内から五穀や護符、銅銭、銀片などの納入品が確認され、そのお披露目展。修理は寛永2年(1625)に行われ、担当したのは「南都ノ流七条末弟清水源兵衛入道名宗立」。 「泉州境」の生まれで、当時は備前国岡山に住んでいたとされる。
「入道」とすることから僧籍にあった者か。残念ながら、他の作例は知らない。大坂(城下町)は寛文あたりまで発展途上であるがゆえ、この時期にはまだ堺に仏師が活躍していたはず・・・。
「南都仏師のうち京都東洞院七条に工房を構えた慶派仏師」門弟とされるが、やや深読みしすぎ。メジャーな「南都仏師」と「七条仏師」を重ねた架空?の肩書である。
納入品はすべて寛永修理時のものとするが、中国・明銭(33枚)などは当初でもよいようにも思う。

その他素盞嗚神社・聖観音立像、安養寺・天部立像など腰高・スリムな岡山の地方仏や三宝院・伝阿弥陀如来立像を久々に見る。

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金陵山古本縁起

2010-6-20

《金陵山古本縁起》(永正4年・1507)。
周防国玖珂郷の藤原皆足姫のもとへひとりの仏師が来訪、一晩泊めて欲しいという。観音信仰に篤い皆足姫は長年の願いである観音像の制作を依頼し、仏師は承諾するも「仏像が出来るまで、部屋を見てはならない」と告げる。
ある日、部屋から話し声がするので、覗き見ると仏師と仏像が問答をしていた。その姿を見られた仏師は立ち去るが、留めようとした皆足姫が「御身はいづこの人か」と問うと、仏師は「我は生所もなく、大和・長谷という所に、仮の住まいがある。」と答えて立ち去る。
皆足姫は、仏師が長谷観音の化身であったことを知り、「彩色荘厳」してもらおうと、千手観音像を舟に載せて一路上方へ。ところが、備前国金岡庄に停泊した際、舟は微動だにせず、やむなく仏像を陸揚げしたところ舟が動いたので、ここが安置すべき場として寺(西大寺)が誕生。

前段の「鶴の恩がえし」風の展開もよいのだが、この仏像は素地像であったということか。もちろん絵では金色像だったが。
室町時代、素地像が流行するが、そうしたことも縁起には影響しているのだろう。

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大橋守行・大原右京

2010-6-23

今日から資料調査等で福島県。

当地での天気予報をみるまでもなく、福島県は「会津」(会津若松)「中通り」(東北本線沿い)「浜通り」(常磐線沿い)に分かれる。
福島市(県庁所在地・中通り)には、県立美術館と県立図書館があるが、県立博物館は会津若松市に所在。県内で人口がもっとも多いのはいわき市(浜通り)。
広域行政もたいへん。
仏像も各エリアごとの展覧会が既に開催済。

福島の近世仏師に、若松城下滝沢村(現:会津若松市一箕町滝沢)に住む「大橋守行」と岩瀬郡畑田村(現:須賀川市畑田)の「大原右京」がいる。今回は彼らの動向調査がメイン。
大橋守行には子息の「大橋知伸」がおり、当地では知伸のほうが有名。郷土雑誌など来館しないと分からない資料も多いが、「守行」の名は襲名されていたことも理解。

「福島弁」エリアからすれば、関西弁(それほどきつくないのだが)の人間であることも丸分かり。
「どっから きあした?」と問われること多し。

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大蔵寺

2010-6-24

朝から県立図書館であれこれ。お昼過ぎにようやく予定終了。
図書館の横には立派な県立美術館もあるが絵本展なのでパス。なにしろ地元作家(物故者)は博物館の管轄で、美術館では専ら現在進行形の作家と泰西名画。
棺の蓋が閉まっていない作家に関心はない・・・。

そこで眼下に阿武隈川と福島市街を眺める大蔵寺へ。
参詣札が多数打ち付けられた観音堂の裏手に土蔵造の多宝塔(奥の院)。新しい塔のようにもみえるが、寛政7年(1795)の建立という。千手観音立像(重要文化財)はもとここに安置。
拝観を乞い収蔵庫へ。

像高398.4cm。一木造、10世紀の大作。正面に坐して徳一法師の開創、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折、云々と住職の解説を拝聴。見上げながら、どこかで見たことがあるとおぼろげに思う。住職の話が美術院の修理に及んだ時、はたと『日本美術工芸』所収の西村公朝氏の記事を思い出す。この像だったのか。

腰高で体幅が広く、裳の合わせ目を正面に見せて折り返すのが、“福島風”。両膝以下は後補だが脚間の渦文は当初。よく「倒壊」しなかったものだと感心。
周囲には一木造の地蔵菩薩像や天部像などが20躰余。なかには神像風のものも。周辺の堂宇が衰微した時に寄せられたものという。いずれもかなりの朽損。1躰無くなっているのは、県立博物館が昨日借りに来たとの由。
見学後、境内各所を案内していただく。

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会津若松

2010-6-25

磐越西線で会津若松。ここまで毎時1本の運行だが、その先(只見線)は6・8・9・13・16・18・20時の各1本となり、仏像見学どころではないのでレンタカー。

まずは恵隆寺。
等身大の観音像が描かれた幔幕の中に入ると、総高8.5m、像高7.4mの千手観音立像。足元から見上げることになり、幔幕が垂れ下がり“引き”もとれないので、観察どころではない。「立木観音」と称されているので足元は根元のままと思ったが、普通に足指が刻まれており、「でかい」≒「立木を刻んだ」ということか。周囲の二十八部衆像をまじかで見る。硬い調子で彫眼。もちろん江戸時代。
その後、 上宇内薬師堂へ。像高183cmの薬師如来坐像。体幅は予想以上に広い(膝前は江戸の後補)。勝常寺薬師如来坐像との比較や浅い衣文などから10世紀とされる。「大きい」というのも、ひとつの美意識であろうと思う。日光・月光菩薩立像や聖観音立像も拝見。こちらは下半身に重心が置かれる。
午後、勝常寺へ向う。
会津は盆地である。周囲には山々が取り囲み、盆地内を守護するように盆地の端、山の麓に寺院が立地するなかで盆地中央に位置する寺院が勝常寺。
まずは収蔵庫へ。日光・月光菩薩像や地蔵菩薩立像、四天王像などを拝見。

日光・月光菩薩像は腰高で、裳の折り返しに合わせ目を見せる“福島風”ながら、都(奈良)ぶりの作風。奈良地方で確認されても違和感はあまりない。法相宗の学僧・徳一に従った「第一世代」の作品である。地蔵菩薩像や四天王像などは次の世代の手によるものかとかも(制作の時期差ではなく、作り手の若さというべきか)。
薬師堂に行き、いよいよ薬師如来坐像を拝見。懐中電灯で照らされて説明を受け。その後こちらも懐中電灯でじっくりと拝見。感嘆しきり。圧倒的な量塊感を徹底して追求する造形が全国各地で同時多発的におこるのはどういうことだろうかとふと考える。
こういう仏像を研究したいと思うのもむべなるかなと素直に思う。小1時間ほど拝見。

次いで法用寺へ。
金剛力士像は現在本堂内に安置され、以前に東北歴史資料館でも展示された。扉の桟から懐中電灯を照らして仁王像を眺める。穏やかな平安時代後期の作品。横には伝得道上人坐像も。

三重塔(安永9年・1780)を見た後、会津盆地を眺める。盆地中央の勝常寺、山麓沿いに広がる寺院の大像。盆地に暮らす人々の信仰は、中央に向って集中した後、今度は周辺部に拡散したように思える。仏像と地域という点では非常に分かりやすいパターンかもしれない。しかも平安時代のことゆえ、なおさら驚く。日本最北端の国宝(彫刻)を取り巻く環境は、殊のほか興味深い。

-付録の付録-
「まあ雪は降るまいと思ったのが誤算であった。すでに六十センチばかりも降り積み、とても止みそうになかった。意を決して会津高田町の教育委員会で長靴を用意していただき、それぞれにスキー帽を買い込んで、たくましいが中年を過ぎた道案内のおじさんを先頭に、雀林という村にある法用寺に向かって歩きだしたのはすでに正午すぎのことだったと思う。…」(「重要文化財雑感」『重要文化財』付録1 毎日新聞社)
金剛力士像の重要文化財指定調査に赴かれた西川新次氏の小文である。

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会津若松・郡山

2010-6-26

福島県立博物館へ。
竪穴式住居の深い床面や三角縁神獣鏡(会津大塚山古墳出土)、勝常寺薬師如来坐像(複製)に驚いたが、もっとも驚いたのは「承安銘三経筒」。

末法元年(永承7年・1052)から120年後の承安元年(1171)に、糸井国数らが奥飯坂(福島市)の天王寺の西山に経筒を埋める。経筒を埋めた場所は下生する慈氏(弥勒菩薩)のみが知られればよいので、人目を避けた場所に埋納される。糸井国数らは天王寺のほかにも須賀川市・米山寺、伊達郡桑折町・平沢寺にも埋納するが、幸か不幸か、後世3つも明らかにされてしまった経筒。バレバレである。

美術のテーマ展では「白虎隊の図像学」。松田緑山(二代目玄々堂)・渡辺文三郎の原画をもとに大坂順慶町の鹿島長壽が模倣品制作。また昭和3年(1928)にムッソリーニが白虎隊の精神に感心して元老院とローマ市民の名で記念碑を寄贈し、その返礼として昭和15年に「白虎隊自刃図」をイタリアへ送ったとか・・・。

会津若松から郡山経由で帰阪。郡山で途中下車して「旧福島県尋常中学校本館」(現 安積歴史博物館)を見学。
この周辺は明治初年まで未開拓の原野。明治11年(1878)から士族援産政策の一環として「安積開拓」が進められる。集まったのは、久留米藩(141戸)・土佐藩(106戸)・鳥取藩(69戸)・松山藩(18戸)・米沢藩(11戸)・岡山藩(4戸)と近在の会津・棚倉・二本松の各藩(100戸)。
一方、明治17年に開校した福島県尋常中学校は、地元の誘致を受けて同22年に現在地に移転。内部は現在「安積開拓」と「安積高校」の歴史を記す展示。講堂は現在も安積高校のクラブなどに使用されている。なぜ洋風建築なのかはよくわからない。新進の意気込みというべきか。

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風紀の乱れ

2010-6-28

朝から気温急上昇、湿度も高め。大学。

書類を事務方へ提出すると、「髭が・・・」と問われる。
授業がなく人前に出ることもほとんどないので、無精そのもの。

春が過ぎ夏空がうかがえる頃、まずは服装がスーツからラフな姿に変化。足元も靴ではなくサンダル。もちろん無精ひげにもなって、髪は伸び放題(これは過日、ばっさり切った)。徐々にではあるが、かなり大学には似つかわしくない格好に。
りっぱな?髭を蓄えて在外研究から帰ってくる先生もおられるが、今ではなんとなくわかるような気がする。

幸い“風紀の乱れ”が“生活の乱れ”に繋がっていないが、いつまでもメールや電話で済む話ばかりではない。人前に出ることもあり得ると考えて“矯正”しようと思うものの、配布された「春学期試験監督担当表」が、しばらくすると夏休みであると、告げているようにも。

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すれ違い

2010-6-30

愛媛県立美術館で学芸員募集。分野は「近・現代日本の洋画」。
公立美術館では「お約束」というか「鉄板」というか・・・の分野。最近では珍しく、応募資格がゆるい目なのできっと多くの受験者が来ることだろう。

もちろん、周囲には「受けてみるか」と勧める学生もいない・・・と思ったが、期待に応えてくれそうな卒業生がひとりいる。人がら、資質、社会常識等全てに◎、作品の取り扱いは不明ながら鍛えればなんとかなるだろう。
問題はゼミ内で真っ先に第一希望の企業から内定もらって、その会社で現在活躍中。
今さら「会社辞めて受験してみない?」と現状より低い年収を提示して“口説く”こともあるまい。
こちらが大学院進学を勧めたい学生ほど、さっさと内定もらって就職してしまう・・・。
世の中、こんなものかと思いつつも、実に惜しいすれ違い。

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